1日目


1日目



1.


目を覚ました時、柔らかい布団の上に横たわっていた。

見慣れない木目の天井を見上げている。身を起こすと、そこが畳張りの和室であることに気付いた。


陽の光で白く輝く障子の向こうから、小鳥のさえずりが聞こえる。

それは久しく、本当に久しく迎える、自分という存在が場違いな程に、穏やかな朝だった。


「…………」


茫然としながら身を起こすと、自分が白いYシャツとスラックスという出で立ちであることに気付く。ネクタイはなく、首元を緩めてはいるが、これでよく熟睡できたものだ。


森の中を歩き通した服は綺麗とは言い難く、布団を汚してしまったことを申し訳なく思えて……すぐにそんなことを考えている場合ではないと思い直した。ここは一体どこなのか。


深夜に灯された灯篭、月明かりに照らされた神社。

そして……美しくも謎めいた女性。


こんなところで目覚めなければ、あるいは全てが夢であったと思ったかもしれない。


布団から出て立ち上がると、障子を開けて外を窺う。

そこは何のことはない縁側であった。古風ではあるが、それ自体はなんの変哲もない。

縁側の向こうにはすぐ山となっており、深い森が広がっているようだった。


縁側に出ると、足元でぎしぎしと音がした。綺麗に掃除されているが、古いものなのだろう。ついで聞こえたのはことことという煮炊きの音、そして料理の匂いだった。

ぐぅ、と死を覚悟していた割に現金な胃が空腹を主張し始める。それに黙ってくれるように願いながら縁側を進んでいくと、音と匂いが強くなっていく。


そして、木戸を開けると、その先にはひとりの女性がいた。


昨夜見た女性だ。今は簡易な和服を着て、食事を用意している所だった。

古びた釜の様子を見ている彼女は酷く家庭的で、昨日の神秘的な様子とはかけ離れていた。

だが、その横顔は変わらず美しく、やはり浮世離れした何かの片鱗を漂わせている。


やがてこちらに気付いた彼女は、静かに微笑んだ。丁寧に一礼して、酷く、嬉しそうに。


「おはようございます。ゆっくり眠れましたか?」


透き通った黒い双眸に、自分の顔が映っている。

距離で考えればそんなに近い訳では無いのに、その瞳を見ていると、魅入られるように目が離せなくなるのだ。


「……おかげさまで、とてもよく」


困惑しながらも、辛うじてそう答えると、彼女は静かに頷いた。


「それは良かった。その恰好で寝かせるのもどうかとは思ったのですが……殿方の衣服を脱がせるのも、抵抗がありまして」


ごめんなさいね、と首をかしげながら彼女は言った。

やはり自分は昨夜気を失い、彼女に運ばれたのだろう。そう考えると、改めて申し訳ない気持ちになってきた。女性の細腕で男ひとりを運ぶのは簡単なことでは無かっただろう。

だが、今はそれ以上に、彼女自身のことが気になった。


「その、あなたは一体……」


意を決して疑問を口にしようとした時、先んじて彼女が動いた。指を1本だけあてて、唇の前に上げたのだ。


「よろしければ、まずは食事にしませんか? 話し込んでいては、冷めてしまうかも知れませんから」



2.


拙いもので恐縮ですが、と言いながら、彼女は膳を勧めてきた。

輝く様な白米と、脂の乗った鮭の切り身、油麩と豆腐の浮かぶ汁は味噌の香りがたまらないものだ。添えられた漬物は自家製のものかもしれない。


これが拙いものだというのならばこの世に上等なものなど如何ほどにあろうものか。

仕事の関係でいわゆる高級と呼ばれる料理も口にしたことはあったが、これほどに丁寧で、心に染みるものはついぞなかった。


夜半に尋ね、気絶した挙句に寝床を借り、朝餉まで世話になる……と考えると羞恥と罪悪感で穴を掘りたくなる。だが、いざ膳を前にすると、結局は空腹に耐えかねて箸をつけることになってしまった。

自分の意志薄弱が嫌になる。死んでもいいんじゃなかったか、お前は。


いただきます、と両手を合わせた後に、静かに椀を持ち上げて味噌汁を飲む。

温かく、素晴らしい風味が口の中に広がり、ふと、誰かの手料理を最後に食べたのはいつであったか、と考えた。思えば、社会人になってから少しずつ、口にするものに頓着することが無くなっていったような気がする。ここ最近は特に、栄養剤と固形栄養食ばかり口にしていた。


「ぐすっ」


視界が歪んでいる。瞬く間に目尻に溜まった雫が、生暖かい感触と共に頬を伝っていった。

なんて、情けない。そう思いながらもその雫は次から次へと溢れてきて、止めることが出来なかった。


そして、食事の間ずっと泣いていた自分を、彼女は驚くでもなく、ただ静かに微笑んで見ていたのだった。



3.


「申し訳ない……」


空になった膳を前に頭を下げると、彼女はいえいえ、と苦笑しながらお茶を入れてくれた。


「よほど疲れていたのでしょう? ……都会での生活は辛いものだと聞きますし」


温かい緑茶を受け取り、礼を言ったところで、更なる非礼に気付いた。

ここまで良くしてもらったにも関わらず、自分は彼女の名前すら知らない。

今更であることは百も承知、ともう一度頭を下げると、彼女はこれまで見せなかった感情を垣間見せた。眉を少し下げ、わずかに肩を落としたのだ。


困ったように、悲しそうに。


「……千、と言います」


「千、さん、ですか」


その様子を追及する前に彼女はそう名乗った。

綺麗な、しかし、あまりにも簡素な名前はいっそ素っ気ないとすら思えてしまう。

しかし、不思議と彼女の美しさに似つかわしいと思えてしまった。それこそ、人の名前にここまでの感慨を抱いたことなど、初めてのことかもしれないが。


「千、で良いですよ。さん付けは、他人行儀で好きじゃないんです」


会って間もない、まして恩のある女性を呼び捨てにするのは気が引ける話だった。

意に沿わないとはいえ、さん付けで呼ばせてもらえないかと頼む。

しかし、それはまったく予想外の切り口で返されることになった。


「……かつては、そう呼んでくれたので。私は、呼び捨てが良いです」


「かつて……?」


聞き返すと、彼女は微笑んだ。

相変わらず綺麗な、しかし不思議と、嬉しそうには見えない笑み。


「やはり、覚えていないのですか? 私達は昔、この山で会ったことがあるのですよ」


「……それは、一体、いつの話でしょうか?」


「昔は昔、です。子供の頃ですよ。暑い暑い夏の日に、あなたはここを訪ねて来たのです」


「…………」


覚えがない。

10年ではきかない。20年は前の話だろうか? 今と比べて余程変化に富んだ日々だったとは思うが、しかし、だからといって何でもかんでも記憶に留めてはいられない。


手のひらに汲んだ水が、いずれはこぼれて消え去る様に。

本人の意志とは別に、いつのまにか消えている。

それがどれほど大事なものであったとしても。


彼女、千との出会いもまた意識せずに自分は忘れてしまったのだろうか?

いや、しかし、自分はこの場所に人は愚か神社や家があることすら知らなかった。


「思い、出せませんか?」


「……申し訳ない」


「……いいえ、仕方ありません。昔のことですもの」


いくら頭の中を掻きまわしても目的の記憶は出て来ない。

仕方ありません、と言いながらも、その表情はともすれば崩れ去ってしまいそうなほどに辛く、悲しそうなものであった。

今すぐ、覚えているといってその曇りを取り除いてやりたい衝動が湧く。

だが、実際覚えていない以上、やはりそれは不義理であるだろう。


どうにも、ならない。


「……それに、今は思い出せなくても、これから思い出せるかもしれませんし」


「これから……」


一縷の希望に縋る様に彼女は言った。静かな瞳によぎるのはある種の必死さか。

対して自分はこれから、という言葉について考えていた。


全てを失い、この故郷に戻って来た身。

もはやこれからどこで死のうが、どこで過ごそうが頓着する必要もない。ないが。


「俺は、このままここに?」


考えもしなかった。

否、選択肢として考えていなかったのではなく、そもそも自分のこれから、などというものについて思考を割いてすらいなかった。


「しかし、俺は、ずっとここにいる訳には……」


「……帰る場所が、あるのですか?」


遠慮から出た言葉はその一言で切って捨てられた。

緩やかで、穏やかな、しかしどうしようもない切れ味でもって振るわれた言葉の刃。


「…………」


「ないのでしょう?」


千の言葉は不思議な確信と、言いしれない圧をともなっていた。

静かに微笑む彼女を前に二の句を繋げない。


「少なくとも、もう少し身体を休めていかれるべきではありませんか? あなたは、疲れ果てている」


まるで、死んでしまいそうな顔をしていましたよ。と微笑みながら彼女は言う。

その瞳にあるのは、本当に心配だろうか。天使みたいな微笑みが、その実、ある種の魔性を帯びているような、そんな感覚が拭えなかった。


「だから、いつまでだってここにいてくれて良いのです。元より、ここには私ひとりで住んでいます。誰に憚ることがありましょうか?」


こんな山の中にひとり、明らかに異常である事柄にも、注意を払えない。

自分は、果たしてどうするべきか。本当に、ここにいても良いのか。


「……お粗末様でした。次の食事も、楽しみにしていてくださいね?」



4.


「…………」


夜。前の服は汚れていたからと、彼女、千が用意してくれた服は驚くほどに滑らかで、戸惑う程に着心地が良かった。


和服である。

白い着流しに黒い羽織。和服を着るなど、それこそ旅館か縁日以来だろうが、それでも着心地が良いと感じるのは、それだけ上質なものだからだろうか。


「ひとり、か」


朝に聞いた言葉がようやく脳裏をよぎる。

ひとりで住んでいると彼女は言った。しかしまるで当然のように取り出された和服は必然のように男性用で、そしてあつらえたかのように自分に合っていた。


あの後。結局答えが出ない自分は、せめて恩を返すべきであると考えて、身の回りの手伝いを買って出た。


都内で独り暮らしをしていたとはいえ自分の家事など拙いものだ。

それでもどうにか力仕事では役に立つことが出来ていたように思える。

無理はしなくても、とは千の言葉だったが、ただ飯を食らった挙句にごろごろしているなど、むしろそちらの方が辛いくらいである。いや、心情的に。


掃除の為、外に出た時に気付いたが、この家はどうやら例の神社の裏手に立っているらしい。千自身、神職に近い立場のようで、神社の管理をしながら、この家で暮らしているという。下の集落とも、繋がりがない訳ではないのだとか。


「だったらなんで近づくなって言われていたんだろうな……」


いくら山奥とはいえ、人の住んでいる施設を決して口にせず、近づくなと、ひた隠しにする理由とは何か。子供がいたずらをすると考えたのだろうか? しかし、それはそこまで徹底するような理由だろうか?


「……流されているな」


和服のままごろりと転がって、腹をなでた。

結局、千に言われる通り、昼食も、夕食も頂いてしまった。多少は手伝ったが、しかし恩を返すと言いつつ、負債だけが積み重なっているように思える。


まだ、未来から目を背けたいのだろうか、自分は。

こんなことをしていても、何も前には進まないのに。

ただ、たゆたうような居心地の良さに甘えている。


その時、わずかに障子を揺らす音がした。

朝のうちに気付いたことだが、千は足音を立てない。

まるで忍者か何かのように、床を滑る様に、澱みのない動きで移動している。

だからきっと、ノックでもしたかったのだろうが、障子ではそれも満足には叶うまい。


変な心遣いに苦笑しながら立つと、襖には小柄な人の影が浮かび上がっていた。


「すみません、今、よろしいですか?」


「……勿論」


わずかに返答が澱んだのは夜に女性が男の部屋に、と一瞬考えたからである。

が、そもそもここは彼女の家である。正確に言えば独り暮らしの女性が男を家に泊めている段階で既に色々と問題があった。


そんなことを考えていると障子が開いた。その向こうには艶やかな笑みを浮かべた千が立っている。そういうつもりではないと分かっていても、健全な男ならばどきりとする雰囲気を漂わせていた。


「お預かりしていた、ここに来るまであなたが着ていた服なのですが、綺麗になりましたので畳んでおきました。よく晴れていたのが幸いでしたね」


「……ありがとうございます」


丁寧に畳まれた服を受け取る。借りている和室には何も入っていない箪笥が備え付けられていたので、ひとまずはそちらに入れておくことにした。

その様子を、千は静かに見ていた。


「寝具が合わない、とかそういうことはありませんか? どうも、うちには古いものしかないですから……」


「いえ、そのようなことは……むしろ、ちゃんとした寝具で寝ること自体が久しぶりでした」


枕が変わって眠れない、といった経験は特にない自分であった。

ぐっすりと熟睡する、とまではいかないが、仮眠する程度ならどんなところでも眠れる性質である。少し前までは借りている部屋で眠ることすら珍しかったのだから、ある意味では必要に迫られて得た特技かも知れないが。


「お気遣いなく……本当に、良くしてもらっていますから」


「……そうですか、そう言ってもらえると嬉しいです」


千はそれ以上言葉を重ねることはなく、踵を返した。

音もなく部屋の外に出て、こちらに向き直る。


「あなたがいてくれて、本当に嬉しく思います。おやすみなさい……正宗さん」


丁寧に頭を下げて、千は障子を閉めた。

外の気配が消えて、敷かれた布団の上に腰を下ろすと、干したてのようなふわふわとした感触がした。酷く、心地よかった……重々しい心情とは、真逆なくらいに。


大きく息を吐いて、両手で顔を覆った。


ああ、そうだ。気付いていたのだ。そうでない方がおかしい。

彼女が名前を名乗ったのに、自分は彼女に名前を名乗らなかった。

まるでそれが当然であるかのように、彼女は自分の名前を問わなかったから。

知っている、と、彼女がそう言ったからだ。


だから、さっきのやりとりこそが、正真正銘、自分が彼女に名前を呼ばれた最初の機会だった。そして、その結果は明らかだった。


彼女の呼んだ名前は、自分のものではなかった。


自分は……彼女の待ち人とは別人だった。



5.


暗闇の中で思う。

自分が彼女の待ち人では無い。それならば、それを知りながらここにいるのは彼女を騙すことにならないだろうか。


いずれ、正直に告げるべきだろう。


自分には彼女の好意に甘える資格はない。この場所は、自分では無い誰かの居場所だ。

だけれど、もう少し、ほんの少しだけ。休ませてもらいたい。

萎えた足には……まだ力が入らない。立ち上がれる気力がない。

だから、もう少しだけ休ませてもらったら、その時は。


その時は、この場所を発つ。黙っていたことに、頭を下げて。

彼女を残して、この場所を去るのだ。

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