いくつもの真実が折り重なる群像劇、そして衒いのないミステリー。

『最後の一縷』というタイトルから、私がまず連想したのはO・ヘンリーの『最後の一葉』でした。
そして本作を読み始めた最初のうち、イアンはベアマンなのではないか、という見方をしていました。
けれど、「一縷」という言葉は「一葉」ほど具体的に対象を指す語ではないことからしても、そんなに単純なパロディが成立するはずもないのだと、早い段階で気づくこととなりました。
「最後の一縷」については、きちんと腑に落ちるかたちで意味が明かされますので、ご安心ください。
ネタバレを避けたいので不明瞭な書き方になりますが、、「なにか」が起きる原因はたいていそんなに単純ではないのだ、と、何度も頷いたり頭を抱えたりしながら、読み進めました。
下手な例え話ですが、ミュージシャンがヒット曲の誕生秘話を語るのを聴いて「あれ? ライナーノーツにあったのと違うな?」とか「前に見たインタビューでは他のことを言っていたのにな?」と思うことがあるけれど、それも「どれか一つだけが紛うかたなき真実で、それ以外は嘘」というものではなく、どれもがある程度真実なのだろうと思うのです。
結果を生じさせたいくつもの要因全体に占める割合の大きな「最大の理由」があれば、全体から見ればほんのわずかな、本当に一縷に過ぎなくても、その理由をもって結果を生じさせるに至った「最後の理由」もあるでしょう。
それらの要因が積み重なった順番すべてを意図的なものとして支配することは現実に於いておそらく不可能です。
「最大の要因」と「最後の要因」が一致する場合も時にはあるとしても、それはきっととてもめずらしいことだろうとも思います。

「真実はいつも一つ、とは限らない」という立場ではミステリーは成立しにくいのではないか、という勝手な思い込みが自分のなかにあったことに気づかされました。
読者を驚かせるための舞台装置として「いくつもの真実」が仕掛けられているのではなく、誠実に積み重ねられ明かされていく真実が、ミステリーであり群像劇であるこの物語を完成させていました。
ミステリーとして読まなくとも群像劇としても秀逸で、それぞれの人物が本当に、惚れ惚れするほどに、生きている(そして、生きていた)、と感じました。
人々が生きる様を、弛みもなく性急でもない、極めて怜悧な筆致で描写されています。
それぞれの個性にとって最も適した言葉が常に選び抜かれていて、読み進めながら何度も圧倒されました(こちらの作品に表された言葉や言い回しの選択を「注意深くなされたものに違いない」と私は邪推するのですが、それが事実あってもなくても、この完成度の高い群像劇を、個人的にはもはや天才の御業であると思います)。
全体を見ても細部を見ても、すごく素敵な作品です。

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最後の一縷