九月十八日 - 前半



    11



    九月十八日 水曜日


 そのニュースを聞いた時、アデルは手にしていた皿を落とし、遅めの朝食に用意していたシチューが台無しになった。ショックな知らせを聞いて、手にしていたものを取り落とすなんて冗談のようだと思いながら、だが冗談でなく手は震え、激しい動悸に息ができなくなる。それは二ヶ月前の事故に関する確かに今更な報道で、アデルたち当事者を除けばもはや興味は無いだろう。しかしアデルにとっては違う。息子を亡くした母だからじゃない。

 祈るように両手を握り締め、その場から動けない。ついさっき耳にしたニュースが頭の中を巡っている。夢じゃないのかと思う。だが、耳の奥にこだまするキャスターの声は変わらない。警察は今日、二ヶ月前に起き、三十八人の死傷者を出した移動遊園地での火災は、自然発火による事故と見られるとの捜査結果を発表しました——

 自然発火による事故。自然発火。

 それが何を意味するか、本当はもう分かっている。だがそれを受け入れる準備ができていないから、頭が混乱に逃げている。準備? 準備なんてできるものか。いつまで待っても、どれだけ考えても、自分のしでかした事の意味を受け入れられるはずがない。到頭、そもそもの動機さえ過ちであったとはっきりした。どうしようもない。取り返しがつかない。

 現実が脳裏に染みて、否応無しに震えが止まる。痩せた胸に、自身の行く末が、タールのように重く満ちていく。



    ◆




    一ヶ月前


 ジョッキを打ち鳴らし、ビールを呷る。レナートはさほど酒に強くないが、一、二杯は飲めるから付き合ってもらう。シラフの相手に管を巻けるほどいい根性はしていない。

「俺はさ、俺なりに彼女を大事にしてきたんだよ。でもあれか、その、『俺なり』がまずいのか?」

「どうかな、……チャーリーは頑張ってたと思うよ。君の仕事は忙しいし、体力も使うし、気も張ってる。たまの休みがあるとしたって、文字通り休むしかないのはしょうがないんじゃない?」

「でもさあ、彼女も若いだろ? やっぱ無理をしてでも、こう、遊びに付き合ってやるべきっていうか、なんか彼女を気にしてるっていうサインが足りてなかったっていうか……そもそも俺、気づかないうちに失言とかしてたのかも。ああ……俺には彼女を持つ資格なんてないのか?」

「考えすぎだよ」レナートは笑う。「君はそんなに悪い人じゃない」

 気の優しい彼がなんと言うか、大方分かっていて話を振るのだから、俺もこすい野郎だと思うが、落ち込んでいるときは慰めが欲しくなるものだ。母や妹に相談しても、説教を食らうか揶揄われるか、だいいち身内がこういうときにあまり味方になってもそれはそれで居心地が悪い。話半分に聞いて、上手いこと宥めてくれる相手というと、思い当たるのは彼ばかりだ。

「消防士は君の天職なのだし……」レナートはオリーブに手を伸ばしながら言う。「君の仕事ごと受け入れてくれる人がやっぱり必要だね」

「そうなんだよ。そうなんだけどさ、」俺はチップスに手を伸ばす。「消防士って公僕だろ?」

「うん」

「俺は好きで就いた仕事で、やりがいを感じてる。身の危険とか忙しさとかはあるけど、俺はこの仕事をするべきだって確信があるんだ。俺なりに」

「うん。分かる気がする」

「でもさ、付き合う相手はさ、別に市民に尽くす義務とかないわけだろ。でも俺を彼氏にしたら、他の人を選べば手に入るものが、手に入らなかったりするわけじゃん。そりゃ公務員は安定してるし、そういう得るものもあるにしても」

「ううん、」レナートは難しげに唸る。「そう、かもしれない」

「だから俺には引け目があんだよな。付き合わせちゃって悪いなあ、みたいな。それが伝わっちまうのかもなあ。みんな、もしかして、そこに怒ってんのか……」

 自分が付き合ってきた女性たちは、みんな普通の人だった。聖人君子じゃないにせよ、ごく普通の、まともな人たちだったわけで、だから振られてしまうには、しまうだけの落ち度が俺にあるのだと思う。ただ、自分では、問題点が分からない。それも問題なのかもしれない。

「でも……」レナートは考え考え、遠慮がちに口を開く。「やっぱりさ。チャーリーはすごい人だと思うよ。僕、君の仕事って、つくづく偉大だなって思って……」

「なんだよ、急に」改まって言われると、少し面映い。「突然さあ」

「自分の時間も取れないで、日々危ない現場に行って、必死で他人を救けるなんてさ。俺には絶対無理だ、って思う。重責も感じるだろうし」

「おい、ここも奢ってやるか?」軽口を返したが、顔が勝手ににやけてしまった。

「冗談じゃなくて、本気だよ。すごい仕事だって思う」

 顔を隠すためにジョッキを摑む。まったく、そんなことを言ったら、俺は喜ぶに決まってる。

「職業に貴賤はないし、どんな仕事も誰かのためにあるものだと思うけど。命を救う仕事って、特別に感じるよ」

「まあな……」

 俺はレナートのオリーブを拝借して、一つ咥えた。言葉が嬉しい一方で、後ろめたさも胸をよぎる。レナートは視線を逸らした俺を認めて首を傾げた。

「浮かない顔だね?」

「いや、なんつーか。俺は役に立ってる実感がほしくて、この仕事をしてんのかもなと」

「……いけないこと?」

「いや、別に、悪かないと思うよ。誰だって働く動機は結局そこになるんじゃねえの? 必要だとか、役に立つとか、俺はすごいんだって実感がさ。金稼ぐのだって、能力の証と思えば……」

「そうかもね」レナートはお返しのように、俺の頼んだチップスを摘む。

「ただなんていうか、俺は別に、お前にそんな褒めてもらっていいやつじゃねえっつうかさ。俺は俺で得るもんがあって、この仕事してるだけだし。向いてるほうだとは思うけど、力不足も感じてるし」

 言うと、レナートは顔を曇らせた。逡巡するような間のあと、小さく尋ねる。「それって、その」

 はっきり言わせるのも悪い気がして、自分から答えた。「この前の事故とか」

 先月の半ば、子ども連れで賑わう移動遊園地で起きた事故は、かなり応えた。行った時点でほとんどの人が手遅れだった、というのもあるし、やはり子どもが死ぬのはきつい。広く拓けていたはずの未来のぶんだけ、遺された人の悲しみは深い。精一杯やって届かなかったものを、自らの罪だと思うほどもう青くもないけれど、もっと何かできたんじゃないかと疑う気持ちは拭えない。それは仕方のないことだ。

「ひどい現場だったんだね」

「正直、きつかった。倒れてるのも息してないのも、ガキばっかりなんだ。イヤになる」

「大丈夫? そういうのって、その……かなりつらいだろ」

「ああ……いや、悲惨な現場は、初めてじゃないしな。ただ簡単には割り切れないってだけだ。しばらく引き摺っちまう」

「それが自然だよね」レナートは頷く。「気にしないほうがプロだみたいな、そういうことを言う人もいるけど……俺はなんだか違う気がする」

 黙って首肯した。ここに関しては、麻痺や強がりを誇る気持ちは俺にはよく分からない。そりゃいちいちマジになって落ち込んではいられないが、傷つかないほうがいいんだなんてそんな道理もない、と思う。

「俺の近所にも、火事で家族を亡くした人がいて。あんまり関わりもないけれど……様子が気になっちゃって」

「そうか」

「うん」レナートは俯く。「俺も、兄貴があそこにいたけど。兄貴は、無事だったから」

 一瞬の動揺を、顔に出さずにいれたかどうか。

 レナートに言う気はなかったが、俺は火事の現場で奴と出くわしている。結局のところ自分のしたことが良かったのか悪かったのか、判断がつかなかった。レナートにとっては、あんな奴でも大事な兄貴かもしれない。でももしかしたら、火事で亡くなっていれば、彼は安堵したのかもしれない。どちらが正しかったのかは分かりっこない。どちらを選んでも、もう片方を選んだ未来を見ることなんてできないのだ。

「入院中だっけ?」表情を窺いながら聞く。

「うん。もう少しで退院できるって。さすがに自分が骨折してると、そうそう暴れたりできないらしい」

 レナートは苦笑いを浮かべた。重ねて聞くべきか迷ったが、胸のささくれを無視できなかった。

「あのさ、……お前も他の家族も、あの兄貴には参ってるだろ。兄貴が無事だったこと……お前は、どう思ってる?」

 直接的な言い方じゃない。だが意味するところは明らかで、レナートは眉根を寄せる。

「それって、」少し勢い込んで飛び出た言葉が、途中で止まる。「——そう、だね」

「悪い。まずいこと聞いてる自覚はあるんだ。でも、」

「分かってる。……心配してくれてるの、昔から、よく分かっているよ」

 口を閉じる。そもそもの話、俺がレナートと話すようになったのは、ああいう身内がいることを心配したからだった。例えば学生時代、イアンが大暴れしなきゃ、俺だってレナートと親しくなっていたか分からない。皮肉にも、イアンが俺たちを結びつけたとも言えるのだ。

「分からないんだ、自分でも」

 レナートは膝の上に手を組み、その合わせ目に眼を落とす。

「兄貴にいなくなってほしいと思ったことは、ないよ。怖いとか、言われたことが悲しいとか、そういうことは思うけど……でも、兄貴はやっぱり、兄貴だし。……助けてくれたことだって、ないわけじゃない」

 それはお前が、あいつのことを、庇ってやってるだけじゃないのか。口を突きかけたセリフを吞んで、俺は頷く。

「でも、もし、あのとき、兄貴が死んでいたら、……」レナートの腕に力が籠もる。「俺は、悲しめなかったかも、……やっと終わったって、思ってしまった、かも」

 やっぱり——だが後悔が押し寄せる前に、レナートは言葉を重ねた。

「だけどさ、俺、そんなこと思うの、すごく嫌だな。そんなふうに思ったら、たぶん、自分のことがすごく嫌になる。それって努力や気構えで、何とかなるようなことじゃないだろ。だから、……無事で、よかった。……そう思う」

 考えていなかったことを告げられて、閉口する。確かに彼は、兄の死を喜ぶことをとても気に病むだろう。その自責の念は兄が生きていることより、もしかしたら負担かもしれない。いずれ癒えるはずだとも思うが、そうはいかずに一生しこりになってしまうことだってあるのだ。

 そうだよな。どっちがマシだとか、そんな単純な話じゃない。

「ごめん。軽率だった」

「ううん。軽々しく言ったとは、思ってない。……このままじゃダメだよな」

 沈黙が降りた。気が咎め、俺は空気を変えようとする。

「いっそさ、兄貴が頭打って、いきなりまともな人間になってくれりゃあいいのにな」

 レナートは応えて笑う。「人が変わったように? うーん、助かるけど現実的じゃない」

「それか骨折をしまくって、しばらく病院に居てくれるとか」

「病院の人に悪いなあ。でも、似たようなこと、考えたことあるよ。脳にチップを埋めて……」

「頭打つよりやばいぞ! 悪役の科学者みたいだ」

「暴れそうなときボタンを押したら、寝てくれるようにならないかなって。でも、まずいよな、これ。映画みたい」

「何だっけ、昔の映画にさ、そういうのあったろ? チップじゃないけど、悪いことできなくなるやつ」

「『時計じかけのオレンジ』?」

「それだ!」

「わあ、そう言われるとやばいなあ。俺は危ないやつなのかも……」

 緩んだ雰囲気にほっとして、話を元に戻すそぶりで、さりげなく逸らした。彼の近所の女性は、先の火事で息子を亡くしたという。まだローティーンで、友人たちと遊びに行って、ひとり逃げ遅れてしまったらしい。その女性の嘆きはもちろん、無事だった友人たちもつらい思いをしているだろう。

 そのうち、空いた時間を見つけ、二人で彼女を世話しに行こうと計画を立てながら、俺は彼についてもそろそろ行動に出るときだと思った。社会的な援助を受けるべきだ。レナートだっていつまでも家に縛られていられない。歳を考えれば、彼は彼の人生を踏み出すタイミングがきてる。

 イアンにバレればレナートがどんな目に遭うかと考えると、慎重に進める必要があるが、一足飛びにイアンを福祉に繋がなくても、まずはレナートをサポートしてくれる団体を探したほうがいい。あまり詳しくないが、DV被害者は暴力によって正常な思考を奪われて、抵抗するための怒りを抱けなくなってしまったりするという。レナートは特に優しいから、兄に理不尽に怒鳴られても、兄の気持ちばかり考えて責められなくなるのだろう。だがそれでレナートが苦しみ続けるのは間違ってる。

 おそらく話を持ちかけても、彼は躊躇するはずだ。しかしそこが踏ん張りどころ。あくまで責めず、でも引き下がらず、根気強く訴えるしかない。渋々でもいい、一緒に来てくれれば、俺よりずっと物の分かったプロが対応してくれる。それで全てが解決するわけはないが、何もしないよりずっとマシだろう。

 彼女に持っていく差し入れの相談をしながら、俺は決意する。近いうちに、ちゃんと話す。それまでに情報を集めて、いいところを見つけておかなくては。親身になってくれるとこじゃなきゃかえってレナートが傷ついちまう。警察の知り合いだっている、まずは相談したほうがいいか。名刺を引っ張り出しておこう。詳しいひとを探して、やり方を相談して、それで——


 その時間があると、思ってたんだ。



    ◆



 ティルダのチームと合流し、会議室でミーティングを開いた。カーティスのチーム、というより、カーティスとエドワードからは、チャールズ・オルコットについて二人が知っていることをすべて伝えた。代わりにティルダのチームからは、最新の情報をメインに捜査の現状が報告される。火事の関係者、特に遺族の中で、現段階で浮上している容疑者が一人いるらしい。

「アデル・ヘガティ。四十三歳。インド系イギリス人で三世、祖父の代が入国時に帰化して姓名を変えたようです」ティルダより年長の部下、コーレルが書類を読み上げる。「アデル自身はシングルマザーで、医師の職を得てひとり息子を養育してましたが、この息子を先々月の火災で亡くしています。どうやら実家との縁が切れているようで、唯一の肉親を亡くして、ショックは深かったと」

「そうでなくとも、一人息子の死は響くでしょうね」とカーティスは言い添えた。「しかしこの女性が、なぜ?」

「うっすいセンなんですけどね」答えたのはエイプリルだ。「事件発生時刻近くに、彼女が現場周辺のカメラに写っているんです。それが人通りのほとんどない場所で、飲み友達がいるでもなく、フラフラ怪しく歩いてるもんで」

 火事の件が発覚する以前から録画データは得ていたものの、予想される犯人像とはあまりに違うため、見過ごされていたようだ。しかし火事の関係者という要素が加わり、ここで浮上するに至ったらしい。

 カーティスは渡された資料を見つめた。「確かに妙だな。その時間帯の外出は、彼女の習慣にないんだろ?」

「ええ。とはいえ彼女の腕力であんな殺しができるとも思えないんすよね。だからとりあえず話を聞こうと」

「二人の報告によれば、」ティルダがカーティスとエドワードのいる方向へ目をよこす。「チャールズ・オルコットは少なくとも、犯人に必要と思しい体格を備えてはいるわね」

「消防士で、しかもレスキューだからね。背もあるし鍛えてた」エドワードが答える。

「警部がそれ言うって。嫌味すか?」と、ダンが軽口を叩いた。

「私語を慎め」カーティスは短くたしなめた。「今のところ、チャールズの姿は監視カメラにはないな」

「といってもあの辺は、民間のものを含めてもぜんぜんカメラが無いすから。避けて通ろうと思えばいくらもルートはあると思います。消防士なら土地勘もあるし」

「エイプリルの意見は尤もね。正直今回の事件でカメラは当てにできない。アデルが写っていたのは単なる幸運だわ」

「技術が発達したといっても、なかなか仕事は減らないねえ」エドワードがぼやきを挟む。

「レナート・ドーソンとチャールズ・オルコットですが」マーガレットが言った。「現状は、二人の関係が事件に影響したという見方ですか?」

「現時点ではそのセンが濃い」カーティスが応じる。「なにせ二人とも自殺で、死に方という意味ではイアンも含めた三人全員が首吊りときてる。関係ないとは思えない」

「チャールズがレナートの自殺をイアンのせいだと思っていたとすれば、十分な動機ね」

「それにしても首吊って、顔面叩き潰すって。キレすぎじゃないすか?」とダン。

「他の理由もあったのかもしれない。それか人格的な問題か」とティルダ。

「確かに猪突猛進なところはあったんだけどさ。いくらなんでも激しすぎる」

「そういえば……」ふと、ティルダは答えたエドワードに目を据えた。「今更だけど、あなた被疑者と知り合いなのよね?」

「知り合いっつってもね。彼が進路を検討するときに、彼の先輩経由で僕に話を聞きたいって言ってきただけだ。その縁で二、三度飲みに行ったが、そんだけの話だよ」

「それならまあ、大丈夫かしらね。妹さんに話はしたの?」

「日曜に会ったっきりだ、直接説明するのが筋かな。聞き込みも必要だろうし」

「それじゃ、ひとまずチャールズ周辺の聞き込みはそちらに任せる。レナートを含めドーソン家の調査はこちらでやっていく、というのでどう?」

「了解した」カーティスは短く頷いた。「アデルの件は?」

「空いた人員で上手く回しましょう」

 二チームでの相談の結果、カーティスのチームからはマーガレットを出すことになった。カーティスとエドワード、ダンとデッカーは外回りだ。他のチームでマーガレットが軋轢なくやっていけるかどうか、一抹の不安はあったが、ティルダがいるなら問題ないだろう。

 会議は終わった。各々が椅子を引きがたがたと立ち上がった時、突然、右手のドアが鳴った。

「どうぞ」ティルダがノックに応える。

「失礼します」現れたのは制服警官だった。「イアン・ドーソン氏殺害事件の捜査チームで間違いありませんか」

「そうです。何かありました?」

「自首です」彼女は簡潔に言った。「女性が出頭してきました。自身をドーソン氏殺害の犯人と主張しています」



     12




     一ヶ月前


 これで三回目。

 チャイムの残響を聞きながら、隣の友人に目を向ける。レナートは不安げな顔で開かないドアを見つめている。

「寝てるんじゃないか?」

「うん……」口ごもるように答えると、ドアホンへ視線を逸らす。「やめたほうがいい、よね」

 三回目を押す際も、だいぶ躊躇はしたのだ。「さすがにな」

 先日話した、火事で息子を亡くしたという女性の家を訪ねにきていた。だがチャイムを三度鳴らしても、彼女が出てくる気配はない。もし寝ていたとしても、この音でもう起きていると思うが、要するに出てくるだけの気力が今はないのだろう。レナートの気持ちも分かるが、無理強いをするべきじゃない。

「玄関先に置いて帰ろう。食欲があれば食ってくれるさ」

「そうだね、」レナートは視線を下げて、ためらいがちに身を屈める。

 だがそのとき、俺は玄関の小窓に、人影がぼんやり映るのに気づいた。俺がレナートを小突くのと、錠が開く音がするのは同時だった。

「あ、ヘガティさん」姿勢を正したレナートが言う。「ごめんなさい、何度も鳴らして」

「いえ……」小柄な彼女はローブの前をたぐり、俺たちを見上げる。「どういった御用で?」

 彼女の足元に目を落とす。裸足の指先は、夏だというのに血色が悪い。あまり梳かされてない髪やくたびれた部屋着を、あまり見てはいけない気がして俺はそのまま俯いていた。

「あの、もし、よかったら。これ」

 レナートはラップをかけた陶器の鍋を差し出した。一人分の小鍋には冷やしたスープが入っている。コンソメスープだったはずだが、詳しい名前を俺は知らない。

 無言で鍋を受け取った彼女が、ふと、隣の俺を見た。

 気配に少し顔を上げる。はっきりと目が合った途端、彼女が何かに気づいた。「あなた……」

 同時に、俺は息を吞む。彼女がつぶやく。

「消防士さん?」

 答えられない。レナートが、俺の代わりに口を開いた。

「ええ、そうです。彼はレスキュー隊で……」

「……そう。ネットのニュースで見たわ」

 俺はまた視線を落とす。知っている。どこかで見た顔だと、ぱっと見たときも思ったのだ。その正体に今気づいた。俺は彼女によく似た顔をあの現場で目にしている。サーカス小屋のテントにいた少年、——

「お気遣いありがとう。心配してくれなくていいのよ」

「すみません。出過ぎた真似を」レナートも視線を下げた。「なにかできればと……」

 彼女の目が俺を見ている。彼女が知っているはずもないのに、俺の心臓は早鐘を打つ。この場で俺が打ち明けたって意味はないし言うつもりもないが、彼女に謝ってしまいたい気がした。あの場での俺の選択は、プロとしては正しかったはずだ。だが違う基準で見れば、何が正しいか答えは出ない。

 彼女は何事か言いかけて、堪えるように息を吸った。「器、洗って返すわ」

「気にしないでください。ごめんなさい。食欲がなければ、」

「いえ、少し、口に入れたいと思っていたの。スープ、うれしいわ。ありがとう」か細く付け足す。「迷惑がっているわけじゃないのよ。元気がないだけ」

 レナートはただ頷いた。彼女がドアに手をかける。

「すみません」

 思わずこぼれた一言に、彼女は動きを止めた。「やめてちょうだい」

「謝られたら、責めたくなる。……あなたのせいじゃない」

 扉が閉まる。鍵が回される。俺は静かに考えている。本当に、そうであったのかを。



     ◆



 向かいに座る彼女を見て、ティルダは胸が塞ぐのを感じた。彼女はどちらかといえば自分に近い年齢だが、ここ二ヶ月の心労が彼女をやつれさせていて、十も二十も年嵩に映る。まるで自分の母親が、冷たいアルミの椅子に腰掛け打ちのめされているように思える。

「自首をしにきた、ということですが」ティルダは慎重に切り出した。「弁護人はよろしいのですか」

「はい」か細い返事。「構いません。全てお話しします」

 この質問をするのは二度目だ。取調べの開始前、各種権利などの確認の際に尋ねたが、同じ答えだった。もちろん刑事としては弁護人を呼ばれない方がやりやすい。この国では弁護人を呼ぶかどうかは被疑者の任意で、たちの悪い刑事なら取調べが長引くなどと言い、弁護人を呼ばぬよう誘導することもある。ティルダは彼女の様子から、味方となる第三者がそばにいたほうが良いと思ったが、どちらにせよ本人が望まぬものを無理強いもできない。

「それでは、アデルさん。ドーソン氏殺害までの経緯を話していただけますか」

「はい。……あの、」頷いたあと、恐る恐るといった様子で彼女はティルダを見つめた。「どこから話せば?」

「どこから?」

「つまり、その、……犯行の日を? それとも、……それまでの経緯を?」

 少し迷ってから、ティルダは口を開く。「どちらでも。最後にはお聞きしますので」

「分かりました」彼女は頷いた。軽く唇を舐め、そして開く。「そもそもの発端は……」

 ティルダはファイルに手を添える。隣で部下が小さく息を吸う。

「彼らが家を訪ねに来たんです。レナート、……イアンの弟の彼は、イアンと違って優しい人で。あの火事が起こる前は、親しく話もしていました。でも、火事があってからは、私は引きこもってしまったし……彼も引け目があったようで」

「引け目とは?」

「それこそ、イアンのことです。イアンも火事の現場にいて、でも彼は無事に帰ってきた。レナートが悪いわけでも、イアンが悪いわけでもないですが、近所の人間にとってみたら、イアンは厄介者でしたから。彼が無事に帰ってきて、私の息子は死んで……そのことに、心を痛めていたのだと思います。ずいぶん気遣ってくれました」

 そこまで言って、アデルはため息をついた。「正直、気が重かったけど」

 ティルダは頷く。子どものいない自分に、果たしてどこまで彼女の思いを想像できるかは分からないが、大切な家族を亡くして絶望の底にいるときに、親切に応じる余裕はもはや残っていないだろう。ありがたいとは分かっていても、放っておいてほしいというのが自然な思いかもしれない。

「彼は何度か私のために料理を運んできてくれましたが、一度、彼の友人も一緒だったことがありました。その友人の顔は、ネットの記事で見て、知っていたんです。優秀なレスキューで、火事での活躍で表彰されたとかで」

「チャールズ・オルコット氏ですね」確認を挟む。

「チャールズ……」アデルは記憶をたぐるように宙を見つめた。「ええ、確か。そんなような名前だったかと」

 ティルダは表情を保ちつつ、内心で眉をひそめた。チャールズとアデルにそこまでの面識はなかったのだろうか。名前をすんなり思い出せないでいる様子は演技に見えない。だが彼女ひとりでは、あのような殺し方ができたとは考えにくい。共犯者がいるはずだ。

「会ったのは一度きりでしたが、彼の顔はそれで覚えました」

「そうですか」頷き、続きを促す。

「それから……そう、いつだったかしら。先月の半ばだと思う」アデルはテーブルに目を据え、見えにくいものを見るように細めた。「彼らが家を訪ねてから、多分、そんなには経っていなかった。日付の間隔があやふやで、確かなことは言えないんですが」

「先月の半ばごろ、ですね。その頃、何が起こったのですか?」

「電話が、かかってきて。当時の私は、留守番の通知がね、聞くまでずっと灯っているのが嫌で、機能を切っていたんです。無視をしていればじきに切れるし、なくても構わないだろうと。それが、そのときは切れることもなく、ずっと鳴っていたものだから、観念して出ました。そしたら……」

 息継ぎのあと、アデルはすぐに続けた。

「ご近所さんからでした。『あなた、聞いた?』と言われて。何のことか分かりませんでしょ。戸惑っていたら返事も聞かずに話し出してね……レナートが、首を吊ったと」

 八月十八日。——あるいは、自殺発覚の当日でなくとも二、三日中だろう。レナート・ドーソンが自殺したのはイアンの退院の二日後で、彼の退院が八月十五日。レナートは八月十七日の夜半に首を吊ったとされ、十八日の朝、朝食を食べに降りてこないのを不思議に思った弟のルカがドアを開け、遺体を発見した。

 もしかして、とティルダは思う。レナートが首を吊ったのは、それこそ彼らがアデルを訪ねたその夜のことだったのじゃないか。いや、当夜でないにしろ、二日以上は経っていないのでは?

「日付は分かりますか? 彼らが訪ねてきた日や、電話があった日は」

「ごめんなさい、記憶がありません。でも着信履歴は消えていないかも、……電話がかかってきたのは、二人がスープを持ってきてくれた、三日か四日あとだったと思います。一週間は経ってなかった。確かじゃないけど、大きくずれてはいないんじゃないかしら。……ごめんなさいね」

「いえ、大丈夫です」アデルの言に頷く。「それから?」

「ええ、……そのときは、驚きました。少なからずショックでもあった。だけど、……それ以上、なにか思うこともできなくて。自分の悲しみで精一杯で。薄情なものですね」

「そんなことないですよ」エイプリルが口を挟む。珍しく、心のこもった響きだ。

「それからしばらくして、外に出ようか、とふと思いました。家に閉じこもって泣くことに飽きたのかもしれません」アデルは乾いた笑いを浮かべる。「陽を浴びて、気分を変えようという気になったんです。シャワーを浴びて、少し化粧をして。いつもは行かない公園まで遠出しました。でも……間違いだったわ」

「何かあったんですか?」そのままエイプリルが尋ねた。

「慣れないことはするものじゃないわね」娘ほどの歳であるからか、アデルは少し打ち解けて言った。「見慣れないフードトラックが来ていて、あれは、フラペチーノとかいうのかしら。甘い飲み物を売ってたの。暑い日だったし、食べてみようかと思って……」

 当然、過るものがある。「体調を崩した?」

「え?」アデルは意外そうに顔を上げた。すぐに首を振る。「いいえ、そんなことは。というより、そもそも、食べられなかったの。お店の人には悪いことをしたわ、……口をつける前に、吐いてしまって」

「口をつける前、ですか」つまりドリンクの中身は関係ない。

「ええ。ただ、そのお店の人が、」アデルは何かを堪えるように息を吞んだ。それこそ、えずきを抑えるように。

「ドリンクを作っている間、立ち話をするでしょう。でも、彼が、……火事の話をして、……」

 ティルダは心中で息をつく。予想は多少違っていたが、大筋で間違ってはいない。アデルが会ったのは、昨日カーティスのチームが逮捕したパーシー・セヴァリーだ。

「火事の当日に、近くにいたんですって。その公園は見晴らしが良くて、それに、現場にも近いのね。よく見えたっていうんですよ。火事の現場の広場には、時計台があるでしょう。確かにあれがよく見えました。それに気づいて、——」アデルが息を詰まらせる。目には涙が溜まっていた。「ごめんなさいね。どうしても、——」

 エイプリルがスーツを探り、ポケットティッシュを差し出す。アデルは黙って一枚取った。

「私は、少し、パニックになって。今にも吐きそうで。いろんなことが頭を巡るの、どうしてあの子は死んだのか、死ぬときは苦しかったのか。怖かったか、寂しかったか、……どうしてあの日私はあの子を送り出してしまったのか、なぜ友達は、よりによってあの子をあんな場所に誘ったりしたの、あんなとこ、彼らが誘わなければ——」アデルは口の端を曲げた。「分かっているの。筋違いよ。誰のせいでもないのに」

 二人は黙って見つめていた。呼吸を落ち着けて、アデルは俯く。

「私の様子がおかしかったから、店の人もびっくりしたんでしょう。おろおろしてね。それを見てまた腹が立った。面白がって話してたくせに、何をおろおろしてるのよ、って。それで……詰め寄ってしまったの。どうして息子は死んだのって。あなた、見てたんでしょ、何か知らないの、って」

「彼はなんと?」

「知らない、と言っていました。近くで煙を見てたけど、現場にいたんじゃないからと。でも、」アデルは、テーブルに組んだ手に、自身の額をつけるように屈む。「話なら、聞いたと」

「話?」聴きながら、ティルダの胸はざわついた。「どんな?」

「彼は街中で聞いたんだそうです。消防士が誰かと揉めていて——若い消防士だったと言ってた。その彼が東欧系の、ひどく体の大きな男に、食ってかかってたんだそうです。周りの同僚が羽交い締めにして止めていたけど、今にも噛みつきかねない勢いで、ずっと怒っていて、店の人は、通りすがりにその声を聞いてた——」

 やがて、曲がっていた背が、少しずつ伸ばされて、それでも彼女は首を垂れたままテーブルを見つめた。うつろな瞳で言葉を吐く。何かに、取り憑かれているように。

「お前のせいだ。許さない。必ず落とし前をつけさせる」



     13




     八月十八日


 画面を見て、珍しいと思った。表示されていたのは彼の名前ではなく、彼の弟の名前だ。以前、何かの折に登録したことは覚えているが、なぜだったかは思い出せない。ルカとはほとんど話したことがない。レナートが彼の電話を借りて、掛けてきているのかと思った。つい先日会ったばかりだが、急ぎの用だろうか。

「もしもし」

『どうも。チャールズ?』

 ルカの声がした。ルカの携帯なんだから当然なのだが、俺は驚いた。

「そうだよ。ルカか? 久しぶりだな。掛けてくるなんて珍しい。何かあったか?」

 電話口で、彼は間を取った。唾を飲むような短い間。『お伝えすべきことがあって』

「お伝え? なんだ改まって」

 軽く応えた次の瞬間、何かが俺の胸をよぎって、訳も分からず不安になる。パソコンで観ていた映画を止め、ワークチェアから立ち上がった。外はいい天気だ。夏の晴れ空が窓の外に広がり、木々の葉がきらめいている。

『ほんの今朝のことで。今までバタバタしていたんです。まだ落ち着いていないけど、あなたには、伝えておくべきだと』

「なんだよ」心の波が、棘になって出る。「なんだってんだ?」

『兄が、』

 ひゅっと、詰まるような呼吸が聞こえた。小さな咳払いのあと、次に出た声は揺れていた。

『レナートが、死にました。自分の部屋で。首を吊って』

 意味は分かった。彼の言葉の意味は。それなのに、理解できなかった。

 何一つ声が出ない。耳から入ってくる音も、ちぎれてばらばらになるようで、何を言われているのか分からなくなっていく。今朝見つけた、降りてこなくて、遺体が、ドアノブに、病院は、警察、——

「なんで」

 ようやく出た声は、自分の声だとは思えなかった。どっかの腰抜けが、泣いて許しを乞うみたいだった。

「なんでだよ?」

『分かりません。遺書も、なくて。いえ、』ルカは言葉を切ると言うより、続けられない様子で黙る。『……メモのようなものはあったけど。理由は、まるで分からない』

「……彼はなんて?」

『ひとことだけ』小さく呟く。『「ごめんなさい」、って』

 呻きが漏れた。口を覆ったが、抑えることはできなかった。

 どうして!——訊くまでもない気がした。レナートの遺書は家族に宛てたものだろう。でも、きっと、俺に対しても遺してたはずだ。俺に対しても言っているはずだ。俺がレナートを救けたかったと彼は誰より分かってたから。耐え切れなかったこと、置いていくこと、伸ばされた手を取らなかったこと——彼はそれを謝るようなやつだったからだ。だから、ひとことに、ぜんぶが籠もってる。受け入れられない。彼の行動も、遺した言葉も。

 謝らないでくれ!

『すみません。もう、切らないと』ルカが呟いた。『また連絡します』

 返事は、できなかった。躊躇うような間のあと、不意に途切れる。電子音がする。

 俺は窓辺に蹲り、声を堪えるのをやめた。呻きと嘆きが勝手に溢れ、胸でつかえ、喉を締め付ける。床に敷かれたラグを握りしめ、殴りつける。うそだ、うそだ、うそだ、うそだ。なぜ死んだ。なぜ死んだ!

 分かっていたのに。彼の環境を、俺はちゃんと知っていたのに。

 怒りが、悔しさが行き場を求め、悲しみを押し流すように高波となって打ち付ける。その波が押し寄せる先は分かっていた。なぜ死んだのか。なぜレナートは死ななくちゃならなかったのか。そんなもの、納得のいく〝理由〟なんてあるわけはないが、少なくとも、この不条理の〝原因〟くらいは見つけられる。他にない。あのクソ野郎の他に何もない。アイツさえいなければ、レナートはまだ生きていたはずだ。

 あのとき殺しておくべきだった。チャンスはあった。俺なら、できた。



    ◆



 チャールズの生家を訪ねると、ちょうど妹が応対に出た。見知った人間を歓迎しかけた顔が、一転して怪訝げになる。隣に覚えのない者が立っていることに気づいたのだろう。

「キルフェアリー署のシザーフィールドです」手帳をかざす。「お一人ですか?」

「はい。いま母は外出中で……母に御用ですか?」

「あなたにも。お兄様の件について、伺いたいことがあります。お時間おありですか」

「ええ……あの、」アンバーがエドワードを見上げる。

「今日はプライベートではなく、捜査で来ました」彼は答えた。「その辺りの説明も含めて、お話しできたらと」

 改まった口調に、少し気を引き締めたらしい。神妙な顔で頷くと、彼女はリビングへ通してくれた。

「紅茶でも?」

「お気遣いなく」

 四人掛けのテーブルに着きながら、声を返す。キッチンへ向かいかけていた彼女は、それを聞いて引き返した。

 小ぢんまりとしたリビングだ。部屋の中央にテーブルが置かれ、菱形のレースが掛けてある。南と西の壁に沿って調理スペースが設けられ、セットで置かれた食器棚と冷蔵庫も色調は同じだ。クリーム色の壁に、ターコイズのキッチン。小窓から傾き始めた日差しがリビングを照らしている。

「兄のことって?」椅子を引き、アンバーが尋ねた。

「イアン・ドーソン氏の事件をご存じですか?」

「イアン? いえ……どなたでしょう?」

「先週の木曜、橋の下で遺体が見つかりました。お兄様から名前を聞いたことは?」

「あ、その事件なら知ってます。ニュースで見ました。けどその人のことは……」首をひねりかけた彼女は、急に何かに気づいたようで前のめりになった。「そういえば、ドーソンって苗字は聞いたことがあります。確か兄の友人が、そんな苗字だったような」

「レナート・ドーソン氏ですね」エドワードが頷く。「死んだイアン氏の弟です」

「ああ!」今度は椅子にのけぞる。「じゃ、イアンって、DVをしてた……」

「お兄様から聞いていますか」

「はい。何度か、小耳に。兄はずいぶん彼を気にしていて、どうにかしてあげたかったみたいで」

「レナートはイアンのことをお兄様によく相談していた?」

「どうだろう、たぶんそう」

「たぶん?」

「うーん、」彼女は目を逸らし、組んだ手の指をうごめかす。「なんていうか……兄貴、ちょっとおせっかいっていうか。余計なお世話っていうか、そういうところあったから」

「確かにね」エドワードが笑う。

「だから、兄が勝手に首突っ込んでただけかもしれません。レナートさんのほうから、兄貴に相談してたのかっていうのはよく分からない。でも、仲は良かったはずです。しょっちゅういっしょに遊んでました」

「お兄様は、イアン氏について何か言っていましたか。何か激しい怒りだとか——」

 途端、アンバーの眉が動いた。あまりに強く寄ったので、自分でもあからさまだと思ったのか、すぐにすまし顔をする。

「思い当たることがあるのなら」どこか含み笑いでエドワードが尋ねる。

 誤魔化せるとは思っていなかったのだろう、アンバーは軽いため息をついた。「一回、ものすごく怒ってた時期がありました。でもいっときのことです」

「それはいつごろ?」

「ええと……先月の半ばですかね。ちょうど一ヶ月前くらい」

 脳裏で確かめる。レナートが自殺した頃だ。

「なんて言ってました?」

「なんか、とにかく怒ってました。あいつのせいだって。他に理由がない、とか。何のことだかさっぱりだったけど」そこで、アンバーは顔を上げた。「そういえば、最近、レナートさんの話を聞かなくなってました。関係あるんです?」

 カーティスは相棒と目を交わす。どうやらチャールズは、まだ若い妹に親友の自殺を告げなかったらしい。

 少し様子を見ることにした。「そこを含めて調査中です。他には、何か言ってませんでした?」

「いえ……あの時期、兄は随分荒れてて。ちょっと怖かったんで、近づかないようにしてたんです。兄のほうも家族に当たらないように、帰ってくると部屋にこもっていたし。だからたまに怒鳴ってる声が聞こえてきたくらいで、……うーん、」アンバーは腕を組み、ぎゅっと眉根を強く寄せた。「なんて言ってたかな……ちくしょうとか、ふざけんなとか、なんでだよとか……よくわかんないことばっかですよ。バカヤロウとか、やっちまったとか。あの時やってればとか……」

「『あの時やってれば』?」

「意味は分かんないですけど、確か。そんなようなことも言っていた気が……」

 あの時——いつのことだろう? 思い当たるのは火事の現場くらいだ。

 両者が当日、同じ場所にいたということははっきりしている。どこかで鉢合わせていた可能性はけして低くない。

「もしかして」アンバーが小さく尋ねた。心なしか声が震えている。「兄の死と関係が?」

 少しの間をおいて、エドワードは言った。「現段階では何とも。ただ、可能性としては考えています」

「確かに、近ごろでいちばん兄の様子がおかしかったのは、一ヶ月前のその時期です。でも、一ヶ月前ですよ。それが原因ならなんで今?」

「まだほとんど憶測に近い情報しかないんです。一つひとつ確かめているところで。今の時点で分かることといえば、」そこでエドワードは目を逸らし、手元の手帳を眺めた。「あなたのお兄さんが亡くなった時刻と、ドーソン氏の殺害された時刻が、ほとんど同じだってことだけです」

 彼女の瞳が見開かれた。絶句して固まった顔が、エドワードを向いている。やっとのことで呼吸して彼女はいう。

「そんな。まさか」

「繰り返しになりますが、まだ何もわかってないんです。ただどうも気になる話がちらほら聞こえていましてね」彼は手帳を閉じた。「またお話を伺うことになると思います。ご協力願います」

 彼女は茫然としていたが、何とか浅く頷きを返した。

「突然お邪魔して、すみません」席を立つ。「お時間をどうも。何か思い出したことがあったら、こちらまでご連絡を」

 名刺を置いて立ち去った。彼女は椅子に座ったまま、見送りに出ることはなかった。

「言うのが早すぎたんじゃないか」車へ向かいながら、エドワードに問いかける。

「そう? でもねえ、騙し討ちみたいになるのも嫌だろ」

 エドワードは車のドアを開く。

「こういうことは早めにわかったほうがいい。物証はないにしても、今の時点で最有力の容疑者なことは間違いないんだ」

「物証か」自らも乗り込んで、カーティスは嘆息する。「見つかると思うか?」

「きれいに解決はできないだろ」シートベルトを引き出しながらエドワードは答えた。「なんたって死んじまってる。指紋にしろDNAにしろ、被疑者の遺留品から照合ができたとしても、確実性は微妙だ。自白もなく、裁判も経ずじゃ、消化不良は間違いない」

 カーティスは口を閉じる。事件の進展を遅らせたのは、容疑者の多さと距離だ。

 ドーソン家の居住地区及び事件現場は、キルフェアリー署の管轄区域の東側にあたる。そして火事があったのは、管轄区域の西北、正確にいえばその外。チャールズの勤めていた消防署はドーソン家の居住地区周辺にあり、中間地点よりやや火災の現場に近い。ドーソン兄弟やチャールズが通っていた学校は、管轄区域の中央あたり。そしてチャールズの実家は管轄区域を大きく南に出たところにある。各々の距離は一駅から数駅分までしかないが、このわずかな距離がそれぞれの事件を隔てている。

 捜査が管轄区域外に及ぶこと自体は問題がない。手の中にある糸をたぐり、結果として外へ出るならばなんら支障はないのだ。だが、嵌めるべき情報ピースが初めから外に散っていて、かつ手の中に辿るべきものが多く存在していたら、どうしても気付きは遅くなる。もしチャールズの自殺の件がキルフェアリー署に持ち込まれていたなら、早い段階で日時の近さを拾い上げられたかもしれない。捜査対象にさえなれば、レナートとチャールズの繋がりはすぐに見出せたはずだ。

「仮にチャールズが犯人だとして」エドワードは車のキーをひねった。「彼なら自首をしたような気はする。だから証拠を残しておいてる可能性も少しはあると思う。家宅捜索で出てくるかもね」

 シートベルトをロックしつつ頷く。そのとき、スマートフォンが振動した。

 取り出して画面を見ると、ティルダからのショートメールだ。〈取り調べの動画を上げた。データベースを見て〉

 そのままエドワードに画面を見せる。彼は頷いてアイドリングした。

 カーティスはバッグからタブレットを取り出し、データベースを開くと、IDとパスワードを入力してアクセスする。エドワードにも見えるように差し出し、取り調べの動画を再生した。

 アデル・ヘガティの聴取映像だ。ティルダとエイプリルが、並んで話を聞いている。

 そもそもが自首に来たのであるから、滞りもなく話は進んでいた。しかし自首に来たという知らせを受けた当初から、捜査チームでは彼女が主犯とは考えにくいと判断している。共犯者がいる、あるいは真犯人を庇っている、そのどちらかだろうと見て二人は取り調べにあたっている。

 話を聞くに、やはりアデルはチャールズと面識があったらしい。エドワードとチャールズの間の偶然があってもなくても、彼女の自白の時点でチャールズは捜査線上に出たのだと思うとカーティスは少々ほっとした。しかし肝心の彼女は、どうも何かを隠していると見えない。この憔悴が演技だとすればパルムドールものだ。

「もしかしてこれさ——」

 エドワードが何か言いかけるのを、動画の中のアデルが遮る。その内容に驚いた。彼女が語っているのは明らかに昨日逮捕したパーシー・セヴァリーのことだ。語られる経緯に聞き入る。消防士——恐らくはチャールズ——とイアン・ドーソンの口論。その場に居たという同僚。

「次の訪問先だね」エドワードがつぶやく。カーティスは頷きを返した。

 動画の中のアデルは話し続ける。消耗した様子ながら、筋道だった話しぶりだ。密かに感心していると、話は核心に辿り着く。音声を聴きながら、カーティスは無意識にティルダの表情を見ていた。鮮明さに欠ける映像の、ほとんど見えない彼女の顔。

 動画が終わる。タブレットを仕舞う。相棒は沈黙している。

 見なくても分かることだった。彼も、自分も、動画のなかの同僚と同じ表情をしているだろう。



     14



「知ろうと思えば、探るまでもなく、彼の動向は入ってきた」

 アデルは静かに話し続けた。

「退院して戻ってきてからは、毎晩のように酔い潰れて、夜中に彼の弟さんが帰れなくなった彼を迎えに来る。時には迎えが来ないこともあって、そういう日には路上で寝ている。殺す機会なんていくらでもあるような気がしました。事故に見せかけることだって難しくはないと思った。道で寝てる日に轢き殺せば、少なくとも故意ではなかったと言い張れそうだし、それを疑われないかもしれない。どうにかして河にでも落とせば、勝手に溺れてくれるかもしれない……」

「ですが、あなたはそうはしなかった」ティルダは確認のように言った。

「ええ、……ほんとうにどうかしていた。人の自殺の理由を、勝手に決めつけて。それもあやふやな噂で……」

「自殺?」

「私は……レナートが死んだのは、イアンが火事の原因と知ったからだと思ったんです」

 消え入るように呟く。ティルダが微かに眉を上げると、アデルは小さく唾を吞んだ。

「そう考えてみると、すべて、腑に落ちる気がしてしまって。レナートがやけに気遣ってくるのも、おかしいといえばおかしいでしょう? イアンが無事に帰ってきただけで、そんな引け目に思うかしら。でももし、兄が火事の原因で、そのせいで私の息子が死んだと知っていたのなら——」

 アデルは次第に早口になり、テーブルの上で拳を握る。

「一度思い込むと全てが裏付けに思えた。消防士がイアンを責めたのも、火事の原因がイアンだと気づいて詰っていたのでは? 消防士だもの、ほかの人にはわからない火事の詳細を知っていたのかも。なのに通報しないのは、きっと証拠がないだとか、なにがしかの理由があるんだわ。あるいはその消防士がレナートと友達だったなら、イアンのせいで彼が死んだと怒っていたのかもしれない。兄が火事の原因で、それを気に病んだ友達が自殺してしまったというなら、『お前のせいだ』とも言うはずだと。『許さない』って、怒るはずだと……」

 アデルはぎゅっと目をつぶった。ティルダの顔は見えなかったはずだが、答えるように彼女は言った。

「分かっています。破綻している。結論ありきなんだもの、どんな推測もぜんぶ言い訳……今思えばレナートは、優しい人なだけだったんでしょう。〝東欧系の大男〟だって、イアンのこととは決まっていない。口論の理由なんて余計分かりっこない。そもそもが、あの店主のその場しのぎのウソだったかもしれなかった。見たかったものに飛びついたの。今なら、……よく、分かるのに」

 ティルダは無言で頷く。今の時点で確度が高いのは、レナートとチャールズが友人同士だったことと、彼らがアデルを訪ねていたこと。パーシー・セヴァリーと見られる人物が〝若い消防士〟と〝東欧系の男〟——おそらくチャールズとイアンの言い争いを聞いていたこと。いや、少なくとも、聞いたとアデルに告げていたこと。

 ティルダはふと、ルカの証言を思い出した。

 今まで事件の捜査線上にチャールズが出てこなかったのは、イアンとチャールズ、いや、レナートとチャールズにつながりがあると分かる機会がなかったからだ。だが当然、ルカはチャールズの存在を知っていたはずではないか。当初からイアンの死にレナートの自殺との関連を疑っていたティルダは、レナートの交友関係についても早い段階で尋ねている。

 そのとき、真っ先に浮かんだであろう兄の親友の名を、ルカはなぜ、口にしなかったのか。

「事件当夜のことを教えてください」ある推測を胸に秘めながら、ティルダは核心に踏み込んだ。

 アデルは、はっきりと頷く。

「あの夜、まだ決心をしていたわけじゃなかった。彼の様子を窺いに、夜出かけて行ったことは、一度や二度ではありませんでした。こっそり彼を尾けたこともある。どういう道を通って、どのあたりに寝転んだりするか、彼の帰り道のどの辺りならひとけがないか……監視カメラがある家や店を日中に確認したりもした。日を空けて、時間を変えて、別の用事があるそぶりで探れば、疑われまいと思ったの。散歩をしてただとか、薬局に用があったとか。問い詰められても言い訳にできる」

「なるほど」もっと広い時間、広い日にちで映像を見るべきだったか。「それで?」

「あの日……私は眠ろうとして、妙に目が冴えて眠れずにいました。体も頭も疲れているのに、なかなか休んでくれようとしない。一人でじっと考えていると、心がどんどん昂っていく。あの子がいない悲しみも、奪われた怒りも、どんどん尖っていくようで、気が変になりそうだった。どうせ眠れないだろうから、あの男のことを見に行ってやろう、と思った。それで少し上着を羽織って、何も持たずに家を出ました」

「それは何時ごろ?」

「いつだったかしら……その少し前に時計を見たとき、まだ十一時にはなってなかったと思うけれど。出た時にはどうだったか……」

 二二時半から二三時すぎまでのどこか、というところか。「分かりました」

「それから……記憶を頼りに、カメラを避けて、彼のよく行く酒場まで歩いて行った。所詮、素人のおばちゃんがやるようなことだから、どこかには写ったでしょうけど、おまじないみたいなものだった。そうしておけば、殺したくなっても大丈夫だって。本当は、たぶん、殺す気もなかった。でもそういうことをしないと、心が落ち着かなかった。気休めのつもりでした」

 ティルダは否定せず先を促す。

「十五分くらいかかったかしら、酒場の近くにたどり着いた。するとちょうど、店から彼が勢いよく飛び出してきて、慌てて物陰に隠れた。どこかのお家の塀だったと思う。彼は誰かに突き飛ばされたようにふらついて、大声で何か怒鳴ったけど、舌が回っていないから、何をいってるか分からなかったわ。腹立ち紛れなのか、店の看板を蹴飛ばして、ぐらぐら揺れながら車道にでた」

 エイプリルがファイルに目を落としている。酒場の店主の証言を確認しているのだろう。

「見てて、嫌な気持ちがした。アルコールがここまで臭うみたいだった。思わず息を止めたくらい、……しばらく見ていると、彼は汚い言葉を怒鳴りながら、千鳥足でこちらへ歩いてきて、車道の真ん中ですっ転んだ。また悪態をついて、起き上がろうとするけど、うまくいかないのね。何度も倒れた。なんとか家のある方を向こうとしてるの。あのとき車が通っていたら、私が何かするまでもなく轢かれていたのじゃないかと思う」

「あなたは、それをただ見ていた?」

「いえ……立ちあがろうとしてはこけて、それを繰り返してるだらしない姿を見てるうち、……今なら、殺せるんじゃないかと思った。あんなにふらふらじゃ、やり返される心配もない気がして。しかも、誰もいないのよ。酒場はすぐ近くだけれど、みんな外を気にする様子はなかった。楽しげな笑い声がして、むしろ音をかき消してくれる……辺りを見回すと、隠れたお家の陰にね、空き瓶が出しっぱなしだった。洗ったのを乾かしていたのか、カゴに入って置きっぱなしで。中に、アイスワインの瓶があった。分かる? ビール瓶みたいに太くなくて、ガラスの分厚い瓶。細長くって重いけど、中身はいくらも入ってないの」

 ティルダは頷いた。見覚えはある。酒店に限らず、元は酒店だったと思しいフランチャイズのコンビニなどでも見かけることがある。銘柄は不明だが、あの手のもののどれかだろう。

「咄嗟にそれを選んだ。私は力がないでしょ。面の広いものよりは、狭いもので殴ったほうが、より深い傷になると思って。足音を忍ばせて、彼の背後に近づいた。息を潜めて、よくよく辺りを見たわ。といっても、夜中だから、街灯の届く範囲しかろくに見えやしなかったけど、隠れ見てるんじゃないかぎり誰かいるなら分かるでしょう。車が停まっているだけで、人の気配はなかった。平気だと思った。やってしまえる。それで——」

 アデルの肩が竦んだ。思わず縮こまった体を、彼女はゆっくり息を吐いてほぐす。

「立ち上がりかけたところを、殴りました。思い切り。……とても鈍い音がした」

「彼は、どうなりました?」

「そのまま地面に潰れて、……動かなかった。私は、しばらく呆然として……ずっと見ていたけど、彼は指先ひとつ動かない。殺せた、と思った。殺したんだわ。そしたら、……急に怖くなった。どうやって帰ったか、よく覚えていません。気づいたら、手に瓶を持ったまま、玄関で立ち尽くしていた。鍵も閉めていなくて」

 エイプリルが何か言いたげにしたのを、ティルダは目で制す。「瓶はどうされました?」

「……捨ててしまったの。ごめんなさい、……ついた血をシンクで洗って、近くのお店の回収ボックスに捨てた。……ああ、でも、シンクに、きっと何か残っていますよね。探せば出てくるかしら」

「あるいは」ティルダは答え、一呼吸置いて尋ねた。「では、それだけ?」

 言葉の意味がわからないような表情をした後に、アデルはハッと口を開いた。「ええ、そう。でも、分からないの」

「分からない?」

「彼を殺したあと、ニュースを見ました。この事件のことが報道されて、肝が潰れる思いがした……でも、そのニュースでは、『遺体は橋の下で見つかった』と言われていた。それは……本当ですか? 私は、彼を殴ったあと、そのまま走って逃げたんです。橋の下になんか、運んでいない」

 エイプリルが声にならないため息をつくのをティルダは感じた。話を聞きながら、胸に兆し始めていた予想が的中したと知る。

 イアンの遺体の詳しい状況——つまり顔が潰され、首が吊られた状態で発見されていたということは、まだ捜査上の秘密として報道機関には伏せていた。あくまで、この地区に住む東欧系の男性が、橋の下で他殺体として見つかったことが報道されただけ。詳細を知っているのは、犯人の他は、警察だけだ。バーナードが言っていた、後頭部の浅い傷。あれは、決して致命傷じゃない。

 アデルはイアンを殺していない。殺したと、思い込んでいたのだ。

 ティルダは漏れそうになる思いをなんとか飲み込んだ。だがそれが、どんな風に顔に出ていたか分からない。無罪でないにせよ、それに近しいことを告げられるはずなのに、少しも心が晴れない。彼女に対する想像を絶ちティルダはそっと目を伏せる。

 終わったら、まずあの二人に録画を送らなければ。確かめてもらうべきことがいくつもある。



     15



 マーガレットからメールが来た。パーシー・セヴァリーに聴取した結果、彼が目撃した言い争いの当事者は、チャールズ・オルコットとイアン・ドーソンで間違いないと答えたらしい。彼が〝その場しのぎのウソ〟をついただけなのかどうかは、これから訪ねる相手が何を話すかにかかっている。

 エドワードは消防署近くの路肩に車を寄せ、エンジンを切った。カーティスと二人、車を降りると消防署へ向かう。今は通報もないのか、署は比較的落ち着いていた。車庫のシャッターが開いていて車の近くに何人かいる。

「すみません」

 車道との境に立って声を掛けると、一団が振り向いた。中に一人、以前のパブに居合わせていた男がいて、顔を明るくする。

「おう、兄ちゃん。久しぶりだな」

「この前はどうも」エドワードはにこやかに応えた。「少しお聞きしたいことがあってお邪魔しました。今は休憩中ですか」

「まあ、そんなとこだな。チャーリーのことか?」

「そうです。あの、——」そこでエドワードは言葉を切り、少し辺りを見回した。「この前、パブにいた人を探してまして。僕のいた席の背後に座ってた人です。名前を聞けてないんですが、チャーリーと同世代で、アフリカ系の——」

「マシューかな?」男の隣にいた、赤毛の男が答えた。「パブにいたかは分からないけど、チャーリーと仲がよかったよ。吞みのメンバーにいたと思う」

「きっとそうだ」パブにいた男が請け合う。「やつなら署の中だ。給湯室にいなければ、娯楽室にいるよ。ビリヤードのある……」

「ありがとうございます。見てきます」

「兄ちゃん、もしかして刑事か?」パブにいた男が不意に訊く。警戒している様子はない。

「実はそうなんです。分かります?」

「分かるよ。なんとなくカタギじゃないような感じがするから」

「カタギじゃないって。そうかなあ。パブで会ったときも気づいてました?」

「いやあ、あんときはよく分からなかった。こうしてコート着て立ってるの見ると、なるほどなってな」男はカーティスに目を向ける。「そっちの兄ちゃんも刑事か?」

「そうです」カーティスは簡単に答えた。

「なんか、そっちの兄ちゃんは、あんま刑事に見えないな。パブで気づかなかったのは、そっちの兄ちゃんのせいもあるよ。刑事というよかお坊ちゃんって感じで。あ、いや、悪い意味じゃないぜ」

「よく言われます」カーティスは柔く笑う。

 それを見て男は言葉に詰まった。ややあって口を開く。「そうかい」

 カーティスは会釈しその場を離れた。エドワードも後に続く。署の建物に入る直前、背後から声が聞こえた。「そう、それだ! ナタリー・ポートマンだ」

 ちらりと隣の彼を見る。カーティスは肩をすくめた。

 受付に身分証を見せ、立ち入りの許可を取る。一階の給湯室に目当ての人物は見当たらず、二階へ上がった。人の声を頼りに歩くと娯楽室にすぐ行き着く。扉は開いていた。五、六人いる。

 開いた扉をゆっくりと叩く。ビリヤード台の傍らで目当ての人物が顔を上げ、身を強ばらせた。

「こんにちは」身分証を掲げながら中へ入る。「お時間よろしいですか?」

「刑事さん?」出窓に腰掛けていた男が立ち上がり、目を細める。

「ええ。少々お聞きしたいことがありまして」エドワードは一瞬視線をそちらへ向けて、すぐに戻した。「かまいませんか?」

「えっと……」青年は何か言おうとしたが、あえなく閉じた。キューを持つ手が揺れる。「ええ、まあ」

「お時間はいただきません。どこか静かなところは?」

「それなら」

 キューを背後の同僚に手渡し、青年は戸の外を指した。先導に従って出る。背後でカーティスが、部屋の面々に会釈をしたのがわかった。

 青年は廊下を進み、曲がり角で立ち止まる。左手に窓があり、観葉植物と消火器が隅に置かれている。

「ここ、あんま人来ないから」

「どうも」軽く頭を下げ、エドワードは手帳を取り出した。「あなたが〝マシュー〟?」

「はい」落ち着かなげな顔。「マシュー・ピース」

「ピースさん。先日は身分も明かさず失礼しました。というのも、あの時点では捜査ではなかったもので」

「あの時点では?」

「ええ。実は、彼の妹さんから個人的に頼まれましてね。死の原因を探ってほしいと。その後、いろいろ分かりまして」

「なるほど」青年は頷き、それから頭を搔いた。「どこまでご存じで?」

「それは我々が言う前に、」横でカーティスが声を発した。「あなたの口から聞きたい」

 マシュー・ピースはうつむき、顎をさする。長い間があった。やがてピースは険しくなった眉間を開き、息をつく。

「親友が死んだんですよ。彼の親友が、一ヶ月前」

「ええ」とエドワード。

「それでチャールズはずっと怒ってた。正直、ちょっとやばかった。ずっと苛ついてるし、なんていうか……爆発するのを堪えてるみたいな。でもそういうのを人前に出すって、普通じゃないでしょ。あんま触れらんなくて」

「ええ、分かります」

「それでもつるんでるから、まあ、少し聞いてみたりもしたけど、詳しいことは言わなかった。話題が話題だから、こっちも突っ込めないし。で、……ある晩、吞みに出た時に……いたんですよ。イアンが」

「それは店に?」

「いや、店を追い出されてるところでした」ピースは店名を口にした。「行ったことあります? この辺ですよ。水色のださい看板の店。店主が怒ってて、二度と顔を見せるなとか喚いてたな。イアンのほうも怒鳴って。それを見たチャーリーが、いきなり殴りかかったんです」

「いきなり?」

「止める暇もなかったですよ。慌てて追いついて羽交い締めにしたけど、俺一人じゃちょっと。ほんとキレてて」

「彼はなんて?」

「いや、……」ピースはにわかに口ごもる。「よく、分かんなかったけど。『お前のせいだ』とか」

「他には?」カーティスが静かに尋ねる。

「他って、」言い返そうとして、思い当たることがあったのだろう、彼はすぐに口を閉じた。じき答える。「……『許さない』、とか。あと、なんか……」

 カーティスの顔を窺って、焦りを浮かべた。目を逸らしたが、また、口を開く。

「……『落とし前をつけてやる』、とか」

「念のためお聞きしますが、」エドワードは言った。「ここの署内で、先々月の火事の原因について噂が流れたことはないですか」

「噂? いえ、別に。……あれは事故でしょ? ニュース見ましたよ」

「ええ、そうだと思います。念のためです」重ねて言う。

「そんなことがあったから、……ちょっと、言いづらかったんです。イアンが死んですぐ、チャールズも首を吊ったでしょ。もしかして、と思ったりして。けどチャーリーは死んじゃってるし。簡単には言えない、っていうか」

 エドワードは頷いた。もちろん、心当たりがあるのなら言うべきだったとは思うが、死者の名誉を損なうと思えば軽率に話せないのはわかる。現に正式な聞き込みであれば、こうして話してくれている。

「他に何か、気になることはなかったですか。心当たりは? チャールズがイアンに対して、そこまで怒っていた理由だとか」

 カーティスが尋ねると、ピースは彼のほうを向き、また顎をさすった。「関係あるかは、分かんないですけど……」

「ええ。なんでも」

「もとはと言えば、イアンの命の恩人はチャーリーなんですよ」

「……つまり?」

「あの火事の日に、サーカスのテントからイアンを救助したのはチャーリーなんです」ピースは言った。「最初に外に運び出してね。俺も、現場にいましたから」



     ◆




     八月十六日


 ドアが開いたとき、俺はまだ起きていて、ラジオを点けたままノートを開いていた。兄は音を立てないようにリビングへやってくる。

「やあ、ルカ」

「兄さん」俺はノートから目を上げた。「おかえり。楽しかった?」

「うん」兄はコートを脱ぎ、壁のフックにかける。「楽しかった」

 その横顔を見てラジオを消した。ノートも閉じる。「紅茶でも?」

「勉強はいいの?」

「休憩。ちょうどいいから」席を立ってキッチンへ向かう。「ミルクは?」

「じゃあ、なしで。ありがとう」

 ポットにたっぷり紅茶を入れ、マグ二つとともにトレイに載せる。シュガーポットはテーブルの上に出しっぱなしだ。差し出すと、兄は砂糖をふた匙入れて口をつけた。

「喧嘩でもした?」

「え? どうして」兄は慌ててマグを置く。「してないよ」

「そう? でもなんか、」俺は喉の辺りを指差し、くるくると回した。「小骨が刺さったみたい」

 沈黙が降りた。うなじをさすりながら、兄は答える。

「別に、なんでもないよ。ほんとに」

「言いたくないならいいけど」

「そういうわけじゃ。……そんな浮かない顔してる?」

「さあ? なんとなくね」俺は肩をすくめてみせた。「弟のカンだよ」

 確か今日は、スクールの頃からの友人と会っていたはずだ。チャールズというんだったか、何度か顔を見たことがある。正直、苦手なタイプだ。悪い人じゃないんだろうけど、人の足を踏んでおいて気づかないようなところがある。兄はどうして彼と仲良くしていられるのか不思議だった。いや、それに関して、俺はうっすらと察していた。

「彼はいい人だけど、ちょっと無神経だろ。傷つくようなこと言われたんじゃない?」

「なんでそう思うんだよ」兄は笑う。「お土産目当て? 買ってきてないよ」

 俺がなんとなく黙っていると、兄は眉を下げた。

「ごめん。今のはよくなかった」

「え? いや、気にしてないよ」軽くいなす。本心だった。

「でもさ、心配してくれたんだろ。なのに茶化したりして」

「まあね。そうだな、傷つくな?」俺は身を乗り出して兄を覗き込んだ。「俺に相談はできない?」

「そんなんじゃないよ」兄はまた言った。「ほんとに大丈夫。なんも悲しいことなんてない」

 片眉を上げて兄を見る。兄は兄なりに精一杯のポーカーフェイスを気取っている。兄は隠し事が下手だ。隠し事が下手だと自覚している。兄は俺に悟られていることも多分知っている。そして、俺がもう一歩、踏み込まずに引き下がることも。

「それなら、信じておくよ。兄貴」

 兄は笑う。片頬だけ少し深い。俺はこの笑みを、俺に対して向けているのしか見たことがない。

 例えばチャールズは、兄のこういう笑い方を知っているだろうか。きっと、知らないだろうという気がした。兄はこの顔を見せないだろう。

「でもさ、」俺は取りなすように言った。「少しは俺のことも頼ってよ。一応、成人したんだし」

「そうだね。そうだけど、やっぱりいいよ。ほんとは俺がもっとちゃんと稼がなくっちゃいけないのに、猶予もらってるんだし」

「気にすることない。兄さんは、いずれ学問をするべき人だ」俺は閉じたノートを叩いた。「金のためにやる俺と違って」

「そんな言い方するもんじゃない」兄は苦笑する。「お前だってよくやってる。それこそ教授に声かけられないか?」

「いや、ないな。AとAプラスの差だ」俺はノートを遠ざけた。「板書取ってて話聞いてて、本読む頭があればAくらい大抵取れる。そうでしょ、兄さん」

 兄は困った顔だった。こんな言いぶりに頷ける人じゃないことはよく知っている。

「ともかく、稼ぎはほっとけよ」俺は言った。「あと数年で俺が就職して、それなりの給与を取ってくる。そしたらまともに暮らせるさ。イアンのこともどうにかなる」

 兄は緊張を顔に走らせ身を屈めた。「兄さんは?」

「あいつが家にいるのに言うほど迂闊に見える? 酒場だよ。快気祝いとばかりにまた飲み歩きだ」

「けっこう遅いぞ」兄はリビングの時計を見た。「倒れてないかな?」

「大丈夫だって。仮に倒れていたとしても、夏に凍死はしないだろ」

「けど……」

「それに例えばこのままトラックに轢かれてくれたら助かるじゃないか。今後あいつが起こすトラブルやその後始末に怯えずに済む。あと、怒鳴り声にも」

 兄の眉根が寄った。「ルカ」

 言わんとする意味は分かったが、俺は澄まし顔を続けた。

「どうして? ほんとうのことだろ」

「……お前が嫌な思いをたくさんしてきたことはわかってる。でも、」

「俺だけじゃないだろ。兄さんも母さんも、あんな奴のために肩身を狭くして。馬鹿馬鹿しくないの」

「あの人だって暴れたいわけじゃないんだよ」兄は俯く。「自分でもどうしようもないんだ」

「だったら治療なりしてもらうべきだろ。それを言い出したらキレて、花瓶を床に投げつける。同情してやる理由なんかある?」

「それでも、」兄は堪えるように言った。「轢かれてくれたらいいなんて、言うべきじゃない。いつか後悔する」

 俺は口をつぐんだ。この話題については、俺と兄はいつも平行線だ。

 だからそれ以上話さなかった。俺はいつもそうだ。ほんの少しいた、目につくが躓きはしないような溝を、埋める努力をしなかった。完璧には埋まらないとわかっていて、それでも、土をかき集めてみることを。

「紅茶、ありがとう。根を詰めるなよ」 

 兄は立ち上がり、飲み干したマグをシンクに下げに行った。俺は、あいまいに頷いてやり過ごし、それから傍らのノートに触れる。でも開く気になれなかった。もう少し進めるつもりだったが、ここでやめても支障はない。

「そういえば」寝室への階段に足をかけた瞬間に、立ち止まって兄は言った。「明日はいないんだっけ、夜?」

「あ、うん。友人の婚約祝い。歩いて帰れる距離だから泊まりはしないけど、夜中になりそう」

「分かった」兄は手すりを握る。「楽しんで」

 うん、と答えたとき、俺は、兄の顔を見ていなかった。ペンケースに筆記用具を納め、ノートの上に置こうとしていた。階段を上る足音を聞きながらトレーに茶器を載せ、シンクに下げて水につける。

 翌日、俺は、何も知らずに出かけた。朝、食卓の向かいにいた兄にいつもと違うところはなかった。でもあのときには、決めていたんだろう。

 どうしようもないことなのに、どうしたって考えてしまう。

 あの夜、なにか一つ違ったら。兄はまだ、ここにいたんだろうか。

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