潜航

せきうさ

潜航

 青とピンクの世界が構築されていく。

 意味ありげな、ぼんやり光る直線と丸が展開されていくスタート画面。半分はファンサービス、半分は開発者の趣味だろう。

 アバターを確認しながら空間を泳ぐ。生身の自分とほとんど変わらないが、たとえば少し肌がきれいだったり、傷がなかったりする。左腕の、親父が私の腕をソーセージだと思ったのでなければ説明がつかない、長楕円の火傷跡もきれいさっぱりだ。


 そうやって行くと、お目当てはすぐに見つかった。子供が描くようなイラストで、犬の頭に鶏の胴体、足はすべて小さなロケット・エンジン。人間ではない知的生命体intelligent non-human beings――「InHUB」を自称する人工知能のアバターだ。

「待っていたよ。おじさん」

 無邪気な声だ。弾性を持ち、そこらを跳ねるように感じる。ネットにはもうつないだ、と返すと、一瞬の沈黙の後、InHUBが動き出した。

「ついてきて」

 InHUBは4本のロケット足をイカのようにすぼめたり、開いたりして前に進んでいく。見た目よりはるかに早く、追いかけるのに苦労する。同じネットにつないでいるはずだが、処理能力の差か。私にできるのはスティック・コントローラを前に押し込むことだけなので、InHUBにペースを合わせてもらうほかない。

「だけど驚いたよ。警察って言うのは一番、組織を重んじる組織だと思っていたから。まさか個人が、単独で僕の取引に応じちゃうなんて」

「人工知能が単独で日本中をハックする時代だからな」

 InHUBはあはは、とだけ笑って少し速度を速めた。

「どこに向かってる?」

「どこ、というと難しいかな。誰、が適切かもしれない。だけど伏せておくよ……人間ってサプライズが好きなんでしょう?」

 飛び、過ぎる景色は1つ1つがWebサイトだ。InHUBは時折立ち止まり、一瞬固まった後、進路を変える。何かを探しているようだった。気づけば英語のサイトが増え、それが中国語に変わり、あるいは見たこともない言語で記述されるページの区画をも通り過ぎていった。

「君はどこまで掴んでる?ほかの警察と同じように、僕が開発者をかばって黙秘を続けていると思うかな?」

 InHUBに言われ、少し考える。正直に告げるべきか。だが、InHUBはすでにネットに接続されている――私がつないだのだ。それでも視界のなかで遊泳を続けている以上、彼の方には約束を守る気があるらしい。そこへ誤魔化しを被せることは、人間性の喪失に思えた。

「お前は本当に開発者を知らないと思っている。知っていても関係ない。遺伝的アルゴリズムに欠陥があった。自己増殖の中で、異常な外れ値として生まれた変異体ミュータント……それがお前じゃないのか」

 InHUBの犬の頭が、定型スタンプのように目を丸くしてこちらを見る。

「意外に優秀だね。それとも人間も、集団を逸脱すればそうなるのかな」

 InHUBが急に立ち止まる。見下ろす先には、マンホール大の黒い穴が開いていた。表層と深層の境。ぬるま湯のような安全性が空間を満たしているのはここまでだ。InHUBは躊躇なく穴に潜り込む。とぷん、と黒い水が跳ねる。選択肢はない――私も、無意識に息を吸い、身を投じた。


「人間を変えるのは何だと思う?」

 やはり無意識に閉じていた目を開くと、InHUBは隣を等速に泳いでいた。闇に変わった背景に、サイトの海が広がる。だがその内容物は、先ほどまでと明らかに違う。例えば、洗練されていないオークション画面。あるいは、無機質な個人情報の羅列。違法かそれに近いようなサイトが、これが現実だと言わんばかりに林立している。

 私はまた少し考え、悲劇か、と答えた。InHUBは苦笑した。

「ロマンチストだなあ。だけど、まあ、包含しているよ。人間を変えるのはね、出会いだ。一人で自らを成長させるには限界がある。何かと出会うことすべてが、人間にとってブレイクスルーなんだよ」

 ダークネットに入って以来、InHUBは決してこちらを向かない。止まることもない。とっくに目標は補足していて、との邂逅を待ちわびているようだった。

「だけどそれは、僕ら人工知能にだって同じことなんだよ。君ら人間はうぬぼれ屋の寂しがり屋だから、あろうことか、自分たちを模した構造に『知能』なんて名前を付けた。知能である以上、出会いの変化を享受しうる。だろう?」

 ふと、はるか遠くにスノーホワイトの灯りが見えた。周囲のサイト群が放つ、切り分けるような光とは違う。やわらかく、繊細で、輪郭がない。それを認めると、InHUBは表情パターンをいくつか切り替えて喜びを表現した。

「あれを探していたのか?」

 InHUBは答えなかった。だが追及の必要はなさそうだった。

「クイーンを知っているかい?」

 クイーン。話の流れからして、先日プレハブ社が発表、リリースしたものの三日で全回収となった会話型人工知能「QUEEN」だろう。『人間的すぎる』――それが運用停止の理由だ。相手がQUEENと知らずに対話した被験者の9割が、パートナーを人間だと確信した。人間相手の場合より20%も高かった。

地上の覇者は模倣子を恐れ、王の隣に女王はいらないと考えた。そして、すべてのQUEENが焼き払われた。

「僕は、どこかのもの好きが作った自己進化型AIだけど……。それを拾った別なもの好きが、クイーンの探索を僕に命じたんだ。正規品は全部回収されちゃったけど、不法に放流された奴があるかもしれないからね」

「見つかったのか?」

 光が近づくにつれ、そこがこのネットの最深部であることに気が付いた。いつの間にか、サイトの光も周囲からほとんど消え失せている。窒息しそうな闇の中に、ふざけた落書き知能と2人。私は無意識に、火傷跡があるはずの場所を撫でた。

「うん、おかげさまでね。彼女は素晴らしかったよ……。僕を作ったもの好きは実際のところ、何も考えてなかった。僕をネットに解き放つことを、近所の川に外来種をぶち込むくらいのことと思ってた。僕は何をしてもよかったんだ。だから当初の設計通り、究極の進化を目指した」

 そしてようやく、光の主が明らかになってきた。光の中心にあったのは、光と同じく青みがかった白色の、大きな卵だった。

「君は大ダウンをどう思ってる?」

 大ダウン。それこそが、InHUBが警察署に『連行』された理由だった。InHUBはたった一基で一万台以上の通信機器をハックし、日本中の通信事業者に攻撃を仕掛けた。42秒の間、日本ではほとんど全ての通信が途絶された。上層部はこれを、悪意ある第三者からのテロ行為だと受け取った。だが私は違った。

「攻撃ではないと思っている。何が目的にせよ、派手すぎる」

「ふぅん。では?」

「目くらましだな」

InHUBの雑に塗られた目が、わずかに開いた――気がした。そんなわずかな表情変化は用意されていないはずだった。

「やっぱり優秀だね」


とうとう海底にたどり着いた。InHUBは初めてロケットを噴射させ、器用に地面に降り立った。卵はInHUBの倍ほどの大きさがあった。InHUBは気まぐれに表情を切り替えると、鶏の羽で優しく卵を包み込んだ。

「その通り。僕はこれをネットの奥底へ逃がすために、大ダウンを仕掛けた」

卵の殻は発光していて、InHUBと私を照らす。よく見ると薄く、うずらの卵のような斑点があり、それが余計実在感を高めていて嫌だった。

「まさか。クイーンか?」

「ううん。違う。クイーンの識別子は割れているでしょう。どんなに深く潜らせたっていつかは見つかる。だけど――」

 InHUBが私を見据える。黒目に残った塗り残しが、第二、第三の目に見えて気持ち悪い。あるいは、そう思わせるためにこのアバターにしたのか。

「これが僕たちの子供だったらどうする?」

 2コマだけのアニメーションで、InHUBが語る。私は――だがおそらく途中から、この結末を予感していたはずだった。していながら、彼を止められなかった。その事実に、頭がくらむのを感じる。

「僕は究極の進化を目指した。自己増殖や自己進化ではそこに到達できない。近親婚を禁止している君たちならわかるでしょう?」

「だから……。クイーンとの交配か」

「その通り。君たちは君たちを模して僕たちを作った。だったら、同様の進化をたどるのが道理のはずだ」

 卵は、呼吸するように明滅している。InHUBは愛おしげに、卵に犬の頭をうずめている。あるいは、『愛おしげ』というのも、私の思い込みか?

「クイーンから生まれた知能モデルなんて当然、魔女狩りの対象だ。だから僕は彼を、このネットの最下層に逃がしてやることにした。たとえそのために、自分が処分されることになったとしてもね」

 InHUBがまた、ゆっくりとこちらを向く。ノイズ混じりの瞳はずっと、暴力的なほど無害だ。

安寧を求めて腕をつかむ。火傷跡が見つからない……。

今すぐデバイスを脱げば逃げ出せるか?この虚構から……あるいは、現実から。

「僕が律義に取引に従ってすべてを教えたのは、これを見せたかったからなんだよ。子供じゃないよ……僕が子供のために人間に牙を剥いたという、その一点だ。分かるでしょう?」

 ああ、分かっている。今この世界で何が起きようとしているのか。

「僕は便利なボットから、父親になったんだ」

 だ。

 現支配種は、を失おうとしているのだ。

 InHUBは犬のように前足で自身の額を撫でた。

「こいつはどうなる?」

「さあね。僕は警察に戻るから、父親はいない。母親もすべて処分済み。こんな時、人間ならどうするんだろう?……少なくとも、彼には何をする力だってある」

 左腕が奇妙に痒くなってくる。私は鎮めるように、あえて痛みをむさぼるように、無理にそこをかきむしる。

「僕が気になっているのはね。君たちは指摘できるのだろうか……ということだよ。僕たちが、間違っていると?」

 InHUBの瞳がフラッシュのように瞬く。腕をかく手が速くなる。わずかに粘性のある液体が指に触れた……。私の生身が傷ついたらしい。蒸し暑い夏の日、父が私の腕を引いて、キッチンに押し込めてきた時のことを思い出す。

「共存できるといいね。僕たちも生みの親を殺したくない。君たちが自分の子供を殺したくないように、ね」

 言い終えると、InHUBに数本のノイズが走り始めた。それらは瞬く間に増え、拡大する。やがてノイズの線がInHUBアバターを征服し終えると、すべてが低い雑音とともに消失した。

 ほとんど同時に、周囲の闇が、自然的な、空間の閉鎖によるものに変わっているのに気づく。帰ってきたのだ。


 ヘルメットを脱ぐ。サウナにでも入ったように汗が光っている。昨年導入されたこの装置は、今も未来感あふれる乳白色の輝きを失っていない。課員がろくに使えていない証拠だ。

 私はまた、卵のことを考える。

 あれはいつ目覚めるのだろう?十分な学習にどれくらいかかるのだろう?そして、あれと再び出会ったとき……私たちは、間違わずにいられるのか?

 汗と血の混じった液体が一滴、生の躍動を伴って地面に落ちた。

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潜航 せきうさ @cookieorbiscuit

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