あの後、結局くるくるちゃんが何を思っていたのかよく理解できないまま電話を切った。

 告白ではない、とあの子は言った。

 告白だったらまだ理解ができた。くるくるちゃんが私を好きで、だから私にはくるくるちゃんしかいないというふうにしたかった。パパ活を勧めた割には散々危なくないように注意をしてくれたのも、ずっと「大人」に反対していたのも、全部「好きだから」で説明がつく。

 それなのに、告白じゃない?

 それなら私を孤立させてどうする気だったんだ。単なる嫌がらせとしてやったわけじゃないことは、あのくるくるちゃんの悲痛な叫び声を聞けば嫌でも分かった。そう、あのとき、くるくるちゃんは「もうあたししかいないはずでしょ」と、そう言った。独占欲みたいなものなんだろうか? それは恋愛とは違うんだろうか。

 独占欲。

 これも最近聞いた単語だ。義人さんとディナーを食べた日、最後の方にチラッとそんな話題をしたのだ。あのとき既に何か様子がおかしかったが、今思えばあれは既に「大人」を持ちかけると決めていたからなのだろう。そして義人さんは、独占欲ではないと言った。もっと身勝手なものだと――征服欲なのだと言った。独占欲と征服欲は近いものなんだろうか。それならくるくるちゃんは、私を手下にでもするつもりだったんだろうか? 手下という言葉はくるくるちゃんに似合っている気がするし、何なら手下の五人や六人くらい持っていそうだし、色恋沙汰なんかよりもその方がよほどしっくり来る。

 というか、そうだ、義人さん。

 いろいろありすぎて忘れかけていたが、そもそも義人さんからの「大人」のお誘いの話だった。答えを決めあぐねて保留にしていたが、いい加減返事をしなくてはならない。

 義人さんは断ってもいいと言った。断れば、きっと今まで通りの関係を続けられるのだろう。ただ、その「今まで通り」には「義人さんはそういう欲求があるけど、それを我慢してくれている上で」という引け目がつく。かといって「大人」すれば当然今まで通りではいられなくなるだろう。

 少し考えて、私はメッセージアプリを開いた。

『実は私、経験がないのですが、もしそれでも良ければ『大人』のお話、お受けします』

 義人さんに初めてをあげてもいい、という気持ちがあるのも本当だったが、それ以上にくるくるちゃんとの一件で疲れていた。

 何だかもう、どうでも良かったのだ。




「伊予さん。しばらくぶりだね」

 待ち合わせ当日、明らかにソワソワした様子の義人さんが柱の陰から顔を出した。

 あれだけくるくるちゃんとのことで悶々としていたのに、義人さんの顔を見た途端元気が出てしまうのだから現金なものだった。くるくるちゃんの言っていたことは当たりだ。あくまでお金の関係だから考えないようにしていただけで、本当はとっくに気づいていたことだった。

「お久しぶりですね! とは言ってもせいぜい二週間やそこらですけど……って、なんで隠れてるんです?」

「だ、だって緊張するじゃないか!」

「それ私が言うセリフ!」

 いつもと変わらない義人さんとのやり取りをして、私は少しだけ安心する。半ば投げやりに決めたこととはいえ、緊張しないわけがない。とはいえ「はじめて」なんて後生大事に取っておいても仕方ないしなぁ、なんて思ってしまうあたり、だいぶくるくるちゃんに毒されている。

 あの日、くるくるちゃんは「あたしがイオちゃんより狂ってるからイオちゃんも安心して狂えたでしょ」と言った。正直、図星だった。くるくるちゃんに影響されてる、くるくるちゃんが狂っているから、なんて言い訳しながら、くるくるちゃんの下で徐々に倫理が狂っていっていたのは紛れもない事実だ。

「どうしようか。先に軽くお茶でもするかい? それとももう行く?」

 どこに、とは言わず、繁華街の方をそれとなく指す義人さん。

「もう行きましょう。私、あまり遅くなると叱られてしまいますし。……それに、時間が経ったら怖気づいてしまいそうです」

「じゃあ、もう行こうか」

 私たちは繁華街に向かって歩き始めた。

「僕から誘っておいて何だが、本当に良かったのかい? 僕はてっきり、今までに彼氏の一人や二人いたものだと思っていたんだ。まさか、はじめてだなんて思わなくて」

「彼氏はいましたよ。ただ何というか、長続きしなくて。そういうことをする前に別れてしまったんです」

「なるほど、そういうパターンもあるのか。いやね、なにぶん僕は学生時代に彼女なんていたことがなかったものだから」

 根暗な学生時代を送ったというのは多少の謙遜が含まれていると思っていたが、この様子だとどうやら本当に根暗な学生時代を送ったらしい。

「はじめてだと、男の人側は何かと面倒だって聞きます。嫌だったらすみません」

「嫌なものかい! 露骨に喜んでみせるのも気持ち悪いかと思って言わないでいたがね、僕だって男だから嬉しくないわけがない」

「そういうものですか」

「そういうものだ」

 そしてそのあとは、私も義人さんも一言も発さずに繁華街を歩いた。繁華街は賑わっていてたくさんの人がいたが、私たちがどう見られているかなど気にもならなかった。目的地のホテルがどこにあるのかを知っているのは義人さんなので、必然的に私が半歩後ろを歩く形になる。相変わらずくたびれたサラリーマンのようなヨレヨレのスーツを着て、猫背気味に歩くその後ろ姿が、不意に全然知らない人のように思えた。




「ここだ」

 義人さんがそう言って立ち止まる。義人さんの背中に鼻っ柱をぶつけそうになりながら私も立ち止まると、そこにはいかにもなご休憩所が建っていた。

「すごいですね。はじめて実物を見ました」

「実物以外は見たことがあるような言い方だね。深く聞かないでおくが。……さて、僕は部屋を取ったり何だりしてくるから伊予さんはそこで待っているといい」

 そう言い残すと、義人さんはタッチパネルを手際よく操作し始めた。

 な、慣れている……。

 ジトっとした気持ちになりつつも、入口付近に置かれたアメニティの類を眺める。無香料のシャンプー、カミソリ、髪ゴム、入浴剤……箱根、草津、有馬、別府、登別と無駄に種類が豊富だ。泡風呂ができる入浴剤なんてのもある。これを見て「箱根かぁ、今度の休みに旅行とかどう?」「いいわね! 私、ロープウェイに乗りたいわ!」みたいなやり取りが行われていたりするんだろうか。

 そんな不毛な想像をしていると、

「伊予さん」

 と呼ぶ声がした。見ると義人さんがエレベーターの前で手招きしている。

「部屋取りありがとうございます」

「いえいえ。五〇五号室を取ったから行こうか」

 やたらと狭いエレベーターに乗り込む。

 ああ、ここで「ちょっとどこ触ってんのよ!」「いいだろ、誰も見てないんだから」みたいなスケベなやつをやるんだ……! などとまた考えていると、それを見透かしたように義人さんが

「ラブホの利用者の約四割は不倫カップルらしいよ」

 などと言ってくる。

「そうなんですか?」

「いや、嘘」

 なんて無意味な嘘をつくんだ。

「でも五人に一人が不倫をしているらしいし、彼らは行為の場としてホテルを選ぶだろうね。どちらかの家ってわけにもいかないし。他にも僕らみたいなカップルでも不倫カップルでもないお客だったり、ホテヘルの利用者だったり……」

「いろんな方がいるってわけですね」

「そう。伊予さんが想像したような純粋なカップルは果たして何割いるんだろうねぇ」

 ニヤニヤとこちらを見てくるのが腹立たしくて、思い切り足を踏んづける。「ちょっと! 年寄りはいたわってくれないと!」と抗議する義人さんを無視して、ちょうど到着したエレベーターから降りるとさっさと五〇五号室へと向かった。


 部屋は広く、綺麗だった。統一感のあるシックな内装。謎の造花が埋められたテーブル。柔らかそうなソファーにオシャレな間接照明。おまけに巨大なテレビまである。これ知ってる! えっちなビデオが流れるテレビだ! などと一人ではしゃいでいると、「伊予さん」と後ろから声をかけられる。

「最初に渡しておこうと思う。確認してほしい」

 そう言って、分厚い茶封筒を手渡された。

「これは……」

「お手当だ。三十、入っている」

 三十。

 当たり前だがそれは、今までいただいた中で一番――どころか、人生で手にした中で一番大きな額だった。

「いただけません、こんな――」

「誤解のないように言っておくけど」

 私の言葉を義人さんが遮る。

「処女売りの相場は十五から三十くらいだ。この額はべらぼうに高いお金ではなく、正当な取引として渡すものだ。受け取れません、なんて言うのは大人同士の取引じゃないな」

 返そうとした封筒を押し戻されて、私は諦めてそれを受け取った。手元の封筒を見つめる。パリッとした封筒にずっしりとした重みがあって、浮足立った気持ちから急に地に足を着けられる。

 これは現実の重みだ。真っ当な恋愛ではなく、金で処女を売ったという現実の重み。

「間違いのないように入れたけど、念のため伊予さんも数えておくれ」

 そう促されて、私は封筒の中身を取り出した。

 三十万円は思ったよりも薄い。そりゃ、本にしたら三十ページ分なのだから、夢のような札束を想像していたら現実と差異があるのは当然だった。それでも十分札束と呼べるだけの厚さがある。

 そう、これは「札束」だ。「札束」という物体だ。私が知っている大金の一万円が寄り集まっているなんて信じないし、信じられない。慣れ親しんだ一万円札とは何の関係もない、「札束」という名前の物体なのだ。きっとそうに違いない。

 三十万円の重みなどピンと来ないまま、私はその紙切れを一枚ずつ数えた。ちょうど三十枚ある。ジンバブエドルを積み上げて遊ぶ子供の気持ちになりながら、私は札束を封筒に戻した。

「確認しました。ちゃんと三十あります。……ありがとうございます」

「伊予さんは一貫してお金で笑顔にならないね。そういうところ、僕は本当に好ましいと思っているよ」

 義人さんは微笑んだ。実感が湧かないだけですとは言えず、私も曖昧に微笑み返した。

「さて、伊予さん、シャワーをお先にどうぞ。髪の毛を濡らしたらダメだからね」

「知ってます。……じゃあ、お先に」

 誘導されるがまま、私はお風呂場へと向かう。独立した脱衣所はないが、一応の目隠しとして壁が立っていた。一枚ずつ、服を――義人さんに買ってもらった服を、脱いでいく。誰にも許したことのない箇所が露わになって、鏡に映る。白い肉体。そういえば、「男が服を買い与えるのは着せるためだけじゃなく、脱がせるためでもある」みたいな台詞を誰かが言っていたような気がする。どこで聞いた言葉だっただろうか。生まれたままの姿での営みの、何がそんなに良いのか私には分からない。

 一人になってシャワーを浴びているときが一番冷静になると、SNSの友達が言っていたことがある。娯楽として性行為をする子。全然知らない男とするとき、シャワーを浴びてるときが一番死にたくなるの。死にたくなるくらいならしなきゃいい、と言ったら、それでしか埋まらないものがあるんだと怒られた。たぶん私は、行為の意味も、それをお金で売る意味も、何も分かっていないままここにいるのだ。だからあの子が怒った理由も、くるくるちゃんが怒った理由も、分からないのだ。

 その意味が分かったとき、今日のことを後悔するだろうか。私は義人さんが好きだ。好きな人にあげるという点では、健全なはじめてと何も変わらないような気もする。むしろ大学の新歓コンパで変な先輩に奪われるよりよほど健全なのでは? ちょっとお金が介入しているってだけで。……お金が介入しているからダメなのか。

 軽くシャワーを浴び、体を拭いてバスローブを着る。入れ替わりで義人さんがシャワーを浴びに行き、また一人になる。

 何が健全で何が不健全なのか。出会いがリアルなら健全なのか? ネットなら不健全なのか? お金が介入するとどうだ? そもそも健全である価値は何だ。

 別に健全じゃなくたっていいな、と思った。好きな人にはじめてをあげられて、その上お金まで受け取っていいなんてラッキーじゃん。そうでしょ?

 倫理を捨ててみなよ! と、くるくるちゃんの声がする。

「伊予さん、お待たせ」

 義人さんの声でハッと我に返る。顔を上げると、バスローブ姿の義人さんがそこに立っていた。いつもと違う無防備な姿に、ごくり、と思わず生唾を飲み込む。

 義人さんといえば意に介していないのか、ベッドまで歩いてくると私の横に腰かけた。

「緊張してる?」

「当たり前です」

 答えると、義人さんの手がさらり、と私の髪を撫でた。ささくれ立った手に髪の毛が引っかかって、ぎこちない仕草だった。

「最初が僕みたいなおじさんで申し訳ない。いいのかな、こんなに若くて綺麗な子のはじめてをもらってしまって」

「構いません」

 口の中がカラカラに乾いていた。心臓が早鐘を打って、口から飛び出しそうだ。

 そんな鼓動の中に隠すように、小さな声で言う。

「義人さんがいいんです」

 今になってやっと実感が湧いていた。髪から肩、二の腕、腰と、義人さんのゴツゴツした手が降りてくるにつれて、行為の意味を知っていく気がした。

 人肌の温度と吐息を直に感じている。

「伊予さん」

 名前を呼ばれる。

 本名を呼ばれるのが嫌いだ。恥ずかしい過去も、隠したい人間性も、全部が名前について回るから。そのうち全部を見透かされてしまうような気がして怖いから。

 でも、今夜のことも名前について回るのなら――私の本名はもう「伊予」でいい。

「義人、さん」

 私が名前を呼ぶのと、どちらからともなく腕を回して抱き合うのと、ほとんど同時だった。そのままベッドに倒れこんで、ただ体温を確かめ合うようにしばらくそのままでいた。

 この音が私と義人さん、どちらの心臓の音なのかすら分からない。

 体温も、肌触りも、心拍までも溶け合うような時間だ。

 そうして、義人さんの手が、私のバスローブを優しくはだけさせて――。





 義人さんと別れる頃にはすっかり遅くなっていた。帰れば母に小言を言われる時間だ。いつだって小言なんて言われたくはないが、今日は特に聞きたくなかった。この感情のまま眠りたい。高揚とも冷静ともつかないような、浮足立った気持ちと三十万円を抱えて、このままどこか遠くへ行ってしまいたい。

 とはいえそんなわけにもいかないので、大人しく帰路につく。いつものように頭の中で言い訳を作る。今日もミカちゃんと遊んでて、なんかもうすっごく楽しくて、夢中で遊んでたらこんな時間になっちゃった。ごめんなさい。心なしか言い訳も雑になっている気がする。

 玄関のドアを開ける。

「ただいま」

 まず視界に入ったのは、仁王立ちの母の姿だった。ヤバ、ちょっと遅くなりすぎたかも。もうちょっと気の利いた言い訳を考えておくべきだったな、と思いながらも靴を脱ごうとして――凍り付いた。

 母が手にしていたのは、封筒だった。

 私はその封筒をよく知っていた。中身はお金だ。私が義人さんから受け取ったお金をまとめて保管している、茶封筒だ。中身はざっと十万円――目玉が飛び出るような大金ではないが、ろくにアルバイトもしていない大学生がポンと持てる額では決してない。

 つまり、私がこんな大金を持っているわけはなく。

 それが母に見つかったということは、全ての終わりを意味していた。

「説明してくれるかな」

 母は、凪のように静かな口調でそれだけ言った。

 高揚した気持ちに冷や水を浴びせられ、一気に現実に引き戻されたからだろうか――私は驚くほど冷静だった。大丈夫、落ち着いて考えよう。まず嘘を吐く意味はほぼないに等しい。これを見つけてしまった以上、尻尾を掴むまで母はこの件の追求をやめないだろう。興信所を使うかもしれないし、また私の携帯にGPSアプリでも入れるかもしれない。外出禁止令なんて口実のもとに軟禁されるかもしれない。となれば、もう大した選択肢は残っていなかった。母に何を掴ませるか――何を切って、何を守るか。

 ――義人さんとの関係を切るのは、嫌だな。

「説明って何? バイトしてた時に貯めたお金だよ」

 嘘を吐く意味はほぼないが、時間を稼ぐことくらいはできる。とにかく今この場で全部バレるわけにはいかない。この場さえ何とかなれば、事情をメッセージで説明して、一旦連絡手段を断って――ほとぼりが冷めたらまたくるくるちゃん経由で繋いでもらおう。そうしたらこの関係は守れるはずだ。

「そんなわけないでしょう。こんなに大きな額が貯まるほど、熱心に働いていなかったじゃない、あんた」

 相も変わらず母の口調は静かだ。

 この嘘を吐き通す必要なんてない。今だけ――義人さんに連絡してスマホの中の証拠を連絡する隙だけ、生まれればいいのだ。母に嘘を吐くのは初めてじゃない。そのたびバレて、酷い目に遭ってきたものだけど――どうか、今だけは。

 この関係を守らせてほしい。

「節約してたから。コツコツ貯めればそんなもんだよ。それより夕飯、済ませちゃってもいいかな」

「なに逃げようとしてるの⁉」

 豹変。

 母は怒鳴った。数年ぶりに怒鳴った。私の薄壁のような冷静はいとも簡単に崩れて、今や吐きそうなほど全身に血が巡った。視界がチカチカする。

 この人は昔からこうだった。最初は凪のように、静かな尋問から始まる。でも、嘘を吐こうが吐くまいが結果は同じだ――どこかのタイミングでスイッチでも切り替わったように感情的になって、怒声と罵声を浴びせられる。部屋には物が散乱するし、その片付けをするのは私だ。

「どうして怒鳴るの? 私、怒られるようなことしたかな」

 私はつとめて冷静に、心拍を抑えつけるように言った。しかしこうなっては対話の努力なんて無駄だ。

「あんたは昔からそう! いっつも嘘ばっかり吐いて、人を騙すことしか考えてない! 最近コソコソやってるのも何もかも全部知ってるんだからね。人に隠し事をするっていうのは穢い人間のやること。あんたみたいな、嘘吐きで可愛げも根性も学歴もない人間のクズはお先真っ暗だよ!」

 言い返せ。もう子供じゃないんだから。

 そう思ったが、喉が張り付いたように声が出ない。息が詰まる。苦しい。

「ほんと、あんたみたいな嘘吐きに育つなら産むんじゃなかったね。誰に似るとそうなるの? いつからそんなふうになったのかしら――あぁ、生まれた時からか。何やらせてもダメだし。塾代がいくらしたと思ってるの? で、その上、嘘吐きなんでしょ? 救いようがないわ!」

 母が一歩踏み出して、私の隣までやってくる。

 そして、私の耳元に口を寄せた。

 来る、と思った。目をぎゅっと瞑った。

「――おまえは最後には必ず独りになるよ」

 次の瞬間。

 私の脳裏に、過去の記憶が映像となって滝のように流れ込んだ。

 フラッシュバックとでも言うのだろうか? 暴力的でもないし法にも触れないが、明らかに度を越した叱責の記憶――荒れ果てた部屋、壊れた時計や割れたグラス。人格を否定するような言葉、家を閉め出されて耐え忍んだ寒さ。そういったものが一挙に甦って、私の脳を、身体を、支配して縛り付けた。ここから一歩も動けない。一生このままなのだ。この家の、この価値観で。でも衣食住も保証されて一人部屋もあって、機嫌のいい母はすこぶる家庭的で優しい。何も不幸なことなんてないはずだ。私が悪ささえしなければ――

 ――本当にそうだろうか?

 確かにここにあるのは、声を上げるほどの不幸じゃない。不幸と呼ぶことすらおこがましい何かだ。でも、だったら何だっていうんだ?

 悲劇のヒロインじゃなければ不幸を振りほどいてはいけないのか。こうしている間にも若い時間は流れているのに。私の生きてきた常識では、大学を出るまで扶養の中で大人しくしていなければいけなかったけれど――倫理なんて、とっくに壊れている。自由になるの、あと何年も待ってられない。

 何を浮足立っていたんだろう。恋なんてしている場合じゃない。

『いつでも自分の足で歩いていける、そんな力が欲しくない?』

 くるくるちゃんの言った、その誘い文句が決め手だったじゃないか。

「うるさいよ。ご近所迷惑」

 それだけ言って、私は家を飛び出した。鞄に三十万ある。ちょっと心もとないけれど、たぶん、どうにかやっていけそうな金額。

 もうここには帰りたくない。

 夜の住宅街を駆け抜けて、街に出た。シフォンのワンピースが風に靡いた。夏も終わりかけだ。夏の夜の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。

 ふと、携帯が震えた。

『帰ってきなさい。捜索願を出すよ』

 ふふ、と笑みが零れた。母ならやりかねないと思った。やりかねないけど、やらないだろうとも思った。あの人はご近所の噂になるようなことはしたがらないのだ。昔、閉め出されたときも、大きな声で泣き喚けば慌てて家に入れられたものだ。もっとも家に入れられたあとで、もっと酷い叱責が待っているんだけど。

 捜索願ね。捜せるもんなら捜してみろ。

 ――とりあえず今晩の宿を確保しなくては。

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