第2話 右衛門の佐
近院の使者が、役目を果たしたのはすでに夕刻になろうとする頃である。
九条では枇杷殿と言われ、枇杷殿では右衛門府と言われて、ようやく仲平を探し出した。
急ぎ来るように、と顔すら覚えない異母姉の滋子に言われても、仲平に心当たりはない。「右衛門の督ではないか」と問えば、使者は「確かに、枇杷殿の佐さま、と言われました」と返答した。
(遺産か)
確か近院は父が用意した邸である。もっと欲しいなら嫡男に言えよと思うが、兄の右衛門の督としての多忙を極める様子は側で見ている。近院の大納言は左衛門の督を勤めたこともあったな、と思い出せば、時平の忙しさを推測して自分を呼んだかと合点した。兄には「近院の姉上に呼ばれました」と伝言を残して馬に乗った。
近院に入った頃には日が落ちていた。
こちらですと案内されたのは、北の対ではなく西の対である。方違えかと特に不審に思わず、部屋に通された。
御簾の向こうには横たわった人とその横に座っている人がいた。
「近く寄られよ」と北の御方は言った。
相手は喪中である。
仲平が躊躇していると、姉という人は「私はあなたの父上の喪に服しているのです」と半ば強引に御簾の近くに来させた。
「御用とは」
「この二の姫が、九条であなたをみかけました」
「はぁ」
「一目ぼれです」
「一目ぼれ」
仲平はおうむ返しに聞き返した。
「ええ。恋わずらいで食を絶ち、今にも死にそうになって、ようやく恋する相手が右衛門の佐さまだとわかりました」
仲平にとっては寝耳に水である。
「人の心があるならば、どうかこの娘に食べさせてやってください」
粥が運ばれて来た。
さあ、と仲平は御簾の中に引き入れられ、やせ細った娘に引き合わされた。
確かに、一度この娘は見かけてる。顔までは見ていないが近院の上の姫はそろそろ裳着かなと思った記憶はあった。こんなにやせ細っていたわけはない。
骨と皮だけになった姫の頬をつつっと涙が伝った。
姫が「本当に来てくださった」と言ったような気がした。
流されるように仲平は姫を助け起こし、抱きかかえた。匙で粥をすくって、昔乳母がしてくれたように、ふうと息を吹きかけてから姫の口に運んでやった。
「お食べなさい」
口に入れられて姫はむせた。
「最近重湯しか口にできなかったのですよ」と非難めいたことを滋子が言う。ならば、と上澄みをすくって口に入れてやると、姫は飲んだ。
「今度は飲めましたね」
仲平はまた上澄みをすくって口に入れてやった。
姫が笑ったような気がする。
「私を思って絶食してはいけませんよ」
また姫が笑ったような気がする。朗らかな姫だったのだろう。
「思いを伝える方法がなくてこんなことをしたのですか」
姫が頷いたような気がした。
「今度は少し、粥のね、米の実の方も口に入れてみませんか」
姫は首を横に振らない。
「あーん」
一晩かけて、ゆっくりと姫は粥を食べた。
気がつけば夜も更け、周囲に人はいなかった。
「そろそろお暇にしよう」
そう言うと、姫が袖を引っ張った。力がなく、するりと姫の手から袖が抜けたが、仲平は袖の抵抗をはっきりと感じた。
「嫌なの?」
姫が頷いた。
「添い寝をしてください」と姫が言ったような気がした。
「私にここで共寝をせよと?」
これは婿取られるということだ。
仲平には将来を誓った相手がいた。
異母姉の弘徽殿の女御・温子に女房として仕える、伊勢という若い女房である。
仲平は伊勢の気持ちが、自分を向いていないのではないかと恐れていた。
伊勢の相手は、兄・時平。
時平も時平で美しい伊勢を気に入り、弘徽殿にいけば取り次ぎは伊勢に頼む。
この二人がまだ通じていないことだけは信じている。ただし、惹かれあっている二人だ。時間の問題だと気を揉んできた。
対して、この姫は自分に思いを伝えるために命まで危険に晒した。伊勢は大和守の娘に過ぎない。こちらは大納言家の姫君である。
(えい、ままよ)
伊勢は側室か二人目の北の方にしてしまえ。
父だって二人の女王をそれぞれ北の方と呼ばせた。
二人目の北の方が嫌なら、兄にやる。
仲平は冠と束帯を脱いで姫の隣に横たわった。姫が力の入らない腕で夜具をかけてくれようとした。
「もう夏になるんだ。夜具をかけて寝るには私には暑い。だがあなたは痩せて寒いんだね」
仲平は束帯を姫と自分の上に広げた。
姫がまた笑ったような気がする。
仲平は昔乳母がしてくれたように、姫の背中を優しくトントンとして「私はここにいるからね、安心しておやすみ」と言った。
夜が白み始めた頃に、人の気配がして目が覚めた。
「佐さま」
姫付きの女房だろう。
「なんだ」
「佐さまの朝餉の用意をいたしました。姫さまは」
「粥を全部お食べになったよ。今朝も食べられるのではないかな」
昨夜の粥の入っていた器を御簾の際に押し出し、連れてきていた随身を呼んで枇杷殿に束帯と肌着を取りに行かせた。
しばらくすると、仲平用の膳が用意された。
姫も目を覚まして、顔を向けた。
「うーむ!大納言家ではうまい食事を食べているんだね。これをお食べにならないとは、もったいない」
姫は少し食べたそうな顔をしているように思えた。
「姫君の粥です」
粥が運ばれてきた。
「またこの右衛門の佐が食べさせて進ぜようか?」
姫は明らかに頷いた。
姫の小さな体は軽く、やっぱり華奢だった。
ふうふうと息を吹きかけて、重湯を飲ませてやると、夕べよりもよく飲む。米をすくってやれば今度はむせずに飲み込んだ。
医師が、姫が食べられるようになったらゆっくりと量を増やすようにと言った、と誰かが仲平に言った。「あいわかった」と仲平は生返事をして、姫に聞いた。
「白湯も飲みますか?」
姫が「はい」と今度は声を出した。しゃがれていた。痩せて声がしゃがれるほど私を思ったのか。哀れな娘だ。
哀れで、愛おしい。
粥を食べさせ、すっかり冷えた朝餉を仲平が食べ終えると、また姫が袖を引っ張った。
「今夜また来ます。だから日中も少しお食べ」
随身が戻ると仲平は、姫にそれまで着ていた肌着を渡した。
「夜に私が来るのをお待ち」
右衛門府に出仕した後に、後朝の和歌まで作って送った。
肌着と和歌を与え、自分はあなたと関係を持ったと姫に示した。姫から返歌が届いたが、これは女房が作ったのだろう。
兄は特に近院について何も聞かないので仲平も何も言わない。
その晩、約束通り仲平は近院の姫を訪れた。
「姫君は髪と体を拭かせ、粥を召し上がりました」と姫付きの女房が言った。
言われてみれば、姫は夕べ少し臭った。
姫は体をもたれかからせるようにしていたが、起きていた。美しい衣を着せられていたが重くないかと心配になる。
夜具も枕も並べて二つずつ用意されていた。
「起きられるようになったのですか」と仲平が言うと、姫は「はい」と答えた。
「今夜は自分で食べてみます?」
「食べさせてくださらないなら、また絶ってやる」
姫の声は、今朝よりも美しく聞こえる。
相変わらずやせ細っているが、香を焚き染め髪をとかした様子は、元の美貌をうかがわせた。ぎゅっと抱きしめると折れそうなので、そっと抱きしめて頬に口づけをすると、姫は嬉しそうにクスクス笑った。
(あの人は体を強張らせるだけで、喜びやしなかった)
再び仲平は粥を食べさせて添い寝をした。
朝、姫に粥を食べさせて出ると西の対の角に大納言が立っていた。
「大納言さま」
「まさか、姫が思いわずらったのが右衛門の佐とは思わなんだ。今夜も、来てくれると思っていいのかね」
三日夜の所顕しの宴をしていいかと聞かれたと思い、仲平は答えた。
「もちろんでございますとも」
「では今夜は所顕しの宴をひらきますぞ。婿殿」
「はい」
大納言はすぐさま姫の部屋に入った。しゃがれた歓喜の声が聞こえた。
(あの人ならば、こう喜びはしないだろう)
そう思えば、伊勢への罪悪感は消えた。
その晩、仲平は大納言家で小さな餅を三つ食べた。
姫には粥を。
所顕しの宴には、もちろん仲平の兄の右衛門の督・時平も呼ばれた。
時平にとっては青天の霹靂である。
昔、父が滋子か今はもう亡き
(母上のおっしゃる通りだ)
時平は伊勢を思った。
(底意地の悪い誰かから聞かされる前に、俺の口から伝えよう)
仲平が本当に新郎として現れたのを確かめた後、言い繕って、急ぎ東七条院の温子を訪ねた。
仲平の所顕しを聞かされた温子は絶句し、伊勢は顔を真っ青にして崩れた。
みわの山いかに待ち見む年ふとも たづぬる人もあらじと思へば
(*古今和歌集780。恋人たちの大和の三輪山だけど、私には誰も訪ねてくる人はいない)
伊勢は一首だけ残して、両親のいる大和に落ちた。
時平から伊勢の句を見させられて仲平は、伊勢はそれほど己の体面が大切かと疑った。
「なんということをするんだ、お前は。仮にも太政大臣の息子だろう。それがわざわざ一人の娘を傷つけて、大納言家に婿とられるとは」
時平の色白で美しい顔は冷たく、仲平が大納言家の姫君が食を絶った話をしようとしても、「言い訳など聞きたくないわい」と手をふりスタスタと行ってしまった。
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