単純な分かれ道。

西奈 りゆ

アイテム

眼鏡を探すための眼鏡がほしい。


わたしはよくものを失くす。

鍵、定期入れ、イヤリング、財布、そして眼鏡。


たいてい洗顔をしてそのままだったり、寝落ちした枕元に、あるいはそのスタンドの下に置いてあるのだけれど、今日に限ってどこを探しても見当たらない。

よりにもよって、今日に限って。


今日は大事なプレゼンの日。

名誉挽回というか、起死回生というか。

とにかくわたしにとっては、それなりに今後を左右する仕事が待っている。起きて早々、プライベートとは違う意味で気合をいれてメイクして、かけようとするとなくなっていた。おかしい。起きた時には、かけていた気がするけれど。


予定より早めに起きたので、メイクを差し引いても、もう少しだけ時間がある。

問題は、どこに置いたのかまったく思い出せないことだ。


残業帰りのままソファで眠ってしまったらしい夫は、いまだにいびきをたてていて協力者にはならない。というか、あと30分もすれば彼も嫌でも起きないといけない。社会人の朝の30分は、1時間と同義だ。まして睡眠時間なら、なおさらだ。

こんなことなら、四の五の言わずにコンタクトを買っておけばよかった。

何度かチャレンジしてみたけれど、どうしても「目に異物を入れる」感が拭えなくて、けっきょく眼鏡のままで通しているのが、裏目に出た。


増えるばかりのPC作業のせいか、本の読みすぎか、スマホの見過ぎか。

言いたくはないけれど、年々わたしの近視は進むばかりだ。

近づけないと見えないものが、だんだんと増えていく。


仕方がない。

夫の鞄を手に取り、中から眼鏡ケースを取り出す。

几帳面に眼鏡ケースを使うくらいなら、ついでに服をぬぎっぱなしにするのもやめてくれてもよさそうだけれど、今はそのほうが助かる。

眼鏡を探すには、眼鏡がないと始まらない。

度数は合わないけれど、視界が一気にクリアになった。

すると、なんのことはない。立てたドライヤーの裏だった。

たまたま落ち込んだらしい。

部屋中を探したのに、なんだこんなところかと拍子抜けした。


愛嬌のある言い方をすれば、おっちょこちょい。悪く言えば、注意散漫。

これでずいぶん苦労をしている。ふとあれこれを置き忘れてしまい、忘れているので思い出せない。それでもたいてい置き忘れている場所なんて決まっているのだけど、今日みたいにいつものパターンが通用しないときもあって、そんなときに限って急ぎの用事が入っていたりするから、たちが悪い。

そんなわたしのことが、わたしは嫌いだ。損ばかりする。そしてそういう日は決まって、やたらと眼鏡をなくしている。


夫の眼鏡をケースに戻す。夫の眼鏡は半分は伊達眼鏡のようなもので、本人としてはあってもなくてもいいらしいけれど、ここぞというときに必要だといって持ち歩いている。勝負衣装、のようなものらしい。


わたしも、今日は勝負だ。与えられたチャンスは、もうそう多くはない。

気がつけば、早起きした割には時間をロスしてしまった。今日はしっかり食べていこうと思ったけれど、けっきょくトーストといちごジャムだけにする。時間がというより、食欲がなくなってしまった。


夫が「ネガティブ女王」と太鼓判を押すように、わたしは考えが後ろ向きだ。

そんなわたしのジンクスのひとつに、「朝、眼鏡を失くすといいことがない」というものがある。見つからないと話にならないのでけっきょく見つけてことを起こすのだけれど、どうしてかそういう日になることが多いのだ。

心理学では、「自己成就予言効果」という言葉があるらしい。思い込んでいると、本当にそういう結果を呼び寄せてしまう、というものだ。

発想が古臭いけれど、今日はこれで黒猫が横切ったら、決定打かもしれない。

ため息に呼応するように、カーテンを引いたような雨の音が聞こえてきた。


雨。これもわたしにとっての、アンラッキーアイテム。

もうすでにわたしの中は、淀んだ水のように薄黒い何かが滲んできていた。


どのくらいの雨だろうか。

先のことなのに蒸れたパンプスを思って、憂鬱になる。

リビングの小窓を開ける。


目の前の道路で、何かが動いていた。


最初はゴミが風で動いているのかと思った。

小箱のような黒いものが、もぞもぞと横歩きしている。

沢ガニだ。


我が家の近くに、お世辞にも綺麗とはいえないけれど、川が流れている。

そこからやってくるのだろう。ときどき道を歩いていたり、車にかれていたりする。雨が降る日は、ときどきこうして上ってくる。


カニといえば、子どものときは「チョキ」の象徴だった。

大人になってからは、贅沢の象徴だ。


甲羅の上で、いつも笑みを浮かべているのはなぜだろう。

ただの模様にすぎないのに、今でも彼らをみると、わたしはそんなことを思ってしまう。もう子どもでもないのに。


視線を感じたのか、カニがぴたっと動きを止めた。

窓を開けた眼鏡越しに、見つめ合っているのかもしれないわたしたち。


手のひらを振ろうとして、思いつきでこぶしを振ったら、

せかせかと横走りして、行ってしまった。


「勝ち」


子どもでもしないような発想で、けれど案外そのくだらなさに自分で笑えてきて、少しだけわたしは愉快な気持ちになった。


今日の眼鏡は、じつはラッキーアイテムなのかもしれない。










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単純な分かれ道。 西奈 りゆ @mizukase_riyu

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