私とポチ太郎

正妻キドリ

私とポチ太郎

 数週間前、飼い犬のポチ太郎が死んだ。


 十六歳だった。


 ポチ太郎はオスのゴールデンレトリバーだった。彼はとても身体が大きかったが、性格は大人しく、むやみやたらと吠えたりすることのない賢い犬だった。


 私の両親と四つ上の姉は彼のことを非常に可愛がっていた。


 だから彼が死んだ時、三人とも涙が枯れちゃうんじゃないかってくらい泣いていた。


 特に、姉は小さい頃からずっと彼と一緒だったので、彼が亡くなってからの数日は真面に話せない程落ち込んでいた。


 普段の姉はとても明るい。でも、その時は今までに見たことがないほど元気がなかった。


 三人とも、ポチ太郎との永遠の別れを泣いて惜しんでいた。


 だが、私は全く泣かなかった。いや、泣けなかった。


 勿論、彼との別れは悲しかった。だけど、物心ついた頃から抱え続けているとある疑問のせいで、私は素直に感情を表に出すことが出来なかったのだ。

 

 その疑問とは、私達人間に飼われているペットは本当に幸せなのか? というものだ。






 ポチ太郎は私が産まれる一年前に我が家にやってきた。クリーム色の綺麗な毛をした犬だった。


 ポチ太郎という名前は三歳の姉がつけたものだ。犬の名前としてはちょっと変で、くどいような印象を受ける名前だが、これは当時の姉が必死に考えてつけたものだ。


 先ほど彼は大人しい性格だと言ったが、昔からそうだったらしい。


 無闇矢鱈と吠えたり、意味もないのに駆け回ったりすることは少なく、家族に甘えてきたりすることもあまりなかった。


 だが、姉や両親が彼を可愛がると、それにはいつも全力で答えてくれていたそうだ。


 撫でられると相手に身を寄せ、顔を近づけるとペロペロと舐めてくれた。


 そんな彼を姉と両親はとても可愛がった。特に幼かった姉は、四六時中彼と一緒にいるくらい愛情を注いでいた。


 私が産まれたのは、ポチ太郎が家に来てから一年後のことであった。


 まだ赤ちゃんだった私を彼は優しく見守ってくれていたらしい。私が生まれてから、彼は私の眠っているベビーベッドの側で眠ることが多くなったそうだ。


 ……まぁ、私はその時のことを全く覚えていないが。


 幼い姉がポチ太郎に愛情を注いだように、彼も私を気にかけてくれていたようだ。


 だが、私とポチ太郎の仲は姉や両親ほど深まることはなかった。


 私は小さい頃から大人しくて引っ込み思案な性格であった。


 それ故、ポチ太郎と積極的にスキンシップを取ろうとはしなかった。


 ポチ太郎も私と同じく大人しい性格なので、お互いに積極的に歩み寄ろうとはしなかった。


 偶に彼が私に身を寄せてくれたり、私が彼を撫でたりすることはあったのだが、ポチ太郎との心の距離が縮まった感じはあまりしなかった。


 時は流れ、私は小学校の高学年となった。


 この歳になると、多くの子は物事の分別がつくようになってくる。


 例にも漏れず、私もその一人だった。


 そんな物事の善し悪しが判別できるような年齢になった私は、とある一つの疑問を抱くようになった。


 その疑問とは「ペットとして人に飼われている動物は本当に幸せなのだろうか? 」というものだ。


 最初にこの疑問を抱いたのは、家族で映画を観に行った時だった。


 飼い主とペットの犬との絆を描いた感動の物語。


 宣伝には『感動』とか『涙』のような単語が多く使われ、レビューを見ても泣けるという感想が大半であった。


 実際、映画が終わった後、多くの人達は泣いていた。

 

 私の両親も、姉も泣いていた。


 だが、私は泣かなかった。


 その理由は色々あった。私の涙腺は他の人よりも緩くないというのも理由の一つだ。


 でも一番の理由は、ペットとして飼われている犬がとても不自由に見えたからだ。


 生まれてすぐに親と引き離され、見知らぬ人達に引き取られ、自分の足で自由に世界を歩き回ることもできず、ややこしいからという理由で子供を作ることを許されず、やがて年老いて、動けなくなって死んでいく。


 人間に飼われている犬の一生を俯瞰で観た時、純粋に私はそう思った。


 そして、私の心の中には人間に飼われているペットは幸せなのか? という疑問が根付いた。


 更に時は流れて、私は中学生となった。


 この頃から部活やら塾やらで忙しい姉に変わって、私がポチ太郎を散歩に連れて行くことが多くなった。


 ポチ太郎は大きな犬なので、小さな女の子が一人で散歩に連れて行くのは少々危険だ。


 若くて元気な大型犬が暴走し出したら少女一人の力では止められない。


 だから、今までは姉や親がポチ太郎を散歩させているのについて行くだけだった。だが、私も中学生になったし、ポチ太郎も年老いてきたので、その心配をしなくてもよくなった。


 散歩のコースはいくつかあった。


 静かな住宅街を行くコース。人で賑わう繁華街を通るコース。家の近くを流れている川に沿って歩くコース。


 だが、どのコースを通っても、私達は必ず家から十分ほど歩いたところにある公園に寄った。


 一通り歩き回った後、その公園に立ち寄ってベンチに腰を下ろして休憩する。


 そして、暫く休憩した後、また散歩に戻る。この行動を毎回と言っていいほど繰り返していた。


 その公園には大きな桜の木があり、その木の前にはベンチがある。私がベンチに腰掛けて休んでいる間、ポチ太郎も私の足下でしゃがみ込んで休んでいた。


 その公園にいる間は、ずっと穏やかな時間が流れていた。


 何をするわけでもなく、公園で遊んでいる子供達や公園の前の通りを歩いていく大人達をぼーっと眺めていた。


 ポチ太郎も私の足下で大人しくしていた。


 私の目に映る人達は、みんな忙しそうに見えた。


 だが、しっかりと目的を持って自分の足で目的地に向かっているようにも見えた。


「……ポチ太郎、お前は私達に飼われてて幸せか? 」


 ふと、ポチ太郎にそんな質問を投げかけた。


 誰にも聞こえないほどの小さな声で。


 勿論、ポチ太郎から返事が返ってくることはなかった。


 彼は相変わらず、ぼーっと景色を眺めていた。


 更に時は流れて、私は中学三年になった。


 この頃には、ポチ太郎も身体が衰えて長い距離を歩けなくなっていたので、散歩に行く頻度がかなり少なくなっていた。


 私も私で高校受験が控えていたので、ポチ太郎の散歩は姉や親が行くことが多くなった。


 この頃の私には明確な夢や目標がなかった。


 だから、志望校は仲の良かった友達二人と同じところを選んだ。


 私は引っ込み思案な性格なので、友達作りに明るくなかった。


 それが友達と同じ高校を目指す大きな理由にもなっていた。


 新しい環境に一人で飛び込むのが凄く恐かったのだ。


 毎日、放課後になると塾に通って、家に帰ってからも机と向かい合う。


 明確な夢や目標がない私にとって受験勉強は死ぬ程辛いものだったが、頑張って日々を乗り越えた。


 しかし、いくら頑張ったとしても報われないこともある。


 私は第一志望に合格することができなかった。


 正直、この高校に入って何がしたかったというわけでもないのだが、不合格と知った時にはとても落ち込んだ。


 更に不幸なことに、私の友達二人は合格していた。


 落ちたのは私だけだった。


 目の前が真っ暗になった。


 友達二人はこれからも同じ学校に通うのに、私だけ別になってしまう。


 私は絶望して、酷く落ち込んだ。


 その友達二人や家族は私のことを慰めてくれた。


 友達二人は今までと変わらず私を遊びに誘った。そして、私に気を遣ってか、高校の話を避けていた。


 両親は高校の合格祝いとして焼肉に連れて行ってくれた。


 姉は「高校でまた新しい友達ができるから大丈夫」と私を慰めた。


 だが、みんなが私に気を遣ってくれるほど、より孤独や絶望を感じるようになった。


 友達が高校の話題を露骨に避けるほど私は嫌な気分になったし、第一志望に落ちたのに祝われるのも腹が立ったし、明るくて友達作りが上手い姉に大丈夫と言われても安心できなかった。


 これから地獄の高校生活が始まるんだと思うと、憂鬱な気分になった。


 やがて、私は部屋に閉じこもることが多くなった。


 学校には無心で通い、家に帰るとすぐに自室に向かう。そして、トイレやお風呂に入る時以外は、ベッドに寝そべってひたすら部屋の天井を眺めていた。


 たまに、涙が溢れそうになった。


 そうなったら、袖で静かに涙を拭った。


 高校になんて行きたくない。心の底からそう思っていた。


 そうやって塞ぎ込んでいたある日。


 目を覚ますと、いつも眺めている天井が目に映った。


 先程まで電気をつけなくても明るかった筈なのに、部屋の中は真っ暗だった。


 ベッドに置いてある置き時計に目をやると、現在の時刻が深夜の二時であることがわかった。


 いつの間にか眠ってしまっていたようだ。


 私は起き上がって、一階のリビングへと向かった。


 リビングにも電気はついておらず、真っ暗だった。


 そこに両親と姉はいなかった。もう眠ってしまったようだ。


 私は廊下からリビングに漏れてくる明かりを頼りに、テレビの電源を入れた。


 別にテレビが観たかったわけではない。だけど静かさが嫌だったからか、なんとなくそうした。


 テレビの前に三角座りをしてぼーっと画面を眺める。


 テレビに映し出されたのは青春もののアニメだった。


 学校の制服を着たキャラクターが三人、楽しそうに会話をしながら街道を歩いているシーンだった。


 絶対にそんなわけはないのだが、私への当てつけのように思えた。


 私が第一志望に受かっていれば、このシーンを観ても苦しくなかっただろう。


 だが、今の私には耐えられないほど辛い映像だ。


 目から涙がこぼれ落ちてきた。


 私は服の裾に顔をうずめて、視界を覆った。


 目の前が真っ暗なまま、しばらくの間泣き続けていた。


「……? 」


 不意に、私の右の腰あたりに何かが寄りかかってきた。


 私は顔を上げて、自らの右隣を静かに見やった。


 そこにはポチ太郎がいた。


 彼は私の身体に身を寄せて、静かに身を屈めていた。


 ポチ太郎の温もりが私の身体に伝わってきた。

 

 彼は私の下で何をするわけでもなく、ただじっとして目の前の虚空を見つめていた。


 私が幼かった頃も、こうやってそばに居てくれたのだろうか?


「……」


 私は拳をぎゅっと握りしめて、涙を堪えた。

 

 




 その数週間後。


 春休みのある日にポチ太郎は死んだ。


 姉と両親は彼の亡骸を優しく撫でながら泣いていた。


 でも、私は泣かなかった。


 私達に飼われている彼が本当に幸せだったのかわからなかったからだ。


 どれだけ相手を思って行動しても、それが相手にとって嬉しいことだとは限らない。


 私が高校受験に失敗した時、周りの気遣いが嫌だったように。


 ペットとなれば尚更だ。


 私達は、彼等が本来得られたかもしれない幸せを奪い、自分達のそばに置いているのだ。


 ポチ太郎がいなくなったのは寂しい。


 でも、私の悲しみはただのエゴで、彼にとっての幸せとは限らない。


 もしかしたら、ポチ太郎はペットという立場から解放された今の方が幸せを感じているかもかもしれない。


 しばらくの間、私は彼の死に対してどう向き合うべきなのかわからないでいた。


 やがて春休みが終わり、新学期を迎えた。


 この頃には、両親も姉も元気になっていた。


 玄関の棚には、ポチ太郎の遺骨が入った小さな箱と、彼と家族四人で撮った写真が今も飾られている。


 私は新しい制服に身を包み、新しい学校へと向かおうとしていた。


 春休み前は高校になんて絶対行きたくないと思っていたのに、今の私の足取りは軽かった。


 玄関でローファーを履き、鞄を肩にかける。


 扉を開いて外に出る前に、棚に飾ってある写真を見やる。


 そこには、いつも通りポチ太郎と私達家族四人が写っていた。


 しばらくその写真を眺めた後、私は玄関の扉を開け放った。


 




 余裕を持って家を出たので、ゆっくりと景色を見ながら歩くことができた。


 いつも外出時に見ている景色だが、今日はちょっと違って見える。


 新しい学校への通学路は、ポチ太郎と散歩をしたコースと被っていた。


 どこもかしこも彼の痕跡で溢れていた。


 彼は私とこの道を歩いている時、どんなことを思っていたのだろうか?


 私は、人間に飼われているペットは本当に幸せなのか? という疑問に未だ答えを出せないでいる。


 もしかしたら、考えるだけ無駄な疑問なのかもしれない。

 

 だって、ペットである動物は感情を言葉にして伝えてはくれないのだから。


「……」


 不意に、淡い桃色をした綺麗な桜が目に映った。


 それは何度も見た桜の木だった。


 いつの間にか、私はポチ太郎とよく来た公園の前にいた。


 私は何かに導かれるように、その桜の木の前に向かった。


 桜の木の前には、座り慣れた木造りのベンチが今も変わらず置いてある。


 少し土で汚れているそのベンチに私は静かに腰掛けた。


 何をするわけでもなく、ただぼーっと景色を眺める。

 

 私の目に映る景色は、彼とよく訪れていた頃とほぼ変わり映えしていない。でも、今の私にはなんだか違う景色のように見えた。


 穏やかな風が吹いて、私の頬を撫でた。


 桜の木がざわめき、花びらが静かに私の足下へと舞い落ちる。


 当然だが、そこにポチ太郎はいなかった。


「……」


 ゆっくりと顔を上げ、目を閉じる。


 ああ……。


 やっと、気づいた。


 私は、この景色を彼に見て欲しかったんだ。


 満開に咲き誇った桜と、その下で佇む新しい制服を着た私。


 変わり映えのしない景色の中で、ひっそりと変わっていく、その姿を。


 彼が幸せだったかなんてわからない。


 でも、私とポチ太郎の関係だからこそ見えてくる景色もあるんだなと気づいた。


 ただの私のエゴかもしれない。


 だけど、それでよかったのかも。


 彼がこの景色を見たら、どんな反応を示すだろうか?


 きっといつも通り、何の反応も示さないだろう。


 私の頬をつたい、制服の襟元を濡らした。


 さよなら、ポチ太郎。


 しばらくの間、私は桜の木の下で佇んでいた。


 彼が私にそうしてくれていたように。

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