Ⅹ
背中の痛みで目が覚めた。知らない天井が目前にある。
煌々と照らす青いモニターの光で思い出した。あの後、近場のネットカフェに入って一夜を明かしたのだ。あまり清潔とは言えないフラットシートに、ペラペラの貸毛布を一枚かけて眠った。全身がバキバキだ。しかし悪い気はしない。自由ってかんじだ。
しかしいつまでもネットカフェに滞在していては財布が保たない。くるくるちゃんと義人さんくらいしか頼れる人は思い浮かばなかった。そして義人さんの方は望み薄だろう。あの人にも生活があり、普段は仕事をしているはずだ。経営者といえば立場のある人だし、女子大生が転がり込むのはちょっと無理がある。となると、少し気まずいがくるくるちゃんに連絡するしかない。
スマホを手に取って、電源を切っていたのを思い出した。おびただしい量の着信とメッセージ通知でとても眠れたものではなかったのだ。本当に捜索願を出されて大事になっていなければいいけど、と思いながら電源を入れる。意外なことに、日付が変わる頃を境に着信もメッセージもなかったようだった。たぶん峠を越したのだ、と私は思った。私がいなくても一人で暴れ回ったのだろうか。大切な物を壊されたりしていないだろうか。部屋の片付けは私が帰ってからやらなきゃいけないんだろうか。それとも流石に自分で片付けただろうか。ぐるぐるとそんなことを考えながら、大量の通知を左にスワイプしていく。
ふと、あれから義人さんに連絡していないのを思い出した。いつもなら「今日はありがとうございました」といった内容のメッセージをその日のうちに送っているのだが、いろいろありすぎてすっかり忘れていた。くるくるちゃんに連絡するより先に、義人さんへの連絡を済ませてしまおう。そう思って、メッセージアプリを開く。
『昨日はありがとうございました。連絡が遅くなってすみません。優しくしていただけて、またいろいろなことを教えていただけて、本当に嬉しかったです。』
優しくしていただけて、は少し露骨だろうか? 気恥ずかしくなって文章を消す。
不慣れですみません、というのも何か違うし、こういうとき何を言えばいいのだろう。まったく触れないのも素っ気ない気がするし。難しい。
散々悩んで、結局最初の文面を送ることにした。
送信ボタンを押す。
『お相手にブロックされています』
「………………、え?」
お相手にブロックされています。
たったそれだけの短い文章を理解するのに、何十秒もかかった。脳が理解を拒むかのように痺れていた。
思考回路に真綿を詰め込まれたみたいだった。真綿に水を染み込ませるように、じわじわとその事実が脳を蝕んだ。
どうして。どうして急に? 何がいけなかったのか。何のことわりも、別れの挨拶もなく。
こんなに簡単に、切れてしまうものなのか。
「……ははっ」
口から乾いた笑いが漏れた。
私が守ろうとしたものは、こんなに軽いものだったのか。吹けば飛ぶような、ワンタップで終わらせられるような関係だったのか。こんなにも脆いものを、私は必死に守ろうとしていたのか。私が失ったものの意味は何だったんだ。バカみたいじゃないか。
いや。意味なんて最初からなかったのだ。お金で繋がれた関係、世間様には見せられない関係。金の切れ目が縁の切れ目だし、金以外にも縁の切れ目は山ほどあった、それだけのことだった。真っ当な関係じゃないのだから、真っ当じゃない終わり方をさせられても、それを糾弾することすら叶わない。だいたい、こんな関係が永遠に続いたりなどするものか。最初から終わりの見えていた関係だっただろう。
パパ活を始めるとき、思ったじゃないか。
『変人同士仲良くやれれば僥倖だし、やれなければパパ活なんて知らない、普通の大学生に戻ればいいだけだ』
いつでも切れる関係だと思っていたのは私も同じだ。この関係はそういうものなのに、そんなことも忘れて入れ込んで、挙句、恋までしてしまった。私はあの人の本名すら知らないのに――名前なんて知らなくたって、私たちにはそんな些細なことは関係ないと思っていたのに。
馬鹿だ、私。
そういえばパパ活を始める前にくるくるちゃんから教えてもらった。贈与税の控除額は年間百十万円――私があの人から受け取った金額はだいたい四十万円。私とあの人はお金で繋がれた関係だった。だとしたら私とあの人は、課税対象にすらならない、それだけの関係だったのか。
これは非課税の恋だ。
酷く脆くて、何一つとして本当ではなかった、そんな恋だ。
お食事一回一万円、血ではなくお金で繋がったその人をパパと呼んだ。名前も住所も学校も、感情だって、本当のことを言ったらダメだ。お金だけを支柱にして成り立ってる恋愛ごっこ、好意もどき。
それでも全部が全部、嘘だったわけじゃないと思いたい。交わした会話、過ごした時間、あの中に本当のことが何一つなかったなんて、それこそ嘘だ。虚偽に満ちた関係の中だけど、一欠片の本当を、或いは本当っぽいものを、見つけ出して大切にすることくらいはできる関係だったと思いたい。
それに――私の方だって、全部が本当だったわけじゃない。もしもの話、もうお金を払えないと言われたら私はあの人に会うのをやめていただろう。この関係はお金が前提だったから。
消えたスマホの画面に、力ない笑みの私が映っていた。失恋と断ずることすら難しいけれど、何か一つの大きな終わりを迎えたことは確かだった。きちんと始まらなかったものがきちんと終わらないのは当然で、それに浸るのは馬鹿らしいことだと分かってはいた。
でも──今日くらいは、誰かにこのことを話してしまいたいと思うことを許してほしい。昨日と今日で失ったものがあまりにも多すぎる。人との間で起こったことは、人に話すことでしか解決できない気さえした。
人が人といる意味を、やっと知れた気がした。
ちょっと遅すぎたな、なんて思ったりする。これは果たして、こんなに失わないと気付けなかったようなことなのだろうか。
私はスマホの画面をつけると、くるくるちゃんとのトーク画面を開いた。あの日の通話履歴を最後に、会話は止まったままだ。しかしどんなに気まずくてもいつかは連絡しないと、この縁はここで終わってしまう。彼女との縁もまた、たくさんの嘘があって本当のことはよく知らないようなもので、いつかは終わるものだけど──少なくともそれは、今ではない。
『今から会えない?』
メッセージを飛ばすと、すぐに既読がついた。
『何事もなかったかのように誘ってくれるのウケるんだけど!』
『ウケないでよ。あんなことがあった後で悪いんだけど、どうしても聞いてほしいことがあって』
『仕方ないなぁ』
困ったように、しかし尊大に笑うくるくるちゃんの笑顔が、はっきりと目に見えるようだった。
『一時間後に、いつもの喫茶店でいい?』
「まぁ、よくあることだね」
一通り、事の顛末を話し終わり。
まずくるくるちゃんが発した感想は、そんな無情なものだった。興味があるんだかないんだか、髪の毛の先を手で弄びながら、しかしこちらをじっと見て話を聞いてくれた。
この間の電話でのことが嘘みたいだ。お互い、何事もなかったみたいな態度をあくまで崩さなかった。本当は聞きたいことが山ほどあったけれど──くるくるちゃんが普段通りでいる以上、私も追求することはできなかった。
「嘘でしょ。もうちょっとなんか、こう……同情とかしてくれてもいいんじゃない」
「あたしがそんな優しい人間に見える?」
「全然」
……まぁ、確かにくるくるちゃんに同情なんかされても居心地悪いか。
「どんなに『気に入ってもらえた!』って手応えがあっても、何年も会い続けてたような相手でも、急に音信不通になるなんてよくあることだよ。パパ活なんてそんなもん」
「そんなもん、かぁ」
私はあの人とだけ会っていたから存在が大きくなってしまっただけで、あの人にとっては何人も会ってきたパパ活相手の一人に過ぎなかった。そういうことなのだろう。
あの人と繋がっていた証拠らしい証拠なんて、コース料理の写真と、いま着ているワンピース一枚くらいしかない。
「……ま、今のイオちゃんには『そんなもん』で割り切るのは難しいかもだけどね」
「あれ、同情してくれるの?」
「やっぱり可哀想かな〜と思って。……だって、好きだったんでしょ」
この間の通話の内容に触れるようなことを言われ、ドキッとする。
「そう、かもしれないけど。パパ活相手に恋なんて意味分かんないし、早めに終わらせられて正解──」
「イオちゃんがやってたことは、パパ活なんかじゃないよ」
遮るように、くるくるちゃんが言った。
どういうこと、と尋ねようとして顔を上げる。くるくるちゃんは、すっかり汗をかいた紅茶のグラスをじっと見つめて、頑なに目を合わせようとしなかった。くるくるちゃんの紅茶が一口分も減っていないことに、ふと気がついた。
くるくるちゃんはこちらを見ないまま、淡々と続けた。
「生活するためでも贅沢するためでも、普通はもっと切実にお金が欲しいんだよ。そのために好きでもない相手のために化粧してオシャレして、何万円もらう代わりに、必死になって楽しい時間や夢を売るのがパパ活なんだよ。心をすり減らしてでも、時には身体をすり減らしてでも、お金と引き換えなら正当な取引だって納得してやつていくのがパパ活なんだよ。良心も倫理も捨てきれなかった、生ぬるいイオちゃんがやってたこととは全然違う」
くるくるちゃんは顔を上げて、少しだけ微笑む。不意打ちのように目が合った。
「イオちゃんがやってたのは、一体なに?」
私はその問いに答えられなかった。
あの人と会うのに、心をすり減らしたことなんて一度もなかった。楽しい時間を過ごしていたのは私だけだったのかもしれない──今となってはそれを確かめる術もないけれど。
答えの代わりに、私は問いを投げ返した。
「本当に私をくるくるちゃんだけにしたかったなら、あんないい人を紹介するんじゃなくて、もっと酷い……せめて普通くらいの人を、紹介すれば良かったでしょ」
「…………、それは」
ふい、とくるくるちゃんが目を逸らす。
「今だって、パパ活じゃなかったなんて急に手を離すようなこと言って。今更そんなこと言われたって遅いよ。そんな言葉で私を解放したつもり? 私にはもうくるくるちゃんしかいないのに。──良心も倫理も捨てきれてないのはくるくるちゃんの方でしょ」
くるくるちゃんは紅茶をチュウと吸って、ため息をついた。
「あーあ。全部お見通しってわけね」
「タチ悪いよ。良心があるのは分かったけど、結局は全部くるくるちゃんの思い通りになってるんだもの」
そう。
くるくるちゃんは、『周りには言えないことをすると、その秘密を共有できる相手とばかり交流するようになる』と言った。その相手がくるくるちゃんで、くるくるちゃんは私を彼女に依存させようとしていたのだと。カルト教団でも使われる手口なのだと。そして、その『秘密』に当たるもの──つまりパパ活を、私はやっていなかったのだと言った。かなり強引だけど、私を『秘密』から解放したつもりだったのだ。
でも、そんなものはもう手遅れだ。大学の知り合いとはとっくに気まずいし、母親との関係もあんなことになってしまった。挙句、義人さんまでいなくなってしまった。私にはもう、くるくるちゃんしかいない。
「そっかぁ。そうだよねぇ、もう遅いよね」
「そうだよ。反省して」
「お母様と険悪なのは嫌?」
「うーん。一生このままなのかな、と思うと……やっぱり、嫌だな。思うところはたくさんあるけど、怒ってないときは普通に優しい母親だったから」
「そっか」
この期に及んで「ごめん」とは言わないあたりが実にくるくるちゃんらしいな、と思った。腹が立ったりはしない。寧ろいろいろなものを失ったはずなのに、彼女と話すうちにいつしか清々しい気持ちになっていた。身軽になった、とすら言えそうだ。……それでも、腹の底にある喪失感みたいなものは消えなかったけれど。
「ま、あたしがいるから。それでいいでしょ?」
仕切り直すように、つとめて明い口調でくるくるちゃんが言った。いいでしょ? と首を傾げる仕草すら様になっていて、実に腹立たしい。これだから可愛い女は。腹が立ったので、私は仕返しとばかりにむくれてみせた。
「でもくるくるちゃん、そのうちいなくなるでしょ」
「まぁ」
考えるような仕草をしながら、しかし大して考える様子もなく彼女は答える。
「そうだろうね」
そこは嘘でも否定してほしかった。
こんなにも私にとって──恐らくは彼女にとっても──大きな存在との関係が、永遠ではないこと。これもまた終わりの見えている関係だなんて嘘みたいだ。どういうきっかけでどういう終わり方をするかはまだ分からないけれど、くるくるちゃんは飽き性だし、私には逃げ癖がある。きっとロクな終わり方にはならない。
「だってあたし、たぶんイオちゃんより先に死んじゃうしなぁ。いろんな人から恨み買ってる自覚あるし、いつ刺されるか分かんないよ。寿命で死ぬにしても、食生活もそんなに健康的じゃないし」
「えっ」
「なぁに、鳩が豆鉄砲食らったみたいな顔して」
「パパ活女が友情攻撃食らった時の顔だよ」
「何だそりゃ」
くるくるちゃんは笑った。仕方がないので、私も笑い返した。
なんだ、これじゃあまるで友達みたいじゃないか。
それもそのはずだった。私が自分で義人さんに言ったんじゃないか──SNSの友達とリアルの友達、違うのは過程だけだ、と。私とくるくるちゃんはもう過程の段階なんかとっくに過ぎている。くるくるちゃんより疎遠なリアルの友達なんて山ほどいる。
本名を知っていたから何だ、本名を知らないから何だ。そこにその相手との関係があるだけだ。それが崩れたのなら、あくまで相手との──義人さんとの関係の中に、何か理由があったってだけであって。
関係の名前は、名前を知る関係かどうかには関わりないのだ。
「くるくるちゃん」
「なに?」
「この間のこと、聞いてもいい?」
これからもこの関係を続けられるなら、そのほつれは直しておかなきゃいけない。くるくるちゃんは意に介した様子もなく「いいよぉ」と答えた。
「私たち、友達でいいの? くるくるちゃんは何も我慢してない?」
「してないよ。告白じゃないって言ったじゃん」
「そうだけど、独占欲みたいなことは言ってたから」
「言ったっけ? まぁ、独占欲なら叶っちゃったけどね。結果的に」
「──それって、征服欲と同じもの?」
するとくるくるちゃんは、心底不思議そうに首を傾げた。
「征服欲? そんなわけないじゃん。征服欲なら征服が終わった途端に興味なくすはずでしょ。でもあたしはまだイオちゃんのこと大好きだし」
そうか、そうだよな。くるくるちゃんのその回答は、私と義人さんの間にあったものと、私とくるくるちゃんの間にあるものが違うものだとはっきり示していた。上手く言えないけれど、それは良いことのような気がする。
征服欲、か。
あの人が私にどういう感情を向けていたのか考えようとして、やめた。全部が今更だし、気付かない方がいいこともきっとあるだろう。そんなことより、いま目の前にある問題の方がよっぽど大切だった。
「ね、イオちゃん。イオちゃんはこの先どうするの」
くるくるちゃんが尋ねた。
「そうだなぁ……あんなことになって、もう実家にはいられないしなぁ。一旦帰りはするけど、もう一刻も早く家を出なきゃいけない」
「そうだよねぇ。しばらくはうちに置いたげてもいいけど、家賃とか光熱費とかは割り勘だし食費とかは自分で出してね」
「それはありがたいね。……まぁ、何にせよお金が要るかな。切実に」
私の答えに、くるくるちゃんは満足そうだった。前より幾分か身軽にさせられて、その原因であるこの子の隣で新しい人生が始まる──客観的に見れば最悪かもしれないけど、私はどうしようもないくらいワクワクしていた。
くるくるちゃんは、悪い笑みを浮かべて私に耳打ちした。
「ところでイオちゃん、割のいい副業の話があるんだけど、どう?」
〈了〉
非課税の恋 木染維月 @tomoneko
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