最後の呪文
解呪はそれから半時間ほどで終わった。結局、財産が出てくる気配は無かった。つまり、俺が最初に望んだ通りになったわけだ。一番平和な形で済みそうなのは助かったが、なんとも徒労感がひどい。結局こうなるとわかっていたら、俺ひとりで昨日一日で終わらせられたのではないか。時間線を渡ってシュウノを困らせ、ニセノにも割り込まれ、報酬は株式会社プラにピンハネされて、散々だ。
そろそろ昼時も近いので、あとは依頼主の厚彦に報告して、妻のフミカには今朝受け取った金を返して、帰るだけだ。そう思っていたのだが、建物の中に戻ると大騒ぎになっていた。
靴脱ぎ場とその前の廊下がびしょ濡れで、泥混じりの足跡が食堂の中まで続いている。食堂へのドアは開け放されていて、中から少年の嗚咽混じりの泣き声と、厚彦の何か叫んでいる声が響き渡っていた。
何事かと思いながら靴を脱ぎ、下駄箱からスリッパを取ると、少女が食堂から飛び出してきた。
丸い頬が青ざめて血色を失っている。
「どうしたの」
「チョウくんが池に落ちたの!」ニセノに聞かれて、少女は叫んだ。「氷が割れて落ちたの! だから、乗っちゃいけないって言ったのに!」
「そりゃヤバい」ニセノはスリッパを履くのももどかしそうに、食堂へ入って行った。
俺もすぐ後を追った。
小さなファンヒーターの前で、ずぶ濡れの厚彦が少年の服を着替えさせていた。床にはタオルや濡れた服が散乱している。厚彦も少年もガタガタ震えており、特に少年の方は、顔が土気色だった。
氷が張った池に落ちたわけだから、ほぼ零度近い水に飛び込んだことになる。助け出した厚彦も頭まで濡れたようだ。
「もっとタオル持ってくる? もっとタオルいる?」少女は変な足取りで飛び跳ねながら、厚彦と少年の周りをぐるぐる回った。
厚彦は少年に乾いた服を着せ終わると、更に肩からバスタオルをかけ、別なタオルで髪を拭いた。
「うう、うええ」少年の目からは涙が筋のようになって流れていた。
「大丈夫か? 寒いか?」厚彦はヒーターのボタンを押し、温風の勢いを上げた。
「おれ、おれさあ、池に、池の中に、星があって」少年は土気色の顔のまま何かを言いかけ、それから身体を妙な角度に折り、口と鼻から勢い良く大量の水を吐き出した。
ちょうど、俺たちの後ろから食堂に入ってきたフミカが鋭い悲鳴を上げた。老婆もそのすぐ後ろから入ってきて、惨状を見ると何か叫びながら駆け寄ろうとしたが、途中で床にへたり込んでしまった。
「救急車を呼びましたよ」ニセノが携帯端末の操作を終え、フミカに向けて言った。「かなり水を飲んでます。楽な姿勢で寝かせて、とにかく温めないと……他の暖房はありますか?」
「ちょっと、あの、持ってきます」フミカは厨房の奥へと走った。
少女はヒーターの前に座り込んだ弟の背中をさすり、「寒くない? もう吐き気しない? 横になる?」と矢継ぎ早に叫んでいた。
「あなたも、着替えた方が」俺は床の水をタオルで拭き取ろうとする厚彦に声を掛けた。「ここは、拭いておきますから」
「ああ、あああ、すみません」厚彦の顔色もだいぶ悪い。喋りながら歯がガチガチと鳴っていた。
ニセノは老婆に手を貸して立たせ、テーブル前の椅子へと連れて行った。
しばらくはてんやわんやで、時間の感覚がまるで無かった。
救急隊員が到着し、少年の様子をてきぱきと確認すると、ストレッチャーに寝かせて素早く運び出した。別な隊員が厚彦とフミカに状況を聞き、少女と厚彦を救急車に同乗させて病院へ向かうことになった。姉弟の両親にはフミカが連絡したようで、このあと外出先から病院へと直接向かうらしかった。
服とタオルと、かき集めてきた電気ストーブや毛布が散乱した食堂に、フミカがぽつんと残された。
ニセノは勝手に厨房でお茶を淹れてきて、老婆と二人で湯呑みの茶を啜りながら、また何か話し込んでいた。
「おい……俺たちはそろそろ帰ろう」俺はニセノに声を掛けた。「居ても気を遣わせるだけだし、仕事は終わった。あ、あの封筒を奥さんに返せよ」
「ああ、これですね」ニセノは席を立ち、懐から封筒を取り出した。
「いえ、それはもう、お持ちください……今回の作業分のお支払いと、余った分は迷惑料ということで」フミカはおどおどと頭を下げた。
「いえそんな、迷惑なんて……」ニセノは困った顔をした。
「そしたら後で精算して、お釣りを送金しますので」俺はニセノの手から封筒を取り上げて、鞄に入れた。「結局、裏のあの呪文からは想定していたものは出なかったので。初めからそんなものは無かったということで、丸く収まると思います。もしかしたら厚彦さんはがっかりされるかもしれませんけど」
「ええ、まあ……それで良かったんだと思います」フミカは何度も小さく頷いた。「無いものは、無いですもんね。それならいいんです。その方が」
「あンた、お池の中の、あれ開けたンか?」老婆が急に、俺の方を振り向いて睨んだ。
「もう、全部片付けました」と俺は言った。
「片付けた? 消した?」
「とりあえず綺麗に……しましたよ」
「財産が出てきたべな?」
「いえ……」と、思わず言ってしまったが、これでまた昨日みたいに絡まれると困るので、「まあ、はい……」と言い直した。
「ンならもう安心だなア。厚彦とフミカさんで、店やってけるなア」
「まあ、その話はまた後でね……」フミカは疲れた顔で言いながら、老婆の手を取った。「お婆ちゃん、私たち、お昼を食べませんとね」
そういえば、と思って時刻を確認すると、とっくに午後になっている。色々ありすぎて、まったく空腹を感じない。
「けど! おれとおとっつぁんで貯めた、ひと財産だから。何かのときに、困らないようになア!」老婆がまた急に大声を上げた。
「はい、はい」フミカは溜息をついた。「厚彦さんが病院から戻ったら、聞きましょうね」
「厚彦もあンたも、この建物売っちまう気だろ! そンならないように、苦労してひと財産……」
「はい、はい」
永遠に終わりそうにない老婆の繰り言を背中に聞きながら、俺とニセノは建物を出た。
「一応、ちょっとだけ池を見てきていいですか?」ニセノは車に乗る前に言った。
「え、いいけど……なんで?」
ニセノは答えず、大股で池の方に歩いて行った。
仕方なく、俺もついて行った。
風が強くなり始め、空にはまた雲が増えていた。雪が降り出す前に帰りたい。
ニセノは少しの間、うろうろと池の縁を歩き回って何かを探していた。池の縁に沿って数十メートル進み、そこから池の中央のほうを指差す。
「あそこかな」
「……何が」俺は渋々追いついて、ニセノの指す方を見た。
つるりとした真っ白な氷が広がっている。しかし岸から十メートルほどのところで、大きな亀裂が入り、ひと一人分ほどの穴が空いていた。
「あそこから落ちたのか」
「ちょっとだけ、見に行けないかな……」ニセノが何気なく氷に足を踏み出した。
「おい、やめろ」俺は本気でぞっとして止めた。
「三歩だけ……いや、大股一歩」
「何考えてんだよ。絶対やめろ」
「ちょっと、ちょっとだけ。落ちないから」
「落ちなかったら俺が突き落とすぞ」
「ひどい」
ニセノは諦めたように肩をすくめ、携帯端末を出してカメラを起動した。
氷に開いた穴を最大までズームしてから、撮影する。
「じゃあ、帰りますか」ニセノは踵を返し、駐車場に向かった。
「なんなんだよ。最初からそうしてろよ」俺はぶつぶつ言いながら、その後を戻った。
気温が下がってきたせいか、帰りの道はやはり運転しづらかった。解けかけては何度も凍り直した轍にタイヤを取られ、ハンドルの手ごたえが悪い。アクセルを小刻みに踏む。疲れているせいで、勘が鈍っている。タイヤを逆向きに捻ると、余計にスリップしてしまう。
ニセノは携帯端末をずっと見つめ、撮影した池の氷の穴を何度も拡大したり、傾けたりして考え込んでいた。
「まあ、やっぱり見えないか……」
「そこに何かあるのか?」俺は聞いた。
「わかんないですけど、お爺さんがひと財産隠した池の底の呪文って、やっぱりあの本物の大きい方の池の底なんじゃないかなって思って……」
「ええ? でもそんなところにどうやって呪文なんか」
「あの弟くんが言ってたでしょう。お池の中に、星が見えたと。たぶんそれを覗き込もうとして落ちたんですよ。魔法陣を見たんじゃないかと思って」
「まさか。気のせいだろう?」
「だって、お婆さんが話してたでしょう。あの池はある年だけ、異常気象で、岸が何十メートルも後退したって」
「は?」と俺は言った。
アルバムを捲りながら語っていた老婆の長話を、ぼんやり思い返す。そういう話もしていたような気がする。俺の中では、厚彦が少年に語っていた百匹の亀が積み木のように重なって、と同じ類の、大袈裟な与太話だと思っていたのだが。
「その異常気象の年に財産を隠したのなら、池の底に呪文をっていうのも物理的には可能だったでしょう」
「可能は、可能かもしれないけど、なんでそんなことをする必要がある?」
「非常用の隠し財産ですよ。もう一度池が干上がるような干ばつが来た時のための、保険です」
「ええ……」なんだそれ。
何から何まで与太話にしか思えないが、物理的には有り得たかもしれないというのが困る。
じゃあ何か。今でも老婆の記憶の中の「ひと財産」は、池の底に眠っているのだろうか。それを想像してみる。
「……まあ、でも、そのまま沈んでるのがあの一家のためかもしれないな」
「今度春になったら、こそっと見に行ってみません?」
「絶対嫌だわ」
「でも、ひと財産ですよ?」
「いらねえ……」
だいたい、俺がそれを発掘したからと言って、俺のものになるわけでもない。ニセノの言っていることは全部めちゃくちゃだ。というか、池の底にお宝なんて無い。あっても俺にまったく関係ない。
県道に出てからは、道路に雪はなくて快適だった。俺は疲れ果てていて、ニセノが何度か独り言じみた調子で話しかけてきたが、あまり聞いていなかった。返事をするのもだるい。
「それで次の現場なんですけどね」
市内の大通りに戻ってきて、信号待ちで止まったときに、ニセノが急に言った。
「次って何? 俺は帰るけど」
何かとてつもなく嫌な予感がした。
「あの、明日なんですけど……ちょっと依頼が入りましたので、向かって欲しくてですね」
「はあ……」俺は唸り声というか呻き声のような返事をした。
「隣の県なんで、今夜中に移動しておくとスムーズかと思うんですけど。勿論、経費で落ちますよ、移動費と宿代は」
「はあ……」
「依頼はですね、結構古いお屋敷というか酒蔵の、床下だそうです。魔法陣らしきものがあって、事情を知る人がいないっていう、いつもの」ニセノは携帯端末の情報を読み上げ、少し間を置いてから俺の方を振り向いた。「行ってくれます?」
「前からずっと予想はしてたけどさ、お前の会社って人遣いが荒くない?」
「まあ、人手不足ですね。慢性的に。また誰か、スカウトしてきませんとね」
「きちんと良い条件で求人をしろよ、まずは」
「でも藍村さんほど色々できる人って、そう簡単に来てくれないですし」
「ブラック企業だからじゃねえか」
「そうですかねえ。アットホームな職場だし、風通しが良いし、福利厚生があるし、和気藹々とした会社だと思いますけど……」
「居酒屋のバイトの求人とかに書いてありそう」
俺は溜息をついた。疲れ切っているし、頭も痛い。
あと、さすがに空腹すぎる。朝から何も食べていない。胃がむかむかしてきて、気分が悪くなってくる。
今すぐ帰って寝たい、と俺の身体が全力で告げている。
「どうでしょう。行ってくれます?」ニセノが念を押すように聞いた。
「……わかったよ。手伝ってくれるならな」と、俺は言った。
開かずの呪文開けます 森戸 麻子 @m3m3sum
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