九月十七日



    8



    九月十七日 火曜日


 翌朝、ティルダが出勤すると、すぐに靴音が寄ってきた。

「警部」振り向くとエイプリルは手帳を開いたまま近づいてくる。「収穫は?」

「そういうことは普通、私があなたに聞くものだと思うけれど。そっちはどう?」

「あるっちゃありましたよ。悪くない話です」

 エイプリルは手帳に目を落とし、該当のメモを爪で叩いた。

「あの火事の出火原因について、噂はあれこれあったようです。大抵は屋台のどれかが原因だという単純な推測で、中には客やら店員やらがタバコの不始末をしたからだとか、遊園地側が機材のトラブルを隠蔽してるとかもありました」

「そう。イアンが誤解を受けるとしたら、屋台やタバコの関係かしら。彼は喫煙者よね?」

「そうです。割とあり得ますよね。イアンが当日手伝ったっていうシャシリク(東欧の串焼き料理)の店主に聞いたところ、当日の出店位置はサーカスのテントに近かったそうです。火元は全然別ですけど、被害が大きかったのはそこでしたから。いい加減な誤解が出回ったかも」

 となると、容疑者はまた増える。だが見込みもあるだろう。火事の関係者や、被害者の遺族に話を聞かなくてはならない。特にドーソン家の周辺住民は疑いが濃厚だ。他の恨みも相まって、犯行に至ったかもしれない。

「当面は筋を二つに絞る」あとで正式にチームに告げるつもりだが、ひとまずこの場でティルダは言った。「ルカと、火事の関係者。他は一旦置いておく」

「了解です。私は火事を?」

「そうね、引き続きお願い。私はドーソン家について調べる。地域が同じだし、どこかで繋がるかもしれない」

 火事の線が有力だ、と思う一方、どうしても首を吊られていたことが引っかかる。これがドーソン家の次男、レナートの死と関係ないとはティルダには思えなかった。かと言って火事と次男の死、それらがどのように関わり得るか現時点では見当もつかない。

「あと、貴女には先に言っとく」コーヒーメーカーの前へ移動しつつ、ティルダは小さく囁いた。「司法解剖の詳細が来たの」

「へえ。やっとですか」エイプリルは呆れた声だ。とはいえ順番待ちの列の長さはよく分かっている。「なんかありました?」

「顔面の殴打痕の他に、後頭部の傷痕があったでしょう。覚えてる?」

「当たり前ですよ。殴って気絶させて、それから橋に運んだんでしょう?」

「だと思う。でも少し妙なの」

「妙? 何が」

「傷の深さが違いすぎる。後頭部のほうは顔に比べて、あまりに弱々しすぎるそうよ」

「ふぅん」相槌を打つと、エイプリルは視線を宙へ投げた。「あれですかね。痛めつけるつもりで、死なない程度にしといたとか?」

「かもね。あるいは、——」

 言いかけたそのとき、携帯が鳴った。断って画面を見る。思わず、顔をしかめた。

「どうしたんすか、警部」

「いえ、ちょっと……やっぱり出るわ。少し待って」

 短い嘆息を吐き、ティルダは足早に廊下へ出た。鳴り続ける画面をタップし、通話に出る。

「母さん。どうかした?」

《ごめんね、仕事中?》

 訊くまでもなく分かるはず、——ティルダは思ったが、ややあって考え直す。自分の勤務スケジュールは決してカレンダー通りじゃない。

「ええ。何か大事な用事? そしたら掛け直すけど」

《いや、そうじゃない。すぐ終わるよ。今週末は、うちに来るの?》

 そのうち決めて連絡を入れようと思っていたことだ。ずっと先送りにしていた。しかし確かに、向こうに厄介になるなら、そろそろ伝えておいたほうがいい。

 一瞬の逡巡ののち、ティルダは言った。「ええ、そうする。迷惑じゃない?」

《あんたが家に帰ってくるのに何が迷惑なのよ》母は笑い、それから付け足した。《チキンを焼こうか。今も好き?》

「一、二年で好みは変わらないわ。幸いチキンがトラウマになるような案件も担当してない」

《そりゃようござんした。ええ、じゃあ、準備しとくね》

「ありがとう。週末に」

《週末に》

 通話が切れる。スマートフォンをポケットにしまいながら、またため息がこぼれる。

 母のことが嫌いなわけじゃない。一緒にいるのが楽しくないわけでも、母の誕生日——今週の土曜——を祝いたくないわけでもない。既にプレゼントは買ってあるし、封を開けたときの彼女の顔が直接見られるのは嬉しかった。

 だが彼女の家にいる間、ティルダは秘密を抱えることになる。そこに話題が及ばぬことを願い、しかし確実にどこかの時点で話にのぼることは分かっている。その憂鬱を思うと、気が沈む。

 それは別の憂い、別の不満、別の鬱憤と不可分だ。その憂鬱を思うということは、他のものも浮かんでくるということ。

「簡単じゃないわね」

 知らず漏らした感慨を、向こうから来た男が拾った。

「どうかした?」

 上から降ってきた声に目を向ける。エドワードは、今にも天井につくのではないかと錯覚させる長身を軽く屈めていた。

「いえ、ちょっとね。週末、実家に帰るの」

「そうかい。憂鬱?」

「ええ、まあ。……正直」

「ごめん、つい。そういう顔してたから」私事に立ち入ったことに対して彼はそう言い、軽く手を振った。「僕でよけりゃあ、愚痴くらい聞くけど」

「いいの、大丈夫。仲が悪いわけでもないし。ただ少し気が重いのよ、……人間同士だから、そういったことはあるものでしょう」

 エドワードは訳知り顔に頷いた。「そうだな。ま、ほどほどにね」

 オフィスへ戻る背を見送る。ほどほどに、か。彼らしい言葉だ。

 根拠はないが、おそらく彼ら——エドワードとカーティスは、ティルダの持つ私的な関係を知っているのではないかと思う。それでいて、彼らは特別、そこに意識を向ける様子もない。邪推に等しいと分かってはいても、何か理由があるのだろうかと勘繰ってしまう。いつか話してみたい気もするが、そんな必要も機会も、職場の同僚にありはしない。

 数秒待って、ティルダもオフィスに戻った。エイプリルが手持ち無沙汰にしている。

「待たせたわね、ごめんなさい」

「いいですけど。誰だったんですか?」

「ちょっと母からね。大した用じゃない」

「ならよかったです。んで、『あるいは』って?」

 言われて思い出した。外傷の話をしていたのだ。

「後頭部を殴ったのは別人、ってことも考えられる。単独犯ではないのかも」

「なるほど」エイプリルは唸った。「複数犯か。めんどくさ、……でも、確かにそうですね。あんなデカブツ、一人で殺るのは……」

 ティルダは浅く頷いた。暴れ始めれば誰にも手がつけられなかったような人間を、一人で襲うのは度胸が要る。恨みなら方々から買っているわけだから、仲間を見つけようと考えるのは自然な発想だ。

 一方で、関わる人間を増やせば、当然事後のリスクも増える。そもそも遺体の血中アルコール濃度は、彼が死亡の直前に泥酔していたことを示しており、またそのように酔い潰れるのは彼にとっては日常だった。習慣を知っていれば、単独で襲うのも無理難題というわけじゃない。

「今の段階では何とも言えないわね。ただ、捜査を進める上で、可能性は考慮しなくては」

「いままでに比べりゃマシですね」エイプリルは手帳を閉じた。「ひとまずセンは見えてきた」

 もうそろそろ事件発覚から一週間が経つというのに、まだこんな段階かと思うとティルダはいささか気が重くなった。とはいえ、自分は鮮やかに早期解決ができるタイプではない。地道に一歩ずつ辿るだけだ。華のない上司で申し訳ないが、しばらく付き合ってもらうしかない。

「苦労かけるわね」

 呟くと、エイプリルは怪訝な顔をした。

「警部、その手のことよく言いますけど。必要ないですよ」

「え?」

「ラクがしたくて刑事なったんじゃないっすから。んじゃ、行ってきます」

 言うだけ言って踵を返し、エイプリルはオフィスを出ていった。遠ざかる背を呆然と見送る。残されたティルダの口元に、やがて、微かな笑みが浮かんだ。



 公園の西側。家族連れで賑わう広場のひとつを見張れる位置に停車し、カーティスとエドワードは張り込みをしていた。当然、この広場からも駅の時計台が視認できる。

 カーティスのチームは四班に分かれ、それぞれ候補地に陣取っている。候補地の炙り出しは捜査支援部が行ってくれた。駅周辺の建物やこの公園の植生について、公的なデータがあったためか難しい処理ではなかったようで、依頼したのは先週末だが昨日の朝には結果が出た。ミーティングで段取りと分担を決め、今こうして張り込んでいる。

 現在時刻は正午を回ったところ。被害者たちの証言によれば、この時間より早くフードトラックが現れることはないはずだ。また、被害があった曜日は火・金・日。つまり今日、フードトラックが現れる公算はある。捜査支援部が出した候補地のうち、より狙われる可能性が高いと思われる四箇所をミーティングで絞り込んだわけだが、今日が空振りだったとしても週末を待てばいいだけだ。その際には応援を頼むこともできるかもしれない。

 不審車両を待ち構えながら、運転席のエドワードに目をやる。頭の片隅に、彼が今朝オフィスで立ち聞きしたという話が浮かんで消えなかった。ティルダの事件とこちらの事件とは恐らく関係がなかろうが、こうして二ヶ月前の惨事が捜査線上に浮かんでくると、エドワードが持ち込んできた調査の件が思い起こされる。フードトラックの事件と火事とのつながりは今のところ確証がないが、少なくとも残りの二つは火事を仲立ちに繋がるかもしれない。

 視線に気づいているだろうに、エドワードは窓外を眺めるばかりだ。カーティスはためらい、しかし、結局口を開いた。

「チャールズ氏のことだが——」

「それ、僕も考えてた」視線を合わせず彼は言った。「火事に関わった人間の事件が一時期に頻発するっていうのは、どうも気になる」

「そうだよな」カーティスは息をつき、一拍おいて身を乗り出す。「ティルダの事件も、火事が絡んでるんだろ」

「らしいね。被害者が火事の日に現場にいたとか」エドワードはサイドウィンドウに肘をつく。「チャーリーと彼、面識あったと思う?」

「地域は近いから、あってもおかしくない。コミュニティは違うだろうけど」

「そうだね。……次の休日は、彼の母校にでも行くか。何か手がかりがあるかも」

 エドワードの言葉にカーティスは頷く。事件の日付も気にかかるのだ。

 アーリユース警部の事件が発覚したのは先週の木曜。その時点で死後二日以上が経過していると見られていた。イアン・ドーソンが最後に目撃されたのは行きつけの酒場で、正確な時刻はわからないが月曜夜の十一時ごろ。殺害されたのは月曜から火曜にかけての夜中と見られている。チャールズ・オルコットの自殺は、まさにその、火曜の朝だ。

 この狭い地域で、同時期に二人が死んだというだけでも、奇妙な偶然だ。そこに火事の関係者という共通点が加われば、偶然が必然である可能性が浮上する。とはいえ、あまりにも根拠がない。

「チャールズ氏の自殺の理由が、イアンを殺害したからだということは、ありえるかな」

 現時点では単なる思いつきだ。他の人間の前では口にできない。しかし彼なら、このいい加減な筋読みにどの程度妥当性があるか、一緒に考慮してくれるだろう。横目に窺うと、彼はまだ窓外を見ている。

「ありうるかどうかでいえば、ないとは言えないな」エドワードは慎重に答えた。

「だが、そこまで〝濃い〟線ではない?」

「あくまで僕の感覚だよ? 僕はそこまで彼と親しくない。ざっと性格を知ってるくらいで、プロファイリングができる立場じゃない」

「お前のイメージからすると、彼はイアンを殺すタイプではないのか?」

「いや」答える声は、心なしか冷ややかだ。「殺しかねないと思う。ただ……」

「ただ?」

「彼が、殺したくらいで﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅死ぬ気がしない」

 カーティスは口をつぐんだ。同時に、初めにこの件を聞いた時、彼がチャールズ・オルコットを評した言葉が思い返される——『自分が間違っている可能性に、あまり気がつかないタイプ』。

「チャーリーがイアンを殺すなら、それが正しいと信じてのことだろ。だったら、私刑を加えたことに恥も罪悪感も覚えちゃいないはずだ。殺したあと、堂々と自首して、しかるべき罰は甘んじて受ける、とでも思っていそうだよ。自殺なんてする気がしない」

「お前、あんまり好きじゃないだろ。彼のこと」思わず口を挟む。

「まあね。好きではない。嫌いってほどではないが」

 彼がチャールズを語る口ぶりからそれは容易に察せられたが、そこでカーティスは気に食わないことを思い出した。

「君、チャールズ氏と僕が、似ているって言ってなかった?」

 勝手に声が不満げになる。態度が少し崩れているのは分かっていたが、止められない。

 エドワードはやっとこちらを向くと、おかしそうに笑った。

「拗ねるなよ。意味するところはわかるだろ? チャーリーの中の嫌いな部分と、君の中の彼と似ている部分は全く別だ」

「そうかなあ。僕に似て正義感の強いまっすぐなやつ、って言ったろう。自分が間違ってることにあまり気づけないというのは、正義感と不可分なのじゃない?」

「彼の場合はね。でも君は違う。君はそれが正義感と不可分だと気づいているんだろ。君は常に善く在ろうと努力している」前を向きながら付け足す。「いつも、間近で見てる」

 不満は残る。だがここで駄々をこねても仕様がない。そもそも勤務中だ。

「そういうことにしておいてやる。あまり納得はいかないが」

 不貞腐れつつ外に目を向けた。隣で笑う親友を視界の端に捉えつつ、カーティスは思いを巡らす。

 チャールズがイアンを殺すとしたら、それはいかなる理由でだろう? 火事の犯人と誤認したのか。だが事故の実際の現場をよく知っているはずの彼が、たとえ噂があったとしてもそんな誤認をするだろうか。あるいは本当に、イアン・ドーソンに事故の一因があった? その辺りの詳細は、カーティスの耳には入っていない。

 彼が残したたった一行の遺書は、自分が間違いを犯したことを語っている。彼は、何を間違えたのか。何を、「間違いだ」と思ったのか。

「けどまあ、関係がある可能性はだいぶ〝濃い〟気がするね。本腰入れようか」気を取り直したようにエドワードは言った。

「そうだな。ティルダにも話したほうがいいかもしれない」

「せっかく線が絞れてきたところに、混乱させたくはないけどね。もすこし何か出てきたら……」

 エドワードが言葉を濁すと同時、無線が入った。カーティスは素早く向き直る。

『ダンです! 聞こえますか?』

「こちらシザーフィールド。どうした?」

『そっち行きました!』

「は?」

『だから、犯人す! 今デッカー警部補が追いかけてます』

 カーティスは隣に目をやった。エドワードは一瞬視線を合わせると、無線に手を伸ばす。

「ダン、状況を教えてくれる? 犯人てなんだい」

『俺らの張り込みのとこに、特徴の一致するバンが入ってきたんですよ。型と色が一緒で、例のごとく名前は違いましたが』

 名前というのは販売車の掲げる店としての名前のことだ。バンの側面にペイントされているはずだが、被害者の証言によれば、どうやら律儀に毎度店名を変えていたらしい。と言っても他の装飾はなんら変わっていないから、特定は容易だが。

『それで俺とデッカー警部補で話を聞きに行って。最初はバンに乗ったままでしたが、降りてくるように頼んだら、従うそぶりを見せたあと急に発進したんです! 運転席に移動して』

「なるほど。ということは参考人は車で逃走してるのか」

『あっいえ、少し走って遠ざかったんですけど、歩行者やら障害物やらに阻まれて、バンから飛びでて走り出しました。方向的にそっちなんです、挟み撃ちにできんじゃないかと』

 いろいろ聞きたいことはある。なぜデッカー警部補より歳若のお前が走っていないのか、「方向的にそっち」とはどの程度の精度で言っているのか、そもそも参考人の特徴はないのか。だがその全て彼から聞くより、参考人を追跡中のデッカーから聞いたほうが早い。

「分かった。こちらでも追いかける」

 カーティスは応答のスイッチを一旦離した。エドワードと目が合う。

「カート、かけっこしたい?」

「結構だ」

「はあい。じゃ、いってきまーす」

 エドワードはシートベルトを外しながら答え、降り際に挿さったままの車のキーを指さした。カーティスは頷き、駆け出すとともに無線で連絡をとる彼の後ろ姿を見送る。車載無線を操作し、再びダンに話しかける。

「エドワードが走って向かってる。俺は車で回り込むから、詳しい状況を教えてくれ」

 マップを脳裏に描きつつ、運転席へ横滑りする。部下の報告をBGMに、カーティスはアクセルを踏んだ。



    9




    二ヶ月前


 なんてこった。

 立ち籠める黒煙と悲鳴。現場はパニックだった。火元へ向かう今も、大勢の観光客が逃げ惑い、チャールズにぶつかっていく。避難指導のスタッフは? 走りながら見回すが、それらしき影はない。火の回り自体はさほどじゃないが、あちこちで避難者同士が衝突し、倒れ、混乱が生じていた。声を限りに子の名を叫ぶ親たちがそこら中にいて、この惨状の要因が察せられる。誘導が全くされていない。

 最も被害が大きいと見られているのはサーカスのテントで、当然、避難指示が出ている気配はない。狭く暗い空間で、恐らく観客たちは外よりもパニックに陥っただろう。仮設のテントは造りが甘く、内部で鉄骨が崩れているとすれば——明るい想像はできない。

「チャーリー! レスキューを頼む!」

 ホースを抱えて駆け抜けていく同僚がそう呼びかけた。大声で応え、テントに直進する。その場に投げ置いたホースを別の同僚が拾っていく。テントには火が移っているが、間も無く同僚が消し止めるはずだ。

 黒一色の円錐形はどこが入り口かわからない。それは中も外も同じだろう。明かりが欲しい。

「レスキュー隊です!」

 一人、中から飛び出してきた観客のおかげで入り口がわかった。声を上げながら駆け寄り、中へ入ってもう一度叫ぶ。照明がいくつも割れてガラスが散乱していた。かろうじて残った数個のランプが光源となっているものの、全体に暗く、煙で視界が悪い。鉄骨はやはり落ちていて、下敷きになった者もいる。

 消防隊がここへ来るまでに、今逃げ遅れている者はどのくらい煙を吸っただろう。まず息のある者は手当たり次第外へ運び出し、ただちに救命行為の必要な者——心肺停止状態の者などをどうするか考えなくては。チャールズはまず自分に一番近い場所に倒れている少年へ駆け寄った。意識がない、歩行不可能。口元に手を当てる。自発呼吸なし。

 そこまで確かめたとき、うめき声が聞こえた。

 声の方向に目を向ける。鉄骨の下に男がいた。男に覆いかぶさっている鉄骨は壁につかえて、倒れ切ってはいなかったが、この状況でいつ崩れるかは分からない。男は微かにだが、意識があるようだった。大柄な体躯が鉄骨に挟まれ、這い出せなくなっている。救助にそこまで時間がかかる状況ではなさそうだが、鉄骨が倒れてしまえば、どうなるか分からない。

 気道を確保して救命にかかれば、目の前の少年は助かる可能性がまだある。しかし所要時間は相当なものだ。なら鉄骨の男が先か。駆け出そうと上げかけた腰が、また止まる。この男、どこかで——

 誰だか分かった。その瞬間、強い眩暈がした。

 知っている。この男! こいつのせいでどれほどの人間が迷惑しているか。チャールズの知る限り、彼について言及する際、彼を庇う者は一人もいない。それをおかしいとも思わなかった。だって〝彼〟でさえ、困ったように眉根を下げるだけなのだ。こいつが助かることを望んで待っている人などいるだろうか。このままいなくなったほうが、助かる人は多いんじゃないか?


 俺がここで見殺しにすれば、〝彼〟だって楽になるんじゃないか?



     ◆



 勘弁してくれ——エドワードは胸中で、ここ二時間のうちにとうとう五回目となった台詞をぼやく。フードトラックによる異物混入事件の被疑者は無事に逮捕され、現在取調室で退屈そうに頬を掻いているが、エドワードは隣に座る相棒にヒヤヒヤし通しだ。確かに、カーティスの心境は察するに余りある。被疑者が取調室で語ったことといえば、事前の予測通りの犯行動機だった。

「オフィスからほんの五分のスタバに行くのを嫌がって、俺を自転車でパシらせてフラペチーノなんか運ばせるヤツらが、昼間から公園でチャラついた事をしてるから、俺がお灸を据えてやったんだ。バカみたいな飲みモン飲んでアホみたいに写真撮ってスカスカのインスタグラムにあげて《いいね》の数で悦に浸るやつらが、マヌケ面下げて買いに来る! 下剤入りとも知らずにな」

 動機というのは結局、それ以上でも以下でもなかった。労働者としての被疑者の境遇には考えるべき点もある。だが彼が下剤入りのジュースを渡した相手というのは、十代の少女から子連れの母親、果ては老婦人まで、女性であるという一点を除いて無差別であった。どういう理屈を付けたところで、ミソジニーを正当化しているだけとしか思えない。

 この国の取り調べ法はかねてから確立されていて、PEACEモデルと呼ばれているが、要するに被疑者に対して好意的な態度を取り、ひとまずなんでも話させてみる。その内容になんらかの矛盾があれば説明を求め、都度吟味していく、というものだ。だから被疑者が聞いてられないようなふざけたことを吐かし続けても、あくまで親身に、協力的に接さなくてはならない。

 やってられない。それはよく分かる。心底怒りを覚えるのも。

 だが、——エドワードはマジックミラーの前で、パイプ椅子に腰掛けている相棒をちらりと見遣る。彼はミラーの向こうの被疑者を見据え、感情の窺えない真っ青な目を向けている。だが組んだ脚に置かれた右手が、忙しなく膝を叩いていることにエドワードはとっくに気がついていた。

 何を考えているか、容易に想像がつく。だからそれを言わせてはならない。

「それにしても、」エドワードは慎重に口を開いた。「薄っぺらな犯行動機だ」

「うん」彼は静かに答える。「火事についても、酷い言いようだった」

 思い返して、気が滅入る。逮捕のきっかけは、被疑者がドリンクを売る際に火事を話題にしたという被害者たちの証言だったから、当然本人に対しても確認をとることになる。異物混入についてあっさりと吐いて、弁護士はいらないとまで豪語した被疑者もさすがにはっきりしたことは言わなかったが、それでも彼は自分の関与を匂わせた。しかしそれ以前に、カーティスが指しているのは火事に対する彼のコメントだろう。

「『ガキが大勢死んだらしいな。俺は火事とは関係ないが、偉そうに母親ぶってるやつらが痛い目見たならいい気味だ』」

 カーティスがそっくり、被疑者の発言をなぞる。エドワードはまたしてもおくびが出そうになる。本人の口から聞いた時にも同じ思いをしたものだ。

「信じ難いね、ホント。そこまでの敵意はどこから来るやら」

「見当違いも甚だしい」語調と裏腹に、澄んだ声。「どこから指摘したらいいのか、分からない」

 エドワードは頷いた。同時にうっすら緊張する。今の彼の口調は、明らかに、〝よそゆき〟のものじゃない。

 エドワードもカーティスも、恐らくは他の人間がやらないようなことをしている。彼は職務を果たすため、自分は日常生活を上手く送るために、全く別とは言わないまでもかなり違った顔を演じている。共感性が高く、柔和な少年だったカーティスは、刑事事件を追うリーダーとして冷徹な顔を必要とし、そうした振る舞いは彼自身の心の制御にも役立った。だが本来の彼は、言うなれば、もっと直情的なのだ。他人に深く心を寄せるぶん、傷つける者への怒りも深い。

 それは彼の美点でもあるが、一線を越えかねない激情に至ることもある。当然ながらエドワードは、彼に罪に等しい真似をさせたくはなかった。もう二度と。

「でもさ、」と、ゆっくり言葉を継ぐ。「彼のああいう有様っていうのは、どこまで彼の責任なんだろ」

 間が空く。彼の瞳がおもむろに、被疑者から逸れて、エドワードを向いた。

「僕はよく思うんだけど、例えば僕らはこうして話して考えることができるじゃない? 自分の感情を整理して原因を分析したり、シミュレーションして理解しようとしたり、体系的に捉えたりしている。でも、これってもしかして、特殊技能なのかもしれないと思うことがある。誰しもに当たり前にできることじゃないのかもってね」

「……俺たちが刑事だから、といった意味でもなさそうだな」

「うん。もっと言ってしまえば、『思考する』ってことそのものが、万人に与えられたギフトじゃないのかもしれないってことだ」エドワードは、話しながら考える。「怠慢だとか逃げだとか、心構えの問題じゃなくてさ。根気強くモノを考えるって、どうしてもできない、するのが難しい、不可能だって人はいるんじゃないかな」

 カーティスは答えなかった。まだ、話を聞いていたいらしい。

「それが例えば性質であって向き不向きの話だとしたら、そこを理由に僕らが彼らを軽蔑するのはどうなんだろう。彼の発言は、最悪だし気味悪いしみっともないしホントむかつくよ。でも、つまりさ、彼がそう考えてしまう責任はどこにあるんだってこと。それが彼のせいと言えないとしたら、彼の発言と彼自身とは別にしなくちゃいけないんじゃない?」

 それは彼の『考え』を認めることとは全く別の話だ。彼の言い分や考えは受け入れられないし、受け入れてはならない。差別や暴力を認めてもいい理由などこの世に存在しない。

 ただ、それらを憎むことと、それらを行う人間自体を憎むこととは、本質的には別物なのかもしれないということだ。

「要するに——」カーティスは考え考え、言葉を選んでから応える。

「お前はある意味で、『あいつには責任能力がない』と言いたいのか」

「そうかもね。法規的な意味でなく」

「なるほど」

「でも僕は、突き詰めて言えば、責任能力のある人間ってそもそもいるのか怪しいと思う」

 言葉を受けてカーティスは黙り、それから、長く息をついた。

「——俺もだな」

「もちろん、僕も。……自分の言動や思考に、完璧に責任を取れるだけの能力なんて、人間ごときにあるかな」

「問いじゃないだろう? それは。お前は明確に無いと思ってる」

 カーティスは僅かに破顔した。エドワードも否定しない。

「まあね。僕は懐疑的なんだ」

「拗ねる資格はなかったな」カーティスがぽつりと言った。「お前の言う通りだ。俺はもう少し、自分を疑ったほうがいい」

「……責任はないと、言ったばかりだぜ」

 言いたいことは既に車内で言ったおいたから、いまさら重ねはしない。記憶力のいい彼のことだ。言われたことは、覚えているだろう。

「彼の処遇だが」

 カーティスは居住まいを正した。声色も元に戻っている。

「期限をどちらで切る?」

 この国の司法制度では、通常被疑者を拘束できるのは逮捕から二十四時間。殺人や強姦などの重大犯罪であれば三十六時間が認められる。今回はその場で逃走されたため急な逮捕となってしまったが、現時点での彼の罪状は前者に当たり、今後フードトラックや被害者の証言から証拠固めは容易に済むだろう。明日には起訴が可能なはずだ。

 だが、放火に関してはどうか。本人の自白は取れておらず、証拠が見つかるかどうかも危うい。そもそもほのめかし自体がどこか嘘くさかった。ばかばかしい話だが、一部には重大犯罪を手柄のように捉える者もいる。デカいことをしたヤツと思われたいのだ。

「家宅捜索次第かな。日記だのネットの書き込みだのは容易に見つかりそうだろう? それを判断材料にしよう」

「そうだな。もう少し情報を得てからだ」カーティスは頷く。

 火事への執拗な言及と、場所選び。何かしら理由はあるはずだ。しかし捜査の過程でインセルたちの歪んだ思想に触れるのかと思うと、エドワードは少々憂鬱になる。傷つく立場ではないとしても、気分がいいものなわけはない。

「今のところ、チャールズ氏と彼とに接点はありそうにないな」カーティスが別の話題を振った。

「そうだねえ、住所も離れてる。もしかしたら現場で見たりしてたかもだけど」

「チャールズ氏に聞けたらよかったが。イアン氏とはどうだろう?」

「それも当日に見てた可能性はあるけど、他の要素は思いつかない。今の時点で聞くことじゃないね」

「だな。……やはりチャールズ氏の件は、ティルダの事件が本命か」

 カーティスは膝を叩いていた右の手を口元へやった。眉間にやや皺が寄っている。

「不確かな情報で捜査を妨害するのもなと、ここまで伝えずに来てしまったが……つべこべ言わずに話しておけばよかった」

「タイミング逃しちゃったねえ。とはいえ、イアン氏と火事との関連を僕らが知ったのは今朝なんだぜ」

 カーティスはまだ何か続けようとしたが、やめにしたようだ。「まずは被疑者の調査か。二ヶ月前の火事との関連を検証しなきゃならない」

「そうなるね」

「であれば俺たちが、消防署や地域の学校を訪ねることは不自然じゃないな」

 なるほどな。口には出さずに、エドワードは思った。「かもしれない」

「どこから行く?」

「気になるのは、この前ちゃんと話を聞けなかった同僚くんだねえ。あとは交友関係——でもチャーリーの死が、僕らのそれにしろティルダのにしろ、事件に関わっていると思しい根拠を見つけるのが先かな」

「そうした材料があるほうが、問い詰めるにも都合がいいな」

 カーティスの返答を受けてエドワードは思考する。なら、はじめは学校だ。この地区に生まれ育った者の出身校が異なる可能性は、なくもないがかなり薄いだろう。この周辺の人間が通うことになるセカンダリー・スクールは、距離を考えれば一校しかない。もちろん他の可能性もあれこれとあるが、どれも特殊なケースになる。今は考えなくていい。

 学校へ赴くあいだ、チームの面々には証拠固めや聴取を任せ、その他の捜査からも火事との関連を探ってもらう。今回の事件において本筋はそっちだ。なんにせよ家宅捜索からパソコンなどの解析が進めば、より方針が確かとなるはず。

「俺たちは学校だな」カーティスが呟く。「チームを集めよう。方針を伝える」

 大方似たようなことを考えていたのが窺えて、内心息をついた。彼本人にバレるはずがなくても、この答え合わせはいつも緊張する。

「チャーリーがうまいこと、事件に関わってるといいねえ」エドワードは返した。「ティルダと一緒に捜査できれば、関係者への聴き込みで手間が省ける」

 すると相棒は軽く目を見張り、再びエドワードを見やった。

「確かにそうだ。聞く先は同じか。お前は本当にサボりが上手いな」

 言わんとすることは分かったが、エドワードは少しいじけた。サボりとはなんだ。効率化だろ?



 チームの面々から聞き込みの成果を聞いている最中、カーティスが遠慮がちに話しかけてきた。ティルダひとりへの用件でなく、チーム全体へ伝えたいという。

「こちらの事件の被疑者が、二ヶ月前の火事と関わっている可能性があるんだ。またその関連でもう一つ、個人的に気になっていることがある。裏付けが取れれば共有するが、もしかしたらお互いに連携をとったほうがいいかもしれない」

「気になってることって?」

「君の担当する事件の日付——先週の月曜から火曜未明が犯行時刻だろう? ちょうどその先週の火曜、エドワードの知人が自殺したんだ。彼は消防士だった」

「まあ、」刑事として気にかかる部分と、同僚として気にかかる部分とが同時にあって、ティルダは反応に困った。

「ああ、」カーティスは合点がいった様子で付け加える。

「エドワードについては気にすることはない。なんというか、その……あまり親交はなかったようだ」

「そう、それはひとまず、」よかった、と言っていいものか。「……そのタイミングは確かに気になる。イアンが火事の現場にいたとなれば尚更」

「そうなんだ。それを聞いてもしかして、と。もう少し具体的なものが何か見つかれば追って知らせる。それじゃ、失礼。邪魔したな」

 言うと、彼はすぐに去っていった。背を見送って、エイプリルが呟く。

「マジで〝幸運の青い鳥〟っすね。めっちゃ有力じゃないですか?」

「詳しいことはまだ分からない。ただ、まあ、関わりがあるって期待は持ってしまうわね」

「なんだか癪だなあ」年配の部下がぼやく。「あのおぼっちゃまに助けられるとは……」

「あら、なにが嫌なの」ティルダは細めた目で一瞥した。「彼は優秀な刑事よ。助力を得られて光栄じゃない?」

「ああ、いや、まあ……ええ。頭がいいのは分かってますがね……」

〝できるやつ〟だとは言わないあたりに意地を感じる。ティルダは嘆息し、首を振った。

「ひとまず、彼らと連携する可能性も頭に入れときましょう。今のところは火事の関係者に、イアンを知っている者や彼への恨みがある者がいないかを引き続き探って。チェックするカメラの範囲を広げてもいいでしょう。私はそうね……しばらく待機するわ。どちらにせよルカの帰宅は夜だから」

「了解でーす」

 エイプリルが返し、さっさと背を向ける。他の面子もそれぞれ了承の意を述べて、散っていった。

 残ったティルダは肩で息をつき、それからポケットの手帳を開いた。仮に合同捜査となれば、事件の詳細を共有する必要があるだろう。ただ恐らく、こちらの事件はあちらの事件と繋がってはいない。カーティスが持ち込んだ話の中で重要なのは、彼があくまでプライベートで得ていた情報のほうなのだ。

 それを公的な事件に絡めて〝合同〟捜査をしようというのは、少しは手柄を寄越せということ——いや、これは穿ち過ぎか。どちらにせよ彼らの労力を思えば、それは当然の要求だろう。彼らのチームと合同なら、彼のみならずエドワードやデッカーの助力も受けられる。大きな進展が見込めるはずだ。

 伝え聞くところによると、向こうの事件の被疑者はインセルで、捜査にはおそらくSNSなどネット上を辿る作業が含まれる。であればエイプリルの得意分野だ。ダンもさすが若者で、その辺りは詳しいらしいが——ああ、ダン。彼も加わるのか。果たしてうまくやれるだろうか……

 若干の不安を抱いていると、メッセージアプリの通知音がした。いつのまにサイレントモードが解除されていたのだろう。スラックスのポケットから取り出して確認すると、それは愛しい彼女からの連絡だった。〈今日の夕飯、何がいいかな?〉

 思わず頬が緩むのを感じる。彼女お手製のディナーが食べられる幸福を思えば、多少の憂鬱は目ではない。



 パーシー・セヴァリーはひとり残された取調室で膝を揺すっていた。初めの取り調べに当たった二人は別の刑事が来るからと言って十分ほど前に出ていったが、それからこうして音沙汰もなく待たされている。落ち着かない。どういうつもりだ? なにもない部屋で待たされたら、焦れてくるに決まってるじゃないか——そこまで考え、セヴァリーはハッとする。そうか、これはヤツらの策略だ。あえて犯人を不安にさせたり、イライラさせたりするために放置しておくことがあると〈CSI〉か何かで観た。いや〈クリミナル・マインド〉だっけ? とにかくうちのババアが四六時中、衛星放送で見てる手のやつ。ろくに推理もできないくせに犯罪ものばっか見やがって。おかげで俺は居間のテレビを観れず、部屋にこもってスマートフォンでYouTubeを観るしかなくなる。食事をしてる時くらい好きな番組を観させろというと、二言目には「ここから出てって一人暮らしをしてもいいのよ」だ。「誰の家なのかしら」と言われたこともある。少なくともお前の家じゃない! 家賃を払っているのは親父だ。なのに日中はあの女が我が物顔で威張り散らしてる。

 実家から出てみたことはある。だけど長くは続かなかった。オフィス女の使いっ走りと倉庫整理の日勤とじゃ、ルームシェアで家を探す以外にないが、大抵同居人とうまく行かない。住んでるうちに同居人の中の女が嫌な顔をし出して、他の男を言いくるめて俺の肩身を狭くする。クソ女がクソなのはともかく、丸め込まれる男どもはなんだ? したり顔で女の肩を持ち、「お前が悪いよ」とか言ってくる。どうせ女にいい顔をしたってヤらせてもらえるわけじゃない。でもなにを言っても俺の味方になるやつはいなくて、俺が悪いってことになっちまう。

 俺は懲りた。話の分かるやつは、ネットの中にしかいない。俺の愚痴や不満をぶつけると、みんなが味方になってくれる。それに頭のいいやつが世の中の仕組みを教えてくれて、俺はやっと俺がどんな目に遭っているのかに気がついた。そうだ、当然だ! 他のやつは女を知ってるのに、なんで俺だけに〝知る権利〟がないんだ? なんで俺だけ女に煙たがられ、嫌そうな目で睨まれたり舌打ちされたりしなきゃならない? 俺は何にもしていない。俺はただ、イケてないだけ。

 黒人どころかアジア人にだって彼女がいる。舐めやがって、あいつら。

 外見差別だ! 俺がキモいのは、ぜったい俺のせいじゃないのに。俺がキモくて、ウザくて怪しくてイケてないなんて、俺の努力でどうにかできることじゃない。うまく話ができないのは俺のせいじゃない。金がないんだから服は買えないし、そもそも服なんて買う金があったらポルノに課金できるじゃないか。外見で差別して、俺を遠ざけるなんてひどい。俺は権利を剥奪されてる。男はみんな女と付き合う権利があるはずだ。付き合ってなきゃ人間扱いもされないんだ。俺はダサくてキモいブタで、女に一回も相手にされたことがない童貞。どこに行ってもその扱い。

 最近はフェミニストどもが盛んに女の権利とか言うが、じゃあ俺たちの権利はどうなんだ。どうして誰も俺たちのために闘ってはくれないんだ? 近頃じゃあいつらのせいで、アニメにまでブスが出てくる。お前らブスはいいよな、ブスのくせに守ってもらえてさ。男のブサイクは誰も守ってくれない。俺たちのほうが悲惨じゃないか。偽善者どもめ。分かってくれるのは、掲示板にいる人間だけだ。SNSにも味方はいるが、あそこはフェミニストだのリベラリストだのがウヨウヨしてこちらを狙ってる。すぐに晒し上げて大勢で俺たちを非難する。あいつらこそ加害者だ! 自分で鏡を見てみろってんだ。考えているとまた腹が立つ。アイツらごときが、休日に、ゆったり過ごしたりしやがって。公園で優雅にドリンクだと? ふざけんじゃねえ! そんなもの、放っておけるわけないだろう。正義の鉄槌だ。やってやったんだ。なのに俺はなぜこんな目に遭う? スマホひとつ見せてもらえずに、何もない部屋に閉じ込められて。

 膝の動きが大きくなる。スチール製のデスクを蹴り上げそうになった。

 いつになったら来るんだ! 壁の時計を見る。もう十五分も経っている。これ以上待たせる気なら大声で叫んでやる。人権侵害だ! 俺を追い詰めて何かする気なんだ。やってもないことをやったと言わされるのかもしれない——だが、そこまで考えて、ふと疑問に思った。やったってことになって、俺は何か困ることがあるか﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅

 少し、苛立ちが収まる。そうだ。俺は別に困らない。俺は、英雄になるだけだ。



    10




    一ヶ月前


 うっかり寝過ごして、目が覚めたのが十分前。チャールズは散らかり切った部屋に舌打ちしてクローゼットを開け、なんとかマシな服を見つけようとしていた。——そもそも洗濯してある服がどれなのかイマイチ分からない。ほとんどオフのない稼業では帰ってくる暇もなく、普段は退勤後仲間たちと吞み、酔っ払ったあと宿舎へ行って誰かしらの部屋に上がり込むか署の仮眠室を拝借するか。歩いて帰れる距離といえ、署の近くで飲んだあと自室に戻るのは億劫だ。だから週に一日か稀に二日の休日にしか我が家に帰ってくることはなく、そのためこっちにある服はどれも床に散らばっている。いい歳をして母親に頼るわけにもいかず、かと言って、妹が気を利かせて掃除してくれるわけもない。俺は俺で疲れてるから、面倒なことはつい先延ばしだ。

 今日会うのは男友達で、今更カッコつけたってしょうがないような相手だから、なんなら異臭さえしなきゃ雑な格好でも構わないが、それでも街へ出るのだったら、もしかしたらステキな女の子とすれ違うこともあるかもしれない。そんなときにくたびれた服で〝評価〟されるなんてあり得ない。限界ってもんがあるにしても、できる限りホットなヤツで居たいのが普通だ。……普通じゃないか? とにかく、俺はまだ若い。二年付き合った彼女には、つい先月フラれちまったし。

 彼女を恨んではいない。そりゃもちろん寂しい気持ちはあるが、あっちだって相当寂しかったはずだ。消防士なんてしていると、デートの確約はとてもできない。残業も急な案件も多い。十日も前から予定してたのに、急に行けなくなるなんてザラだ。俺のことが嫌いじゃなくっても、いや、むしろ好きでいてくれるほど、会えない時間が長くなればつらくなるのは当然だ。……それでも、やっぱり、がっかりはしちまう。捨てられたという気分だった。

 しかしフラれたのはなんと三週間も前のことなのだ。この失恋を親友に語って慰めを得ようとしてたのに、お互いの予定の合わなさでとうとう真夏になってしまった。あっちは何度か通話でもするかと言ってくれていたが、ここまできたら会って吞まないと気が済まないと断った。それでスケジュールを工面して時間を決めたら寝過ごしだ。もう家を出ないとまずい。ああ、クソ! まともな服がない。焦っていると携帯が鳴った。慌てて拾う。メッセージだった。

 なんだ。思わず息を吐く。三十分ほど遅れそうだから、悪いけど待ってくれとのこと。

 携帯をまたソファに放り投げ、少し落ち着く。改めてクローゼットを見つつ、もしかして俺を気遣ってこんなことを言ってるんじゃないかと頭の隅で考えた。あいつはそういうところがある。そもそも他のヤツ相手なら、三十分遅れて着くくらいなんてことはないのだが、彼相手では気が咎めてしまう。彼が時間に遅れてくることはほぼあり得ないからだ。

 ハンガーをガチャガチャ鳴らして漁っていると、ふと一着、良さそうなやつが見つかった。どっかの古着屋で前に見つけたロゴTシャツだ。ブランドものではないが、そんなところで背伸びをしたって俺はしがない消防士、騙し討ちしたいわけじゃない。これもどこかの古着屋で買ったリーバイスのジーンズを出して、白地のそれと合わせる。まったく、多少は脚が長くてよかった。なんにせよ真夏に着れる服など組み合わせは限られている。

 あとはアディダスかコンバースを履いてけばなんとかなるだろう。あいつはいっつも洒落てるから、こんなシンプルな格好で行くのは気が引けなくもないが、貧乏なのは変わらないので俺がみすぼらしく見えるでもなし、あまり気にすることもない。似たり寄ったりの古着を着てても、なんとなくサイズ感やら色合いやらのセンスが違う。こういう差ってどこでつくんだ? こまめに手本を探すべきか。

 うかうかしてたら、再設定された待ち合わせ時間にも遅れそうだ。慌てて用意をし、玄関へ向かう。

「兄貴」妹が声をかけてきた。「帰りにお菓子買ってきて」

「分かった。何?」

「えー、適当に」

「それが一番困るって。決まったら知らせろ。じゃな」

 出る直前に靴紐を結び直すため屈んだら、後ろから妹が爪先で小突いてきた。まったく、一体なんのつもりだ。渋い顔で振り返ると妹は笑っていて、そのまま機嫌よくリビングへ向かう。構って欲しかっただけらしい。

 こういうところは、かわいくなくもない。呆れ混じりの息を吐き、俺は急いで、家を飛び出した。



    ◆



 イアン・ドーソンとチャールズ・オルコットの在学年は大きく違う。それは二人の母校へ向かう以前にわかっていたことだ。学年は四年離れているが、接点がないとも限らない。カーティスら二人は、エドワードの運転で目的地へ向かっている。似たような地区には捜査で訪れているのに、カーティスはつい車窓の景色を興味深く眺めてしまう。スケートボードの少年が、車の脇をすり抜けていく。

 街路樹と住宅、あるいは公園に挟まれた狭い道を走っていく。樹々は少しずつ葉の色を変え、夏の終わりを感じさせた。ほとんど外観の変わらない典型的な一軒家がつらつらと並ぶなか、その門前に遊ぶ人々の姿はみな異なっている。やがて校舎につながる細い歩道が見え、エドワードが車を止める。歩道を渡った先が学校だ。

 担任の教師は、チャールズのことをよく覚えていた。

「明るくて活発で、正義感が強くてね。消防士になったと聞きましたが、非常に納得しましたよ」

「彼は在学時、誰かと揉めたりは?」

「特に何も。ああいや、ちょっとした喧嘩とかは、むしろ多いほうでしたがね。納得がいかないことは見逃せない子でしたから」

「誰かから恨まれているとか……あるいは何か後悔をしたりとかは」

「恨み、後悔、……いえ。どちらも、パッと浮かびません」

 応接室に通され、当時の学年名簿とともに紅茶を出してもらった。カーティスが担任だった初老の婦人と話す間、エドワードは名簿をくまなく見ている。念のため在学が被っていた全ての学年の名簿を頼んだから、ファイルはかなり膨大になった。

「ああでも、一回だけ。ちょっと深刻な揉め事になったことはありましたね」

「深刻な?」

「ええ。あの子、ラグビー部だったんですが」かつての担任はいまだにチャーリーを『あの子』と呼んでいる。ずいぶんなお気に入り﹅﹅﹅﹅﹅らしい。「だからグラウンドでよく練習をしてますでしょ」

「そうでしょうね」

「それで偶然、見かけたらしくて。校舎から図書館に行くまでの通路が、うちは外にあるんですよ。そこを歩いている他の生徒が、数人に絡まれているのを……」

「他の生徒?」

「ええ。なんて言ったかしら、名前」彼女は右のこめかみに指を当てた。「大人しくて、勉強ができて。よく本を読んでいて、図書館の常連でね」

「その子はチャールズ氏の知り合いなんですか」

「いえ、知らない子だったそうです。学年が一つ違いましたしね。でも、そのときチャーリーが庇ったことで、親交が生まれたみたいで。それは、ええ、よかったのですけど……」

「それだけでは済まなかった?」

 教師はこめかみから手を離し、深刻そうに眉を顰めた。

「厄介なことになってしまったんです。チャーリーと、そうですね、下の学年のいじめっ子たちが揉めたという話は、けっこう噂になったんですよ。チャーリーはただでさえ目立つ子でしたし、しかも数人のいじめっ子たちを一人で伸したとかって、みんなが話したくなるようなネタがくっついていたもんだから。それで、上級生にまで、その話が伝わってしまって……」

「上級生?」

「ええ、当時……最上級生だったかしらね。本当に彼は……」

「彼?」

 名前を聞こうとした瞬間、コール音が鳴った。教師に断り、電話に出る。

「こちらカーティス」

『警部』デッカー警部補だ。『お時間よろしいですか』

「聴き込み中だ。あまり長くなるようならかけ直す。どうかしたか?」

『パーシー・セヴァリーのスマートフォンなのですが、——なんです。パスコードが分からないと……』

 なるほど。あの企業はたとえ公的な捜査のためであったとしても、社として顧客のデバイスの解錠に応じない。某社製品のユーザーは、もれなく高度なセキュリティに守ってもらえる。

「パスコードか……」

 すると隣のエドワードが顔を上げ、手で合図した。カーティスは素直に端末を渡す。

「もしもし? 僕だよ」エドワードは答えた。「スマホが開かなくて困ってるの?」

 デッカーが何か返答している。「それならね、本人に見せたらいいよ。あ、でも見せる前に、必ず『捜査協力を願います』と言っとけ」

「は?」思わず聞き咎める。嫌な予感がした。「何する気だ?」

「しゃんと顔を上げて、しっかり前を向いてもらえよ」エドワードは構わず話している。「うんそう。それで、『これを見てください』。分かったね? じゃ」

 エドワードはそのまま通話を切った。訝しげな視線に、あっけらかんとした表情で応える。

「Face IDさ。向こうが喜んで協力するなら、何も違反じゃないだろう?」

 どうなんだ? こうしたことを禁じる条文は何かあっただろうか、——自分でも思い付かないくせに、カーティスは不安でいっぱいになる。エドワードは正規の手続きだとか、きちんとした順序といったものをあまり気にしない人間だ。「可能で」「問題ない」しかたなら、簡単にショートカットしてみせる。自分のようにあまりがんじがらめな人間もどうかとは思うが、彼も褒められたものじゃない。仮に刑事でなかったら今ごろ何をしていたか。

「ああ、」ようやくカーティスは我に返った。「すみません。ええと、……そう。最上級生の『彼』というのは?」

 すると、向き直ったばかりだというに、また横からエドワードが腕をつついてきた。眉根を寄せて視線だけ投げると、彼はローテーブルに広げたファイルの一部を指さしている。**年度七年生のクラス名簿。チャールズの一つ下。

 パッと見たところ、顔に覚えはない。だが彼の指が示す名前に、カーティスは目を見張った。

「イアン・ドーソンですよ」教師が言う。「先週、亡くなったっていう」

 相棒の指の先を見つめる——レナート・ドーソン。首を吊った、次男。



    ◆




    一ヶ月前


 待ち合わせのスターバックスで彼はすでに席を取っていた。店内を見回していると、手を上げて、こちらに合図を送ってくる。同じように俺も手を上げ、人をすり抜けながら駆け寄る。

「悪い。待たせちまったな」

「気にしないで。さっき席が空いたとこなんだ」言いながら彼はスマートフォンをしまった。「オーダーしてくるよ。何がいい?」

「いや待て! 俺が取ってくる。何飲む?」

「ええと、じゃあ……アメリカーノ。ショートで」

 頷いて列へ並ぶ。待たせた分、奢るつもりでいた。久々にフラペチーノでも頼むかなとメニューを見ると、すでに期間限定の品は売り切れで、代わりのメニューが置いてある。まあ、売り切れ時にしか出てこないこのメニューも嫌いではないから、多少ガッカリはしたが支障ない。いくらかの時間のあと無事に商品を受け取って、友人の待つ席へ向かう。窓辺に置かれた丸テーブルで、彼はスマートフォンを見ていた。

「お待たせ」

 向かいに座ると同時、彼はまた携帯をしまう。「ありがとう。いくらだっけ」

「言わせんな。待たせた詫びに奢らせてくれ」

「いいよ、そんな。数ポンドだし」

「たかが数ポンドなんだから奢られたっていいだろ? 頼むぜ。俺はお前が時間を遅らせた時からここに居たって踏んでんだから……」

 言うと、彼は否定も肯定もせず、苦笑いをした。「じゃあ、お言葉に甘えて」

 レナートと俺が知り合ったのは地元の母校でだ。当時、一学年下だった彼が数人に囲まれていたので、俺がお節介にも割って入った。レナートと同じクラスだというそいつらは、日頃から彼にあれこれと難癖をつけていたらしい。やり返しそうもない相手に徒党を組んで絡むようなヤツの言い分に興味はなかったから、理由も聞かずにぶん殴った。どいつもこいつも一発で伸びやがって、骨のねえヤツらだ。

 問題はそのあと。この話に尾鰭がついて上級生にまで回った結果、レナートの兄貴が憤慨してより一層ヤツらをボコボコにした。それが、まあ、気持ちはわかるが、傷害事件ものだったから退学沙汰の騒ぎになって、俺も関係者ってことで校長に呼ばれたり、落ち込むレナートを励ましたり、そんなこんなで過ごすうちにレナートとは仲良くなった。お互い趣味も性格もほとんど正反対だけど、何でか、うまくいっている。

「それで、愚痴があるんだっけ?」アメリカーノに口をつけながら、レナートはおかしそうに笑う。

「そうなんだ! けどまあそれはビール片手に話したいね。洒落たコーヒーショップで話す内容じゃない」

「洒落たっていってもスタバじゃないか」言いつつ、彼は頷いて、「最近、仕事はどう?」

「仕事は——って、それも愚痴になるよ。お前のほうはどうなの。浮いた噂とか?」

 レナートの頬が少し強張る。「いや、……うん。俺は、特に……」

 それを見て俺はハッとした。やっちまった。つい職場と同じノリで、無神経なことをいっちまう。レナートは頭がよくて、ものをよく考えてるやつで、だからこんな浮ついた話題は嫌いなんだ。「悪い、忘れてくれ」

「謝ることないよ。俺は相変わらずフリー」

「変だよなあ、いいヤツなのに。世の女の子は見る目がねえぜ」

 レナートはやはり苦笑いをしていた。少し寂しそうにも見える。

「そうしょげるなよ。お前のとこにもそのうちぴったりの天使がやってくるぜ。俺のとこにも来てほしいけどなあ」

「君だっていいやつなのに、続かないね。やっぱり仕事のせいかな」

「そうに決まってる! いや、まあ、俺にも問題はあると思うけど」フラペチーノを摑んで、すぐさま首を振った。「やっぱり、出ようぜ。パブを探そう」

 レナートも同意して、二人して席を立つ。近場のパブというとどこになるだろう。脳内をしばし検索し、やがて俺は店名を挙げた。安い水色に塗った看板が目印の、古い酒場だ。

 店名を聞いた途端、レナートの顔がまた強張った。

「……ごめん。そこは、ちょっと……」

「だめか? 確かに旨かないけど」

「いや、味じゃなくて。ちょっと、入りづらくて……」

 言っている意味がわからない。思わず眉を寄せた。だが、あれこれと思い返しているうちに、ピンとくる。

「……もしかして兄貴?」

 迷うように視線を泳がしたあと、結局、彼は頷いた。

 またか! 今度ははっきりと顔をしかめる。レナートの兄貴——イアン・ドーソンは、ここらの地区に長く住むヤツならみんな知ってる荒くれ者だ。とにかく喧嘩っ早く、我慢が利かず、おまけに体がでかいときてる。ちょっとしたことで癇癪を起こし、問答無用で殴りつけ、物やら人やら壊しちまう(その中の一部が、レナートに難癖つけてたバカどもってわけだ)。アイツのせいで大怪我をした人間は数知れず。さすがに家族に骨を折るほどの怪我をさせたことはないらしいが、キレれば何をしでかすか分からないようなヤツである。きっと一緒にいるだけで、神経が参っちまう。

「あそこでも暴れたのか?」渋面のまま俺は訊いた。「でもよ、お前が悪いんじゃないぜ。気にすることないと思うけど」

 レナートは困った顔だ。「ありがとう。でも……いづらいよ」

 それはそうだろう。兄貴が暴れ回った店で居心地がいいはずはない。

 言いたかったことは伝わったはずだし、気にせず次の店を考える——それにしても兄貴のせいで、レナートはいっつも損をしている。家を出る気があるんなら、できることはすると言っているのだが、優しい彼には病身の母を置いて出ることはできないらしい。

 家族を想う気持ちはよくわかる。確かレナートには、下に弟がいたはずだ。あまり話したことはないが、彼のことだって気にかかるのだろう。

「んじゃ、ちと歩くけど、向こう行こうぜ」隣町の名前を出して、俺はレナートを振り返った。

「うん、いいよ。そっち行こう」

 ほっとしたように彼は笑う。強い陽射しが、夏を報せていた。



    ◆



 学校から署へと戻ってくる頃には、様々なことが進行していた。まず、家宅捜索が終わり、パーシー所有のパソコンが押収された。自室の外に出したことがないのか、充電された状態でスリープのままになっていたので、パスワードを探る手間は省けた。まあ、どちらにせよ、パスワード帳も机から見つかっているのだが。

 インターネットのブラウザを覗けば、やはりインセルの掲示板やコミュニティがいくつか、タブで開かれていた。Cookieも効果を発揮していて、書き込み欄に彼の使っていたハンドルネームが残っている。従って過去の発言を辿るのも容易だった。二人がオフィスに着く頃には、一台のパソコンを取り巻き、チームの面々がすでに画面を睨んでいた。正面の椅子に座っているのはダンだ。

「何か見つかった?」

 エドワードが聞くと、輪の中の一人、マーガレットが金髪の巻き毛を揺らして二人を見た。

「こちらをどうぞ。掲示板のログを印刷したものです。パーシーのハンドルネームはマーカー表示してあります」

「さすが。仕事が早い」エドワードはホチキスでまとめられた用紙を受け取り、カーティスにも見えるように差し出す。

「なんだこれは」

 中身を読んだ途端、声が出た。いちいち詳細を告げる気にもならない。少なからぬ数の人間がこの発言を許容して、挙句に賛同までしているとは、黙示録の時は近そうだ。

「あは、すごいね。正気で言ってんのかな」エドワードはいつもの調子で軽く流すと、一部の発言を指でなぞる。「『七月の事件、知ってるか? 俺の地元であったんだけど』」

 書き込みの主はパーシーだ。それに対して掲示板のユーザーは、大抵「知らない」と返している。だがひとり、地域が近いのか、思い当たる節のある者がいた。


〈もしかして火事か? 移動遊園地の〉

〈へえ、そんなのあったの〉

〈ガキが大勢死んだんだって。〝家族連れで賑わう〟とこだ〉

〈天の思し召しだな〉

〈神は見ている!〉

〈事故だってことになってるんだけど、少し不自然に思わないか?〉

〈別に。ああいうのって家族経営だろ? 事故くらいいつでも起きそうじゃん〉

〈まあ、そうだけど、放火だったらさ。よくやったって感じだよな〉

〈放火だったらな。ターゲットはバッチリ〉

〈もし俺たちの同志なら、新たな英雄だよな〉

〈でも声明を出さなくちゃあ。ただ殺すだけじゃ意味ねえよ〉

〈そうか? 殺っただけでも褒めてやりたいけどな。同志じゃなくても〉

〈放火だったらの話だろ〉

〈そうだけど。もし、そうだったら〉


 会話の中で、事故ではない可能性を示唆し、それを讃えようと促しているのは全てパーシーだ。だが証拠もなく、地元以外の人間にとっては大した事件でもないということか、以降話は盛り上がらずに他へ流れている。目をあげると、こちらを見ていたエドワードと視線が合った。

「これ、」エドワードはほくそ笑んでいる。「犯人じゃないね」

「その通りかと」

 背後で突然声がして、二人して振り向いた。オフィスに入ってきたデッカーが、こちらはクリップで留めた用紙を渡してくる。

「七月の事故の捜査チームと連絡を取りました。同期の人間がいまして」

「ありがとう、助かる。向こうはなんと?」

「かなり早い段階から、自然発火と見ていたようです。当日の火元近くにいた関係者には事情聴取済みで、そのリストの中にパーシーはいません。また事故発生時の動画を数人がSNSにあげていて、それらを検証するに、放火の可能性は低いとのことです。念のため方々に依頼していた化学検査の類いがすべて終わったので、今日にも発表する予定だと」

「これかな」エドワードが手元のデバイスを操作し、カーティスとデッカーに見えるよう、中央に差し出す。

 ある家族連れが、まさに事故当時、ライブ投稿していた動画らしい。偶然だが、火元と見られている遊具が奥にはっきり写っている。動画が始まって十数秒後、突然爆発音がして背後の遊具から煙が上がり、パニックの中で動画は終わっていた。

「怪しい人影はなし。火元に仕掛けの形跡もなかったとすれば、まあ、事故だねえ」

「一番被害の大きかったサーカス会場に関しても、テントへ燃え移った場面が別の動画に残っています。放火の可能性はほぼないのでは」

「なるほどな。ご苦労だった。しかしすごいタイミングだな」

「はい。間が良すぎまして、同僚には新聞社あたりの差金じゃないかと疑われました」

 カーティスはデッカーの武骨な顔をつい観察する。これは彼なりのユーモアらしい。

 彼の微細な表情は、チームの外の人間には恐らくまるで分からない。カーティスも彼と仕事をするようになって三年、少しはわかるようになったが、それまでは寡黙で無表情な彼の心の裡は知れなかった。

「あのぉ」不意に、ダンが声を上げる。「何で犯人じゃないと思ったんです?」

「うん?」エドワードが目を向ける。

「だってコイツ、やばいこといっぱい書いてるし。いかにも火事のこと褒めてほしいみたいなそぶりじゃないですか。やったんじゃなかったら、なんでこんなこと?」

「ああ……なんていうか、勘なんだけど」

 エドワードはマーガレットに渡された資料をめくり、過去の発言に目を落とした。「掲示板でのパーシーがさ、常に〝かまってちゃん〟なんだ」

「へ?」

 ピンと来ていない様子のダンに、エドワードはいくつかの実例を読み上げる。どの発言も、自分が女性や子供、それからいけ好かない同性に「言ってやった」「やってやった」と手柄を自慢するもので、しかしさしたる反応はもらえていない。それもそのはず、彼の語る話は、いかにも作り話に見える。相手側の言動が浅く、都合のいい妄想じみているのだ。

「彼はこのコミュニティの中で認められたがってる。インセルって、初めてこの思想で人を殺したロジャーってヤツを英雄視してんだと。調べたんだけど、彼らの中では彼らにとって憎いヤツらを襲ったりするとヒーローってことになるらしい。ほら、」彼はパソコンへ向かい、画面の一行をなぞる。「『自殺する前に母子センターに行って襲ってこい!』だって。そういう価値観なんだ」

「げえー」嫌悪を口にも顔にも出して、ダンは言う。「ってことは警部的には、火事の発言も〝かまってちゃん〟ってこと?」

「そ。僕にはそう見えた。妙に話題を蒸し返す割に、煽られても根拠を言わない」

「最後に強めに返されたときは、あっさり黙り込んでいます」マーガレットが後を引き取る。「犯人だって思わせたいけど、大ごとになるのは怖いんでしょう。思わせぶりなことを言い、注目を浴びたかったのでは」

 カーティスは二人の会話に頷く。大方そのプロファイリングは合っているだろう。だが——

「なんで先輩が言うんすか」ダンが唇をへの字に曲げた。「俺、警部に聞いたのに」

 言われたマーガレットはむっとしている。カーティスは天を仰ぎそうになった。

 マーガレットは有能で向上心のある部下だが、プライドも相応に高く、特に立場や見た目から嫌な経験も多いのだろう、常に警戒態勢を取っているようなところがある。ダンの失言は例によって深い意味合いのないものだろうが、しかしその発言が意味するところは、マーガレットにしてみれば「女が出しゃばるな」になってしまう。

 どう割って入ったものか迷っていると、エドワードが笑った。

「そりゃ、僕が言ったのは、単にマギーの〝代弁〟だもの」

「え?」

 間の抜けた声を発したのはダン一人でなかった。面々を見回し、エドワードは手元の資料を振る。

「僕が見てたのはマギーの資料だぜ。長く続いてるこの掲示板で、マギーが重要だと思った箇所だけが抜き出されてる。ってことはこれにはマギーの推理が反映されているんだよ。それを辿って浮かんでくるのは、当然ながらマギーの見立て」

 一瞬の沈黙。そのあと、マーガレットが呟くように返す。

「そう、ですね。その資料は、私が作った恣意的なものです」

「だから僕が口にしたのは単にマギーの考えだ。しかしマギー、僕に言わせなくても、自分で言ったっていいんだぜ。君の優秀さはみんなよく知ってる」

 マーガレットはしばし口をつぐみ、やがて頷いた。

「確かに……警部が言ってくださるだろうとは考えていました。そのほうが通りが良いと」

 カーティスはいささかほっとした。「エディの言う通りだ。遠回しなことはしなくていい」

 資料を渡すタイミングで、自身の推理を告げてくれてもよかったのだ。だが無邪気にそうできないだけの経験を彼女はしているのだろう。

「そういうわけだ」エドワードはダンの肩をポンと叩いた。「君の新しい先輩は、デキるひとなんだぜ」

 これで八方良しだ。カーティスは、新人教育に一言添える。

「一応言っておくが、あまり自分の思い描いた犯人像に引きずられるなよ。人間心理はそう単純じゃない。今回は外に証拠があって、そこから類推をしているだけだから、構わないけど」

「犯人像の分析は、あくまで要素のひとつってことさ。それを正しいと思い込むために、他の要素の解釈を寄せちゃうとマズいって話」

 二人の言葉に、ダンは分かったような分からないような表情で頷いている。

「先入観は持っている自分自身も気づきにくいものです。難しいことですが、自身の推理や考えからも、常に距離を置いておく冷静さが肝要です。私もまだうまくできません」

 曖昧な顔が不安だったのか、マーガレットが付け足した。蛇足だろうかと思いつつ言わずにおれなかったことが、その表情から窺える。

 予断は禁物——刑事なら皆わきまえることだ。といってもそれを常に保てる人間は多くない。そういう心がけがあってさえ、人はイメージに引きずられる。

 ふと、別の事件のことが、脳裏をよぎった。伝えるにはちょうどいい機会だ。

「急な話なんだが。パーシー・セヴァリーの件が片付いたら、このままティルダのチームと合流することになるかもしれない」

「アーリユース警部の?」とダン。「あのスラブ人殺しですか」

「イアン・ドーソン氏だ、ダニエル。ちょっとはまともな言い方をしろ」

「アル中の暴れん坊でしょう? 容疑者多すぎてヤバいっていう」

「火事の現場にいたのでしたか?」尋ねたのはマーガレットだ。「我々の事件と、何か関係が?」

「いや。パーシーがほとんど火事と関係ないと知れた以上、今回の事件との関連はないと見るべきだろう。ただ、実を言うとプライベートで、偶然拾った情報があって……」

 悔恨も込めて、ため息をつく。カーティスは事の経緯をかいつまみ、チームに話した。

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