Epilogue




 再びの日曜日、エドワードは朝のシャワーから戻り、リビングのローテーブルで端末が点いているのを認めた。画面は程なく暗くなり、たったいま通知が来たのだとわかる。まだ濡れている髪を拭きつつソファに腰を下ろすと彼はロック画面を解除して、親友からのメッセージを読んだ。そろそろ誕生日に欲しいものを決めておけ、とのことだ。エドワードの戸籍上の生年月日はとうに過ぎている。カーティスが言っているのは、昔二人で決めた誕生日のほうだ。

 エドワードは出生届を出されなかった子どもで、物心ついたときには親はいずこへと消えていた。紆余曲折を経て養家に引き取られるまで、彼は貧困区で一人生き延びてきた。当然、正確な生年月日も不明だが、初等教育の都合から引き取られた当時を六歳とし、引き取られた日付が誕生日となった。養家や他の知人にはその日付で祝われているし、公的な書類も当然そうだ。

 だが、エドワード自身にとってより納得がいく日付は、なんの根拠も由来もないカーティスが決めた日付のほうだ。幼いころ、彼はエドワードについて「天秤座に違いない」と言い張り、彼特有の理論でもって誕生日を決めてかかった。エドワードがそれに乗ったのは、少なくとも役所の都合で定められた日付より、まだしも自分のものという気がしたからだ——もとより生まれる日なんてのは自分で決められるものじゃない。それでも、どうせ後付けなら、せめて自分の好きなようにしたい。

 エドワードは画面を切って、元の通りにスマートフォンを置いた。親友は事あるごとに贈り物をしたがるが、エドワードには欲しいものがあまりない。しばらく考える必要がある。

 画面を切る直前に目に入った日付によれば、今日は九月二十二日。つまりはちょうど一週間だ。先週の日曜日、彼の妹に呼び出され、チャールズの自殺を知った。彼の遺書——『俺は間違えた』——あのたった一言の意味は、今となってはもう明白だ。彼はただ殺す相手を間違えたのだ。そして過ちを悟り、正しい相手を殺した。親友を死に追いやった、自らの首をドアに括って。

 コーヒーメーカーが鳴り、エドワードは視線を移す。腰を上げ、キッチンへ赴く。

 水曜日に決着した二つの事件は、どちらもあまり気分のいい結末にはならなかった。エドワードらの事件については、立件された事案そのものより、犯人のしたことに相応しい罰のないのがやるせない。彼の歪んだ言動がなければ、アデルは更なる心の傷を負うこともなかった。あるいは、罪も。

 ティルダの事件——ある意味で、エドワードとカーティスの事件でもあるイアン・ドーソン殺害事件も、被疑者が死亡している以上自白が取れるわけでもなく、後味の悪さは否めない。ティルダとエイプリルによる聴取のあと、消防署への捜索で凶器のホースは発見されたが、それらとチャールズ・オルコットを決定的に結びつける物証はなかった。アデルの場合は逆に、自白以外の証拠に乏しく、不起訴処分になる見込みだ。また、チャールズの死に関して、ルカが罪に問われることもない。問える罪がないのだ。少なくとも法の上で。

 事件の全貌がほぼ明らかになっても、気持ちが晴れるわけではない。それでも、一切が闇の中となるより、いくらかはマシなのだろう。

 キッチンへ入りコーヒーメーカーを覗くと、黒い陶器のマグからは蒸気のもやが揺れていた。濃く入ったコーヒーをひと口飲み、またリビングへ戻る。

 マグを置き、スマートフォンを拾う。ロックを再び解除してカーティスからのメッセージを読んだ。文面から彼の心情を窺うことは難しい。いつも通りの——〝休日〟の彼の——普通の調子だ。それでも少し案じてしまう。

 エドワードは正直なところ、他人に共感しないたちだ。だがカーティスは自分とは正反対と言っていい。エドワードが気掛かりなのは、レナートたちの痛みによって、彼自身が過去の傷口を開かないかということだった。今でもたまに思い出す——あの日、あの時、選択を間違えていたら、きっと己は永久に彼を失っていただろう。

 お互いにまだティーンだった。当時カーティスは、酷い悪意に晒され、生きるか死ぬかの境に居た。あのとき彼はエドワードだけに、心と罪を打ち明けたのだ。自分が何をされたのか。そしてその悪意に対し、自分が、何を仕返したのか。

 彼の碧眼が、祈るように見ていた。その目でエドワードは理解した。彼は今、全てを賭けて、自分を晒しているのだと。今ここで受け止めなかったら、機会はないだろう。もう二度と。

 そのときの青い目は今も折に触れエドワードを見つめる。エドワードの頭の中で、逃れようのない強い視線を向けてくる。切実に。

 チャールズは、気づけなかったのか。気づく機会さえなかったのだろうか。レナートは希望を持つことができなかったのかもしれない。自らの必死の祈りに、彼なら、応えてくれるはずだと。

 メッセージアプリを起動する。返信をしようとして、途中まで打ったその文を消した。代わりに新たな文を打つ。

〈もし、今日暇なら、会って話したい〉

 送信してスマートフォンを置いた瞬間、バイブレーションが鳴る。それから続けざまに表示されるいくつもの通知を見つめエドワードは思わず笑う。

 画面の中で親友は、勝手に今日一日の〝二人〟の予定を送りつけてくる。エドワードの返事など、分かりきっているかのように。



 石碑の上に置いた花束が、秋風に揺れている。どんな花が好きなのかも分からず、店員に任せてしまった。白と黄色でまとめられた花々のすぐ上に死者の名前が刻まれている。生まれ年と没年の刻印がふと目に入り、短さに俯く。

 西日がコートの背を照らす。ふと、隣の影が動いて、ティルダの肩に手を伸ばした。載せられた手のひらは風にさらされ冷えていたが、その感触にほっとする。ティルダは、黙って自身の手を重ねた。

 週末が近づいてきても浮かない顔のティルダを見兼ね、二日ほど前にエレノアがある提案をした。ティルダは頷き、エレノアの運転するスターレットで市街地を抜けて、都心を少し外れた場所に建てられた、この霊園を訪れた。ここには事件の関係者が眠っている。二人それぞれに花束を買い、一人に一つ供えた。本当は、イアンの墓も訪ねたかったが、イアンの遺体はまだ警察にある。葬儀や埋葬も、これからだろう。

 二人の足元にあるのは、チャールズ・オルコットの墓だ。ここへくる前に訪れたレナートの墓には、エレノアが自分で選んだ水色の花を供えていた。

 ルカの供述を聞いたあと、署へと戻ったティルダたちは、先に戻っていたカーティスから証拠品の手紙を渡された。その中身を読んで、ティルダは、手が震えるのを抑えられなかった。証拠品を傷つけるわけにはいかず、途中で読むのをやめて仕舞った。エイプリルがそれをまた取り出し、ゆっくりと読み出した。彼女の表情は揺るぎなく、それでいて、静かな目をしていた。

 それは恋文だった。いや、もっと、違う意味での告白だったのかもしれない。レナートは、「学校でいやな言葉を僕が投げられていたときに」「君が庇ってくれたときから」、ずっと、淡く彼を想っていたことを綴り、「もしかして、親友だと信じてくれてる君を裏切ってきたのじゃないか」と葛藤も含めて打ち明けていた。

 何かを期待してるんじゃなく、ただ君に知ってほしかった、と。

 しかし結局のところ、レナートはその手紙をチャールズに出さずに死んだ。出さなかったのか、出せなかったのか、今となってはわからない。手紙が書かれたのは首を吊る数日前と見られているが、遺書として書かれたものでないから、直接的な死の理由であるか否か、やはりはっきりとしない。

 だが、渡されたチャールズは、そうだと思い込んだろう。思わずにいられるわけがない。

 知らず、唇を噛んだ。ティルダには、やはりルカの行為は殺人に思える。彼は兄が遺したものを開けて読むことはなかったが、逆に言えば読むまでもなく察しがついていたはずだ。親友の自殺の原因を殺してきたと思っている者に、自身の過ちを突きつけるような真似をして、招かれる結果が予想できない人間ではない。あれほど聡明なら。

 ティルダは自分でわかっていた。フェアじゃない。ルカはその直前に、実の兄が殺害される場面を見ている。たとえ厄介者と、あるいは誰かに殺されたらいいとさえ思っていたとしても、家族は家族だ。むしろ、実際に殺害されて、ルカは自分が目を逸らしていた感情と向き合ったかもしれない。混乱と恐慌の中で、彼が悪意に駆られたとして、誰に責める権利があるか。

 報われない、と思った。イアンもレナートも、チャールズも、ルカも。皆。

 レナートはどうして手紙を出さなかったのだろう。ついさっき、彼の墓の前で、しばし立ち止まり考えてみたが、取り止めもない考えが浮かぶばかりで予想もつかなかった。エレノアは同じとき、自身の置いた水色の花束を眺め、ぽつりとこぼした。

「頼ってくれたらと、いつも思うの」

「え?」

「思いつめて、苦しんで、こうして……終わりにしてしまう前に。絶対に無下にはしない、絶対にあなたを傷つけないと、信じてもらえるように努めても、頼ってもらえるとは限らない。懸命に関わっていた子に何かが起こってしまったとき、いつもひどい気分になるわ。一番苦しいのは、その子なのにね」

 ティルダは黙って耳を傾ける。署にいた頃のことだろうか。

「死んでしまうくらいなら、あるいは殺してしまうくらいなら、その前に誰かを信じて縋ってくれたら、と思う。世の中には、思った以上にいい人がたくさんいるでしょ。でも、わからないんだよね、それが誰かなんて。いい人の顔をしたひどい人だって沢山いる。彼らはそれをよく知ってる」

 ティルダは頷く。いい人も悪い人もいれば、その総量と同じくらいにどちらでもない人もいる。人はそのときどきで、驚くほどひどいことを気にも留めずに言うことができる。反対に驚くほどに親身になれることもある。誰がどうで、どちらになるかなど、いったい誰に見極められるだろう。

「きっと、怖いのよね」エレノアの声が、吹く風にかすれた。

「自分のいちばん弱いところを晒して、それを手ひどく扱われたら、どんなに痛むか、私には想像もできない。信じたくても、怖いのよね。勇気を振り絞って、それでも傷つけられたらって、なら死んだほうがマシだって……思うのね」

 そして今、目の前にあるのは、己の罪に追いやられ命を絶った青年の墓だ。

 自らの首を括るとき彼はいったい何を思っただろう。机の上にあったという一枚のメモに遺されたものは、かろうじて読める程度の走り書きで、振り絞られた一言に思えた。自分が親友を傷つけていたこと、犯さなくていい殺人を犯したこと——彼を本当に追い詰めたのはどちらの罪だったのだろう。いずれにせよ、こんな結末を、レナートは望んでなかったはずだ。

 レナートが手紙を出せなかったのは、不理解が怖かったと考えるのが妥当だろうが、ほんの微かなものだとしても他の理由もあったのではないか。手紙を読んだチャールズが自らを振り返り、レナートを傷つけていた可能性に苦しむことを、レナートは想像したのかもしれない。期待混じりのものだったとしても、自らの痛みを知ったとき平気でいられる人ではないとレナートは信じたのじゃないか。ティルダは、そう思いたかった。

 日が陰り始めた。もうじき日没だ。肩に置かれたエレノアの手が落ち、垂れ下がったティルダの手を握る。

「帰りましょう」

 ティルダはつぶやいた。彼女に握られた手を、指を絡めるようにして結び直し、力を込める。横でエレノアが微笑んで、小さく頷くのがわかる。ティルダは、ゆっくりと背を向ける。

 後ろに伸びた二人の影は、しばらく墓標に触れていた。靴音が遠ざかり、やがて、それも静かに去った。



    ◆



    八月十六日



 空いているパブがどこにもなくて、さまよった末に入った店は店長のほか無人だった。落ち着いて話せる場所が欲しかったからうってつけではあるが、それにしても閑散としている。店長は目の周りをどす黒く塗っていて、タイトなタンクトップを着ていた。ドアベルがからんと鳴ると、ちらりとこちらを見、興味なげに逸らした。

「なんだ、陰気なとこだな」BGMに紛れるように小声に呟く。「ここでいいか?」

「うん……」

 レナートはそう言いつつも、店内を見回した。照明は暗く、ピンクのネオンが鈍く光っている。右手の壁は鏡張りで、鏡の届かない場所は白と赤のタイルが貼られていた。奥の壁は何色か見えないが、LPらしきレコードがいくつも並んでいるのがわかる。が、どれも知らないバンドだ。

「嫌か? 嫌ならやめよう」

「ううん、嫌ってわけじゃないんだけど……その、君はいいの?」

「いいって何が?」

「気にならないなら、いいんだけど」彼は、唇をきゅっと閉じる。

 思うところがあるようだが、言わないことに決めたらしい。といってもレナートはそんなことばっかりだ。俺ってそんなに話し甲斐がないんだろうか? 少し拗ねた気持ちになってこっそり唇を曲げながら、店長のいるカウンターから程よく離れた手前の席についた。テーブルの端のスタンドに挿してあるメニューを抜き取って、レナートにも見えるよう、横向きに置く。

 メニューは細長い一枚だった。裏面は真っ白で、大したものは置いてない。

「どうしたもんかな」

「コーラにしようかな」レナートも困り笑いだ。

「じゃあとりあえずそれで。頼んでくる」

 席を立ってカウンターへ寄り、コーラを二つ頼む。店長は、聞いているのかいないのかよく分からない様子で頷き、訝しみつつも俺が去ると冷蔵庫へと向かった。じき、氷の入ったグラス二つとコーラが二本運ばれる。

 礼を言ってみたものの、店主は黙って立ち去ろうとした。栓抜きがないのに気づいて呼び止めると振り向いて、つけているカフェエプロンのポケットを探り、ひょいと投げた。

「なんだかな」

 俺はまた小声に呟いた。レナートが苦笑している。

「変わったお店だけど、俺は嫌いじゃないな」

「そうか? まあ、イヤってほどじゃないけど……」

 言ってから、これじゃさっきのレナートみたいだなと思い、少し笑えた。

 コーラを啜りながら、あれこれと話をする。以前から思っていたが、レナートが気にしているのはやはり弟のルカのことで、自分だけならいいのだがルカが気の毒だと言った。レナートは自分や兄が、ルカからやりたいことを探す機会を奪っている気がするのだという。

「俺が、稼げない仕事についちゃったから。ルカは自分が稼ぐってことを念頭に置いててさ、将来を考えるときも、それが基準になっちゃってるんだ。それって、俺たちのせいだな、と思って。せめて兄さんが落ち着けば、少しはあいつも気が楽になるかな……」

「けどさ、お前の仕事は立派じゃん」俺は噛んでいたストローを放す。「お前のせいってわけじゃないよ。お前にだって人生はあるし」

「それはわかってる……俺もこの仕事、やりがいはあるし、辞めるつもりはなくて。でも、心苦しいのも確か」

 レナートはストローに口をつけかけ、飲まないまま放した。

「選択肢を奪ってるような気がするんだよ。かと言って、ルカが稼いでこなければうちが苦しいのもそうなんだ。遺産や保険があるとは言っても、あれこれのローンを考えたら、全然余裕はないから。母さん、体悪いし」

「そうだよな……」俺は腕を組む。「やっぱ、イアンにさ、しゃんとしてもらうほかねえよ。あいつがいつ何やらかすかって、心配してるだけでもしんどいだろ。そのうえ実害もあんだから」

 そこでふと顔をあげ、俺は口を閉ざした。戸口に近づく人影がある。腕組んで入ってきた二人は、迷わず店のドアを開けた。店長と顔見知りらしく片手を上げて挨拶をしている。店長はニコリともしないが、少し頷いてみせた。

 定位置でもあるのか、くっついたまま店の奥へと向かう。背の低いほうが高いほうの肩にしなだれかかっていて、甘えた声をあげた。居心地が悪くなり、俺はそっと目を逸らす。

 そして肩をすくめた。「なるほどな。お前の言ってた意味がわかったぜ」

「意味って?」同じく彼らを見ていたレナートが、視線を俺に戻して言った。

「いや、ほら、入るときにさ。君はいいの、って聞いてきただろ」

「ああ……うん。まあね」

 少し声が強張って聞こえ、俺はまた何かしくじったかと不安になった。でも、元はと言えばレナートが俺に聞いてきたことだ。気にしすぎるのも馬鹿らしい。

「俺ってヌケてんのかなあ。こういうの、全然気がつかないんだよ。だからお前は気にしてたんだな。お前、嫌じゃなかったか?」

「どうして?」

「だって、ほら」照れ臭くなり、また肩をすくめる。

「俺らもカップルだと思われるかもしれないじゃんか? 二人で来たからさ」

 レナートは何も言わなかった。返事がないのが気にかかり、顔を上げて「レナート?」と尋ねる。彼は少し俯いていて、暗い店内にその表情は紛れてしまった。俺は、ようやく失態に気づく。レナートの仕事がなんなのか、今さら思い出した。

「悪い、つい」しどろもどろで言い訳をする。「こういうこと、言ったらまずいよな。なんていうんだ、その、当事者? が聞いたら傷つくよな、きっと。お前はそういう子たちのケアをしてんのにさ……」

 俺が言葉を探していると、諦めたように彼が笑った。いや、呆れたようにかもしれない。軽蔑されただろうか。この調子じゃ、話し甲斐なんて俺にあるわけない。身が縮こまる。

「いいんだ。君は、そういう人だから」彼の指がストローに伸びる。「落ち込まないで。君は、悪くない」

 口ごもる俺を見て、レナートは笑みを向ける。どこかすっきりしたような、肩の力が抜けたような顔だった。俺には、その意味がわからない。

 ストローに口をつけ、彼はコーラを吸った。氷が溶けて薄まっていた僅かな中身が、みるみる底をつく。

 飲みきって顔を上げ、俺の表情を認めると、彼はもう一度笑った。

「君が悪いんじゃないんだよ。チャーリー」

 俺は言葉が出なかった。逃げるように、自分のグラスを見下ろす。


 注がれたままのコーラの中で、細いストローが浮いている。早く飲み干してしまおうと、俺も、黙って指を伸ばした。

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最後の一縷 初川遊離 @yuuri_uikawa

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