終.絶対やめろ

「よー、しばらくだな」

 二月半ば、新宿駅西口から徒歩十分弱。雑居ビルの合間に無理やり押し込んだような、狭苦しく古ぼけた居酒屋に、小柄な男が寒さに背を丸めて入ってきた。

 暖房の効いた店内をキョロキョロしながら歩き回っていた高瀬は、ひとつのボックス席に佐々木の背中を見つけて声をかけた。彼に隠れて見えなかったが、向かいの席にはメニューを見ながら煙草を吸う堀田もいた。テーブルには、空のジョッキが一つと、二人がそれぞれ半分くらいまで飲んだビールの他に、枝豆と唐揚げ、だし巻き卵などが出揃っていた。


「おっ高瀬、いいとこに来た。まあ聞けよ」

 佐々木が少し赤らんだ顔をてかてか輝かせ、堀田の隣を指さした。向こうに座れと言うことらしい。高瀬は肘のところのほつれかけたスカジャンと毛玉のついたネックウォーマーを脱ぐと堀田の隣に座った。堀田がメニューに目を落としたままぼそりと呟く。

「聞かなくてもずっと喋ってんだろお前」

「とか言って、なんやかんや佐々木の話聞いてあげるんだよな、堀田は」

「騒音が耳に入ってくるのと変わらない」

「まあ、んだな。堀田なんか頼むのか? ならビールひとつ入れといて」

「ねえ俺の話聞いて!」

 佐々木が唐揚げを咀嚼しながらメニューを横取りした。高瀬が苦笑しながら「分かったからほら」と手を差し出すと、佐々木は警戒した子供のようなしかめ面で渋渋メニューを渡す。


「聞いてやるからまず何か飲ませろよ。相変わらずだなお前」

 そう言って、高瀬は手を上げて大学生アルバイト風の男性に声をかけて手早く注文を済ませ、すでに注文されている枝豆をつまんだ。

「十年以上何も変わらないんだ、コイツが半年会わないだけで何か変わると思うか」

 堀田が述べる通り、三人が集うのは約半年ぶりだ。

 あの真夏の珍騒動の後、高瀬は職場にまだ暴力団と繋がっていると誤解されて職を変えざるを得なくなり、引越しもした。

「で、お前今どこに住んでんだよ」

「社員寮。北区の端っこの。そいやお前指どうなった?」

 高瀬に問われて、堀田は気まずそうに視線を逸らした。堀田の指が飛んだあとすぐ、ひとまず治療だと高瀬が昔から世話になっている町医者を訪ねた。一応、吹っ飛んでプリウスの下に転がっていた指も持参したが、断面の損傷が激しく焦げている箇所もあるために、縫い合わせることはできなかった。堀田の左手薬指は今、根元近くから消えている。あるべきものが不自然に欠けているので、下手な加工画像のようであった。


「もし指が飛ぶことがあるなら、俺か佐々木だと思ってたんだけどな」

「俺!?」

 心外そうな佐々木を無視して、高瀬は興味深げに皮膚の変色した薬指の断面を見つめた。そしてからっと爽やかな、もとい何も考えていない笑顔を見せる。

「ま、指輪もつけらんなくなったことだし、うっかり結婚しなくて済むじゃないか」

「俺の結婚を過ちみたいにいうな」

「違うのか?」

 高瀬の問い返しには答えず、にやにやする佐々木からは目を逸らし、堀田は「それより」と話題を変えた。


「お前こそ引越したって言うが、東堂組や藤峰連合とまだ繋がってたりしないのか」

「しないしないっ。あのあと三人で君島さんに事情話しに行っただろ、あれ以来向こうの人間とは会ってねえし、連絡だって取ってねえよ」

 高瀬が慌てたように首を横に振る。

 堀田の治療後、三人が君島宅にプリウスを返しに(当然のように高瀬の無免許運転である)行くと君島がいた。由梨奈は自分の妹と斎藤の関係をまだ伝えていなかったようで、それを良いことに三人はことの真相を君島には伏せたまま、由梨奈が藤峰連合の組長の義娘であったためにどうにか見逃してもらえたのだと説明した。なお、由梨奈は自身の出自を勝手に利用されてもけろっとしており、君島が仰天するのを楽しげに見ていた。

「どっちも自分たちに非があると思ってダンマリ決め込んでんじゃねえのか。組を抜けた俺に今更連絡なんて取らねえよ」

「堀田、お前だってミッキーの愛人と藤峰のチンピラストーカーの女に手出してたじゃん、あれどうなった?」

 からかってやろうという魂胆の見えすいた薄ら笑いを浮かべ、佐々木は箸の先を堀田に向けた。堀田は「汚ねえから箸下ろせ」と口をへのじに歪め、ジョッキの底にわずかに残っていたビールを飲み干す。

「どっちとも会ってねえよ。チンピラの方は傷害で拘留中だって、年末くらいに女の方から連絡があったが」


 そこで先ほど注文を取った店員が、ビール二つととエイヒレを運んできた。高瀬が注文したものだが、佐々木がいの一番にエイヒレを手にとってしがみはじめた。

「面白くねーなー」

「面白くなってたまるか。人の厄介ごとに巻き込まれるのはもういい」

「バツ三エロ魔神の言うセリフかそれ」

 高瀬がぼそりと呟くが、堀田は「元妻とは先月和解が成立したんだ。俺はもう揉めてない」とずれた反論をした。眼鏡の奥の冷めた眼差しは、アルコールが侵食しつつあるのかいささか胡乱である。新しい煙草を抜き取る堀田を、ほか二人が呆れて見つめた。


 高瀬はだし巻きの最後の一切れを口に放った。それを飲み込む頃には、彼は話題に飽きたのか、

「で、話って?」

 と、来た時に佐々木が騒いでいたことへと話を戻した。すると佐々木は「そうだ!」と誇らしげに表情を明るくして、腕組みをしてふんぞり返った。

「俺さ、生保やめる!」

「おおっ!」

 高瀬は目を丸くした。堀田は無言だが、目を丸くしてメガネの位置を正し、佐々木の次の言葉を待っていた。

「バイトに応募しようと思っててさ」

「いいじゃねえか。けど何すんだよ、土木はお前にゃ無理だろ。飲食か、コンビニか?」

 失礼なことを口走りつつ、高瀬が興味深げに身を乗り出した。その反応が嬉しかったのか、佐々木はスマホを取り出して「エックスで募集してた」と得意げに画面を突き出した。


〈待ってるだけで日当2万も! こんなのアリ!? 特別配送のアルバイト急募!!〉

 段ボールの絵文字に挟まれた文句に、堀田が眉を顰める。

「お前それ……」

 一方の高瀬は「すげえ」と素直に感嘆している。

「楽そうだな!」

「だろ、お前もやるか? どうせ借金あるんだろ、副業しようぜ」

「絶対やめろ。素直にハロワ行けって……ったく」

 堀田は二人を一喝してエイヒレをつまんだ。そこで彼のスマホの画面がパッと明るくなり、通知が映し出される。

「なんかめっちゃ通知来てね?」

「いいんだよ無視で」


 堀田が言うと、それを見透かしたかのように呼び出し画面へと切り替わる。堀田は大きくため息をつき、「すぐ終わる」と言って唇に人差し指を当てると、その場で電話に出た。

「あー、今知り合いと飲んでるから。あと俺、財産分与の審判出るまでは代理人つけてるから、用があるならそっちに連絡してくれ……え? それ俺に言われても。実家は?」

 高瀬と佐々木は顔を見合わせた。堀田がそっけなく相槌を打つたびに、居酒屋の喧騒にも分かるほど、電話口の女の声が甲高く、早口に何かをまくし立てるようになっていく。

「ああそう。うん、うん……いや、でも俺も引っ越す予定だし。示談金も養育費もあるんだから、君たちもそれでもっと安いとこに————チッ」

 電話を切られたのか、堀田は顔を歪めて舌打ちした。


「おいおい、こえーな、なんだ今の」

「なんでもないよ。元妻が家賃払えなくなったからマンションに同居させろってさ。断ったら養育費増額の調停するんだってキレて電話切られた」

「泊めてやったらいいじゃん。お前のガキもいるんだろ?」

「アパートに彼女の交際相手が出入りしてたから、子供は最近は彼女の実家にいるらしい。あっちもあっちで色々事情があるんだよ。それに、俺も来週にはあのマンションから引っ越すしな」

「夫婦どっちも最悪じゃん」

「だから実家に預けてんだよ。あと、元夫婦な」

「へえ〜お前も相変わらず大変そうだな、堀田」

 ドン引きする佐々木と異なり、少しずつ酔いが回ってきた高瀬はやはり、分かっているようないないような、適当な相槌を打った。


 堀田は前妻との通話で苛立ちを燻らせたか、落ち着かなげにスマホをいじり始めた。佐々木と高瀬はそれを気にすることなく、堀田に止められたアルバイトの内容を探ろうとネットで検索をかけながら、他愛ない会話をだらだらと垂れ流す。

「おっ」

 しばらくして堀田が声を上げた。声はわずかに弾んだように聞こえた。佐々木と高瀬は、「楽なアルバイト」の真相に辿り着いて肩を落とし、恨めしげに「女か」と口を揃える。

「お前も懲りないなあ、また堅気じゃない女に引っかかるぜ」

「示談金も払ってんのに遊ぶ金なんてあるのかよ。破産して俺に泣きついても金は貸さねえからな!」

 片や呆れた苦笑を浮かべ、片や嫉妬に目を釣り上げて詰ってくるが、堀田はどこ吹く風だ。


「あと二時間ある。時間潰しに付き合ってくれ」

「ちな、どんな子?」

「赤坂の会員制クラブ勤務の……」

 高瀬と佐々木は顔を青くする。

「絶対やめろ!」

 馬鹿。いや馬鹿はどっちだ、と。

 三人の馬鹿騒ぎはしばらく続いた。


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三匹の豚共 ニル @HerSun

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