最終話 600回目をもう一度~新たなキスの約束~

 女子校に進学した私は美術部には入らなかった。

 千早との約束のない放課後に残る理由もない。

 そんな空っぽな私だが学校には馴染めていた。

 同じ中学校出身者が何人かいたからだ。


 摩耶姫。


 千早と近藤さんがつけたあだ名がいつの間にか新しい学校に広まっていた。

 女子校という特異な空間と親和性があったのだろう。

 クラスメートから変に敬われている気がする。

 避けられるよりはマシだし、いつか化けの皮も剥がれるだろうけど。


 千早と連絡を取らない日々が一か月も続く。

 初めてのことだ。

 これからはこれが当たり前になると思うと心が傷んだ。

 気を紛らすために繁華街の画材屋に出かけることにした。

 私にはもう絵しか残っていない。


「ち……はや」


 不意をつかれた。

 私の心の殻は薄くて。

 見たくなかったことを直視してしまった。


 千早が男性と仲良く歩いている。

 千早よりも背が高い男性。

 大勢の人がいる繁華街でも二人は目立っていた。

 長身の美男美女。

 まるでドラマのワンシーン。

 二人はそっと顔を近づけあい。


「やだ」


 私の口から漏れた本音は小さい。

 遠くにいる千早に聞こえるはずがない。

 それなのに千早は動きを止めて、私と目があった。

 見つかった。


 最悪だ。


 あれだけ忌避していた黒い感情を抑えきれない。それなのに近くに千早がいる。

 今ならまだ逃げきれる。

 そう信じて私は背を向けて走り出した。


「はぁはぁはぁ」


 辿り着いたのは高架下の薄暗い公園。

 人気はない。

 コンクリートの巨大な橋脚に手をついて息を整える。

 冷たい。

 手から身体の熱が逃げていくような気がした。

 ここにいればドロドロとして心の熱も収まる気がする。

 そのはずだった。


「追いついた……摩耶」

「千早ちゃん」


 振り向いたら千早がいる。

 私のように息は切れていない。

 でも顔には焦燥が浮かんでいる。

 なぜ追ってきてしまったのだろう。

 まだ心が黒いままなのに。

 綺麗な姿しか見せたくないのに。


「摩耶。話を聞いて――」


 ――パシンッ!


 渇いた音で遮った。

 右の手のひらがじんじんと熱くなる。

 衝動的な平手打ち。

 身長差があるので思いっきり右腕を振っていた。


「近づかないで気持ち悪い!」


 言ってしまった。

 後悔して顔を伏せる。

 謝らないと。


 高校に進学して一か月。

 誰もが変わっていく。

 変化をしないのは、過去に留まった人だけ。

 腐り醜くなるだけなのに。

 ドロドロとした感情が抑えきれない。

 こんな姿を千早に見せたくなかった。


 謝れば。

 気が動転していたと誤魔化せば。

 元の関係には戻れるかな。

 そんの甘え切った願望に縋りつき私は顔をあげた。そして後ずさりした。

 背中が橋脚に当たる。


「ちはやちゃん?」


 怖かった。

 呆れ、怒り、失望。

 千早からどんな視線を向けられるか覚悟していたつもりだった。

 でもこの千早を私は知らない。


 笑っていた。


 瞳を昏く輝かせながら。

 切った唇を血を舐めて笑っていた。

 千早の右腕が伸びる。

 私の顔の横を通り過ぎて、鈍い音が鳴った。

 本物の壁ドンだ。

 中学生の時のような甘さはない。

 目の前に千早の顔が迫っている。


「やっとお姫様が堕ちてくれた」

「な、なにを言っているの?」

「さっきの男はただのクラスメートだから。告白されたけど振ったし」

「……振ったんだ」


 心臓は激しく動いているのになぜか安心した。

 自分の心が浅ましい。


「顔を合わせるたびに思うの。私のキスしたい唇は見上げた先にないって」

「え、えと……さっきはぶってごめんなさい」

「謝らなくていいよ。私の好きな人はずっと綺麗なお姫様だった。手に入れたい。でも憧れもあって手を出せなかった」


 告白だろうか。

 甘酸っぱくなんてない。

 これは黒くてドロドロとした執着だ。

 さっきの私と同じ色だ。

 怖いのに逃げる気も怒らない。

 私は口先だけで抵抗する。


「千早ちゃん怖いよ?」

「嫉妬した摩耶を初めて見た。もういいよね」

「もういいって……んっ」


 卒業式の日に訪れなかった六百回目のキスは血の味がした。

 唇がこじ開けられて口内で舌が絡み合う。

 千早の唾液と血液が流し込まれて、嚥下するしかない。

 左手で頭を撫でられる。抱え込まれている。私の足は千早の足で拘束されていた。

 千早と橋脚に挟まれて逃げられない。

 二人の境界がなくなり混ざっていく。

 一つになっていく。


 頭がボーとする。

 どれだけキスをされていたのだろう。

 千早が唇が離れたときには糸を引いていた。

 呼吸を止めていた。

 慌てて息を吸う。


 でも続きがある。

 肺活量の違いだろうか。

 千早の次の行動は私よりも早い。

 首元から手を入れられて、服がずらされる。

 左の首筋に千早が嚙みついた。


「ちひゃやちゃん。にゃに!?」

「マーキング。学校が終わるたびずっと回数を数えていたんだ。あと二十回はキスしていいよね?」

「にじゅ!? い……いいけど」


 どうやら私たちが学校がある日にキスをする約束は継続していたうえに累積されるらしい。

 理解していない。

 唇以外にされるのは初めてで、流されるままに頷いた。


 マーキングを終えても千早は離してくれない。

 ぎゅっと身体を抱きしめてくる。


「……やっと手に入れた」

「私はずっと千早ちゃんのモノだったと思うけど」

「そうかな? うん……そういうことにしておくね」


 一か月を経た再会を何事もなかったかのように。

 いつも通りを取り繕う。


 私は子供のままでいたかった。

 大人になりたくなかった。

 黒に染まりたくなかった。

 透明なままでいたかった。


 天真爛漫な黄色。

 愛情の赤色。

 青春の青色。


 単色では綺麗な色も混ぜると濁り、黒く染まっていく。

 どれだけ拒んでいても色は混じる。

 時の流れは止まらない。

 全てを拒絶して子供しろでいることはできない。

 だからいたみを抱えて大人くろに染まっていく。

 私もそろそろりょうしんと向き合うべきかもしれない。

 千早がそばにいてくれるなら前に進める気がする。


「千早」

「なに?」

「ずっと好きだった。今も愛してる」

「私も汚したいくらい愛してる」

「……千早のバカ」


 私たちは恋を知るために六百回もキスをした。

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恋を知るために私たちは600回キスをした めぐすり@『ひきブイ』第2巻発売決定 @megusuri

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