第2話 深く、深く

 不安だ。怖い。死にたくない。


 その一心で、ただ黙々と手を動かし続けた。

 するとだんだん、なぜだか助かるような気がしてくる。

 だって、散々……というほどではないが、ニュースやら安全講習の資料やらで見て来た。それだって長い歴史の中でたった数件の出来ごとだ。歴史に残らないような、小さな事故はきっともっと起きているだろう。しかし歴史に残らないという事は、きっと助かったという事だろう。

 そしてまさか、自分が歴史に残るような事故の当事者になるなんて、そんな訳あるはず無い。だからきっと、最終的には助かるはずだ——。



 しかし、現実は残酷だった。



 トラブル発生から数時間。

 結局、何をしても主電動機が復活することは無かった。

 もちろん通信も復旧せず、艇は一定の速度で沈み続けている。


 潜航開始からの時間で今のだいたいの深さは把握している。

 この艇はあと数時間もしないうちに耐水圧の限界に到するだろう。もし、それまでに何らかの理由で潜航が止まれば、酸素量的に三日は生き延びられるはず。


 しかし、その後もまだ、沈み続けていたとしたら。


 いや、きっと大丈夫。


 だって、そんなはずないから。

 だって、だって……だって…………だって————だって……だって?


 この艇ごと潰れる未来を想像にして、体の深いところから込み上げたものにえずく。

 もう二度と、外の空気が吸えない。もう二度とだれにも会えない。二度と、抱きしめられない。


 逃げたい、帰りたい、仲間達と「危なかったな」なんて言いながら笑い合いたい、家に帰って、彼女の声を、笑顔を、温もりを感じたい。




 ごめんねも、ありがとうも、愛してるも、何も伝えられない。



 これからもずっと、平和な毎日が続くと思っていたのに——なんで!どうして!何がいけない?!なんで俺がこんな目に遭うんだ!俺が何をしたっていうんだ!




「…………だ…………ぃやだ……いやだ——嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ——!」




 非常時にこそ、冷静に——そんな聞き飽きたような訓示。

 しかし、この静か過ぎる最期を前にして、誰が冷静でいられようか。

 どれだけ叫ぼうと、どれだけわめこうと、どれだけいのり願おうと、誰にも届かない。

 助けてくれと吠えても、誰か何とかしてくれとすがっても、他人の無力を呪おうとも、ただだけがそこにある。



 もう、どんなかたちでも良い。頼む。お願いだから、たった一瞬だけでも良いから、もう一度妻に会わせてくれ————



 誰にも届くことないその叫びは、海の底へと落ちて行った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

沈む 森木林 @morikirin

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ