最後の一縷
初川遊離
九月十五日
男の巨体が揺れている。
力無く垂れた太い脚は、まるで二本の丸太のようだ。その割に小さな足が伸びきって地を指している。靴はなく、裸の足は先が黒く変色していて、そのほかの皮膚も鬱血の青紫に染まっている。ゴムの弛んだスラックスと、襟のよれたタンクトップ。スラックスは重力に負けて半ば以上ずり落ちていて、これまた弛みきった下着を覗かせている。太り切った胴の上に、大きな頭が一つ。首元に縄が巡らされ彼の巨体を吊っている。だが、明らかに自殺ではない。
男の顔は潰れていた。鈍器で強く、叩きつけたように。
1
九月十五日 日曜日
差し出された紙片を拾い、エドワードは首を傾げた。自分の名刺には違いない——エドワード・スティールバード、
「自殺じゃないんです」と彼女は言った。「兄が自殺をするはずがない」
「そうねえ」エドワードはグラスを摑む。冷蔵庫に物を入れすぎなのか、そもそも外に出してあったのか、水は生ぬるい。「確かに、驚いたよ」
「あなたって、刑事なんですよね? 調べてもらうことはできませんか」
休日の真昼。大柄な金髪の男と、学生らしき茶髪の少女が丸テーブルに向かい合っている。テーブルの上にはもう一枚、何かが書かれた小さなメモがあり、それはチャックのついた保管袋に収められていた。少女は、組んだ手を強く握る。
「君はチャーリーの妹だっけ?」エドワードはつい三分前に聞いたばかりのことを確認した。「どうして僕の名刺を?」
「兄の机のカードホルダーに挿してあったんです」と彼女。「わざわざ取り出して、置いていた風で」
エドワードは内心首をひねる。確かに彼女の兄、チャールズ・オルコットとはいちおうの面識がある。とはいえ彼の就職に際して友人経由で紹介されて、数回酒席を共にしただけ。公務員になることを考えていた彼は、いくつかの候補の一つとして警察を考慮して、結局、消防士になった。——数回の面会でこんなことを言うのもなんだが、彼の判断は正しかったと思う。警察向きの性格じゃない。
「近隣の署には相談した? 僕の署じゃないよね」
「訴えました。でも明らかだと。『遺書もあり、密室で、自殺以外の死因は全く想定できない』」彼女は唇を噛む。「全く? 一体この世の中に、全くないと断言できることなんていくつあるんですかね。どう思います?」
「そうねえ」エドワードは同じ相槌を繰り返す。「確かに、一理ある」
「仮に、自殺なんだとしても——つまり『首を吊る』という行為は兄が自分でしたんだとしても、兄をそこへ追いやった真犯人がいると思うんです」彼女は今度は舌打ちを堪えるように唇を歪めた。「でも警察は自殺で片付けて、捜査を行うつもりはないと。私立探偵でも雇おうかと最初は思ったんですけど、誰も彼も怪しく見えて……」
「怪しい? もしあれだったら、知り合いを紹介しようか。以前の同僚で辞めた人間が——」
途中で彼女は首を振った。「実力が、ということではなく……心構えとでもいうんですか。相談を受けた時点で、もう
エドワードは頷きながら立てかけてあったメニューを開き、ミックスナッツが置いてないか探した。緑の強い碧眼がすぐにお目当てのものを見つける。だがこんなものを頼んだらビールを飲みたくなるに決まっている。まったく日曜の昼だというに、ナッツで一杯やることもできない。
「人の心のことは分からないし、家族だからって悩みを全部打ち明けてもらえるわけじゃない、……分かってますよそんなこと。それでもあまりに突然だから、何か訳があるんじゃないかって話をしてるんじゃないですか」
曖昧な頷きを返す。彼女はテーブルの中央を見据え、彼の顔を見てはいなかった。
「『できる限りのことはしますが』、って決まって言うんです。できる限り? 噓っぱちですよ。どうせおざなりな捜査で済ませて、訳知り顔で話して終わり。同情したような顔して、軽く見ているんです。肉親の自死でおかしくなって縋りつくものが欲しいんだって。そんなんじゃないですよ。兄のことなんて何も知らないくせに……」
本当に『そんなんじゃない』かはともかく、チャーリーが自殺したことはエドワードにとっても意外だった。加えて彼は懐疑的な男で、自分以外の人間をあまり信用していない。当然、自殺という別署の判断も、怪しいものだと思っていた。調べる意味は大いにある。ただそれを自分がやる意味はさっぱり見えない、というだけで。
チャーリーとはそもそも死去の知らせがあったのも意外な間柄だ。そんな相手の、しかも自殺の捜査を、休暇の時間を充ててまで無償でやりたいはずがない。彼女の中では兄への弔いで、正義とさえ感じているだろう。だが結局はプロのノウハウを
だがこの依頼を断れば、知人にどのように触れ回られるか知れたものじゃない。
「探偵たちの台詞をなぞることになるが」エドワードはテーブルの上、もう一枚の紙片に目をやった。「できる限りのことはするよ」
彼女はほっと息をついた。ようやく背もたれの存在を思い出した様子で背を預け、肩を下ろす。
「ありがとうございます」
「これは間違いなくお兄さんの字?」
テーブルの紙を拾い上げ、自身の記憶とも突き合わせる。ごくありふれたメモパッドに、これまた何の変哲もない黒のボールペンで書かれている。たった一行の遺書だ。
「はい。間違いないです。母も兄の字と確信してます」
「お父様は?」
「父は……どちらにせよ、あの人には分からないんじゃないかな」
深く聞くまい。エドワードは首を傾け、遺書を見つめて目を細めた。書かれた一文の意味は不明瞭だ。端的でごくごく私的な心情の吐露のようでいて、筆跡はやけに落ち着いている。チャーリーはどういう心境でこの遺書を書いたのだろう。少なくとも、取り乱していたようには見えない。
「恐らく、自殺は自殺だろう。ただその理由は不可解だ。君の言うように、第三者の犯罪行為があったかもしれないね。その
「ですよね。私、そこが知りたくて、」
「あいにく本業もあるからね、そう熱心にはやれないかもしれない」目をあげて、彼女の瞳を覗く。「それでもいい?」
「いいんです。無理を言っていることは、重々、承知してますので……」
再び前のめりになった彼女は、テーブルの端に手を置いて、摑むように力を込めた。エドワードはその手を観察し、それから彼女の顔を見る。結ばれた口。見開かれた瞳。
ある男の目を思い出す。その目に、見られている気がした。
「何か食べるかい。奢るよ」
「いえ、そんな……」
「いいから。嫌いじゃなかったら、甘い物でも食べるといい」一度しまったメニューを、エドワードは再び手に取った。「甘味は脳にいいんだ。心ってのは脳にあるだろ? だから心にもいい」
「本当ですか?」
「本当? そいつは分からないな。でも少なくとも幸福になれる、食べている間は。違う?」
彼女は迷った末、頷いた。渡されたメニューを眺め始める。その傍らでエドワードは、〝彼〟を巻き込むことに決めた。
「『俺は間違えた』?」
チャック付きの保管袋に収められたメモを手に取り、カーティスは眉をひそめた。エドワードはそんな彼と目の高さをなるべく合わせようと、壁に寄りかかり身を傾ける——カーティスも決して小柄ではないがエドワードは大柄が過ぎる。何せ身長がほとんど二メートルあるのだ。
「そう! それが遺書の内容」
「他には何もなかったのか? これだけじゃなんだか分からない」
「それがないんだよ。調べがいがあると思わない? 君に似て正義感の強いまっすぐなやつだったんだ、それがどうしてそんな言葉を遺して死んだのか気になって」
「嘘をつけ。断るほうがリスクが高いと思っただけだろ」
「あら分かる? その通り! でも受けちゃったもんは仕方ない」覗きあげるように彼を見る。「巻き込まれてくれよ、カート」
チャーリーの妹、アンバーと別れて数分後。エドワードが送ったショートメールに、カーティスはすぐ返信してきた。十五分後には出られると言うので隣駅で待ち合わせ、駅を出てすぐの通りの、ひとけのない路上で話をしている。ちょうどさっきアイスクリームの路上販売車が通り、声をかけてアイスを売ってもらった。車はこの先の公園で客を狙うつもりだという。
「妹さんは、自殺じゃないと?」
「そう言ってた。でもなんというか、本心では自殺をしたとは分かっていて、ただその理由が知りたいという感じだったかな。兄が命を絶ったことをどうしても受け入れられないんだろう」
「お前はどう思ってる」カーティスはエドワードが奢ったピスタチオのアイスを齧る。「つまり他殺の可能性だが」
「さあねえ、今の段階じゃ何も。その遺書の筆跡を見るにずいぶん落ち着いているからさ、首を括ったのは彼自身なんじゃないかとは思ってるよ。ただ——」
エドワードは一瞬言葉を切った。ややあって、続きを口にする。
「そうね、僕の知るチャーリーは、間違ったことをするタイプじゃあなかったからね。遺書は不可解だ」
「間違ったことをしない、か」カーティスは目をすがめた。「お前らしくない物言いだな」
「なにさ、正直に言えっての?」エドワードは半ば呆れてアイスを齧った。人工的なレモンの風味。「『自分のしてることが間違っている可能性にあまり気づかないタイプ』」
「結構。物事は正確に言え。俺は妹さんじゃない」
エドワードはカーティスの形のいい頭、それからつややかな黒髪を眺めた。遺書を見つめる真っ青な瞳は信じ難いほど鮮やかで、こうした日差しの明るい日には改めてぎょっとしてしまう。この珍しい組み合わせは、彼に流れるアイリッシュの血がもたらしたものなのだそうで、他には日本の北の地域に稀に見られるくらいらしい。いつだか、本人から聞いた。
カーティス・シザーフィールドはキルフェアリー署所属の刑事で、エドワードの相棒である。いや、正確に言えば、エドワードのほうこそが〝カーティスの相棒〟なのだ。捜査チームで指揮をとるのは大抵の場合カーティスで、エドワードは彼の補佐役に回る。適性がそうなのであって、この立ち位置には満足している。
それに自分ほど彼の補佐に適した人物はいないだろう。そう思う理由は、いくつかある。
「チャールズという人は、お前の知り合いなんだよな。ざっと来歴を教えてくれ」
「ってことは、協力してくれるの?」
「断る理由はない。見ず知らずの人に対しても、やれるだけのことはするべきだ」そこまで言ってカーティスは顔を上げた。「お前の意見は、違うだろうけど」
その通り。だが自分から話を持ち込んでおいて、気を削ぐことを言うはずがない。
「なに。君の真摯さは、君の大いなる美徳だよ」
カーティスは疑わしそうに片眉をあげたが、何も言わなかった。見逃してやるとでもいうように肩をすくめ、また遺書に目を戻す。
黙り込んだ彼の隣で、エドワードはチャーリー——チャールズ・オルコットのプロフィールを述べた。二十八歳、独身。家族構成は母、父、妹。祖父母は父方母方ともにほとんどが死去しており、父方の祖母だけが存命で、遠隔地の養護施設にいる。自分とは知人を介しての交流で、さしたる関係はない。だがお互いに公僕なので、話の通じる部分はあった。
「公僕? 彼も警察なのか」
「いやあ違うよ、消防士。レスキューの資格があって、けっこう優秀だったらしいよ」エドワードは一瞬記憶を探った。「ほら、この前、でかい火災があったろ」
「ああ、」カーティスは痛ましげに眉を寄せる。「移動遊園地の……」
この辺りの人間なら誰しも連想できる事故だ。エドワードはさらに記憶をたどり、当時耳にした噂を掘り出す。
「あの時ずいぶん活躍したそうだ。感謝状だか褒賞だか、もらったはずだよ。ネットの記事も出て」
「頭が下がるな。しかしそんな人が、」眉間の皺が深まる。「なぜ自殺を?」
「どっから調べようか。同僚にでも話を聞くかい」
「それが順当だろう。勤め先へ行くぞ」
エドワードはカーティスの答えに満足した。外から持ち込まれただけの、たとえ無関係の事案でも、やるからには自ら舵を取りひた向きになるのが彼だ。つまり自分は助手席に座っているだけでいい——実際の運転席に座るのは、自分なのだけど。
2
ティルダはため息をついたあと、慌てて首を横に振った。プライベート、それも家にいる時に事件のことを考えるのは気が進まない。恋人が淹れたミルクティーが手許にあるならなおさらだ。
「憂鬱そうね?」向かいに座った彼女が、気遣わしげに覗き込んでくる。
「ごめんなさい。気にしないで。つい考えてしまって」
「受け持ちの事件?」
「そう」ミルクティーに息を吹きかけ、口をつける。「でも、いいの。仕事の話はなし」
エレノアは鷹揚に頷き、テレビの電源を入れた。チャンネルはBBCに合わせてある。夜のニュースが都市部の事件について知らせ、エレノアは渋面を作った。未成年者が関わる事件に接すると、彼女はいつもそうなる。
「嫌な話ね」画面に目を向け、ティルダは言った。
「そうね。ほんと、やんなっちゃう」今度はエレノアが首を振る。「ティータイムには相応しくない」
ティルダはビスケットの載った小皿を見つめた。縁にプリーツのような模様がある、素焼きの丸い皿だ。中央にカナリアイエローのポルカドットが施されている。ティルダはチョコレート・ダイジェスティブを皿から取って、紅茶に漬けた。
「このお皿、かわいい」
「でしょう? おととい見つけたの。ご近所のフリー・マーケットで」つまり『ご自由にお持ちください』と張り紙のされたダンボールだ。「ご安心を。しっかり洗ったわ」
「心配してない。それにしても、思いがけないところにいいものがあったりするのね」
「本当にね。これは掘り出し物と思った。マダム・ルーシーの品選びに感謝」
名を聞いて、ティルダは彼女の庭を思い浮かべた。小作りな二人暮らしの家と、手狭ながらも華やかな庭のあるマダム・ルーシーの住処。彼女は近隣の住人で、たまに不用品を路上に置いている。
エレノアもまたビスケットに手を伸ばし、そのまま一口齧る。彼女はダンキングする前に、いつも一口、何も付けずに齧る。
「明日はチーズケーキを焼こうと思ってるの。気分じゃなければ、レモンパイでもいいけど」
「どちらでも嬉しい。あなたの焼くケーキは絶品。コンテストに出てもいいくらい」ティルダは毎週勝ち抜きでベイキングの腕を競うテレビ番組の名を挙げた。
「だめだめ、きっと予選落ち。万一受かっても、毎週課題を練習する時間なんてないし」
「大学は忙しい?」
「意外なほどに。取ってる講義はほんの少しなのに、不思議なものね」
エレノアは現在職を辞して、大学に入り、児童心理学を学んでいる。もともとエレノアはティルダと同じキルフェアリー署の刑事で、主に少年犯罪を担当していた。十八歳未満の少年少女たちと接するうちに、彼女の関心は子供たちのケアへと移り、刑事の立場にもどかしさを覚えるようになった。然るべき学習と資格取得を終えたのち、児童福祉の職につくのが彼女の当面の目標だ。もし、それがカウンセラーであれば、また別の形でキルフェアリー署に舞い戻ることになるかもしれない。
「学生生活も楽しいけれど、たまに署の雰囲気が懐かしくなる。みんな元気?」
「相変わらずよ。ああでも、そうね」ティルダは今月の初め、軽い人事異動があったことを思い出した。「最近は、全く不幸な巡り合わせがあったから、波乱含みね」
「それはなに?」
「ダンがカートのチームに入った。想像つくでしょう?」
「それは……」エレノアはしばし、言葉を失う。「お気の毒」
一瞬の間のあと、共通の知人を思い浮かべて二人は忍び笑いをした。
エドワードとカーティスは共に優秀な刑事で、年齢に比して大きく出世もしているが、揃って少し変わっている。特にカーティスはあまりに生真面目で、正当性のないことにはすぐさま眉をひそめるものだから、社会意識に難のある署の男たちは苦労していた。
裏を返せば、女性陣は、彼が昇進して以来ひそかに溜飲を下げている。もちろん彼の厳しい視線は女性陣にも向けられはするが、彼女らの多くは大抵の場合、男性陣ほど迂闊ではない。そして迂闊といえば、キルフェアリー署でダニエル・ラドウィンの右に出る者はない。
ダニエルは若手で経験が浅い。職業上の経験に限らず人生についてもそうだ。だから考え足らずの軽率な言動をしょっちゅうしていて、カーティスでなくとも思わずたしなめたくなってしまう。そもそも深い意味のない発言であるから、咎められれば謝罪するのだが、反省をしているかといえば甚だ怪しい。
ダンの失言の頻度を思えば、言うほうも疲れるだろう。さらには叱られた若手がヘソを曲げぬようフォローし、きつい調子になったかと落ち込む同僚を慰めなくてはならない〝補佐役〟は、理論上、彼らの二倍疲れることになる。お気の毒としか言いようがなかった。
「エディはいつも大変ね。今度会った時はビールの一杯も奢ってあげようかな」エレノアの口ぶりはまるきり他人事だ。
「彼ってお酒好きなのかしら」ティルダは二枚目のビスケットを摘まむ。「酔っているところ、見たことがないけど」
「あの体格じゃ酔いは回らなそうね。肝臓も丈夫そう」
「酔わない酒に意味はある? 酩酊しろとは言わないけど、素面と変わらないんじゃあ……」
そこまで言って、はたと気づく。思わず口を閉じ考え込むティルダに、エレノアは窺う目を向けたあと、小さくため息をついた。
「ティルダ、私だって元同業者よ。そんなに気を遣わなくていいけど?」
我に返って、ティルダもため息をつく。「そうね。やっぱり、どうもだめみたい」
結局のところ解決するまで、気持ちを切り替えることはできない。週の半ばに発見された遺体を、ティルダは脳裏に思い浮かべた。
遺体は橋の下で見つかった。首を吊られた大男の死体と聞いて、ティルダはまず自殺を連想したが、実際に現場を目にして思い違いに気がついた。通報を受けた巡査は確かに「吊られた」死体と言っていた。自殺に見えれば、「吊った」と言うはず。
橋桁に這う鉄骨に括られその大男は吊られていた。ぱっと見たところ死後二日ほど経っているように思われ、また、鑑識の見立ても同様だった。現場にはうっすら腐臭が漂い、それが河の悪臭と入り混じってティルダは軽くえずいた。
「ひでえ
部下のエイプリルが吐き捨てる。ティルダは彼女に目を向けると、うっすら目を細めた。
「同感。でもあなたの言葉遣いほどじゃない。彼、身元はわかるの?」
「通報者が知ってました。近所に住んでる厄介者だと」
「そう」ティルダは再び、遺体に目を向ける。「この状態でよく分かったわね」
男の顔は潰れていた。何か大きな、かつ丸みのあるもので顔を思い切り殴られたようだ。中心に向かって陥没するように潰れていて、顔貌はまるで想像できない。しかし確かにこの体型は他にそうあるものじゃないだろう。ビール樽に丸太を四本くっつけたような体つきだ。服装も特徴的だった。コミュニティ内の人間なら容易く特定できるのかもしれない。
「氏名はイアン・ドーソン。母と弟と三人暮らしで、現在身元確認のために連絡をとっています。まあでも間違いないんじゃないですか。こんなデカブツ、そうそういないでしょう」
「あなたが遺族の前で口を滑らせないことを祈ってる」ティルダは素っ気なく応じた。「ドーソン氏ね。厄介者と言ってた? 金目当てって殺し方じゃないし、容疑者はだいぶ多そう」
「アーリユース警部」と、背後から、鑑識のバーナードが口を挟んだ。「お時間よろしいですか」
ティルダは表情を変えぬよう気をつけて振り向いた。バーナードは性別・年齢を問わず、誰にでも敬意を払う男で、ティルダは彼の折り目正しさを気に入っていた。とはいえそれは払われて当然の敬意であるはずで、特別な好感を示すことは憚られる。まんまと気を良くしているように思われるのも癪だった。バーナード自身にというより、周りの人間に。
「確実なことは解剖を待っていただきたいのですが、少なくとも死因は窒息死ではなさそうです。頸椎は折れていますが、これは死後のことと思われます。また、後頭部にも浅い打撲痕があり、これが今回の外傷のうち最も古いものでないかと」
「つまりドーソン氏は後頭部を殴られたあと、顔面を潰されたのかしら。そして最後に首を吊られた?」
「顔面の打撲と首吊りのどちらが先かは判然としません。どちらにせよ、死因は前者が有力です。もしかすると吊った状態で、一頻り痛めつけてから被害者の顔を打ち据えた、とも……」
「なるほど。後頭部の打撲は、あくまで昏倒させるのが目的だったのかもしれない」ティルダは視線を前方へ向けた。
「顔面の打撲と首吊りは、明らかに意図があって加えられた暴行ね。恐らく最初からこうする気でいた。死なせるだけなら、する必要がない」
「首吊りって」エイプリルが呟く。「なんか意味深ですね。普通やろうと思わないでしょう?」
「そうね。こんな巨体を吊り上げるのはずいぶん骨が折れるはず。強い意図があるように思う」
ということは——ティルダは気が重くなる。怨恨だ。それもかなり激しい、——余程の動機がなければ、途中で断念していておかしくない犯行経緯。それほどの人の恨みに触れるのは憂鬱だ。もちろん憎しみを深めるに足る事情があっても気が重いが、一番恐ろしいのは、大した理由もないのにここまでのことをする人間が、意外と少なくないこと。
「めんどそうな事件だなあ」エイプリルが舌打ちをした。「聴き込みがメインになりますよね?」
「今のところはそうね」
ティルダは返した。言い様に不満はあるが、それはティルダの本音でもあった。
「詳しいことは言えないけど、ちょっと厄介な案件で。容疑者が多すぎる」
「そう。単純な物盗りよりは、足取りが追いやすいのはいいけど……」
「虱潰しな上に、一向に候補が絞れない。みんなそれぞれ恨みはあれど、ここまでするほどと思えなくて」
イアンの遺体が発見されて丸三日が経っている。その間、ティルダたちの捜査チームは周辺住民に聞き込みを続けた。わかったのは周辺住民の大半がイアンに「死んでほしい」と思っていたということだ。ただ、その「死んでほしい」は、「殺してやる」には程遠い。うっかり事故に遭ったり、揉め事で刺されたり、脳溢血か何か起こしたりしてほしい、という程度。あれほどの労力をかけて殺害するとは思えない。
イアンの二軒隣に住む婦人が、ため息まじりに言ったものだ。全く、やっと死んだかと思えば、また面倒を残しやがって。
「それにしても、聞く限り、彼を知っている人のほとんどが彼の死を願っていたみたい。気の毒な気もしちゃうけど……」
エレノアが言葉にしなかった続きをティルダは大方予想できた。
「とにかくかっとなりやすかったみたい。些細なことで機嫌を損ねて、簡単に暴れる。おまけにあの体格だから、そのたび被害が大きかった。病院送りにしたこともあるとか。だけど大抵被害者は近所の住人だったから、内々の示談で済ませたのね」
「そんなにみんなが困ってるなら、通報して逮捕させればよかったようにも思うのだけど」
もちろん、周辺住民もそう考えていただろう。だが、嫌われていたのは、あくまでイアンただ一人だった。
ドーソン家はまるで一家の暴力性と憤怒の全てをイアンが吸い取ったように、他の家族は温厚で善良な市民なのだった。周辺住民はイアンに怯える母と弟に同情し、またそれでもイアンの稼ぎに頼らざるを得ない一家の状況を理解していた。だから、逮捕ではなくイアンの死を願っていたのだ。死であれば、遺された一家に保険金が下りる。それに……
「通報したとしても、逮捕してもらえるかどうかは微妙なところだったかもしれない。首尾よく事が運んでも、数年もしたら出てきて、お礼参りの憂き目に遭うかもしれないとなれば、躊躇するでしょう」
「なるほどね」エレノアはティーカップを両手で包んだ。難しい顔をしている。
恐らくイアンには公的援助、精神的治療が必要だったはずだ。だがそこにアクセスすることを勧めたらどんな目に遭うか。周辺住民は身近にいつ破裂するか分からぬ爆弾を抱えて、何度もその爆発の被害を受けながら、それでも消極的に彼の死を願うくらいしかできる事がなかった。もしかすると、イアンの家族も同様であったかもしれない。
「なんだか、それでも」エレノアは呟く。
「可哀想な気がしてしまう。関係がないから、思うのよね。きっと」
少し自省の滲む口調に、ティルダは内心、首を振る。犯罪事実が必ずしも犯人に帰結しないこと——罪の発生の責任を犯人の人格にだけ問うことはできないことを、エレノアは自然と認識している。罪を犯した者と向き合うとき、その罪を切り離して当人だけを直視できるのは彼女の美点の一つだった。軽犯罪が日常となり、大人が自分の味方であるとは信じなくなった子供たちが、それでも徐々にエレノアを信頼するようになるのは、彼女の態度に嘘がないからだ。
そういう姿勢は、自分には、決定的に欠けている——そこまで考えてティルダは、思わず笑みを浮かべてしまった。だからこそ私は彼女に惹かれる。つまり、これは、単なる惚気。
「何笑ってるの?」
不満げな声に、さらに笑って誤魔化す。照れ臭くて、言う気になれなかった。
3
休日の昼過ぎ、幼なじみからショートメールが届いたとき、カーティスは通知を見て思わず跳ね起きたものだった。いつも自分が連絡を取るばかりなのに、彼から来るなんて! だがその中身を読み、弾んだぶんと同じだけ沈んだ。口調が〝平日〟と同じだ。つまり、これはビジネス。仕事の延長戦。
案の定、実際に会ったときにも彼は〝オフ〟の顔などしておらず、自分に頼んできたことは私的な捜査の手伝いだ。自分がプライベートでも相棒として求められている事実に満足はしたが、せっかくの休みに仕事と同じ態度でいるのは嫌だった。素の自分でいられる時間は、そんなに多いわけじゃないのに。
分かっている。結局は自分の都合だ。仕事の態度と普段とを分ける必要は己のためで、誰が強制するでもない。さまざま理由があるにせよ、決めているのは自分だ。
「聞くんだが、」そういうわけで不承不承、しかつめらしい言葉遣いで隣の彼に尋ねる。「どこに向かってるんだ?」
「チャーリーが勤めてた消防署付近のパブさ。いつだか彼に連れてかれたことがあってね。溜まり場らしい」
そう答える相棒の、〝平日〟と同じ薄ら笑いに目をすがめる。
公私の切り替えが激しいのは自分に限ったことではない。本来の自分とかけ離れた
「日曜とはいえ、消防士だろう? 署にも人がいるんじゃないか」
「まあねえ」エディはバックミラーを覗きつつ応える。
「でも消防士はさ、僕ら以上に張り詰めているだろ。公的な捜査でもないのに煩わせるのもね」
確かにそうだ。頷きながら、カーティスは密かに己を恥じた。
エドワードの運転する車は珍しくゆったりした速度で、狭い路地を曲がっていく。彼の愛車は彼の身長のわりにずいぶん小さな造りだが、それでも歩行者が通る隙間が危ぶまれるほど狭かった。
こんなところに署を設けては、出動時に難儀するのじゃないか。それともここをすり抜けるのも消防士たちは慣れたものなのか。タクシーの運転手などは道に詳しくて当然だが、消防士もまた地元の地理は知り尽くしているのだろう。どこの消火に向かうにしても、通れる道を知らなければならない。
「さあて、どこに停めたものかな」やがて彼はブレーキを踏んだ。前方、左側にパブが見える。
「このままいけば川べりだろう。少しは広くなるんじゃないか」
「かもね。ちょっと行ってくるよ。待っててくれる?」
「分かった。先に入ろうか?」
「任せるよ、リーダー」
茶化すような口調で言い、彼は身を乗り出した。長い腕を軽く伸ばし、助手席側のドアを開ける。
「いいだろう」シートベルトを外し、カーティスは答えた。「中で待ってる」
カーティスが降り、ドアをしっかりと閉めると、彼はアクセルを踏んで発車した。青い車体が見えなくなっていく。向こう側へ渡りながらスマートウォッチを確認すると三時を過ぎたあたりだった。ガラスの分厚い扉を引く。
「いらっしゃい。お兄さん、一人?」
店内はそこそこの埋まり具合で、カウンター席にも馴染み客とおぼしい男たちが並んでいた。マスターは客への挨拶に少し両の眉を上げた。一見の客は珍しいのだろう。
「後から友人が来る。席はあるかな」
「二人席ならどっかに……ああ、そこ」店主はカウンターにほど近い、中央付近の席を指した。
「どうも」
脚の長いスツールに、滑り込むように腰掛ける。無意識に染み付いた動作でジャケットのボタンを一つ外すと、それを見ていた店の客たちが意味深な含み笑いをした。一瞬、しまったと思ったが、どのみちテーラーで仕立てたスーツを着ている時点で同じことだ。
そもそもカーティスは同性から、身内として親しく接された覚えがほとんどなかった。自分の何が彼らの反感を買うのか、はっきりとはわからないまでも大体の察しはついている。彼らはカーティスに出くわすと、密かなコンプレックスを刺激されて敵意を示すか、あるいは愛玩の嘲りを顔に滲ますかのどちらかだ。おかげで子どもの頃はずいぶん豊かだった表情はしかめっ面に固まっている。
男社会の警察においても境遇は似たようなものだ。他の理由はあるにせよ、堅苦しい口調も、冷徹な姿勢も、その環境で生き抜くための武装にすぎなかった。彼らの中で軽んじられるとき、実際の能力や知性や知識は、まるで関係がない。実績だって焼け石に水だ。
気が滅入るだけの思考を止めて、カーティスはメニューを取った。ビニールのファイルに入れられたメニューは汚れがこびりつき、中の紙にまで染み込んでいる。ビールの種類は豊富で、つまみはナッツとフィッシュ&チップス、クラッカー、サラミ、ソーセージ。一応マスターが作る料理もあるようだったが、周りを覗く限り誰も頼んでいない。
ここで炭酸水など頼めば余計に嘲笑を得るだろう。とはいえ自分はアルコールに強いタイプではない。
諦めてカウンターに目配せを投げようとしたとき、ドアベルが鳴った。
「いらっしゃい」
マスターが目を見開いている。が、おそらくカーティスを認めた時の驚きとは種類が違う。店のドアを潜らんばかりにして入ってきたエドワードは、すぐにカーティスを見つけ、片手を上げた。
「待った? リーダー」
「いや。まだ何も」メニューを掲げて応える。「何か飲むか?」
「そうねえ。さっき僕、ビール飲みたくてたまらなくってね。彼女の手前ナッツを摘まんで酒飲む訳にはいかなかったからさ」
ミックスナッツとジョッキを頼む彼に目を細める。どこまで本当だろう?
「彼女って、例の妹さんか」カーティスは調子を合わせた。「大切な相談事を、お前はビール片手に聞こうとしたのか?」
「だあって日曜日だぜ! ビールくらい飲みたくなるじゃない。飲んだところでへべれけになるでもなし、構わないでしょう」
言いながら、エドワードはさりげなく周囲を見回す。近場の席へ身を乗り出し、髭面の男に声をかけた。
「ね、お兄さん。ここの料理って美味しい? ついでに何か頼むべきかな」
「おいおい、兄ちゃん」鼻で笑いつつ、満更嫌でもなさそうに男は応える。
「『お兄さん』はねえだろ。露骨なおべっか言うもんじゃねえぜ、——飯なら食えたもんじゃねえ。悪いこた言わないからナッツだけにしときな」
「あら、そうなの? マスター、お客はこう言うけれど」
「好き勝手言いやがる」マスターはわざとらしく顔をしかめた。「何も俺はわざわざこの店に来てくれなんて頼んでないんだ」
そら見たことか。口には出さずにカーティスは思う。
エドワードだって十分に、同性から反感を買う要素を持ち合わせている。だと言うのに彼が上手いことやるのは、恐らくそれらが憧れにつながるものでもあるからだ。大柄な骨格、筋肉質な体、それから〝相手〟に困らない見た目。そういう人物が懐っこく自分に興味を持つことを、嫌がる人間は多くない。
「よく言うぜ。俺らの飲み代でもってる店のくせに」
「ここは長いの?」とエドワード。
「俺が始めた店だよ。仕入れ値で酒が飲めりゃ最高だと思って始めたが、おかげでろくでなしどもが寄り付くようになっちまった」そう答えたマスターは、エドワードをだしぬけにじっと見つめた。「ところで、あんた……」
「何か思い出した?」彼は笑っている。
「ああ! やっぱり。前に来たことがあるよな? 確かチャーリーと一緒に——」
言葉が途切れる。マスターの顔に影が差した。少しの間を設け、エドワードが口をひらく。
「うん、そう。思い出してしまってね」
店内に沈黙が降りた。しばし、物音だけが響く。
「チャーリーは、」マスターが溜息を吐いた。「若いってのになあ……」
「バカなやつだ。何があったか知らねえが」カウンターに座る男がクラッカーを割った。「首なんて括るこたねえ」
「あんまり突然だったからさ。僕も……驚いてしまって」
エドワードは首をうつむけ、呟くように付け足した。
「ここしばらく連絡も取れてなかったのにね。いい気なもんだ」
カーティスは内心呆れ果てた。毎度思うが、こいつは心があるか怪しい。
それを態度に出すまいとしながら、カーティスはメニューを見るフリをして、そっと周囲に目を配る。エドワードは話を続けた。
「でも、ほんとう、どうしてなんだろう。いや、何があったかなんて、僕らに分かるはずはないけど」
「まったくだ。揉め事があるとも聞かなかったし。ああでも、——」マスターの目の前の席に座っていた男が振り向いた。体格からして、チャーリーの同僚と見える。
「少し前から、ちょっと様子がおかしかったんだ。悩んでる風でもないけど、妙に浮かない顔をしていて」
「何だって」彼の隣に座る男が目を見開く。「心当たりがあるのか?」
「そこまでじゃねえよ。でも、ちょっと前……」
記憶を探るように、同僚らしき男は宙を見た。
「ああ、そう、ちょうど、あの火災があった頃からたまに浮かねえ顔をしててさ。気にはなったんだ。でもまさか……」
「火災?」エドワードが片眉を上げる。「火災って、あの、移動遊園地の?」
「そう。だから、二ヶ月前か?」
移動遊園地の火災——カーティスは改めて、当時のニュース速報を思い起こした。夏になると遊具や屋台が並ぶ見慣れた広場が黒煙に包まれ、その隙間に赤く燃える回転木馬の残骸が見えた。ちょうどコーヒー休憩を取っていたカーティスは、しばらく理解が追いつかず、マグを持ったまま固まってしまった。
それは二ヶ月前、七月に起きた、死傷者三十八人の大事故だった。詳しい火元は現在も不明で、ただ爆発が広がったのは遊具の一つに備えられていたガスボンベに着火にしたためと見られている。遊具の爆発による怪我人も相当な数いたが、この事故がことさら犠牲を招いたのは、ショーの最中のサーカス小屋に燃え移ってしまったからだ。そしてそこには、子供が大勢いた。
だがチャーリーはその火災での活躍で表彰されたはずだ。それに二ヶ月前の事故のことで、どうして今になって首を吊る?
「犠牲者は子供が多かったよね」エドワードの口ぶりは確認めいていた。「いくら経験があったって、やっぱり、ああいう事故はショックなのかな、……と、僕は思ってしまうんだけど」
「まあな」答える声は浮かない調子だ。「俺たちがどう足搔いたって救えないことはある。そんなのは骨身に染みて分かってるよ。けど、まあ、なかなか割り切れねえ日もあるな。特に……ガキが死ぬと」
だが彼はそこまで言って、ジョッキをいささか乱暴に摑んだ。
「とはいえ、だよ。それが原因で死んじまうとは、思えんな、とても。向こう見ずで青いとこはあったが、そんな柔な野郎じゃない」
僅かに口をつぐんだあと、エドワードは頷いた。「そうだね」
マスターが無言のまま、テーブルにジョッキと小皿を運んだ。短く礼を言い、エドワードは手をつける。
その後はめぼしい情報もなく、主にエドワードが店内の客の世間話に付き合っていた。あらかたの交友関係がわかり彼がジョッキを空にしたところで、二人揃って席を立つ。チップを足した代金を灰皿で押さえ、エドワードは店内にあらためて短く礼を言った。
店を出て、川沿いへ歩く。その途中で足を止め、口を開いたのはカーティスだった。
「十時の方向にいた青年、見えたか?」
流れで一歩進んだところで、彼も立ち止まり、振り返る。
「まさかあ。僕をフクロウとでも思ってる?」
「フクロウの首の可動域は三百六十度だぞ。三十度くらい人間だって十分視野に——」
「分かった分かった。そいつがどうかした?」
「出てくるのを待つ」カーティスは、パブの方向へ目をやった。
「あれは、何か知っている顔だ」
4
手の震えが止まらない。
記憶のないうつろな時間のあと、ふと気がつくと手が震えている。抑え込もうとしても収まらず、その間は何も手につかない。と言っても、震えていないとき、自分が何をしているのかアデルには分からなかった。ただ目を開けているだけで、意識はどこかを彷徨っている。
さっきまで何をしていたんだっけ。顔を上げると、小さなトースターのガラス扉が開かれていた。思い出してその狭い庫内に食パンを二枚並べようとして、気がつき、咄嗟に顔を覆う。肌に食い込む指の隙間で、パンが無惨に抉れていく。
あの子はいないのだ。無意識に淹れてしまった二人分のコーヒーの香りが、今さらアデルの鼻をついた。調理台にはマーガリンとマーマレードが並んでいる。マーマレードを塗るのは、あの子だけだ。爪が顔面に痕をつける。
今にも二階からあの子が降りてきて、アデルにおはようと言う声が聞こえてくるような気がした。あの眠そうな声、だるそうな足音。トーストとコーヒーの匂いに鼻をうごめかせ、少しだけ弾みをつけてキッチンを覗く顔。あの子はその日の朝になるまで、ブラックがいいかカフェオレがいいかが分からず、降りてきてアデルの顔を覗くときに初めて言うのだった。今日はミルク入りで、母さん。
固く手を握りしめる。冷えた、柔い感触がする。
幻聴でいいから聞こえてほしい。狂気の世界に陥れば息子の夢が見れるというなら、正気など捨ててしまいたかった。だが都合の良い夢は訪れず、一人きりのキッチンで哀れにパンを握りつぶしている。まだ十五歳だったのだ。まだ、ほんの、十五歳だった。
二ヶ月前の火災の日、事故をニュースで知ったあと、何度も息子に電話をかけたあの数時間を思い出す。繋がらない電話に震え、幾度も叫び出しそうになった。いや、実際に叫んでいた。なぜ出ないの! なぜ、返事がないの! 狭い家に響く金切り声を聞く者はアデル以外にはおらず、不安も焦燥も絶望も、アデル以外に感じる者はなかった。
結局、外が真っ暗になる頃、携帯ではなく家の電話が鳴った。半ば放心して取った通話の内容はまるで覚えていない。耳鳴りがして、何も聞こえなかった。
その後の日々もまた、ほとんど覚えがない。何もかもいつ始まって、どのように終わったのか、気づいたらアデルはこの家に一人きりでへたり込んでいた。あの子はいつ帰ってくるのだろう。ぼんやりとそう思い、そして亡骸が墓に埋まったことを思い出し、また叫んだ。
私の全てだったのに。あの子は、私の、全てだったのに。
たった二ヶ月。だが近隣の者は、近ごろ外で出会すと遠慮がちな表情で「調子はどう?」と尋ねるようになった。
私の全ては終わったのに。私の全ては、もう終わったのに。
誰を恨めばいいか分からない。なのに、誰も彼も恨めしい。あの子を遊びに誘った友達、あの子を助けなかった消防士、火を止めなかった従業員、すべてが全くの筋違い。いっそあの日、あの子が遊びに行くのを止めなかった自分のせいだと思い込めたならどれほど楽だったろう。しかしその考えは、他の誰かを憎む理由と同じ程度にくだらなかった。
アデルの指先が震える。生のパンの不快な感触を振り払うように床に捨て、しばらく眺めた。無惨にひしゃげたパンが、モロッカンタイルの床にどこか滑稽に転がっている。突然、激しい衝動に襲われアデルは裸足でそのパンを踏んだ。二度三度、四度、叩きつける。足の裏がタイルに打ち付けられてうっすらと熱を孕む。
いつまでこうしているつもりだ——頭の裏で冷静な自分が囁く。いつまで喪失の悲しみに浸り、自己憐憫に溺れているつもり? 黙れと自分に怒鳴り返す一方、その言葉が的を射ていることも分かっている。現実の受容、正常な弔い、未来を見据えたあらゆる思考から逃げ、私は悲哀に囚われることを選んでいるのだ。そのほうが楽で、多分、——心地良いから。
自ら踏み躙ったパンを見下ろし、細く、長いため息を吐く。コーヒーを淹れたカップから立ち上る湯気が薄れている。ふと、顔にパン屑が張り付いていることに気づき、呆れと共に取り払う。取り乱しても、何にもならない。新鮮なパン一枚と時間を無駄にして。馬鹿みたい。
なぜ、こうも、中途半端なの。床に潰れたパンを拾い上げ、ゴミ入れに捨てながらアデルは思った。溺れるなら溺れるで、何も見えないくらい底に沈めたら良かったのに。自分はいつもそうだ。我を忘れることができない。それはあるいは人格的な長所なのかもしれないが、全てを割り切れてしまえるほど屈強でもない理性など、アデルにとっては厄介なだけだ。
なのに肝心なときに、理性は働かなかった。今思い返しても、あんないかれた考えに陥ったことが信じられない。なぜあんなことをしたのだろう、——思うと、また指先が震える。
再び昂り始めた神経に水を差すように、テレビの音声が聞こえた。ドラマの再放送が終わり、ニュースに切り替わったらしい。耳慣れたジングルの後、やけに明瞭でハキハキとしたアナウンサーの英語が流れる。自分がどうしたって真似できないクイーンズ・イングリッシュ。
女性キャスターがニュースの詳細を伝える。概要が分かり始める。無意識に両手を握りしめ、アデルはじっと、耳を澄ました。
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