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街のゲームセンターに立て籠もったゾンビは六体である。
リーダーは{ハッキリ君・ハッキリさん}と呼ばれていた。名前の由来は、ゾンビらしからぬ明瞭な意識がある最初のゾンビだからだ。
彼は、人間たちによる屍人狩りから逃れるすべを知っていた。むやみに歩き回るのは止めて目立たないようにした。実質的に死体となっているので鼓動を聴き取られる心配はないが、吐き出される息や全身から洩れ出る悪臭は隠しようがない。風に乗れば、遠くからでも嗅ぎつけられてしまうのだ。
だから彼は強固な建物にこもった。なるべく息をひそめ、人間たちの目に触れる機会を極力避けた。ゾンビは食物を摂取しなくても死んだり動けなくなることはなかったが、食欲だけは厳然として存在していた。死して身体の肉が腐りかけても、脳内麻薬であるエンドルフィンへの渇望は治まらない。いや、かえって強くなっていた。とくに人肉への執着は強烈であり、病的を通りこして、もはや本能に根差した欲求であった。
ただし、ハッキリ君の倫理観として、人の肉を喰うことは許容できなかった。ゾンビになろうともカニバリズムの禁忌に抵触するというのが理由で、それは人間の理性での判断だった。だから彼が責任者として管理している施設では、人肉食は厳禁となっている。
「教授、起きてください」
「なんだよ、部屋に入ってくるなよ、母さん」
「教授のお母さんは、十トントレーラーに踏み潰されて死にましたよ」
「わあああ」
中年ゾンビが起き上がった。夢うつつな状態からいきなりの覚醒だったので、ただでさえとぼけている思考力が追いつかない。キョロキョロしようとしたが、コンクリートで首を固定されているので動けなかった。仕方なしに、身体全体を左右に振っていた。
「ああ、ハッキリ君か。どうしたんだ、こんな夜中に」
「もう朝ですよ」
下手くそな日曜大工で作ったベッドで、教授と呼ばれているゾンビが起き上がった。彼は教授ぶっているが、じっさいの知能は高くない。ゾンビになってからではなく、人間であった時からそうなのだ。
「ちょ、ちょっと待ってくれないかね。身支度をしなきゃ」
中年ゾンビは尻の穴が腐っているので、寝返りを打っているうちに意図せずに腸が出てきてしまう。朝起きて真っ先にすることは、歯磨きや髭剃りではなくて、でろ~んと出した自らの直腸を腹の中に戻すことだ。
「ほら、痔の調子がね」
その状態が痔であるというなら、もはや完全に手おくれなほどの突出ぶりである。
「よっこら庄吉、なんてね」
自らの赤裸々な部分をあれこれしている姿を見られるのは、中年ゾンビなりの照れがあるようだ。
「手伝いますか、教授」
「いやいや、いくら責任者でもここを触らせるわけにはいかないよ。女房にもみられたことないのに」
「教授は独身でしたよね」
「ゾンビにならなければ結婚していたさ。相手だってちゃんといたんだよ。人妻だけども」
「ええーっと、まだ童貞でしたよね。セーラー服さんが言っていましたよ」
「ど、ドウテイなわけないだろう。なに言ってんだよ、朝っぱらから失敬だな。ぼくはベテランだよ、ベテラン。SMだって、めっちゃやっちゃうんだから」
中年ゾンビは、さも不機嫌な表情である。尻の中にそそくさと直腸を押し込むと、その手のニオイを嗅いでから立ち上がった。
彼は四十過ぎのニートだった。ゾンビ禍が吹き荒れて、いよいよ自宅を脱出しなければならなくなった。久しぶりに母親と一緒に外へと出たが、二人で行動するのは中学一年生以来であり、家の近所もわからなくなっていた。
すでに街中ゾンビだらけであり、のろまな母子はすぐに取り囲まれた。母親は顔中の皮を噛み千切られたが、そのあいだに息子は匍匐前進で逃げた。血まみれのアスファルトを這い進むが、その下半身にゾンビが群がった。
やめろやめろと喚いたが、鉄のようなゾンビの爪でズボンを脱がされ、パンツまで剥ぎ取られた。しまいには、背中が曲がってエビのようになった老婆のゾンビに肛門を喰い千切られてしまった。
「教授、これからミーディングを始めますので、食堂に来てください」
「こんなに朝早くから、なんの騒ぎだよ。ゾンビでも攻めてきたのか」
「そうですよ、ほら、目の前にいるじゃないですか」
ハッキリ君は糜爛した歯茎を見せてニヤッと笑う。
「笑えないよ。ちっとも面白くないな。君ねえ、施設の責任者たるもの、もう少し気の利いたジョークを言いなよ。それに、その歯茎はいつ見ても気持ち悪いなあ。尻の穴が痒くなるよ」
「では、どういうジョークがよろしいでしょうか」
「あたり前田のクラッカー、とかだよ。常識だよ」
「後期高齢者限定ですか。それと歯茎のことは、じつは自慢なんですよ」
「悪趣味だねえ」
ゾンビになったハッキリ君は、ゾンビになってしまったことを恥じた。死のうとして劇物の液体を飲み込んだが死にきれなかった。本人はそのエピソードを隠すことなく、かえって自慢話にさえしていた。
「教授の尻に肛門はないですので、もし痒くなったのならそれは腸ですよ」
「そういう細かいことはいいんだよ」
なんだよ、もう、と自称教授がブツブツ言う。
「それにしても、微妙なところを喰われてしまいましたね」
「だから、その話はよしてくれよ。トラウマなんだから。ぼくはもう行くからね」
噛まれてからゾンビになってしまうまでの時間は、個人差もあるが平均して二、三分である。ゾンビは食欲旺盛なわりに咀嚼が上手くないので、多数でたかられないかぎり喰いつくされることはない。たいていは、くちゃくちゃと自分の一部が噛み千切られる音を聞いているうちにゾンビとなってしまう。
地獄の鬼婆ゾンビに肛門を喰われてしまった中年ニートは、信じられない激痛と出血に苛まれながらも、匍匐前進を止めなかった。無茶苦茶に蹴っていたら、幸運にも老婆ゾンビの顔面にヒットし、それ以上の浸食を受けることはなかった。ぎゃあぎゃあと叫びながら十メートルほど行ったところで、唐突にゾンビとなった。尻に大きな穴が開いてから一分四十秒後であった。
「あ、それからね」
部屋を出て行こうとした中年ゾンビが立ち止まった。ふやけて、いまにも破れてしまいそうな顔をハッキリ君に向ける。
「さっきのドウテイの話は、みんなの前ではしないように。ここ、重要」
「しませんけど、みんな知っていますよ。教授がドウテイだって」
「しっ」
中年ゾンビが緘口を求めて強く顔をしかめた。無垢な幼児が見れば、恐ろしさで卒倒してしまうほどの化け物だが、同種であるハッキリ君にはありふれていた。
「じゃあ、今日のミーティングの第一お題は、{教授がベテランであることについて}にしますよ」
「そ、そういうのはお節介だなあ」照れくさそうに尻を掻いて、その手のニオイを嗅いでから、その手を振った。
中年ゾンビとなり果てた中年ニートは、顔の皮が剥ぎとられた母親ゾンビとともに、町内を徘徊していた。ご近所さんも加わって、数十のゾンビで歩き回っているところに大型トレーラーが突っ込んできた。人間のゾンビハンターが運転するトラックだった。
顔がひどいことになっていた母親ゾンビは、そのひどさを忘れさせるほどにぺちゃんことなった。
大型トレーラーのダブルタイヤで潰されたご近所ゾンビはかなりの数になったが、その中に中年ゾンビは含まれなかった。人間としての意識は皆無だったが、命根性だけは健在だった。平らになった母親を置き去りにして、フラフラと路地に逃げ込んでいた。
「あ、教授」
下の階に行こうと背中を見せた中年ゾンビを、ハッキリ君が呼び止めた。
「なんだよ」
「ズボンが汚れていますので、ランドリーに出しといてください」
「洗ったって無駄だよ。カラダが腐ってんのに、身支度を整える意味なんてあるのかいな」
「臭いです」
「君の歯茎だって臭いよ」
「服が汚いと、ツルハシさんやセーラー服さんに嫌われちゃいますよ」
「オバハンと小生意気なJKに嫌われたって、屁でもねえや」
強がって、ぶふぇ、っと汚らしい屁をたれるが、力の加減を間違えたようだ。
「い、イカン。また中身が出ちゃった」
再びズボンの中に手を突っこんで、とび出した腸を押し戻した。
「なあ、ハッキリ君」
「はい」
ズボンから手を出して、やはり一嗅ぎすることを忘れないで、中年ゾンビがしみじみと語る。
「君には感謝してるよ。一人ぼっちのぼくを、ここに連れてきてくれたのだからね」
「教授を見つけたのは、たまたまだったのですよ。タイミングが良かったのです」
「でも、ゾンビなんてたくさんいただろう。わざわざぼくをご指名してくれたのが、なんだかうれしくてさ」
「ふつうのゾンビを連れてきても意味はないですよ。指示を出しても従わないし、そもそも意思疎通ができないですから」
ハッキリ君は中年ゾンビと並んで話をする。
「意識を取り戻す可能性のないゾンビは助けません」
「そのころの記憶はあまりないんだ。恐ろしい顔の母ちゃんがおっきなタイヤに踏み潰されて、グシャッとなったのは目に焼き付いてるけど」
「そういえばあの時、車道が踏み潰されたゾンビでひどい状態になっていましたね。フライパンにひき肉をのっけて、火もつけずに炒めた感じでグロかったです」
「そんなにひどかったかなあ。母ちゃんのオムライスは美味かったなあ。ナマンダブ、ナマンダブ、アーメン」
中年ゾンビが口先だけの合掌をする。
「それにしても、ハッキリ君はどうして意識が戻るゾンビがわかるんだよ」
「どうしてって、それは見分けがつくからですよ」
「だから、その根拠を訊いているわけだが」
二人は階段を降りていた。一階のゲームセンターは、ゾンビ禍が起こってからというもの閑散としている。クレーンゲームとコインゲーム、音感ゲームなどの筐体は電源が入れられることなく沈黙を続けていた。
電力の供給が停止しているので、屋内の照明はポータブルのランプ類が主だ。もっとも、ゾンビは夜目が効くので必要ないといえば必要ないのだが、責任者は文明の利器に浴することで人間であることを忘れさせないようにと、いろいろと気づかいをしていた。
「感です」
「え、感かよ」
「ああ、でも、再意識化するくらいですから、教授は特殊ですよ。なみのゾンビはなにをしてもゾンビのままですから」
「ま、まあ、そうだろうねえ。ぼくはつねづね、ぼくが特殊だと思っていたんだ。特殊部隊にでも入ればよかったかなあ」
殺ゾンビトレーラーから間一髪で逃げた中年ゾンビは、人目につかないように河川敷の草むらをウロウロしていていた。そこで川魚を調達に来たハッキリ君と出会い、この建物へ連れてこられたのだった。
人間としての意識が明瞭なハッキリ君と一緒に暮らしているうちに、中年ゾンビにも人間性が戻ってきた。生肉を求める欲求は強かったが、他の食べ物で紛らわせることができるようにもなった。知能も徐々に回復し、肛門を噛み千切られる前ほどに戻った。だだし、もともとの性質以上にはなれない。
二体が食卓へやってきた。ハッキリ君がミーティングの号令をかけていたので、赤シャツ、ツルハシ女、セーラー服の三体はすでに着席している。ここでの食事は夕食時の一日一回であるので、卓上に食べ物はなかった。
「皆さん、揃いましたか」
そう言いながらも、ハッキリ君は異変に気づいていた。右に左に上に下にと視線を向けて、あるべきものを探している。
「ロリっ子がいませんが、どうしました」
責任者は、おもにツルハシ女とセーラー服へ質問した。
「それがね、今朝からどこにもいないのよ。長めのオシッコでもしてるのかしらねえ」
「ああ、そういえばさあ、ゾンベになってからションベンしてないんだけど、どんな感じだったっけ」
基本的にゾンビは、排せつという行為はしない。たとえ有機物を摂取しても消化器官がほぼ機能していないからだ。食べたものは、吐き出すかまったく消化されずに排出されるかであった。たまに内臓が破けている者がいるが、そういう場合は食べたそばからダダ洩れる。
「俺はやってるぜ。酒は飲んでるからな」
「赤シャツさんのはオシッコじゃなくて、ただのお漏らしよ。お酒を飲むたびに直通で出てるじゃないの。床中アルコール臭くて大変なんだから」
ツルハシ女が文句を言うが、共有部分を丹念に掃除しているはハッキリ君である。
「オシッコのことではなくて、ロリっ子のことを心配しましょう」
逸れがちな議題を、ハッキリ君が元通りの道へ戻した。
「ロリっ子はゾンビのままだからなあ。ボケ老人じゃないけど徘徊癖があるよ。ハッキリ君に連れて来られて、いまだに再意識化してないのはどうなのかねえ。いい機会だから、ほっぽり出しちゃえばいいんだよ」
食事を横取りされたり、手の甲をフォークでぶっ刺されたり、さらに落下攻撃で首の骨を折られたりしているので、ロリっ子に対する中年ゾンビの印象は、小児性愛の対象物であるということを除くと良くなかった。
「教授、なんて薄情なことを言うのよ。ロリっ子ちゃんはまだ子供なんだから、成長がちょっと遅いだけよ。これから伸びる子なんだから。やればできる子なの」
「そうだよ、ひどいこと言うなって。だいだいオッサンだって、ここに来たときは歩き回ってるだけのバカゾンビだったじぇねえか。一日中、お尻からキモいもんぶら下げてさあ、ありゃあ、めっちゃホラーだったぜ」
「そうそう、思いだしたわ。それでセーラー服ちゃんやロリっ子ちゃんの後をつけ回してたのよ。イヤらしいくせに腐った顔してね、一日中よ。しつこいったらありゃしなかったわ」
嗜肉本能のみと思われているゾンビの行動様式であるが、微妙に個性が出ることもある。中年ゾンビの本性は、生きる屍となっても近所迷惑であり、性犯罪の虞犯であり、女性の敵であった。
「一回死んでみそ」
「ねえ、いつ死ぬの」
女性ゾンビからの嫌悪と嘲りが手厳しい。
「ちょちょ、な、なにを言っちゃってんだよ。ぼくはね、現実の諸問題としてだよ、ロリっ子は、このコミュニティーに貢献してないって話をしてるんだって」
この様子を見ていた赤シャツは、日本酒の二リットルパックをグビグビと飲みながら、ほぼ日本酒である血混じりの尿をたれ流していた。
「ロリっ子はなあ、ああ見えても俺たちの癒しなんだよ。あの子がよう、とんだり跳ねたり天井にくっ付いたりしてると和むんだ。俺はガキがいねえヤクザもんだけども、可愛いと思うんだ。ちっちぇえゾンビだけども、ありゃあ、天使の子だぜ」
しみじみと話す赤シャツを見て、セーラー服はウンウンと頷き、ツルハシ女は腐った血の涙を流しながら彼の手を握った。
「ここに集ったみんなは家族なのです。誰の能力がダメだとか、役に立ってないとか、そういうことじゃないのですよ。みんなで一緒にいることが大切です」
「そうよ。子供に責任負わせるのって非常識でしょう。ちっちゃい子なんだから、なにもできなくて当たり前なの。ロリコン中年より、よっぽど存在意義があるわよ」
ハッキリ君がやんわりと諭すと、ツルハシ女が煽る。
「そ、そうじゃないと思うんだ。だって、役に立たないやつは生きていけないんだ。世の中ゾンビだらけになって、誰が助けてくれるんだよ。みんな自分のことすら守れないのに、結局は自分の面倒は自分でみるしかないんだよ。そこに子供だとか弱者だとかっていっても意味ないだろう。災害に男も女も子供もないんだから」
一人だけ悪者になった中年ニートは、ややムキになっていた。
「なにもしなくてもいいのですよ、教授。いるだけでいいのです。そういう存在なのです。ゾンビでも死体でも、結局はみんなで助け合わなければならないのです」
「ハッキリ君、それは違うよ。いまはこの世の終わりで、混沌で無秩序で、だからこそ自分のことは自分でやらなければならないんだ。何もしなくても誰かが助けてくれとかは甘えなんだ。自己責任で生きなければならないんだよ」
「教授、この世の始まりでも終わりでも、自己責任なんてものはフェイクでしかないのです。自己責任と断定していれば、自分に責任が及ばないと安心できるし、見て見ぬフリをできるし、面白がって見物できるし、なによりお金がかからないですからね」
「いや、だから」
中年ゾンビが口を挟もうとするが、ハッキリ君が強引に続けた。
「権力がある人は自己責任を実践していませんよ。そう煽っている張本人ほど他人を頼って、あるいは毟り尽くして生きているのですから」
「まあ、自己責任から一番遠い人が自己責任を語るんだから、ふつうに世界が亡びるわよね」
「いや、ま、・・・」
ツルハシ女の言葉に反論しかけたが、中年ゾンビは諦めたように静かになった。
「ねえねえ、難しい話もけっこうだけどさあ、ロリっ子を探さないとヤバいじゃん。ひょっとしてさあ、外に出たんじゃね」
そう言って鼻毛を引っこ抜いていたセーラー服だが、抜けたのが鼻毛だけではなくて鼻毛付きの肉片なことに驚いて、目がまん丸になっていた。
「やっべ、鼻の裏の肉がとれたわ。あたし、小さな鼻になったんじゃね。整形することないな」
「私はロリっ子を探してきます。おそらく、機械室のどこかにいるのじゃないですかね。皆さんは先にミーティングを始めてください。お題は、教授の性的テクニックがベテランなことについてです」
「ちょちょちょ、いきなり、なんてこと言うんだよ。それはナシだって」
ハッキリ君の気の利いた皮肉に、中年ゾンビが慌てる。
「オッサンが性的テクニック? はあ?」
「教授はエアテクニックじゃないの。どのくらいベテランか知らないけど」
セーラー服はあきれ顔で、ツルハシ女は意地悪そうな目線だ。二人ともクスクスと笑っている。
「ハッキリ君、困るよ、もう。正式な抗議として記録しておくからね。告訴だよ、告訴」
中年ゾンビがバツの悪そうにモジモジしている。首が曲がらないので、照れた仕草が時計仕掛けみたいにぎこちなかった。その様子を見て満足したハッキリ君が機械室へと行こうとした時だった。
パーン、と甲高い音がした。
そして間隔を置かずに、再びパーンと響く。あきらかに銃声であった。
ミーティング中のゾンビたちは一瞬で凍りつき、死人の顔色がお互いの顔色を窺っている。
「外だ」
最初に動き出したのは赤シャツだ。たすき掛けしたライフルを手に持ち、窓がある二階へと急ぐ。
「朝から襲撃とはいい度胸ね」
ツルハシ女も、ツルハシを持って二階へと向かった。
「皆さん、落ち着いて行動しましょう。早合点は禁物ですよ。ネズミが物を倒したのかもしれませんし」
「ハッキリさん、たぶん襲撃だと思うよ。落ち着いてたら、やられちゃうって」
セーラー服まで戦闘態勢だ。古き良きスケバンのように、護身用のチェーンを握ってジャラジャラさせている。死んだ魚の眼がギラギラしていた。
「私もそう思いますが、とにかく安全に行動しましょう」
人間のゾンビハンターによる襲撃だと、ハッキリ君も悟っていた。ただ、ここに集うゾンビは能動的になり過ぎるきらいがあるので、戦術もなしの突出はかえって標的になりやすいと危惧していた。
全員が階上へと向かった。しんがりは中年ゾンビとなった。彼は肛門を喰われて屍人となったが、二度死ぬのはイヤだと思っていたので行動は消極的であった。
「どこだ、どこから来やがる」
通りに面した側の事務所に集まった。そこは見張り部屋であり、窓のバリケードには偵察用のすき間を確保していた。いくつもの血走った眼玉が、ギョロリと外を見ていた。
すると、パンパンと乾いた音がした。
「伏せろ」
赤シャツが叫ぶ。三センチほどの覗き窓に並んだ眼が、のそりと伏せた。
「撃ってきたんですか」
ハッキリ君の質問に答えるため、赤シャツがややためらい気味に、すき間から目をギョロつかせた。
「いや、違うな。銃を持った人間が見えるが、こっちを狙っちゃいねえ」
「何人いますか」
「三人だ。ライフルを撃ってるのは二人で、もう一人は叫んでいるな。なにかを追ってるみたいだ」
赤シャツの顔にハッキリ君の顔がくっ付いていた。二体のゾンビは、その著しく充血した目線を右に左にと動かしている。
「シカとかイノシシを狩ってるんじゃないの。人間たちもゴハンがほしのよ」
「まあ、あたしたちじゃないのなら、べつにいいじゃん」
女ゾンビたちは、わりと楽観的である。
「向かいのガソリンスタンドを狙っていますよ。給油機の陰になにかいるみたいです」
「なにかがチョロついてるな。イノシシか」
ゾンビたちが住みこんでいる建物の、道路を挟んだ向こう側にガソリンスタンドがあった。人間たちはそこに何かを見つけたらしく、しきりと攻撃を加えている。
「おいおい、ありゃあ、イノシシじゃねえぞ」
赤シャツが見ているのは、八台ある給油機の間を走り回っている人影だ。
「ロリっ子ですっ」
ハッキリ君が叫ぶ。
「え、マジか」
セーラー服が見た時には、ロリっ子はガソリンスタンドを出て、左隣のコンビニ駐車場を走っていた。人間たちが追っていて、銃を撃ったり、その辺に落ちている瓦礫を投げつけたりしている。しかし人間たちがトロいのか、ゾンビのくせにロリっ子がすばしっこ過ぎるのか、当たりはしなかった。
「ヤバい。このままだったらやられちゃうよ」
のぞき見にツルハシ女が加わった。中年ゾンビを除く全員がロリっ子の逃走劇を見ていた。
「ロリっ子ちゃん、どうして外に出ちゃったんだろう」
「そんなこと言ってる場合じゃないって。このままだったら殺されちゃうよ」
「任せとけ。あいつらはロリっ子を狩ることに夢中で、こっちを警戒してねえ。これは狙撃チャンスだぜ」
赤シャツがバリケード用の木の板を少し開けた。ライフルを構え、照準器に目ん玉をくっ付けて、ふーと腐った息を吐きだした。狙いはガソリンスタンドでやたらと発砲している人間である。
「ダメです」
引き金を絞ろうとした刹那、ハッキリ君が銃身を掴んで押しやった。発砲はできたが、射線は当然のように大きく逸れてしまう。
「なにしやがるんだ。その手を離しやがれ」
「人を殺してはいけません」
「なに言ってんだ。やらなければ、ロリっ子がやられちまうんだぞ」
「わかっています。でも人間を殺したら、世界から人類がいなくなってしまいます。彼らは数が少ないです。彼らは未来への希望なのですよ」
「ざけんなっ。あいつらは面白がって俺たちを狩ってるんだ。人類なんかどうなったって知るかよ。くそくらえ」
口端から緑黄色の膿を飛ばしながら、赤シャツがハッキリ君に食ってかかった。
「わかっています。言いたいことは十二分にわかっていますが、別の方法があるはずです。殺すのはいけません」
赤シャツが極限まで目を吊り上げていた。重度の歯槽膿漏を通りこした歯茎からの出血が痛々しい。いまにも噛みつかんばかりの気合を発散していた。
「赤シャツさん、落ち着きましょう」
「なんだよ、もう。早くしねえとやられちまうって」
責任者は、あくまでも平和的な行動を望んでいた。血気にはやる赤シャツであるが、さすがにハッキリ君の制止を振り切れるだけの決心がつかなかった。
「あたし、行って連れてくる」
「ちょい待ち、セーラー服ちゃん。わたしも行くよ」
女ゾンビたちは、人類の存亡に係わる議論には参加することなく行動した。ハッキリ君は心の中で感謝をしつつ、言葉では赤シャツをなだめ続けた。
ツルハシ女はツルハシを持ち、セーラー服はママチャリから引っこ抜いたチェーンを振り回しながら部屋を出て行った。
「ドカタとスケバンが人類からロリ娘を救出するために、いざ出陣だー。これはスティーブン・キング牧師もびっくらな事態です。おーどきましたー。事件ですよ」
女ゾンビを見送った中年ゾンビは、この状況を面白がっていた。へらへらと笑みを浮かべて窓際へと近づいてきた。
バシッと音がした。
防御板をつき抜けた銃弾が赤シャツの頬をかすめ、ニヤついた中年ゾンビの首を貫通した。
「ボギャー」
中年ゾンビが首元を押えて転がりまわる。ハッキリ君が駆け寄った。
「ぼくばー、ちぬのかー」
ぼくは死ぬのかと問うていた。
「くっそ、こっちを撃ってきやがった、くそー、くそー」
すき間から真っ赤な目ん玉を突き出して、赤シャツが喚いている。自らも発砲したいのだが、責任者の許諾がないのでためらっていた。
「ぼくばー」
中年ゾンビは必死の形相だ。絶対に死にたくないとの切実な想いが伝わってくる。
「心配ないですよ、教授。外の人間がこっちに向かって発砲してきたようです。よかった、とりあえずロリっ子への攻撃は弱まります」
「バカヤロウ。そのかわり、こっちが危なくなっちまったじゃねえか」
外からの銃撃は続いていた。威力のあるライフル弾が絶え間なく撃ち込まれている。窓に設置された防御用の木板は、しょせんは木の板なので、超高速の徹甲弾には無力だ。なんなく貫通されている。
「ぼくびゃー」と、中年ゾンビが声を絞り出していた。喉に両手を当てて、自らの窮状を訴えた。
「だから、銃弾が喉を貫通しただけですから大丈夫ですよ、教授。死にはしませんし、ついでにコンクリートギブスも粉々になったので、首が動かしやすくなったのではありませんか」
ハッキリ君が中年ゾンビの首に腕を回し、抱きかかえるようにして上体を起こした。ウーウー呻いていたのだが、首が繋がっていることを病的なまでに確認していた。
「あ、ホントだ。なんともないや。ギブスも取れていい感じ。しかも折れた首の骨、くっ付いてるよ。ラッキーチャチャチャ」
中年ゾンビが無邪気に喜んでいる傍で、赤シャツは外を注視していた。
「あ、あの二人、人間どもの前を通り過ぎたぞ」
ツルハシ女とセーラー服が、銃を構えた人間の前をスローに走った。飛んで火にいる夏の虫とばかりに、人間の男が発砲しようとしたが弾が出なかった。
「アハハ、あのバカ人間。弾がなくなったのにリロードし忘れてやんの」
弾切れだったために、二体の女ゾンビは撃たれることなく男の前を通過した。
人間だった時、セーラー服は活発過ぎる女子高生であり、ツルハシ女も鍛錬していた。双方とも筋力があったし、運動神経もよかった。
だがゾンビになってからは、それぞれの動きにキレがなくなってしまった。本人たちは素早く動いているつもりなのだが、せいぜい人間の半分くらいだ。生理学的に体温を維持できない身体なので、走ったりするほどの熱量を有していない。ネズミのようにすばしっこく走れるロリっ子は、例外中の例外である。
銃をもった人間はもう一人いるが、そちらはロリっ子を狩ることに夢中で、新たなゾンビの出現に気が回らない。
「おい、もたもたしてたら、撃たれっぞ」
人間の男が新たな弾倉に取り換えた。構えて女ゾンビたちの背中を狙う。だが、またもや銃弾は発射されなかった。
「バカが、今度はジャムってやがる。トロいヤロウだぜ、ざまみろ」
手入れが行き届かない銃は、肝心な時に役立たずとなる。扱いに不慣れなシロウトのようだ。
「な、なんだ」
赤シャツの充血した目ん玉が、クワッと見開いた。
「やべえぞ、おい。あいつ、チェーンソーを持ってやがる」
どこかに姿をくらませていた三人目の男が現れた。のっそりと歩いている女ゾンビの背後に迫っている。チェーンソーを手にしていた。
ブオーオオオン、とエンジンがかかった。男がアクセルを吹かすと、白い煙の中で硬質の刃が施されたチェーンが勢いよく回った。
「赤シャツさん、撃って」
鋭い指示だった。
「えっ、だってよう、人様を撃っちゃダメだって言ってたじゃんか」
「止むを得ません。このままではセーラー服さんの首が飛びます。あるいはツルハシさんかもしれません。最悪両方です」
「チッ、なんだよもう、テキトーだなあ」
「早く撃ってください」
「わかったよ」
「ダムダム弾でもいいですよ」
「そんなアニメチックな弾なんか、ねえよ」
赤シャツがライフルの引き金に指をかけた。スコープの十字にチェーンソーの男を合わせる。
「あ、それと赤シャツさん、みねうちでお願いしますね」
「みねうち?」
「そうです」
赤シャツは二秒ほど考えてから、さらに数秒考えた。
「意味わかんねえけど」
「人を殺さずに戦闘力だけ奪うのです。やってください」
「あんなあ、これは銃で日本刀じゃねえぜ。だから、みねうちとか無理じゃんって話だ。ゴムゴム弾でもねえし」
「基本は同じです。人間にできて、ゾンビにできないことはありません」
「いや、ふつうにゾンベには無理だろう」
無茶ぶりするなあと呟きつつ、射手は引き金を引いた。
赤シャツのライフルから放たれた銃弾は、チェーンソー男の真上に位置していた、いまにも崩れ落ちそうな看板の取り付け部分を直撃した。一瞬後、チェーンソー男が天を見上げると、計ったようなジャストタイミングで落ちてきた。
ぐしゃり、という音が聞こえてきそうだった。
支えを失った百キログラム近い直方体が、地球の重力に引っぱられるままに落下した。持ち主の手から放り出されたチェーンソーが路上に転がった。
「やりましたっ、人を撃ち殺さずに動きを止めました。さすが赤シャツさんです」
ハッキリ君が喜ぶ。人間を殺したくないとの思いは、彼の本心である。
「まあ、ざっとこんなもんよ。俺流みねうち、どうよ」
腐りかけているが、その得意顔にはキレがあった。
「素晴らしいです。赤シャツさんは伝説のスナイパー、シモ・ヘイヘ東郷の生まれ変わりです」
「へいへい、へ~い。俺様は伝説のSMスナイパーだぜ」
射撃の腕を褒められて、赤シャツは上機嫌だ。
「なあなあ、あれ、間違いなく死んでね」
のぞき窓から外の様子を見た中年ゾンビが言う。
「みねうちなんだから、そんなわけねえだろう。ドウテイはすっこんどけよ」
「だってほらあ、首があっちの方向むいてるし、道路に血だまりできてるし、身動きしなよ、あれ」
「ちっ」赤シャツが面倒くさそうに確認する。
ガックリと路上で膝をついている男は、首の骨が折れて左側にぶら下がり頭部から血を吹き出してた。チリと埃だらけのアスファルトに血液のサークルができている。細かい粒子が表面張力となり、こんもりとドーム状に溜まっていた。
「ほらハッキリ君、見なよ」
ハッキリ君も外を見た。
「まあ、大丈夫でしょう。たとえ死んでいても、どうせゾンビになりますので、家族の人には会えると思います。それよりツルハシさんとセーラー服さんを気にしましょう」
「えっ、いいのかいな。さっきは人類がどうちゃらこうちゃらって」
「ツルハシとJKがいねえな。どこ行ったんだ」
ロリっ子とライフルを撃ちまくっていた男の姿が見えないが、ツルハシ女とセーラー服もいなかった。
「お、出てきたぞ」
まずはセーラー服が現れた。どうやら木の陰に身を隠していたようだ。彼女を視認したライフルの男も出てきた。さっそく銃口を向けて、ゾンビを狩りにかかる。
「あぶない、撃たれる」
「大丈夫だ。あのバカ、まだジャムってやがる」
ライフルの手入れをおろそかにした男は、薬室内に銃弾を送ろうとまだ悪戦苦闘していた。そこへセーラー服ゾンビが音もなく近づいた。けして素早くはないが、相手は手元を見たままなので気づいていない。ガチャガチャと、しつこくやっていた。
「あ、ツルハシさんもきましたよ」
ツルハシ女もやってきた。トレードマークの掘削道具を両手で持って、のそりのそりと歩いていた。ようやく化け物たちの接近に男が気づいた。
「うおおお」という叫び声が室内にも響いてきた。ライフルの男は銃撃することを諦めたのか、銃身を握ってバッドのように振り回し始めた。そのままツルハシ女と対峙する。
ブッオオーーーーーン。
チェーンソーのアクセルが全開となり、真っ白い排気煙とともに甲高い音が響いた。男はまんまと陽動に引っかかったのだ。路上に放置されたその凶悪すぎる切断器を持っているのは、セーラー服である。
「おべゃや~」と意味不明な言葉を発し、その高速の刃を突きつけた。ちなみに、ゾンビ語は人間の言葉と互換性がない。両者の意思疎通は不可能なのである。
「うわー」と男が呻いている声が伝わってきそうだった。
セーラー服姿のゾンビが高回転域チェーンソーを持って、これ見よがしにぶん回しながら接近している。顔の皮があちこち破れ、地獄の鬼みたいな女子高生が迫ってくるのだ。
「おおおおおおお」
叫びというより悲鳴だった。
「ぎゃびょおおお」
セーラー服も負けじと喚く。二つの驚声が響き続けていた。
お互いの叫び合いは着地点を見いだせない。意思疎通が不可能というよりもチェーンソーの排気音でかき消されている。大声で叫びたくなるのだ。
男は、弾詰まりしたライフルを木刀代わりにして対決しようとしていた。対してセーラー服は、機械仕掛けの回転凶器をアクセル全開状態で振り回す。
「うっひゃあ」
勝負ありと悟った男が、セーラー服めがけてライフルをぶん投げて遁走した。
ブンッと空を切るそれをチェーンソーで受けようとしたが、なにせ動きが緩慢なので間に合わない。
「ゴエッ」
銃床部分を顔で受け止めて、後ろにひっくり返ってしまった。そのさいに持っていたチェーンソーが路上に落ちてしまう。
ビュビューンビューーーーーンビューーン。
エンジンがかかったままで、しかも落下の衝撃でアクセル機構が壊れてしまったのか、最高出力のままチェーンが高速で回り続けていた。さらに鋼鉄の爪刃が路面に引っかかり、勢いにまかせて自走し始め、あろうことか一直線に男を追いかけた。
「あひゃあ」
もの凄い爆音を響かせながら追いかけてくる切断機械を後ろ目で見て、男は跳び上がって逃げていった。
「さすがセーラー服さんです。相手を殺さずに遠ざける術を考え出しましたね。近頃の女子高生は頭がいいですよ」
「いや、偶然だって」
感心するハッキリ君とは対称的に、中年ゾンビは冷ややかだった。
パンパンパンと銃声が鳴った。
「うわ、撃ってきやがった」
赤シャツが頭を引っ込めた。つられてハッキリ君もしゃがむ。ただし、中年ゾンビはそのまま外を見ていた。
「こっちにじゃないよ。撃たれているのはロリっ子だ」
ロリっ子が路上を走り回っている。まっすぐではなく、足のスナップを効かせてジグザグ走行だ。足元で銃弾が跳ねて、土埃があがっていた。
「ロリっ子、うまくかわしていますね」
「まったくだ。あのガキ、ゾンビになる前はサルだったんじゃねえか」
「あんがい、忍者のゾンビに噛まれたのかもしれません」
「忍者のゾンビはいねえだろう、さっすがに」
「赤シャツさん、平穏だった世の中がこのようになってしまったんです。なんでもあると思いますよ」
少しの間があいた。空気の感じがなんとなく変わる。
「なあ、ハッキリさんよう。あんたらは前の世界でもヌクヌクと平和に生きてたかもしんないが、俺がいた世界は今とたいして変わらんよ。油断してたら、誰かに喰われるからな。骨の髄までしゃぶられて、見捨てられるんだ」
爛れた横腹を掻きむしりながら、赤シャツがしみじみと言った。
「ここにいる限り、誰も見捨てたりはしないですよ。命の続く限り、一緒なのです。私たちは、もう家族なんですよ」
「ありがとう、ありがとうなあ。俺よう、ひでえ施設育ちだし、ガキの頃から鑑別所やら少年院やらばっかで、あったけえ家庭なんて、夢のまた夢だったんだ。家族なんて言われたことなんて一度もねえや。泣けてくぜ」
チンピラゾンビが膿混じりの涙を流していた。
「赤シャツさんが悪いのではないのです。無能な政府や狂信的な役人、今だけ金だけ自分だけの金持ちがいけません。人類がゾンビに感染してしまったのも、きっとその人たちが仕組んだことでしょう。我々を醜いゾンビに変えて、自分たちは地下のシェルターで悠々自適に暮らしているのですよ。政府もゾンビとなっています」
ハッキリ君が政治的な話をすると、だらだらと長く続くことが常だ。難しい話になりそうなので、赤シャツがサッと話題を変える。
「ほんとにゾンビはおぞましいよなあ。まあ、俺はだいぶイケメンなゾンビだけれども」
「赤シャツさも、十分にゾンビしてますよ。いまや立派なゾンビです。客観的にみても十分に気持ちが悪いですよ」
「まあ、そんなに褒めても、なにも出ねえぜ」
ゾンビ顔が照れたように苦笑いする。
「なあ、お二人さん。ゾンビライクな人生を語るのもいいけど、ロリっ子のことを心配したほうがいいのではないだろうか」
中年ゾンビは、ハッキリ君と赤シャツの会話になるべく入りたくはないが、性的な意味で、か弱き子どもの危機は気になっているようだ。
「それは大丈夫です」
「ああ、もう終わってるからな」
「ほれ」といって、赤シャツが遠くのほうへ目線を投げた。
ロリっ子は、すべての銃弾をかわし続け、いまは電柱のてっぺんまで登り電線からぶら下がって一休みしている。撃ち続けていた男は弾切れとなって、地団駄を踏んで悔しがっていた。
彼は少女ゾンビを狩ることを諦めて歩き出したのだが、看板の角で潰された仲間を発見し、大声を出して驚いている。そこへツルハシを担いだ女ゾンビが接近したので、さらに大きな悲鳴をあげて逃げ去った。
「なんだよ、あっけなかったなあ。せめてロリっ子を捕まえて、パンツを脱がすとかやればいいものを」
ゾンビの脳内は特殊な化学物質に満たされている。いわゆる脳内麻薬というやつだ。その作用は、生肉に対する異常なまでの渇望が主体となる。
中年ゾンビも、意識が戻る前のゾンビの時は生肉への執着だけだった。だが人間性が戻ってきてからは他の欲望も沸き上がっていた。
性欲がそれであるが、引きこもりの頃からの性癖を引きずっているので、多分にロリコンである。とくに、ロリっ子くらいの年頃がジャストフィットであった。
「ん、なんかくるぞ」
遥か右の方向から、耳障りな音を立てながら何かがやって来る気配があった。
「新手のハンターでしょうか」
「エンジンっぽい音だから、車で来たのかもしれな」
やって来たのは、たしかにエンジンではあったが車ではない。もっと小さくて不吉なものだ。
「あれは、さっきのチェーンソーですね」
「一周して戻ってきたのかよ」
戻ってきたのはチェーンソーだけではなかった。少し前にチェーンソーに追いかけられていた男までもが一緒だった。
ゾンビの世界になったからではないが、自走チェーンソーも大概に狂っていて、操作する者がいないのに好き勝手していた。瓦礫にぶつかっては空中に跳ね上がり、電柱や街路樹や壁にぶち当たりながら、ピンボールのように弾けまくっている。
「うわーっ」と叫んでいるのは逃げている男だ。
自律性を見失った切断機が頭の上をかすめたり、足元を疾駆していた。ちょっとでも触れてしまえば大怪我は免れないし、下手をすると腕の一本や首の一つくらいは切り飛ばされてしまう。すぐ近くに女のゾンビが二体うろついていたが、それらを気にしている余裕はなかった。
セーラー服とツルハシ女も慌てふためいていた。暴走するチェーンソーは切れるものであればなんでもよろしくて、その肉が新鮮であるか少々腐っているのかを気にしていない。不死身に近いゾンビといえども、四肢の欠損は一大事である。
「おーい、女ども。逃げねえとヤバいぞ」
「セーラー服さん、ツルハシさん、急いで戻ってきてください」
板の隙間から、ゾンビが外に向かってギャアギャア喚いている。充血した眼がギョロギョロとしていて、淡黄褐色の目ヤニがいかにも不潔であり、傍から見れば気色悪いことこの上ない。気弱な小学生が見たならば生涯のトラウマとなるだろう。ホラー映画の宣伝に使えそうだ。
制御不能のチェーンソーが爆ぜまくりながらセーラー服へ向かっていた。すぐさま背中を見せて逃げにかかるが、いかんせん足が遅かった。汚らしいながらも後姿だけは女子高生なゾンビに危機が迫る。チェーンソーは路上に放置されていたタイヤホイールに当たって、真上に舞い上がった。
「あぶないっ」
血と膿と唾液が混じった臭い汁を飛ばして、ハッキリ君が叫んだ。横で見ていた中年ゾンビにその汁がかかる。ドブ川の岸辺で腐っている川魚のような悪臭がきつくて、くしゃみが止まらなくなっていた。「へーくしょんっ、って、こんちくしょう」
高速で回転するチェーン刃が頭上に落下してくる。セーラー服のゾンビは腰を極限まで屈めて避けようとするが、落ちていく方向に身を縮めても、コンマ数秒ほどの猶予が得られるだけで根本的な解決とはならない。
「こりゃ、やっべ」
赤シャツの目ん玉が眼孔からググッと押し出た。心配しているようで、何ごとかを期待しているようでもあった。
「はいやっ」
女子高生ゾンビの脳天がえぐられる刹那、ツルハシ女のツルハシが飛んだ。チェーンソーにぶち当たり、勢いよく弾き飛ばす。電柱に叩きつけられた回転機械は、最後に一唸りをあげてようやく止まった。
「ああ、よかった。間一髪でした」
「おしい、いや、よかったぜ」
電柱を伝ってロリっ子が地上に降りてきた。セーラー服とツルハシ女に合流する。三体のゾンビが意気揚々と帰ってくるかと思いきや、とんでもない行為を始めてしまう。
「あいつら、なにやってんだ」
「あ、ダメです」
ハッキリ君が叫ぶが、その声は届かないし、届いたころには手遅れだった。
「ああーっ、なにやってんだよ。食べちゃってるじゃないか。ずるいなあ。ぼくだって喰いたいのに」
三体のゾンビは、看板がぶち当たって死んでしまった男に噛みついていた。もちろん、恋焦がれてやまない生肉を味わうためである。
「あれは規約違反です。懲罰の対象となりますよ。看過できません。いますぐやめてください」
「いやいや、俺と教授にいったって始まらねえぜ。喰ってんのは、あそこにいる女どもなんだからな」
「わかっています。ちょっとその銃を貸してください」
赤シャツが許可を与える暇もなく、ハッキリ君が素早くライフルを奪い取って構えた。銃口は外に向かっている。
「まさか、仲間を撃ち殺す気なのか。それは、オー・マイ・ゴッドじゃねえか」
「ハッキリ君、いくらなんでもそれはヒドいよ。オバハンとクソ生意気JKは仕方ないけど、ロリっ子は貴重なんだからさあ、もったいないって。捕虜を殺したらジュネーブ協定違反になるよ。ゾンビ裁判だよ、ソンベ裁判」
「殺しはしません。足元を撃って目を覚まさせるだけです」
言い終わらないうちに、一発目が発射された。
「ギャッフン」と呻いて、セーラー服のゾンビがのけ反った。弾は背中を貫通してアスファルトの地面に突き刺さった。
「ナイスショット」
思わずそう口走った赤シャツが、慌てて首を振った。
「オイオイ、当たっちまったぞ。やべえんじゃねえか」
ハッキリ君が、照準器からいったん目玉を離した。
「まあ、大丈夫でしょう。みねうちですから」
死体の尻の肉に喰らいついていたセーラー服が立ち上がり、狙撃手のほうを向いて右手の中指をおっ立てた。食事中に撃たれたことに対しての抗議である。
「脳みそをぶっ飛ばさんかぎり死なんけどよう、見ているこっちがハラハラするぜ。その銃、あんまり当たらねえからよ」
「ハッキリ君、無茶はいかんよう。たまたま背中をぶち抜いたからよかったものの、ロリっ子の頭に当たっていたら取り返しがつかないんだよ」
「だから死んでいませんって。ノープロブレムです」
「お、あいつら、喰うのを止めたぞ。マズかったのかなあ」
「オッサンの肉は臭いからねえ。やっぱり少女がいいんだよ。国民的美少女を一回喰ってみたいなあ」
中年ゾンビは、じつはゾンビになってからまだ人喰いの経験がなかった。ゾンビの本領を発揮する前に、ここへ連れて来られたからだ。
「いや、違いますよ」
ハッキリ君は冷静に観察していた。
「どうやら感染速度が速かったようです」
「ああ、そういうことか」
「なるほどね」
女ゾンビどもに喰われていた男がゾンビに変化してしまったのだ。
ゾンビは同類の肉を喰わない。理由は定かではないが、本能がそう決めている。きっと、毒であることを知っているのだろう。
「帰ってくるみたいですね。よかったです」
食事を諦めた女ゾンビたちが住処に向かって歩き始めた。ロリっ子が飛び跳ねるように先頭を走り、あとの二人は足取りが重そうだった。
「おい、あんましよくはないんじぇねえか」
「あ、なんだあれ。あいつ、ついてくるぞ」
ゾンビが一体、セーラー服とツルハシ女の後をついてきている。たったいま生ける屍になったばかりの男だ。
「こっちに来るぞ」
「そのようですね」
女ゾンビたちは、背後のウォーカーに気づいていない。うつろな足取りで、我が家に帰ろうと急いでいた。
「あんなのが来たらやだなあ。ただでさえ食料が足りないのにさ」
「どうする、撃ち殺すか」
ライフルは赤シャツの手に戻っている。銃床に腐った頬肉をあてて、照準器に目ん玉を固定していた。
「やめときましょう。生き物をむやみに殺すのはいけません」
「なに言ってんだよ、ハッキリ君。ここに来られちゃダメだろうよ。さっきまでの敵であって、ロリっ子を殺そうとしてたんだよ。あんなのに情けをかけちゃいけないってさ」
「まあ、教授の言う通りだな。そもそもあいつは生きもんじゃねえし、人間でもねえから、いまここで頭を吹き飛ばしても、ここのルールに反することじゃねえや」
筋道としては、赤シャツの言うとおりである。
「あれは情報源ですよ。つい十分くらい前まではゾンビハンターの一人だったのだから、人間たちの行動パターンや作戦を熟知しているはずです。生かしておくほうがお得です」
「なるほどな、それも一理あるな。情報を制する者が戦いに勝つのは現代戦のセオリーだ。ウンウン」
赤シャツは、構えていたライフルを降ろした。
「いやいや、赤シャツさんまでなに言っちゃってんだよ。ほら、もう来ちゃうよ。相手はゾンビなんだから、撃ち殺しちゃえばいいんだよ。アメリカじゃあ、毎日やってるじゃないか」
「そんなに言うんだったら教授がやれよ。ほら」
赤シャツがライフルを中年ゾンビに押しつけた。存外に重たいそれを抱えて、中年ゾンビは目を白黒させる。
「ぼ、ぼくはね、こう見えても平和主義だから。非武装中立で牧歌的なゾンビなんだよ。好きな国はスイス、もちろん女の子はハイジだねえ。あとチーズにはうるさいからね。臭いやつほど美味いんだよ」
スイスは永世中立国であるが、非武装ではない。国民皆兵を維持するくらいの軍事力を有している。
「おめえの身体がいつもチーズ臭いのはそういうわけか。しかもよう、腐ったチーズだぜ。幼児のウンチと変わらねえぞ」
「し、失礼だなあ。いいですか、ホントに品質の良いものは意外と臭うんですよ。ワインだって、最高級品はネズミのオシッコとか表現されるんですから」
「チュー助のションベンはいいから、早く撃てよ」
「だ、だからぼくは永世中立国であってですね」
中年ゾンビがウダウダしている間に、女ゾンビどもが帰ってきてしまった。
「ちょっと、ちょっとさあ、誰よ、あたしを撃ち殺そうとしたのは。てか、また大穴が開いちゃったじゃないのさ」
ハッキリ君が撃ち込んだのは背中の中心だったが、弾が出たのは太ももからであった。膝の十五センチ上がえぐれていて、えらいことになっていた。
「教授っ、あんたかよ」
いまライフルを手にしているのは中年ゾンビである。極度に進行した歯槽膿漏を見せながら、女子高生ゾンビがキーッと睨んだ。
「いや、違う違う。うわー、違うって。なんだよこれ、冤罪じゃないか。こうやって無実がでっちあげられるから死刑制度には反対なんだよ。弁護団を呼んでくれたまえ」
「うっせー、おめえが死刑になれや。これでも喰らえ」
ぶひょ、と聞くも下品な屁をこいて、その腐ったガスを握った。怪訝な顔をしている中年ゾンビの前にゲンコツを突き出して、パッと手を開いた。
ふわっと、と悪臭が放たれた。
「うっわ、くっさ。オエー。なんだよ、これは。腸が腐ってんだよ。女ゾンビって、腸がおかしくなってるのが基本かよ。ビフィズス菌飲んだほうがいいって」
中年ゾンビがキリキリ舞いになっていた。セーラー服はケラケラと笑っている。
「あの走り回るチェーンソー、生きてるみたいだった。いよいよハルマゲドンな世の中になってきたんだわ。こわいこわい」
ツルハシ女がしみじみと言う。その後から、ひょっこりと顔を見せているのはロリっ子だ。
「この子、なかなか再意識化しないのよねえ。なんでかしら」
ロリっ子が走り回りそうな気配を示している。また外に出られたらたまらないとハッキリ君が押さえにかかるが、その前にツルハシ女ががっちりと掴んだ。少女と同じ目線までしゃがみ、腐った顔を突き合わせた。
「ロリっ子ちゃん、お外はね、とっても危ないの。恐ろしい人間たちがいっぱいなんだから。だからお家の中で遊びましょう」
「ロリっ子に、なに言っても無駄だよ。バカなんだから」
中年ゾンビが茶々を入れる。ツルハシ女は無視した。
「そうだ、ロリっ子ちゃん。ボーリングをやりましょうか」
「だからあ、バカなんだから言っても無駄だってさあ。その子は役立たずなんだよ。ロリをやるしか能がないんだから。パンツなんか脱がせばいいんだ」
ハッキリ君が何ごとかを言おうとしたが、その前にセーラー服が動いた。
「な、なんだよ。やるのか」
スケバンに狩られると脅えた中年ゾンビが、ファイティングポーズらしき姿勢で構える。
「教授、これあげる」
といって、握った手を差しだした。
「え、なに。また、にぎりっ屁じゃないのか」
手が開かれた。
中身は空虚でメタンちっくなガスではなくて、しっかりと実態がある黒い物体であった。しかも、少しばかり蠢いている。
「ええーっと、たしかこれは」
それは中年ゾンビの顔に飛び移り、肉がふやけてやや広くなった鼻の穴へもぐりこんでしまった。
「あひゃ、ゾンビゴキブリじゃないか。うっわ、鼻の穴にはいった」
この世界では、哺乳類だけではなくて鳥類や虫ケラなどもゾンビ化することがある。動物や鳥は避けやすいが、小さな虫は厄介だ。どんな肉でも喰い進もうとする。中年ゾンビがフンガフンガと鼻から空気を出して、必死になってゾンビゴキブリを追い出そうと奮闘している。
「ねえ、ロリっ子ちゃん。わかったかな」
ツルハシ女が諭すように語りかけると、ロリっ子が二度ほど頷いた。中年ゾンビを除く全員の顔が、少しばかりほころんだ。
「よーし。じゃーね、お姉ちゃんと鬼ごっこしようか」
セーラー服が足踏みをすると、うふふ、うふふと嬉しそうな表情になった。
「ねえ、この子、反応してるよ。あたしの言ってることがわかるんだよ」
「セーラー服ちゃんが好きなのよ」
「ここに来れば、気持ちだけは人間に戻るんだ。ロリはよう、ちゃんこいから、ちっとばかり時間がかかるんだよな」
「そういうことですね。ゆっくりと見守りましょう。それと皆さん、これだけは言っておきます。たとえ再意識化しなくて、ロリっ子は家族なのです。役に立たないから不必要とか、追い出してしまえとか、そういうことにはなりません」
「おうよ、その通りだ。やっぱ責任者はいいこと言うぜ」
「大丈夫よ、ハッキリさん。ここにいるみんなは、誰かさんを除いてそう思っているから」
「ロリっ子を追いだそうとするバカは死ねばいいのに」
冷ややかな視線の先には、ゾンビ化したゴキブリに副鼻腔内を喰い荒らされて悶絶している中年ゾンビがいた。
「ハヒハヒハヒ」と上下左右に首を振って、顔の内部で暴れているパラサイトを追い出そうとしていた。
中年ゾンビは首の骨が折れているので。頭部はよくしなった。百回以上振り回すと、ゾンビゴキブリがようやく体内から排出された。
「ふう、死ぬかと思った。にしても、なして尻なんだよ」
ただし、尻からであった。半ケツを露出して、割れ目の空洞を手で仰いでいる。
「鼻から入った虫が尻から出てくるとか、教授らしいイリュージョンだわ」
「こういうところはミラクルなんだから」
女ゾンビたちが呆れている。
「セーラー服さん、ああいうマネは止めてくれないかなあ。ぼくは君と違って善良な一般市民なんだからね。ゲテモノ好きの不良高校生とは一線を画しているんだよ」
「不良って、あたしのおじいちゃんの時の言葉じゃん。古っ」
セーラー服がせせら笑う。中年ゾンビは、ブヒッと、下の口から咳ばらいをしてから話を続ける。
「それにさっきの話だけども、ぼくはロリっ子を追い出そうとは言ってないよ。そんなもったいないこと思うわけないじゃないか。ただね、応分の負担もできないのに食事だけは一人前って、それはないだろうという話なんだよ」
ロリっ子が中年ゾンビの前にやって来た。
「な、なんですか」
なにかされるのではないかとへっぴり腰の中年ゾンビに、その少女ゾンビは握った手を差しだした。
「ゴキはいらないですよ、ゴキは」
ひるむ相手に遠慮することなく、小さな手が開かれた。
「ええーっと、なんだ。指?」
指であった。第一関節から上の爪がある生指である。幼いゾンビ顔がキャッキャと笑いながら、手のひらをしきりに見せるのだ。
「こで、こでえ、あげるう」とロリっ子が言った。
「?」
「教授にプレゼントでしょう」
「プレゼント? ぼくに」
思いもよらぬ贈り物に、すえた臭いのする警戒心が溶かされていた。
「母ちゃん以外から何かをもらうのは初めてだ」
中年ゾンビはそれをつまんで、しげしげと見つめていた。
「おいしそうな指じゃんか」
「ちぇ、いいなあ」
中年ゾンビは、それを喰ってしまってよいものなのか戸惑っていた。もしダメなら、記念に取っておこうかと考えている。
「教授、早く食べないとみんなに取られちゃいますよ」
「え、だって、人肉を喰ったらダメなんだろう。議事録に残されてもなあ」
「それはサルの指ですよ」
まごうことなき人間の指であるが、責任者はサルだと言う。
「うん、まあ、そうか、そういうことだな。では、いただきマンモス~」
ポイっと口の中に放り込んで、ガリガリと咀嚼する。右に三十度ほど傾いだゾンビ顔が、ほっこりと微笑んだ。
「うまい。母ちゃんが作ってくれた鶏ナンコツ炒めを思い出すなあ」
中年ゾンビの様子を見て、ウキャキャとロリっ子が奇声をあげた。
「あ、こらこら、やめなさい。くすぐったいでしょう。やめさなさって」
小さな身体が中年ゾンビに抱きついた。なにがうれしいのか、しきりにまとわりついている。
「ねえねえ、ロリっ子がなんか言ったのって、初めてじゃない。これって事件でしょ」
「そうねえ、言われてみればそうだわ。あげる、ってちゃんと言ってたわ」
ロリっ子が意味のある言葉を発したのは、これが初めてだった。
「だから、俺がさっき言った通りだ。ロリっ子はなあ、ガキな分だけ目覚めるのに時間がかかるんだって」
「あんがい、教授の存在が再意識化を促しているのかもしれませんね」
「敵の存在が自らを高めるってやつだな」
「早く正気に戻らないと、ロリコンにイタズラされちゃうもんね。もう、キモ」
ロリコンを心底嫌っているツルハシ女は、さもイヤそうな顔だ。
「もしそんなことをしたら、俺が脳天ぶち抜いてやるよ」
おそらく、赤シャツなら躊躇なくそうするだろうと誰もが思っていた。
「そんな心配はないようですよ」
「アハハ、ひょっとしていいコンビになるかもね」
ロリっ子の子供らしいじゃれ付きに、中年ゾンビはまんざらでもない様子だ。ぎこちないスキンシップだが、本物の親子のようであり、もし肉が腐りかけたゾンビでなければ心が和む光景となっただろう。
「さあ、鬼ごっこだぞう」
鬼は中年ゾンビであるので、ロリっ子はキャアキャアと黄色く叫びながら逃げ回る。室内を三周半したのち、二体とも廊下へと出て行った。
「あのオッサン、ニートしてなきゃあ父親になってたんかなあ」
「ニートじゃなくたって、父親になれない人がたくさんいるからね。たぶん、一生やもめよ」
「ツルハシ姉さん、やもめってなんだよ」
「やもめはやもめよ。鳥のことよ」
「それ、カモメだろう」
「カモメは独身の雄が多いから、そういうことよ」
「ふ~ん、そういうことかあ」
再意識化しても、知能が元通りになったわけではない。やもめは配偶者を失くした男を揶揄したものだ。ハッキリ君は知っていたが、わざわざ指摘することはしなかった。
「うおー、なんだっ」
突然赤シャツが叫んで、即座にライフルを構えた。そこにいた皆が部屋の入り口に注目した。
「ゾンビだーっ」
ゾンビがいた。
見知らぬゾンビが一体、ゾンビらしく虚ろな目を泳がせながら入ってきた。ウーウーと唸って、腐った血混じりのヨダレをたらしている。
「撃っちゃダメです、赤シャツさん」
あとコンマ数秒まで引き金を絞っていたのだが、寸前のところでハッキリ君に制止させられる。
「なんでだよっ。ゾンビの襲撃なんだぞ」
「たしかにそうですが、我々もゾンビです」
射手はキョトンとした表情である。そして、なにかに気づいたようだ。
「それもそうだな」
「ねえねえ、こいつさあ、さっきの人間だよ」
「そうそう。落ちてきた看板の角で死んだ人だ。ちょっと食べたから、なんか気まずいわ」
侵入してきたゾンビは、後頭部の髪の毛にべっとりと血が付いていた。頭蓋が骨折しているだけではなく首が傾いており、さらに目の下の皮膚がえぐれている。ツルハシ女が噛みついた箇所だ。
「コイツ、頭が割れてるみたいだけど、もうじき死ぬんじゃなねえのか。教授みたいに首もひん曲がってるしよう」
「どうでしょうか。脳みそをやられているのだったら、ゾンビになる前に本物の死に至っているはずですからね」
「生きてるってことは、ミソはヤラれてないんじゃね、ミソは」
「セーラー服ちゃん、ゾンビはそもそも死んでるんじゃないの」
「ああ、そうか。ゾンビは死んでるんだった」
部屋の中に入ってきたゾンビが立ち止まった。あくまでもゾンビらしい血の気の失せた顔で皆を見ている。
「コイツ、ガンつけていやがる。俺たちに文句でもあんのか。ぶん殴ってやるか」
「わたし、ちょっと食べちゃったから怒ってんのよ」
「ああ、それだったら、あたしも齧っちゃたよ。ごめんちゃい」
相手がゾンビであるので、当座の危険性はナシと判断されている。人間の出現時と比べると、のんびりとしていた。
「で、コイツどうするよ。邪魔くせえから脳ミソを吹き飛ばしてやろうか」
「このゾンビ、さっきまで人間だったのよ。だから、あいつらの情報を持ってんじゃないの」
「ツルハシさん、いいところに目を付けましたね」
この新参者を死なせたくないと思っていたハッキリ君は、絶好の理由を得た。
「責任者としての提案ですが、この方をここに迎え入れてはどうでしょう。しばらくして再意識化すると話せるようになります。その時に人間側の意図や人数、配置を訊きだせると思います」
一瞬、場の空気が静まった。当該ゾンビも空気を読んで、ウーウー唸ることを一時中断している。
「いいんじゃね。ハッキリさんに賛成」
「きっと、いい情報を持ってるのよ。賛成」
「人間どもの武器を詳しく知りたいぜ」
責任者の提案は、好意的に受け入れられた。
「うっわ、なんだ。ゾンビの襲来か」
中年ゾンビが戻ってきた。部屋の真ん中で立ちっぱなしのゾンビが、その傾いた頭部をブンと振る。血走ってはいるが、腐った魚のように死んだ目が睨みを効かせた。
「教授、紹介します。新たな家族になりました新ゾンビさんです」
「家族って、これが。ウソだろう」
中年ゾンビは、自分に対してガンをつけてくる新ゾンビをマジマジと見る。傾いだ頭部同士がメンチを切り合っていた。
「家族ったって、臭いよ、これ」
「教授も臭いから心配いりません」
「そういう問題じゃないと思うんだけど」
ロリっ子も戻ってきた。子供が珍しいのか、新ゾンビがしげしげと見下げている。ロリっ子は中年ゾンビの太ももにしがみ付いて、その陰に隠れた。
「このゾンビ、ロリコンなんじゃないのか。目つきが小児性愛者のそれだ。駆除しよう」
早く撃て、撃ってと、中年ゾンビが赤シャツに目配せする。
「おそらく子供がめずらしくて、反射的に反応しているだけでしょう」
「おうよ。ドタマぶち抜くのは、コイツが再意識化して人間どもの情報を訊き出してからでも遅くはねえ」
「人間の情報って、なんのこと」
さっき話し合っていたことをハッキリ君が説明した。
「そんな情報訊きだしたって、どうにもならないじゃないか。だって、ここから出ないんだから」
元ニートの中年ゾンビの考えとしては、ずっと建物の中にいるという設定だった。
「あのね教授、チャンスがあれば外に出て、もっといい場所を探せるでしょう。仲間だっているかもしれないし」
「仲間はいないよ。ゾンビはウヨウヨしてるけど、みんなバカゾンビだって」
「いいえ、教授でさえ再意識化できたんだから、他にもいるはず。みんなで集まって知恵を出せば、ゾンビハンターに対抗できるでしょう。数は力なりよ。ゾンビ映画をみたことないの」
「そういう低俗な映画はみないよ。てか、ぼくでさえってどういう意味だよ」
「ニートゾンビだったのに、ちゃんと喋れるようになったじゃないのさ」
「ぼくには素質があったんだよ。前世は特殊部隊だったんだから」
「教授の素質はロリコンだけでしょ。ドウテイなのに」
「ちょ、ちょ、ツルハシ君ねえ、いくらなんでも失敬すぎるよ。なんだよ、もう。殴るぞ」
めずらしく中年ゾンビがイキっていた。ツルハシ女に詰め寄り、傾いた顔で睨んでいる。
「なによ、やってみなさいよ」
「おお、やってやるう」
「ツルハシ姉さん、まあまあ」
セーラー服がツルハシ女を制し、ロリっ子が中年ゾンビの足を引っ張った。赤シャツが何か言い、責任者がこの場をおさめるよう求めた。
「お二人さん、落ち着きましょう。とにかく、この方は今日から家族の一員です。仲良くしてください。それと人としての意識が戻ったら、いろいろと訊いてみましょう。どうするかは、そのとき話し合います」
これ以上二体を放っておくと、キレたツルハシ女が中年ゾンビの脳天をぶっ刺す危険性があった。ハッキリ君は、責任者らしく議論をはっきりと終結させた。
「では、きょうのミーティングはこれにて終了です」
解散が宣言された。ゾンビたちがのそのそと動き出して部屋を出る。新たに加わったゾンビは、うつろな表情で部屋の中をウロついていた。
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