九月十八日 - 後半



    16



 事件現場に立ち、ティルダは地図を開く。地図にはいくつかの書き込みがある。ドーソン家の場所、遺体発見現場、『帰り道』のルカが写った防犯カメラの位置、チャールズ・オルコットの家——消防署の宿舎ではなく、彼が自殺した実家——そして、この酒場。エイプリルはティルダの右手に立ち、記録用のカメラで路上を撮影している。

「街灯はひとつね」ティルダは目を上げ、店の周囲を見遣った。

「っすね。夜はかなり暗いと思います」エイプリルがカメラを下ろす。「ちょっと物陰に隠れれば、イアンは気付けなかったんじゃないすか」

 ティルダは頷き、夜道を思い浮かべた。民家の陰に隠れたアデルをイアンは見つけられなかっただろうが、同じことはアデルの側にも言える。街頭の下に出てワインボトルをふり翳したとき、目撃者がいたとしてもアデルにはわからなかっただろう。そうでなくともその瞬間、彼女の意識はイアン・ドーソンに集中していたはずだ。

「証言と矛盾はない気がしますけど」エイプリルが表情を変えぬまま尋ねた。「なんか引っかかることでも?」

 ティルダは答えず、地図に目を落とす。供述に沿って、アデルのたどった道筋をなぞり——次いでもう一人﹅﹅﹅﹅の証言をなぞった。不確かな部分に至りさまよった指先が、不意にあるものを見つける。道順と、方角と、地点。かかるであろう時間。ざっと脳裏で計算したが無理はなかった。十分に、可能だ。

「署に連絡して。調べてもらいたいことがある」

「なんですか?」

「北西の駅の防犯カメラ」ティルダは地図を示しながら、駅名を告げた。「ここから五分で最寄り駅に着く」

 エイプリルは地図へと寄りながら目を細めた。「どこの最寄りです?」

「チャールズ・オルコットの実家」

 エイプリルの足が止まる。ティルダは地図をたたみ、スマートフォンを出した。

「今から聴取に向かうわよ。ルカ・ドーソンに聞くことがある」



 ティルダらが現場に向かう十数分前、カーティスとエドワードは別の酒場を訪れていた。チャールズとイアンが口論したという場所だ。証言通り、安っぽい水色のペンキで塗られた立て看板がある。長身を曲げて店を覗くと、エドワードはカーティスを振り返った。

「空いてるよ。入る?」

 頷き、先に立つ。ガラスのドアを押し開くとベルが鳴った。

「いらっしゃい」

 カーティスは身分証を開く。「こんにちは。少しよろしいですか」

「警察?」店主が顔をしかめる。「またイアンのことか? あいつにどんな目に遭わされたかはもう他の人に話したよ」

「確かにイアン・ドーソン氏についてのことですが、お聞きしたいのは別件です」カーティスは丁寧に言った。「以前、貴店の店先でイアン氏と消防士の一団が揉めたことがあったと伺いました。そのときのことを覚えているかと」

「ああ……そんなこともあったな」店主は太い腕を組む。「消防士の一団というか、その中の一人がキレててな。イアンになんかされたんだろう。ドアの向こうでのことだから俺はチラッと見てただけだが、そいつの怒鳴り声がたまに聞こえたよ。うちによく来るやつなんだが……」

「チャールズ・オルコットですね」

「苗字は知らない。けどまあ確かにチャーリーって呼ばれていたな。そいつが犯人か?」

「まだ捜査中です。聞こえてきた怒鳴り声はどんなものでした?」

「よく分からないよ、ドア越しだしな。許さないとか殺してやるとか、たぶんそんなこと言ってたよ。でもなあ」

 店主は呆れ顔をした。あるいは、呆れていることを二人に示したいという顔を。

「イアンのことを殺してやると思ってたやつはたくさんいるぜ。俺だってそうだ。あのやろう、俺の鼻っ面へし折りやがって……」

「家族のことで揉めたんでした?」ふと、エドワードが言った。「調書にはそんなふうにしか書いていなくて。よかったら詳しくお聞きしたいな」

 一時期イアンがよく通っていたこの酒場の店主にも、当然聴取は及んでいる。向かう道中、車内で調書を確認したが、似たような話が山ほどあったせいかあまり詳細な内容でなかった。イアンの家族を悪く言って揉め事になり、鼻柱を殴り折られたらしい。しかし家族とは誰のことで、そもそも何を言ったのか。

「大したことじゃない」店主はたちまち渋面となった。「ちょっと悪し様に言っただけだ。何も殴られるようなことじゃ……」

「そりゃ、そうでしょう」エドワードは愉快げに笑う。「何を言ったにせよ鼻を折られる謂れはない。傷害罪ですから」

 店主はしばらく訝しげに彼を見ていたが、やがて開き直ったように鼻息をついた。

「ただ俺は『お前の弟をうちに寄り付かすな』と言っただけだ。やつの弟、例の消防士の友達らしくてな。二、三度うちにきやがった。ああいうやつに敷居を跨いでほしくないんだ。世の中がどうであれ、俺は自分の店に入れるのはごめんだね」

 一歩踏み出しかけたところに、エドワードの腕が伸ばされた。カウンターの死角になって恐らく見えなかったろう。

「それは、つまり?」

「分かんないか?」店主は心底嫌気が差すという顔だ。「あっち﹅﹅﹅なんだ。言われなくたって見りゃ分かる。消防士のほうは気づいていないようだがな、あんなのを連れて来やがって」

 カーティスは無言で見つめる。気づいて、店主が眉をしかめた。

「なんだ。客を選ぶ権利はあるだろ」

 カーティスの視線を切るようにエドワードは言った。「なるほど。そういうことで」

 それから彼は意味ありげに店内を見遣り、ほとんどを占める空席を眺めて、笑う。

「ご協力どうも」

 くるりと踵を返す彼を、慌てて追う。店を出かけたところで店主の低い声がかかった。

「おい。今のは?」

「いえ」

 エドワードは普段通りの顔つきで、僅かに振り返る。

「客も、店を選びますからね」

 返事を聞かずに出ていく。カーティスは、少し意外な気がしていた。



「ああいうこと、言うと思わなかった」

 助手席に座り、カーティスは言った。しばらく走ってコーヒースタンドを見つけ、ブレイクを入れているところだ。

「だってさ、」エドワードは両眉を上げる。「すぐ横で君が、今にも刺し殺しかねない顔をしてるんだもの。やばいと思うでしょ」

「つまり俺のガス抜きのためか?」

「それが六割ってところかな。いや六割五分」

 分かっているのについ、言わせたくなる。「三割五分は?」

「いちいち聞くなよ」やはり珍しく不機嫌な声で彼は言う。「俺が苛ついた」

 だがカーティスは満足げに、あるいは得意げに笑みを浮かべてカップに口づけた。今日はティーラテだ。

 エドワードもカーティスも、恋愛や性欲において支配的な枠組み——ひと組﹅﹅﹅恋愛﹅﹅性交する﹅﹅﹅﹅——にすんなり馴染める人間じゃない。合わない箇所はいくつかあって、それぞれに名をつけるならどれが近いかも知ってはいるが、自称する気はなかった。自分は自分、それだけだ。何かに属すつもりもない。

 でも同じようにはみ出す人が軽んじられて、いい気はしない。

「僕、君のそういうところが好き」

 少しく甘い声で言うと、彼はかえって顔をしかめる。

「知らないな。お気に召すために苛ついたんじゃない」

 ぞんざいな言いぶりだった。全くよそゆき﹅﹅﹅﹅でない声は、開き直っているようにも聞こえる。その口調はカーティスにとっては懐かしいものだったが、署の他の面々は聞いたこともないだろう。

 カーティスは向き直り、彼の横顔に話しかけた。

「レナートは、カムアウトしてたかな。家族は知っていただろうか」

「どうかな、少なくともチャーリーは知らなかったろうね」すでにしていつもの調子を半ば取り戻し彼は言う。「僕でも彼に言う気はしない」

「彼は差別的なの?」

「そうじゃないよ。だからより億劫だ」

「というと」

「悪意はないし敵意もないが何も分かっちゃいないんだ」エドワードはカップをホルダーに置いた。「対処に困るだろ? 小さくあれこれささくれ立つのを完全に無視はできないし、かと言っていちいち説明して謝らせたりするのもだるい。そんなことから言って聞かせなきゃならねえのかよと呆れもする。ならはじめから避けといたほうがラクだって、誰でも思う」

「なるほどね」カーティスは頷き、また口を開く。「レナートが言ってなかったとして……イアンはなぜ怒ったんだろう」

「さあね。『俺の弟をホモ﹅﹅呼ばわりしやがって』とキレたのかも。あるいは案外察していて、義憤があったのかもしれない。ま、どちらにせよ……」エディはハンドルを叩く。「自分に属するものを罵られたから、怒ったんじゃない?」

 黙って、考える。現実を捉える視線につい願望が混ざりがちな自分は、どこかいいふうに考えようとしてしまう面がある。今回も彼の言うようなことが実際に近いのだろう。だが、それだって「本当」じゃない。人の気持ち、人の考えは、外の誰にも分かりっこない。もしかすると当の本人にさえ。

 チャールズの遺書に思いを馳せる。この案件に関わってから、幾度となく思い浮かべている。『俺は間違えた』。いったい何を?

 これまでの捜査で分かったことを繋ぎ合わせれば、イアンを救助したことを指しているのではないかと思える。実際、アンバーの証言、それからマシュー・ピースの証言を聞いた際にはそのように思った。あのとき見殺しにしておけば、レナートは自殺しなかったかもしれないと彼が考えていたなら、イアンを救助したことは明確な〝間違い〟になる。『落とし前をつけさせる』とは少なくともそういう意味だろう。レナートが死んだ責任を取らせてやる、ということ。

 しかし、それでは違和感があるのだ。

 イアン・ドーソン殺害の動機としてはすんなりと落ちても、その後の自殺の動機として見ると、どうもこれは腑に落ちない。エドワードの見方も考慮のうちだが、そうでなくともよく考えればこれは遺書の文言のはずだ。「間違えた」というのは、イアンを殺した理由﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅ではなく自分がこれから死ぬ理由﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅だ。遺書で殺害を自白し、そのどこかにこの一文があったなら辻褄も合うが、実際はそうではない。いや、ほんとうにこの遺書は、これで全文なのだろうか?

「もう一度、チャールズの実家に」カーティスは言った。「何か隠しているかもしれない」

「了解」エドワードはギアを入れ、アクセルを踏む。

 それはいささか急な発進で、カーティスは危うくティーラテをこぼしそうになった。

 


 ドーソン家へ向かう途中、二つ連絡が入った。まずは署からで、防犯カメラの解析結果だ。予想通りのものが出てきたことを確かめ、次の連絡を見る。こちらはカーティスからだった。少し、眉が曇る。

「どうかしたんすか?」

 ハンドルを切りながらエイプリルが尋ねた。

「チャールズとイアンが口論したという酒場に行ってくれたみたい。そこの店主、イアンに殴られて、全治何週間かの怪我をしたでしょ」ティルダは店名を出した。「うちのチームでも一度聴取したはずだけど、あまり突っ込んで聞かなかった」

「その手のやつは何人もいましたからね。新情報ですか?」

「ええ。そもそもの喧嘩の原因、覚えてる?」

「えーと。確か店主がイアンの家族に文句つけたとか」

「そう。どうやら、レナートはゲイだから、店に入れるなと言ったみたい」

 いくらか、間が空いた。「なるほど」

 ティルダはどうしても険しくなる眉間を指で押さえ、俯いた。いろいろなことが頭をよぎる。

 エイプリルの運転する車が交差点を抜け、路地へ入ろうとしている。ティルダは、まだ沈まない日の眩しさに目をすがめ、ため息をついた。

「だいぶ前に、レズビアンの恋愛を描いたドラマが流行ったでしょ。覚えてる?」

「ああ、ありましたね。わりと過激なの」

「私はあのドラマ、観ていないんだけど。いつだか実家に帰ったときに、再放送を母が観ててね。暇つぶしに点けていたみたい」

 その日、母は紅茶を片手に、テレビの画面を眺めていた。いつもの雨が窓の外を濡らし、ティルダは部屋からリビングへ出てきたところだった。後ろに立っていることに気づいた母はちょっと振り返り、何事か話しかけたあと、テレビを消しながらつぶやいた。ほんの些細な言葉。

「そのとき母が言ったことがずっと頭に残ってる。もう何年も前のことだけど」

 エイプリルは表情を崩さず、淡々と言った。

「ありますよね。そういうの」

 ティルダは頷き、車窓に目を向ける。長年の雨が染み込んだ石造りの街並みは、晴れた日でもどこか憂鬱に映る。

 エイプリルの一言に、ティルダは素直に同意していた。そういうことはあるものだ。微かな摩擦。擦り傷にすらならないざらつきが、それでも指の先に残っている。

 画面が消える直前、映っていたのは、ソファに隣り合った二人だ。片方がもう片方の膝に手を滑らせていた。それを観て母はつぶやいた。女同士で乳繰り合って、いやらしい。

 意地になっているのかもしれない。それでもけして言うまい、と思う。いまティルダが人生を共にしたいと思っている相手を、母には決して教えない。ティルダは男性と付き合うこともあるから、母は想像もしていないだろう。

 エイプリルの操るホンダが住宅街を縫う。彼女のハンドル捌きはエドワード並みだ。もちろんこれは褒め言葉ではなく、二人ともあまり細かなこと——歩行者の安全や同乗者の快適さなど——を気にしないドライバーである。ティルダは軽いめまいを覚えた。拍子に物思いが途切れ、事件が意識に立ち上ってくる。

 レナートのことをティルダは近隣住人の証言でしか知らない。だが同じような些細な瑕を彼もきっと負っていたはずだ。目には見えないほど細かな、擦れのような瑕。それらは積み重なり、やがて透明なガラスを曇らす。彼の心が砕けた理由が何かは誰にも分からないが、少なくともその遠因にこれらの瑕はあったはずだ。あらゆることの積み重ね。彼に関わったあらゆる人の——それは、彼自身も含めて。

 前方左手にドーソン家が見える。百メートルほど距離をあけ、エイプリルは一度車を止めた。

「どうします?」

「どうって、何が。聴取をしに来たんでしょう」

「いえ。聞くかどうかです。今わかったこと」

 ティルダは浅く頷いた。「聞くほか、ないでしょう」

 エイプリルもまた頷いて、そのまま静かにエンジンを切る。ティルダは、シートベルトを外した。



     17




     九月九日


 思いがけないことが起こった。目の前でイアンが殴られた。ガラスが鈍い音を立て、あの巨体が地に伏せる重たい音が響く。瓶を持つその背は、胸が痛むほど痩せていて、髪は艶を失っている、一眼で誰なのか分かった。彼女は、しばらく呆然とその場に立ち尽くしていたが、やがて突然一歩退くと、そのまま背後へと駆け出した。俺に気づくこともなく、暗闇に、すぐに姿が吞まれる。取り乱した足音が全く聞こえなくなって、俺は物陰から顔を出す。

 酒場の二つ先にある空き地に、車を停めて待ち伏せをしていた。車内に身を潜め、イアンが吞んだくれて、ふらふら出てくるのを待っていた。そう長く経つこともなく望み通りの状況が来た。鈍器を握りしめ、車を降りようとした瞬間、目の端に何かが過ぎり俺は咄嗟に動きを止めた。そちらを向いて声が出かけた。ほとんど寝巻きのままで、彼女がうつろに歩み出ている。火事で亡くなった少年の母親。俺が救えなかった、あの子の母。

 何をする気だ?

 幸い、イアンは背後に迫る彼女の姿に気づいていない。よく見ると、頼りない足取りで近づいていく彼女の手には、細い瓶が握られていた。ワインのボトル?

 嫌な予感がして、俺はゆっくりとドアを開け、車の外へ滑り出る。多少の音は立ったはずだが彼女もまた気づく気配がない。イアンのほかに何も見えていない。彼女が、震える手を振り上げる。

 そこから先は言った通りだ。イアンは、倒れたままでいる。

 あたりを窺いながら、俺は彼に近づく。間近に立ってもみじろぎひとつない。膝をつき、耳を寄せると、かろうじて息をしているとわかった。安堵する。こんなゴミのために、彼女が殺人犯になるのは忍びない。とはいえあの一撃は、酒でグズグズの脳みそにはそれなりに効いたろう。計画していた段取りの一つが思いがけずカットされたが、その先は特に変わらない。俺はやつの襟首を摑み、引き上げて、なんとか背負う。

 難儀しながら車まで運ぶ。後部座席に引き摺り込んで、反対側から出、ドアを閉めた。

 この辺りの地図ならばまるまる頭に入っている。どこの家の玄関に〝本物の〟カメラがあるか、どこの店のドアに『セキュリティ警戒中』のシールが貼ってあるのかも。覚えている限りの防犯カメラは全て避けてきたはずだ。そもそもこの辺りは防犯意識がそこまで高い地区じゃない。……というより、防犯をする余裕がないのだが。なんにせよ難しくはなかった。

 自首はするつもりでいたが、途中で気が変わることもある。それにどうせなら完璧にやり通してみたかった。映画やコミックのような真似が果たして本当に出来るかどうか? 最後は責任を取るにしても、自首をしようがしまいがさほど関係ないような下手な犯行をするより、見事にやってのけた上で出て行ったほうが、格好もつく。

 高揚していたのだと思う。あるいは、酔っていたのかもしれない。

 トランクの中にはレスキュー用のロープと、放水ホースが入っている。ホースの先端の金具は重い。これで顔を叩き潰してやるつもりだった。気絶させるために使うはずだったバールは出番を失って、助手席に転がされている。夜半の道路に人影はない。

 目的の橋桁に着き、車を土手に横付けする。まずトランクから道具を出して土手下へ放り投げた。それから後部座席を開き、ぐったり伸びたイアンを引き摺る。草に跡がつくのは気にせず、そのまま下まで滑らせた。途中、イアンがくぐもった呻きを上げた。詰まった鼻が鳴る音が混じり、鼾にも聞こえた。

 橋の鉄骨に縄を渡す。こういうとき、消防士縛り﹅﹅﹅﹅﹅をすると足がつくのは分かってる。といってもレスキュー用のロープを使ってる時点で、と思うが、ロープ自体は別に市販品、他の用途でも使われるものだ。どの倉庫から持ち出されたかは当たりをつけなきゃ分かるまい。

 先端をスリップノットにする。吊り下げたら、ぎゅっと絞まるように。

 その輪をイアンの首にかける。大きめに作ったつもりだが、もうこの時点でぎゅうぎゅうだ。でかい頭になんとか潜らせ、くびれのくの字もない首に回す。鼻を鳴らす音といい豚みたいな野郎だ。いや、豚はけっこう愛くるしいし、食ったらうまいし、トリュフも探す。こんなやつの喩えに使っちゃかわいそうだ。

 どうでもいいことを考えている。これから人を殺すっていうのに。

 襟首をつかみ、鉄骨の真下へ。投げ捨てるように手を放し、渡したロープの片方を持った。少しずつ、引き上げていく。上半身が持ち上がったところで、イアンがまた呻いた。

 目が開く。きょろきょろと動く目が、俺を向く。焦点は合わない。

 俺は気にせず引き上げ続けた。尻が浮いて、状況が少し分かったか、イアンは首に食い込む縄を両手で摑んだ。じたばたもがき始める。アルコールのおかげで大した力じゃないが、あの重量の人間が動くというだけですごい負荷だ。腰を落とし、力を込める。思った以上にきつい。

 イアンが何か言う。聞き取れない。ちゃんと聞いてやるつもりもない。動きが激しくなる。足が浮く。引っ張り上げたままロープの端を鉄骨に結び固定した。爪先が掠る距離。サンダルが脱げて落ち、俺はそれを拾って、河に投げる。

 もがくイアンを見つめる。よれよれのタンクトップ。ゴムの緩んだスラックス。脱げかけたそれから、さらにたるんだ下着が覗き、強い酒の臭いがした。何度考えても、いくら見つめても答えは変わらなかった。こいつは無様で、この男がこれから死ぬことに俺は何の疑問もない。

 鈍器がわりのホースを拾う。イアンのもがきが、戸惑うように弱まる。

「このまま首吊りで死なせてやってもいいかもな。だけどそれじゃあ、お前の死に方がレナートと同じってことになっちまう。それは俺には許せない」

 レナートの名が出て、イアンが目を開いたのが分かった。やっと俺が誰なのか分かったのかもしれない。どうでもいい。

「あいつが死んで、ずっと考えてる。死ぬとききっと苦しかったよな。誰にも気づかれず、死ぬまでの長い時間を一人で苦しんだんだよな。あいつは、世界で一人ぼっちみたいな気持ちで死んだんじゃないか? 同じ家でお前らは寝てて、でも誰もあいつを助けにはこなくて、俺も吞気にベッドで寝てた。あいつが死に向かっていることにこの世の誰も気がついてなくて、あいつは、独りで死んだ。たった一人で、きっと、すごく、寂しかったんじゃないか——」

 誰かが遠くで駆けている音が聞こえた。ランナーだろうか。もしかしたら河沿いを走ってくるかもしれない。でも、足音は近づくどころか、遠ざかっていくようだった。音は南へと消えていく。

「俺は、そう考えるたび、辺りかまわず叫びそうになる。分かるか? 何か叫んでないと、正気でいられないような気になる。ずっと考えてた。何度考えても、お前はあのとき死ぬべきだった。あの火事現場で死ねばよかった。でも俺が救っちまったから、お前は生きて、あいつは死んだ。せめて釣り合いを取りたいだけだ。あいつは一人で死んだのに、お前がのうのうと生きているままじゃ釣り合わない。そう思わないか?」

 イアンがまた何か言おうとしている。少し耳を寄せてみたが、潰れかけた喉が出す音を判別するのは不可能だ。かと言って縄を緩める理由もない。通じないと分かったのか、イアンは声を出すのをやめた。そして、じっと俺を見る。見つめてくる。その目——その目が、俺は、堪らなく嫌だった。

「なんだよ」

 悲しげな、切なげな。そして哀れむような、鳶色の目。

 レナートの瞳を思い出した。そんな自分に腹が立った。兄弟だから同じ色なのは不思議じゃない。それでも、こいつを見て、レナートを思い出したくない。そんなのは侮辱だ。あいつの、冒瀆だ。

「見るな!」

 ホースを振りかぶり、顔に叩きつけた。軟骨の砕ける音がする。二度、三度、四度と殴り、まだ殴った。声を上げながら、夢中になってホースを振った。顔に血や体液がかかる。自分を動かしてるものが、自分の意思なのかわからない。

 気がつくと、イアンは死んでいた。丸太のような脚の先っぽが、ゆらゆらと、地面を指していた。



     ◆



 オルコット宅に着いてすぐ、眉を曇らせ出てきたアンバーにエドワードはにこやかな笑みで、「すみません、お兄様の部屋を見せていただけませんか」と言った。道中にかけた電話では、確かめたいことがあるとしか伝えていない。

「兄の部屋ですか?」

「ええ。新たな情報が入って……いろいろ確認したいことができたんです。部屋を見てわかるとも限りませんが、いったん調べたくて」

「別に、構いませんけど……散らかってますよ。あれから入ってもいないので……」

 そのほうがずっと好都合だ、とカーティスは思ったが、顔には出さない。

「問題ありません」

 アンバーに案内され、二階への階段を上る。ドアには特にプレートなどはなく、また色が塗られてもいない。長男と長女がいるだけだから、間違って入ることもないだろう。

「ご案内どうも」

 エドワードはそう言って、ラテックス製の手袋を取り出す。カーティスも倣って両手に嵌めた。アンバーは戸口のあたりでしばらく戸惑っていたが、部屋に入った二人が立ったままアンバーを見遣ると、察したようで階下へ向かった。ドアを閉め、中を見回す。

 部屋は確かに散らかっている。スウェットの上下やジーンズ、靴下、Tシャツの類いがバラバラに床やソファ、ラックに置かれて、食べ切ったスナック類の袋もところどころに投げっぱなし。だがそういった許容範囲のだらしなさを除けば、そこそこまともな状態だった。少なくとも足の踏み場は見つけられるし、異様な臭いが漂うこともない。

 ドアを背に、向かって右手に黒いスチールのラックがある。四段で、一番下にストレージボックスが二つ。その上の段はスウェットとジーンズが投げ置かれていて、上の二段には本や円盤が収納されていた。映画をよく観るのか、マーベルシリーズのほぼ全作と、イメージからして意外なタイトルのブルーレイも並んでいる。カーティスが『ムーンライト』の背をまじまじと見ていると、エドワードは「あの子の趣味かな」と言った。

「あの子?」

「レナートだよ。おすすめされたんじゃない?」

 そう言うエドワードは左手奥、大きめの木製デスクの上を眺めていた。ティーンの頃に買い与えられた勉強机をそのまま使っていたのだろう。右側に広いマウスパッド、左側にメモやペン。奥のデスクトップパソコンの脇に、コミックヒーローが空を飛ぶ姿がクリップになったカードホルダーがある。そこには恐らく、アンバーが元の通りに戻したのだろう名刺が挿さっていた。エドワードのものだ。

「どうして僕のを引っ張り出してきたかな。何の用だったんだか」

「さあな。死なれちゃ分からない」

 カーティスはラックを通り過ぎ、シングルベッドの足下に立った。そう広い部屋ではないから、これでエドワードとカーティスはほとんど隣に立つことになる。窓は部屋の正面と、ベッドの頭側に一つずつ。どちらも二枚でスライド式だ。視線を下ろすと、窓から落ちた日を何かが弾いた。近寄って、覗き込む。細長い銀色のもの。

 ペーパーナイフ? なぜこんなところに。

 上体を起こし、口元に手を置く。ふと背後を振り返ると、ドア周辺の床だけが奇妙に真新しいと分かった。床一面にカーペットが敷かれているのにそこだけ剥がされたのだ。その意味を思い出し、カーティスはそっと目を逸らす。

「うーん、」エドワードがメモパッドをめくりながら呟く。「筆跡はあるけど、ひと言だけだ。ほんとうに遺書はあれだけか……」

 彼はデスクの上の引き出しを開けはじめた。からからと鳴る音を聞くに、大したものは入っていないらしい。

 再びベッドを向いた視線が、壁との隙間に吸い寄せられた。微かな違和感。壁の生成り色に同化して危うく見過ごしかけたが、ごく小さな、何かの角が、僅かに顔を出している。どうやら紙だ。偶然入り込んでしまったのか。あるいは、あえて隠したのか。

 カーティスは身を屈め、その端を注意深くつまんだ。慎重に持ち上げ、ベッドの枠とマットレスを除けるように押さえる。やがて引き出されたのは、封を開けた手紙だった。淡いクリーム色の上質紙。

 エドワードが振り返る。「なにそれ?」

 カーティスは封筒を開き、蓋になっていた端を見る。山なりの先、三角形の内側に細かな文字が並んでいる。差出人の住所と名前だ。そこに書いてあるものを、読む前からカーティスは薄々察しがついていた。裏返すと、宛名がある——チャールズ・オルコット様。

 丁寧に切手が貼られているのに、郵便局のスタンプがない。

「カート?」

 近寄ってきた彼が肩口から手元を覗き込む。そして黙った。

 カーティスはしばらく名を眺め、それから改めて裏返すと、中に入っている便箋を抜き出す。少し透けた紙に綴られたブルーの強い黒インクを、開いて、ゆっくり読み始めた。背後に立つ彼もまた同じように文面を目で追っている。整った、柔い筆記体が、いったい誰の手によるものか、知らなくてもわかるような気がした。

 最後の署名を長く見つめて、便箋を畳む。彼が身を起こすのがわかった。

「エドワード」

 カーティスはぽつりと呟く。無言のなかに応える気配を感じ取り、続きを継いだ。

「これは、殺人だ。殺人だろう? たとえ、立件できないとしても」

 彼から遠いほうの肩に、彼の分厚い手のひらが載る。温もりに安堵する一方、刺すような痛みが走る。

 彼らが死を選ぶとき、彼らの肩を抱く者は、きっと、どこにもいなかったのだ。



 チャイムを押すと、自然な間のあとドアが開いた。リビングから歩いてきたのだろうルカ・ドーソンが顔を出す。

「こんにちは。すみません、突然お邪魔して」

「いえ、用事もなかったので。どうぞ上がってください」

 ドアを開け放すために一押ししてから彼は背を向ける。特に慌てた様子はない。来意を告げる電話をかけたとき、彼はちょうど講義が終わって帰ってきたところだと言った。時間的に不自然ではなく、またここで嘘をつく理由も彼にはないだろう。

「進展があったんですか? あ、紅茶でも?」

「では、お言葉に甘えて。なんでも結構です」

「それじゃたっぷり用意しますよ。長い話になりそうだ」

 冗談めかして笑い、彼はキッチンへ引っ込んだ。ティルダとエイプリルはその背を見ながら、見慣れた丸テーブルにつく。じきにルカはトレーにポットと人数分のマグを載せ、危うげなく運んできた。ポットを置き、マグを配ると、テーブルにあらかじめあったシュガーポットを手で示す。

 ティルダは会釈し、一杯だけ砂糖を入れた。エイプリルは二杯、ルカはストレートで飲むようだ。

「捜査が進むにつれて、二、三お聞きしたいことができまして」

「そうですか。喜んで答えます。犯人、捕まりそうですか?」

「ご報告が遅くなりましたが、有力な容疑者がいます。ただご遺族の皆さんにとって、喜ばしい結果にはならないかもしれません」

「へえ……どうして?」

「犯人を捕まえ、法で裁き、罪を償わせるということがもはやできないと思われますので。こちらの捜査も遅かったのですが、この状況は犯行時点ですでに起きてしまっていたようです」

「それは」ルカはマグに口をつけ、風味を味わってから飲み下す。「具体的には?」

「最有力の容疑者が、既に死亡しています」エイプリルが答えた。「物証などの検証はこれからですが、恐らくは、犯行の直後に」

 ルカは頷いた。驚いた様子はない。

「予想なさっていたんですか?」

「いえ、……いや、そうですね。誤魔化しても仕方ない」

 ルカは首を振りかけてやめ、もう一度頷く。素人考えだがと断って、肩をすくめながら話した。

「これだけ捕まらないってことは、犯人は死んでるのかもなと。隠す気もない殺し方だし知能犯ってわけじゃなさそうだ、なら物証くらいあったと思いますけど、関係者の指紋やらDNAやらを洗ってもなんにも一致しないなら、それらが採取できないようなやつが犯人じゃないですか? 原因はわからないけれど、死んじゃった人じゃ聴取できないし」

 ティルダは否定しなかった。実際とは異なるが、彼の考えも意外ではない。だが、当然、鵜吞みにはできない。

「ルカさん。事件当日の動きを改めて確認したいのですが」

「はい? ああ、いいですよ。ちょっともうあやふやだけど」

「ルカさんは事件当日、二三時ごろにいつまでも帰ってこないイアン氏を気遣い、迎えに出たんでしたね」

「気遣ったわけじゃないですよ」ルカはまた肩をすくめた。「これ以上、余計ないざこざを起こされたくなくて。まあ、でも、迎えには出ました。時間はそのくらいだったはずですが、正確かって言われると自信はないです」

「それから酒場へ向かったものの、店内にも周辺にもイアン氏の姿はなかった。心配、……したわけではないのでしょうが、とにかくあなたはしばらくイアン氏を探し、やがて諦めて家へ帰った。探していた時間は、三十分ほどとおっしゃいましたか」

「ええ、確か。これも正確ではないですが。大きく誤ってはいないんじゃないかな」

「あなたの姿は、二三時三二分、家の東南の防犯カメラに映っている。酒場へ行って戻るだけなら映らないはずの場所ですが、付近を探して違うルートから帰ったから、ここを通った。そしてその日はそのまま寝た……そういうお話でしたね」

「はい。それが、何か?」

「あなたの証言と符合しない情報がありまして。ご説明をお願いしたい」

 ティルダはタブレットを取り出し、何度か画面をタップしてから、テーブルに差し出す。

「こちらに写っているのは、ルカさん。あなたですね?」

 ルカはタブレットに目を落とし、黙った。

 画像は防犯カメラの映像を切り取ったものだ。右下に、日付と時刻が表示されている。画像を見ればそれがどこなのか伝えるまでもなく分かるはずだ。なぜなら彼はほぼ毎日、この駅を使っている。

「ルカさん。日付と時刻を確認いただけますか」

 無言のまま、彼は視線を移した。沈黙は続く。

 刻印は、九月十日、零時九分を指している。写っているのは二番線。上りのホームだ。

 彼は大学に用がある際は、この駅の五駅先で乗り換え、それから大学の最寄駅へと向かっている。だが、この路線には、もう一つ重要な駅がある。ごく小さな駅だが、今回の事件においては他のどの駅より意義深い。ルカは、とっくに分かっているだろう。

「あなたはイアン氏を探しに出て、見つけられずに帰ったあと、そのまま家で眠ったと仰った」ティルダは黙ったままのルカを窺いながら言葉を継ぐ。「ですが、二三時三二分に家へと向かう姿が写っていながら、そのおよそ四十分後に家から西南へ数百メートル下った駅のホームにいる。これは、いったいなぜなんでしょう」

 ルカは画像を凝視して、じっと黙り込んでいた。彼の脳内では果たしてどんな思考が渦巻いているのか。兄二人と違い、少し緑の強い瞳が瞬いて、やがて口が開いた。だが息を吸い込んだ途端、やめにしたようにまた閉ざす。彼は体勢を崩し、右のこめかみを掻いた。

「どんな言い訳も意味はないですね。そちらから言ってくださいませんか、——僕がどの駅で降りたのか、とっくに摑んでいるんでしょう? かかる時間の当たりをつけてピンポイントに探したら、わずかな間でも見つけ出せるはずだ。手がかりがないならまだしも、この路線で僕がこのとき他に降りる駅なんてない」

「刑事に向いてますよ」エイプリルが皮肉につぶやく。

 ティルダは人差し指を滑らせ、また別の画像を出す。今度は電車から降りる彼の姿。駅名ははっきりと、壁にタイルで表されている。チャールズ・オルコットの実家はこの駅から歩いて八分。

「どうしてですか?」多くは語らず、ティルダは尋ねた。

「……ご想像は? 僕がどうしてこの駅で降りて、——いや、ここを誤魔化してもね。僕がなぜチャールズの家に行ったと思います? どんな理由で?」

「さっぱり思いつきません」ティルダは微かに笑んで答える。「ですので、ご説明願いたい」

 本気でこれが通用すると思っていたわけではないらしく、ルカはちらりとティルダを見ると、諦めたように息を吐いた。疑問点をあえて細かく特定しないオープンクエスチョン。この国の警察が採用している取り調べ戦術の基本だ。こちらからの提案は相手の付け入る隙になる。こちらはあくまで、何も提示せず、被疑者が説明するに任せる。

 とはいえ、ルカは正確には、被疑者であるとはもう言えない。

「どうして、説明しなきゃならないのかな」

 ルカは崩した姿勢のままで、そう言った。

「僕は何かの嫌疑がかけられているんでしょうか。もしかして兄殺しの? さっき別の容疑者がいると聞いた気がしますが」

「詳しい状況を捜査中です。こちらとしては、証言と食い違うことがあれば確かめておきたい」

「僕には別に、答える義務はないですよね。事件に関係ない。兄を殺したのは別の人間で、僕があなた方に証言したのとは別の行動をしていたとしても、これは、プライベートってやつじゃ? 何でもかんでも知らせなくっちゃならないわけじゃないですよね。『言いたくない』。それじゃ、ダメですか?」

 ティルダが間を置くと、エイプリルが口を挟む。「そうもいきません」

「どうして」

「あなたが事件の直後、我々にした証言に反し寄っていたと思しい場所は、現時点での最重要被疑者の実家なんですよ。犯人と目されている人間の実家に、なぜ、あなたが寄っていたんでしょう。事件と関係があるという見方も、当然できると思いますが」

 ルカはエイプリルを見つめ、眉根を寄せると、すぐに目を逸らした。親指で唇をさする。「なるほど、……」

 そして、笑った。その笑みは、年相応の幼さがあった。

「そうか。共犯者って線もあるんだ。思いついてもいいだろうに……」

 ティルダは意外に思いながら、改めて気を引き締める。「オルコット家へ向かったのは、なぜです?」

 ルカは表情を緩めたが、相変わらず答えようとはしない。こちらを見る目には、どこか挑発するような、いや、試すような色がある。隠し通そうというほどに頑なな態度は見えないが、すんなり答え合わせをしてやるつもりもないか。

「事件当日——」ティルダは今度は懐から折り畳んだ地図を取り出した。先ほど、酒場の前で確かめていたものと同じ、印のついた地図。「あなたは酒場から、家へ帰るのに、変則的なルートを辿った。来た道を戻るのではなく、イアン氏を探すために、大きく迂回をした」

「ええ」ルカは短く首肯する。

「どのルートを辿ったか、なぞっていただけませんか?」

「覚えていません。そう言いましたよね? 思いつきでふらふら歩いたから……少なくともこの道は通ったけどね」薄く笑い、監視カメラのある通りを指差す。

「そうでしょうね。でなければ写りっこない」

「十一時ごろに出たんだから、酒場に着いたのは十一時十分前後になりますか。それからだいたい二十分くらいかかってここに写っている」

「記録と距離を考えれば、そういうことになりますね」

「刑事さん」不意に、ルカは言った。「警察のやり方は聞いたことがあります。でもそれって、僕が黙り込んだら、もうお手上げのやり方ですよね。物証も何もないのだから、問い詰めることもできないし」

 ティルダが無言で見返すと、ルカは座り直し、前屈みになる。

「でも僕は、……別に、困らせたいんじゃない。ただ僕はあなたたちに、親切にしてやる義理がない。こんな言い方、嫌味ですけど、僕にはあなたたちの手を借りる必要がなかった。イアンの死なんかどうでもいいし、犯人のこともどうでもいい」

「つまり?」エイプリルが片眉を上げる。

「何を考えてるか言ってほしい。それが合ってたら、僕は否定しません。間違っていれば、何も答えない。僕の口から真相を語らせようとするのは無駄だと言いたいだけです——時間のね」

 エイプリルが眉間に皺を寄せる。ティルダは静かに考えた。三つ、四つの呼吸を挟み、やがて答える。

「いいでしょう」

「警部」

 不満げにエイプリルが遮る。ティルダは構わず続けた。

「あなたが酒場に行ったという証言を正しいと仮定し、そして防犯カメラの映像を動かぬ証拠と考えたとき、酒場から防犯カメラの位置まで徒歩で二十分かかるルートは無数にある。でも、あなたの目的と性格からして、不自然なルートを除けば、思い浮かぶものは絞られます」

「性格?」

「あなたは合理的で理知的。イアン氏を探すという明確な目的があるなら、あてもなくふらふら彷徨ったりしない。イアン氏がよく行く場所、あるいはいたらまずい場所、それらを探して帰るはずです。いたらまずい場所というのは、揉め事や厄介ごとの原因になるか、あるいは身の危険のある場所。聴き込みの際に耳にしましたが、イアン氏は以前、酔って橋の下まで行き、ホームレスと揉め事を起こして怪我を負わせたことがあった」

 エイプリルが口を曲げている。ルカの表情は、凪いでいた。

「あなたはあの日、橋の辺りまで探しに行ったんじゃないですか。またぞろ暴行事件など起こされていたら困るから。十一時十分ごろに酒場に行き、兄がいないと気づいて、そこから橋まで歩くのに、およそ十分かかる。あなたが橋に着いたのは、十一時二十分ごろ。この時刻は、」ティルダは大きく息を吸った。

「イアン・ドーソン氏の、死亡推定時刻です」

 ルカは沈黙していた。長いこと。数分が過ぎたかと思われる静寂は、実際にはそこまでの長さではなかっただろう。彼は表情を変えぬまま、地図を見つめ、ゆっくり口を開いた。

「ええ、そうです。僕は橋へ行った」

「そこで、目撃しましたね。イアン氏が、チャールズ氏に殺害されるのを」

 再び口をつぐむ。だが、今度の沈黙は肯定と取れた。ティルダはタブレットを再び示す。

「ずっと、何かが引っかかっていた。あなたの帰り道の映像に。繰り返し見ましたが、それがなんなのかずっとわからなかった。でもここへきてようやく見えました。この時のあなた……疲れた様子で、息を吐きながら、俯きがちに歩いている姿。苛立っているか、呆れているか、そのどちらかに見えていた。でも違う」

 三秒ほどの映像が繰り返し再生される。ティルダはルカを見つめた。

「あなたは、走って逃げてきたんです。決定的なものを見て、この辺りまでずっと走って、ようやく、それをやめたところだった。疲れ果て、息を切らして、不安に苛まれながら、ここを通り過ぎた。歩速も、呼吸も、そのためですね」

 ルカは微かに笑った。「さあ。でも、走ったのは確かです」

 ティルダの語った推測は、エイプリルとも共有している。二人とも初めから、共犯者とは、思っていない。

「このあと、あなたは家に戻って、二十分から三十分を過ごし、そのあとオルコット家に向かった。なぜですか」

「どうしてでしょうね。僕もよくわからない」

「まだはぐらかしますか?」

「何もないんですか?」彼は言う。「僕が何をしに行ったのか。その根拠になるものは、何も、見つかってないんですか?」

 その声は挑発には聞こえなかった。むしろ、縋りつくような響きを持っていた。彼は警察がその何かを見つけていることを祈っている。だがティルダには思い当たるものがまるでない。きっと、エイプリルにも。

 歯噛みして、目を落とす。時計の秒針が響く。

 必死に捜査を思い返すティルダの胸で、携帯が不意に振動した。弾かれたように目を移し、すぐに取り出す。内容を確かめて、ティルダは細く息を吐いた。簡潔な数行を何度も読み返し、画面を閉じる。

「本当に、ブルーバードね」

「警部?」

「ルカさん。あなたがた一家がレナート氏の部屋に立ち入ったのはいつですか」

 ルカが顔を上げた。瞳にも、先ほどの声と同じ祈りがある。

「事件の三日ほど前です。母が、とても耐えられないと言って、しばらくそのままにしてあった」

「立ち入ったとき、あなたは、何か見つけましたか?」

「いえ……僕は、何も見つけてません。でも不自然だと思った」

「不自然?」

「兄の机には、レターセットが置かれてました。彼が気に入っていたペンと切手もあった。切手は一枚欠けていて、だからわざわざ買ってきたんだとわかった。レターセットも新品らしくて、ちょうど一セット消えていた。兄は毎日デスクを使う人ではなかったから、数日前の状態……首を吊る、ちょっと前の状態がこれなんだろうと思った。けど……」言葉を選ぶ間をとって、彼は継ぐ。「切手は、おかしいでしょう」

 言いたいことは分かる。死の数日前に手紙が書かれたとなれば、当然遺書を連想するが、もしも家族に宛てた遺書なら切手を貼る必要はない。つまり、彼は死の数日前、別の誰かに宛てた手紙を用意していたということになる。

「だけどもっと変だったのは、その時のイアンの顔だった。俺が机を見ていると、イアンははっとしたような顔して、俺が振り返るとすぐに目を逸らした。何か知ってるな、と思ったけど、何も言いませんでした。その場では。いえ、俺は、彼に直接言うことはなかった。何があったか理解したときには、彼ももう亡くなっていた」

「あなたは……」ティルダは注意深く、話を辿る。「事件の夜、見つけたんですか? イアン氏の部屋から」

 それは不確かな想像だったが、ルカは頷いた。

「はい。イアンの部屋にありました。兄の、ごちゃごちゃの机の上に。それでも、きれいなまんまでね」

 そして、鼻で笑うように息をつく。誰を笑ったのか、ティルダは摑めなかった。

「思い返せば、レナートの遺体を一番最初に見つけたのはイアンなんです。彼が朝食に降りてこないから、飯が冷めるだろって文句を言ってやるとかほざいて、イアンが、一人で階段を上がったんだ。でもドアが開く音がしてから、結構長い間があった。それでどうしたのかと思って俺が上がって、自殺だと知った」もう一度失笑する。「あのバカ、レナートの机に手紙があるのに気がついて、きっと遺書だと思ったんだ。自分について何か書かれてたらまずいとでも思ったのか、こっそり隠しておいたんでしょう。でもいくらウスノロの兄でも宛名が違うことくらい分かる。家族宛の遺書じゃないと分かって、でも今さらどうしたらいいかは分からなくて、放っておいた」

「お兄さん……レナート氏の手紙は、チャールズ・オルコット宛だった」ティルダは言った。「そうですね」

 ルカはすんなりと首肯する。「ええ。切手を貼ったまま、投函されていなかった。スタンプがないから、それもすぐわかる」

 エイプリルが驚いている。無理もない。カーティスからの報告は、たった今ティルダの携帯に入ったものだ。共有することもできなかった。

 ほんの少しの後ろめたさが胸をよぎる。ルカの祈りを聞き届けたのは、自分ではない。だが、今それを彼に伝えられるのは、自分だけだ。

 ルカは口元に手をやった。その手は微かに震えている。

「あれだけ丁寧に名を書いて、住所を書いてちゃんと封をして、きれいな新品の切手まで貼って、なのにそのままにしてあった。ポストにぶち込めばいいだけなのに、デスクに置いたままにして、結局兄は首を吊った。あの人は——」

 唇がわなないて、ルカは、大きく息を吸う。

「あの人は、出せなかったんですよ」

 手紙の内容を、ティルダは知っている。それはカーティスからのメッセージに、非常に簡潔に記されていた。だがその短さが必ずしも関心のなさを示しはしないと、ティルダはよくよく分かっている。堪え、努めて絞り出した一言を、彼はすぐさま送ったのだろう。真相を早く届けるために。

「あなたは、イアン氏の殺害現場を見て、走って家まで帰った。そして、イアン氏の部屋に立ち入り、レナート氏の手紙を発見した。あなたは、届けに行ったんですね。宛名通りの相手に」

「はい。あの男が、帰ってくるのを待つか迷った。でも今日ここに戻ってくるって保証もなかった。だから郵便受けに入れました。俺はあいつの宿舎を知らないし、場所がわかるのは実家だけだった」

「そして、チャールズ氏は犯行後……実家に戻った。習慣があったんでしょう、ポストを覗いて、手紙があると気づいた。彼は部屋に入って開封し、それを読んだ、……別のチームからの報告で、手紙が開封された形跡のあることは、もう分かっています」

 ルカは目を閉じる。そのあと起こったことを、彼も自分も、思わずにおれない。

「聞いておきたいことがあります」

 黙っていたエイプリルが、唐突に告げた。ルカは、ゆっくりと瞼を開き、彼女を見た。

「あなたは、分かっていましたか? お兄さんの手紙の内容を。それから、彼に何が起こるかも」

 ルカはじっと彼女を見た。彼女もまた、いささかも目を逸らさない。やがて逃げるように顔を背け、ルカは、浅く顎を引く。

「確証は、なかったですよ。でも、予想はついていた。少なくとも手紙の中身には、……俺は、……同性愛者だと、兄に打ち明けてもらったことは一度もない。でも俺が勘づいているのを、レナートは多分知っていました。勘づいていながら、最後の一歩は踏み込んでこないってこともバレていた。あの夜、」

 一度、ルカは唾を飲んだ。エイプリルの強い目は、まだ、彼を見据えている。

「俺は混乱してました。でも頭のどこかは冷静だった。兄の手紙を探そうと思って、イアンの部屋のドアを開けた。探すまでもなく見つかった。手紙を手にして、俺は、自分がどうしたいか考えた。自分がどう思っているのか、理解したかった。……彼を恨んではなかった。でも、同時に許してもいなかった。答えが出ないまま、俺は手紙を持って外に出た。何も考えずに駅まで行って、電車に乗った……俺は、」

 ルカは、もう一度顔をあげる。彼女の瞳を見返す。

「分かりません。あの人が、首を吊ることを期待してたのか。けど、心の片隅に、フェアじゃないって気持ちはあった。レナートの死の原因は、もう誰にも知りようがない。それでもイアン一人のせいだったはずがない。あるでしょう? ほら、諺に……ラクダの背を折る最後の藁」

「はい。知ってます」エイプリルは答える。

「レナートの背骨を折ったのは、イアンだけじゃない。母も、俺も、経済環境も、彼の仕事も、他の友人も、ありとあらゆるものが、彼と関わったすべてのものが背に積み上がって重石になった。どれが原因なんて言えません。最後の藁が何であったかも、俺たちには予想しかできない。だけど——だけど、あの人が——チャールズだけが一人、兄の死から、逃れたままでいるような気がして、レナートの死に自分はまるで責任がないような顔で、イアンを殺すなんて、それは、」息を吞み、彼は声を揺らす。

「違うだろ。違うじゃないか。あんただって背負うべきものがあるはずだろ。ずっと、ずっと気づかずに、……兄貴を、あんたは踏みにじっていたのに」

 言葉は続かなかった。堰が壊れたように、ルカは両手で口を覆って蹲る。その背が震えていた。

 ティルダは、そしてエイプリルも、何も言えなかった。この件は、おそらく罪に問うことができない。何かしら顛末の予想ができていたとしても、彼が実際にしたことは、兄の友人宅に兄からの手紙を届けに行っただけだ。それを罰する法はない——少なくとも、殺人罪として。


 罪は内側にあるだけだ。裁かれないままそこにある。その重さも、その意味も、彼が一生、背負うことになる。

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