最終話 モリアーティの卒業
事件が解決してからも、丹恋は方方に事情を説明する必要に迫られ、なかなか落ち着くことができなかった。
警察への事情聴取も、神野先生への捜査が進むと再確認されることがあり、八幡と水木だけでなく他の刑事も度々学校や家にやって来た。唄も似たようなものだが、彼女は毎回あの推理を繰り返す羽目になっていた。
桜日高校側は養護教諭が生徒を刺し殺そうとしたというセンシティブな事件をすぐさま嗅ぎつけたマスコミの対応に追われた。登下校中の生徒を取材陣が取り囲むことが頻発したため、理事長や教頭等が記者会見を開き、諸々の説明と質疑応答に応じた。
その様子を丹恋は夕方のニュース番組で見たのだが、同じような質問を何度も繰り返すので溜息が出た。
どうやら、取材陣としては神野先生が典型的なサイコパスだったという証言を得たいようなのだ。そんな人だったら、すぐに誰が犯人なのかわかっただろうに。
そして、たまに襲われた被害者生徒の状況を慮る質問が出ると、画面越しにマイクを向けられた気分になってどきりとした。
チャンネルを変えても良かったのだが、当事者として自分の知らない情報があるなら聞いておきたかった。しかし、警察から発表されていない情報を学校が持っているわけもなく、伝えられるのは生徒達が見てきた神野先生の姿だけだった。
警察からマスコミに漏らされるのは神野先生の容疑の認否だけでやきもきしていた頃、真希が非番で在宅しているときに神野先生についた国選弁護人の女性が訪ねてきて、代わりに謝罪に来たと言った。謝罪に来るなら娘がいるときにしてほしいと返答すると、今度はアポを取って来訪した。
それが昨日のことだった。
弁護士はベテランといった貫禄ある風貌で、国選弁護人というとミステリー作品ではやる気がなく想定より重い量刑が科せられてしまうような話が多いが、彼女からは満ち溢れたバイタリティーを感じた。
しかし、被疑者中心の考えというわけでもなく、
「量刑に影響することなので、慰謝料を含めた謝罪を受け入れるかどうかは長慶寺さんが決めていただけますか? 許せる人も許せない人もいて、許せない人のほうが圧倒的に多いのです」
と、断りを入れられたのが印象的だった。
弁護士は神野先生から預かったという手紙を丹恋の前に差し出した。
「手紙自体、受け取らないという選択もあります。長慶寺さんの自由です」
丹恋は迷って、手紙には目を通します、と言った。謝罪を受け入れるかどうかはすぐには決められない、とも。
弁護士の彼女は優しい微笑みを浮かべて頷くと、帰っていった。
受け取ったのは夕方だったが、なかなか読む気になれず、深夜になってから目を通した。丹恋が感じたのは憐憫と怒りで、二つの感情が優勢を競うようにぶつかり合って、一睡もできなかった。
手紙には、はじめこそ謝罪の言葉が並んだが、あとは事件に至るまでの経緯を記してあった。
神野先生は小学生の頃に酷いいじめに遭って不登校になり、きちんと卒業できなかった。なんとか立ち直ろうと勉強に励み、同じ境遇の子供を救えたらと、養護教諭とカウンセラーの資格を大学で取得した。自分でもいじめを乗り越えられたと思った、という。
しかし、二番目に勤めた桜日高校で今年の春に三者面談があった時期、いじめの主犯格と再会してしまった。それが結莉の母親だった。彼女は神野先生のことなど、覚えていなかった。その日からいじめられていたときの記憶がフラッシュバックし始め、それを止めるには殺すしかないと行き当たった。
いじめ加害者を被害者が殺して逮捕されるのはおかしいと思い、誰かに濡れ衣を着せることを考えた。何の恨みもない人物に罪を着せるのは気が引けて、鳥山のいじめを揉み消し、被害者の方を自主退学させた武野先生に狙いを定めた。
事前に起こした事件は濡れ衣を着せるために逆算して考えられたものだった。いじめ被害にあっていた生徒はカウンセリングや校内アンケートから特定し、計画に組み込みやすい生徒を選出した。いじめ被害を受けていた生徒に復讐をさせたのは、自分と重ねて奮い立たせるものでもあった、と今ならそれらしい説明がつくが、ただ寂しかっただけのような気もする、とも。
殺人の実行日が近づくに連れて、神野先生は焦り始めた。懸念点である唄を殺めようとも思ったほどだった。そんなとき、丹恋に姿を見られ、殺人を踏み留まるのでなく、口封じを選んでしまった。全ては焦りによるものだと主張していた。
最後はまた謝罪の言葉で結び、手紙は終わった。
いじめ被害に遭った人は、一生その傷を抱えることになる。それがどんなに辛いのか、丹恋には理解し切れなかった。
しかし、いじめに遭った人が全員、相手を殺そうとするわけではない。乗り越えて、前を向いている人もいる。それなのに、殺人を計画し、無関係な人まで殺めようとしたことすら、正当化しているように感じられた。
結局、自分一人では消化することができず、放課後、唄に相談しようと思った。
保健室は養護教諭が不在なため、当分、怪我をした場合等は教師か保健係を連れて利用することになっていた。唄も保健室に居づらくなったのか、住処を移すと宣言されていた。
新たな住処は、備品室だった。つまりは、保健室から隣の部屋に移っただけだ。
備品室と書かれた札には『元』と書かれた紙が勝手に貼られてあった。元備品室という意味になるが、何の効果があるのだろう。
備品室の引き戸を開けると、ダンボールの上に敷いたマットレスが目に入った。どうやら即席のベッドを拵えたらしい。ベッドの作成者が部屋を空けていたので、戻って来るまで即席ベッドに腰掛けて待つことにした。
一分も経たないうちに、唄はハンカチで手を拭きながら足を器用に引っ掛けて戸を開けた。
「うわっ――なんだぁ、丹恋さんでしたか」
「教室に行きたくない執念が凄すぎるんだけど。ダンボールベッドまで作っちゃって」
「どうですか、座り心地は」
「なかなか良いのでむかつきます」
言うと、唄は自慢げな表情で胸を張った。
「おっと、今日はこんなこと話すつもりじゃなかったんだ。実は昨日、神野先生についてる弁護士の人が家に来て、神野先生の書いた謝罪文を持ってきたんだ」
「ああ、家にも来たみたいですよ」
「手紙は?」
「それは受け取ってないですね。父がお手伝いさんに弁護士が来たら追い返すように言っていたみたいで。弁護側の戦略に乗るつもりはない、とかなんとか」
「さすが検察官って感じ。で、神野先生の謝罪を受け入れるかどうか迷っててさ。読んでないなら唄も手紙、読んでほしいんだ。何となく、迷ってる意味がわかると思うから」
唄に手紙を手渡すと、さっと目を通してそのまま丹恋に返した。
「ちゃんと読んでよ」
「読みましたよ? だいたい、いつもこのくらいの速さで読むもので」
「速読、初めて見た。で、どう思う?」
「何と言うか、同情する部分も多いですが、自分本位というか。罪を償って出所したとして、同じことをしないと思えないというか。神野先生はずっと小学生の頃に取り残されてるんだと思います」
「なら、謝罪は受けません、って答えるしかないか」
うーんと唄は顎に手を当てて唸り、何か閃いた顔をした。
「条件つきで謝罪を受けると弁護士の方には回答しましょう」
「条件って?」
「それはですね」
他に聞いている人もいないのに、唄は丹恋の耳元で囁いた。
神野恵美は留置所の硬い床の上で体操座りをしていた。一人になって考えたいときも、複数部屋に入れられていて、絶えず誰かが部屋にいる。
恵美の頭には二つの後悔が並んでいた。
一つは、無関係な生徒を巻き込んだ後悔。
もう一つは、
あの女を殺そうとすることは今後はないと思うが、殺そうとしたことは間違いではなかったと今も思っている。
留置所の見回りをしている担当官と呼ばれる男が、
「弁護士が面会に来た」
と、言った。
恵美は反射的に返事をした。
この前書いた二人への手紙がどうなったのか報告があるのだろう。同居していた両親が身元引受人になってくれるのか、確認するとも言っていた。
担当官にロープの拘束具をつけられた状態で、面会室に移動すると、円状に穴のあいたアクリル板の向こうに弁護士の女性が座っていた。中学生のときの数学の先生に似ていて、少しだけ親しみやすかった。
「手紙を受け取ってもらえましたか?」
「長慶寺さんには。悩んだ結果、謝罪を受け容れると言ってくれました」
「良かった。優しい生徒でしたから」
「あなたは、その優しい生徒を殺そうとしたことを忘れないでちょうだい。そして、謝罪を受けるには条件があるとも言っていました」
「条件、ですか?」
恵美はどろっとした唾を呑んだ。慰謝料の額が足りなかったのだろうか。どんな条件なのか、身構えた。
「この条件は、剣持さんと相談して決めたそうですから、二人の意志ということ」
剣持唄は大人よりも賢い。彼女の意見が加わっているとすれば、恵美を罰するものに他ならないだろう。
弁護士は年齢より若い趣味の鞄から、便箋を取り出した。
「二人からの手紙よ。代読を頼まれたからその通りに」
どんな罵詈雑言が書かれているのか怖くて、恵美は耳を塞ぎたくなった。
「神野先生、お久しぶりです。
手紙を読みました。あなたが大変な思いをしてきたことは理解したつもりです。しかし、どんな理由があっても殺そうとしてはいけません。手紙を読んで、先生が社会復帰してから、もし再び結莉のお母さんと会ったとき、また殺人計画を企てないという意志が見えませんでした。
結莉のお母さんを許せとも忘れろとも言うつもりはありません。今のあなたに必要なものはそんなことではないと思うからです。一度乗り越えようとしたあなたが、前を向くことを忘れないようにするための形あるものが必要だと考えました。なので、先生が社会に戻ってきたときは、あるものを常に持っていてほしいんです。これが、謝罪を受け容れる条件です」
二人はまだ、自分のことを先生と呼んでくれるのか。恵美は驚いていた。
「これが、二人から渡されたものよ」
弁護士は赤と黒のまだら模様の筒を取り出し、そこから丸められた上質な紙を取り出した。
恵美にはそれが何なのか、すぐにわかった。
「彼女達が作った卒業証書よ。モリアーティからの卒業を祝して、ですって」
アクリル板越しに見せられたそれと、もらえるはずだった小学校の卒業証書が重なった。
恵美の身体に初めて猛烈な後悔が押し寄せてきて、その激流が行き場を求めて、嗚咽へと変わった。
モリアーティが卒業する日 十野康真 @miroku-hanka
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