青年の事件簿 【一話完結】

大枝 岳志

青年の事件簿

 船崎青年は今年三十歳を迎えるが、これといってやりたい事や目標などもなく、おまけに実家暮らしであり、ただ寿命が来て命が終わるのを待つだけの日常を生きている。

 定職にも就かず、気まぐれ程度に登録している派遣会社から紹介される仕事へ月に十日程度出るだけで、社会に対しての自分の役割だとか、存在意義だとか、そういったものも全て人が作り出した「幻想」だと信じていた。それもこれも小さな頃、熱心に観入っていた教育番組を父親が指差し、


「これな、全部作りモンなんだぞ。ぜーんぶ、嘘っこ。ニセモノなんだ。おまえ、騙されてるんだよ」


 と気まぐれに茶々を入れたのがキッカケであり、その瞬間から教育テレビに熱を入れることを辞めてしまった。その癖は小学校へ上がっても、中学校、はたまた高校へ上がっても変わることなく船崎少年に根付いてしまい、大人になってもそれは変わることはなかった。

 この世は全て幻想。そして、死ぬまでの暇潰し。

 そう思えば周りと自分を比べることを自然としなくなり、人に対して淡々と接するのが当たり前になった。


 その日、船崎青年は派遣会社から紹介された現場へ一人で向かっていた。都心から遠く離れた山間の駅で降り、指示された場所へ歩いて行くと小さな公民館のような建物にたどり着いた。

 何をやるのか具体的には聞かされておらず、指定された持ち物の軍手とカッターだけもう一度確かめると、建物の中へ足を踏み入れた。

 明かりがなく薄暗い屋内、その玄関右手には事務所だろうか、扉があった。その中から人の笑い声が聞こえて来たので、船崎青年はとりあえず中へ入ってみることにした。

 ドアを開けた先には茶色に頭を染めた職人風の若者が二人、がらんどうの部屋でパイプ椅子に腰掛けて煙草を吸いながら談笑していた。片方の男には顎髭が生えていたが、もう片方の男には髭がなかった。しかし、二人とも焼いているのかやたら色が黒かった。船崎青年は軽く頭を下げ、挨拶した。


「グローチャンスから派遣されて来ました、船崎です。あの、こちらのお部屋でよろしかったでしょうか?」


 互いに顔を見合わせた職人だったが、煙草を揉み消しながら顎髭が問いに対し、問いで応えた。


「いくつ?」


 船崎青年は派遣経験から服のサイズを聞かれているのだと思い、「170です」と答えると、顎髭が掠れた笑い声を漏らした。


「バケモンかよ。年だよ、いくつ?」

「年齢ですか?」

「そうだよ。いくつ?」

「今年、三十になります」

「へぇ、俺らの五個上なんだ。どっから来たの?」

「あの、それは今日の仕事となんの関係がありますか?」


 船崎青年は大真面目に訊ねたのだが、職人二人は顔を見合わせると、一呼吸置いてから盛大な笑い声を狭い部屋の中で響かせた。


「おいおいおい! やべーよコイツ!」

「話し通じてますかー? おはなし、出来ますかー?」

「おじさん、冗談は年だけにしてくれよ! マジ勘弁だわぁ。で、どっから来たの?」


 船崎青年は自身の質問の答えを得られないことを悟り、「板橋」と呟いた。すると、さらに笑い声が大きくなる。顎髭が目を丸くしながら、新しい煙草に火を点ける。


「板橋ぃ? 板橋って、東京のあの板橋?」

「はい、そうです」

「どれくらい掛かったの?」

「ドア・トゥ・ドアで、二時間十五分です」

「え、まさか電車じゃないよね?」

「電車です」

「電車! え、じゃあ遠方手当とか出るんだ?」

「遠方手当はないです。電車賃も一日五百円までなので、交通費は千五百円の赤字です」

「うっわ、ヤバ。あんた、頭おかしいよね?」

「いや……どうですかね」


 船崎青年の経験では、交通費が赤字になろうがその日に現金支給される日当の為に足繁く現場へ通う人間を多く見て来た為、それの何がおかしいのか見当も付かなかった。しかし、目の前にいる職人二人組は物珍しい動物でも見るかのような目付きで自分のことを見ているので、生きてる世界が違うのだろうと結論付けた。それよりも、気になるのは仕事の内容であった。始業時間は九時の予定であったが、十分前にも関わらず二人が仕事に取り掛かるような様子がなかったのである。


「あの、私は何をしたら良いのでしょうか?」

「あぁ。まぁ、座んなよ」


 髭なしが壁際に立て掛けられていたパイプ椅子を広げ、そこを指差した。部屋の真ん中に置かれた小さな木製テーブルの上の灰皿は既に十本近くもシケモクが溜まっており、時間の経過が伺えた。


「遠くから来てもらって悪いんだけどさ、資材積んだトラックが来ねぇんだよ。連絡もつかねーし。だから、しばらく待機で」

「トラックが来たら、私は何をすれば良いんですか?」

「資材卸して、二階まで運んでくれる? それが今日のあんたの仕事だから」

「船崎です」

「名前なんて覚えねーから、いいよ。おじさんでいい?」

「おじさん、それは私のことですか?」

「だっておじさんじゃん。俺ら、二十五だし。こいつ、ヒロシっていうんだけどさ、子供三人いるんだぜ」


 ヒロシこと顎髭は、頼んでもいないのにスマートフォンの待受画面を船崎青年にチラリと見せた。男の子三人と顔を寄せ合い、幸せそうに笑う家族の写真がそこに映っていた。あぁ、自分とは生涯縁のない世界の人だ。船崎青年はただ、そう思う他に感想らしい感想は特に生まれなかった。髭なしの職人はコウジと言うらしく、顎髭が指を差して「こいつ、コウジ」と、短く紹介した。

 コウジこと髭なしはスマートフォンでスロットゲームをやり始めると、画面に目を落としながら船崎青年に質問を投げかけた。バキュン、ズガーン、バーン、という派手で重みの欠片もない音が部屋を埋めて行く。


「おじさんは家族とかいないの?」

「両親と、兄がいますけど」

「まさか、実家?」

「はい」


 髭なしは乾いた笑い声を鼻で漏らすと、「俺、嫁と二人。もちろん、マイホームだけど」そう言って勝ち誇ったような笑みを浮かべる。その様子に顎髭は「こいつ、性格悪いだろ? 気にすんなよ」と一応は船崎青年にフォローを入れたものの、内心人を小馬鹿にしているような笑みを船崎青年は感じ取った。だが散々見慣れ過ぎていた笑みだったので、それにもやはり何の感想も持たなかった。


 それから一時間が過ぎてもトラックがやって来る気配もなく、暇を持て余した三人は連れ立って公民館の外へ出た。玄関の外は緑の山々に囲まれており、目の前を通る小さな道路の他、鳥の声と湿った緑の匂いが辺り一帯を包んでいるだけであった。店もなければ、自動販売機の一台すらもない。

 顎髭が欠伸をしながら「こりゃ事故ったかな」と漏らすと、髭なしが辺りをウロウロし始める。船崎青年は長閑な風景に身を任せ、放心状態で景色の中へと意識ごと溶けていた。

 すると、背中に小さな衝撃を受けて振り返った。足元には、軟式の野球ボールが転がっている。拾い上げると、髭なしが両手をパンと鳴らして「ヘイッ」と呼び掛けた。投げろ、ということなのだろう。

 船崎青年は不慣れな手つきでボールを投げると、軌道が髭なしから大きく逸れて敷地外の藪の中へと飛んで行った。


「ヘタクソだなぁ、マジかよ!」


 そう言って笑いながら、髭なしは藪の中からボールを拾って戻って来た。今度はそれを顎髭に投げ、顎髭は船崎青年にボールを投げ、それを今度は髭なしに投げ、を繰り返し始める。

 雨上がりの湿った空に、船崎青年の目には黄色のボールだけがやけに明るく見えていたが、そのうち目が慣れて来て難なくボールを受けたり投げたり出来るようになった。

 顎髭がボールを投げながら髭なしに声を掛ける。二人にしか分からない仕事の話のようであった。


「コウジ。山さん所、連絡ついた?」

「えー? だってあそこは資材手配しただけで、営業所は今日休みだから連絡してないよ」

「マジで、休みなんだっけ?」

「館山でコンペやるんだかなんだかってさ。おっさん達は気楽でいいよなぁ」

「じゃあ、やっぱりドライバーだよなぁ。おっせーなぁ」

「つーかさ、おじさんって派遣の前は何してたの?」


 スローボールが顎髭に向かって曇りがちな空を横切るのを眺めながら、船崎青年は淀みない声で答える。


「はい。刑務所にいました」


 ボールは動きを止めた顎髭の背後に落ち、濡れた砂利の上を小さく転がった。

 目を見開いた髭なしが、驚きながら声を掛けた。


「マジ!? 何やらかしたの?」


 船崎青年は落ちたままのボールを眺めながら、それをゆっくりとした動きで拾いに行く。顎髭は立ち止まったまま、首だけで船崎青年を追い掛けている。その首が反対へ向くと、ボールを拾い上げた船崎青年は平然とした顔で、刑務所送りになった理由を告げる。


「はい。殺人です」


 聞かれたことに答えながら投げたボールは、髭なしに避けられて地面に落下した。


「いや、いやいやいや。マジで怖いって。嘘でしょ?」


 引き攣った表情の髭なしが身を震わせながら言うと、顎髭も同様に引き攣った表情を船崎青年へ向けた。


「おじさん、冗談止めてくれよ。そういうのマジで、タチ悪いから」

「いや、本当です。聞かれたから答えました。ボール、こっちに返さなくて良いんですか?」


 問い掛けられた髭なしは「なんで?」と訊ねる。その意味を取り違えた船崎青年は、笑顔で答える。


「だって、仕事じゃないんですか? 早く投げて返して下さいよ」

「はぁ? 違うよ。なんで殺したんだって聞いてんだよ」

「私が初めて勤めた先が工場で、相手はそこの教育担当だったんですけど、あんまり毎日うるさいもんですから、かえって私の仕事の覚えが悪くなると結論が出たので、刺しました」

「……うるさいからって、刺したら捕まるじゃん」

「はい。だから捕まりました」

「え、考えてなかったってこと?」

「まぁ、後になって言われてみれば、って感じで。けど、刑務所に入った所で後々困ることも特になかったので」

「いやいや、だって刺した相手だって家族とか」

「あはは。独身で身寄りがないって事前に聞いた上で刺しましたから、その辺は大丈夫なんです。お気遣い頂きありがとうございます」

「…………」


 問いに対して真っ直ぐ答えた船崎青年は都会ではあまり感じられない緑の空気を胸いっぱいに吸い込みながら、実に気持ち良さそうに背伸びをした。

 その間、二人の職人はこそこそと声を潜めて話し合い始め、なにやら意気投合すると顎髭が船崎青年を呼び寄せた。言葉は「ですます」調に変わっていた。


「あの、派遣の人に書く紙、持ってます?」

「はい、タイムチェックですね。予備もありますよ」

「時間は九時、十八時でいいんで、もう上がってもらって大丈夫です。今日はありがとうございました」

「まだトラック来てないですよね?」

「はい。あとは俺らでやるんで。大丈夫ですから。お疲れ様でした。サイン書けば良いんですよね?」

「いやいや、これでもらう訳にはいかないですよ」

「本当、大丈夫なんで。トラックもいつ来るか分からないんで」

「そんな詐欺みたいなこと出来ませんよ。椅子に座ってボール投げて一日分の給料が出るなんて、おかしいじゃないですか。何の為に私を呼んだのですか?」

「マジでもう大丈夫なんで、本当お疲れさまでした。お願いですからもう上がって下さい」

「仕事まだしてないですよ。そっちが呼んだのに、こんなのおかしいですよね?」

「俺らの為だと思って……お願いします。この通りです」


 二人に頭を下げられた船崎青年は渋々タイムチェックの紙切れを手渡し、サインをもらうと胸ポケットに仕舞い込んだ。

 顎髭からは「悪いけど、駅までは歩いて帰って下さい」と言われたが、元々そうするつもりだったので、船崎青年は二人に頭を下げて現場を後にした。


 時間はまだ十時半を回ったばかりで、船崎青年は活き活きと輝く緑を眺めながら山間の道路を駅に向かって歩き始めた。

 こんな日はラッキーと思えば良いのだろうか。派遣会社の人間から「なんで帰ったんですか?」と電話が掛かって来たら、なんて答えよう。帰って下さいとお願いされたからと、そう言えば良いのだろうか?

 靄が晴れない胸中でそう思いながら歩いていると、前方から低いモーター音が聞こえて来て、やがてカーブになった緑の奥から四トントラックが姿を現し、元来た道へ向かって進んで行きそうなのが分かった。その途端、胸中の靄がスカッと晴れるのを船崎青年は感じ取ったのである。


「なんだ、やっぱり来たじゃないか!」


 船崎青年は楽しげな声を漏らすと、バッグの中に軍手とカッターが入っているのをしっかりと指差し確認をし、その目で確かめた。そして、今しがた通り過ぎたばかりのトラックを全力疾走で追い掛け始めるのであった。

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