花様年華

 崖のきわに建った宿までは、駅から送迎のバスが出ている。長い坂道を辿って進むあいだ、涌田はお馴染みのAirPodsを耳に、茫漠と広がる海を眺めていた。

「それ、いつも何聴いてんの?」

「え?」

「何聴いてるの?」

「ああ。適当に、音楽とか、ポッドキャストの時もありますよ」

「へえ〜」

「最近のお気に入りは『叶姉妹のファビュラスワールド』っていう」

「そんなのあるの!?」

「なかなか面白いですよ。お悩み相談コーナーがあるんだけど、けっこうまともに答えてるんですよね。一方で単純な、好きな色は? みたいな質問に答えるパートはすごい雑で、そのコントラストがなかなか」

「いつか聞いてみるわ」

 バスは宿の前で泊まり、まばらな客はそれぞれフロントへ向かう。

「いらっしゃいませ。ご予約のお名前をお願いいたします」

 横目で伺うと、涌田は口元をにやつかせて、顎で先を促した。

「大宮紫鶴です」

 スタッフさんは、キーボードをかちゃかちゃ鳴らして、

「大宮紫鶴さま、2名さまでいらっしゃいますね。こちらにご記入をお願いします」

 ペラリと薄い紙を差し出す。自分の詳細を書き終えてから、涌田にペンを譲る。さらさらと書かれたフルネームは、涌田揚羽と読めた。ふたりは、共犯者のように目配せし合う。

「ありがとうございます。お部屋は、7階の708号室になります。こちら、右手に折れていただいて、突き当たりにエレベーターがございますのでご利用ください。ご夕食とご朝食付きですね。夕食のほうが、六時か七時で選べますが、いかがいたしますか?」

「七時で」

 間髪入れずに涌田が答える。

「かしこまりました。また、今回、貸切のお風呂も使っていただけますので、鍵をお渡ししますね。お部屋のなかにあるわけではなくて、大浴場と同じ2階に設えてありますので、そちらまでお願いいたします。続けて、明日のお朝食なんですが、六時半と七時半、どちらがよろしいですか?」

「七時半で」

 今度はシヅルが、涌田を制すようにして答える。

「ありがとうございます。お食事の際はこちらのチケットを大広間までお持ちくださいね。そのほか、ご不明な点はございませんか?」

「大丈夫です」

「ありがとうございます。ごゆっくりお過ごしくださいませ」


 昭和の宿らしく、鍵には、半透明の青色をした棒状のキーホルダーに、708と黒く彫ってある。丸ノブに差込んで回すと、軽い感触で開いた。褪せたペイズリー柄のカバーが掛かったツインベットの向こうに空が見える。つけつけと窓際まで進んだ涌田が、

「おお! すげえ」

 とめずらしく大きな反応を示す。一緒に下を覗き込むと、青いアスファルトのうえに二脚の白いビーチチェアが置かれた空間の先は、すぐ海が寄せていて、波濤の崩れる豪快な音が響いた。

「あの場所、なんだろうね」

「オーシャンプールがあるらしい」

 いつのまに手に入れたのか、手書きコピーらしき「当ホテルのおすすめアクティビティ☆」というプリントを指差している。

「水着持ってきたよね? 泳ぐぞ」

「いいですよ」

「着替えるか。私トイレでいいよ」

「あ、べつにいいっすよ。ここで着替えてもらって。名前見てわかったと思いますけど、いちおう、女です」

 首をすくめてヒョコヒョコさせながら「女」という言葉を口にしている涌田に、いいようもない気持ちになって、シヅルは、

「そうだ、思ったんだけどさ」

 ベットサイドテーブルに置かれたメモ帳を取って、「アゲハ」と縦にカタカナで書いた。

「アーゲーハ、ってほら、全部つなげて書けるね」

「小二くらいの時にじぶんの中で流行った遊びですね、それ」

「でもさ、なんかよくない? 模様みたい」

 涌田はメモ帳の上の文字をじっと見つめて、

「これだな」

 と言った。

「何が?」

「名前、カタカナのアゲハに改名します」

「は!?」

 涌田が顔をあげた。初めて見る、唇が弧を描いた表情で。

「ありがとうございます」

「どういたしまして」

 応えるシヅルの表情もまた、やわらかだった。


「サブカルってとりあえず勢いで海行きがちだよね~!」

「『勢いで海に来た自分』の典型さを若干自虐してますよ。そういう考えをぶっ飛ばしたいって話じゃなかったですか?」

「ふ、たしかにそうだ」

 涌田にとって、シヅルが囚われている「周りの眼」など存在しない。人間関係が希薄でも問題ない。そのぶん、甘え切ってはしゃいだり、そういうことも、必要としない。人を愛さない。社会での共同作業に必要な分はやってますけど、シヅルさんにはそのスイッチ切ってます、と告げる涌田のふてぶてしい表情も同時に思い出して、おかしくなる。

「じゃあ私は今海に来たいから来ている、と言い直すよ」

「まあ今度は翻訳機に通したような」

「じゃあなんだったらいいの!」

「こうですよ」

 全景海、の視界のさきに突き出た、白い梯子、に向かって、涌田はトン、トンと跳ねるようにステップを踏む。呆気にとられていると、ばしゃん、と目の前で水が四散して、シヅルは反射的に目を閉じた。まぶたを開けば、その人は得意げな表情でこちらを仰ぎ見る。ほんの少し、関係が近くなったのが嬉しくて、シヅルはにへらと笑う。そこまで自分の身体能力に信頼がないので、へっぴり腰で一段一段梯子を降りて、ちゃぷんと海に浸かる。

「しょぼ」

「万年テレワーク人間のフィジカル舐めない方がいいよ。ゴミ出しが唯一陽を浴びる機会だから」

「うわ、逆にキツいですね」

「今が精一杯羽根を、というか肩甲骨を、伸ばす好機だよ」

「将来肩バッキバキになりそう」

「もうなってるよ!」

 シヅルは勢いよく海水を跳ね上げる。

「ちょっ」

 涌田は、顔のパーツをすべて真ん中に寄せるようにしてぎゅっと眼を閉じる。

「あ、ごめん。海水飲んじゃった?」

「しょっぱ。こんなにしょっぱいものでしたっけ。海水って」

「申し訳ない」

「はは、まあいいですよ、全然。こういう距離感、じぶんにとってはわりと珍しいので」

「だろうね」

 やり返しては来ない涌田にほんの少しの寂しさを覚える。


ただ、海に浮かぶ。時折ゆらぐ水面がせり上がって、やさしく背中を撫でる。初夏の日差しはもう十分に強く射して、じりじりと焼ける感覚が怖いくらいだ。くるりと回転して水に顔をつけた。透明度には大して期待してなかったけれど、岩礁の間を縫うようにして青い魚が何匹も泳いでいるのが見える。南国じゃなくても、案外海の生き物って鮮やかなんだな、とシヅルは呑気な感想を抱いた。海底に向かって二掻きすると、近くの魚の群れがパッと散る。イソギンチャクがふよふよと揺れるその奥の窪みに、ウツボが顔を覗かせていた。強靭そうな顎。海では、こんな生き物が足元に潜んでいることすらつゆ知らずに泳げてしまう。その事実に、背中にぞくぞくとした感覚が伝播していく。

息を止めるのにも疲れて、しずかに海上まで浮かび、立ち泳ぎになって空気を吸い込んだ。何度か水を掻いて体勢が整うと、涌田が珍しくシヅルの目を捉えて話し出す。

「貸切風呂、あえて選んでもらったと思うんですけど。シヅルさんはじぶんの性を決めようとしてこないですよね。じぶんから伝えたのって、ほぼ初めてだったんですけど」

「あー。それね。なんか、はっきりさせたくなくて、涌田って存在を、ただの涌田にしておきたかった」

「それこそ稀有だ」

「そうかな? まあ褒め言葉として受け取っておくよ」

「そうしてください」

「あ! ああいうデカい浮き輪乗ってみたかったんだよね。借りてきていい?」

「ご自由に」

 シヅルは、勢いをつけて梯子をあがると、先ほど上から覗いた青いアスファルトの広場に広げられた遊具から、ピザの一切れを模したフロートを担いで戻ってくる。

「さいこー、だけどちょっと暑い」

「すごいですね。でかいピザ……普通のやつ選ばなかったんだ。やけますよ」

「たまには太陽浴びとかないと。あっ、半分海、半分ピザがちょうどいい」

「半分ピザ」

「今日これで一生過ごす」

「ご自由に」


 海に浸かった髪は潮っぽくて、ホテル設置のシャンプーでは洗い上がりが悪かった。頭皮を揉み込むようにしても泡立たない髪を雑に洗い流して、二度目のシャンプーを試みる。濡れた髪を手で梳かすと、ぎすんぎすんという嫌な音がした。

「ねえ涌田」

湯気がこもった小ぶりの空間では、熱い靄に音まで奪われて、すっかり音が通らない。

「よく聞こえないです」

 改めて、声の波をゆらすようにして腹の底から声を出す。

「生理とかどうしてんの」

「急に打ち込みますね。とりあえず湯船いきませんか」

「そうね、はやく浸かりたい」

 こじんまりとした小判型の桶風呂に向かい合って入ると、掛け流しのお湯が私たちので溢れて、小気味良い勢いで流れ落ちた。熱さで立った鳥肌が馴れて下ろされるまで、息をつめて待つ。互いに無言だった。次第に温度を身体が受け入れて、ゆったりと温かさが巡り始めたころ、涌田が再び口を開いた。

「今はとりあえずミレーナ突っ込んでますけど。中高の頃は、仕方ないから、あえて生理中は指突っ込んでめちゃくちゃ丁寧に洗ってましたね。ごそっと取れる感じがせいせいして」

「へー。あんま見ずにシャワーの流れに任せてるわ」

「一回試してください。ちょっとスッキリしますよ」

「はは。なんかこういう話するのへんな感じ」

「振ってきたのシヅルさんですけど」

「まあね。嫌だった?」

「けっこう人と関わるとまっさきにそういうこと聞かれて、割とウンザリしてたんですけど、今のはあんま嫌じゃないですね」

「それはほんとにほんとによかった」

「ああ、温泉、いいな」

「いいね」

「もう寝たい……」

「うすうす感じてたけど寝るの早いよね」

「健康優良児なので」

「晩ご飯までは耐えてね」

「努力します」


 夕食が終わって部屋に戻ると、案の定涌田は倒れ込むようにベットに入り込み、そのまま動かなくなる。

「逆流性食道炎になるよ。てか歯磨きもしてないよ」

「あー。はい」

 顔を反対側にむけ、目は閉じたままにゆるく口を開いて生返事する。この様子ではもう起きないだろう。

「やば。全然無理じゃん」

 以降、聞き取れない呪文のようなものを垂れ流してしばらくののち、すーすーと寝息を立ててお行儀よく眠りに落ちていった。涌田の首筋の産毛が、蛍光灯に照らされて白く光る。呼吸とともに上下する皮膚を眺めていると、なにか安らかな気持ちになる。




 旅行から帰ってくると、示し併せたみたいに生理が始まった。初めてていねいに小陰唇をひらき、絡みついた血のかたまりを掻き出してみる。股を開くようにしてしゃがみこんでいるシヅルの視線のさきで、ぽつ、ぽつと風呂場のタイルに落とされたそれは、奇妙な形を保ったまま、少しずつシャワーの流れに乗って排水溝に吸い込まれていった。生理中に流れていく血液を眺めるたび、洗面所か風呂場での血液反応を証拠のひとつにした刑事小説を思い出しては、男が書いた小説なのだろうな、と考える。もしかしたら、経血と、出血とで、判別方法があるのかもしれないけど。


 裸体のまま、鏡の前で一回転する。日焼け止めも塗らずに、うかつな水着すがたでうつぶせに半身海に浸かった一日があったせいで、太陽に晒した背中だけはしっかりと日に灼けていた。

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やっと秋らしい風の通り抜ける夜が来た。 永里茜 @nagomiblue

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