第3話

水底に沈んだわたしの、記憶や想いは揺れる。ゆらゆらと...過去をみつめたり、現在(いま)に沈んだり、遠く未来を眺める。揺れる水面にうつるわたしの想いや記憶は、小さな波紋やさざ波で、ほんの少しぼやけてみえる。それは、自然がつくりだしたモザイクのようで、いくらみつめても、水面にうつるそれらは、鮮明さを欠いていた。水は、少しづつ、わたしの体温を奪っていく。体温を奪われたわたしは、思考もとまり、身体を動かす力もなくなり、いつかこの腕をのばすことも、出来なくなってしまうのだろうか。水面にうつる月明かりは、いつだって静かで優しい。このお月様には、水の底にたゆたうわたしがみえているのだろうか。ああ、でも。あのお月様も、物語のなかの...水面を隔てた、水中にいるわたしの世界の、向こう側だから。ぼんやりとした頭と心で納得する。






玄関のまえで立ち止まる。顔をしっかりとあげ、心のなかで(よしっ!)と呟き、わたしに魔法をかける。そしてまるで仏閣に参拝するかのようなあのリズムで、パンッパンッ、と自分の両頬を叩く。この、1分あるかないかの、このなんでもないような時間と行為はランドセルを背負って帰ってくる幼きわたしには必要不可欠だった。顔をきちんとあげること、パンパンッと両頬を叩くあいだに覚悟を決めること、これがポイントのような気がする。これをしていなかったら、どうだったのだろうか。なくても何も、誰も、変わらなかったのか、これに救われていたのか。救われていたならば、それは、誰だったのか。玄関を開けると、うるさ過ぎず、暗すぎない、ちょうどいいトーンで「ただいまー」と一応家の中に声を掛ける。来客はピンポンと鳴らしてその存在を知らせるが、私にとってのチャイムのようなものかもしれない。そのチャイムに応対するかしないかは、母が選んで決めることだ。私が帰ったからといって、べつに嫌な顔をするわけでもなかったと思うし、そもそも玄関前でかけた魔法のせいなのか「ただいまー」に対する母の映像も音声も、私の中にはない。嫌悪するような思い出も、心あたたまるエピソードも、世間一般で言われているような《ありふれた日常》とする記憶も、わたしの手元にはない。だから、現在(いま)のわたしがいくら目を凝らし、心を澄ませて水面をみつめても、ぼやけてよくみえない、のではなく、映像そのものがない。ただ、昔の夜中の砂嵐がながれるテレビに、一瞬映像がうつるかのように、なんとなくじめっとした薄暗い雰囲気の和室に横になる母がうつる。じめっとした薄暗い雰囲気は、和室だったのか、それとも母だったのか、はっきりとしたことはわからない。そしてそれは、その頃の毎日ではないだろうと思うし、母の全てではないと思う。記憶のないわたしが勝手に創り上げた、物語のひとこまなのかもしれない。だって母は毎日ご飯をつくってだしてくれていた気がするから。わたしは過去を知りたくて水面をみつめるが、あとは静かに揺れているだけだった。(お母さん、わたしはここにいるよ)、うるさ過ぎず、暗すぎないように調整した、チャイムがわりの「ただいまー」は、母にはきこえていたのだろうか。お母さん。お母さん。お母さん。手元にない過去をみてみたくて、記憶を手繰り寄せようとすると、視界が滲み、なぜだか涙がこぼれた。こぼれた涙は水面に波紋をつくる。水面をみつめようとすればするほど、その映像は滲み、波紋で揺らめき、わたしはなにもみえなくなってしまうのだった。

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水底から月をみあげて 孟多部 蓮 @blue-sky-moon

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