第1話 近院の二の姫

 緑の楓の葉が太陽の光に青く眩しく映るころ、近院きんいんの大納言家にはひっきりなしに名医と呼ばれる人たちが呼ばれていた。

 父の堀河の太政大臣(*藤原基経)の喪に服している北の御方おんかた藤原滋子ふじわらのしげるこは、落ち着かない様子で部屋の中を行ったり来たりしていた。北の御方たる人が立ち上がって室内をうろうろするなど、滅多にあることではない。

 キュッキュと鶯張りの簀の子縁が鳴ったのに気づいて女房が声をかけた。


「御方さま」

「殿か」


 喪中の人のけがれがうつらないように、室内には入らずに立って話をすることになっている。

 太り気味の大納言・源能有みなもとのもとありしとみ越しに北の御方に対面した。


医師くすしはなんと」


 北の御方は頭を振った。


「食べないのが問題だと」

「加持も祈祷も効果がないではありませんか。これは都を離れて山荘にでも連れていくべきなのでしょうか」


 大姫同様に入内させるか、親王でも婿取りしようと育てられた二の姫は、ある日から物を食べなくなってしまった。ようやく口にできるのは、重湯だけである。


「痩せてしまってね。牛車に乗せて良いものやら」


 夫妻は沈痛な面持ちで同時に下を向いた。


 夫妻の大姫はまだ幼いと言って良かった頃、当時の弘徽殿の女御(*藤原高子)に請われて清和天皇の女御にした。すぐに帝が譲位され、大姫が突然亡くなって数年になる。年頃になれば二の姫には大姫の分も幸せをつかませようとしていたのに、裳着の直後に物を食べるのをやめてしまった。

 西の対から父に似てむっちりとした、まだ幼い姫が歩いてきた。


「父上さま、母上さま」


 三の姫である。


「どうした」

「姉さまがまた、お会いしたいと繰り返されます」

「ですから、母は喪中ですからと」


 北の御方は三の姫に言った。

 しばらく前から二の姫は、発作のように「お会いしたい」と呟く。

 三の姫の乳母が「恐れながら」と言った。


「二の姫さまは恋わずらいではございますまいか」


 ふうっと大納言はため息をついた。


「まろはこれから出仕じゃ。その後に方違えである。任せるぞ。恋わずらいならば、会って密かに話を聞くが良い。相手がわかれば婿に取る手配をせよ」

「しかし、入内は」

「姫が大姫のように亡くなるよりは良いではないか。ただし、相手は公達の息子に限定するぞ」


 姫に会えば喪のけがれが娘の病を悪化させやしまいか、という北の御方の抗議を大納言は「喪のけがれも何も、姫はどのみち床についているではないか」と無視して、「任せるぞ。大納言家からの縁談を断る阿呆はいまい」と足音を立てて去っていった。


 その夜、北の御方は西の対の姫のところに行った。

 ぼんやりと姫は目を開けた。その目に力はない。

 誰もが入内と言い続け、姫の話は聞かない。

 姫には入内は恐怖である。

 幼心に、入内する日の美しい姉の様子を覚えていた。しかし、すぐに姉は亡くなった。

 見知らぬ帝に女御としてお仕えするよりも、一度だけ見かけた、あの人。忘れられない、あの人ではないなら、死ぬ方がいい。

 裳着を終えて、その次は入内と聞かされた姫は食を絶って死んでしまう決意をした。

 念仏を唱え続ければ、極楽にも行けよう。


「姫はどなたに会いたいのです」


 二の姫は乾いた唇で「にの、きみ」と北の御方に答えた。

 北の御方の中で怒りがふつふつと湧き上がった。

 どこの小僧が妃がねの姫に手を出したのか。

 怒鳴りつけたいのを押さえると、自分でも気持ちの悪い猫なで声が出た。


「姫や。どちらの二の君です。父上は公達のご子息なら婿に取っても良いと私にお任せになりましたよ」

「本当ですか!」


 姫は目をぐっと見開き、乾ききった唇で叫んだので、唇が切れた。姫にはその痛みも感じず、声がしゃがれていることにも気がつかなかった。


「入内しなくてもよろしいのですか!?」


 これはまずいことになった。しかし、大姫に続いてこの姫にも先立たれることだけは避けたい。

    

「あなたは一世源氏の大納言家の姫なのです。釣り合う相手なのですか」


 姫はしゃがれた声で不気味に笑い出し、吐き出すように言った。


「釣り合うも合わないも。二の君が私に釣り合わないならば、母上も父上に釣り合いませんとも」


 かわいそうに頭がおかしくなったのだろうか。

 私の父は太政大臣でしたよ、と北の御方は言いたいところをぐっと堪えた。

 臣下で大納言よりも高位の位は大臣だけだ。

 河原の左大臣の二の君は大納言と年が離れないではないか。新しく右大臣になったのは故堀河の太政大臣の伯父に当たる人だ。我が父の従兄弟にあたる二の君はまだ存命だっただろうか、と北の御方は思案した。

 これは親王家か王家の二の君だろうか。


「そんなに身分の高い二の君はどちらにおられるのです」

「婿取ってくれるのですね」

「起きて食べてくれるの」

「二の君に食べさせていただくのでなければ嫌です」

「ならば、来ていただきましょう。その二の君のお手からなら食べてくれるのですね」

「婿取ってくれますか」

「ではおっしゃい。どちらの二の君ですか」

「母上、約束してくださいますか」

「約束しますよ」


 姫は大きく息を吸って答えた。


「堀河の二の君、右衛門えもんすけさまです」


 思いもよらぬ人が指し示されて、北の御方は驚いた。

 

「約束ですよ、母上」


 北の御方は必死で記憶を手繰り寄せた。



 父の堀河の太政大臣・藤原基経が亡くなり、九条の本邸に赴いたときのことである。

 大切に扱われぬ妾腹の娘で、他の姉妹とは異なり入内することも親王を婿とることもなかった。しかし、異母妹の入内に女房として出仕させられたわけではない。むしろ、九条の嫡母の女王の口添えで、一世源氏を婿取ってもらえたのは、故染殿の大臣の家女房を母に持つ身では幸運だったと言える。

 ほとんど会ったこともない父だが、この近院は父が与えてくれたものだし、婿取ってくれた人が大納言に登り、正室「北の御方」としてそれなりに大切にしてもらえるのは、父のおかげだろう。

 当今の女御に、故上皇の御息所、親王の正室になった異母姉妹たちには引け目を感じるが、夫だって文徳天皇の皇子として生まれた人だし、死んだ大姫だって故上皇の女御だったと胸を張った。

 親王家の懐事情は大納言家よりもはるかに厳しく、父の支援が必要なことも聞いていた。それでも、大納言の正室では一段低いところに座らざるを得ないのは不満だが、仕方があるまい。

 美しい二人の姫たちを見せびらかそうと、姫たちを遅れて到着させることにしていた。だが、うら若い異母妹の当代の弘徽殿女御・温子はるこの威厳に満ちた佇まいには負けることは認めざるを得ない。

 姫たちが客人として到着した。立ったままお祖父さまにお別れを申しあげなさいという言いつけを、姫たちはよく守った。

 その姫たちが入ってくるところも、出ていくところも全て見たわけではない。


 翌朝、北の御方は三の姫を呼んでそっと聞いた。


「九条に行ったのを覚えていますか」

「はい」

「そのときに堀河の叔父君にお会いしましたか?」

「ええ、右衛門のかみさまに」


 右衛門の督は美貌で知られる、嫡男・時平である。


「他には?」

「佐さまにも」


 時平のすぐ下の弟、堀河の二の君こと仲平は右衛門の佐である。


「どう思いましたか?」

「どうって、皆が美しいと言う右衛門の督さまですが、私は四の君の方がいいと思う」


 うっとりとした様子で三の姫は答えた。

 この子にまで弟の一人を婿取らねばならないのかもしれないと思うと、北の御方はクラクラしてきた。


「佐さまは姉上に何か言ったりしましたか?」

「覚えてません」


 あの子は仲平を見たことがある。それだけは確かだ。

 急ぎ、使者を九条か枇杷殿びわどのかにいるだろう、仲平のところに行かせた。

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