5

 あいつを殺したのは失敗だった。

 まさか、ゾンビ集団の襲撃があるなんて思いもしなかった。私はただ、この場所を離れたくなかっただけだ。だって、そうだろう。この腐りきった世界にゾンビの楽園があるなんて信じられるか。ほかで奇跡は起こらない。再意識化できたのはここにいる者たちだけであって、神に選ばれたのだと確信していたんだ。

 赤シャツが二階の非常口付近で騒いでいる。火炎瓶を持っていたので心配だったけど、室内へ炸裂させてはいないようだ。おそらく、非常口のドアを開けて外にいる襲撃者たちへ投げつけたのだろう。騒がしさと焦げ臭さとライフル男の奇声が、ここまで流れ落ちてくる。

「これって、やべえんじゃね」

「赤シャツさん、大丈夫なの。殺されたりしない?」

 セーラー服さんとツルハシさんが赤シャツを心配している。彼は好戦闘体質なので大丈夫だろう。

「ここは危険ですから、ひとまず機械室に退避しましょう。隠れるんです」

 ゾンビパーク・ヨダの連中に捕まったら、なにをされるかわかったもんじゃない。こっちには女子供がいるし、広い場所で自由に動かれては不利になる。機械室は身を隠す隙間がたくさんあるし、あいつらはゾンビだから素早く動けない。スキをついて逃げることもできる。

「さあ、早く」

 ツルハシさんとセーラー服さんを連れて進むが、二人の足取りが重い。

「隠れるよりも、警備員さんを殺した犯人を突き止めましょうよ。そいつを差し出せば、襲撃はなくなるんだから」

 あの警備員を殺すには骨が折れた。後頭部にナタを叩き込んだので、その一撃でこと切れるはずだったが、思いのほかしぶとかった。頭蓋から鉄臭い血しぶきを撒き散らしながら私にすがってきた。フラれた恋人にしがみ付くような、未練タラタラな抱擁だった。

 あの時、あいつのパックリと割れた肉の地溝を目の当たりにして、なぜか気持ちが高揚してしまった。瞬間的な快楽がどうにも心地良くなって興奮した。まるで、頭の中に麻薬が注入された感じだった。

「ツルハシ姉さん。そんなこと、もうどうでもいいっしょ。こうなったらやるしかない。あいつらをぶっ殺してやるんだ」

「そんなのダメだって。こっちには小さい子共もいるんだから。ロリちゃんがたいへんなことになっちゃう」

 足のくるぶしのあたりを叩き切ってやった。ゾンビのくせに、あいつはさも激痛であるかのようにふるまっていた。うめき声が洩れると面倒なことになるので、靴の先を口の中へ突っ込んでやった。それからロープで縛りつけて身動きできなくした。足の先端から少しずつ、こそげるように削ったんだ。足首まではナタでいけたが、それ以上は刃が通らなくて難儀した。

「ツルハシ姉さん、あたしらは攻撃されてんだ。ヌルいこと言ってたら、あいつらにさらわれてバラバラにされてしまうよ」

 あの警備員は、ゾンビのくせに真っ赤な血を、生ぬるくて鉄臭い血をシャバシャバとたれ流した。ゾンビのくせに人間みたいにのたうち回って憎たらしかった。暴れられ藻掻き続けられるほどに憎悪の気持ちが昂った。

「なあなあ、ロリがいないんだよ。電話をとりに二階へ行ったのかなあ。非常口に行ったら危ないよなあ。赤シャツさんが火炎瓶投げてるからなあ」

「教授はどうなのよ。ここまでナメたことされて黙ってられないじゃん」

「ぼくは平和主義者だから戦いは望まないんだよ。家族団らんが一番なんだ」

「家族団らんとか、そんなのあるわけないじゃん。バカ母親はパート先のクソデブ店長に抱かれてウッキウキだし、クソオヤジも女のとこにいて家に帰ってこねえし、家族なんてどうでもいいわ。バッカじゃね」 

 悪臭だらけのゾンビなはずが、やつの血肉は意外とみずみずしくて新鮮な感じがした。煮凝りみたいな血液ではなく、生温かですべすべしていたんだ。

「セーラー服君ちの事情は知らないけどさ、ぼくはこう見えても家庭人なんだよ。ロリとご飯を食べるし、旅行にも行くんだからさ」

 ここは聖域なんだ。私が見つけ、私が築き、私が維持し続けた。人類のほとんどが腐った肉塊のバケモノとなって徘徊している世の中で、唯一文化的な生活をおくれる場所なんだ。

 それなのにノコノコと、正体不明な連中の懐に飛び込むなど論外だ。きっと強烈に差別されて、野良犬以下の奴隷的な扱いを受けるに決まっている。現に、殺人部隊を私の家に踏み込ませ、家族たちを連れ去ろうとしているではないか。

「ハッキリ君、ツルハシさんの言う通りだよ。警備員の人を殺したやつを渡しちゃえば、ぼくたちは平和に暮らせるんだ。ケンカしなくていいんだよ」

 私はここを離れないし、この施設を放棄つもりもない。また逃げてしまう者に、いかなる気づかいも無用だ。そいつらは、いわば裏切り者なのだから。

「戦うしかないっしょ、ハッキリさん」

「いいえ、交渉するのよ。犯人を引き渡すと言えばいいの。それでわたしたちは助かる」

 遠くから怒声が聞こえてくる。やや嗄れ気味ではあるが、赤シャツの闘争本能に火が点いて、高温高圧の蒸気を吐き出し続けているんだ。なんと勇ましく壮烈な心意気だろう。まさしく、私の家にふさわしい戦士だ。

「わかりました」

 私は、ツルハシさん、セーラー服さん、教授の顔を見つめて頷いた。三人とも、やや間をおいてから頷き返してくれた。

「私は犯人を知っています」

 パタパタとした足音が近づいてきた。小さな女の子が私たちを一周してから、中年ニートの汚れた太ももに抱きついた。教授のニヤけた無精ヒゲ面がウザッたらしい。

「ハッキリさん、どういうことよ。犯人を知ってたの」

「ちょ、そんなことよりも、ヨダだかオタだかの連中をやっつけなきゃ」

 全員が揃ったところで話をすべきだと思った。

「二階へ行きましょう。そこで話します」 

「じゃあ、赤シャツさんが」とツルハシさんの目線が鋭くなり、「チッ」とセーラー服さんが舌打ちした。

「でも、上は戦闘中じゃないか。ぼくは賛成できないなあ。だって子供連れだからね」

 教授はロリっ子の頭をなでている。少女も悪い気がしないのか、ときおり見上げては笑顔を見せていた。こんなエセ教授のどこがいいのか。子供の心はつかみどころがない。その挙動はつねに理解の外にあって、たいていはイライラさせられる。ときどき、憎たらしくて仕方なくなる。

「じゃあ行きましょう。どうしてあんなに惨いことしたのか、訊いてみるわ」

「そりゃあ、赤シャツ君だからね。あの見てくれと同じで中身も真っ赤に焼け爛れてるんだよ」

 ロリっ子を先頭にして、私たちは二階の非常口へと向かった。ところが階段に一歩足をのせたところで、黒いヘルメットを被った者たちがバタバタと駆け降りてきた。

「ロリちゃん」とツルハシさんが後ろで叫び、私が少女を抱きかかえた。襲撃者たちの足が止まった。

 ズドンと音が突き抜け、先頭の頭から血が吹き飛んだ。一瞬棒立ちになってから棒のように倒れた。もう一人が慌てて振り返るが、やはり頭から血を飛び散らかせて倒れた。まさに、とばっ血りがロリっ子の顔にぶっかかって、少女は呆けたように斜め上を見ていた。

「火炎瓶でドアの外を燃やしたから入って来ねえと思ったけど、ぬかったぜ。炎の中に突っ込んできやがった。{ビッチ無修正・エロ}のやつら、クソ度胸があるぜ」

「ゾンビパーク・ヨダですね」

 ヨダの兵隊たちは、赤シャツさんのライフルで頭を撃ち抜かれて死んだ。ヘルメットを被っていたが、近距離から発射された銃弾は強力で、やすやすとぶち抜いてしまった。

「まだ入ってくるんじゃないの」

「いや、いま突っ込んできたやつらが最後だ。ほかに気配はない。まあ、どこか近くで見張ってるんだろうけどな」

 頭を撃ち抜かれた侵入者たちは、階段の傾斜に沿って下向きに倒れていた。赤シャツさんが衣服をまさぐり、所持品を物色していた。

「こいつら、スタンガンに拘束バンド、催涙弾まで持ってやがる。お、これはチャカじゃねえか。シグか、はじめて見たぜ。ロシアの安物とは違うな」

 死んだ二人は拳銃を持っていた。黒の金属光沢が重々しいそれは、スイス製のオートマチックハンドガンだ。

「教授、試し撃ちするから、ちょっと腹出しててくれや」

「イヤだよ。なしてぼくが実験台になるのさ。不条理すぎるよ」

 どれほどの威力があるのか、赤シャツさんはぶん取った戦利品を試してみたいようだ。 

「ねえねえ、このゾンビ、ちょっとイケメンじゃね。なんとなく、顔につやがあるような感じがするし」

「んなわけねえだろう。俺たちと同じでふつうに汚ねえゾンビ面じゃねえか」

 しゃがんで襲撃者の顔を覗き込んでいた女子高生の指が、血まみれの頬をツンツンと突いていた。

「いや、血色いいよ。いいもん食ってんじゃね」

「んなもの、こうだっ」

 女子高生の行為に苛立ったのか、赤シャツさんがキレてしまった。右足に力を込めて勢いよく蹴ると、血だらけのヘルメットが空を飛んだ。それが女子高生のマネをしてのぞきき込もうとしていた教授の顔面にぶち当たった。至近距離だったために、パッコーンといい音を響かせてひっくり返ってしまった。

「ちくしょう、クソが。こうしてやる、こうだっ、死ね死ね」

 蹴っているというより踏み潰していた。ただでさえ頭を撃ち抜かれて中身が漏れ出しているのに、癇癪持ちな激情男の蹴りによって頭部が徐々に変形し、そして渾身の一撃で砕け散った。よく熟れたスイカを叩き割ったように、赤い液体と白子のような破片が飛び散った。ちょうど教授が立ち上がろうとしていて、少なからずの飛沫を浴びてしまった。

「うひゃっ。ぼくの足に脳みそついちゃったよ。これは悲劇だよ。きっと夢に出てきて悩まされるんだ。PTSDだよ、CCCPなんだ」

「教授、最後のほうがソビエト連邦になってるじゃないのさ。てか、そういう話はどうでもいいでしょう。赤シャツさんも興奮しないでよ、大事な話があるんだから」

「なんだよ、ツルハシ。大事な話って」

「ハッキリさん、もうここで決着をつけてしまいましょう」

 ツルハシさんが私を見て、厳めし表情で頷いた。彼女の腐った目力が強すぎて、直視に堪えない。もっと落ち着いた場所で話し合いたかったのだが、その余裕はなさそうだ。

「じつは私はエージェント伊藤を惨殺した犯人を知っているのです」

「え、マジか」

 赤シャツさんの驚いた顔が間抜けに見えた。

「それで誰なんだよ。やっぱ教授か。ケツ洗いを見つかって激情に駆られたとか」

「ぼくじゃないよ。尻を見られたくらいで殺人をしていたら、もう百人ぐらいは殺してるからね」

「教授さあ、どんだけ見せたがり屋なんだよ。ヘンタイオヤジじゃん」

 侮辱されているのに、教授はなぜか胸を張っていた。

「フン、白々しいわ」と、ツルハシ女の鼻息が荒い。赤シャツさんに敵意の目を向けた。

「犯人はあなたです、ツルハシさん」

 私は言ってやった。よどみなく確信を込めてである。

「はっ?」というのが、彼女の反応だった。いきなり思いもよらぬことを言われて考えが間に合わないのか、キョトンとしたまま私を見ていた。

「ちょ、マジかよ。ツルハシ姉さんが犯人だったのか」

「うおお。衝撃の真実がまた銀河に一ページ。いや、ハッキリ君に言われなくともね、ぼくもそう考えていたけどさ」

 教授はイチイチうるさい。こいつに濡れ衣を着せてもよかったか。いや、かえって面倒なことになるだろう。

「ちょっと待ってよ。どうしてわたしが犯人なのよ。疑いはとっくに晴れているでしょう。赤シャツさんが犯人だって、さっき言ってたじゃないの」

「赤シャツさんは行動で無罪を証明しています。ゾンビパーク・ヨダの襲撃者と戦っているのですから」

「こいつら、いつでもぶっ殺してやるぜ」

 ライフルの銃口に息を吹きかけ、ニヤリと笑みを浮かべる。客観的に見て気色悪いが、私的にはいい面構えに見えた。

「あの警備員ゾンビは敵国のスパイでした」

「敵国って、どこさ」

「{スケスケパンティー・シミ}のことだよ。ったく、最近の女子高生は常識がないなあ」

「あたしのパンツにシミはないからね。まあ、たまにイキッたりしたら、ちょっとチビッたりするけど」

「潜入したゾンビパーク・ヨダのエージェントにそそのかされて、我が共和国を売り渡そうとしたのは、ツルハシさん、あなたです」

 これはまんざら虚偽というわけでもないだろう。私があの警備員を殺さなければ、ツルハシさんは確実に寝返っていた。得意の口八丁で皆を扇動して、ここを出ていくつもりだった。

「まってまって、それっておかしいでしょう。ハッキリさんの言う通りなら、外に出たいわたしが、外に出してくれそうなエージェントを殺すわけないじゃないの。これって前にも言ったよね。何回も言ってるよね」

「そうと見せかけてからの~、っていうのは殺人事件にありがちなパターンだよね」

「中年ニートは口を挟まないでよ。殺す動機の話をしてるんだから」

「んなもん、痴情のもつれとかアソコが臭かったとか、なんぼでもあるんじゃねえか」

 赤シャツさんの目が据わっている。ただでさえ激情傾向な性格なのに、いまは人を撃ったばかりなので興奮しやすくなっているんだ。

「あの警備員さんとわたしが痴情とかありえないでしょう。それと臭いのは、みんなにもいえるからね」

 このまま、この女に罪を被せることにする。なにかと邪魔な存在になる前に無力化しておくんだ。

「あのエージェントは、ここに残るという我々の強固な意志を受けて、連れ出すことを諦めていました。その弱気を見たツルハシさんはカッとなって、ツルハシで殴り殺したんです」

「なるほどな。こいつがいつもツルハシを持っているのは、いつでも殺しができるからか」

「あんただって、いっつも銃を持っているサイコパスのジャンキーじゃないのさ」

 充血した切れ長の目が、同じく充血した目ん玉を睨みつけていた。

「いやいや、さすがに展開が急すぎるし、なんかおかしいよ、これ」

 教授も邪魔になってきた。まあ、この手合いは暴力にはからっきし弱いから、あとで痛めつければいい。それよりも先にやらなければならないことがある。

「殺人犯には罰を与えます」

 共同体を維持していくためにも、秩序を乱すものには厳罰を科さなければならない。

「ちょっと、なによ。いきなりヘンなことを言わないでよ」

 彼女の顔から血の気が引いて青ざめている。これからなにをされるのか察知したようだ。

「当然だな。で、どうする。ぶっ放すか」

 ライフルを構えた赤シャツさんに対し、女は手にしたツルハシを突き出して必死の形相だ。

「いいや、殺すのはいつでもできます。まずは苦痛を与えて反省を促してみましょう」

「というと、なにをするんだ」

 赤シャツは、もうわかっているはずだ。 

「足首を切り落とします」

「ま、そうなるわな」

「おいおい、ハッキリ君。それはさすがにダメだろう。拷問はグロいし、痛々しいよ。映像化したら即バンだ。ジェノサイドは戦争犯罪だよ」

「我々はゾンビなので、そういう姿になっても、見かけはそれほど変わりません。バラバラにされたあのエージェントに比べると、良心的な処置です」

 後ろから近づいていた女子高生が、ツルハシさんの手からツルハシを奪取した。持ち主が慌てて取り返そうとするが、赤シャツさんに髪の毛をつかまれて床に押しつけられた。

「おい、ハッキリ、俺が押さえてっから早くやれよ。ナイフでやるより、鋸で引いたほうがいいぜ。骨まで断ち切れるからな」

 指摘されるまでもなく、ノコギリでやるつもりだ。再発を防ぐためにも、罰は少々やり過ぎなほうが効果的なんだ。

 錆びついて引きづらくなった両刃のノコギリがある。これで苦痛を長引かせることができる。骨が切れそうになかったらハンマーで叩き折ればいい。背骨の髄まで激痛が突っ走るように、少しずつヒビを入れてやるんだ。家族を裏切った者には相応しい懲罰だろう。

「ハッキリ君、ひとまず落ち着くんだ。仲間割れはよくないよ。ツルハシさんは奥さんじゃないか」

 ぶん殴ってやった。拳の硬いところが教授の鼻頭を潰したので、血がドバドバと吹き出した。ノートな中年が両手で顔面を覆って床を転げ回っている。そこに馬乗りになって、左手の甲をガシガシと打ち据えた。徐々に拡がる指の隙間から、血と涙と鼻汁が漏れ出している。驚愕した目玉がオイオイと泣いていた。

「おい、ハッキリよう、いいかげんにしねえと、そいつの首の骨がポッキリ逝くぜ」

 こいつはゾンビなので首の骨が折れたくらいでは死なない。いくらでもぶん殴ってもいいんだ。

「そんなオッサンなんてほっとけよ。早くババアの足を切れって。そいつが死ぬほど憎たらしいんだろう。やるなら片方だけじゃなく両方のほうがおもしれえ」

 茶髪の女子高生がせっついてくる。まだ十代のくせに狂った眼光がぎらついていた。

「これは仕方のないことなんだ。おまえが家族を見捨てようとしたのだからな」

 何度も何度も、出て行ってはダメだと忠告したじゃないか。私の本気を甘く見るから痛い目に遭うんだ。

「家族を見捨てたのは、あなたじゃないの」

 いまの発言は無視した。

 くるぶしの少し上にノコギリの刃をのせた。ツルハシ女は無口になり、体温を感じさせない目線で自分の足を見ていた。

「その目はやめろ。仕事で疲れきっているのに家でシカトされるのはたまらない」

 熱量を失った瞳は私を見ない。テレビの音量を無駄に上げるのが癪にさわる。娘の前では、その気がなくとも夫婦の体裁を繕わなければならない。亭主を邪険にする態度は慎むべきなんだ。

「オッサン、早くやれよ。なんなら、あたしがやるか。一回マジで人をバラバラにしてみたかったんだ」

 女子高生が妻を羽交い絞めにした。赤シャツさんも太ももをガッチリと掴んだ。切断の準備が整った。 

「だめー。ダメダメダメー」

 ロリっ子が走ってきた。私たちの周りをハエのようにブンブンと走り回り、お腹に抱えた黒電話の受話器を持ち上げては戻した。何度も何度もガチャガチャとやるのでイライラしてくる。壊れたはずなのに元通りになっているのはどういうわけだ。

「きいて、きいて、ヨダのことばをきくの」

 最後には受話器を向けて、そう言うのだ。

「おとうさん、きいて。おねがいだから」

 教授がむくりと起き上がった。私の殴打で鼻の骨が折れているのだろう。饅頭のように盛り上がった鼻頭が、ドス赤くドス青かった。視界が効かないのか、両手で空気を毟り取りながら前進した。

「ロリや、ロリや、こっちにおいで」

 ロリっ子を呼ぶが、少女は私の目の前に立っている。受話器をしつこく突き出して、ヨダの声を聴けと言っていた。

 受話器を取り上げて叩き落してやった。少女は一瞬呆然としてから弾けたように泣きだした。その声主を中年ニートが探し当てて、ロリコンらしく抱きしめていた。

 外の騒がしさが聞こえてくる。拡声器を使っているのか、街宣車の声がハウリングしていた。ゾンビパーク・ヨダの連中だろう。

「ねえねえ、地上波で生中継じゃん、あたしたち有名人だ。動画中継してたら、がっぽり投げ銭もらえてたのに」

 女子高生がスマホをいじくり始めた。画面から騒々しさが伝ってくる。ツルハシ女は逃げることを諦めたようにしなだれているが、赤シャツさんはガッチリと掴んでいた。

「金なんてどうでもいいけどよう、テレビには映ってみてえな」

「あたし、ちょっと外に出てくるかな。全国のアホ視聴者にピースサインしてやりてえ」

「アホか。狙撃手に撃たれて死ぬぞ」

「あたしは大丈夫よ、JKなんだから。日本の警察が未成年を殺すわけないじゃん」

 もちろん、女子高生が外に出ることはなかった。それほど頭の回転が早いわけではないが、さすがにこの状況で警察の前に姿を晒すバカはしないだろう。なにかと無謀な女だが、包囲されているということを理解している。

「じゃあ、ツルハシさんの足を切ります。セーラー服さん、スマホを置いて、しっかりと押さえておいてください」

「あたしさあ、セーラー服着たことないんだけど。まあ、どうでもいいけど」

 ツルハシ女の桎梏にセーラー服さんが復帰する。細身の女には逃れるすべはないし、すでにその気もなさそうだ。 

「あなたは狂っているの。どうしようもなく狂っている。トイレの洗剤を飲んで自殺しようとした時、ちゃんと死ねばよかったのよ」

「うるさいっ、亭主をバカにするな」

 木を切る時は、最初は細かい刃を使う。ギザギザが大きいとぶれてしまうからだ。だけど面倒くさいので大きい刃からやろう。まずは皮膚だから、ぐっさりと刺さって挽きやすいはずだ。

「歯茎が腐っただけで、結局死ねなかったって、お笑いだわ。男だったらしっかりと死になさい」

「黙れ、殺すぞ」

「死ぬ根性もないのに威張るな。あんたは、ただの気狂いピエロでしょ」

 それ以上言うとホントに殺してやる。あの警官のように切り刻んでやる。

「ぎゃあああー」と悲鳴をあげたのはロリっ子だった。教授が少女の顔を手でふさいで見せないようにしている。

「おまえはそれでも人の子かっ。自分の娘の前で、自分の女房の足を切り落とすのか。おまえのような人間に、そんな権利があるのか」

 ニートのくせして、中年のゾンビが弁護士みたいに偉そうではないか。

「ねえねえ、弁護士さんって、いくら儲けんの。やっぱパパ活の女子大生を抱いてんでしょ。あたしだったら一晩いくら払う?」

 思ったよりも挽きづらい。もちろん妻が暴れているからだ。渾身の力でグイグイやってみた。

「うっわ、生臭っ」

 私はあまり感じなかったが、セーラー服さんは肉と血のニオイを嗅ぎとっていた。ゾンビのくせに鼻が利くな。まあ、三度ほどノコギリを動かしただけでけっこうな量の血が出てきたからな。年中鼻詰まりの俺でも血生臭いと感じる。

「ちょっ、あたしもやりたい。かしてかして」

 今度は志保がノコギリを持った。なんら躊躇うことなく妻の足を、ギコギコと自ら擬音を発しながら挽き始めた。なにか良いことでもあったのか、とても楽しそうである。

 ツルハシ女の暴れ方は尋常ではなかった。足首のもっとも細い箇所で肉もそれほど付いていないのだけど、ノコギリのギザギザ刃でえぐられるのは耐えがたい痛みなのだろう。キャーキャーと甲高い悲鳴をあげている。可哀そうにも思うが、ゾンビなので仕方がない。腐った箇所は切除しなければならないんだ。

「このヤロウーッ」

 弁護士がゲンコツを作って突進してきた。その後ろで陽菜が目を見開いて突っ立っている。

「うわっ、痛っ、クッソジジイ、やめろ。ぶっ殺すぞ」

 茶髪というより、擦り切れた淡黄色の頭髪が乱れている。女子高生の頭部を中年の弁護士が滅茶苦茶にぶん殴っていた。

「クソ弁護士、邪魔するんじゃねえ」

 赤シャツが立ち上がって胸ぐらをつかんだ。中年ニートはすがるようにパンチを繰り出すが、あえなくかわされて、逆に年季が入った拳をイヤというほど浴びて顔面が血だらけだ。鼻は私が潰したが、目の下の大量失血はヤクザ者の暴力である。内出血して腫れあがった肉瘤が破れてしまったようだ。

 縛りがとけてしまった。赤シャツと女子高生が中年ニートの相手をしているスキをついて、ツルハシ女が逃げにかかる。だが、すでに片足の腱を切っているので立ち上がれはしない。半分つぶれたイモ虫みたいな匍匐前進がようやくだ。

「なあ、どこへ行くんだ。またあの男のところで抱かれてくるのか」

 妻の、詠美のいやらしく誘うような尻を蹴飛ばしたくなった。

「なんとか言えよ、淫乱女」 

 腹が立ってきたので、尻の代わりに足首を踏みつけてやった。「痛い痛い」と大げさに泣きやがる。小汚いゾンビのくせして、被害者ヅラで俺を見ていた。切れ長の瞳から涙がきれいに流れているのが、すごく気に入らない。

「あの人とは一回きり。ほんとうに一度っきりだった。わたしは過ちだと認めたでしょう。もう償った。十分すぎるほど償ったじゃないの」

 なにを償ったというのか。心にも身体にも、俺に充てられたのはロクでもないモノばかりだ。耐え難い屈辱と果てしのない苦悶、先の見えない孤独ではないか。

「だって、あなたは一日中わけのわからないこと言ってるし、病院にも行こうとしないし、突然大声で怒鳴り散らしては手を上げる。陽菜が怖がって怖がって、あの子、下痢が止まらなくなった」

 ロリっ子が、「あーあー」と言いながらケイタイを向けている。交渉役の依田という刑事の声がうるさいと思った。

「とにかく、一人でもいいから人質を解放しよう。私が一人でそちらに出向くから、ゆっくりと話し合わないか。こちらのケガ人もいるはずだから安否の確認をさせてくれ」 

 ケガ人の安否もなにも、突入してきたやつらは大崎が撃ち殺してしまった。スワットだか特殊急襲班だか知らないが、カッコよく喧伝されているわりにはまったく大したことなかった。なんせ、ヤク中ジャンキー一人の銃撃にやられてしまったのだからな。

「安全な施設を用意してもいい。そこには食べ物もないし、衛生的にも良くないだろう」

 知らんがな。ゾンビだらけの世界なのに、いまさら公衆衛生を気にしたって意味がない。俺は絶対にここから出ないぞ。

「彼の安否を確認したい」

 あいつはマヌケな警官で、忍び込んだはいいが天井の板を踏み抜いて落ちてきやがった。梁の部分以外は脆いことを知らなかったみたいだ。日本警察の底が知れるってもんだ。伊藤とかって名前だったな。

「もし怪我をしているのなら、応急処置をしてくれないか」 

 応急処置など無駄だ。あいつは機械室で切り刻んでやった。ギャアギャア騒がれるのはウザったらしいから、ノドを潰してから殺した。生きたまま肉片にしてやったよ。ゾンビに相応しい最期だろう。

 詠美が私を見ていた。蔑むような目つきをしている。

「あなたは、わたしを工事現場で働かせた。わたしはふつうの主婦なのに、スコップとツルハシをもって、泥だらけになって穴を掘った」

近所の小さな設備屋で妻を働かせた。土木作業がメインの下請けの孫請けで、おもに下水管の修理、交換などをやっていた。泥や汚物だらけになるし体力仕事なので、なかなか人手が集まらず、年寄りや女でも臨時雇いしていた。

「下水管は外すときは、すごく臭い。汚物が噴き出してくる。それが手についたらニオイがとれないんだから。わたし、何度もゲボを吐いた」

 浮気女を懲らしめるためだ。やらないと地の果てまで追い回し、娘ともども地獄を見せてやるとさんざんに脅かしてやった。こいつは警察に駆け込んだが、俺は脅迫の証拠を残すヘマはしない。最後は無能な弁護士に泣きつきやがったがな。

「ちょっとう、それあたしの分じゃん。使うなよ」

「高い金払って買ったのは俺だ」

「だから、全部打つなって。少しは残してよ」

「うるせー。ぶっ殺すぞ」

 教授をボコボコにして一息ついたのか、セーラー服と赤シャツが隠していた人の指をめぐって言い争いをしている。ほんとうにゾンビは食い意地が汚い。

「このスプーン、でけえなあ」

 お玉に白い粉を撒いて、ペットボトルの水を入れて下からライターの火で熱していた。量が多いので、なかなか温まらない。

「まあ、こんものでいっか」

「お願いだから、あたしの分も残してよ」

 セーラー服が物欲しそうにメス顔だ。

「ああー、ちっくしょう、効いてきたぜ」

 いつの間に注射器に入れたのか、さっそく赤シャツが腕に針を突き刺した。ふつうの{シャブ}では効きが甘いので、ロシアから流れてきた強力なクスリだと言っていた。乱造されたデソモルヒネの打ち過ぎで、このヤクザの体はボロボロになっている。皮膚なんて溶けてしまい焼け爛れたようになっていた。

「ようし。いっちょぶっ放してやるか」

 気分がよくなったのか、赤シャツが元気溌剌で銃を構えた。近所の鹿撃ち名人を叩き殺して奪い取ったライフルである。

「赤シャツさん、出ていくならゾンビの足をあげますよ。外のやつらに投げつけてやればいい」

「おめえは、ホントにイカれてんな。女房がそんなに憎いか」

 ああ、憎いさ。俺の稼ぎで食っていやがるのに、よりによって弁護士と浮気しやがった。知識をひけらかすだけの中年ニートに抱かれやがったんだ。どうしようもないクズ女だ。絶対に許さない。

「まあ、それは大賛成だな。早くやれや」

 足の骨はけっこう硬いんだ。しかも、細身の女といえども渾身の力で暴れるからノコギリの刃が弾かれてしまう。

「クソJK。ラリッてねえで、おめえも押さえろや」

 ヤク中の大崎に言われて、ラリッた女子高生がまた押さえにかかった。ただし足首ではなく、詠美の首をつかんでいる。それじゃあ絞め殺してしまうだろう。よほど残虐が好きなんだな。

「もっと切って血を出せよ、オッサン」

「太ももの血管切ったらすげえぞ。ピューッて吹き出すからな」

 それも面白いが出血多量で死んでしまう。ツルハシさんには警備員殺しの罪を償ってもらわなければならない。

「ぎゃあぎゃあぎゃあ」

 陽菜がわめき散らしながら俺に抱きついてきた。耳元で甲高く叫ぶから鼓膜が破れそうだ。子供の絶叫はほんと神経に障るな。こいつ、まともに歩けないくせして力だけは一人前だ。

「ロリっ子、私から離れなさい」

「なあ、小向さんよう。ロリっ子ってなんだ。おまえ、自分の娘をそんなふうに呼んでるのか」

「あはは、オッサンさあ、ロリコンじゃね」

 ロリっ子がまとわりついてウザったらしい。腕にまとわりつくから妻の足を切れないじゃないか。どうして俺だけ目の敵にする。母親に洗脳されているんだな。あることないこと吹き込まれたんだ。こいつは生まれつきバカだから、全部信じてやがる。

「おとうさん、やめてー。やめてー。なしてー、キャー、ギャー、ギャアー」

「うるさいっ」

「きゃっ」

 イライラしたから娘をひっぱたいてやった。俺の稼ぎで食っていけているのに、何様のつもりだ。

「クソジジイ、陽菜に手を出すなっ」

 妻が怒りまくっている。まるで鬼の顔だ。これで女だっていうのだから呆れてしまう。やっぱりゾンビが相応しいな。

「こいつは出来損ないの木偶(デク)だ。まともに歩けもしねえ。頭もバカじぇねえか。養護学校でも使いもんにならない」

「あんたが階段から突き落としたからだっ。陽菜がこんなカラダになったのは、あんたのせいだっ。まだ三つだったのに」

 ガキを見ていると無性に腹が立ったから、ふざけて蹴っ飛ばしただけだ。そうしたら景気よく転がり落ちやがった。俺もクソオヤジによくやられた。そんなもんでいちいち不自由な身体になりやがって。俺への当てつけだろっ。

「うおおー」

 弁護士が跳びかかってきた。万年ニートのくせにヤケクソで突進してくる。そもそもこいつは余計だったんだ。

 バンッ。

「おっひょ、弁護士先生がふっ飛んじまったぜ。小向のだんな、けっこうやるな」

 だから、大崎の猟銃をぶっ放してやった。中年ニートの腹に当たって、ひっくり返った。蹴っ飛ばされたカエルみたく仰向けになって倒れている。ザマミロだ。

「ああ、なんてことするの。先生は関係ないでしょ。ただ離婚の相談をしていただけなのに、ほんとうに、どうしよう」

 妻が中年のゾンビにしがみ付いている。やっぱりデキていたんだな。この淫乱め。

「おまえはこいつと浮気してたんだな。陽菜もこいつの子か。こいつになついてるんだから、こいつの子だろ。だから教授はロリコンなんだな」

「陽菜はあなたの子よ。よく見て、娘をよく見てっ。自分の娘もわからなくなったの。それに教授って誰よ。もう救いようがない。あなたは死んでも治らない。イカレきってるんだ」

「あはは、そりゃそうだ。小向のおっさん、めっちゃ異常者だからな。妄想と現実がごっちゃになってて、クスリやってるあたしでも意味わかんねーわ」

 志保がゲラゲラと笑っていた。だらしのない格好の女子高生だが、こいつのセーラー服姿を一度は見てみたいものだ。

「おとうさん、ほら、おとうさんにだって。ほら、ほにゃっ、にゃにゃにゃ」

 ケイタイを俺につきつけて、泣き顔のロリっ子がヒステリックに騒いでいる。赤シャツが顎をしゃくった。仕方なしに応答する。

「依田です」

 交渉役のヨダだ。階級は警部とか言ってたな。世界はヨダなんだから、警察はこの世の彼岸にあるのか。

「もう、終わりにしないか。十分だろう。そこには高校生の女の子もいるんだろう。親御さんが心配しているだろうから名前を教えてくれ。それと娘さんだけは外に出してやらないか」

「ふざけんなっ」

 娘は俺を慕っているんだ。陽菜はパパと一緒じゃなきゃ飯も食べない。階段から落ちて、背中から血を垂れ流していてもパパが大好きで抱きついてきたんだ。

 女子高生は覚せい剤中毒者だ。両親ともに浮気に忙しくて家に帰ることがほとんどない。典型的な崩壊家族で、繁華街の一角でたむろしている不良少女たちの一人だ。だから世捨て人も同然なんだ。

「おいおい、サツに頭きたからって怒鳴るなよ。せっかくクスリでいい気分なのが台無しじゃねえか」   

 大崎はヤクザ社会の端くれに位置している。どこかに隠れてしまった妻と娘を捜しだすために、モグリの探偵を雇ったんだ。さらに見つけた二人を拉致するために荒仕事をやる男も紹介してもらった。ただし、法外な料金を請求されている。

「赤シャツさん、ちょっとだけだったら教授を食べてもいいですよ。そのかわり、報酬は半分にしてください」

「ねえねえ、このオッサン、人間を喰えって言ってるさ、弁護士をさあ。クスリでヘロッてても、さすがに人喰いはしないっしょ。キャハハハ」

「ハッキリさんよう、ゾンビ肉はいただけねえぜ。しっかも教授じゃあ、臭すぎて下痢になっちまうって」

「赤シャツさん、心配には及びません。我々はゾンビなので、腐った肉を食べてもお腹を壊しませんから」

「キャハハハ、ねえねえ、オッサンが我々はゾンビだって言ってるよ。いつからあたしたちがゾンビになったんだってさ。これ、おっかしくね。それに赤シャツって言ってるよ」

「お願いだから先生の手当てをして。人質だったらわたしだけでいいでしょ。陽菜も返してあげて。そんなに憎けりゃわたしを撃ちなさいよ。殺せばいい。殺せっ」

 詠美がヒスを起こしている。ゾンビどもに襲撃されて籠城しているのに、どうしようもないヤツだ。

「この弁護士は金目当てでツルハシさんを誘惑して、ロリっ子まで手を出した。とことんケツの穴まで腐っている野郎なんだ。尻の穴が臭すぎて手入れが面倒くさい」 

「今度はさあ、自分の女房をツルハシさんって呼んでるさ。お尻の穴の話してるし。なにをどう妄想したら、そうなるの。あたしもクスリが足りんわ。負けそう」

「やめてー、やめてー、おとうさんー、ぎゃーっ」

「おい、どうするよ、小向。このまま籠城して突入してきたやつからぶっ殺すか。それとも外に出てハチの巣になりながら暴れるか テレビ中継されてっから、派手に死ぬのもいいぜ」

「なにそれ、ヤッバ。あたしまで死ぬじゃん」

「そういえば教授がいませんねえ。ひょっとして、食料保管室でマルカン印のドックフードを一人で食べているかもしれません。ツルハシさん、ちょっと見てきてくれませんか」

 私は疲れている。この施設の管理は骨が折れる仕事だ。なにせゾンビたちは、肉体だけではなく意思や考え方まで腐っていて、わけがわからないのだ。

「この人は死んだ。あなたが撃ち殺したんでしょ、たったいま、ここで」

「それはおかしいですね、ツルハシさん。中年ニートはゾンビになって肛門が破けているんです。ニオイを嗅いでいるのはトラックに轢かれたお母さんゾンビです」

「おかしいのはあなたじゃないの。あなたの頭の中では、この世界はどうなってるの。いま現在、どうなっているのよっ」

 世界がどうなっているって、それは・・・。

「だから、人類のほとんどがゾンビとなって、だけど私は特別なゾンビだから再意識化することができて、ほぼ人間なんです。ここにいる皆さんもゾンビでしたが、私が救って再意識化させました」

「陽菜はどうなの。まさか小学生の女の子がゾンビだという気なの」

「陽菜とは誰ですか。この施設にいる子供はロリっ子だけです」

「自分の娘をロリっ子と呼ぶあなたはクズ以下だわ」

「おまえが俺を裏切ったからだ。夫以外の男と寝たからだ」

「なにを言ってるのさ。浮気していたのは、わたしじゃなくてあなたじゃないの」

 もし妻が浮気をするのであれば、一回だけなら許してやろうと思っている。責任者としての寛大さを見せつけるいい機会となるだろう。

「よりによって未成年の女子高生とヤッてたじゃない。家にお金も入れないでガキに貢いでいたくせに」

 繁華街の有名なたまり場に、その女子高生がいた。俺としてはセーラー服が好みだったが、メイドのような格好をして、クスリ欲しさに安い金で体を売っていた。

「おまえが俺の言うことをきかないからだ。おまえは夫の意見を、なに一つ尊重しない。なにを言ってもなにもしない。妻の役目を果たそうとしなかった」

「わたしは、あなたの望む女になれない。どんな手品を使ってもあなたが望むものを出せないし、そもそもなにを望んでいるのかもわからない。だってあなたは」

 それ以上は聴きたくないと思った。所詮は女ゾンビのたわ言だ。

「救いようのないイカレポンチだから」

 このゾンビには処罰を続けるしかない。断固たる厳罰を与えるのだ。

「ツルハシさん、おまえの足を切断したら、それをゾンビパーク・ヨダの連中に喰わせてやる。やつら貪り喰らうだろうよ」 

「わたしの足を切る前に、自分の首を切り落としたらどうなの。もう死んだらいいのよ。ゾンビの妄想にとりつかれて、あなたが正気に戻ることはない。頭と心の全部がとことんまで腐っているのだから」

 握っている部分が汗で滑ってしまい、ノコギリが上手く挽けない。ツルハシ女の足を切るの後にして、そのかわり目玉をえぐってやろうか。いや、顔の皮を剥ぎとってお面を作ってやろうか。細いカッターの刃でこそげるように、ひん剥いてやるんだ。

「ハッキリよう、俺がぶっ放しながら出ていくから、あんたは{さかなゾンビ君・ギョギョ}の連中を木刀で殴り殺せ。三人殺したら借金はチャラにしてやる」

「ポリを五人殺したら、あたしを抱かせてやるよ。オッサンの大好きなJKのマンチョを見せてやるって」

「ちゃちゅちゅ、にゃにゃにゃん、こちょじだりゃ、おみゃあしゃんは、おとうちゃん、だっちゃ」

 ロリっ子のロリロリ言葉を訳す者がいなくなった。この子がなにを言っているのかわからない。

{サツを七人殺したら、おまえはお父さんだ}と、死んだはずの中年ニートが呟いていた。いや、あの弁護士はさっき撃ち殺したはずだ。知識をひけらかすだけの腐ったケツの穴野郎が、俺たち家族を引き裂き続けたんだ。やつのせいで娘と会うことができなくなった。

 いや、まてよ。

 なんだかヘンだぞ。

 ゾンビパーク・ヨダの連中が警察なわけがない。

「私はひょっとしたら、なにか混乱しているんでしょうか」

 ツルハシさんに訊いてみることにする。彼女は、この施設では私の次に聡明なゾンビだからだ。

「あなたはおかしいのよ。あなたの目の前にある妄想は、あなたにべったりとまとわりついて離れない。腐った心が作り出すリアルな世界があなたのすべて。周囲を汚らしく巻き込みながら、どんどんバカになっていく」

「ツルハシさん、却下です」

「たとえ死んでも絶対に治らない。未来永劫、あなたは腐った意識の海で溺れ続けるのよ」

 おまえはやっぱりアホなブタ女だ。俺のことをちっともわかっていない。だから足がなくなるんだ。ほら、切ってやったぞ、いい気味だ。

「皆さん、今晩のご飯は新鮮な人間の足です。今日は浮気妻サンクスデーなので、奮発することにしました」

 教授が真っ先に喜んでくれるはずなのですけど、思ったより静かです。お腹でも壊したのでしょうか。

「あんたが撃ち殺したんだっ、このバカっ、イカレポンチ。死んでしまえ、ギャー、ギャー」 

 ツルハシさんの足首がなくなっている。きっと腐りきったのでしょう。ゾンビなので痛みは感じません。さっきの悲鳴はカモメの求愛です。ジョナサンですね。

「アハハ、オッサン、とうとう自分の女房の足を切っちゃったよ。これめっちゃヤバいじゃん」

「おい、ポリのやつらが突っ込んでくるぞ。この弾、あいつらの防弾盾を貫通しやしねえ。税金で買ったにしちゃあ、いいもんもってるぜ」

 ゾンビパーク・ヨダのゾンビ襲撃隊がこの施設に突撃してきます。赤シャツさんのライフル弾でも歯が立ちません。

「このまま籠城していたら制圧されてしまいます。ツルハシさんやセーラー服さん、ロリっ子を腐れゾンビのエジキにはさせません。先制攻撃しましょう」

 特攻の精神があれば家族を救える。女房子供のために命を賭して戦うのは男の本懐なのである。

「いいかーっ、詠美。俺の死にざまを、よーく見ておけ。家族を守るために戦った夫の最期を、おまえの心に刻むんだ。そして暁の空に最後の星が消え入る時、小向隆史を思いだすんだーっ」

「気色悪いアホがー、イカレポンチー、死ねーっ」と罵声を浴びせられたが、それはたぶん大崎に対してだろう。妻はヤクザものを嫌っていたからな。

「小向、おまえに武器はねえぞ。どうするんだ」

「私はこの施設の管理責任者なので、武器ならすでに用意しています。これです」

 妻の足首を差し出したら、赤シャツがニヤリと微笑んだ。

「あんたが死ぬほどイカレてることはわかったぜ」

 それはよかった。

「俺の背中にくっ付いてこいや。ポリにはその足をぶん投げてやれ。一瞬ひるむくらいの効果があるだろ。それとこれ持っていけ」

 ナイフを渡された。手のひらに収まるほど小さなサイズで、これはゾンビの首をえぐるのに適している。

「あたしも行く。武器は、これ」

 セーラー服さんが刺身包丁を持っていた。まだ未使用らしく、真新しい刃の輝きが目に眩しい。

「ロリっ子も連れていきましょう。教授も喜んでくれます」

「ガキは足手まといだ」

「ああ、でも弾除けにはなるんじゃね。てか、ロリっ子ってネーミングにセンスを感じてきたわ」

 母親にしがみ付いてギャーギャー泣いている陽菜の首根っこを掴むと、なにを血迷ったのか親指に噛みつきやがった。ただし、私はゾンビなので苦痛はない。そのまま力づくで前に立たせた。盾として子供ゾンビはもってこいだな。

「一気に行くぜ。警察のボケどもをぶち殺して、華々しく散ってやる」

「あたしもやるよ。とりあえず、一人くらいは殺れるっしょ。アッヒー」

 大崎が先頭で、次に志保が続き、俺は娘を盾にしながら前進だ。

「ぶっ殺してやるー」と言って、赤シャツがライフルを撃ち始めた途端、ガックリと崩れ落ちた。瞬時に身体の全神経系を麻痺させられたような、見事な即死であった。ヤワな日本警察にしてはめずらしく、躊躇なく狙撃して頭を撃ち抜いた。仲間を殺されているからだろう。ゾンビパーク・ヨダの結束は固いようだ。

 刺身包丁を逆さに握った女子高生が突進していった。凄まじいまでの気迫で、たぶん薬物で精神がぶっ飛んでいるのだと思う。こちらからは見えないが、おそらく鬼女か般若の表情となっているはずだ。本性がそれらの顔だから、俺にはわかるんだ。

 彼女は射殺されずにすんだ。ドタドタと駆けつけてきたゾンビたちに、警棒で死ぬほどぶん殴られていた。殺しはしないが半死半生の状態にはするようである。まだ未成年のゾンビだからだ。

 私はロリっ子を前面に抱えているので、ゾンビパーク・ヨダの警官たちは迂闊に手を出せない。小さなナイフをしっかりと娘の首に押しつけている。ほんの少し手振れしただけで、致命的な血管を切り裂いてしまうだろう。

「放せー、陽菜を放せー」

 なんと、ツルハシ女がやってくるではないか。誰だか知らない名を叫びながら、顔中を口にして喚いている。

 ただし、左足首から先がないので速くは走れない。平らに切られた箇所が地面に接するのはひどく痛々しい。「ギャアギャア」と喚き、それらはもはや怒号であった。  ゾンビのくせに痛みを感じているような仕草はやめてもらいたい。もし本当に苦痛があるのなら、それはフェイクである。

「痛っ」

 俺の右足の甲をガキがおもいっきり踏んだ。小指がもげそうなほどの激痛だ。こいつは間違いなく俺の子ではないな。やっぱり詠美は弁護士と密通していたんだ。童貞のくせして、やることはやっていたんだな。

「ぐはへっ」

 警棒で顔をぶん殴られた。言葉に表せないような激烈な衝撃があり、俺は地面に転がってしまった。父親から引き剥がされてしまった娘は、ヨダの警官たちが連れてゆく。

 もはや俺は無抵抗なのに、やつらが数人がかりで背中に圧し掛かり、ポカポカと連続的に殴ってくる。しかも警棒でだ。さんざんに痛めつけられて、いよいよ捕縛されるというときに、施設のほうから何かが走ってきた。

 うちで飼っていたゾンビネズミのシェパードが、俺ではなくて陽菜を助けにきたんだ。背の低い奴の腕に噛みついて、猛然と首を振っている。

「ひゃめて、ひゃめて、うえええーーん」

 ロリっ子がゾンビネズミの首に抱きついて泣きながらなにか言っているが、意味がわからない。通訳の教授はなにをしているのだろう。肝心な時に役に立たないではないか

「うーりゃっ」

 あははは。

 刺してやった。犬の猛攻でひるんだスキをついて、警官の首をナイフでえぐったんだ。仰々しい防護服姿だが、首元はあんがいと隙間があるぞ。油断したな、甘いんだよ。血が出ているが量はそれほどではない。ゾンビなので腐って凝固しているのか。それにしても温かい。まるで詠美の脇の下だ。あの手触り感は夢見心地だったのだろうか。

 バンッ、バンッ、バンッ、と銃声がした。また赤シャツさんが撃たれたのかと思ったら力が抜けていた。鎖骨と背中部分が跳ねて、しかも痛い気がする。私が撃たれたみたいで、まあでもゾンビだから痛みは感じない。だけど少し痛いと思っていたら、すごい激痛になってきた。

「はうっ、ひゅっ」

 息ができないし、体が灼熱なのにガタガタと震える。首を切ったやつのとは別の血があるが、これは俺のだ。温かくないのはゾンビだからであるが、せっかく生ぬるいのに、このままでは冷たくなってしまう。

「く、苦し、助けて」

 死ぬのか、死んでしまうのか。

 ようやくゾンビになることができたのに、みんなもゾンビになったのに、安住の場所を見つけたのに、ここで死んでしまうのはイヤだ。死にたくない。死にたくない。

 おおー、妻が、詠美がやってくるぞ。

 なぜか片方の足首がなくなっているが、それでも誰かの肩を借りてこっちへ向かっている。泣きじゃくった陽菜がすがり付こうとしたが、見向きもせずに真っすぐ俺を見ている。心配して助けに来てくれたんだ。

「死ねっ、コノヤロー。腐れボケがーッ。クソヤロー」

 彼女が渾身の力で俺の顔をぶっ叩いていた。女とは思えぬ剛力で、猛獣のような勢いがあった。

 激高した女の顔は人間ではなくゾンビだった。

 バケモノと化した妻の拳が俺の顔面に落ちてくる。鼻の骨がグシャッと砕けて、ツーンとした電撃が脳を突きぬけた時、すーっと気が遠くなった。

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