第3話 伊勢が歌物語
大和に落ちた伊勢は、やはり時平と結ばれた。時平がわざわざ大和まで行ったのだ。
仲平は当初こそ伊勢に未練がましい和歌も贈った。
近院での生活に慣れるに従い、これで良かったと仲平は思った。
姫の体はしだいにふっくらとしてきて、月のものも始まった。
元の美貌が戻っていないのが残念だと、気の利かない女房が言っても、仲平にとっては姫は誰よりも愛おしい。今でも仲平の手から食べたいと甘える。
姫はよく笑い、たどたどしく琴を弾いた。
仲平は横笛、姫は琴で合奏したが、間違えては二人で笑い転げた。
そんな凡庸で穏やかな日常に仲平は満足していた。
(あの人とはこうはいかない)
ある日、姫は意地悪な人に仲平には伊勢という人がいたと聞かされて驚き、震える声で伊勢とはどんな人かと尋ねた。
仲平は答えた。
「花よりも美しく、舞えば蝶。楽器を弾けば鳥が寄る。和歌を詠めば小野小町の再来」
姫はワッと泣いた。仲平は姫の髪の毛を撫でて言った。
「しかし、姫ほど私を思ってくれる人ではない。気になさるな」
二年もして、姫は懐妊した。
仲平は赤子の首が座ったら、枇杷殿に姫と赤子を引き取ろうと言った。
「幸い私は岳父様の世話なしでやっていけそうだからね。あなたを枇杷殿で自分でお世話をしたい」
枇杷殿の北の御方になるのだと言われて、姫はたいそう喜んだ。
梅雨が明けて、水無月も末になった。
姫の出産のための陰陽師の祈祷が響く中、北の御方は今度も落ち着きなく部屋の中を歩き回った。
(時間がかかりすぎてはいまいか)
仲平も大納言と共に一身に祈祷した。
姫の出産は夜から始まりとうとう朝が来た。
遠慮のない足音がして、姫づきの女房が駆け込んだ。
「産まれたか!?」
大納言の問いに、女房は声を振り絞った。
「お亡くなりになりました」
誰が?誰が死んだと言うのだ。
「死産か」
「はい。姫さまも、力尽きてしまわれました」
近院には産声の代わりに、仲平の慟哭が響いた。
伊勢は時平から、例の大納言家の姫君が産褥で亡くなったことを聞かされた。
一度は恨んだ人である。
自分が仲平の真心を時平の形代にしていたこと。そして仲平がそれを知っていたことを伊勢に突きつけた事件だった。
仲平への申し訳なさで心が苦しくなり、伊勢は姫を深く逆恨みにした。
しかし、あの姫が仲平を婿とってくれて仲平を解放したのだ。あの姫あって自分はこの殿と結ばれたと思い直し、恨みは溶けて感謝がある。
日が落ちて、少し気温が下がった。
「出てきてごらん。今夜は妙なほど蛍が多い」
涼しげな白い直衣を美しく着崩した時平に誘われて、こじんまりとした本院にもある泉殿に行くと、蛍が高く飛んだ。
伊勢はふと、在五の中将(*在原業平)の和歌を思い出した。
伊勢が紙と筆を取りに行かせたので、時平は箏の琴を出させた。時平がみごとに奏でる箏を聴きながら、伊勢は小さく揺れるたくさんの灯りを頼りに一気に書いた。
昔男ありけり。
人のむすめのかしづく、いかでこの男に物言はむと思ひけり。うち出でむことかたくやありけむ、物病みになりて死ぬべきときに、「かくこそ思ひしか」といひけるを、親ききつけて、泣く泣く告げたりければ、まどひ来たりけれど、死にければ、つれづれとこもり居りけり。時はみな月のつごもり、いと暑きころほひに、よひは遊びをりて、夜ふけて、やや涼しき風吹きけり。蛍高く飛びあがる。この男臥せりて、
(*昔男がいた。大切に育てられた娘がこの男に一目惚れして、恋わずらいに倒れてしまった。死に際にようやく死ぬほど男を思っていたと言い、親は男に泣きながら来て欲しいと言った。男は慌てて娘のところに行ったが、娘は死んでしまった。男は夫として喪に服した。六月も末で大変暑い日に娘の追悼に楽器を弾いていた。夜になって涼しくなって蛍を見ながら男は横になり娘を思った。)
ゆく蛍雲のうへまでいぬべくは 秋風吹くと雁につげこせ
(在原業平 後撰和歌集252 蛍よ、雁に秋風が吹いたから、あの人の便りを持ってきて欲しいと伝えておくれ)
暮れがたき夏の日ぐらしながむれば そのこととなく物ぞ悲しき
(在原業平 続古今和歌集270 夏の夕暮れに喪で引きこもっていると、何もかもが辛くなってしまうね)
人はこれを「伊勢が歌物語」もしくは「在五が物語」と呼んだ。
(参考文献 阿部俊子 「伊勢物語(上)全訳注」 講談社学術文庫)
蛍の君 垂水わらび @tarumiwarabi
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