年齢とともに減る人間の寛容さについて

前回、といってもだいぶ前の話だが続けることの難しさについて語ったので今回は違う話題。

今回は寛容さについての話をしようと思う。例によって深夜テンションの赴くまま思いの丈を書き殴るだけの駄文である。

これはどこかで聞いた話だが、脳はとかく変化を嫌うらしい。つまり、心地よい現状に満足させ、肉体の持ち主に危険が及ばないよう調整をするのが脳の役割なのだ。それは素晴らしい機能であると同時に、我々に緩やかな衰退をもたらすこととなる。

衰退は環境への適応力を低下させ、やがては確実な破滅を引き起こす。私はこの適応力を寛容さと呼んでいる。寛容さ、すなわちあらゆる状況や物事に対し、一度受け入れる姿勢を高めていくことは今後の人生に必要なことだと思うのだ。

この寛容さは年齢を経るごとに減っていく。あまり偏見を引き出したくはないのだが、高齢者は自身の意見に固執しがちな場面が多々ある。長年蓄積された自身の経験に基づく知恵が絶対的なものであると確信しているからだ。それは半分正しくもあり、間違ってもいる。時代はとてつもない速さで今も変化している。少し前まで絶対の真実と考えられていたものが過去となり、過ちであるとわかり、若者に嘲笑される。不変の真理といったものはきっと世の中にあるのだろうが、それもいつ覆されるのかわからないのだ。

さて、ここまで長々と語ってきたが結論を述べると


「ふだん自分が手を出さないジャンルにも時々手を出してみよう」


ということである。

私事としては、最近パートナーの影響でホラー分野に手を出すようになった。私にとってホラーとは文字通り恐怖そのものであり、能動的に摂取する作品群ではなかったのだ。友人の言葉を借りるならば


「なぜわざわざ対価を払ってまで驚かされたり、不快な思いをしなければならないのか?」


といったところである。うん、まさしくその通り。

ここで冒頭の寛容さの話を思い出す。

私には二つの道がある。

一つはこのまま一生、もしくは可能な限りホラージャンルを避け、自身が好む作品群にだけ触れて生きる道。

もう一つは覚悟を決め、今まで積極的に触れてこなかったホラー作品に触れてみる道。

それぞれの道にメリット、デメリットがある。ただ、あえて後者についてのメリットを挙げるとすれば、以下の通りになるだろう。すなわち


「新しい自己の獲得」


である。前者に関してはなるほど、決して悪い選択肢ではない。自分が見たいものだけを見れば、金も、時間も、精神も無駄になることはないだろう。私は見たくないものを避け、ただただ楽しい世界を生きられる。ただし、そこには変化がない。一方後者は金も、時間も、そして精神も無駄に削られることがあるかもしれない。というか十中八九そうだろう。調子に乗って新しい分野に挑戦した結果痛い目を見るというのはよくある話だ。しかし、そこには変化がある。その分野を知らなかった私から、知った私へと変化が起きる。必ずしもポジティブな変化になるわけではないが、それは不可逆的な変化となる。

寛容さを生み出す要素の一つがこの変化である。

私は最近この寛容さを、すなわち変化を追い求めている。

私はこの先も歳をとるだろう。その過程でさまざまな経験をし、絶対的な自己を確立していく。そして最終的に寛容さを失い、一つの意見を持った個人として死んでいく。それはいい。ただ、今のうちにこの寛容さをできる限り拡張しておきたいと思った。なぜなら、寛容さの減少とは可能性の減少であるからだ。可能性が減れば減るほど自身の行動に制限がかかる。やりたくもない選択肢から選ばされる羽目になる。で、あれば今のうちにあらゆる可能性を求め、変化を起こし、将来に少しでも多くの選択肢を死ぬときの自分に残しておいてやりたいのだ。


さて、ここまで小難しく語ったけれど結論は至ってシンプルだ。


「たまには自分らしくないものに手を出すと思わぬ発見がある。」


ということ。皆さんもいかがだろうか?

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小説のようなもの 理科 実 @minoru-kotoshina

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