夢のはざまで会いましょう⑥
死を回避したという奇跡が起き、数週間の入院だけで済んだ。一方で、柚葉は殺人未遂容疑で逮捕された。彼女は精神疾患が多く見られ、何度も僕を殺して戻ったなどの妄言をずっと繰り返しているらしい。
僕は水鳥柚葉を忘れることに専念した。事件当時の映像がフラッシュバックし、たまに精神が不安定になったこともあったが、有彩と付き合い始めて結婚してからは徐々になくなっていった。社会人生活もどうにかスタートし、順風満帆とは言いがたくもそれなりに細々と幸せを築いていく。
相手に依存しすぎず、お互いを尊重しあって対等に過ごすのが精神衛生的にも健全でいいなと思ったのは、結婚して幾年もすぎた頃か。
子供にも恵まれ、その子が産んだ孫にも恵まれて、落ち着いた生活を過ごしていった。
時が過ぎ、死を感じ始めたのは妻の有彩が病気で亡くなったあとだった。
六十代半ばに早期癌で大腸を切った以外、十数年間一度も大病なく暮らしていたが、ここのところ眠るのが怖い。妙な胸騒ぎを覚えるようになり、一人で散歩に出ることが多くなった。何かを探すように歩いていく。
しかし、若い頃に見たあのステンドグラスの扉は見つかるはずがない。そもそもあの店があった場所と今住んでいる場所は離れているから探しようもないのだが……
ある黄昏時、いつものように散歩していると見覚えのある店を見つけた。探し求めてきたステンドグラスがはめ込まれた扉だ。よろけながらその扉を開くと、今にでも迫ってきそうな時計の群れに押し潰されそうになった。しかし、あの日とまるきり違うことが一つだけある。
「あぁ、どうも。いらっしゃいませ。またいらしたんですね。『時屋タソガレ』にようこそ」
そうかしこまって一礼するのは若い青年。ボサボサした髪型に黒縁メガネ、工房職人のような大きいエプロンを身につけている。
「君は烏丸硝子かい?」
怪訝に思って聞くと、彼は首を横に振った。
「私は店主の陣名直臣です。以後、お見知り置きを」
そう言って彼は目の前にあった椅子を引いて座るよう促した。老体を気遣うように優しく手を引いてくれるので「ありがとう」と礼を言って静かに腰を下ろす。
「えぇと……烏丸硝子くんはその後、どうなったんですか? 若い頃に一度、会ったきりでね」
その問いに、陣名直臣は目を丸くさせた。
「あぁ、烏丸硝子というのは『時の神様』です。本当かどうかはわかりませんが、あれがそう名乗っているのでそういうことにしておいてください」
「時の神様……なるほど。だからあのとき、僕を助けてくださったんですね」
あの不思議な少年が神様だと言われれば妙に納得してしまう。しかし、陣名直臣はますます目を丸くした。硝子玉のような目が鋭く光る。
「助ける……とは、少し違いますね」
彼は顎に手を当てて気難しく唸った。
「なるほど、お客様は少し勘違いしているようです」
「勘違い?」
「えぇ。あのとき、あなたは硝子に渡された時計によって延命できたと思い込んでらっしゃる。実は、あの時計にそのような機能はありません。あなたが亡くなったときに動くのですから」
そう言って彼は、僕のズボンを指さした。どうしてあの時計がこのポケットに入っているのを知っているのか。考える間もなく陣名直臣は続ける。
「硝子はよく私に無断で運命を動かしてしまうので厄介なのです。まぁ、今回ばかりは私も目を瞑るしかなく……と言いますのも、あなたをこの『時の回廊』に閉じ込めてしまったのは紛れもなく、当店の不徳の致すところでして」
「どういうことです?」
つい腰を浮かせて前のめりになると、彼は弱々しく目を伏せた。
「それでは、語りましょう。あなたが『時の境界』をなくした、その経緯を──水鳥柚葉さんが犯したすべてを」
僕は両眼を開いた。久しぶりに聞いたその名に、心臓が押し潰されそうな感覚がした。
「柚葉さんはここで数時間のみ『時』を買われました。そして、あなたを殺したあとまた『時』を買って観測地点に戻る。そうして延々と『時』を買い続けた。あなたを殺してしまったら観測地点に戻ってやり直せばいいと。そうして何度もループし続けたのですが……綻びが起きたときになって私もこの違和感に気がついた次第で」
この『時屋タソガレ』は二十四時間分買うことができるという。しかし、時を買う前の観測地点に戻ることで二十四時間以上の時を買うことも可能なのだそうだ。時屋タソガレの店主でさえも気づくことができない、その盲点を突かれたことで起きた現象だという。
「ルール違反なのですよ。違反者は『時の回廊』に囚われることとなるのです。しかし、この世界の柚葉さんは残っていた自分の『時』をあなたに与えたんです」
本来、時の回廊に囚われた人は同じことを繰り返す傾向があるらしいが、この世界の柚葉は僕を殺し損ねた。それは烏丸硝子から与えられた時計によるものかと思っていたが、柚葉が僕の『時』を延ばしたのだ。運命が確実に変わった瞬間だ。
彼女が今どこで何をしているのか、そもそも生きているのかもわからない。どうしてすべてがわかったときには何もかも遅いのか。
「いかがです? 『時』を買いますか? 過去に戻り、柚葉さんとお話しては?」
陣名直臣が物腰柔らかく問う。僕は悩んだあと、首を横に振った。
「……柚葉と同じことをするつもりはないよ」
どうせこのループも終わるのだ。いまさら蒸し返さなくていい。
しばらく無言が続くと、それまで気にならなかった無数の秒針の音がやけに耳障りに思えた。随分遠くなったはずの耳だが、若い頃に戻ったかのように研ぎ澄まされていく。ここにいると自分が今いくつなのかわからなくなってしまいそうだった。
僕はおもむろに席を立った。
「さようなら」
そう声をかけると、陣名直臣は音もなく立ち上がり、僕の背中に言葉を投げた。
「柚葉さんは、あなたを愛してます」
それは沈着冷静な彼には似つかわしくない、真っ直ぐで必死な声音だった。
「でも、あなたと過ごしていたらいつの間にかあなたから裏切られたんです。だから、」
「えぇ。柚葉はきっと僕のことを愛していましたし、彼女が未来に不安を抱いたのでしょう。でも、もう今さらです。結局、彼女は僕とともに生きる未来を信じられなかったから『時』にすがり、壊したんです」
そう一息に告げると、彼はもう何も言わなくなった。チラリと振り返れば、陣名直臣は眉間を苦しそうに歪めて苦笑した。その顔をなんだか前にも見たような気がする。
「陣名さん。僕たち、どこかでお会いしましたっけ?」
怪訝に思って言うと、彼は表情を無にし「いいえ」と短く答えて深々と一礼する。
「ありがとうございました。お気をつけて」
その言葉はもうどこか機械的だった。そうせざるを得ない理由があるのだろう。
彼もまた、時の回廊に囚われているのかもしれない。
そんな不思議な出来事を過ごした数日後、僕は突然意識を失い、病院に運ばれた。
もう命が残り少ないと感じている。涙する家族に見守られながら、ゆっくりと死を迎えていく。
カチッ。
唐突に時計の針が動き出すような音がすると、それから間もなく意識は深く深くゆっくり落ちて──
***
鋭い覚醒だった。思わず飛び起きる。
あたりはまだ暗く、何時なのかわからない。全身が焼けただれていくような痛みと熱が生々しく残っている。それなのに、なぜか穏やかで不思議な夢だったようにも思う。なぜだろう、今しがた見ていたはずの夢をはっきり思い出すことができない。
床に放置したショルダーバッグから新しいタバコを取ろうと布団から這い出たが、なんとなくタバコに火をつけるのをためらった。仕方なく網戸を開けてぼんやりと静かな夜を見つめる。
真っ黒。この夜の中じゃ山と空の境界がわからない。繋がった景色を見ながら、僕は柚葉の顔を思い浮かべた。
柚葉に会いに行かないと。柚葉が待っている。そんな気がする。
【夢のはざまで会いましょう 了】
時屋タソガレ〜その時、あなたは運命を買う〜 小谷杏子 @kyoko
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