わたしのサンセット

前編

 「──いや、うん」

 言葉少なに相槌を繰り返す声に、ベッドの上でタオルケットが静かに寝返りをうつ。揺られるような微睡ごと掬いあげられた意識のまま、向けられた背中に視線が伸びていく。

 東向きのワンルームには白い光が滑り込んでいた。薄いカーテンの向こうから排気ガスの振動が聞こえる。気怠げな午前だ。もう切ると言い放って画面から耳を離した俊輔は、暫し黙ったままそこに佇んでいた。俯いたままベッドを振り返り、それからようやく視線に気がついたのかはっと肩を怯ませる。

 「あ…起きてたんだな」

 「電話、誰」

 「いや……」

 俊輔が口籠る。咄嗟にスマートフォンを後ろ手に隠したのを見たが、それで一体何を隠せるのだろう。悪いことが見つかった子どもと同じその仕草は嫌いではなかった。体温が馴染んだシーツの上で足をもぞつかせる。

 「当てよっか」

 そう言ってふありと欠伸をこぼす。その言葉の意味を理解した俊輔が呆れたように表情を崩す。

 「またそれ。好きだなほんとに」

 「そう。当たったら二度寝」

 「…じゃ外れたら洗濯」

 「昨日の? まあいいやそれで」

 誰かな、なんて口ずさんで考えるふりをしてもよかったが、生憎そうする気力が薄かった。抜けきらない眠気が身体を覆って駄々をこねている。

 俊輔を見る。俊輔はなんて答えられるのかわかっているような顔をしている。唇を薄く舐めた。

 「みゅうちゃん」

 あえて愛称で呼ぶのは、この不器用な男を困らせたいからかもしれない。俊輔は黙ったまま何も言わずに形のよい眉をぎゅっと寄せる。それが答えだ。目を細めて笑う。

 「俺の勝ち」

 ちょいちょい手招くと、俊輔は戸惑いながらベッドの脇まで寄ってくる。小動物のようなその警戒の仕方にますます気分が上向く。すぐ横で垂れていた腕を掴んで引くと、俊輔は怪訝そうに、しかし存外素直にベッドへ腰を下ろした。

 「洗濯、したいんだけど」

 「俺が勝ったから二度寝」

 「それ俺もかよ」

 「そう。早く」

 今度は腹の前辺りにきた腰に片腕を絡めてぐいと引っ張る。俊輔が顔を顰めながら足を持ち上げたので、少し後ろに下がってスペースを空ける。タオルケットの端でこちらに背を向けてぎこちなく横になる、未だに慣れていませんなんて言いたげなその身体に腕を回して目を閉じる。もしかしたら俊輔は、何かされると思っていたのかもしれなかった。

 「アキラ」

 「なに」

 呼ばれたので返事をするが、当の俊輔は何も言わない。足をつついても黙ったままだ。それをいいことに冷えた下肢の間にこちらの片足を引っ掛ける。

 俊輔はもう何も喋らなかった。呼ぶだけ呼んで知らないふりだなんて、えらくひどい男だ。そう考えると愉快だった。この気分のまま夢も見ず眠りにつけたならどんなに素晴らしいだろう。祈るように肩口へ額を擦り寄せた。



─────────



 ここにいるのが場違いなことくらい、俊輔は自分でもよくわかっていた。それでも数少ない友人の猥雑な好奇心に付き合うことにしたのは、軽い気分転換になると思ったからだ。

 「そういや浮島ってカノジョいなかったっけ。こんなとこ来て大丈夫かあ?」

 鳴り響く派手な音楽と周囲の喧騒に負けないくらいの大声で谷口が言う。俊輔も負けじと言い返した。

 「誘っておいてよく言う……ちょっと、色々あってさ」

 「あっケンカか!?」

 「そんなとこ」

 「はは、もっと怒られそうだな! でもまあ気晴らしは大事だし今日は飲め、飲んで忘れろ! 俺はかわいいお姉ちゃんを探す!!」

 「なんでもいいけど、かわいいお姉さんに引っかかるなよ…」

 お持ち帰り決まったら連絡はするから、と言い残して谷口は人混みに紛れていった。谷口とは講義の班活動でたまたま同じ班になってからの付き合いだ。度々班課題の提出期限を忘れる谷口を何度か助けてやったのをありがたがってか、何かと向こうからちょっかいをかけてくるようになったのである。

 交友というものに消極的な俊輔だが、谷口の快活で良くも悪くもあけっぴろげな性格は見ていて気持ちがいい。最近付き合いが悪かったことを詫びたときも、笑い飛ばした後にじゃあ埋め合わせで今日ちょっと付き合ってくれと言ってしまえるような男だ。連れてこられた場所に本当に気を遣われていないことを察して笑ってしまったことは隠しておくことにした。

 相変わらずどくどくと体内に響くような重低音だった。連れてこられたクラブハウスはこの辺りで一番安価で、身分証の提示ができさえすれば会員でなくとも入場が可能な場所だった。つまり谷口と同じことを考えている輩が他にもたくさんいるということだ。それでも一応クラブなので、ハウス内での乱闘や無理に外へ連れ出したりすることは禁じていたし、何かしらを強要するような行為には警備がすっ飛んでくるらしい。ただ自分達で出て行ったのなら、それはクラブハウスの預かり知るところではないのだ。

 壁にもたれてドリンクを飲む。飲んで忘れろといった谷口には悪いが、酒はあまり好かない。内側からとめどなく感情が出ていくような酩酊感が好きになれなくて、それで飲まないから慣れることもない。下戸ではないが強くもない、酒の楽しみをわかる気も別にしなかった。コップの中身は麦茶だ。こんなところでもソフトドリンクを提供してくれていて助かった。

 谷口はすっかりどこに行ったかもわからなくなった。連絡は特にない。ふうと息を吐いた。何かに溺れて身を曝け出すということは苦手だ。酒でも、音楽でも、人でも。

 「お兄さん、一人?」

 俊輔は思わず肩を跳ねさせた。あまりにも騒がしいせいで、人がすぐ横に来ているのに気がついていなかった。いかにも慣れていますといった出立ちの女性は、タイトスカートの裾から丸見えの太ももを組み直した。ブリーチで痛んだ金髪が揺れる。

 「いや、連れが…」

 「女? それともお友達と女漁りに来た?」

 「あの…」

 こういうのは苦手だ。単純に対処の正解がないし、なんて言うのが一番波風を立てないのかがわからない。黙って逃げようと後退ったときには既に素肌が纏わりついていた。女性らしいしなやかな身体が俊輔の腕にくっつく。ぎょっとしてその場で固まると、女性は笑みを深めてますます擦り寄った。

 「ねえ、お兄さんみたいなウブな人、私すきよ。ここはうるさすぎるし、ちょっと出て遊びましょうよ」

 「…すいません、連れと別れてまして。勝手に出ると面倒なんで」

 「ちょっとくらい大丈夫よ。ね?」

 身体が密着する。香水と化粧品と僅かな汗の匂い。豊満な肉の感覚の後で、するっと右手に細い指が擦り寄る。濃い赤で塗られた爪が右手の手のひらにざらつく不織布に引っかかり、女性は俊輔を覗き見た。

 「おっきいバンソーコ。怪我したの?」

 「エミさん」

 不意に二人の耳に飛び込んだのは明瞭な声だった。女性がその呼び声にぴたりと動きを止めた。誘うような笑顔から一変して、女性は不満げな表情で声の方へと振り返る。俊輔も同時にホールを窺う。

 きらりと輝いたネオンライトが視界を眩ませる。俊輔は反射的に眉を寄せて、それからようやくそこに立つ人に焦点を合わせた。

 「ちょっとアキラ、邪魔しないで」

 「ごめんね。でもその人かわいそうで」

 アキラと呼ばれたその男を一目見て、俊輔は直感的に彼が自分とは違う種類の人間だと理解した。すっと伸びた鼻筋と冷たさすら感じさせる切れ長の瞳。その近寄りがたいような印象を、緩やかに上がった薄い唇が中和しているようにも、はたまた助長しているようにも思えた。それが怖いのかどうか、俊輔に判別することは叶わなかった。ただ突然現れた男の目的がわからずに狼狽していた。

 俊輔よりも少し背が高いだろうか、脱色した短髪を仕方なさそうに掻いて、ちらりとずらされた視線が俊輔のそれとかち合う。不思議な色だ。多彩な光に照らされたその薄い色の瞳は俊輔が目を逸らすより先にエミの方へ向いた。

 「かわいそうって何よ」

 「エミさんみたいな美人に寄られたら、誰だって緊張しちゃうでしょ?」

 「ふん、上手ね。でも思ってもないこと言わないで」

 「こわいこわい」

 あまりそう思ってはいなさそうな声色でアキラが言う。エミがその肩を手ではたいて、きゃらきゃら笑い声をあげた。その様子は先程までの色香を放つ女性から随分印象が変わって見えた。誘ったり怒ったり笑ったり、感情がくるくると回る様子は可愛らしいといって差し支えがないのだと思う。ただ、今の俊輔にはそう思うことができなかった。

 「邪魔されちゃったからもう行くわ。またねお兄さん、機会があったら遊びましょ」

 「あ…はい」

 一頻り話し終えて満足したのか、エミはひらりと手を振って去っていった。綺麗な背中を呆然と見送った俊輔はほっと安堵の溜息をついたが、何故かアキラは俊輔と並んで壁に背をもたれた。五部袖のTシャツのゆるい袖口が肌に触れて、俊輔は反射的に腕を引っ込める。アキラはエミと一緒には行かないらしい。

 「ごめんね。彼女、最近フラれたばっかりで寂しいんだ」

 にっこり笑いかけられてもどうしたらいいかわからない。口をついて出たのは薄っぺらい謝罪だった。

 「いや、こちらこそ……なんかすいません」

 「また絡まれてもなんだし帰っちゃえば? 楽しくないんでしょ」

 きっぱりとした言いように俊輔は眉を顰めた。そんなに不慣れがわかりやすかっただろうか。エミが言った『初心』という言葉が俊輔の脳内をリフレインする。帰れるものなら帰りたいが、あいにく今日は付き添いだ。谷口を置いて勝手に帰るわけにも行かない。少し迷った末に俊輔はポケットに手を突っ込んだ。

 「…連れに確認します」

 「律儀だなあ」

 揶揄われたような気がしたが特にそういうつもりはないらしく、アキラは呑気にドリンクへと口をつけている。なんだかよくわからない男だ。助けてくれたのはありがたいが、何故放っておいてくれないのだろう。

 スマートフォンを取り出す。今すぐに帰れなくとも谷口と一度合流したかった。しかしタイミングよく届いた通知に俊輔の顔が僅かに引きつった。

 それはトークアプリの通知だった。画面に見知った名前とメッセージが表示されている。

 心優。

 「しゅんくんって言うんだ」

 反射的に画面をオフにする。写り込んだメッセージが見えたらしい。あまりにも悪気なく呼ばれた愛称に俊輔はアキラを睨みつける。

 「…勝手に」

 「見えちゃった、ごめんね。その人カノジョ?」

 「関係ない」

 「今どこって聞かれてたけど、なんて答えるの」

 思わず押し黙る。俊輔は相手が──心優がどうしてそう聞いてきたのかを知っている。だから余計にメッセージを見なかったことにしたいというのに、アキラの端的な言葉は事実をただの事実として突きつけてくる。

 ただ俊輔はこういうときに律儀に返事をする必要がないことを知っていた。返信が遅れることは日常生活においてもよくあるし、そうおかしなことでもない。だから俊輔は『メッセージに気がつかなかった』。その嘘は相手に伝わるはずもない。

 ただの先延ばしで逃避だとわかっていても、そうせざるを得ないときもある。送られてきたメッセージもアキラからの問いも無視して、俊輔は谷口とのトーク欄を開く。

 しかしキーボードを打つ画面が不意に暗くなった。すっと胸が冷えると同時に、アプリから強制的に着信画面へと切り替わる。アキラが画面に目を落として、それから俊輔を見た。逡巡のうちにも着信は止まない。気がつかなかったことにすればいい。今しようとしたことと、同じことをすればいい。そうすればいいのに、無音の振動が俊輔を追い詰める。何を言うかも決まらないまま俊輔の指は応答をタップする。ゆっくりとスマートフォンを耳元に近づけた。

 「…もしもし」

 『しゅんくん?』

 「心優──ッおい!?」

 ぐいっと腕を引っ張られる。驚いて力を入れた手のひらが刺すように痛んで、その隙にスマートフォンを奪われてしまう。俊輔が怒鳴るより先にアキラは電話口に話しかけていた。

 「あ、もしもし? 突然すいません」

 何をしているんだこいつは!?

 奪い返そうと掴み掛かるのをプラスチックのグラスを持ちながら器用に制して、アキラは俊輔に向かって軽く眉を上げてみせる。

 「今外に出てるんです。俺が呼んじゃって、うん…はい、そうです」

 流れるように嘘をつくその口ぶりにぎょっとする。何がそうですなのかさっぱりわからない。助け舟のつもりならとんだ泥舟だ。

 「はい…すいませんほんと、心配かけちゃって。はい、はーい。じゃあ切りますね」

そのままぷっつり電話を切って、アキラはスマートフォンを何食わぬ顔で俊輔に手渡した。

 「はい」

 「何がはいだ! 勝手に奪いやがって!」

 「困ってたでしょ」

 「そういうことじゃ…!」

 「大きな声出したら他の人びっくりするよ」

 ほら、と示されてようやく周囲の視線に気がついた。その大半が好奇のそれだと察した途端、一気に顔が熱くなる。俊輔は唇を噛み締めた。アキラが周囲に向かって軽く笑いかけ、なんでもないように小さく手を振った。騒ぎ立てて煽るような喧嘩に発展しないことを知った視線は次第に散り、そのうち誰も二人を気に留めなくなった。

 アキラが再び横に並ぶ。俊輔は恥ずかしいやら悔しいやらで、耐えられずに俯いた。こんなところで一体何をやっているんだろう。谷口についてきただけなのに、知らない女性に話しかけられて、心優から電話がかかってきて、今は初対面の男に窘められている。何をやっているんだ、本当に。

 「ちょっとゲームしよう」

 「は?」

 唐突な提案に、俊輔は顔を上げざるを得なかった。アキラはグラスを揺らしながら話し続ける。

 「簡単な当てっこゲームだよ。お連れさんどうせ女の子目当てでしょ、だから『無事女の子を捕まえられた』が俺の答え。当たってたらこのあとしゅんくんの時間ちょうだい」

 気を紛らわそうとでも思ったのかもしれないが、そんなくだらない遊びに付き合えるような気分ではなかった。まるでもうやることが決定しているようなアキラに、俊輔は乱暴に口を開いた。

 「やらない。それにお前さっき帰れって言ってただろ。このあとって、てかなんで当たったらお前の言うこと聞かなきゃならねえんだよ」

 「その代わり俺が外したらしゅんくんの言うこといっこ聞くね。何にする?」

 やらないと言っているのに全く話を聞かないアキラに苛立ちが募るが、ここで腹を立てても意味がなかった。この男は誰にでもこういうゲームを持ちかけているのだろうか。あまりにも面倒ではないか。変な奴だ、気がしれない。

 俊輔は辟易として、今度こそここから離れてしまおうかと思った。この薄暗い喧騒に紛れてしまえば簡単に撒いてしまえるのではないか、と。だが実際俊輔はそうしなかった。逃げるのにしくじったら、恐らくもっと面倒な結果が待っている──それが目に見えていたからだ。そうなるくらいなら持ちかけられたゲームで合法的にこの場を去るほうが、幾分かましな気さえした。何より、このゲームは最初から当たりの確率が半分ではないのだ。

 「言うことって、なんでもいいのか」

 「俺ができることだったらいいよ」

 「…外れてたら、さっさとどっか行け。俺も帰る」

 俊輔はアキラが持ちかけたゲームに勝算があった。アキラは谷口の見た目も、その人となりも知らない。そして谷口には悪いが、あのやけに目をぎらぎらさせたお調子者に口説かれる誰かが乗り気になるとも思えない。答えは決まっていたようなものだった。

 「うん、決まり」

 拍子抜けするほどあっさりとアキラは頷いた。俊輔は密かに胸を撫で下ろした。これで帰れる。あとは谷口にメッセージを送るなり電話をかけるなりしてもうわかりきった結末を聞くだけだ。

 ぱっと画面をつけると、電話の前に開いていた谷口とのトーク画面がそのまま残っている。

 今どこにいる?

 そう打ちかけたままで終わっていた入力欄のすぐ上に、いつの間にか新しいメッセージが追加されていた。

 『わり!外にいる!』

 『忘れてた!』

 簡潔なメッセージ。よくわからないキャラクターのスタンプ。そのすぐ下に続く写真には、ベロベロに酔っている友人と一緒に見覚えのある金髪の女性が写り込んでいた。

 「…………」

 「あれ、エミさんだ」

 横からひょいと覗き見たアキラが声を上げる。偶然だね、なんて素知らぬ顔で言ってドリンクを飲み干すアキラに、俊輔は己の判断の全てを呪った。

 「……くそ」

 「俺の勝ち」

 そう言って、初対面のその男は目を細めて笑った。そういう、所詮ふざけた出会いだった。



◇◆◇



 半袖の裾をぬるい風がなめる。ネオンと夜の匂いに塗れた歓楽街でさえ一本脇に入れば様相は変わるものだ。道端で座り込み煙草をもて遊ぶ男達を横目に、アキラは迷うことなく進んでいく。

 「…おい」

 「あんまり離れないで。しゅんくんすぐ絡まれそう」

 「せめてどこに行くのかくらい…」

 見事に目論見が外れてぶすくれていた俊輔だったが、ここまで知らない道に連れてこられると流石に不安が勝る。加えて俊輔はアキラのことを何も知らないのだ。何かまずい事態に巻きこまれたらと考えるだけで歩みが重くなる。

 アキラがちらりと振り返った。

 「そんな心配しなくてもいいのに」

 「そういうんじゃなくて、終電とか、その……色々あるだろ」

 「もう着くよ、こっち」

 ぱっと左手を取られる。それに驚いて文句を口走る間もなく手を引かれては、俊輔にはもつれかけた足をなんとか立て直すことくらいしかできなかった。

 どうして俺に構うんだろう、どうして俺みたいな面白みのないやつの手を引くんだろう。こういう状況で握られた手を握り返すなんて少女漫画チックな思考にはなれるはずもなかった。当てたほうが言うことを聞く、なんていう子どものお遊びみたいなゲームの勝敗に律儀に従ってしまった自分が恨めしい。逃げたら面倒なことになどとうだうだ考える前に逃げ出してしまえばよかったのだ。しかし今更何を後悔したところで後の祭りだった。

 立ち並ぶ雑居ビルのひとつにアキラは真っ直ぐ向かっていく。一階を吹き抜けるロビーからすぐ地下へと降る階段の先が、どうやら目的地のようだ。木製のドアのすぐ横には小洒落た筆記体が書かれた看板が立っている。


 『BAR Berlin』


 Berlin……ベルリン?

 アキラがドアを引いた。ドアベルの軽やかな音が薄暗い廊下に響く。

 ドリンク棚に整然と並べられたボトルがちらちらと光を反射している。オレンジ色のその柔らかな光は木を基調とした内装を穏やかに照らしていて、静かに流れるBGMのピアノと共に空間を満たしていた。カウンター内に男性店員が一人。カウンター席の奥に一人。その向かいには四つほどテーブル席が並び、そのうちの一つに一組の男女が着いていた。

 騒がしくはないが、寂れてもいない。しめやかなネオンの下に隠れたこの店はどうやら個人経営のバーらしい。居酒屋ならまだしも、こういうような場所に来たことがない俊輔は自分が酷く緊張しているのを感じていた。アキラが店内に声をかける。

 「スズさん」

 振り返ったのは客ではなかった。ひらひら手を振ったアキラにカウンターの中から男性が軽く手を挙げ返すと、緩いウェーブを描くアッシュグレーの髪が僅かに揺れた。

 「アキラか、後ろはお連れさん?」

 「うん。いい?」

 「はい、いらっしゃい。お連れさんも……アキラ、お前いつのまにそんな素敵な友達ができたんだ?」

 男性がちらと視線を下方に向ける。その目が自分ではなく繋がれたままの手に向いていることに気がついて、俊輔は慌てて首を振った。顔が熱くなる、仲がいいなどと勘違いされてはたまらない。

 「ッあの、ちがくて…おいもう離せ!」

 「ん? うん」

 強引に振り解くより前にさらりと手が離れていく。望むべき結果のはずだったが、俊輔は思わず拍子抜けしてしまった。アキラを見て、それから離された自らの手を見つめる。呆気なく離された手は存外暖かかったのだろう、他人の僅かな体温の感触が俊輔の手のひらにまだ残っていた。

 「またいつものか?」

 「そうかも」

 「程々にな」

 スズさんと呼ばれた男性はそう言ってグラスを取り出し水を注いだ。アキラとはどうやら顔見知りらしいが、親しげに話す内容はあまり頭に入ってこない。映画かドラマで観るような光景だと思った。自分とは関係のない、頼まれたって首を突っ込もうとは思えない世界だ。そこに何故か自分がいる。

 アキラが迷わずカウンター席に腰掛けて、所在なさげな俊輔をちょいちょいと手招いた。そのままの手でスツールの座面を軽くはたいて、ちょっと首を傾げる仕草がいやに自然だった。

 「……」

 「ん?」

 不思議そうな顔をしないでほしい。どうしてつい先程偶発的に顔を合わせただけの人間が真隣の席に着くと疑わずにいられるのか、俊輔にとってはそれが不思議でならないというのに。しかし再び手を引かれては敵わなかった。

 俊輔が渋々足の高いスツールに腰を下ろすと目の前にグラスが置かれる。カウンターの内側からにこりと笑いかけられて、俊輔はなぜだか申し訳ない気分になる。

 「レモンのフレーバーなんだけど、大丈夫かな」

 「あ、大丈夫です。ありがとうございます」

 「この人鈴原さん。ここのオーナーで、俺の叔父」

 アキラが勝手にそう説明するので俊輔はなんとなく二人を見比べてしまう。あまり似ているとは思わなかったが、叔父と甥なら特段不思議な話でもない。へえ、と曖昧な相槌を打った俊輔に、アキラは笑い混じりの声をあげた。

 「だからベルリンなんだよ」

 突拍子もない発言に俊輔の思考が止まる。何が『だから』なのだろう。アキラの言いたいことが俊輔にはよくわからなかった。アキラは機嫌が良さそうに笑うだけで、それ以上何か言い加えるつもりはないらしい。

 「え、と…」

 「その店名ね、こいつが考えたんだ」

 困り果てた俊輔を見てか、鈴原が口を挟んだ。俊輔としてはありがたい限りだったが、どうやら俊輔に何かしらの回答を求めていたらしいアキラはほんの少しだけ残念そうな顔をする。しかし何故か気が進まなそうな鈴原の様子に、すぐ調子を取り戻したようだ。軽く顎を摩りながら、鈴原は溜息混じりに呟いた。

 「鈴は英語でベルだろ、それで鈴っていう漢字は音読みでリンだから、二つ合わせてベルリン。今となれば馴染んだけどね、最初はもう小っ恥ずかしくって大変だったよ」

 「ああ、そういう……」

 「でも結局他にいい案出なかったからそれになったんでしょ」

 とどのつまりちょっとした洒落ということらしかった。揶揄うような指摘に鈴原が鹿爪らしい顔をして口を開くが、先にテーブル席から声がかかった。鈴原は残念そうにひょいと肩をすくめ、向こうに返事をしてカウンターから出ていった。アキラがくすくす笑いながら俊輔を流し見る。

 「店名で何か言われたら俺のせいってことにされるんだ。でも俺悪くないよねえ」

 「…いや、半分お前の責任だろ」

 「てことはもう半分はスズさんでしょ。しゅんくん何か飲む?」

 「俺は別に」

 「クラブでも飲んでなかった。酒嫌い?」

 「そこまで好きじゃない」

 「なんで?」

 「別にどうでもいいだろ。好きじゃないもんは好きじゃないんだよ」

 「ふうん」

 聞いてきたわりには適当な返事だった。アキラは頬杖をついて目の前のグラスを手に取った。視線をドリンク棚のボトルに滑らせたままフレーバーウォーターが薄い唇を濡らしていく。形のいい喉仏が嚥下に合わせて動くのを、俊輔は意味もなく眺めていた。

 改めてこういう場所にいて違和感がない男だと思った。俊輔が生きている範囲ではまず関わることのない人間。唇の縁に薄く残った水滴を小さく舐める仕草に、これが酒なら大層絵になるのだろうとぼんやり考える。ぽつりと呟いたのはそういう理由だった。

 「お前は好きそうだな」

 「うん?」

 「酒好きそう」

 間接照明のせいだろうか、アキラの薄い瞳が一瞬ほの碧く光る。思わず動きを止めてしまった俊輔を、その瞳がじっと見つめる。光が消えない。

 「そう見える?」

 俊輔は咄嗟に自分が言い方を間違えたと思った。俊輔が言った『酒が好きそう』を、アキラがあまり良くない印象で捉えたのではないかと思ったからだ。そうだとしたら全くの誤解だが、なぜそう感じたのかを素直に曝け出せるほど俊輔がアキラと親しいわけもなかった。余計なことなど言わなければよかった。後悔したところで口に出した言葉は消えない。

 「いや…クラブとかバーとか、慣れてるなって。だから酒も好きそうって適当に思っただけ。そんな深い意味ねえよ」

 考えが纏まらないままに口を動かしたせいで、ほとんど言い訳のようになった気がした。僅かな早口がそれに拍車をかけて、俊輔の居心地を益々悪くした。だがこれ以上何か言えるわけでもなく、俊輔は口をつぐむしかなかった。

 不本意なような、しかしどこか不安げな顔の俊輔から、アキラは目を逸さなかった。それが彷徨いていた俊輔の視線とぱちっと交わる。そこで俊輔はその目からあの不思議な光が消えていることに気がついた。クラブでも同じような色を見たような覚えがあるが、光の加減なのだろうか。それにしては随分鮮やかな色だったように俊輔には思えた。平然とした眼差しのままアキラが呟いた。

 「そうでもないんだけどね」

 それが慣れていると好きそうのどちらに対してなのか、俊輔には判別がつかなかった。ただ、そうか、と言うので精一杯だった。

 アキラが何も言わなければ俊輔から口を開く道理はない。訪れた沈黙は決して心地よいものではなかった。カランコロンとドアベルが軽やかな音を立てて、鈴原が穏やかに退店の挨拶を述べる。テーブル席の二人組は揃って満足気に店を出ていく。そんなやりとりでさえ沈黙を浮き彫りにするようだった。

 手持ち無沙汰でグラスを手に取ろうとして、俊輔は癖で伸ばした右手を静止させる。アキラの視線が右手の甲まで周った不織布に向いたのを肌で感じた。俊輔は何事もなかったかのように右手をテーブルに置き、左手でグラスを引き寄せた。傾けたグラスの中で溶けかけの氷がとろりと転がる。爽やかな酸味とその後を追う僅かな苦味が乾いた口内を潤しても、気まずさまでは取り払ってくれない。

 その一連をじっと見ていたアキラが、ふと何かに気がついてスマートフォンを取り出した。画面が光っている。

 「電話。ごめんね」

 そう端的に言ってアキラが席を立つ。外に出るかと思ったがアキラはなぜか店の奥側に向かって、そのまま隅の扉から出ていってしまった。勝手知ったる、というその様子を俊輔は何も言わずに見送る。この隙に帰ってしまえ、と耳元で誰かが囁いた気がした。だが俊輔は動こうとはしなかった。鮮やかな色が目の端で踊っている。

 ことんという静かな音に、俊輔の意識は目の前に引き戻された。それは木製のカウンターに置かれた丸いプレートだった。柔らかな灰色の中でミックスナッツが照明をつやりと弾いている。カウンターの内側から差し出しされたそれに、俊輔は戸惑いながら顔を上げる。

 「え、俺…」

 「お代ならいらないよ。お礼だから」

 目を細めて鈴原が笑う。それは先程俊輔に見せた客向けの笑顔ではなかった。その穏やかな笑顔に俊輔はなぜか既視感を覚えた気がした。

 「ありがとう、アキラに付き合ってくれて。その感じだと、例のゲームで引っ張られてきた口だろう?」

 鈴原の口ぶりはまるで何度もそういうことがあったと言わんばかりだ。俊輔はちらりと店の奥に視線をやった。アキラはまだ戻ってきていない。恐らくまだ少しの間は戻ってこないだろうという根拠のない予感があった。少し前のめりになって、俊輔は秘密を話すように小さく息を吸った。

 「あいつって、いつもあんなですか」

 「割とね。面白そうな人がいたらちょっかいかけてよくうちに連れてくるんだ」

 「はあ……大丈夫なんですかそれ」

 「まあ悪癖みたいなもんだけど、そのおかげで常連が増えたまであるからなあ。それにそこまで変な人は今のところ連れてきたことないし、あいつなりに気になる何かがあるんだろうね」

 初対面にゲームを吹っ掛けられて、それに応じる時点でそいつは十分変なやつだ。しかしそれを指摘すると自分ももれなくその『変なやつ』に含まれてしまうため、俊輔は何も言わなかった。それに誰彼構わずではないとわかったところで、自分の何がアキラの琴線に触れたのか俊輔には一切理解ができなかった。

 「わからないって顔だ」

 柔らかい声だ。責めるでも謗るでもないその響きに、俊輔は二人が似ていないという自分の意見を変えざるを得なかった。オブラートに包みもしないストレートな物言いも、まっすぐにこちらを見つめて離さない眼差しも、二人は実によく似ていた。

 しかし二人が似ているというより、アキラが鈴原に似たというほうが正しいのだろうかなどと考えて、俊輔は先程の既視感の正体に行き着いた。あれは親が子どもにする、しょうがないような愛おしいような──そういう類いの表情だ。この人はアキラの叔父だと聞いたが、それにしては随分親しい間柄らしかった。

 「まあ僕もそこら辺はよくわからない。同じ人間じゃないからね。でも、だからあいつと仲良くしてやってくれると嬉しいな」

 「……」

 「嫌かあ〜素直だなあ君」

 無言で眉根を寄せた俊輔に鈴原がふわっと破顔する。俊輔は自分の予想がそう外れてもいないという気になっていた。鈴原は叔父というには随分保護者に寄っているように思える。主観でしかないが、俊輔にはそう思えたのだ。

 「でも素直ってのはいいことだよ。歳食うとなかなかそう上手くいかなくなるからね…若いっていいなあ」

 「スズさんの『歳食った話』だったら聞かなくていいよ、しゅんくん」

 奥から声がして、俊輔は前屈みの身体をのろのろと伸ばした。小さく軋んだ扉を後ろ手に閉めたアキラが店内に戻ってくる。迷いなく俊輔の横まで来て、カウンターに乗ったプレートをこつりと丸い爪が叩く。

 「もらっていい?」

 「…どうぞ」

 断られるとは微塵も考えていないようなアキラに、俊輔は釈然としない気持ちになる。こちらの都合なんてお構いなしに引っ張り込む癖に、自分は澄ました顔で選択肢を与えたフリをするのだ。摘んだカシューナッツを口に放り込んだアキラの額を、鈴原が指先で軽く小突いた。

 「あいた」

 「人の話を聞かなくていいって、お前ね」

 「大体同じような話だし、いつも若いっていいなで終わるじゃない」

 「いつか笑えなくなるんだぞ、この若造」

 「ありがたいお言葉をどうもありがとうおじさん」

 「それはどっちのおじさんだ? ん?」

 アキラが楽しそうに笑って、黒い瓶をカウンターに乗せた。壁際に並んでいるものよりは少し背の低い瓶だ。角が取れたラベルには聞き覚えのある商品名が印字されている。

 「しゅんくん甘いのは大丈夫?」

 「まあ」

 「よかった。スズさんグラス2個ちょうだい、あと…」

 「牛乳もってこいってか?」

 「うん。ありがとう」

 「はいはい」

 鈴原が奥に引っ込んでいくのを見送って、アキラがスツールに戻る。再びプレートに伸びた手がもう一つ、次はアーモンドだった。薄い唇に飲み込まれた焦茶色は小気味いい音を立てて砕けていくのだろう。俊輔も遠慮がちに食指を伸ばした。カシューナッツ、アーモンド、くるみ、マカダミアナッツ。幾重にも重なりながら行儀よくプレートに収まるそれらから、俊輔は他より一回り小さなくるみを摘み上げる。

 「酒が好きじゃないのってなんで?」

 口に入れたくるみは軽い歯触りののちにくしゃりと崩れた。俊輔は僅かに咀嚼したのちにそのかけらを飲み込む。まだ形を残したままの粒が喉の内側に引っかかりながら滑っていく。俊輔は横目でアキラを睨んだ。

 「…飲ませる準備しながら聞くことかよ」

 「ごめんね、なんかずるくなっちゃった。でもしゅんくんだったら、嫌いなものには嫌いって言いそうでさ。違う?」

 言い返せずに黙るのは、それが真実だと申告しているようなものだ。だから俊輔は何か言わなければならなかった。

 鈴原が牛乳を持って戻ってくる。見慣れないパッケージだ。普段俊輔が買っているものよりずっと高値なことを想像させる。鈴原はさっとグラスを手に取り、アキラに向けて掲げて見せた。

 「アキラ、自分で作るのか?」

 「うん」

 鈴原はそのままグラス二つをアキラに受け渡した。俊輔が見る目の前でアキラはリキュールの蓋をくるくる回し開けて、グラスの底に溜まる程度までとろみのついた黒を注ぎこむ。ふわっと香ったのは俊輔が想定した通りの匂いだった。アキラが牛乳パックの口を開ける。

 「カルーアミルクってやつ」

 「そう。おいしいから好き」

 「もっとキツいの飲まねえの」

 「俺まだ子ども舌だから」

 れ、と覗かせた舌は薄橙の明かりに濡れ、僅かに湿っていた。それはすぐ元の場所に戻っていったが、目の前の他人を惹きつけるには十分な長さだ。そういう表情も話し口も、最初に持った冷涼な印象からはだいぶ離れて見えた。注がれた牛乳が僅かに波打ちながらコーヒーリキュールと混ざっていく。

 「子ども舌って、お前いくつだよ」

 俊輔がそう言ったのは揶揄うというより誤魔化すためだった。なんと答えが返ってこようが相槌ひとつで終わらせてしまえばいいという安直な考えの質問に、しかしアキラは悪戯っぽく目を細める。

 「いくつだと思う? 当ててよ」

 「またそれ…」

 「当てたらひとつ。俺ができることだったらなんでも」

 カウンターから差し出されたマドラーでカクテルを軽くかき混ぜて、アキラはグラスを俊輔のほうに寄せた。

 「ほんとになんでもいいよ、しゅんくん」

 「……じゃあそのしゅんくんっての。それやめろ」

 出会って少しの男に何かさせたいと思うほど俊輔は物好きではない。だからアキラにしてほしいことなど別になかったのだ。それなのに呼び方を訂正しようと思ったのは、単に『くん』付けで呼ばれる気恥ずかしさと、その愛称が今は忘れていたい記憶を小さく引っ掻いたからだった。

 「んー、なんて呼ばれたいの?」

 「いや別に呼ばれたいとか……てか、それあだ名だし」

 「あそうなんだ。じゃあ名前はシュンヤとか、シュンキとか、んん、シュン…」

 「俊輔」

 意識の外からするりと抜けていった自分の名前に、俊輔は一瞬誰がそう言ったのかわからなかった。アキラがその名前を小さく繰り返すのを聞いて、どうやらそれを口走ったのは自分だと思い知らされる。これでは名前で呼んでほしいと言っているようなものではないか。

 やっぱりいい、やめる。

 それだけ言えればどんなによかったか。

 「うん、じゃあ当たったらそう呼ぶことにする」

 ほころぶような、とでも言えばいいだろうか。やけに嬉しそうに笑うアキラを見て、俊輔は何も言えなくなってしまった。それが今までのどの表情より子どもっぽさを滲ませていて、見かけの温度から離れていたからかもしれなかった。

 「その代わり外したら俺のこと名前で呼んで」

 「…はあ、わかったよ」

 当てたらこちらのお願いを、外せばそちらのお願いを、といったところか。答えがわかっているときはこうなるらしい。どちらにせよ俊輔が少し恥ずかしい思いをすることになるわけだが、今更断るほうが面倒くさい。もうしょうがないと腹を括るしかなかった。

 「決まり。誤差はプラマイ2まで。ドンピシャ当てたらピタリ賞あげる」

 「ピタリ賞?」

 「それは当たってからのお楽しみ」

 さあどうぞと言わんばかりの表情に、俊輔はカウンターに向き直って視線を彷徨かせた。鈴原はいつの間にかもう一人の客と談笑している。俊輔に助けはないらしかった。

 こうなったら当てずっぽうでもいいからゲームに参加しなくてはいけない。子どもがするみたいな単純なゲーム。真剣に悩む必要などない、罰ゲームがあるわけでもないのだから。それでも適当に答えてはいハズレ、と言われるのはなんだか癪だった。

 俊輔は座面に手をついて僅かに座り直した。自分とアキラが、そこまで大きく年が離れているということはないだろうと思った。クラブにいたしおおっぴらに酒を飲んでいるから、未成年ではないことも確かだ。しかし考えるほどに横にいる男が何歳なのかよくわからなくなる。自分より年上か、同い年くらい。そういえばタメ口をきいている。グラスに口をつけるアキラを見て、俊輔は軽く眉間に皺を寄せる。

 「二十……二十、三」

 「それでいい?」

 「…いい」

 それは誤差の範囲からしてそう遠くはならないだろうと切った安牌だった。アキラが軽く口角を上げる。それがどういう意味なのか推測が難しい、お手本のような笑顔。ドアベルが鳴る。最後の客が鈴原に軽く手を挙げて店から出ていった。

 「スズさん、俺今日は二十三」

 「はいはい」

 にこにこしながら声をあげるアキラを、鈴原は慣れた様子で軽く受け流す。もしかするとアキラは自分の年齢をよくゲームのお題として使っているのかもしれなかった。繰り返し使ってきたお得意のゲームに付き合わされたのなら、真面目に考えた自分はさぞかし滑稽だったろう。俊輔は少しやけになってアキラをせっついた。

 「当たりか外れかだろ。どっちだよ」

 「ふふ、拗ねないでよ」

 アキラが首を傾げる。答えをもったいぶるような態度は俊輔のつむじを曲げさせるのに十分すぎる。先ほどから二人のやりとりを黙って聞いていた鈴原にはなんとなくどちらの考えも察することができた。俊輔の素直すぎる反応はアキラにとって大層新鮮で、一つひとつの率直な返事が楽しいに違いなかった。鈴原にもその気持ちはわからなくもないが、何かと癖がある甥とせっかく友達になってくれそうな人がむくれてしまうのは見るに忍びない。だからアキラに振り回されてくれる俊輔の優しさに敬意を表することにしたのだ。

 「こいつなあ、ついこないだ誕生日だったんだ」

 ともすればひとりごとのようなぼやきに、俊輔はぱっと鈴原を見た。何も言わないで笑っているアキラに、お世辞にもよいとは言えない予感がひしひしと詰め寄ってくるのを感じた。しかし悲しいかな、こういう類の予感は本当によく当たる。

 「…つまり?」

 「祝成人。なりたてほやほやの二十歳」

 はたち。

 鈴原が言ったことを理解するのに、一瞬間があった。事の元凶の今までしでかした言動が俊輔の脳内をけたたましいほどに駆け巡る。

 はたち、二十歳。つまり年下だ。これが?

 鈴原を見る。初対面に、特にこういう場面で嘘をつくような人ではない。多分そうだと俊輔は思った。ぎゅ、と眉を寄せて、それから何食わぬ顔のアキラを見た。

 「……それは、詐欺だろ」

 「そんなに?」

 「そうなんだよ、こないだまでこんな小さかったのになあ…」

 「っふ、それはなんか違くないかな」

 こんな、と言いながら親指と人差し指を近づける鈴原に、アキラが小さく吹き出した。俊輔は深い溜息とともにがくりと項垂れて、もう何も言うまいとプレートからピーナッツを摘む。

 「昔はもっと可愛げがあったって言ってるんだよ」

 「大人しかったの間違いでしょ。それとも今はかわいくない?」

 「いっちょまえに口きいてこいつは……いや、僕の育て方か?」

 「おかげさまで大きくなりました」

 「まったく、お前に口先で勝とうとした僕が悪かったよ。表片付けてくる」

 「はあい」

 鈴原がカウンターから外へ出ていく。二人きりの店内で、アキラは再び俊輔に向き直った。ぶすくれた表情の俊輔はちょうど小粒のパンプキンシードを噛み砕いたところだった。

 「さっきは惜しかったねしゅんくん。ところで俺のお願い覚えてる?」

 「忘れた」

 「そう言うと思った」

 実際俊輔がこの短時間でアキラのお願いを忘れるわけもなければ、アキラも本当にそうとは考えていなかった。俊輔はなんとなく子どもの頃を思い出した。

 ルールも約束も破ってはいけない。特に子どもの時分にはそれが絶対の決まり事だった。集合の時間、場所、人数、遊びの内容からそのルールまで──友達同士、仲間内の約束は、大人が思っているよりもずっと厳格なのだ。それを破ったりはみ出したりするのは非常に些細な出来事がきっかけだが、そこから起こる仲間はずれは子どもにとってみれば世界の終わりもいいところだ。そういうことがあったと聞いただけのこともあれば、もっと身近に起こることもあった。俊輔がそちら側に回らなかったのはただ運が良かっただけだ。

 子どものお遊びのようなこのゲームにも、それは適用されるのだろうか。現にそのゲームによってここに連れてこられた俊輔に、閉口を貫く権利はあるのか。アキラは笑う。まるで俊輔がどうするのかわかっているみたいに、ただ笑う。

 「ね、呼んで」

 俊輔には静かに店内を流れるピアノの音すら聞こえなかった。ただその言葉だけが胸元まで滑り込んだ。困ったことに、迷う必要はなかった。言わなければいけないことは決まっている。

 ぎこちない沈黙ののちに呟いた三文字は、根負けと諦めの苦い味がした。

 「…………アキラ」

 「うん」

 「これで満足かよ」

 「うん。これからもそう呼んで」

 これくらいのことでそんなに嬉しそうにされても困る。そもそも『これから』なんて今後を想像させるような言い方に、俊輔は文句の一つでも言ってやらなければいけなかった。そうでもしなければまるで好意を持たれているみたいだと自惚れた滑稽な自分が顔を出しそうで、ただでさえ目の前の出来事についていけない脳みそがどうにかなるのも時間の問題だった。混乱と困惑に投げやりな気持ちが混ざって、俊輔はカクテルの入ったグラスを勢いよく呷った。

 「おお」

 「はあ、お前それわざとかよ」

 「何が?」

 「くそ!」

 「ええ?」

 「こらこら、一気に飲むんじゃないよ」

 戻ってきた鈴原に声をかけられて、俊輔はすでに空いてしまったグラスをテーブルに戻した。甘ったるさの奥から遅れてアルコールが喉に熱を灯す。投げやりに息をついた俊輔は鈴原が表に出ていた看板を持っていることに気がついた。

 「あの、そういえば閉店しましたよね。俺いて大丈夫なんですか」

 「大丈夫大丈夫。うち閉店時間まちまちだからね」

 「そうそう、それにしゅんくんは俺のお客さんだからいいんだよ」

 にこにこと機嫌が良さそうなアキラに、鈴原ははたと動きを止めた。しかしすぐ何事もなかったかのように看板を壁に立てかけて、自分も俊輔に笑いかける。

 「まあ大体そういうことだから」

 「あ……はい」

 「僕はこっち来たり裏行ったりするけど、あまり気にしないでね」

 言葉通りそのまま裏に向かっていった鈴原を俊輔はじっと見送った。目が合った一瞬、俊輔には鈴原がもう少しだけ付き合ってやってくれと言ったような気がした。酔いが回った人間のただの勘違いかもしれないが、直感的にそう思った。

 ただ、頼まれたってそうしたくはなかった。アキラから差し出された二杯目を睨みつける。

 「もう飲まない」

 「ん、そしたら俺が飲むよ。でもちょっと酔ってみてもいいんじゃない」

 「なんでだよ」

 「気晴らしだと思って、ね」

 気晴らし。俊輔はふと谷口を思い出した。飲んで忘れろ、と俊輔に言った谷口は、それこそ今頃前後不覚になるくらいに飲んでいるに違いない。こんなことが気晴らしになるのだろうか、いや、一晩忘れたいことを忘れるだけのことだ。ひと時の心地よさを求めて杯を空ける。それで救われるなら、俊輔はとっくに酒に溺れていた。

 アキラが自分のグラスを俊輔のグラスに向かって寄せると、勝手に合わせられたグラス同士が鈍く音を立てる。そのまま持ち上げたグラスから、アキラはあと僅かだった甘いカクテルを飲み干した。

 「ほんとにハタチかよ」

 「ありがたいことについ先日ね」

 「一つ歳とっただけだろ、ほぼ未成年じゃねえか」

 「そんなこと言ったら、しゅんくんだってまだ未成年より一歳か二歳上なだけでしょ。何か違う? あ、しゅんくん何歳?」

 「……今年で二十二」

 「てことは今は一歳差だ」

 「二つ上」

 「真面目だねえ」

 ああ言えばこう言う口だ。要するに腹が立つ。

 新しく注ぎ直したカクテルを静かにかき混ぜているアキラをよそに、俊輔はグラスに口をつけた。酒が自分を助けてくれるとはこれっぽっちも思わない。ただ、ほぼ未成年に飲ませるくらいなら自分で飲もうと思ったのだ。久しぶりに飲む酒は氷ばかりの薄酒よりよっぽど濃い甘さで、簡単に脳を焼く。

 グラスの三分の二まで差しかかったところで、俊輔はグラスをテーブルに置いた。首元も顔もぼんやりとした熱を持っていて、少し目蓋が重い。頽れた頬杖から腕へと、預けた頭が落ちていく。

 「眠いの?」

 「アルコールが嫌なんだ」

 「うん?」

 「喉に残る感じが好きじゃない。飲めないわけじゃねえけど、酔っ払ったって別に楽しくないし」

 「ああ、酒の何がって話か。弱いってこと?」

 「よわ……まあ、強くはない。多分」

 「弱いのかな。酔うと喋ってくれるんだ、ふうん…」

 アキラは少し考えるように顎をさすって、それから口を開いた。

 「あの電話ってさ」

 「どの」

 「さっきクラブでかかってきた電話。みゅうちゃんって多分、カノジョさんでしょ。出たがらなかったのは何かあったから?」

 「別に…」

 「あったんだ。ケンカ? 別れちゃったの?」

 俊輔は自分の思考が随分ぼやけているのを感じた。アルコールが滲みた重い身体にアキラの声だけが明瞭に響く。別れた。心優と別れた。

 「……わからない」

 「てことはケンカの途中かな」

 これは途中なのか。ここから行くのか戻るのかも俊輔にはよくわからなかった。そうやって考えないふりをしたいのかもしれなかった。右手を緩く握り締める。少なくとも今は、考えたくない。何も考えたくない。

 「仲直りできそう?」

 「……」

 「まあ、わからなくてもいいんじゃない。どんなに親しくたって所詮他人だよ、わからないものはわからないんだから」

 「お前は」

 俊輔は遮った。それ以上聞きたくなかった。

 「俺?」

 「お前、知ったような口……知らねえ、くせに……」

 俊輔が顔を背けているから、アキラにはその表情がわからなかった。切れ切れに小さくなった言葉は最後にはほとんどが聞き取れないほどだったが、アキラはさして気にも止めていないようだった。

 「結構弱かったんだね。悪いことしたかな」

 微かな寝息はもう何も言わない。アキラはグラスの中身を一息に飲み下した。



◇◆◇



 目が覚めたとき、煩わしいことを全て忘れていたら。そう考えたことが何度もあった。そういう考えるだけ無駄な願いばかりが積もって、目を覚ますことが億劫になる。それでも黒い空は白んで、目は覚める。いっそ覚めなければいいという願いすら、朝が来るたびになかったことにされるのだ。

 変に頭が冴えていた。昨晩の出来事がするすると再生される。手を引かれて、スツールに腰掛けて、なんの役にも立たないゲームに付き合わされて──その後の記憶がすっぽり抜けている。白い天井は何度瞬きしても白いままだ。寝返りをうって起き上がると、かけられていたタオル地のブランケットがずり落ちた。俊輔はようやく自分がソファに寝ていたことに気がついた。

 「おはよう」

 背後から声をかけられて、俊輔は無表情に振り返る。そこに誰がいるかはわかっていた。それが昨日散々聞いた声だったからだ。

 「……」

 「何か飲む? あ、水しかないや」

 冷蔵庫を開けたアキラが俊輔に笑いかけた。昨晩の顛末がなんとなく理解できて、俊輔は前髪をぐしゃぐしゃに掻き回す。溜息が出た。

 「はい」

 「……どうも」

 差し出されたコップを受け取ろうと腕を伸ばすが何故かすいと躱され、俊輔が訝しげに眉を寄せる。

 「おい」

 「そっちはやめたら」

 アキラは差し出された右手を見ている、不織布に覆われたその手のひらを。無言で差し出した反対の手に冷えたコップが渡された。

 ここはどこだろうか。俊輔はちらりと部屋を見渡した。ソファと、ちいさな冷蔵庫と、段ボールがいくつか。生活の空気が薄い部屋だ。もちろん自分の家ではない。アキラや鈴原が俊輔の家を知っているわけもない。

 「ここは」

 「お店が入ってるビルの三階。空き部屋借りてて、物置いたり、めんどくさいときに寝たり、まあ色々使ってる部屋だよ」

 「……悪かった」

 「飲ませたの俺だよ。謝んないで」

 飲み込んだ水の冷たい感覚が喉の内側を滑っていく。俊輔は空いた手でブランケットを手繰り寄せる。少し肌寒かった。

 「気になってたんだけど、それどうしたの」

 それ、と指をさされたのは丁度ブランケットを掴んだ右手だった。反射で握りこんだ手のひらが鈍く痛んで俊輔は顔を顰める。

 「別に、なんでもない」

 「なんでもないなら見せて」

 「……」

 顔を逸らす代わりに手のひらを差し出す。アキラがソファの前に両膝をつき、俊輔の手を取った。不織布の縁をぬるい指先がなぞっていく。微かにひっかかる爪が少しくすぐったかった。

 「当てよっか、これどうしたのか」

 また例のゲームだ。付き合いきれないが、アキラはきっと勝手にゲームを始めてしまうだろう。だから人に聞かれるたびに答えてきた理由を口にした。先に答えを言ってしまえば、それはゲームとして成立しない。

 「当てなくていい。…間違って切ったんだよ。アホらしいから言わせんな」

 「嘘」

 は、と息を吸った。

 それは端的な言葉だったが、俊輔は一瞬自分が何を聞いたのかわからなかった。振り返る。薄い瞳が俊輔を見上げている。

 「何…」

 「切られた。違う?」

 その瞬間、確かに俊輔は自分の鼓動をはっきりと聞いた。潤したはずの喉が瞬く間に乾いて、しかし手に持ったコップを持ち上げることさえ叶わなかった。

 『何を言ってるんだ、これはうっかり自分で切ったんだ』と。

 そう言って今すぐにこの馬鹿げたゲームを終わらせなければならない。それでも俊輔はアキラから目が逸らせなかった。

 「昨日からずっと無理して左手使ってるけど、しゅんくんって右利きでしょ。さっきもそうだった」

 アキラが目を伏せる。同時に、ぐ、と手のひらを親指で押しこめられてじくりと痛みが走る。顔を歪めて呻く俊輔にアキラは少し首を傾げた。

 「割と最近の傷か。ごめんね、痛い?」

 「ッうるさい、離せ」

 「左手ならまだわかるんだけどな。利き手の手のひらって、普通に生活しててそう怪我するようなとこじゃないと思うよ。何か悪い事故でもない限りはね」

 わなわなと震え始めた唇で、一体何から言えばいいのかがわからない。混乱と動揺で鼓動のたび頭が痛み、俊輔は呼吸さえ上手くできない心地でいた。目の前の男が自分をどうしたいのかがまるで理解できなかった。

 「何も言わないのは、何を言えばいいかわからないからかな。それとも単に図星か、都合が悪いだけとか」

 「誰のせいで……お前もう黙れ」

 「答え合わせさえしてくれたらいくらでも黙るよ。ねえ、これ誰にされたのかまで、俺に当ててほしいの。しゅんくん」

 冷たい瞳は俊輔を捕らえて離さない。それは脅しだ。アキラは本気で俊輔の怪我の原因を当てるつもりだった。

 ふと、俊輔は腹の底から猛然と苛立ちが込み上げてくるのを感じた。アキラは他人だった。ひょんなことから関わりさえしなければ一生言葉を交わすことがない他人。それが俊輔の触れてほしくない部分を無断で踏み荒らしている。

 「そうだよ。当たってる、そうだよ切られたさ! ……これで満足か? お前には関係ない」

 「満足とはちょっと違うけど。でも当たったんなら俺の勝ち。そういえばお願い決めてなかったな……」

 「お前は何がしたいんだよ。他人引っ掻き回すのがそんなに楽しいか」

 投げつけた言葉にアキラが目を細める。貼りつけたような笑顔がなければ、アキラは随分と大人びた冷たさを持っている。思わず背筋が強張ったが、俊輔は睨むのをやめなかった。

 アキラの手が離れる。そのまま立ち上がって、アキラが俊輔を見下ろしたときにはすでに綺麗な笑みが浮かんでいた。

 「ただのゲームだよ。簡単なゲーム。そんなに真面目に考えないで」

 「お前な…」

 「そうだ、連絡先交換してよ。それがいいや」

 目の前に見覚えのある画面が差し出された。トークアプリの友達登録をするためのQRコード画面だ。俊輔は黙ったまましばらくそれを睨んでいたが、アキラは意に介す様子もなくただその場に佇んでいる。

 少しして、俊輔はおもむろにスマートフォンを取り出した。数回画面をタップして表示したのは自分のQRコードだ。無言で差し出すとアキラはぱちぱち瞬きをして、自分の画面を読み取りに切り替えた。

 「意外」

 「お前が言ったんだろ」

 「そうだね、俺が言った」

 アキラがスマートフォンをしまう。俊輔はソファのすぐそばに自分の靴があることを見とめて足を下ろした。冷えきったスニーカーに両足を突っ込む。

 「もう行く?」

 「帰る」

 「そう。お見送りするね」

 内側に巻き込まれたかかとを戻して、俊輔は立ち上がった。軽く畳んだブランケットをソファの背もたれにかける。先に部屋を出たアキラを追い、もう二度と来ることのないであろう部屋を後にした。


 薄暗い廊下を過ぎ階段を降りきると、外には白い曇り空が広がっていた。少し風があるだろうか。人通りも少なく、ネオンが消えた通りは寂れて見えた。

 「悪かった、泊めてもらって。でももう俺に関わるな」

 「んー、無理かな」

 「は?」

 「もう関わっちゃったからさ」

 「…ふざけんな」

 踵を返して俊輔は歩き始める。道はなんとなく覚えていたし、わからなくなったら調べればいい。もう金輪際関わろうとは思わなかった。鈴原には悪いが、俊輔はアキラと友人になる気など微塵も湧いてはこなかった。

 「またね」

 背後から声をかけられたが、俊輔は振り向かなかった。また会う日なんて来ない。握られた右手が謀ったようにじくじく痛み始めて、俊輔は思わず舌を打った。責められている気がしたのだ。こんなことはこれっきりでなければいけなかった。

 最寄りの駅が見えた頃には、雲の隙間から晴れ間がのぞいていた。構内では蛍光灯が何から何までを人工的な白で照らしている。あまり使わない路線に少し戸惑うが、どうやらそう乗り換えなくても帰れるらしい。通勤や通学でごった返すホームの隅に立って、俊輔はようやく肩を撫で下ろした。



─────────



 「浮島!」

 呼び声に、俊輔は思わず箸を止めた。食堂はごった返したような騒音に包まれていたが、不思議なことに自分の名前は明瞭に聞き取ることができた。勝手に情報を取捨選択してくれる脳みそはよく働いているのだろうが、この頃それが少し鬱陶しかった。手を振って近づいてきた見知った顔に言いたいことが山ほどあると認識したうえで、俊輔は皮肉っぽく唇を持ち上げた。

 「こないだはさぞお楽しみだったんだろうな」

 「それがさあ、ぜーんぜん思い出せねえの。でも楽しかった!」

 「そうかよ。俺はお前に文句がいっぱいで困ってるんだけど」

 あの晩からすでに一週間近くが過ぎていた。多少真面目な大学生なら、四年になった頃にはとらなければならない単位も数えるほどになる。もちろん学部や学科にもよるが、俊輔はそういう学科の学生だった。必然的に登校日数が減り、その分友人と顔を合わせる機会も減る。対面に座った谷口と会うのもあの夜以来だった。谷口はぱんっと手を合わせて俊輔に頭を下げた。

 「わり!でもいい気晴らしになったろ?」

 「なるかよあんな……はあ」

 「俺だけいい思いしちゃって、なんかわりいなあ。エミさんとトーク交換しちゃったし」

 ぱっと見せられたスマホの画面にはなにかしらのエフェクトがかかったアイコンが映し出されていた。ほとんど後ろ姿のそれを眺めて、谷口は今にも鼻歌を歌い出しそうなほどだ。しかし俊輔は酷い気分だった。谷口の些細な言葉に触発されて、忘れかけていたことがまざまざと脳裏に蘇る。なかったことにしようと心に決めて、思い出すたび苛立たしい。思わずついた溜息に、谷口は打って変わって少し真面目な顔をした。

 「もしかしてなんかあった感じ?」

 「いや、まあ……うん」

 「わ、まじか。ああいうとこってやっぱいいことばっかじゃねえのな。ごめん」

 「謝んなよ。別に大したことじゃなかったし、やばいトラブルになったってわけでもないからさ」

 大したことじゃない。それは自分に言い聞かせた言葉でもあった。

 「なに、ヤバイやついた?」

 「やばいっていうか、変なやつだよ」

 「つまりヤバイやつだろー、こええの。金出せってジャンプさせられたとか? 変なモン勧められてねえだろうな?」

 「漫画かよ。そういうんじゃないから安心しろって」

 「お前押しに弱そうだから心配なの!」

 びしりと指をさされて笑いながら、俊輔は何故今自分がアキラを擁護したのか内心首を傾げていた。確かに谷口に言われたようなベタなことはされていないが、別にアキラをそういうわかりやすい悪者に仕立てあげることだって俊輔にはできたはずだ。谷口は当然アキラを知らないわけだし、ここで嘘をついたところで俊輔にはなんの不利益もない。それなのにどうして馬鹿正直に谷口の考えを修正しようとしたのか。

 「でも、じゃあ何されたん?」

 「…別の人に絡まれてるとこにそいつが来て、見返りに飲みに付き合わされた」

 だいぶ端折って話しているが、おおむね間違ってはいないだろう。それに浮ついている谷口にエミの話をそのままするのはなんとなく憚られた。

 「それだけ聞くと別に普通だけど。てか一緒に飲み行ったの?」

 「付き合わされたんだよ」

 「同じじゃね?」

 「同じじゃない」

 谷口がちょっと変な顔をする。

 「で? 飲み行ってどうしたのよ」

 「……」

 「どうしたんだよお」

 「俺が、寝こけて」

 「ほう、ねこ……え、寝こけて?」

 「泊めてもらったというか」

 「泊めてもらった!?」

 谷口がテーブルに手をついてぐいっと身を乗り出した。思わず椅子に背を張りつけた俊輔に、谷口はものすごい剣幕で捲し立てた。

 「お前それたいしたことじゃなくないだろ! てか嫌な要素どこだよ!」

 「声でけえよ」

 「なんだ俺よりいい思いしやがって! うはうはじゃねえか俺の心配返せ! ヤったの!?」

 「ッ場所考えろ馬鹿! てか、そいつ男だし」

 「えっ」

 谷口がすとんと席に座る。変な沈黙だ。神妙な顔で俊輔を見つめる谷口に、俊輔はそろそろとテーブルに腕を戻した。

 「なに」

 「いや、何ってか」

 「なんだよ!」

 「俺はそういうの、別にいいと思うぜ? 個人の自由ってやつ」

 「あいつとそんなんなわけねえだろ! 何もないんだって!」

 「なんだよお、仲良しが増えてよかったじゃねえか。あー安心した」

 けらけらと笑った谷口がリュックサックから菓子パンを取り出す。封を切ってかぶりつくのを見て、俊輔も再び昼食を再開した。安価な割にそこそこの量とバリエーションがある学食は学生の味方だ。俊輔はプラスチックのどんぶりに入ったソースカツを箸で持ち上げた。

 「そんでさ、その愉快なお友達とはその後どうなのよ」

 「どうって、別に」

 「トーク交換してねえの?」

 俊輔は口に放りこんだカツを咀嚼しながら、谷口にスマートフォンの画面を向けた。

 「あれ、承認してないじゃん」

 「する必要ないからな」

 トーク画面の上部には追加、ブロック、通報の三つのアイコンが並んでいる。要するにアキラに追加させておいて、俊輔のほうは追加しなかったのだ。これはアキラに対するちょっとした抵抗でもあった。

 「でもブロックしねえのね」

 「……」

 「怒るなよお。てかこの…アキラくんからは連絡なし?」

 「…まあ。飽きたんだろ」

 「言ってることが女々しいんだよな」

 「うるせ」

 実際谷口の言ったことは的を得ていた。俊輔にとってみればアキラは少し話しただけの他人で、知り合いですらない。関わりたくないのなら、そもそも関われないようにしてしまえばいい。それが最も手っ取り早く面倒のない方法だった。

 しかし俊輔はそうしなかった。そうまでして自分からアキラを避けるのは何か癪だったし、逃げたと思われるのは不愉快極まりなかった。俊輔は、アキラに自分の都合が悪くなったから逃げるような卑怯な奴だと思われることが、辛抱たまらなかったのだ。それに連絡が来たとしても返信しなければそのうち向こうが勝手に忘れていくに決まっている。だからこのままで何か支障があるということはなかった。

 「なんかさあ」

 頬張った焼きそばパンをもごもごさせながら谷口がぼやいた。俊輔はソースが絡んで纏まりにくい米を集めて、器用に箸で掬いあげる。

 「うん」

 「浮島、そいつからの連絡待ってるみてえ」

 滑り落ちた米がどんぶりの底でぶつかってばらばらと崩れる。頭が真っ白になって、それから一番に湧いたのはただの疑問だった。

 「は?」

 「え、アキラくんのこと気にしてんのかなって……いや顔こわ」

 谷口が何か言ったが、俊輔の頭には全くといっていいほど入ってこなかった。今までの話の何をどう聞いたらそうなるのだろう。俊輔には谷口がなぜそう感じたのかがさっぱり理解できなかった。もう一度集めた米を残っていたレタスごと口に運ぶ。咀嚼もほどほどに水で流しこんだ後で、俊輔は真正面から谷口を見た。

 「谷口」

 「へ?」

 「あいつからの連絡待ってるとか気にしてるとか一切ない。絶対にない。そんなことあってたまるかよ」

 「でもそれは気にしてるんじゃ」

 「気にしてない」

 「あっハイ」

 谷口がぴっと背筋を正したのを見て、俊輔はようやく少し溜飲が下がったような気がした。残りの水を飲み干して食器が乗ったトレーを持ち上げる。谷口は三個目の菓子パンの封を開けるところだった。

 「このあと講義?」

 「いや、二限に一コマあっただけだからもう帰る」

 「いいなあ、俺三限あるんだよ」

 「二年でとらなかったからだろ。じゃあな」

 「ああ〜」

 テーブルに伸びる谷口を尻目に、俊輔は昼時で混雑する学食から抜け出した。何人もの笑顔や談笑とすれ違っても、俊輔の心はさして晴れなかった。アキラからの連絡を待っている、そんなはずがなかった。むしろ連絡なんか来ないでほしいのだ。しかしそれならば何故トークをそのままにしているのだろう。並べ立てた理由が言い訳ではないと、誰が証明してくれるのだろう。

 五月の太陽はまだ柔らかな光をその眼下に投げかけていた。構内に植えられた木々はその光を受けて青々と騒めき、俊輔のわずかな憂いにすら素知らぬ顔をする。何万という数の人間がこの場を通り過ぎたのか俊輔には知る術もないが、その全てが鬱々と抱え続ける自分の気持ちをわかってはくれないだろうという確信があった。

 一週間経っても、二週間経っても、アキラからの連絡はなかった。あの白い朝にまたねと言ったアキラがどんな顔をしていたのか、俊輔にはもう知る術がない。もう会わないだろう。それが一番いい結末だと、俊輔は本気で考えていたのだ。


 薄暗い部屋にぱっと画面が浮かびあがる。スマートフォンを手に取り、俊輔はその通知に苦々しく顔を歪めた。

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