夜道を走って高山に行く 前編

 仕事が終わり、私は急いで家に帰る。

 カバンの中身を予め準備してあったものと入れ替え、ジャケットを羽織り、荷物の点検を行う。

 今回は長い旅路になる。

 不必要な荷物は極力置いていき、必要なものだけを鞄に詰めなければならない。

 そうなると必然的に入れるものは限られてくる。

 最悪の場合は現地で購入すればいいだろう、と私はある程度のところで作業を切り上げ、外に出る。今夜は程よく風が吹いている。この時期にジャケットは暑いかなと思ったがその心配は杞憂に終わりそうだ。私は駐車場へと向かった。



 カバーを外せば今日も愛車が私を出迎えてくれる。

 中古で購入した私のジクサー。

 半年にも満たないのに、既に細かな傷が点在し、あまつさえタンクカバーには穴が空いている。

 すまんなあといつものように傷を撫でつつ、キーを差し込む。

 クラッチレバーを握り込みエンジンを始動させる。その音はまるで寝起きを起こされた時のような不機嫌さを感じた。

 今日もよろしくなと心の中で語りかけ、愛車に跨った。

 スマホのナビを起動し、目的地を入力する。


 今回の目的地は岐阜県高山市。


 私が好きなアニメの聖地でもあり、高校の時からずっと行きたいと望んでいた場所だ。まさかこの歳になって、しかもバイクで目指すことになるとはあの頃の私も想像できなかっただろう。しかし、思い立ったが吉日である。仕事で4連休を取れる時などそうそうない。この機会を十分に活用し、存分に楽しむためにはどこに行けば良いのだろうと考えた結果の目的地であった。

 私のジクサーの排気量は150cc。これは高速道路に乗ることができるギリギリの排気量である。つまり高速に乗れなくもないのだが、はっきり言ってその性能は原付二種のそれと大差はない。料金もかかってしまうことから私は下道で行くことを選択した。

 現在時刻18時。

 長いドライブが始まった。



 夜の道を走っていて思うのは光の偉大さだ。

 人類の発明品の中では屈指のものだと言っていいだろう。

 太古の昔から人類は闇を克服するために光を使用してきた。

 それは炎の揺らぎから始まり、ついには指先一つで操作することができるようになった。闇を克服したことで人類の1日は劇的に変わった。朝起きて、日中は働いて、夜になったら眠る。このサイクルを破壊し、闇の中の活動が可能になったのだ。

 ……と、ここまでつらつら語ってきたけれど、言いたいことは夜道は怖いねってことである。

 店の並ぶ都市部であれば怖いことなど何もないが、夜の田舎道は怖い。

 以前もバイクによる長距離走行を完遂したことがあったが、その時は冬で寒さに凍えることしかできず、正直道中の記憶などほとんどなかった。

 気温が適度になり、バイクの操作にも余裕が出てくると周囲を見る余裕が出てきた。これはいいことのはずだが、同時に私の中で他の恐怖が生まれる。

 街灯の数が減っていくたびに闇の濃度は濃くなり、私を深淵へと誘っていく。

 走っても走っても周囲は暗く、便りは私の愛車が照らす光だけ。

 周囲に他に走る車も無ければ心細いことこの上なかった。



 恐怖は他にもある。それはトンネルだ。

 車で走っている時には思わなかったけれど、バイクでトンネルの中を走るのは怖い。

 車は私の肉体を周囲から隔絶し、いざというとき守ってくれる安心感がある。

 しかし、当たり前だがバイクはほぼ生身だ。

 身を包むのはヘルメットとプロテクター付きの手袋、ジャケット、膝当てだけ。

 そんな装備で大丈夫か?という言葉を今にも誰かが語りかけてきそうだ。

 正直大丈夫なことはないのだけれど、それでも私は走るしかなかった。

 トンネルの怖いところはいくつかある。

 単純に暗いのと、所々濡れている箇所があるところだ。

 濡れているところはまあ、怖い。

 私は以前、バイクで転倒したことがある。

 その瞬間は今でも忘れはしない。とある滝を見ようと田舎道を通っていたら、雪に足を取られてしまい、横滑りしたのだ。

 幸い速度が出ていなかったことと、周囲に誰もいなかったことから被害は軽度だった。私は特に怪我もしなかったし、バイクも廃車になることもなかった。しかし、タンクカバーには傷が入り、ウインカーは折れ、ミラーが割れ、細かな傷がいくつかついた。

 納車して3日目のことである。

 この経験から私は雪道は絶対に走らないことと、雨の日はなるべく走行を避ける誓いを立てた。あの時から転倒の恐怖は今でも脳裏に刻まれ、無事トラウマとなっている。



 怖いものといえばカーブもそうだ。

 走っているのは私だけなので、焦る必要もないのだがカーブは怖い。

 ちょっと湿ってそうな地面なら尚更だった。

 最近ようやくコツのようなものを覚えつつあったけれど、私は自身の運転技術が低いことを自覚しているので、どれだけ緩いカーブであろうとも細心の注意を払っていたと思う。



 ここまで恐怖について語ってきたが、じゃあバイクなんて乗らなければいいじゃないかという意見もある。それはごもっともな意見であり、私もそう思う。強いて反論を上げるなら大きく分けて2つ挙げられる。

 1つは維持費の安さだ。

 私の所持するバイクは排気量の関係から車検が必要ない。また隣人から駐車場の貸出許可をなぜか無料で得られたことから駐車場代もかからない。近年ガソリン代の高騰が問題視されているが、タンクの容量は精々10リットルくらいで満タンに入れても料金なんてたかが知れている。そしてジクサーは燃費が大変よろしい。私の乗り方でもリッター40キロは出してくれる。給油なんて長距離旅行をしなければ月に一回するかしないかといったところであった。

 2つ目は今しか乗れないということだ。

 前述の通り、バイクは危険な乗り物である。

 あえて言葉を選ばないとするならば、乗っている人間はもれなくイカれていると言ってもいいだろう。教習所でもその危うさは散々習ったはずだったが、愛車を購入し、公道に出た日、私は確信した。

 この乗り物は危険であると。

 乗ってみたことがない人は是非ともバイクに乗った状態で前後をトラックに挟まれてみてほしい。きっと私の言いたいことをわかってもらえると思う。

 つまり、バイクは危険が多いということ。危険が多ければ生活に支障が出るリスクが高い。今後、私がどのような人生を送るのかわからないけれど、年齢を経るほどに私の人生は私のものだけでは無くなっていくことは残念ながら避けられない。

 その際に周囲の人間に迷惑をかけることはなるべく避けたい。

 事故で即死できればまだマシかもしれないが、障害が残れば周囲への迷惑は計り知れないだろう。だから、人生においてこの乗り物に乗れるのは期間限定だと思っている。身軽である今のうちだけ乗ることが許された私の最後の青春がこの乗り物なんじゃないかと私は思う。

 バイクに乗り始めてから半年も経たない新参者の私だが、最近わかり始めたことがある。


 大事なのは恐怖を正しく認識することだ。


 まずは恐怖を受け入れなくてはならない。それは人間にとって苦痛ではあるけれど、それは短期的なものである。本当の恐怖とはよくわからないものに長期間苛まれることだと思う。だからまずは恐怖を受け入れ、正しく認識することから始めなければならない。過小に捉えてもならないし、過大に評価してもならない。等身大の恐怖を正しく認識し、それを分析し、恐怖の正体を見極め具体的な対策を練る。

 事故は怖いが対策はできる。だからまずはそこから始める必要があるのだと、私は思う。



 いくつものカーブを乗り越え、腰を痛め、尻を痛めつつ私たちはひたすら走る。

 休憩のために寄るコンビニはまるでオアシスだ。

 現代においてはインフラの一部と言っても過言じゃないだろう。

 身体を休め、カロリーを補給し、気力を蓄える。

 そして再び走り出す。

 繰り返すうちに正直なんで自分はこんなことをしているのだろうと思ったこともあったが、それでも身体は進むことを辞めない。

 たぶん、この機会を逃せばもう私が高山に行くことはないだろうと思った。

 ここで挫けてしまえば、私は今後も同様のことで挫けてしまうだろうと思った。

 だから私たちはひたすら走り続けた。



 そうこうしていると次第に闇の濃度が薄くなってきた。

 朝日が登り始めたのだ。

 光が私たちの身を包み、次第に気力も増していく。

 朝日に照らされた飛騨の山々が私たちを出迎えてくれた。

 私はその光景をしばらく忘れることはないだろう。

 ナビを見れば目的地まで残り50kmを切っている。


 あと少しだと己を奮い立たせ、私はアクセルを捻った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る