誰そ彼の後で
葛樹
0日目
※
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1.
黄昏の赤い光の中、ざわざわと揺れる木立と幾重にもこだまするセミの声が、ふと昔のことを思い出させた。
子供の頃……将来に漠然とした希望を抱いて、この山を駆け回っていた頃。
虫網を片手にTシャツと半ズボンで、夢中になって友達と過ごしていた日々。
それがまだほんの十数年前のことだなんてとても信じられない。
もっともっと、遥か昔のことのようだ。
ざっ、ざっ、と自分の足音が他人事のように響く。
泥に汚れた革靴、くたびれた背広姿。いくら小さい山とはいえ、登山にははなはだ不向きな格好だろう。もっとも、山登りなど子供の頃以来であったから、正しい服装なんて考えつきもしないが。
かつての自分に、将来の自分が、こんな風に成り果てているだなんて伝えたとして、果たして信じただろうか? 嫌そうな顔をしただろうか、そんなはずはないと否定しただろうか……それとも、それでもきっとどうにかなると、そう思っただろうか。
思えば、自分はこのたった1ヶ月で全てのものを失った。
夢も、仕事も、恋人も、友人も、家族だって……まるでこの30年ほどの自分の人生の全てが、儚く消える泡であったかのように。未来に執着しようとする理由の全てが、ふっと消え失せてしまった。
ふらふらと手元のわずかな金を使い、辿り着いたのはかつて過ごした故郷の、この山であった。自分でもここに来てどうしたかったのか分からない。
それでも、ふっと引き寄せられるようにこの場所に戻って来た。
あるいは、最後にこの風景を見たかったのか。
ようやく辿り着いた山頂。強い風が背広の上着をはためかせた。
足が痛む。慣れない運動でかいた汗が不快だ。だが、そんなことも気にならないほどに、そこから見る景色は美しかった。
水を張ったばかりの田園、道路とも呼べない、ただ土を固めただけの道が伸び、ぽつりぽつりと、古い家屋が打ち捨てられた積み木のように存在している。
ただそれだけの風景が心を打って、涙を流しそうになりながら、近くにあったどこか見覚えのある大きな木に寄り掛かった。
力が抜ける。ずるずると足元から崩れ落ちるように座り込んだ。
ああ、疲れていた。どうしようもなく、疲れ果てていた。
先のことなどまるで思いつきもせず、ただ目を閉じた。睡魔が訪れたのは、すぐだった。
2.
芯に響くような寒さで目を覚ました。
陽は既に落ち果て、一寸先も見通せぬ、深い闇が辺りを包んでいた。
初夏とは言え、まだ夜はぐっと気温が落ち込む。都心でないのならば尚のことだ。
足は未だに鈍痛を訴えていたが、ある程度楽にはなった。
明日にでもなれば筋肉痛が酷いかも知れないが、それでも歩くのに支障はない。
東北でもとりわけ隅にあるこの周辺では街灯すらまばらで、山頂から見下ろす風景は深く暗い沼のようだった。それはきっと自分が子供の頃から変わらず……否、むしろ過疎化が進んだことでより酷くなったかもしれない。
固い樹皮に手を掛けて、這いずるように身体を起こした。
いっそこのまま朽ち果てて、樹木の栄養にでもなった方がマシかもしれないが、それでも立ち上がった理由は自分でもよく分からなかった。
「……どっちみち、長くはないさ」
しばらく水も飲んでいない。久しぶりに音にした独り言は掠れて、死人のうわ言の様だ。
身体を引きずる様に森の奥へと進んでいく。目的地などありはしなくても、とりあえず歩ける分だけ歩こうと、そんなことを思いながら。
「…………」
果たしてどれほど歩いただろうか?
暗い山道は足元すらおぼつかず、何度か木の根に躓きそうになった。
がさがさと葉がこすれる感触が絶えない。ここは既に整えられた道ではないのだろう。
いつのまにか獣道に足を踏み入れていたらしい。
そして、それを見つけたのはそんな時だった。
「……明かり?」
細長い影の如くそびえる木立の隙間に、確かに光るものがあった。
ありえない。日没後の山中、それもおそらくはまだ山頂の付近だ。幼少の頃、毎日のようにこの山で過ごしていたが、人が住んでいるなどついぞ聞いたこともない。
幻覚でも見ているのか。
あるいは、実はとうの昔に自分は死んでいて、今は彼岸でも歩いているのか。
そんなことを思いながら、身体はまるで引き寄せられるように光の元へと向かっていく。
そうして辿り着いたのはごく古びた石段であった。
脇にはやはり古い灯篭が立っており、そこには微かではあるが火が灯されている。
明かりの正体はこれだろう。
「……一体、誰が」
まるで迎え入れるように灯された火。当然、灯した者がいるのだろうが。
答えを求めるように見上げた先、石段はそれなりに長いもので、やはり暗がりで見通すことはできない。
古い記憶を探ってはみるが、やはりこんなところがあるなど聞いたことも無い。
だが……ふと、頭の片隅に何かが引っかかった気がした。
見覚えはない、だが、何か、あったような気がする。この山にまつわる話を、聞いた覚えがある。果たして、それはなんだっただろうか?
躓かないように気をつけながら石段を上がっていく。
こつ、こつ、と靴裏が立てる音が、どこか遠い場所の出来事のようで、山道とは違う硬質な感触が足の痛みを思い出させる。そして、登り切ったその先にあったのは。
「……神社?」
今までの暗闇が嘘ではないかと思えるほど、強く明るく降り注ぐ、月の光。
階段より伸びゆく石畳、中途にある赤い鳥居と、その奥に座す本殿。
神を、祀る為の場所。
そこに、彼女がいた。
ぼんやりと浮かび上がる、ともすれば時代錯誤ともとれる、純白の着物。
透き通るような白い肌に、夜の闇をそのまま梳いて整えたかのような黒髪が良く映えて、おとがいを上げ、天上の月を見上げるその姿は、その美しさは、人のそれではないとすら思えた。
あまりにも美しい何かが、たまさか人の姿をとっているだけかのような。
魂を抜かれたような心地で、その光景を見ていた。
それほどまでにその光景は完成されていた。おとぎ話の中に入り込んだ気さえする。
幽霊のようだと思った。怪物のようだと思った。何よりも……死神のようだと思ったのは、自分がこのまま死ぬのも良いだろうと、そう思ったからか。
その状態がどれほど続いたか、気がつけば、彼女もまたこちらを見ていた。
茫然と、何か信じがたいものでも見るかのような顔で。
何かを噛み締める様に、理解しようと努めるかのように。
そして、笑った。
月の下で咲き誇る花よりも花らしく、彼女は笑った。
それを見て、自分はようやく思い出した。
かつて親に、大人達に言われたことがある。
山に入る道、いくつかあるそのうちの、ある道からは、決して奥に行ってはいけない。
山の中で遊んでいて、見慣れない建物があったら、決して近づいてはいけない。
そして、山の中で、もし、見慣れぬ人に出会っても、決して話しかけてはいけない。
これらを破った場合、山の神様の怒りに触れる。
そして、二度と帰ってくることが出来なくなるのだと。
その戒めは子供達の間でも絶対だった。
それを語る大人達の顔がまったく笑っていなかったからだ。
怖がる子供を見たいが為ではなく、よくある怪談をしたいが為でもなく。定められた絶対の法を語るかの如く、もし破っても、絶対に助けには来られないのだと告げるかの如く、その顔には情けも容赦もなかった。
しかし、そんなことを思い出して尚、手を伸ばすことをやめられなかった。
まるで助けを乞うように……あるいは、仮に死と言う形ですら、自分にとっては変わらぬものだったからか。
いつの間にか近づいてきた彼女が、自分が伸ばしたその手を、まるで大切な物であるかのように引き寄せた、捧げ持つかのようにそれを抱えて、彼女は変わらぬ笑みを浮かべていた。その目尻に、一粒の涙を浮かべて。
「おかえりなさい」
月夜に響く、綺麗なソプラノが、
「私はずっと、あなたを待っていました」
疲れ果てた意識を闇へと落とした。
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