オブ・ザ・デッド

北見崇史

1

「ハッキリ君、外の様子はどうだい」

「今日は襲ってこないと思いますよ。風が強いし、おそらく雨になりそうなので」

「それはわからないよ。襲ってくる側は、つねに意表をついてくるからね。用心にこしたことはないんだ」

 だったら、あんたが見張りについてくれよと思う。

「しっかし、ゾンビってのは臭いもんだねえ。消臭スプレーをいくらかけても間に合わないよ。コスパ最悪だよ」

 たしかに、いたるところで悪臭が撒き散らされていた。

 劣化した血液の錆臭さ、肉が腐り始めた腐敗臭 内臓が乳酸発酵する際の酸っぱさ、麹臭さまである。ただし、{フナのなれずし}みたいに食欲をくすぐる感じではなく、あくまでも腐ったものに近かった。だから悪臭でしかない。

「国中がゾンビだらけですから、臭いのは仕方ないですよ」

「まあ、そうだね。なんせ億を超える人間が一斉に腐っているんだからなあ。臭くても仕方ないか」

「どのくらい腐っているんですかね、教授」

「まあ、腐敗や発酵のスピードは恐ろしく遅いけど、相当に腐っているんだろうなあ」

 ギイギイとうるさく鳴るパイプ椅子から立ち上がり、教授は窓の外を見ている。日が暮れるにはまだ時間が浅いが、灰黒色の、いかにも重苦しい雲が低く垂れこめていて十分に薄暗くなっていた。

「そろそろランタンを点けるかな」

「教授、窓を閉めてくださいよ」

「点かんなあ」

 教授がランタンに火をつけようとガチャガチャやるが、室内が明るくなることはなかった。

「ガソリンが切れたんですよ」

「ほう、ランタンって燃料がガソリンなのか。知らなかった」

「知らなかったんですか」

 教授は、インテリを気取るくせして知識がないインテリだ。

「まあ、こういう前時代の技術はローテク過ぎて謎だよな。ハハハ」

 自分の無知を笑ってごまかすのは、いつものことである。

「灯油のもありますけれど、これはホワイトガソリンですよ」

「ホワイトタイガーなら知ってるけど、ガソリンにもホワイトがあるんだね。牛乳みたいな色をしているのかな。企業だったらいいなあ」

 ホワイトガソリンはランタンやキャンプ用ストーブに使用されるオクタン価が低いガソリンのことだ。

「ホワイトといえば、ホワイトデーを思い出すねえ。キャンディー選びに苦労したよ」

「誰かに渡したことがあるんですか」

「あるよ。当然だろう。バレンタインデーのお返しなんだから」

「お母さんにですか。それともおばあちゃんですか。肉親以外ではないですよね」

「誰でもいいだろう。失敬だなあ、君は」

 教授はそわそわしていた。触れられたくない話題になると、目に見えて落ち着つきがなくなる。

「お~い、ロリっ子や。倉庫に行ってガソリンの缶を持ってこいや」

 インテリという人種は、自分で動こうとしないで人任せにすることが多い。そして、偉そうに命令することが常だ。

 ロリっ子が、キョトンとした顔でこっちを見ていた。彼女は小学校の低学年なのだが、頭の回転数は幼稚園児以下である。言われたことをすぐにやらないのは、言われたことをなかなか理解できないからだ。

「子供はなんにもできないなあ。この非常時に足手まといでしかないよ、うんうん」

「そう思うんだったら、外に放り出してみてはどうですか」

「ハッキリ君。それはマズいだろう。人道的観点からいって看過できないな。いまの発言は記録に残しておくからね」

「どうぞ、ご勝手に」

「それにしても、日が暮れるのが早くなってきたねえ」

「そうですね。戸締りしますか」

 本格的に暗くなってきた。

 外のやつらは光に反応するので、灯りを点ける際には窓を閉めて、さらに手製の木板窓をしっかりとはめ込む。教授はあくびをして見ているだけだ。

 LEDのランタンを点けた。暗かった部屋がパッと明るくなった。教授の部屋を出て階段を降りていると、ロリっ子があとをついてきた。

 この建物は、もとはゲームセンターやボウリング場などがあった複合アミューズメント施設だ。ゾンビ対人間の戦いの果てに、生き残った私たちは形勢不利となってここに逃げ込み、そして籠城した。侵入されないようにバリケードをこしらえて現在に至っている。

「ロリっ子、開いている窓があったら閉めてきてくれないかな」

 この施設のいいところは一階部分が巨大な店舗なので、窓がほとんどないということだ。鉄筋コンクリートの外壁はまさに鉄壁で、あとは店への出入り口をふさげばいいだけである。ただし、外の連中には器用なやつもいて、隙あらば壁をよじ登ってこようとする。戸締りに洩れは許されない。

「?」

 ロリっ子が首をかしげている。これは、自分で確認したほうが早そうだ。

「ハッキリ君」

 教授がやってきた。汚らしい唾をまき散らしながら、いまにも転び落ちてしまいそうな危なっかしい足取りで階段を降りてくる。

 彼はまだ四十になったばかりのオッサンだが、足腰は弱い。もともとが運動不足の体だったのに、ゾンビとの戦いに巻き込まれて尻を負傷していた。

「なんですか、教授」

「ロリっ子のことなんだが」

 中年男が、しおらしくモジモジしている姿は気持ちが悪かった。私が粗暴なチンピラだったら、有無を言わさず殴っていたと思う。

「ロリっ子がどうかしましたか」

「まあ、なんだ、れいのことなんだけれども」

 また、あの頼みなのかとウンザリした。

「触ったりしないから、パンツくらいずり下げてもいいんじゃないかと思うんだ。だってほら、直接的になにかかするわけでもないし」

「パンツを下ろすということ自体が直接的なことなのではないですか」

「それはあれだよ。健康診断的な意味もあるんだよ。だって、あの子は学校に通ってないから、健康診断とかしてないだろう。誰かが健康を診断してやらないとさ」

「健康診断ねえ」

 私の冷ややかな視線が当たらないように、中年男は体を逸らせていた。 

「教授が、またロリコンしようとしていたって記録に残しておきますよ」

 教授は小児性愛の傾向があった。いい年こいて、いや、いい年しているからこそロリコンになってしまったのかもしれない。

「いやいや、ハッキリ君。それはダメだよ。だって、ぼくはまだね、なんにもしてないんだから。刑法的に言えば虞犯なのだよ。実行犯じゃないから推定無罪なんだよねえ。違法性は阻却されるんだ。セーフ、セーフ、せ~~~ふ」

 髭もじゃで歯並びぐちゃぐちゃな中年男が、野球の球審よろしく両手を広げてセーフセーフと言っていた。

「悪趣味が過ぎますよ、教授。児童ポルノ法違反で一発アウトです」

「いやいやいやいや」

 両手を突き出し、人気アイドルのように手を振って否定する。

「だってさあ、この世の中ゾンビだらけなんだよ。法による秩序とか警察とかないんだって。ロリコンしたってニュースやネットで顔がさらされることはないし、だったらなにかしたほうがいいだろうさ。ディストピアなんだから、ちょっとばかりロリコンしたほうが格好いいだろうよ」

「その顔がネットに出まわったら、それこそディストピアですよ、教授」

 ハハハと笑って見せると、教授はムスッとした。

「顔のこと言ったら、君だってたいして違わんよ」

「そういうことにしておきましょう」

 ロリっ子を連れて二階へと戻る。各部屋にある窓を確認し、開いていたら、しっかりと閉めて光が洩れぬように板をはめ込んだ。二階部分は事務室やら倉庫があって部屋数が多い。

「おおーい、そろそろメシの時間じゃないか」

 たいして役に立たないくせに、腹だけは人一倍減るのが教授の鬱陶しいところだ。メシだメシだと喚いている。まあ、たしかに夕食の時間なので支度をする。

 みんなを食堂に集めるようにとロリっ子に言うが、相変わらずキョトンとしていた。わかったのかわからないのか、じつに読みにくい表情である。

「ふん」と頷いて、タタタと走って行った。足元が滑るから気をつけろと言ってみたが、なにか楽しいことでもあったかのように跳ねながら降りてゆく。腰に巻いている赤いぼんぼりが千切れんばかりに揺れていた。

 倉庫で缶詰を人数分手にとり、買い物カゴに入れた。下に降りて食卓テーブルに皿を並べて、それぞれの食欲に合わせて盛りつける。ちなみに、ゲームセンターの真ん中が食堂となっていた。

「いやあ、腹へった。へったへった、ヘッタ・デ・ニーロ」

 最初に席につくのは教授だ。この男は食事となるとテンション高めとなる。

「おおー、今日も見事なドッグフードだねえ。毎日毎日、飽きもせずワンコのエサを喰うっていいよね。マッドなマックスの気持ちがわかるようになったよ。あの映画を思い出して、まったりと食べることにするかいな」

 マックスはイケメンでマッドなアウトローだが、教授は中年のオッサンだ。どぎついオッサン臭がするオッサンでしかない。

「もう飯の時間か」

 赤シャツが来た。ライフルをたすき掛けして椅子に座る。背中に銃器があると背もたれに当たって邪魔となるが、彼は気にしない。 

「さっき窓の下を動くものがいたから撃ち殺してやったぜ」

「ほう、この時間に襲撃とは。やつら、やる気を出してきたのかな」

「よく見れば犬だったがな。痩せたロットワイラーだ。ゾンビ犬ではなかった」

「珍しい犬種だね。オーストラリアの草原で牛を追いかけるのに特化した犬だよ」

 それはオーストラリアンキャトルドッグであって、ロットワイラーはドイツの牧牛犬だ。同じく家畜を追う犬だが、見てくれはまるで違う。

「そういえば、セーラー服さんとツルハシさんはまだですか」

 私の問いに答えず、赤シャツは鼻をほじっていた。ドロッとした巨大鼻クソを出して、そのあまりの重量感と赤黒さに驚いていた。ロリっ子は皿に盛られたドッグフードを、親の敵とばかりに見つめている。

「たぶん、ネズミを探しているんじゃないかな。ドッグフードよりも、やっぱり新鮮な肉がいいからね」

 この施設は、なぜかネズミが多い。都会で増えている比較的小さなクマネズミではなく、時には子猫を超えることもあるドブネズミだ。とれる肉量が多くて、ネズミにしては歩留まりがよい。

「ネズミは病原菌の温床だから、あんまり食べないほうがいいのだけれども」

「ハッキリ君、この世の中がめちゃくちゃになって、腐臭漂うゾンビだらけになっているんだよ。我々がいまさら健康を気にしても、まったくもって意味ないだろう」

 教授はテキトーな知識しかないが、物事の筋道というか常識的な物言いをする時がある。あくまでも格好だけなのだが。

「そういえばよう、ここんところ缶詰ばかりで新鮮な肉を食ってないな。外に出て狩りをしてえ」

「赤シャツさん、いま外に出れば狩られるのはこっちですよ」

 私がそう言うと、赤シャツは銃を構えて威嚇気味に言い放つ。

「俺は狩られねえ。やられる前にやってやる。この308ウインチェスター弾で、あいつらの血肉をふっ飛ばしてやる。ミンチにしてミートボールにして喰ってやるんだ」

 バンバンと、いきなり天井に向けてぶっ放した。

「おいおい、赤シャツ君。室内での発砲はいかんよ。遺憾の意の表明だ」

 教授は赤シャツの右側に座っていたので、排莢するさいにアッツ熱のカートリッジがパシパシと顔に当たっていた。

「ちょっとお二人さんを呼んできます。先に食べていてください」

 食事は全員集合してからとしているが、個性的なメンバーなので毎度毎度集まりが安定しない。臨機応変にやるのが、物事を円滑に進める秘訣だと思うようにしている。

「あ、ロリっ子、ぼくのを食べるんじゃない。こら、やめなさい。パンツ脱がすぞ、こらっ」

 ロリっ子は、隣の皿にあるドッグフードをムシャムシャと喰っていた。教授が慌てて皿を持ち上げようとするが、その手の甲にグサッとフォークを突き刺されてしまう。

「あひゃ、フォークが手をつき抜けたあ」

 ぎゃあぎゃあと騒ぐ中年男を放っておいて、私はセーラー服さんとツルハシさんを呼びに行くことにした。教授のロリコン衝動が気がかりだが、赤シャツさんがいるから大丈夫だろう。なにせ、彼のライフルは頻繁に暴発するのだから。



 ボウリング場の裏側には、ボーリングピンを並べたり、ボールを返したりする機械室がある。

 ツルハシさんとセーラー服さんは、そこにいると見当をつけた。マシンは動かなくなったが、ネズミの住処には丁度よいくらいに複雑で入り組んでいるからだ

「セーラー服さんいますかー、それとツルハシさんもー。ご飯ですよー。早くしないと、ロリっ子が食べちゃいますよー」

 あの二人は、女性同士であるのでとても仲がいい。いつも一緒で、いつも何かをしている。外の様子などお構いなしに、館内を自由にほっつき回っていた。

「なんだよ、メシか」

 向こうから女子高生がやってきた。夏用の白いセーラー服を着用しているが、一着しかないうえに着たきり雀なので汚れが目立つ。ニオイは言わずもがなだ。

「セーラー服さん、ツルハシさんはどこですか」

「ツルハシ姉さんなら、あそこにいるよ」

 女子高生が鼻をほじりながら、目線を向こうに投げた。

「でっかいネズミがいるんだけど、すばしっこくてさあ。捕まらないんだよなあ」

 セーラー服さんが鼻から指を引っこ抜くと、真っ赤に膿んだ信じられない量の鼻クソが、ドロッと出てきた。赤シャツさんのよりも、よほどグロテスクで存在感があった。存分に臭そうである。 

「うっわ、臭、この鼻くそ、がばい臭かあ。あたしのなんだけど、なんつうニオイなんだって」

 嫌そうな顔してニオイを嗅ぐが、そのあとは愛おしそうに眺めていた。

「ところでメシはなに。あたし、クジラ肉の缶詰が喰いたいんだよ。コンベーフでもいいよ、コンベーフ」

「今日はマルカン印のドッグフードです」

「チッ、またドッグフードかよ」

「肉だからいいでしょう。それに、メーカー品ですよ」

「まあ、マルカン印のドッグフードは、レアっぽくて悪くはないけどさ。くず肉だけど、ちゃんと牛だし。やっすい輸入品は、そもそも何の肉かわかったもんじゃないし。きっと、ネズミとか使ってんだよ」

 そのネズミを嬉々として捕まえようとしている者が、ネズミ肉の缶詰を気にしているのは、どういう皮肉なのだろうか。

「そっちいったー」

 通路の向こうから何かがやってくる。犬かと思ったが頭の形状がちょっと違うし、ワンコらしさが感じられない。

「うっわ、ネズミだ」

 シェパードほどもある巨大ネズミが、隆起した背中を揺らしながらノッシノッシとやってきた。

「お肉お肉」

 女子高生が飛びつく。首のあたりに腕を回し、ガッチリと押さえ込んだ。

「セーラー服さん、危険ですよ。噛まれたら大変だし、コレラやペストになっちゃいますって」

「大丈夫大丈夫」

「いや、だめですよ。狂犬病とかもあるのですよ」

「ハッキリさんは小心者過ぎだって。よく見れば可愛いんだよ。まあ、お肉だけど」

 セーラー服さんに抱きつかれても、巨大ネズミはへらへらと舌を出して平然としている。存分に汚れきった毛皮から、生温かな体温とともに、鼻の粘膜に堆積しそうなほどの悪臭が沸き上がってきた。真夏の動物園で、タヌキがいる檻の目の前に立っているようである。

「うわあ、臭いなあ。あたしも人のことは言えないけど、こいつはダメだわあ。ってか、人じゃねえし」

 巨大ネズミは相当な馬力があるため、セーラー服さんが引きずられている。異常なウイルスか宇宙放射線の影響なのだろう。人間のようにゾンビ化しないだけましだ。

「そのネズミ、肉にするには臭すぎるさ」

 ツルハシさんがやってきた。トレードマークのツルハシを肩に担いで、女だてらに頼もしい姿である。

「だから食べないで、ペットにしようと思うんだけども」

「それ、いいね。あたし、キンクマハムスターを飼ってたんだ。ハム之助って名前でさあ。きゃわいかったんだよ」

「セーラー服さんが抱き着いているのは、ハムスターじゃないですよ」 

 こんな臭くて巨大なケダモノをペットにされてはたまらない。たとえ世の中がゾンビだらけになっても、住むところくらいは安全で清潔でありたいと思う。

「ネズミもハムスターも同じ猛禽類じゃないのさ。差別はだめなんだぞ。ポリステカリ、スエットなんだよ。約してパリコレ。あれえ、違うな。バリカタか」

 ポリティカル・コレクトネスと言いたいのかな、懐かしい響きだ。ポリコレだ。

「セーラー服ちゃん、猛禽類はカエルのことよ。ネズミは甲殻類。それとパリコレじゃなくてバリカタでしょう」

「だから、ハリガネって言ったじゃん。にんにくとアブラはマシマシで」

 この二人、じつはけっこう頭が悪い。猛禽類はタカやフクロウで、カエルは両生類だと指摘してやりたかったが、やめておこう。

「お二人さん、夕食の時間ですよ。早く食べないと、教授に食べられてしまいます」

「あのオッサン痴漢、喰うのだけは早いからな。ペドのくせに」

「そうそう。だから中年はイヤなのよ」

「ロリコンはキモいしな」

 セーラー服さんとツルハシさんを連れて、食卓へと戻ってきた。

「わっ、なんだその生物は。カピバラか」

 巨大ドブネズミは、セーラー服さんにすっかりとなついていた。彼女が頭をなでると、気持ちよさそうに目を瞑る。

「ペットのハム次郎だよ。よろしくな」

「これ、ハムスターなのか。ゾンビ化したドブネズミかと思った」

「まあ、ドブネズミですよ」

 事実は包み隠さずに教えてやらなければならない。

「うひゃあ、やっぱりドブネズミか。コレラとかエボラとかの病原菌は大丈夫なのかいな」

 心配性すぎる教授を見て、ツルハシさんがゲラゲラと笑う。

「あっちもこっちもゾンビだらけなのに、そんなの気にしていたら生きていけないでしょう。あんまり潔癖症の人は、あそこの血行が悪くなって腐るって話だよ」

 教授はイヤそうに顔をしかめ、股間に手を当てて不快感を示した。機嫌を損ねたまま、クンクンと鼻をヒクつかせている。

「ねえ、マルカン印のドッグなフードが足りないんだけど」

 ツルハシさんに言われて気づいた。人数分を用意したのだが、すでになくなっている。

「教授、人様の分を喰ったらだめですよ」

「なにを失敬な。逆に喰われてんだよ。このロリロリ娘に」

 ロリっ子を見た。ほっぺたに肉片が付いている。不格好なのでとってやりたかったが、うかつに手を出すとフォークで刺されてしまいかねない。いつものように、そのままにしておくのが賢明だろう。

「ねえ、お腹すいた。あたしにも飯食わせてよ。ハッキリさんには、その責任があると思うんだけどさあ」

「そうそう」

 ここの責任者は私だ。衣食住の用意と、施設の管理が主な業務である。

「わかりました。お二人の分を持ってきます」

「ハッキリ君、こっちにも頼むよ。ロリっ子に喰われたからさあ」

「セーラー服さんとツルハシさんの分だけですよ。備蓄はそんなにないのです」

 ここの管理責任者として甘い顔を見せてはダメだ。生命活動の継続と秩序の維持のためには、規律をしっかりと保たなければならない。

「わたしも一緒に行くよ」とツルハシさんが言ってくれた。

「大丈夫ですよ。二人分なので一人で持てますから」

「今夜は嵐になりそうなんだよ。外の腐れ外道たちが襲ってくるかもしれないし、もしもの時はわたしが守るんだから」

 大変ありがたいお言葉だが、二階の窓は全部塞いだ。あれらを破るには相当な数で襲来してこなければならないだろう

「いや、嵐だから襲ってはこれませんよ」

 彼女は、ツルハシの柄を真一文字に両肩へとかけて、そこに腕を回している。天秤棒を担ぐスタイルに近いが、工事現場で働く屈強な男のようで頼もしい。

「いいからいいから。もしもということもあるかもよ」

 頑なに断る理由もないので、ツルハシさんをボディーガードとして臨時採用することにした。暗くなっているので、懐中電灯を持っていく。

「ねえ、ハッキリさん。ロリコンをどう思う」

「教授のことですか」

 私が先を行き、彼女は後をついてくる。ツルハシさんは歩いているときでもツルハシを肩にかける天秤スタイルで、女だてらに野暮ったい。

「誰がということじゃなくて、世間一般のことでさ。幼児とかが好きなバカは病気だけど、例えば女子高生とかも未成年でしょ。そういのを好きになるかって話だよ」

「まあ、どうでしょうね。うう~ん、コメントしづらいですね」

 猥談をするのならば、男同士のほうがいい。とくに違法で不道徳でまるっきり犯罪であるネタは正直に話せない。良心のエロ心の領域は不可侵であるべきだと思う。

「ハッキリさんは、セーラー服ちゃんに誘われたら、やっぱりやっちゃうのかな」

「今日はずいぶんと生臭い話をするのですね」

「ディストピアでサバイバルしているのよ。性癖をぶっちゃけたって、社会人失格とはならないでしょう。そもそもハッキリさんの奥さんはゾンビになって行方不明なんだから、事実上独身だし、誰でもいいからほしいでしょう。そうなっても浮気にはならないよ」

「不幸にも、つれはゾンビになってしまいましたが、だからといって、見境なく女性をあさるということはしないですよ」

 妻のことに触れられるのは微妙な気分だ。私の嘆きを聞いてほしいような、それでいて触れてほしくないような、相反する感情がせめぎ合っている。

「へえ、真面目なのね。でもJKには心がうずくでしょう」

 いじわるなのか、本気でそう思っているのかわからなかった。

「セーラー服さんには興味ありませんよ。一人前の口をききますけれど、彼女はまだまだ子供です。個人的に女子高生は対象外なので」

「ほんとに?」

「こんなことでウソは言いませんよ。ゾンビとなってしまいましたが、妻は私と同い年で、女子高生ではありませんから」

「奥さんに女子高生の制服を着せていたとか」

「私たち夫婦に、そういう特殊な趣味はありませんでしたよ。ごくごく普通の、ありきたりで、やや退屈な関係でした」

「そう。それを聞いて安心したわ」

 ロリコンというよりも、女子高生に執着する男が嫌いなようだ。

「ツルハシさんって、彼氏と別れたんでしたっけ」

「ああ、アイツならゾンビになった時点で捨ててやったわ」

 ツルハシさんの彼氏は女子高生と浮気していた。痴話ゲンカの果てに捨てられたのはツルハシさんであった。教授から詳しく事情を聴いているし、それは周知の事実である。

「・・・」

 会話が途切れてしまい、なんとなく気まずい空気となった。

「それにしても、なんでゾンビって臭いんだろうね。チーズを食べ過ぎて、お腹をこわした時の下痢便みたいなニオイがするじゃないのさ」

「しょうがないですよ、ゾンビなのですから。逆に生ける屍がいい香りだったらヘンです。ゾンビが歩くたびにバラの香りをばら撒いたら、ホラー映画にならないです。それはトイレの芳香剤のCMですよ」

「トイレの香水かあ。あははは、ハッキリさんって面白い人ねえ。ほんと、面白い」

 女性に面白い人と言われると悪い気はしない。なんだかモテた気になってしまう。

「ねえ、ちょっと。あれって指じゃないの」

「え」

 廊下を歩いていた私たちは、食糧庫手前の部屋の前で止まった。気配を感じたツルハシさんが、懐中電灯で室内を照らした。ドアは開けっ放しにしているので、中が確認できる。窓は板で塞いでいたが、端っこのわずかなすき間から指らしきものが、もじょもじょと出ていた。侵入者である。

「あれは・・・」

 私が結論を出す前に、ツルハシさんが動き出した。背中に担いでいたツルハシを両手で持ち直して進むと、カミキリムシの幼虫みたいに卑しく蠢いているそれらに向かって、勢いを落とさぬまま振り下ろした。

 ツルハシのよく尖った切っ先が、窓枠と木板の境目にガッチリと喰い込んだ。窓の外がバタバタと騒がしい。二階なので足場がほとんどない。体重を支えていた指先が切断されてしまったので、ひっくり返ってしまったのだろう。ほどなくして静かになった。

「まったく外の奴ら、しつこいったらありゃしないよ。埼京線の痴漢だって、少しは遠慮して触るのよ」

 その経験は自慢なのだろうか。

「まさか、数ミリしかないすき間に指を突っ込んでくるなんて、よっぽどこの中に入りたいのですね」

 ツルハシが弾き飛ばした指は三本だ。二本は第一関節から、一本は第二関節からである。壁に跳ね返ってから床に落ちた。もう動かないとは思うが、つま先で突っついて隅のほうへ押した。

「ほかの部屋も危ないんじゃない」

「たしかに」

 ゴンッ、ゴンッ、と大きな音がした。どこかの部屋で木板が破られようとしている。

「教授のところだ」

 今度は私が真っ先に歩いた。教授の部屋へ行くと、窓にはめ込んだ板の下側に穴が開いていた。そこからぬーっと手が出ていた。五本の指で部屋の中の空気をまさぐっている。

「この腐れ人間め」

 赤シャツさんやツルハシさんのように、私は常時武器を所持しているわけではない。さもイヤらしく動く手首に暴行を加えたかったが、適当な道具がなかった。しょうがないので足の裏で蹴り続けた。

 足腰に自信があるわけではないが、指の骨をへし折るぐらいはできるだろう。今日が七のつく日のラッキーデーならば、手首の付け根からポッキリとやれていると思う。

「ハッキリさん、そこどけて」

 私がよけるかよけないかのタイミングで、ツルハシさんのツルハシが振り下ろされた。

「チッ、外した」

 ツルハシの硬質な切っ先が、もぞもぞと動く手の一センチほど右側の板を突き破った。

「ぬ、抜けない」

 しっかりと喰い込んでしまったので、ツルハシがなかなか抜けない。突き出した手は間一髪で危機を回避することができたが、もたもたしていると第二撃により血肉と骨が砕かれてしまう。そのことを承知しているので、慌てたように引っ込めようとしていた。だが、ささくれに引っかかってしまい、仕舞い込めないでいた。

「ハッキリさん、それに噛みついて。喰いちぎって」

「え」

 ツルハシさんは、突き刺さったツルハシを抜くのに時間がかかると見越して、私に向かって噛みつくように指示を出した。

「ちょっとそれは」魅力的な提案だが、やはり誰かの手を喰い千切るのは社会人としてどうなのかと躊躇した。

「っもう、グズなんだから」

 ツルハシの柄から手を離したツルハシさんは、「ガアアア」と勢いよく唸りながら、その手に喰らいつこうとした。だが、寸前のところで手が抜かれた。引っ込めるときに強引に力をかけたので、ささくれが手の甲を引っ掻いて血が付着していた。

「もう少しだったのに、惜しいことしたわ」

 残念そうに言うと、ささくれに付いた血を指でぬぐった。

「ほら、こんなに血が出てる。きっと、大ケガしてるね。ザマミロよ」

「これに懲りて、もう襲ってこなければいいんですけど」

 外の奴らはとにかく執拗だ。私たちは、この建物を住居として使っているだけで、外部に対して危害を加えようとは思っていないのに。

「ねえ、さっきの指なんだけど、拾ってきていいかな」

「どうするんですか」

「まあ、なんていうか、記念品にしようと思って」

 ツルハシさんの魂胆は見え見えだった。

「却下です。この建物にいるうちは、決まりごとに従う約束ですよ」

「わかってるけどさあ、たまにはいいじゃないのさ。みんなも喜ぶよ」

「指は、たしか三つでしたよね」

「そう三本」

「足りないでしょう。私たちは六人なのですよ。不公平になってしまいます」

「そんなの、なんとでもなるって。ロリっ子ちゃんとセーラー服ちゃんと赤シャツさんは、いらないって言うよ」

「どうしてわかるんですか」

「女の感」

「却下です」

「ふん、なにさ。ケチ」

 ブーたれて、あっちを向いてしまった。

「私はこの穴を修理していますので、食糧庫からマルカン印のドッグフードを持って行ってください。ツルハシさんとセーラー服さんの分ですから、一缶あれば足りるでしょう」

「一缶じゃあ足りないよ。セーラー服ちゃんはいっぱい食べるんだから」

「一缶です。後で数えますからね。よけいに持っていかないでくださいよ」

 木板の穴を見ながら、ツルハシさんはなぜかグーの手を、私の顔の前にもってきた。

「?」としていると、蓮の花が開くように、パーの状態になった。

「うわっ、臭っ」

 握りっ屁だった。すごい悪臭である。

「キャハハハハ」

 気分が良くなったのか、キャッキャと笑いながら出ていった。

「ハハハ」なんだか楽しくなった。

 ここでの同居人はクセのある人たちばかりだが、集団生活も悪くないと思う。ゾンビが世にはびこらなかったら、どんな生活をしていただろうか。一日の大半を仕事に費やし、ルーチンワークに嫌気がさしながらありきたりの人生を送っていただろう。それが悪いと問われれば否と答えるが、しごく退屈であったというのは事実だ。

「ツルハシさん」

 ちょうど部屋の前を通り過ぎようとする彼女を、私は呼び止めた。

「な、なにさ」

「よけいなモノを持っているでしょう。私の目は誤魔化せませんよ」

「チッ、地獄耳が」

 ブツブツと言いながら、ドアの前に不当利得分のドッグフード缶を一つ置いた。

「まだ、あるでしょう」

「なに、言っちゃってるのよ。これはわたしとセーラー服ちゃんの分なんだから」

 マルカン印のドッグフードを一つ右手に持って、どこかの黄門様の印籠みたいに突き出した。もちろん、私が平伏などするはずはない。

「指ですよ」

「ああ、バレてたか」

 うっしっしと誤魔化し笑いをして、指二本を不当利得分の缶詰の上にのせた。

「もう一本、いきましょうか」と調子よく促した。

「ハイなあ」

 最後の一本を載せると、「ピューッ」と口で言って姿を消した。ツルハシさんらしい退場の仕方だ。

 窓板の補修を手早く済ませた。大工仕事は得意なのだ。電気にも化学にも詳しいのは、こういうサバイバル生活では役に立った。勉強しておいて無駄なことはない。

 三本の指は誰かの目に留まらないように、道具箱の中へ隠しておいた。ドッグフードの缶を食糧庫に戻してから下に降りた。皆さん、食事を終えたようで、それぞれがいつものようにまったりとした時を過ごしている。

 赤シャツさんは相変わらずライフルをかまえていた。常に弾は入っているので物騒なことこの上ない。少し注意をしておこう。

「なあに連射しねえから、心配はいらねえぜ」

「いやいや、単発でも十二分に危ないですから。暴発して誰かに当たったらどうするのですか」

「急所に当たらねえかぎり、平気のへっこき虫だろう。俺なんて何発鉛弾を喰らったことか」

「たしかにそうですが、念のため安全装置はかけておいてください。只今より、ルールに追加します」

「おいおい兄弟よう、なんでもかんでも規則にするなよ。世界がぶっ壊れて、せっかく自由になったのに面白くねえ」

「私はここの責任者です。従えないというなら出ていくしかありません。お勧めしませんが」

「ちぇっ」

 強面を相手にする場合、卑屈になって譲歩するより正論を盾に強気に出たほうが捗る。

「ちょっとちょっと、ハッキリ君」

「どうしたんですか、教授」

「いいことを思いついたんだよ」

 教授が、さも真面目そうな顔している。彼が思いつくことは、例外なくいいことではない。

「もうすぐ燃料が尽きるだろう。携帯用のガスボンベは、もってあと数日だ」

 燃料の窮乏問題は、たしかに喫緊の課題である。都市ガスは、もはやだたの燃えない空気でしかないし、電気は止められている。水は屋上のタンクの備蓄があるのでまだまだ平気だが、調理用のガスボンベが僅かなので、まともな料理が作れない。

「そうですね。ランタンのホワイトガソリンは使えませんし」

「そこでだ、ガスを調達する方法を思いついたんだよ」

 この建物内でガスを手に入れるなど無理だろう。都市ガスの配管内に残留しているのを搾り取るのだろうか。それとも地下に穴を掘って天然ガスを採掘するという方法か。

「ほら、あそこを見て」

 ゲームセンター内の壁を指さした。食事を終えたロリっ子が垂直の内壁にくっ付いて、ヤモリのように這い上っている。お腹が満たされると、いつもそうするのだ。

「ロリっ子がどうかしましたか」

「いまあの子のお腹の中は、食後の消化不良でいい具合にガスが溜まってるんだよ。メタンガスがまったりとさあ」

 ロリっ子に限らず、ここに立て籠もってから、私たちはお腹をこわしやすくなっていた。食料が缶詰ばかりなのと衛生状態が良くなく、そして、なんといっても消化器官の調子がよろしくないからだ。

「たしかに、よくオナラをしていますけど」

「それだよ、ハッキリ君」

「はあ?」

「ロリっ子のパンツを脱がして尻を上に向けるんだ。オナラが出たところで火を点ければ、あっと驚き携帯コンロの出来上がり」

 その様子を想像してしまい、あわててかき消した。

「教授、本気で言っているのですか。ただ単にロリコンしたいだけなのでしょう。恥ずべき犯罪行為だということを自覚してください」

「な、なに言ってるんだよ。ぼくはこのシェルターの燃料事情をかんがみて、最善の方法を提案しただけだよ。無学な君は知らないと思うけど、メタンガスは燃えるんだよ」

「知っていますよ。深海の低温高圧下で、氷の状態で堆積しています」

「え、空気が海の底にあるの。なんで」

 自称頭の良い人間との会話は徒労感を伴うことがある。

「却下」

 教授の提案は、技術的に解決できない問題があるのと、人道に対する罪に抵触する可能性もあった。許可するわけにはいかない。

「まあ、ハッキリ君がダメだというんだったら仕方ないけどね。はは」

 教授がフェードアウトしようと後ろ向きに歩き出すと、入れ替わりにツルハシさんがやってきた。

「男二人でなにしてんの。女子供には聞かせたくない話でもしてんでしょ」

 ギクッ、と顔を引きつらせたのは教授だ。

「教授が画期的なガスコンロを思案中なのです。完成すれば明日から温かな食事ができますよ」

「ええー、ホントなの。それはありがたいわ。わたし、焼き肉食べたいのよね。あと、レバ刺しも」

「さすがにレバーの缶詰はありませんよ」

「外にいっぱいあるじゃないの。さっきも指を切り取ってやったし。赤シャツさんはライフルを持ってるし狙撃手なんだから、ちょっと行って撃ち殺してくればいいんじゃないの」

「逆に、私たちが狩られちゃいますよ」

 安全な場所にいると、往々にして危機意識がゆるくなってしまう。武器を持っているからといって、安易な気持ちで外出などできない。あいつらは大勢でこの建物を取り囲んでいるのだ。

「それで、どうやって肉を焼くの。まさかここで焚火とかはしないっしょ。火事になるよ」

「教授の案では、ロリっ子にオナラをさせて、そこに火を点けてコンロにするそうです」

「ちょちょ、ハッキリ君、ちょっと待ってよ。ぼくはそこまで言ってないよ。ただメタンガスは燃料になるって話だよ。海底にもたくさんあって、氷になってるんだよ」

「へえ、海の底に燃料があるんだあ。教授はもの知りだよね」

「ま、まあね。一年間に千冊は読むからね。ゾンビだらけになる前は、出版社からもオファーがあったんだよ」

 ツルハシさんに褒められて、まんざらでもない表情だ。私が教えてやったことは内緒にしておいた。出版の件も追求しないことにする。脳がやられているので、多少の妄想が入っていても仕方がない。

「でもさあ、ロリっ子のオナラはあんまし燃えないと思うよ。だって子供だし」

 ツルハシさんは目線を真上に向けている。壁を上っていたロリっ子が、いまは天井を逆さになって徘徊している。いや、ハイハイしていた。

「だから、それは冗談ですよ。ほんとに冗談だから。ジョークだよ、ロリコンジョーク、ハハハハ」

 教授が手足を無駄に動かして言い訳に忙しい。口だけではなく、体までアタフタしていた。

「わたしのだったら、あんがいイケるんじゃないかな」と言って、ツルハシさんが自分の尻の割れ目に手を添えた。次に何がくるか悟ったので、私は少しばかり距離をとった。

「ほら」

 グーの手が教授の顔の前で開かれた。さっきと同じで、蓮の花びらがゆっくりと開花するかの如くである。

 もわ~。

「うっわ、くっさ、臭っ、臭っ、チーズ臭い。しかも熟成し過ぎたブルーチーズなヤツ。チーズはつらいよ」

 教授が顔を背ける。してやったりのツルハシさんは満足そうだ。

「ツルハシさんの腸内は絶対に腐ってるって。ほんとにひどい臭いだ。きっと、未知のウイルスが繁殖してるんだ。小さな宇宙人が共同生活しているのかもしれないな。きっと屁臭い星人だ」

 ゲエゲエと、さも大げさな仕草だ。この手の男は自分が被害に遭うと、さも大げさに表現する。

「もうさ、みんなの腸内が異次元なのよ。誰の腹の中も腐りきって、真っ黒黒助さ。どいつもこいつも、ひどい臭い」

 ツルハシさんが人体の不思議を講釈していると、上から何かが降ってきて教授に激突した。

「ぐっは」

 落ちてきたのはロリっ子だった。ちょうど真上の天井にくっ付いていたんだけど、力尽きたのか退屈だったのか、とにかく落ちてきた。

「ああ。でもロリっ子ちゃんは別よ。この子はピュアよ。汚れてないわ」

 ロリっ子に怪我はなかった。教授が下敷きになって衝撃を吸収したからだ。なにが楽しいのか、キャッキャと笑って向こうへ行ってしまった。

「あの子って、ちょっとわけわからないとこあるかも。ああいうのが、我が子だったらたいへんだわ」

「教授、首の骨が折れていますよ」

 教授の首が、ほぼ九十度左に傾いている。骨がぽっきりと逝ったようだ。

「どうりで視界が逆さまに見えるはずだ。母さん、これは大事件ですぞ」

「逆さまだったら百八十度だけど、さすがにそこまではないわよ。せいぜい直角ね」

「オオ、ジーザス」

 左に九十度折れ曲がった首が、ハリウッド俳優のように両手を広げて天を仰いだ。

「ぶひゃ、べべ、ぺっぺ」

 天井からけっこうな量のホコリが落ちてきて、教授の目や口の中を汚した。

「アハハ、その首の角度でよく上を見れたね。ウケるわ~」

 ツルハシさんが大口を開けて笑っていた。しばらく歯を磨いていないので、歯茎が腫れて膿だらけだ。もっともヘタに歯ブラシをすると、グラついた歯が取れてしまう。すでに上の前歯がない。

「おいおいおいおい、なんだいまの音は、襲撃か」

 赤シャツがやってきた。ライフルを水平に構えて、血走ってはいるが死んだロバのような目で見回している。

「なんでもないわよ。ロリっ子ちゃんが天上から落ちただけ」

「なんだ、またあいつか」銃口をいったん上に向けて、赤く爛れた下腹をポリポリと掻いていた。

 赤シャツさんは即席のプロパンガス火炎放射器に焼かれて、赤いTシャツが皮膚に貼りついてしまった。境界線がちょうどおへその辺りで、気になるのか無意識的に掻いてしまうのだ。

「なあ、なあ、なあ、なあ」

 セーラー服さんがやってきた。なにかいいことがあったのだろうか。 

「暇だったからさあ、二階に行っていろんなところを物色してたら、道具箱の中でこれ見つけたんだよ」

 右手を差し出して、握ったものを自慢げに見せた。

「うおう、生人間の生指じゃねえか」赤シャツが食い入るように見つめた。

「ああー、それはさっきわたしが叩き切ったやつじゃないの」

「え、なに、生指。ちょっとちょっと、そういうものは、ぼくに相談してくれないとさあ。黙っていると不法領得なんだよ」

 赤シャツさんやツルハシさんのみならず、教授までもが色めきだっている。

「皆さん、落ち着いてください。セーラー服さん、それは保管していたものですので返してください」

「やだよ~ん」

 セーラー服さんがゲーム場の中を、生ける屍らしく緩慢な動きで駆け回っている。皆が目の色を変えて追うが、クレーンゲームやコインゲームの筐体に阻まれて、思うように前進できない。とくに教授は首の骨が折れているので難儀していた。あっちのUFOキャッチャー、こっちのコインゲーム機にぶち当たりながら、まるでピンボールのように弾けている。

「三つだから、全員の分はないのよ。だから、あたしが食べちゃうんだ」

 ドラム演奏ゲーム機の前で立ち止まり、まず中指を口に入れた。そのうまみを堪能するように、まだ健在な奥のほうの歯でじっくりと噛み砕く。

「ううーん、脂肪の層が甘くて、そんで関節の部分がコリッコリで、まあ、骨は硬いけど食えないことはないっちゃ」

 骨の部分をガリゴリ、ガリゴリと噛み砕いてゴックンした後、舌を出して唇をペロリと舐めた。

「生肉サイコー」と叫び、残りの二本を爛れた口の中へと放り込んだ。

「セーラー服さん、イエローカードですよ。当施設では人間の肉を喰うことは禁止です。すぐに吐き出しください」

「べー、だ。やなこった。もう喰っちゃったもん」

 そう言って、口の中にあるぐちゃぐちゃミンチ肉を見せた。

「おめえ、自分だけずるいぞ。俺のぶんもよこせ。ぶっぱなすぞ」と言った一秒後に、ホントに撃ってしまった。

 バンッ。

「あぎゃっ」

 赤シャツさんのライフルが放った銃弾はセーラー服さんの左胸を貫通し、背後のドラムマシーンに穴をあけた。ただでさえ血だらけだった制服に、また汚いシミが広がった。

「なにするのよ。心臓だからなんともないけど、頭だったら死んじゃうじゃないのさ。バカじゃないの。オッパイが凹んだってさ」

 左胸の穴をほじくりながら、セーラー服さんがガミガミと喚いている。

「おめえが指を独り占めするからだろうが」

「そうだよ。人肉は貴重なんだよ。みんなで分けるのが人情なんだよ。これは基本的人権にかかわることなんだよ。尊重しなきゃならないんだよ、村長」

「そうそう。元はと言えば、わたしが叩き切ったんだよ」

 赤シャツさん、教授、ツルハシさんが、たいがいに腐った口を尖らせて文句を言っている。

「皆さん、注目!」

 ここは責任者として、そろそろ場を落ち着かせなければならないだろう。

「前にも言いましたが、ここでの人肉食は禁止です。人道に対する罪ですからね。当たり前のことです」

「ゾンビが人を喰って、なにが悪いんだよ。ハリガネムシにカマキリの腹の中に寄生するなって言ってるようなもんだぜ」

 赤シャツさんのたとえがマニアックすぎるが、皆はウンウンと頷いている。

「毎日毎日缶詰だから、たまには新鮮な人肉を喰いたいなあ。鉄臭い血が滴る腹の肉を、思いっきり噛み千切ってやりたいよ。ハッキリ君も、本音ではそう思っているだろう」

「いいえ、教授。私は食べたいなどと思ったことありませんよ」

 全員が白けた目で私を見ていた。

「ねえねえ、いまから外に出て人間を狩ってこようよ。赤シャツさんのライフルで足を撃って、動けなくなったらここまで引きずってくるの。暗いから動きやすいでしょうよ」

「アホか。こっちはライフル一丁で、くそ真面目ゾンビと女ゾンビとガキゾンビだけだ。あいつらは数が多いし、装備も充実してるし、動きも頭もいい。逆に狩られちまうだろう」

 セーラー服さんの提案は、赤シャツさんの不評を買っていた。さっきまで威勢のいいことを言っていたが、あれは空ぶかしであり本気ではなかったようだ。

「ちょっとまってよ、赤シャツ君。いまの勘定にぼくが入っていないようだけど、教授ゾンビってのも、ちゃんとしたメンバーなんだからね」

 首が左側に九十度傾いたオッサンが、臭い唾を飛ばしながら文句を言っていた。

「まあね、赤シャツさんの言う通りだわ。ゾンビは数の勝負なのよ。一人の人間を大勢のゾンビで取り囲んでナンボだからさ。ゾンビの飽和アタックね。わたしたち六人だけのゾンビじゃあ、いいように叩き殺されるのがオチよ」

 いろいろな部位が腐っているツルハシさんだが、脳ミソの一部はまだ健在なようだ。ただし、あまり新鮮ではない。

「そうですよ、セーラー服さん。ノコノコ出て行っても、銃やボーガンで頭を撃ち抜かれるモブキャラみたいな死に方をするだけです。ゾンビ映画のエキストラみたいにやられますよ」

「ちぇ、つまんねえの。指、美味しかったのになあ」

 最後の一言は余計だった。やってられないとばかりに、その場は解散となった。

「ハッキリ君、ちょっといいかな」

 教授が近づいてきた。

「なんですか、教授」

「悪いけどさあ、首を直してくれないかなあ。ロリっ子のせいで、ちょっと曲がってしまったんだよ」

 ちょっと曲がったという表現は、教授にしては控えめだと思った。

「そのまままで大丈夫ですよ。千切れているわけではないので、死にはしません」

「まあ、そうなんだけどさあ、なんか格好悪いだろう。ナイスなおじさまが台無しになってしまうよ」

 たしかに、ナイスなおじさまが台無しになるほどの急角度である。

「では、ギブスで固定してみます」

「助かるよ」

 まず添え木を当てて、教授の頭部をまっすぐに固定した。さらに段ボールをあてがってすき間をなくし、そこに速乾性のインスタントセメントを注ぎ込んだ。

「速乾性なので、すぐに固まると思います」

「さすが、ここの責任者だ。やることが細かいねえ。やあ、ありがとう。ハッキリ君は、前職は左官屋さんだったっけか」

「ちょっとしたDIYですよ。礼には及びません」

 お隣さんの破壊された家の修繕を手伝った経験が幸いしたようだ。喜んでもらえたのは嬉しい。

「ねえ、ちょっと疑問に思ったのだけど、セメントが固まったらどうするんだい。石膏だったら切ったりするよねえ。だけどセメントは硬すぎて切れないんじゃないんだろうか。これ、このままだったらセメント首になるよ」

「教授、細かいことを気にしていたら生きていけませんよ。なにをしたって骨は繋がりませんので、そのままです」

「まあ、そういうことなんだろうけど」

 少し釈然としない表情だが、三歩ほど歩くと忘れてしまったのか機嫌よく鼻歌を奏でていた。

 どこかに行っていたロリっ子が帰ってきた。この子の意識は、ゾンビらしくいつも散漫だ。

「うふふふ」

 顔色は青白いが、目や口の周りだけは寒気が走るくらいに赤黒かった。吐く息が臭いのは皆と同じだ。ツルハシさんなんか、全身から麹と腐った魚のニオイを発している。教授はもっとひどく、赤シャツさんは焦げ臭い。セーラー服さんは、腐敗臭のほかに一種の若者らしいニオイも混じっているのが独特だ。これについてはくわしく言及しないことにする。

 今夜は嵐になりそうだ。もう一度戸締りを確認しなければならない。私には皆を外の脅威から守る責任があるのだ。

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