生きることへの漠然とした不安について

 仕事でミスをした帰り道、ある不安に襲われた。

 きっと今までもあったであろうそれはこの日を境にわたしの中で徐々に、しかし確実に存在感を増していく。


 何者にもなれない人生を、わたしは恐れている。


 それからは毎日小説を読んだ。わたしは同年代の中でもそこそこ本を読んでいる方だとは思う。何故本を読むのかというと、わたしが本を好むのはひとえに現実逃避のためであるからだ。こうして文章を打ちこんでいるのも、うまくいかない仕事のことであったり、漠然とした将来への不安から逃げるためである。いずれくるであろうもっと大事なことから目をそらし、追いついてくるギリギリまでそれと関わらずに生きていたいからだ。


 つまり、わたしは他人と比べて真面目に人生を歩んでいないのだと思う。


 なんのことはない。真面目に人生を生きていないから、現実から目をそらしているから時間が生まれ、空虚な時間を潰すために素晴らしい小説の世界に逃げ場を求めているだけなのだ。


 もちろん、全ての読書家が暇人ということが言いたいわけではないのでそこはあしからず。


 例によって前回に引き続き今回も駄文だ。ただ自分が思ったことを、溢れそうで仕方がないどろどろとしたものを勢いに任せてキーボードに叩きつけているだけのもの。ただ、こんな駄文でも読んでいる人がいれば悪いので、最近読んだ中で印象に残った1本の映画と、2冊の本について少し紹介しよう。


 まずは「みなに幸あれ」という映画をご存知だろうか?

 2024年に公開されたホラー映画である。総合プロデュースを務める清水崇さんのことは知っている人も多いと思う。

 本作のテーマは「誰かの幸福は誰かの不幸のもとに成り立っている」というもの。

 物語は都会で看護師の仕事を志す主人公が、実家の祖父母のもとへ帰省するところからはじまる。端的に言えば祖父母の様子がおかしい。やたらと孫に「今、しあわせなのか?」と質問してきたり、急に天井を見上げたり、廊下でじっと開かずの間を睨んだり。そういった直接描写されない得体の知れない恐怖が、嫌な音楽とともに描写される。上映時間の1時間29分はずっとそういった描写が行われる。



 続いて朝井リョウさんの「何者」だ。

 こちらは直木賞作品であり、かつ実写映画も公開当時は好評だったと記憶しているので、認知度は高いと思う。今更になってわたしは最近になって小説版を読んだ。余談だがわたしはいつも動き出すのが遅い。

 本作は就活を題材にした物語だ。彼らは就職活動という人生のステージで己が何者なのかという疑問と初めてまともに向き合うこととなる。コロナの影響で現代の就職活動とは違うかもしれないが、きっと根本はそう変わらないんじゃないかと思う。

 企業は面接やインターンという働くよりはとても短い期間で就活生を知り、自社に役立つ人間なのか判断し、決断しなければならない。そんな企業に対して就活生は己自身をアピールする。よりよく、そして自分と合致する企業に就職できるように何枚もエントリーシートを書き、SPI試験の勉強やたくさん模擬面接を重ねる。努力を重ねて少しでも面接官の心象を良くし、自分という存在が何者なのかということを刻み込もうとするのだ。



 さて、最後は角田光代さんの「銀の夜」だ。

 絵を描くことが好きで、穏やかな性格の夫と暮らす井出いでちづる。娘を愛し、良い夫にも恵まれ、専業主婦に忙しい岡野おかの麻友美まゆみ。雑誌のコラムを書いたり、ある時は外国を飛び回って写真を撮ったり、落ち着きはないが華やかな見た目と魅力のある草部くさべ伊都子いづこ。中学の頃から3者は仲がよく、卒業後もちょくちょく会って過去の思い出話や近況を報告していた。表面上は仲良さげで私生活もうまくいっていそうな彼女らだったが、それぞれに事情を抱えている。

 ちづるの夫は同じ職場の女性と浮気をし、自身はイラストレーターの真似事をしていながらも得られる収入は日々の食事代にも満たない。このままで良いのだろうかという漠然とした不安を抱えていた。

 麻友美は自身の娘のためと芸能系のスクールに通わせ、会社経営で高給取りの夫に媚びるように服や食事をねだる。しかし結局は娘のためではなく自身ができなかった生き方を娘を利用して生きようとしているだけなのではないか?夫がいなければ自分は一人でまともに生きていくこともできないのではないか?ということに気づき始める。

 伊都子は母親に縛られていた。尊大で、偉大な母親。女手一つ、多くの人を惹きつけまた自身も逆らうことなく生きてきた。けれどそんな母と離れ、恋人を作り、母の教えと真逆の生き方をすることで偽りの満足感を得る。しかし、結局のところ母に叛逆するという生き方そのものが母親に縛られているのではないか?という疑念に伊都子は苛まれることとなる。



 3つの作品の概要を紹介した。

 わたしは理解力がそこまである方ではないのだなと気づいたのはここ2,3年のことである。勤務先の上司から、「おまえは自身を過大評価している」と指摘されそれをはじめて自覚した。だから、小説を読んだ後も、映画を観た後もどれだけその作品を理解できたのか自信はない。作品の感想をネットで漁り、みんなよくそこまで観れるものだなあといつも感心する。以上を踏まえて、上手く感想を表現できるかといったことは特に考えずにただ思っただけのことをここに述べる。


 3つの作品に共通しているのは漠然としたものへの不安であり、恐怖だ。

 人は意味がわからないもの、理解できないものに恐怖する。

 これも私見だがホラー映画は序盤が一番恐ろしい。何故なら登場人物に訪れる霊障の原因がわからないからだ。いつ、どこで、どんな存在が、なにをするのかわからない。そんな疑問が不安に変わり、不安は恐怖となる。恐怖は形となって現実の我々を襲う。ちなみにわたしは今でも鏡だったり、布団の中だったり、マンションの廊下だったりが怖くなる。電気をつけたまま寝ることもある。これらは恥ずかしいことでもあるが、形のない恐怖が現実を侵食していることの証拠であり、ホラー映画が持つ力でもある。

 わたしはホラー映画があまり好きではないけれど、そういったところもホラー映画好きに言わせれば魅力なんじゃないかと思う。


 話を戻そう。

「みなに幸あれ」はそのテーマについてわけのわからない描写と不安を煽る音楽で恐怖を演出した。

「何者」は就活を題材に人類の根源的な命題である「自分は何者か?」ということについて世間に問うた。

「銀の夜」は異なる立場の3人の女性が抱く将来への漠然とした不安を描写した。


 結局何が言いたいのかというと、わたしは少し怖くなったのだ。

 親に恵まれ、環境に恵まれ、運に恵まれ希望していた職業にも就き、わたしはこうしてのうのうと生きている。それでいて与えられた職務も満足に全うできず、何か楽できないか、自分にとって退屈しない道はないのか?と逃げ場を求めている。自分を卑下しながら、心の奥底では「でも、自分はこんな人間ではない」と思っている。そんな矮小で、卑しくて、情けない自分が嫌いになりつつある。

 きっと生きるということはこの漠然とした不安と自己嫌悪との戦いのなのだ。そして、これらに打ち勝つには己と真摯に向き合い、漠然としたものを明確にし、恐怖に立ち向かうしかないのだろう。わかっている。それはわかっているのだけれども、そうできない自分がまた嫌いになる。


 きっと今はそんな時期なのだ。だから今は意識を低く保つ。次の休日だけを楽しみに日々を乗り切ろう。


 不安な夜を越えれば明るい朝が来ると信じて。



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