葉桜の夜

深見萩緒

葉桜の夜


 子供のころから、桜を好きだと思った記憶がまるでない。家族で花見に行ったときも、私はずっと下を向いてお弁当をつついていた。春はいつだって憂鬱な季節だった。

 だった、じゃない。今もそうだ。桜に良い思い出なんてひとつもない。実家の庭には、植樹からそう月日を重ねていない、細い桜が植わっていた。細いながらも毎年律儀に花をつけ、お母さんは春が来るたびに「咲いたねえ」と微笑んだ。私はそれが嫌だった。そのせいで今も、ニュースで桜の開花を報じているだけで、どこか憂鬱な気分になってしまう。


 ファミリーレストランの片隅で、窓の外に視線を向けたままのサクラは、疲れのせいか少し老け込んだようだった。自分がくたびれた顔つきをしていることを、サクラ自身も自覚しているのだろう。桜色を基調とした化粧は、特に目の周りがいつもよい濃いめのようだった。

「もう一年も経つんだね」

 サクラの声は、緊張に引きつっている。私は返事の代わりに、レモンティーを一口飲んだ。私もサクラと同じように、窓の外を見てみる。艶のある黒っぽい幹。あの街路樹は桜だ。花の時期はとっくに終わり、まだ柔らかさを残した若い葉が、街灯の光の中で夜風に揺れている。

「元気にしてる?」

 奇妙な質問だった。元気なわけがない。ここ一年は、笑った回数よりも泣いた回数の方が圧倒的に多い。食欲がないので体重も不健康に減っていくし、夜も満足に眠れない。それはサクラも同じだろう。自分の状態がどうであるかを考えれば、私の状態なんておおよそ察しがつくだろうに。

 うんざりした顔をしてしまっていたのだろう。サクラは慌てて「そうだよね」と失言を取り繕う。「あのね、その……最近、どうしてるかなって思っただけで」

「どうしてるって? 普通だよ。体調は悪いけど、仕事はちゃんとしてる」

「そっか。困ったこととかはない? ほら、私たち……」

「私たち、何?」

 窓の外から正面へ視線を戻すと、少し潤んだサクラの瞳がそこにあった。その瞳に向かって、言い放つ。

「私たち、ただの他人でしょ」

 私たちは、もう家族ではない。



 私とサクラが出会ったのは、桜の季節だった。「花が咲くの咲くに、良い子の良いって書いて、サクラちゃんだよ」と、お母さんが説明してくれた。

「サクラちゃんは、お父さんとふたりっきりで暮らしてきて、とっても大変だったの。だからミユキ、優しくしてあげてね。ミユキは、お姉ちゃんになるんだから」

 そのとき感じたことは、今でもはっきりと思い出せる。「ふうん。私だってお母さんとふたりっきりで暮らしてきたんだけど、それは別に『大変』じゃないんだ」という、少しだけ拗ねたような気持ち。それから、サクラの頬っぺたは桜色だな。という、どうでもいい感想。

「よろしくね」

 私は、感情を悟られないように微笑んで、サクラに手を差し出した。「よろしく」と、サクラも同じような表情で握手に応じた。


 私たちは、傍目には良い姉妹だったと思う。再婚した両親の、それぞれの連れ子。そういう複雑な関係の割りには、私たちはとても上手くやっていた。ほどほどに仲が良くて、ほどほどに喧嘩もした。

 両親は、私たちが仲良く遊んでいるときよりも、些細なことで言い争っているときのほうが、かえって嬉しそうだったように思う。きっと、過剰に遠慮することなく、言いたいことを言える関係に見えていたのだろう。実際はその裏にある種の緊張状態があったことを、彼らは最後まで知ることはなかった。


 サクラはよく空気を読む子で、何を言ったらその人が喜ぶのかを掴むのが上手な子だった。そのためか、内気な割りには誰からも可愛がられていたように思う。対して私は、余計な微笑みを浮かべない子供だった。不機嫌なわけではないけれど、私の唇はたいてい「へ」の字にひん曲がっている。

 正反対な私たちだったけれど、それを理由に仲たがいするようなことはなかった。二人の数少ない共通項のために、手を組んでいたからだ。


 共通項というのはつまり、私たちはふたりとも、家族を愛しているということ。私にとってのお母さん、サクラにとってのお父さんは、私たちにとってかけがえのない存在だった。子供の時分は、家庭というものが世界のほとんどを占めると言っても良い。私はその世界を愛していた。だからこそ、そこにずかずかと入ってくる他人の存在が、どうしても許せなかった。

 再婚が決まったとき、「家族に血のつながりなんて関係ない」「大切なのは愛情だ」と、私のお母さんもサクラのお父さんもそう言った。「だから、ゆっくりでいいから、家族になっていこう」と。

 だけど私は、そんなのお断りだった。私にとっての親は、血の繋がりがあるたった一人だけ。再婚相手は「親の再婚相手」でしかなく、親ではない。私の親を、たった一人の肉親を、ぽっと出の知らない女の子に取られてたまるものか。


 他人と一緒に暮らすようになってしばらくたったある夜、私はサクラに自分の考えを打ち明けた。共感を得ようと思ったわけではなく、どちらかというと宣戦布告に近い気持ちで話した。私のお母さんは、私だけのものだ。あなたのお母さんではない。

 するとサクラは少し視線をさまよわせたあとで、「私もそう思う」と言ったのだった。「私のお父さんは、私だけのお父さんだから……あなたのお母さんも、あなただけのお母さんで、良い」

 サクラのことを、おとなしくてにこにこしているだけの子だと思っていた私は、そのとき大いに驚いた。この子の中にも、私が抱いているのと同じような、身を焦がすような嫉妬や怒りが渦巻いていたのだ。驚くと同時に、安心した。同じことを考えていたのならば話は早い。

 葉桜の夜に、私たちは約束した。

 私たち、相手の親のことを親と思うのはやめようね。あなたのお母さんは、あなただけのお母さん。あなたのお父さんは、あなただけのお父さん。お母さんとお父さんは再婚して家族になったけれど、私たちは他人同士だし、私の親とあなたとは家族ではない。そうだよね。指切りげんまん。


 踏み込みすぎず、けれどよそよそしくもならないように。私たちは互いに目配せをしながら、良い姉妹を演じた。良い姉妹であることは、互いの親の幸福のために必要な儀式だった。

 サクラは程よく私に甘え、私も適度にお姉さんぶった。けれど、サクラが私を「お姉ちゃん」と呼んだことは、今の今まで一度もない。両親はそのことに気が付いていただろうか。あるいは「ミユちゃん」と呼ぶことが、かえって仲が良い証拠だと思っていただろうか。

 分からない。今となっては、もう何も分からない。私たちは、互いの親だけが家族で、大切だった。たったひとりの家族を幸せにするために、一生懸命だった。

 でももう、私たちに家族はない。



 ほんのりと桜色に染まった爪が、手の甲を軽く引っ掻いている。子供のころは爪を噛んでいたけれど、その癖が形を変えて残っているようだ。私が見ていることに気が付いたのか、サクラは気まずそうに手を引っ込めた。

「他人……かあ」

 長い沈黙のあとだったので、私たちが何を話していたのか、思い出すのに時間がかかった。私はまた、レモンティーを一口飲んだ。サクラの飲み物は少しも減っていない。私たちが注文した、季節のフルーツケーキセットは、まだ来ない。

「他人だと思うけど」

「あ、……まあ、うん。そうだよね」

「別に、姉妹って名乗りたいならそうしても良いよ。結婚のときとか、親族が全くいないんじゃ絵にならないもんね」

「そんなんじゃなくて……」

 サクラはまた、手の甲を引っ掻き始めた。淡い桜色の爪は、桜の花びらを固めて塗り込んだように見える。桜に良い思い出なんてひとつもない。



 私たちの親が仲良くそろって黒焦げになったのも、ちょうど桜が満開になったころだった。就職して実家を出ていた私のところに、電話をかけてきたのはサクラだった。こんな夜中にどうしたの、と苛立ちながら問う私に、サクラが発した一言めは「お母さんが」だった。

 お母さん? そう返した私の声には、確かに苛立ちが含まれていた。

「あんたのお母さんじゃなくて、私のお母さんでしょ。子供のときの約束、忘れたの」と、平時であればそう言って責めていたかもしれない。しかし深夜の電話という状況に、何か良くないことが起こったことを予感していた私は、深呼吸をして問い直した。「お母さんが、どうしたの?」

 そこから先のことは、実はあまり記憶にない。私はほとんど着の身着のままで家を出て、病院へ向かって夜の街を疾走した。街路樹の桜が満開だった。


 火は、あっという間に家を包み込んだらしい。相当年季の入った木造平屋の一戸建ては、私たちが高校に入ったころに購入した家だった。「古いけど、良い家だ」と、サクラのお父さんはいつも言っていた。良い家というものの基準がよく分からなかったけれど、お母さんが笑ってウンウンとうなずいていたので、私も嬉しくなって「そうだね」と言った。古いけど良い家は、すっかり燃えて跡形もなくなった。


 サクラは、その日に限って友達と小旅行に行っており、消防からの連絡を受けて、初めて出火を知ったのだという。

 病院の待合室で顔を合わせたとき、サクラは顔面蒼白で、いつもなら桜色をしているはずの唇はだらんと垂れ下がり、まるで出来の悪い蝋人形のようだった。

「み、み、ミユちゃん」

 可哀想なくらいどもりながら、サクラは私に「ごめんなさい」を繰り返した。

 サクラを責める言葉は、喉元に引っ掛かって胃袋の中に落ちていった。実家にいなかったのは私も同じだ。就職でさっさと家を離れ、何かと言い訳を重ねて年の瀬とお盆くらいしか帰省しなかった私が、サクラの偶然の不在を責められる道理などなかった。


 両親が生きている間、私が実家を避けたのはなぜだったのだろう。自分でもよく分からなかった。どこか居心地が悪いような気持ちが、実家にいる間じゅうつきまとったからだったか。もしかしたらあの家で、私だけが家族じゃなかったのかもしれない。子供のときの約束を律儀に守り続けていたのは、私だけだったのか。私のお母さんはとっくに、サクラのお母さんになっていたのか。

 もう何も分からない。



 火事のあと私が実家を訪れたのは、葉桜の季節すらとっくに過ぎ去り、梅雨が目前に迫りつつあるころだった。警察の現場検証が終わってからも、保険会社やら自治体やらの手続きが忙しく、なかなかここに来られなかった。土産代わりに言い訳を携えてようやく訪れた実家は、ここに家が建っていたなんてとても信じられないくらい、すっきりとした更地になっていた。

 ここに玄関があって、まっすぐ行って突き当たりが台所。右にリビング。和室。間取りはしっかり覚えていたはずなのに、想像しようとすると目の前の更地が拡大しながら迫ってくるような気がして、どうにも上手くいかない。


 酷い火事だったと聞いたが、焼けたのは建物だけだったようで、庭に置いていたものは焦げはしていたものの無事だった。庭の片隅に植わっていた細い桜の木も、本格的な夏へ向けて、青い柔らかな葉を茂らせていた。

 そうだ、私は桜が嫌いだ。桜に良い思い出なんてひとつもない。どうせ家が燃えている間も、私のお母さんが黒焦げになっている間も、この桜は平然と花を咲かせていたんだろう。そしてまんまと焼け残っている。

「桜も焼けてしまえばよかったのに」

 呟いたあとで気分が悪くなって、車に戻ってエチケット袋の中にげえげえ吐いた。胃酸をまとったコンビニおにぎりが、袋の中にぼたぼた落ちる。消化途中の有機物が体内から出ていく代わりに、私の中には吐瀉物よりも混沌とした感情が流れ込んだ。


 これは嫉妬だ。憎悪だ。憤怒だ。私との約束を破って、私のお母さんと家族になったサクラへの。私以外の娘を受け入れたお母さんへの。私を娘として受け入れてくれなかったお父さんへの。いや、それはおかしい。家族になることを拒んだのは私じゃないか。私にお父さんなんていない。あれはサクラのお父さんなんだから。でも、私が意地を張っていることに、もしお父さんが気が付いていてくれていたら。意地なんか張らずに家族になろう、ミユキもお父さんの娘だよって言ってくれていたら。そうしたら、私はつまらない意地なんてかなぐり捨てていたのに。意地? 私は意地を張っていたの? 子供が抱いた未熟な嫉妬心を、まるで高潔な誓いかのように扱って、家族を拒絶していたのは私の方? 本当は、あの人たちと家族になりたかった? 違う。そんなはずはない。私はお母さんを取られたくなかっただけ。だって約束したじゃない。葉桜の夜に、私たちは家族にはならないって……。



「ミユちゃん」

 サクラに呼ばれて、私は回想の奥から引き戻された。サクラは手の甲に爪を立てたまま、心配そうに私の顔を覗き込んでいる。

「ミユちゃん、具合悪い?」

 サクラはいつだって、他人の顔色を窺っていた。いつだって、その人が求めていることを瞬時に見抜いた。今のサクラは、動揺している。私が求めている言葉が何なのか、分からないからだろう。私にだって分からない。私は、何を求めているのだろう。

「サクラさ、」

 子供のころから、サクラに訊きたいことがあった。もしかしてサクラは、私に合わせて、あの約束をしたんじゃないの? お母さんを取られたくなくて必死になっている私に合わせて、自分も同じことを考えていたふりをしたんじゃない? 私との関係を悪くしたくなくて、嘘をついたんじゃない?

 本当はサクラは、ちゃんと家族になりたかったんじゃないの? 私のお母さんと。

 ……もしかして、私とも?


 私を見つめる、不安に揺れる瞳。ずいぶん痩せたサクラの頬は、やっぱり桜色をしている。優しい子だな、と思う。丸い目を見開いて、私が欲しい言葉を、私の仕草や表情から、一生懸命探し出そうとしている。

 こんな子に、訊けるわけがない。本当は家族になりたかった? だなんて。今さら訊けない。訊いたところで、サクラは私が求めるような答えを言うに決まっている。それがサクラの本心かなんて、私には分からない。

 でも、じゃあどうして、大した用事もないのに会おうなんて誘ってくるんだろう。どうして、私たちは他人だと言うと、寂しそうに目を伏せるんだろう。

 サクラの本心なんて、本当はとっくに分かっているのかもしれない。私は意地を張って、あるいは臆病風に吹かれて、何にも気が付かないふりをしている。


「お待たせしましたーあ、季節のフルーツケーキセットでえす」

 間延びした声の店員が、私たちの前に平皿をふたつ置いて去っていった。

「美味しそうだね」とサクラが言う。「そうだね」と私も言う。いただきますと手を合わせて、イチゴのタルトを口に運ぶ。窓の外で、葉桜が揺れている。家族にならないと決めた約束が、まだ、夜の中から手を振っている。




<終>

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葉桜の夜 深見萩緒 @miscanthus_nogi

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