追憶のギター

梅丘 かなた

追憶のギター

 梅雨空が嫌な感じだと思っていた。

 日曜の午後のことだ。街を歩いていると、雨が降り出した。

 このくらいの雨なら、傘がなくても大丈夫だろう。

 そう高をくくっていると、突如、激しい雨に変わった。

 僕は、慌てて近くの書店に駆け込んだ。


 この書店には、あの本はあるだろうか。

 僕には、前から探している本がある。

 インターネットで買うほどでもないが、その本のことがいつも頭の片隅にあった。


 その本が置かれているのは、たぶん音楽関連の書籍の辺りだ。

 もしくは、タレント本のコーナー。

 探しているのは、とあるロックバンドのボーカルが書いた自伝。

 出版されたのは、今から五年ほど前だ。

 そのロックバンドも、今では解散してしまった。


 やはり、この書店にもないか。

 一通り探した後で、僕は少しだけがっかりしたし、同時になくて良かったとも思った。


 僕は、雨が弱まるまで書店の中で少し待った。

 五分経つと、外は小雨に変わったようだ。


「君、もしかして高柳たかやなぎ?」

 書店を出ようとすると、後ろから僕の名を呼ぶ男の声がした。

 振り向くと、そこには三十代後半の男がいる。

 彼は、僕の高校時代の友人、相沢あいざわ陽一よういちだった。

「相沢? 香田こうだ高校の?」

「覚えててくれたんだ?」

「まぁ、今まで長年忘れてたけど。卒業以来だから、二十年くらいになるね」

「高柳も、雨宿り?」

「ああ」

 僕は、相沢を前に、緊張し始めた。

 久しぶりに会ってみると、なかなかいい男になっている。

「今から、僕の部屋に来ない? コーヒーでも淹れるよ」

 僕は、相沢を誘った。

「いいよ」

 彼は、短く答えた。

 


 今、相沢は僕の部屋にいる。

 取って食うつもりはない。

 ただ、高校時代のように、少しずつ身近な存在になりたいだけだ。


 相沢は僕の淹れたコーヒーを飲み、ため息をついた。

「さっきの本屋に、何か面白い本でもあった?」

 彼は、僕に聞いた。

「特にないな。相沢は?」

「俺は、お菓子作りの本を探してたんだけど、いい本は一冊もなかった」

「僕は、本当に欲しい本は、ネットで買うことにしてるよ」

「俺も。ちょっとでもマニアックな本になってくると、普通の本屋にはないんだよな」

「相沢は、お菓子を作るのが好きなの?」

「最近、ハマっているんだよ」

 相沢は、かすかに笑みを浮かべている。

「ちなみに、最近、何のお菓子、作った?」

「シュークリームとか、フルーツケーキ。夏になったら、アイスを作ろうと思ってる」

「今度、僕にも何か作ってよ」

「いいよ。作る日に連絡するから、連絡先、教えて」

 僕たちは、携帯の連絡先を教え合った。


 僕たちは、時間を忘れて語り合った。

 学生時代の思い出話に始まり、今までの人生について語ったりした。

 僕も相沢も、未婚。恋愛もあまりしていない。

 ただ、今はあまり恋愛の話はしたくない。


 この日、相沢と別れたのは、夜の十時になった。

 それほど、話が弾んだのだ。


 その夜、少し考えていた。

 僕は、相沢なら僕の性的指向を理解してくれると信じている。

 学生時代、僕は彼には、自分が同性愛者だと話していない。

 焦らなくても、言うべき時は来るはずだ。

 相沢は、ゲイではないかもしれない。

 それでも、近づけるだけ近づいてみよう。



 相沢のほうからは、まったく連絡がなかったので、僕は毎日やきもきしていた。

 まだ恋愛感情こそないが、僕の脳裏には彼の存在が住み始めている。

 今後、僕と彼がどんな関係になるかは、想像さえできない。


 七月下旬になり、僕は相沢にメールした。

「何かお菓子を作ってくれない?」と。

 相沢から、「じゃあ、最近、暑いからアイスを作るよ」と返事が返ってきた。

 あっさり会うことになり、拍子抜けした。

 こんなことなら、もっと早く、メールすべきだった。

 僕は、相沢の一人暮らしのマンションの一室に行くことになった。


 七月最後の日曜日、この日はよく晴れて、蒸し暑くなった。

 手作りのアイスを食べるのに、ふさわしい一日だ。

 午後二時、僕は相沢の部屋を訪れた。

 驚いたことに、彼のマンションは僕の家から歩いて二十分くらいの距離だった。

 彼は、十年前、このマンションの一室を借りて、今の生活を始めたという。

 僕がこの街に住み始めたのは、五年前。

 相沢はこんなに近くに住んでいたのか、と不思議な心地がした。


 相沢の居室には、黒いテーブルがあり、木製の椅子が二脚置かれていた。

 僕たちはそこに座り、彼が作ったお菓子を食べることにした。

 彼は、抹茶アイスを作ったという。

 僕は、アイスクリームを口に運ぶ。

 抹茶の風味がほろ苦くて、甘さも控えめだ。

 僕の体は、一気に冷えていく。 

「おいしいね。市販のアイスみたい」

「アイスって、意外と作るの簡単なんだよ」

 相沢は、嬉々としている。

 僕は、この部屋に入った時から、壁際に置いてあるギターの存在に気づいていた。

 フォークギターかクラシックギターに見える。

「ところで、あそこに置いてあるギター、どのくらい弾けるの?」

「弾き込んだ曲が数曲、あとはあまりうまく弾けない曲が無数にある感じ」

「独学?」

「ギター教室で、前に習ってたんだ。今も、時々弾くよ。高柳は、もう弾かないの?」

 覚えていたのか。僕は、高校時代、独学でギターを弾いていた。

 今はもう弾かない。

「俺がやってたのは、クラシックギターなんだ。高柳は、フォークギターだったよね」

 そう言いながら、相沢はギターを手に取った。

 彼は、温かな響きの和音をいくつか奏でた。

 そのままサティ作曲の「ジムノペディ」を弾き始める。

 本来はピアノの曲だが、ギター曲に編曲したものを聴くのも心地よい。

 どこか幸福で、寂しげなギターの音色が、僕を恍惚こうこつとさせた。

「なかなか様になってるよ!」

 曲が終わり、僕は相沢を褒めた。

「今度は、お前が弾いてよ」

「今じゃ何も弾けないよ」

「そうか……」

 相沢は、明らかに残念そうだった。

「もう一度、練習してみたら? 勘が戻れば、またうまく弾けるはず」

「もうギターを弾くつもりはない」

 僕は、はっきりと言った。

 ギターが置いてあると気づき、自分からギターの話を振ったのは僕の中で失敗ではない。

 ギターなど、特別恐れてはいない。

 恐れていたら、初めからギターの話をしなかっただろう。

 僕は単にギターを弾かないと決めただけなのだ。

「実は、お前を思い出して、ギターを始めたんだ」

 相沢のその言葉は、僕の胸を締め付けた。


「ちょっと、相沢に聞いてほしい話があるんだ」

 僕は、普段誰にも話さないようなことを、相沢に話そうと思った。

「八年前、僕はあるアマチュアのロックバンドに誘われたんだ。

 ギターが弾けるボーカルとして、ね。

 そのために、緊急でエレキギターを弾けるようにした。

 バンドメンバーとは、うまくやっていて、本当に楽しかった。

 一年後、僕はバンド内でも欠かせない存在となった。

 ところが、どこからか、僕が同性愛者だという噂が広まっていった。

 そして、それは事実だった」


「ちょっと待った、お前もゲイなの?」

「お前もって? ということは?」

「俺も、そうなんだ」

「え?」

「とりあえず、今は、バンドについて話してよ。ゲイだと噂されて、その後、どうなったんだ?」


「僕がゲイだという噂に、バンドメンバーは苦い顔をした。

 結局、ギターボーカルの立場を他の男に奪われ、僕は逃げるようにバンドを辞めた。

 ギターも、二度と弾くものかと、売り払った」

 いったん、僕は間を置いた。


「そのバンドは、僕がいなくなった途端、売れ始めたんだ」

「なんだか、ひどい話だな。それで、ギターが嫌いになったのか」

「ギターは嫌いでもないし、恐れているわけでもないんだ。ただ、弾きたくないだけ」

「ちなみに、そのバンドの名前は?」

Pink Silly Starsピンク・シリー・スターズ

「え? あのPSS?」

「けっこう有名だから、驚いたでしょ。僕がボーカルを辞めたから、売れたような気がしている」

「俺、ファンだから、ちょっとショック。ボーカルの自伝、持ってるよ」

 それは、僕の代わりにボーカルになった男が書いたものだ。

「僕の話が載ってるか、ずっと気になってたんだ」

「今、お前から聞いた話は、いっさい載ってなかったよ」

「そうか……」

「高柳のことは、まったく書かなかったのか。まぁ、書かれないほうがいいか」

「ところで、相沢がゲイって……」

「お前も」

「そういえば、高校の頃、ずっと女の話をしないと思ってた」

「あの頃から、ゲイだという自覚があったんだ」

「なんだ、そうだったのか……」


 僕と相沢は、また話し込んだ。

 今度は、ゲイとしてどんな人生を歩んできたかを語った。

 別れたのは、夜の十一時頃。

 帰り道、涼しい夜風が心地よかった。


 八月に入り、蝉の声がますます騒々しくなった気がする。

 僕は、再び相沢の部屋に遊びに行った。

「新しい曲が弾けるようになったって?」

 僕が聞くと、相沢は笑みを見せた。

「前から練習してたんだけど、最近やっと習得した曲。とりあえず、聞いてみて」

 彼は、椅子に座り、ギターを構えた。

 バッハの「G線上のアリア」を弾き始める。

 穏やかで、心地よい旋律の中、僕は相沢と再会した喜びを感じていた。

 高校卒業後、たまに思い出すことはあっても、日々の喧騒の中、忘れ去っていった友人。

 彼は、今になって恋の相手になりそうだった。

 彼と、しばらく人生を楽しんでみたい。

 恋の結果は分からなくても、僕を包むギターの音色には、静かな心地よさがあった。

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追憶のギター 梅丘 かなた @kanataumeoka

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