クリーム色の自転車

朝吹

クリーム色の自転車


 隣人が死んだ。ヤマムラ家の両親は顔を見合わせた。ようやく死んだ。死んでくれた。

 やがて母親は咽び泣きはじめた。その母親の肩を抱いて父親も泣いた。

 死ねばみな仏さまだというが、それは許容できる人間限定だ。肚の底で死んだ男を罵りながら、ヤマムラ家の両親は地域の葬儀場に足を運んで葬式にも顔を出し、出棺のお見送りまで付き合った。隣家を睨みつけてきた日々がこれで終わるのだ。

「苦しむこともなく往生とは。流石に天を呪いたくなる」

 ヤマムラ家の父親がそう云うと、玄関で清めの塩を撒いていた母親が首をふった。どのみち、あの男は地獄に落ちるでしょう。

 両親のそんな呟きを聴きながら、ヤマムラ家の長女は、ある物をあの男の棺に滑り込ませたこと想い返していた。遺体の首と白菊の隙間にこっそりと忍び込ませて入れてやったのだ。

 


 喪服を着替えることも忘れたように暗い家の中で両親は床に座り込んでいた。

 香典返しは安定のお茶だった。長女は両親に呼び掛けた。

「お父さんお母さん、学校もちょうどお休みだから。わたしが家にいるから」

 両親からの返事はない。

 長女が様子を見に行くと、父親と母親は仏間の仏前に並んで正座し、線香を立てて仏壇の中の写真に語り掛けていた。老いにはまだ遠いはずなのに、両親の背中はすでに老人のような影の薄さを宿している。

「あの男が、死んだよ」

 仏間の隅には未開封のままの贈り物が積み上げられていた。長女が数えてみると、十個あった。十年の間、毎年繰り返されてきた贈り物。

「あいつに違いないんだ」

「あの男です」

「どうか刑事さん、もう一度調べて」

 証拠不十分で釈放されてきた隣人は、それからも変わりなく、何食わぬ顔をしてヤマムラ家の隣りで暮らしていた。「無実なのに疑われて参りましたよ」と笑顔で語りながら。



 ほら面白いだろう、この古い玩具はぜんまい仕掛けで動いているんだよ。おじさんの別荘には他にもたくさんの珍しいものがあるんだ。見たいだろう? 

 

 見たい見たい。

 でもね、学校の先生やお母さんは、知らない男の人についていったら絶対に駄目だって。


 

 お父さーん。お母さーん。

 天国にいく者は虹の橋を渡るというが、子どもはまだ十年前の姿でヤマムラ家の庭にいる。

 お父さーん。お母さーん。

 学校のみんなはもう自分の自転車を持ってるの。わたしも欲しいな。ケーキみたいなクリーム色がいい。

「お父さん。……これ」

「ああ、うん」

 仏壇の引き出しから手紙を取り出すと、母親はその手紙を開いて、父親の膝の前においた。二人の肩越しに長女も一緒にのぞいた。便箋に蛍光ペンで書かれた手紙。

「あの子がいなくなった冬に、サンタクロースに頼んだ物のリスト」

「十個もあるんだからな」

「さすがに欲張りじゃない? とわたし云ったのよ。そうしたらあの子、『たくさん書いてあるほうがサンタさんもこの中のどれか一つを叶えたらいいんだから、その方が気楽でいいんだよ』そんなことを云って」

「面白い子だった」

「あの子はサンタの正体に気づいていたかしら」

 何度も繰り返されてきた同じやりとり。同じ想い出話。

 長女は頷く。うん、気づいてた。夜中に部屋に入ってくるお父さんとお母さんを布団の中で見てたもの。

 父親は眼鏡を外して、眼を拭った。

「毎年ひとつずつ叶えてやって今年で全部、済んでしまったな」

 ヤマムラ家のガレージには、新品のままのクリーム色の小さな自転車が停めてある。



 おじさんは知らない人ではなかった。隣りの家の人だった。 

 わたしがあの男の棺の中に何を入れたか知りたい?



 長女はクリーム色の自転車のサドルに手をおいた。乗ることの出来ないそのハンドルやブレーキレバーを撫ぜてみる。銀色のベルにも長女の影は映らない。これに乗って近所を走ってみたかった。あの頃のお友だちはみんなもう成人して、今では車に乗っている。


 これ返すね。おじさん。


 長女は男の棺の中に入れたのだ。

 山の中で首を絞められている時に男のシャツからもぎ取った、男の服の前ボタン。

 崖の下で見つかったわたしは、それを手に持っていなかったんだって。せっかくの証拠だったのに。後で探しに行ってみたら沢の下に落ちていた。小さなボタン。暗い山奥。

 でも寂しくなんかないよ。

 長女は家の中を歩き回る。

 成仏しないおかげで、わたしはまだお父さんとお母さんとこうして一緒にいられるんだから。そしてこれも永遠のことじゃない。お父さんとお母さんが死んだら、その時は、お父さんとお母さんのいる処にわたしも一緒に逝くね。

 

 娘の遺影を見つめていた母親は、ふと顔を傾けた。

「今、あの子の自転車のベルが鳴らなかった?」

 ガレージは静かだ。なにも聴こえない。

 ボーンボーンボーン……。突然の音に、ヤマムラ家の両親はうつろな顔を上げた。古風な柱時計の重たい響き。隣家の死んだ当主は柱時計を持っていた。故人の遺物を回収しに来た古物業者が柱時計を運び出す前に、渦巻きばねを回して動作確認をした、その音だった。



[了]

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クリーム色の自転車 朝吹 @asabuki

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