2日目
※
2日目
1.
ごとり、と積み上げた段ボール箱が重々しい音を立てた。
途端、舞い散った埃と黴の匂いに辟易しながら上を見上げると、天井近くの窓からわずかに陽の光が差し込んでいた。わだかまる闇を裂くそれは、山となった荷物を照らしている。
「……はぁ」
薄暗い蔵の中でのことである。
神社の裏手にある千の家。その脇にある小さな蔵。
小さいとは言うが、何と言っても蔵である。およそ一般家庭に備わっているようなものではないし、物置と言うにはやはり大きすぎるものであった。
朝食時、やはり何かしらの労働を任せてもらえないかと頼んだ自分に、千は少し考えた後、蔵の整理を依頼してきたのであった。
整理と言っても当然、家人でも何でもない自分にはどれが重要でそうでないか、どころか、何が収められているのかすらも皆目見当がつかない。
下手に高価なものを壊してしまったり、といった危険性の方が高いくらいである。つまり、結局大したことはできず、歩きやすいように物を動かしたりといった程度のことであった。
「…………」
気を使われた。とは流石に察しがつく。朝食の席でも心ここに非ず、と言った様子だったのは自覚している、おかげで千には心配されてしまった。
だが、そもそも自分は彼女に心配されるような由縁はない。
自分の心に影を落としているのはまさにそれであった。あれほど焦がれ、思っていた相手。それが自分では無いと知ったら、彼女はどう思うであろうか。
期待外れだったと失望するだろうか。
裏切られたと憤慨するだろうか。
あるいは、ただ涙を流して悲嘆に暮れるだろうか。
そして、自分は、それに対してどうするべきなのか。
「……しかし、すごいなこれ」
思考のどつぼに嵌りそうになって、気分を変えようと辺りを見回すと、蔵に入った時と同じ感想が漏れた。
蔵の中にあるのは本当に様々な道具であった。多くが木製で、動かすのも苦労するような大きさであったりするが、肝心の用途は良く分からない。
神輿などであるならばまだ分かるが、鍬や鎌などの、木で再現された農器具やらも見られる。おそらくは祭事か神事で使うものなのだと推測が出来るくらいであった。
一方で奥には書類が収められているらしい。
多くが古書の類で、自分では読み取ることすら難しい。装丁が甘い為か、あるいはただの経年劣化か、触ると崩れてしまいそうなものまであるので、ある意味ではこちらの方が取り扱いに困る。
そして、それを見つけたのは本当に、ただの偶然だった。
「ん?」
古書を詰め込んだ棚。それをぼんやりと眺めていたら、違和感を覚えた。
古書と棚の間に何か挟まれている。
それは古書と言うにはあまりにも真新しい装丁の……1冊のノートであった。
市販されているものだ。自分だって使ったことがある。
「何故、こんなものが……?」
やはり普通に考えれば千が置いたと考えるべきだろう。
古書の類ならともかく、そうでないならただひとりの住人のものと考えるのが妥当である。
ぱらぱらとめくると、それは日記のようであった。
日々の記録が残されているが、日付は掠れていて判別し難い。
●月×日
今日は菜園の収穫をした。形は少しおかしいが、味に違いはないだろう。
まだ全ては収穫していないが、ひょっとしたら食べきれない量になってしまうかも知れない。その時は里の人におすそ分けをしよう。
あの人は今日も来ない。
●月●日
今日、境内の掃除をしていたら、草むらが揺れた気がした。気になって覗いてみると、1匹のたぬきがこちらを見ていた。とても可愛い。また見れたら嬉しいと思う。
あの人は今日も来ない。
●月▲日
今日は里の人が来た。お米だとかお肉だとかを届けてくれたが、相変わらず仰々しくて、前置きが長くて、疲れてしまった。もう少しどうにかならないものか。
あの人は今日も来ない。
●月■日
今日は思い立って、凝った料理を作ってみたが途中で気が萎えてしまった。
どうせ私しか食べないのに何の意味があるだろう。いや、いずれあの人が戻って来た時に振舞えれば、しかし (判別不能の文字が続いている)
あの人は今日も来ない。何故 (判別不能の文字が続いている)
●月◇日
あの人は今日も来ない。
●月○日
あの人は今日も (判別不能の文字が続いている)
●月△日
あの人は今日も来ない。あの人は今日も来ない。あの人は今日も来ない。あの人は今日も来ない。あの人は今日も来ない。あの人は今日も来ない。あの人は今日も来ない。あの人は今日も来ない。あの人は今日も来ない。あの人は今日も来ない。あの人は今日も来ない。あの人は今日も来ない。あの人は今日も来ない。あの人は今日も来ない。あの人は今日も来ない。あの人は今日も来ない。あの人は今日も来ない。あの人は今日も来ない。あの人は今日も来ない。あの人は今日も来ない。あの人は今日も来ない。あの人は今日も来ない。あの人は今日も来ない。あの人は今日も来ない
「っ!」
ばさりとノートを落とした。
それを見た瞬間怖気が走った。そこから先は日記の体裁すらとらず、真っ黒に塗りつぶされたページが続いていた。刻みつける様に、呪いをかける様に羅列された同じ言葉。
そこに込められたのは果たしてどんな感情だったのか。
躊躇いながらも拾い上げると、数ページほどその異様な記録は続き、やがて何事も無かったかのように日記は元の様子を取り戻していた。料理が上手くいっただとか、そんなとりとめのないことが書かれている。
まるで、平静を取り戻したかのように。
「…………」
表紙に何も書かれてはいない日記。だが、やはりこれは千の日記、なのだろう。
これが果たして1冊だけなのか、だとしたら何故これだけがここにあったのか、分からないことは多いが、いくらか分かったこともある。
千はここにひとりで暮らしていると言った。
地元の人間がひた隠しにしていたこの神社でひとり暮らし、かつて会ったという少年のことを待っていた。
それは自分のことでは無い。だから、彼女と彼がどういうやりとりをしたのかは分からない。だが、推測するに、ふたりは再会の約束をしたのだろう。そして、それから何年も何年も、彼女はここで待ち続けていた。
それはどんな日々だったのだろう。
こんな山奥で、いつ来るかも知れない相手を、ただ待ちわびている。
そして、その日々の中で、彼女は、
「正宗さん」
「っ!」
涼やかに響いた女性の声に、びくりと背筋を伸ばしていた。
蔵の入口を見ると、そこには千が立っていた。眩いばかりの陽の光を背に、不思議と色濃く見える暗がりに、ひとり、佇んでいた。
「どうかしましたか?」
千は微笑んでいた。こてんと首をかしげて。
あの日記を書いた人物とは思えないほどに、穏やかに。
「まるで……幽霊でも見たかのような顔ですよ?」
この時、千の声は囁くほどに小さく、しかし、まるで心のどこかを突くかのように、はっきりと響いて聞こえた気がした。
「……いや。その、少しだけ疲れてしまって」
自分でも信じられない程に空々しく、どこか掠れた声色だった。
笑みを形作る様に口の端をあげたつもりだったが、果たしてうまくいったかどうかは自信がない。
「……そうですか」
千はそう言うと、じっとこちらを見ていた。
揺らぎすらも見えない微笑みを浮かべた彼女は、いっそ何の感情も表していないのではないかと思えた。そうあれかしと形作り、そこから何の変化もない。
それはもう……無表情と変わりないのではないか。
「……昼食が出来ていますよ。休憩しませんか?」
「……ええ、丁度、終わったところなので、片付けだけしてから行きます」
分かりました、と踵を返す彼女の後姿を見ながら、途切れてしまった疑問に想いを馳せる。
何年も何年も想いを馳せ、待ち続けた彼女は、本当に何の変化も無かったのだろうか?
その日々は本当に、彼女の心に暗い狂気の影を、落とさなかったのだろうか。
2.
夜。
あの後、昼食の素麺を美味しく頂いた後は肉体労働に励んだ。
社会人の頃もそこそこ動いてはいたが、この場所では必要な運動量も、使う筋肉もまるで異なる。ぎしぎしと軋む筋肉を揉みながら、借りている部屋のすぐ外、縁側でため息を吐く。
「…………」
この日は雲も少なく、縁側からは闇夜に浮かぶ月がよく映えて見えた。
思えば、ゆっくりとこうして夜空を見上げたことなど、いつ振りであっただろうか。
「月ってこんなに、綺麗だったっけ……」
高く聳える、墓標にも似たコンクリートの間から、毎日のように空は見えていた筈なのに。そんなことも、随分と忘れてしまっていた。
「…………」
冴え渡るような夜の空気を吸い込んで、静かに吐く。
気温は低く、ともすれば寒いほどであったが風呂上がりには丁度良かった、強いて言うのならば、
「……湯冷めしてしまいますよ?」
まるで思考を読み取ったかのような、絶妙なタイミングで声が降りた。
相変わらず音もなく、闇の満ちた縁側の先に彼女が、千が立っていた。
寝着として使っているらしい白い簡易な和服を纏った彼女は静かに微笑みながらこちらを見ている。
「……少し、月を見ていたくて。身体を冷やす前には、部屋に戻るつもりだったのですが」
「そうですか。それは……分かります。今夜は特に綺麗な月夜ですもの」
艶やかに笑みを深めて。千はこちらまで歩み寄って来る。
そして、自分のすぐ近くに腰を下ろした彼女は、夜風を楽しむように目を瞑った。
それから、しばし千ととりとめのないことを話した。
今日の夕飯の味について、蔵の中の謎の道具について、菜園の野菜の出来について……何のことはない話題が、静かな夜の空気を揺らしていた。
そして、それらがふと途切れたその時に、千は言った。
「……正宗さんは、自分の子供の頃のことを覚えていますか?」
「…………」
黙り込んだのは、何と返すべきか迷ったからだ。
自分ではない待ち人を待ち、そして、まだその事実を知らない彼女。
だから警戒した。
その台詞は、まるで、かつてあった出来事を共有したいように聞こえたから。
「……ごめんなさい。覚えていないと仰っていたことを、蒸し返したい訳では無いのですが」
「いいえ……千、はよく思い出すのですか?」
あの日記のことを考えれば、それはきっと愚問であっただろう。
まして、今の千の顔を見れば尚のことだった。
「……そうですね。よく、思い出しますよ」
懐かしむような、想いを馳せるような。
「生まれ落ちてからずっとここでひとり、暮らしていました。かつての私には、楽しいことなど何もありませんでした」
良いことも、悪いことすらも、噛み締めて味わっているような表情。
「誰かとお話したり、遊んだり、あの時だけだったんです……だから、だから、何度も思い出して、それに浸るしかなかった」
わずかに胸に痛みを覚えたのは何故だっただろうか。
孤独が辛かったと漏らす彼女は、だからこそその出会いが支えになったという。
自分はそれを知らない。仮にどれだけ詳しく話を聞けたとしても……それは自分の与り知らぬ出来事だ。
「……例え、それを、俺が忘れてしまっていたとしても?」
口に出した時、砂を噛み締めているような気がした。
「それでもです」
そして、即答した彼女の言葉に、顔を背けた。
何があっても、それだけは後悔しないと、心に決めていることが分かったからだ。
ぶるりと身体が震えたのは、冷えた外気のせいだと思いたかった。
「それに、楽しいのは今もですよ」
「……え?」
でも、だからこそ、その言葉が酷く意外だった。
だが、それを聞き返す前に千は席を立った。ゆらりと音もなく、立ち上がった彼女は静かにこちらを見下ろした。
「そろそろ、寝ましょうか。風邪を引いてしまいますから」
こちらの震えを見て取ったのか、その言葉はどこか気遣うような響きがあった。
正直まだ話していたい気はしたが、千の微笑みはどこか、有無を言わせないような圧を持っていた。圧されるがままに頷く。
「……はい。おやすみなさい」
「おやすみなさい」
別れを告げると、何故か千は嬉しそうに笑った。
月明かりの中から外へ、暗闇の中に白い影が消えようとした時、彼女は振り返った。
「……ひとつだけ、お願いしたいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」
「……なんでしょうか?」
「明日も……こうして挨拶をしてくれませんか」
一瞬身構えたことが馬鹿馬鹿しくなるような、ささやかな願いこと。
それを告げる彼女はまるで、悪戯がばれた子供の様な、困ったような笑みを浮かべた。
「ただそれだけのことが、私にとっては幸せなのです」
3.
明かりを消し、暗闇の中に横たわる。
昼に垣間見た千の、執着とも狂気ともとれる感情。
そして、今見た、ほんの些細なことが幸せだと言う彼女。
それらを前にして自分は。
……少なくとも、今のままでいいはずがないと考えた。
どれだけ表面上、満ち足りた日々であろうとも、彼女が見ているのは自分では無い。
どうあっても自分は彼女の待ち人では無いのだ。
ならば、きっとこれ以上はやはりお互いの為にならない。
真実を告げる時は近い。そして、その時が彼女との別れになるだろう。
ひょっとしたら、それは穏便には済まないかも知れないが……少なくとも、今のままよりは良いだろう。
誰そ彼の後で 葛樹 @kathuragi
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