すぐそちらへうかがいます
丁山 因
すぐそちらへうかがいます
Hさんが住んでる県は完全な車社会で、成人なら一人一台は車を持ってる。車がなければ仕事も買い物もままならない、そんな地域だ。
もちろん電車やバスと言った交通網も整備されているが、コスト的にも人口密集地に偏っているため、使い勝手が悪い。
Hさんも普段は自動車を足代わりにしているため、地元の電車にほとんど乗ったことがない。
今から二十年ほど前の話、ちょっとしたことでHさんは電車を使わなければならない状況に陥った。
と、言ってもこれは自業自得。Hさんは運転免許停止を食らったのだ。理由はたいしたことではない。何か大きな事故を起こしたとか、深刻な違反をしたとか、そんなものではなく、軽微なスピード違反や一旦停止無視、シートベルトを忘れたなどの小さな違反が積み重なった結果だ。
勤め人だったHさんは免停処分を受けたことを会社に報告し、上司からこっぴどく叱られたそう。
車が運転できないことは相当なハンデだが、仕事をしないわけにも行かない。免停期間は三十日。その間は電車とバスを使ってなんとか凌ぐこととなった。
免停生活が始まって一週間ほどしたある日、Hさんは得意先での商談を終え、M駅から事務所のあるK駅まで行こうとしていた。
時間は午後二時過ぎ。M駅はホームひとつだけの田舎駅で、普段は高校生か近くの総合病院へ行く人くらいしか利用客がいない。朝夕はそれなりに賑わうが、この時間は人影もまばらだ。
Hさんはホームのベンチに座り、上り電車を待っていた。ベンチからホームの端までは二メートルほど、ちょうど目の前にサラリーマンが一人立っている。
電車は当分来ないし、来たとしても余裕で座れるだろうから、立って待たなくてもいいのに、変わった人だなとHさんは思ったけど、別に気にもとめなかった。
ただそのサラリーマン、少しおかしい。ずっと何かをつぶやいている。「……ええ、その件はですね~」とか、「はい、重々承知しております」とか、「いえ、そう言ったわけではないんですが~」といった調子で、ずっと誰かに謝っていた。
最初は不気味な独り言だなと思っていたHさんは、ひとつピンときた。きっと携帯電話だ。サラリーマンは携帯電話を手にしてなかったが、その頃はマイクの付いた携帯専用イヤホンがあって、彼はそれで電話先に謝罪してるのだろうと。
それにしてもサラリーマンはずっと謝ってる。何をやらかしたのかは知らないが、長々と電話で相手を詰めてもしょうがないだろうに。Hさんがそんなことをぼんやり考えていると、突然サラリーマンが大きな声で、「ですから、そちらへは近いうちに必ずうかがいますので、それまでお待ちください」と言った。
Hさんはそこで電話が終わると思っていたのに、サラリーマンはまだ話を続けてる。
なんてイヤな相手だ、どこの誰だか知らないけど、そんなヤツと付き合わされるのはツラいねぇ。もう電車が来るぞ。そんなに長々と説教してたのか……。
とHさんはこの見ず知らずのサラリーマンに心から同情した。
「はい、はい、ええ、そうですね……」
まだ話を続けている。
「承知いたしました。それでは今すぐそちらへうかがいます。はい、ええ、今すぐです」
そこからは一瞬のことだった。
サラリーマンはホームからポーンと飛び、入線してきた電車とまともにぶつかった。
凄まじい衝突音と何かが割れるような音、電車の急ブレーキ音が鳴り響き、ホームは一瞬で地獄と化す。
突然の出来事にHさんはオロオロするだけで、その後のことはよく覚えていないらしい。気が付くと警察署の取調室にいたそうだ。
「……で、そのサラリーマンはなんて言ってたの?」
強面の刑事がHさんに何度も何度も同じ事を聞く。状況が上手く飲み込めないが、どうやら自分がサラリーマンを突き飛ばしたんじゃないかと警察は疑ってるらしい。
もちろんそんなのはえん罪だが、それを証明することはできない。Hさんはサラリーマンの喋っていた内容を必死で思い出し、何度も話した。そのせいで、今でも彼の言葉を克明に覚えている。
時間は夜の八時過ぎ。もう五時間くらい取り調べられている。Hさんは疲労困憊で意識がもうろうとしたとき、取調室に別の刑事が入ってきて、その場で釈放となった。どうやら監視カメラに事故現場が撮影されていて、Hさんが一切接触していないことがわかったらしい。
ここまでだとただの接触事故に巻き込まれた話だが、Hさんは刑事から驚きの事実を聞かされていた。事故当時、サラリーマンは携帯電話を所持してなかったそうだ。
Hさんは最後にこう言って体験談を締めくくった。
「あのサラリーマン、いったい誰に謝ってたんでしょうね」
すぐそちらへうかがいます 丁山 因 @hiyamachinamu
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