九月十六日



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     九月十六日 月曜日


 週が明けた。これから始まる一週間に憂鬱を抑えきれぬままオフィスに通じるドアを開けると、同僚たちの半ばはすでに出勤していた。ひとまずコーヒーを淹れようとマシンのもとへ足を向ければ、見知った長身が何度目かの驚きを運んでくる。彼の上背に、いつまで経っても慣れない。

「おはよう、エドワード」

「やあティルダ。珍しく遅かったね」

「妙に怠くて。あなたこそ早いのね」

「いよいよ大詰めでね」自分のコーヒーを淹れ終わり、彼はティルダを向いた。「ブラック?」

「ええ、お願い。目を覚まさないと」

 そう言う彼の片手には、マグと一緒に数本のシュガーが器用に挟みこまれていた。コーヒーと共に糖分をたっぷり摂るのは彼の流儀というより、彼のチームリーダー、カーティスの考えだ。曰く、脳のガス欠防止。

「おはよう、アーリユース」

 折しも廊下から現れた彼は律儀に苗字で呼んできた。当たり前のようにエドワードからコーヒーを受け取る。

「おはようカート。大詰めですって?」

「そうなんだ。ようやく次の出没場所が絞れそうで」

「出没場所?」

「追っているのはフードトラックでね。公園のあちこちに決まった曜日だけやってくる、だがその場所がばらばらなんだ。張り込むにも手間がかかって」

 カーティスらが先週から追っているのは、フードトラックによる傷害容疑だった。元々は役所への生活相談から露見した事案だ。相談者はいずれも女性で、ある移動販売車から購入した食品を口にしたあと、急激に胃腸を壊した、どうもあの車は怪しいのではないか、という。一件や二件ならよくある言いがかりと思えたが、どうもその件数が多く、また相談の調子も遠慮がちで、真実味があったという。

「相談者が女性ばかりというのが気がかりだったんだ。憎悪犯罪ヘイトクライムかもしれない」

「つまり女性を狙っていると?」

「どんな食べ物にしろ、男性が一人も買わないということはないだろう。となれば女性客の物にだけ混入している可能性が高い。もちろん、比率の問題で男性客が少なく、被害にあった中で相談してきた者がまだ出ていないだけかもしれないが」

 ティルダは軽く頷いた。男女問わず甘味をよく食す習慣のあるこの国で、比率の極端に偏る食品のイメージはパッと出てこない。ヘルシー志向のもの? いや、それもそこまで大きな偏りはあるまい。

「嫌な話ね。女性を狙うなんて」

「その通りだな。気が滅入るよ」カーティスはエドワードが淹れたコーヒーにシュガーを三包入れた。「君の事件はどうだ?」

 ティルダは思わず嘆息した。全く進展がない。「ぼちぼちってところ」

「面倒そうな事件だよねえ。さっきエイプリルが悪態ついてたよ」エドワードがティルダのマグを差し出してきた。

「ありがと」受け取って、ティルダは口をつけた。「気持ちはわかるけど、表に出さないでほしいわね。あれでも控えちゃいるんでしょうけど」

「君も苦労するな」たっぷり甘くしたカフェオレを傾け、カーティスが言う。「うちの若手も、せめて君の部下エイプリルくらい要領が良けりゃ……」

 カーティスの言わんとすることはティルダにもよく分かった。エイプリルはああ見えて、放言を吐く場の見極めはしている。彼女の愚痴はそれが許される範囲でのみこぼされるものだ。カーティスとて彼女の悪態を耳にしたことがないはずはないが、自分のいる場では決して言わないのだから、大目に見ているのだろう。

「地道に聴き込みをするしかない。監視カメラも調べてはいるけど、あの辺は数が少なくて、見込み薄だし」

「うっかりなんか映ってるといいねえ」エドワードが気のない相槌を打つ。

「虱潰しに当たっていけば、そのうち誰か浮かんでくるさ」カーティスが慰めるように言った。「俺も何か耳にしたときは共有する」

「ありがとう。恩に着る」

「ああ。それじゃあ」

 オフィスのドアが開いた。入ってくる人物を見て、カーティスは壁に預けていた背を起こし、陣地へと向かう。カーティスにはティルダ同様に署内に個室があるものの、チームでの会議には課のフロアを使う。

 コーヒーを飲み干したエドワードが後に続き、同様に彼のチームのメンバーが集まり出した。一番遅れてやってきたのは一番年若のダンだったが、カーティスはその点には特に文句もないらしく、挨拶をして席に着く。

 ガラスボードの前で作戦内容を語り出す彼らを、ティルダはコーヒーを飲む間、ゆっくり眺めていた。



 捜査車両の助手席で、カーティスはため息をついた。またやってしまった。今朝を振り返ると、憂鬱に頭が痛くなる。

 しかしあの発言はどうしたって看過しがたい。今回の捕物についての作戦会議の最中、ダンはこう言い放った——「なんか、めんどくさいなあ。ちゃちい事件なのに手間かかるんすね」

 対するカーティスのコメントはこうだ。「君は、何の罪もない市民、それも恐らく憎悪から女性のみが狙われて、理不尽な暴力が振るわれている卑劣な犯罪に、『ちゃちい』から、手間をかけたくないと?」

 実際はもっと長々、順序立てて隙なく言い募った。彼の発言を咎めたこと自体は後悔していない。だが、自分は叱言をいうとき、どうも追い込むくせがある。

 もう少し相手が受け入れやすい、上手い言い方ができたらいいのに。結局は相棒のフォローに任せることになり、余計な心労をかけている。不器用だからと言い抜けしていいことでもないが、自分なりに努力してみても成功した試しがない。

「暗い顔だねえ」

 運転席を開け、エドワードが乗り込む。コーヒーショップで買ってきたらしいホットコーヒーを一つ寄越すと、自身のそれに口をつけた。受け取ってカーティスも飲む。たっぷり甘くしたカフェオレだ。

「また出来もしないことでうんうん悩んでいるのかい? 人間、適性ってものがある。向いてないことを無理にがんばっても仕方がないよ」

「そうは言っても、いつもお前に後始末をさせている。今日もあのあとダンに口添えしてくれたんだろ」

「まあね。彼がどこまで納得したかは僕にも分かんないけど」

 ダンの発言は無論、いただけないが、彼が文句を言う理由はカーティスにも分かっている。確かに小さな案件で、手柄に結びつく見通しも薄い。頑張ったところで得は薄いと、若い彼が不満を持つのも無理はないかもしれない。

 実際、カーティスにそうした案件ばかりが舞い込んでくるのは、元はといえば嫌がらせだった。お育ちのいい刑事崩れ﹅﹅﹅﹅には、ママゴトみたいな事件だけやらせておけばいいだろう——そんな魂胆が透けて見えても、しかしカーティスはやるべきことはいつでも真面目にやる男だった。その真摯さに神様が微笑んだのかは知らないが、彼はいくつか、思いがけない幸運を摑んだ。

 つまり、ほんの小さな案件が、紙面を騒がすほどの事件につながるケースがしばしばあったのだ。

 それらは当然彼の手柄となり、実績が積み重なれば周りも多少見直さざるを得ない。とはいえカーティスにしてみれば、事件の大小でやるべきことが変わるわけでもなかった。どんな犯罪もそこに被害者がいる。彼らの蒙った理不尽に、きちんと報いなければ。

「仕事に入る前に、プライベートの話をしていい?」

 意外な発言に片眉が上がった。エドワードは顔を見て笑う。

「昨日のことさ。〝もっと最近〟って、いったい何だったのかなあ」

 得心がいった。「チャールズ氏の件か」

 昨日、パブでの調査の際、エドワードと周囲との会話にひとり複雑な表情を浮かべている者がいた。その顔は何か納得がいかないふうで、同時に、知っていることを吞み込まざるを得ない苦みも帯びていた。迷いは受け取れず、初めから、口に出す気はないように見えた。

 彼がパブから出てくるのを待ち、呼び止めて話を聞いた。だがやはり多くを語ってはくれなかった。先ほど会ったばかりでは仕方がない。彼がやりにくそうに、誤魔化すように答えたことといえば、「二ヶ月前じゃない」ということだけ。

「チャーリーはそりゃ事故のとき、多少落ち込んじゃいましたけど。様子がおかしかったのは、もっと最近﹅﹅﹅﹅﹅だった気がして」

「最近? それっていつ頃ですか」

「さあ。最近は最近ですよ」

 そう答えたあと、彼はいささか身を引いて、疑わしげに二人を見た。

「お二人って、たぶん、刑事さんでしょ。チャーリーが事件に、何か関係でも?」

「いえね」エドワードが答えた。「捜査とかじゃないですよ。ただ知り合いに頼まれて」

「知り合い?」

「チャーリーの死に最も心を痛めている者の一人です。なにせ、ショッキングな死に方だった」

 彼もまたそれ以上は問わず、かといって了解してもいない顔で、小さく頷いた。呼び留めたことを詫び、その場はひとまず引き下がった。

「明確な心当たりがあるようだったな。だが、何らかの理由で、それを言うのは憚られると思っているらしい」

「なんだろうねえ、隠したくなること。日付を誤魔化したのも気になる。覚えていないというのとは少し違って見えたよ」

「同感だ。何より……」カーティスはカーナビを操作し、目的の住所を打ち込む。

「なぜ事件の可能性を疑ったのか。それが、一番気になる」

 自動音声が流れ、案内の開始を告げた。エドワードはアクセルを踏み、乱暴な速度で署の敷地を出る。



    6



 イアンの母、ヴェーラは未だ話を聞ける状態になかった。もともと体が弱く、臥せりがちだったところに、長男の死——それも見せしめのような殺人の知らせは大きな衝撃だったらしい。彼女とて捜査に貢献したいという気持ちはあるものの、心と体がついてはこないのだった。今日も顔を見て挨拶をしたあと、泣き出して会話ができなくなるのを見届けてから、部屋を辞した。

「すみません」同席していたルカが謝る。「これじゃ捜査が進みませんね」

「いえ」ティルダは慎重に返す。「我々こそ、成果を挙げられず申し訳ない」

「仕方ないですよ。兄は、四方八方から恨まれてましたから。そうは言ってもあんな、」そこで、ルカは息を詰まらせた。一瞬ののちに言葉を継ぐ。「あんな殺し方をされるほどとは、思ってなかったですが」

 ティルダは小さく頷いた。ルカの発言は、ティルダがこれまでの捜査で抱いた印象と一致している。誰に話を聞いても、ただの一人も、イアンの死を悼んでいる者はなかった。その一方、首を吊りあげ顔面を叩き潰すほどの〝関心〟も、やはりうかがえない。

 これまでの聴き込みで、イアンの生活状況は大部分が分かってきている。性格的な問題から仕事が続かず、周辺地域で孤立し、酒に溺れ、酔って暴れ、一層孤立を深くする……その繰り返しだ。一人で歩けなくなるほど酔い潰れ、弟たちが迎えに行くこともしばしばだったらしい。これらの話は、ルカから聞いている。

 二階のヴェーラの部屋を出て、細い階段を降りていく。落ち着いた寒色系の色合いの壁は小花柄で、家の中にも慎ましやかに花がいくつも飾られていた。これはヴェーラの趣味で、世話はルカがしているという。階段の途中には家族の写真が掛けてあった。母と息子たち。実際の生活はどうあれ、写真の中の彼らは満ち足りているように見える。

「母は、まだ、立ち直っていなくて」後ろからルカの声が聞こえる。「だってのに続けて、イアンまで……」

「そうですよね」リビングに着き、ティルダは振り返った。「失礼を承知でお聞きしますが。お母上とイアン氏との仲は、どういったものだったのでしょう」

 ルカは頷き、それからティルダの横をすり抜け「お茶をお淹れします」と言った。ティルダはお気遣いなく、と声をかけてから、テーブルにつく。階段の写真を見つめると、ここにはいない者の姿が目に留まる。殺されたイアン氏。そして、もう一人の弟。

 ルカはドーソン家の末弟で、本当はもう一人、レナートという次男がいた。それが先月、不幸な死に方をして、すでに一家は打撃を受けていたのだ。ヴェーラがこの二人の息子の死に打ちのめされ、話もままならずにいるのは当然のことだった。もちろん聴取はしたいが、彼女に無理を強いれば、余計に何かが失われかねない。

 程なく、ルカがポットに紅茶を淹れて持ってきた。市販のティーバッグの香りがする。

「いただきます」

「どうぞ。……それで、母と兄との関係でしたか」

 ティルダが首肯すると、ルカは細く息を吐いた。

「一言ではとても言えません。家族のことですから、そう単純じゃないでしょう……どの家も」

「ええ」思わず実感のこもった相槌を打ち、それからティルダは気を取り直した。「イアン氏は、あなたにも暴力を?」

「暴力、というか」ルカは口籠もったが、すぐに肯定した。「そうですね。暴力は暴力です。ただ、……外からは、なんでしょう、それこそ、DVだとか……虐待に見えたでしょうけど。僕らの感覚は少し違ったんです。いえ、僕らがどう思うかなんて、関係ないとも思うんですが」

「そんなことはないですよ」ティルダは返した。そのジャッジをするのは自分の仕事ではない。「ルカさんの感じていたことをお聞きしたいので」

 ルカはじっとテーブルの中央に目を据えて、考える間を取った。この数日、彼と何度か話をしたが、いつも彼は注意深く言葉を纏める時間を作る。

「母は確かに、兄に恨みはあったと思います。あの人の癇癪で何度も泣かされてましたから。さすがに病弱の母に直接手をあげることは、——ほとんど、——なかったですが、人を傷つける方法は他にもいろいろあるでしょう。警察の方は、お詳しいでしょうが」

「そうですね。大声だとか、物に当たるとか」

「はい。そういったことは、日常でした。彼にずっと圧迫されているのが、僕らの日常」ルカの手が、カップを包み込む。「でも、家族ですからね。単純に憎いだけとも言えない。ずっと暮らしてたら、いい思い出だってある。助けられたこともあります。あの人は、どうしようもなくダメだったけど、悪人だったわけではなくて。それでも大抵の人にとっては、いないほうがいい奴なんでしょう。僕だって、」また、息を吞む。「こんな奴、いなければと……」

 彼の内側に寄せる波が去るのを、ティルダはただ待った。少しして、ルカは顔を上げた。

「すみません。……母も、似たようなものだったんだと思います。どんなに困った、ひどい息子でも、母にとっては愛する息子でもあったでしょう。弟だった僕よりもその情は深いかもしれない。けれどレナートが死んだときは、母もずいぶんイアンを罵ってね。レナートが死ぬくらいなら、お前が死んだほうがよかったとまで。イアンも、何も言わなくて」

「本心ばかりが口に出るとも限りませんから」ティルダは静かに言った。

「そうですね。僕もそう思います。ただ口を突いてしまっただけだ」言うと、ルカは一瞬、二階の母の部屋へ目を向けた。

「でも、吐き出した唾は吞み込めないでしょ。母は今ずいぶんそれを悔やんでるんじゃないかなと。想像ですが」

 その通りだろうとティルダは思った。会話にならない聴取のたび、ヴェーラはそれを悔やむ言葉を零している。先月亡くなった次男は、イアンとは正反対の気弱で穏やかな人柄で、とりわけ評判が良かった。ヴェーラが思わず口走ったという台詞とほとんど同じものを、ティルダは周辺住民への聴き込みで何度も耳にした。

 そして、——ティルダはルカをさりげなく見遣る。彼の人柄は、何とも判断がつかない。

 真面目で思慮深いと評す者もいれば、どうも心根が冷たい気がすると陰口を叩く者もいた。直接相対してみるとどちらの見方にも頷ける。恐らく彼は人や物事と、もしかすると自身の感情とさえ一定の距離を保つタイプで、良くも悪くも〝身を寄せない〟人物と言えた。死んだレナートに比べれば、冷たい人にも見えるのだろう。

 事件当日のルカの動向は、裏付けが取れている。大学で講義を受けた後、友人宅で数人と酒を吞み、夜深くなる前に帰宅。母親と夕飯をとって彼女が眠るのを見届けた後、夜半になっても兄が帰ってこないため迎えに出た。ところが馴染みの酒場に兄の姿はなく、探しながら帰ったが見つけられないままだった。

 迎えに行く際、自宅から百メートルほど離れた場所の防犯カメラに彼の姿が写っていて、その時刻は証言と矛盾しない。友人らや母親によるアリバイ確認も取れていた。帰り道の彼の姿は同じカメラには捉えられていないが、探しながら歩いたのだから同じルートをとるはずがない。自宅付近の別のカメラに、帰宅直前の彼が写っている。

「以前もお聞きしたことですが」ティルダは口を開いた。「ここ最近、イアン氏に何か変化はありましたか」

「すみません、分かりません。死ぬまでの数日は、いつも通りだったと思います」

 以前と同じように答えたあと、しかしルカは腕を組んだ。「ただ……事件ともしかしたら、関係があることなのかなと思うことがあって。いえ、勘なので、根拠もないんですが」

「何でも結構です。お気づきのことがあれば」

「兄はここ最近は、特に変わりがなかったんですけど。もっと前なら心当たりがあるんです。レナートが死ぬよりも前」

「と言うと?」

「二ヶ月前ですよ。事故があったでしょう、遊園地の」

 あの広場の大事故。もちろん覚えている。「移動遊園地の?」

「そうです」ルカはまた間を取った。脳裏で話を整理しているらしい。

「兄は、ああいった性格ですから、一つの職場では長く続かず、日雇いの仕事をしていました。時間の割には給与の高い肉体労働が主で。でも、数少ない友人からたまに一日頼まれたりして、彼らを手伝うこともあったんです。広場の火災の日、兄はそこに屋台を出していた友人の手伝いに行っていました。結構ひどい怪我をして、ひと月くらい入院して」

「ひと月?」ティルダは身を乗り出してみせた。「ということは、退院の時期は、お兄様……レナートさんの」

「そうです。次兄の、……ああいう死と重なって。母がイアンを責めたのは、そのせいもあったんですよ。お前が帰ってきたせいだと」ルカは言葉を切った。「ほんとの理由は、誰にも分かりませんが」

「二ヶ月前の事故の際、イアン氏は何か様子が違っていた?」

「ええ。周りで子供が死んだりして、少しは落ち込んだみたいです。でも、退院してきたときにはピンピンしてたし、……なんせ二ヶ月も前ですから、今回の事件と関連があるとは想像がつかなくて。でも、もしかしたらあり得るかと」

 ティルダは頷いた。あの事故は子供が多く亡くなり、当然その遺族たちは深い悲しみを抱いている。理由やきっかけは不明だが、何かしらの逆恨み——あるいは妥当な恨みをイアン氏が買ってしまった可能性はある。首を吊し上げ、顔を潰すほどの憎しみが、そこに芽生えてもおかしくはない。

「参考にします」ティルダは席を立った。「紅茶をどうも」

「いえ。またいつでも」ルカも立ち上がり、ティルダを玄関まで見送る。

 ドーソン家を辞し、しばらく歩いたところで、スマートフォンに着信があった。部下の名前が表示されている。ティルダは周囲を確認し、人影のないことを見てとると、電話に出た。

「こちらアーリユース」

 相変わらずの不機嫌な声。《エイプリルです。どうでした? あの家》

「一応、新しい情報があった。そっちは?」

《進展なしですよ。イアンの奴の横暴をくどくど聞かされるばかりです。やれうちの息子を殴っただの、ホームレスに乱暴しただの……》

「ホームレス?」

《他のと変わりませんよ。酔って橋桁まで行って、その下で寝てる人らに因縁つけたそうですよ》エイプリルの口振りはいかにもうんざりとしていた。《よくまあこんだけ似たような話が異口同音に出るもんです。逆に庇いたくなってきますよ》

「そうかもね」ティルダは頷いた。確かにあまりに一方的で、何かバランスをとってやりたくなる。

《新情報って何です?》

「移動遊園地の火災。七月の半ばにあったでしょう?」ティルダは言いながら携帯を肩で挟み、自分でも手帳に書きつけた。「イアンはあの日そこにいたみたい。知り合いの屋台のヘルプだとか」

《へえ。なんかやらかしたのかも。その辺もっかい聞いてみます》

「悪いわね」

《仕事っすから。まあ、なんにせよ……》車のクラクションが聞こえる。道路を渡るところらしい。《目下の被疑者はルカ・ドーソンですね》

 短く肯定する。現状、他に動機のある者はいない。

 ルカにとってイアンは、厄介な存在だったはずだ。家族への暴力だけでなく、周囲との揉め事でたびたび発生する慰謝料も、コミュニティ内での肩身の狭さも、少なくとも殺害を計画するに十分な動機になる。加えてイアンは保険に入っていて、一家には今回の件で生命保険が降りる見込みだった。あるいは、それらを全て抜きにしても、ルカには察される動機がある。

 イアンのあの死体を見て、思い出さないわけにいかない——ルカの兄、レナートは、自ら首を吊ったのだから。



 被害女性たちの話を聞いて分かったことは二つ。ひとつは、フードトラックは毎回扱う商品を変えていたということ。もうひとつは、被害者たちが皆、同じ公園で購入し被害に遭っていたということだ。それはキルフェアリー署管内の中央付近に位置する公園で、かなりの広さがある。被害女性たちそれぞれが証言した現場に一貫性はなく、何を基準に広い公園で出店場所を決めているのか、チームはなかなか摑めなかった。だが、地図を貼ってダーツを放ち、刺さった場所へ行くでもない限り、完全なランダムというのは案外選べないものだ。

 法則性に気付いたのは、他ならぬカーティスだった。そのとき、現場の一箇所で地図を広げていた彼は、不意にある証言を思い出した。カーティスとエドワードの二人が直接聴取を担当した、唯一の証言者だ。

 彼女は十代で、待ち合わせ場所にカフェを指定してきた。SNSで話題だという。ピンク色の液体で満ちたグラスの上にクリームが載せられ、ハートや星の形の何かがデコレーションされた代物を、刑事たち二人も、一緒に飲む羽目になった。

「なんていうか……ちょっと、気持ち悪くて」

 太いストローで中身を吸い出したあと、かき混ぜながら彼女は言った。

「気持ち悪い?」

「笑い方かなあ。なんか、ねばついてるっていうか。いろんなこと考えてるのに、分かんないように笑ってる感じ。でもぶっちゃけ、隠す気ない、みたいな。それでこっちがうげってなるの、実は面白がってるっていうか」

 なるほど、と頷いて、カーティスは手帳に書き留める。隣のエドワードは笑うばかりで一口も飲んでいない。

「分かんないですよねこれじゃ。なんか、上手く言えないなあ」

「いえ、ありがたいです。貴重な証言ですよ」

 彼女と目が合ったので、慌ててストローをくわえる。少し吸い出すと人工的なイチゴの香りが口腔を満たした。子供の頃、歯磨き粉はこんな味がしたものだ。

「本当? こんなあやふやでいいの?」彼女のグラスの中身も、さほど減ってはいなかった。

「思ったことをなんでも、教えてください。意外なことがヒントになったりするものですから」

「そうですか? うーん、……」ストローに一瞬口をつけ、それから彼女はすぐ離した。「あ、そうだ。もう一つ理由あった」

「なんでしょう?」

「飲みもん作るのにさ、ミキサーを回してる間、世間話とかするでしょ。そんときの話題が、なんか、キモくて」

「話題が?」

「事故のこと話すんですよ」彼女は眉を険しくし、不満をあらわにした。「二ヶ月前の遊園地の。あの日はここから、よく見えたって——」


 公園のベンチに座り、カーティスはその証言を思い返していた。目の前には歩道があり、その先に芝生が広がって、さらに奥へ進んだところに広場が設けられている。右方へ目を転じれば、木々がひらけた歩道の先に駅前の時計台が見える。

 公園に集まる人々は世代も階級も様々で、それはこの地域の特色あってのことだろう。キルフェアリー署の管内一帯は、高級住宅地と治安の悪い地区とが背中合わせになっている。一駅違いで街のカラーががらりと変わることもある。そして、それらのどの町から見ても、この公園は憩いの場だ。

 表情に気が付いたのか、隣に座るエドワードが横目にちらりと窺ってくる。

「どうかした?」

「いや」口ごもり、ややあって言葉を継ぐ。「この事件にも火事が絡むな、と思っただけだ。大したことじゃない」

「ああ」エドワードは合点がいったらしい。「チャールズのこと?」

「関連があるとは思わないが、嫌な符合だと思ってね。あれは悲惨な事故だった」

「どうしてあんな惨劇を、わざわざ話題にしたのかね」エドワードはぼそりとつぶやく。彼も同じ証言を思い返しているのだろう。

 カーティスの表情も、自然と険しくなってくる。十代の彼女の証言を受け、カーティスは他の被害者にも聴取し、フードトラックの店主が毎回火事に触れていたことを確かめた。必ず事故を話題にするなら、話題にするに足るきっかけがある場所を選んだのではないか。予測をもとに現場を回ると、ある共通点が浮かんだ。事件現場からは、ことごとく、駅前の時計台が見えた——その塔は二ヶ月前の惨劇が起きた広場にある。

 なぜ犯人は執拗に火事を話題にするのだろう? それを思うと、当初の懸念が、さらに色濃くなってくる。

 ターゲットと事件現場を知って真っ先に考えたのは、犯人は『インセル』じゃないかということだった。インセル(InCel)とはインボランタリー・セリベイト(Involuntary Celibate)の略で、それそのものは「非自発的な禁欲主義者」あるいは「不本意な禁欲主義者」の意だ。近年ではこれを自称する者たちや彼らによるコミュニティを指し、社会問題として注目され始めた。

 彼らによれば、自分たちは「遺伝子のくじ引きによる敗者」、社会的弱者﹅﹅﹅﹅﹅であり、恵まれない容姿やコミュニケーション能力のゆえに「不当に」女性に恵まれないという。つまるところ、彼らはセックスがしたいのに、その相手をする女性がないことを「不平等」だと言っているのだ。自分たち男には、女があてがわれるべき﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅なのに、そうではない——それが彼らの主張だ。

女性憎悪犯罪フェミサイドじゃないかって君は言ってたね」エドワードは前を向いたままま言った。「火事に絡んでる可能性も?」

「分からないな。あの火事は、いったん事故と発表されたが、事件捜査の結果は出てない」

 カーティスは慎重に返す。火事が起こった広場はキルフェアリー署の管内に近いが、わずかに外だ。別の署が捜査にあたっており、その詳細は分からない。

 インセルが敵視するのは女性——特に彼らから見て〝遊んでいる〟〝充実している〟ように見える派手な女性——と、〝男性的〟魅力に溢れ〝女性に困らない〟男たちで、それぞれを「ステイシー」「チャド」と称して忌み嫌っている。前者はセックスの相手をしてくれるべきなのに自分に見向きもしない、後者は自分たちに譲られるべき女性を独り占めしている、……というわけだ。

 彼らは主にオンライン上の掲示板などで思想を先鋭化させ、昂じて凶行に及んだケースもある。

 数年前カナダのトロントで起きた無差別テロを皮切りに、同種の事件が世界各地で起こり、表面化し始めた。折しも八月、この国でも銃乱射事件が起きたばかりだ。彼らは必ずしも女性のみを狙っているわけではなく、例えば家族連れや子どもも対象となる。そして、あの火事で犠牲になったのは、まさにその家族連れ。もっと言えば、逃げ遅れた子どもたちだ。

 先走り始めた考えを、カーティスは首を振って留める。怪しむべき理由はあれど、動機についてはまだ想像だ。考察するのは本人の口から聞いたあとでも遅くない。

 そもそも、この件が故意の犯罪かどうかも現時点では不明なのだ。役所に相談が持ち込まれた当初、相談者、つまり被害者たちはみな犯罪を疑うというより公衆衛生的な問題と捉えていた。保健所の監査が入るべき事案じゃないかと思ったわけだ。だが話をするうちに、悪意があったのかもしれないと考えるようになった。複数人がそう思い至るだけの何かはあるにせよ、現段階で物証はない。

 カーティスは前方を見つめ、晩夏の日差しに目を細める。豊かな光を受けて輝く樹々の葉を揺らし、風が吹く。カーティスは鼻先に、微かに、秋の匂いを感じた。



     7



 アデルが青果店の軒先で玉ねぎを眺めていると、背後から声がかかった。いたのは向かいに住む主婦で、気が合うのでたまにお茶をしたりする。と言っても、ここ二ヶ月はほとんど話をしていない。

「今日は全く珍しい天気ね」と彼女は言った。「調子は、どう?」

 軽口の後に続いた言葉は、気遣わしげに響いた。アデルは無理に口角を上げる。もはやそれが本当のものか、それともそのように見せているのか、自分でも判断がつかない。

「悪くないわ。今のとこ関節も無事」

「私はこのまえ腰やっちゃって。そのうち調子のいい日のほうが珍しくなるのかね」

「かもね」

「ああいやだ。今でさえガタがきてんのに……」

 共通の趣味もなく、他の場所での接点もなければ、話題は自ずと年齢なり体調なりの愚痴になる。お互いに子供が健在の頃は、子育ての愚痴を言い合いもしたが、さすがに今は口にできない。少なくとも向こうは。

「そういえば聞いた?」ふと、彼女が言った。「ドーソンさんのこと」

 心臓が跳ねる。アデルは目をそらし、野菜に手を伸ばした。「ええ、まあ」

「橋で見つかったっていう死体、やっぱりあのイアンだそうよ。昨日ニュースに出てたわ」

「私も観た。びっくりね」

「そう? 私は驚かなかった。だっていつか誰かに刺される気がしてたもの。撲殺らしいけど」

「撲殺?」喉が窄まるのを感じる。「ニュースでそこまで言ってた?」

「言ってたわよ、鈍器で殴られたって。やあねえ、あなたほんとに観たの?」

 観たはずだ。耳慣れたジングル、ハキハキとした女性キャスターの声——だが言われてみれば、途中から、動悸で頭がぼうっとして、きちんと理解してなかったかもしれない。それに何より、初めに聞こえた一言ですっかり混乱してしまった。『橋の下で見つかった』——なぜ?

「洗い物しながら聞いてたの」アデルは言った。「あんな巨体を、よく殴ろうと思うね」

「ほんとうにねえ。もっと簡単に殺る方法があった気がするけど。よっぽど頭に来たのか」

 余計なことは言うまい。唇を閉じると、自分の右手に気づく。震えている。抑えようと力を込め、手にしていた玉ねぎを少し潰してしまった。買う気はなかったが、仕方ない。

「ねえ、大丈夫?」彼女はまた眉を寄せる。「震えてるわ」

「平気、なんでもないの。まだ、ちょっとね」

 寂しげに聞こえることを意識して答えた。その途端、じわじわ自己嫌悪が染み出して、ともすると我を失いそうになる。ごまかすように必死に抑える。タオルでそこを押さえ続ければ、壁に滲みが広がっていくのを止められると信じているみたいに——そうね、いま私は、まるで息子の死が原因で〝あるかのように〟振る舞った。これ以上詮索されたくなくて。確かにそう。でもなんでもない。悲しんでいるのは嘘じゃない。私は息子の死を利用してない。そういうわけじゃない。

 そうじゃない。

「ねえ、今度、シチューを作ったげるよ」彼女は言った。「シチュー、嫌いじゃないでしょ?」

「ええ、好きよ。ありがとう」

「嫌いな野菜も、アレルギーもないよね? ね、作るよ。明日にでもさ」

 彼女の言葉で少しだけ、和らぐのが分かった。大きな悲劇に打ちのめされた時、人はあれこれと勝手なことを言うが、たとえ善意でも、こちらに何かを促す言葉はなんであれ心にのしかかる。前を向かなきゃ、外に出なきゃ、何か違うこと考えなきゃ、趣味はないの? 旅行に出てみたら? 何かいい出会い探してみたら?——だが中には数人、様子を窺いながら、彼女のようなことを言う人がいた。迷いながら手を差し伸べる人たち。

 初めの頃はそれさえ苦しかった。というより考える余裕がなかった。だが時が経ってくると、その思いやりは案外と、すんなり沁みた。誰かが気にかけてくれる事実は確かに心を軽くする。気づくだけの、余裕さえあれば。

「ほんとは今日にでも作りたいけど、残念ながらミートパイが余っちゃっててね」

「ミートパイ、焼いたの?」

「そう。調子に乗って作りすぎたね、いい加減食べちゃわないと」

 彼女は隣のジャガイモを手に取り、無造作にいくつかカゴに入れた。知らず目を移す。傾き始めた陽に照らされたジャガイモの山を見て、何かが頭の隅をよぎった。すぐに気がつく。

「こんくらいでいいや。じゃ、またね」

 彼女はいつの間に選んだのか、いくつかの野菜を入れたカゴを掲げて、去っていった。慌てて見送り、また目を戻す。先月の初めだっただろうか。まだ誰ともまともに話せなかった頃。彼が家を訪ねてきた。ポテトで作ったサラダを持って。

 うつろな顔で迎えたのに、彼は表情を変えなかった。神妙な顔で木製のボウルを差し出してくるのが、少しおかしかった。それでも彼が真面目なことは分かった。どうするべきか、この時点でも、まだ悩んでいることも。

「よかったら、食べてください。作りすぎちゃったから」

 考えるまでもない噓だ。それでもアデルはさしたる反応を返せなかった。ぼんやりと、器に手を伸ばす。

「あの、食べなくても、いいので。もし、口に入ったらで」

 受け取ったあとにそう言われ、ようやくアデルは頷いた。

「ええ。……ありがとう、レナート」

 彼は微かにほっとした顔で、会釈を一つし、小走りに去った。屈み気味の高い背が道の向こうへ消えていく。見送るつもりもなかったのに、見えなくなるまで立ち尽くしてしまった。どうやって部屋に戻ったのだっけ。

 それに、あのサラダ。どうしたのだったか。食べたのか、食べられなかったのか。穴の空いたように思い出せない。

 潰してしまった玉ねぎだけ持って、レジへ向かう。そういえば彼もまたもうこの世にはいないのだと、今さら思い当たったことに、アデルは少し気が咎めた。



 近隣への聞き込みを経て一足先に署へ戻ると、ティルダは事件の資料を見直した。関係者の証言や数少ない防犯カメラの映像などを見返していく。もう飽きるほど見ているが、それでも何か思いつくかもしれない。新たな要素が見えてきた今、気づかなかったことに気づく公算もある。

 被害者——イアン・ドーソンは三十二歳。一ヶ月前に亡くなった弟・レナートは五歳下で、ルカはさらにその三つ下だ。父は十年前、勤めていた工場の事故で亡くなっており、一家はその際の補償金をすり減らす形で生活している。イアンは定職につけず、その時々で不規則な日銭を稼いでいたが、自身の飲酒やそれに伴う事件等を思えばむしろ貯金を減らしていただろう。

 次男のレナートは亡くなるまでNPOに勤めていて、主に思春期の少年少女たちの精神的ケアに携わっていた。特に性的マイノリティの支援に力を入れている団体だ。三男のルカは大学で文学を専攻中、資料にはテーマとしている作家や作品の名もあるが、あまり事件と関係があるようには思えなかった。レナートの自殺の原因については、現在に至るまで不明。

 息をつき、部屋を見回す。壁三方に設けられたラックに収まる分はともかく、デスク周りに置かれた資料は所定の位置から溢れかえっている。ティルダもカーティス同様に真面目——もっと言えば四角四面な人物と思われがちだが、案外だらしない人間であるというのが自己認識だ。例えばカーティスの個室などは、半ば強迫的なまでに整理整頓されている。仮に盗人が入っても、ものの数秒でお目当ての品を見つけ出すことができるだろう。

 気が散っているのを感じ、資料に目を戻す。ティルダが捜査の当初から引っ掛かっているのは、ルカが当日辿ったルートだった。事件当夜、ルカは二三時すぎに家を出て、二三時四分に一台目のカメラに写っている。おそらく酒場に着いたのは二三時一〇分前後だ。それから二台目の防犯カメラに写ったのが二三時三二分で、兄を探して歩いた時間は約二十分ということになる。

 彼は翌日に発覚した殺人の衝撃もあり、兄を探した経路について詳しいことは覚えていないと言い、この間どこを探し回ったのかはっきりとは示していない。部分部分は言及しているものの、正確なルートを描けないのは無理からぬことと思える。だがティルダには彼が意図的に明示を避けているような気がした。何かを隠している。いったい何を?

 動機はともかく、犯行が可能かどうかで言うと、彼が兄を殺したとは正直なところ考えにくい。殺害に関与していたとしても実行犯ではないはずだ。事件当日の彼の動きには空白がいくつもあるが、彼に巨漢の兄を吊り上げ首を吊らせるような真似が果たしてできたものだろうか。彼は決して痩身でないが、筋肉質とも言い難く、また大柄なわけでもない。怒りや憎しみがあったにしても、他の手段があったはず。

 二台目のカメラの映像を見直す。映像の中でルカは、どこか疲れた様子で、俯きがちに歩み去っている。途中で大きく息をしていて、苛立っているようにも、呆れているようにもとれる。あまり鮮明な映像でないから、表情まではよくわからない。

 カメラの画角は狭く、写っているのもわずか三秒だ。その三秒を繰り返し眺める。何か違和感がある。だが、その正体まではつかみきれない。五回目の再生で、画面を止めた。

 鼻息をつき、こめかみをもみこむ。ここにこだわっても仕方がないか? まずは実行犯を探さないことには、共犯の可能性を探るにしても材料が足りない。

 ティルダはしばらく目を閉じ、それから別のファイルを手に取る。ルカの証言を聞いてから部下にまとめてもらったファイルだ。火事の概要と、ドーソン家周辺の関係者のリストが束ねられている——この気の重さはなんだろう。捜査進展の期待と裏腹に、真相を見たくないような思いが胸の中を渦巻いている。もし、イアン・ドーソンが火事の怨恨で殺害されたなら、火事で誰かを失った者が、しなくていい罪を犯したことになる。他の可能性も考えられるがその線が濃いのは間違いない。大切なひとを喪くした悲嘆に、罪の重さまで加わるとしたら、それは、あまりにやるせない。

 ふと、ジャケットで携帯が震えた。取り出してみるとエイプリルからで、聴き込みはあらかた終わったが、捜査方針に変化がないなら、このまま終業まで捜査を続けるという。その方針で構わないと返事をして、ティルダは別の書類を取った。この件については、明日の朝伝えることにしよう。



 母の嗚咽が聞こえる。

 ルカは静かに部屋を出て、リビングのソファに寝そべった。天井を見つめ、耳を澄ます。毎晩のように彼女は泣き、その声に自分は起き出して、震える背をさすりにいく。母の痛みは分かっている。愛する人の悲しみは自分にとってもちろん苦痛だ。だが今は、まだ、上へあがる気になれない。

 二階から漏れる涙声のほかは、夜の静寂しじまがあるだけだ。だが目立つ音が遠のけば、また別の音に気づくだけで、静寂はそれ自体ひそかに鳴っているような気がする。ルカは試しに目を閉じる。やはりそこに暗闇はなく、光の粒がちらちらと浮かぶ。

 自分はどの程度、疑われているのだろう。頻繁な来訪や、遠回しな探り方からして、今のところ他に容疑者がいないといったところか。聞かれるまで言わないつもりでいたが、いつまでも容疑者リストの先頭にいるのも癪で、火事については言うことにした。まだ、言っていないことはたくさんある。だがそれを調べるのが警察だろう。俺の仕事じゃない。

 母が少し噎せ、息を詰まらせた。母の泣き声は、もしかして自分を呼ぶために立てられているのではないかと、たまに疑念が胸をよぎる。だとしても母に罪はないが、そういうことを考えるたび微かに己が嫌になる。自分の疑い深さも、冷たさも、誰に言われるまでもない。生まれたときから知っている。

 目を閉じたまま息を吐いた。死んだ兄のことを考える。

 長兄のイアンについて、思い出したいことなんてほぼない。それでも死なれてしまうと、少なからず、良い思い出が浮かんでくる。そんなものを今さら掘り起こしても得になることは一つもない。彼を許したくもないし、今さら別の可能性を見出すなんてまっぴらだ。どのみち死んでしまったのだ。考えたって意味はない。

 レナートに関しても同じだ。もちろん彼に対しては、恨む気持ちはないけれど。ただ勝手に自殺したことに憤りがないわけじゃない、俺やイアンはともかく、なぜ、母が悲しむと知っていてそんな道を選べたのだろう。彼の死後、母は彼の部屋を片付けることをずっと拒否していた。遺体を運び出したあと、二度目に部屋のドアを開けたのはほとんど先週だった。イアンが姿を消す、三日前。

 兄はどうして、首を吊ったんだろう。

 母は初め、イアンを責めた。レナートが死んだのは、イアンが病院からこの家に戻ってきてすぐのことだから、結びつけたくなるのもわかる。だが正直、母自身、イアンのせいで死んだのだとは思っていなかったと思う。愛息子を失った無念のぶつけどころがなく、いちばん最初に目についたものを的にしただけだ。イアンの横暴は、今に始まったことじゃない。イアンがしばらく家を空けたことも、これより前に幾度かあった。

 ルカの脳裏には別の理由が浮かんでいる。だが、それとて確証はない。

 自分はあまりいい弟ではなかっただろうか、——悩みがあるとして、自分だったら自分に相談する気にはなれない。隠そうとしても、どこかでそれを面倒がっているのが透けているはずだ。いつも相手にうまく同情できず、対応に困ってしまう。その困惑が億劫になって打ち明け話自体を避ける。ルカの内心を、機微に聡かったレナートは傍で見抜いていただろう。そんな弟に心の痛みを打ち明けようとは思うまい。

 すすり泣きが二階から響く。そろそろ、行ってやらないと。

 ルカはようやく目を開けた。気合を入れて身を起こす。ソファから降り、階段へ向かう。どんなに気を遣っても、古い階段はみしみしと軋む。怪物の悲鳴を思わせる音を聞きながら、一歩ずつ上がる。

 寝室の前に立った。泣き声が少し止んでいる。

 数秒の間のあと、結局、ルカは扉をノックした。三回、手早く打つと、中から返事がくる。扉をあけ、声をかけた。

「大丈夫? 母さん」

「ああ、ルカ」母が顔を見せる。目元が腫れている。「ごめんね、ごめんね……」

「謝らないで。眠れない?」

「ルカ、」両手を広げる母のもとへ、ルカは小走りに駆けた。「おお、ルカ。起こしたかい?」

「起きてたよ。母さん、大丈夫?」

「ごめんよ。ごめんね。独りでいると、考えてしまう、……」母の目から涙が溢れ、抱き寄せたルカの首筋を濡らす。

「兄さんたちのこと?」

 母は頷いた。「どうして死んじゃったんだろう。どうしてかね、ルカ。どうしてだろう」

 その背をゆっくりさすりながら、ルカは考える。二人はどうして死んだのか。レナートはどうして首を吊り、イアンはどうして、殺されたのか。

「どうして、」母の喉が震えた。「どうして、あんなこと、言っちまったんだろう。ルカ、……あの子のせいだなんて。私、そんなこと思っちゃいなかったのに、どうして、どうしてあんなこと、イアンに……」

 肩口が濡れそぼるのを感じながら、ルカは考えた。どうして、——少なくとも、そのうちのひとつはもう見当がついている。真実のすべてではなくとも、ほとんど大部分を俺は知っている。あの夜からずっと。

 でもね、母さん。理由なんて知れたところで、楽にはなれない。俺も、貴女も。

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