記憶を失くした雷
旗尾 鉄
第1話
ふと気がつくと、俺は見知らぬ暗い場所でひとり立っていた。
ここはどこだろうか?
あたりを見回してみる。両側が奇妙な材質の石壁に挟まれた、せまい路地のようだ。まったく見覚えがない。地面も、石のような感触だ。前方はやけに明るい。
俺はなぜこんな知らない場所にいるのだろう? たしか昨日は……!
俺は気づいた。自分が昨日どこで何をしていたか記憶がない! それどころか、自分の名前も思い出せない! 俺は愕然とした。
これは、病であろうか。俺は必死でなんでもいいから思い出そうとした。頭が痛くなるほど考えてみる。
たしか、友人と二人で過ごしていた気がする。いつのことなのかは定かではないが。あいつとは長い付き合いで、気心の知れた相棒だったはずだ。頭から絞り出せた情報は、それだけだった。友人の名前も思い出せない。
こうしていても、どうにもならない。俺はやむを得ず、行動することにした。人に会えば、ここがどこなのかは聞くことができる。そう思った俺は、前方の明かりのほうへと歩いた。
そこは異常な場所だった。夜だというのに、恐ろしく明るい。俺はまぶしさに目を開けていられず、思わず手で顔を覆ってうずくまった。
しばらくして目が慣れてきた。俺が見た光景は、この世のものとは思えない光景だった。
空を見上げれば間違いなく夜だというのに、昼と同じように明るい。なにもかもが、はっきりと見渡せるのだ。
いま俺がいるのは、路地から出た、町の大通りらしかった。だが、俺の知っている町とは大違いだ。
通りの道はすべて、黒っぽい奇妙な材質でできている。裸足の足裏に感じる硬い感触は石に近いが、石畳とは明らかに違う。道のあちこちに、ひし形や、はしごのような文様が白線で描かれている。
周囲の建物も奇妙だ。道とはまた違う、これまた奇妙な材質の石でできている。色は灰色が多い。建物はみな恐ろしく高く、壁にはびいどろのようなものがたくさん取り付けられていた。
往来を行きかう人々もまた、珍妙だった。男はまげを結わず、女は髪を結っていない。服装は南蛮人のようだ。
話をしようと近づくと、彼らは俺の姿を見てざわついた。後ずさり、俺から距離を取ろうとする。ひそひそと話す声が耳に入った。
「なにあれ? キモくない?」
「コスプレでしょ。ほら、ニュースでやってるアレの」
「あー、似てる。つーかリアルすぎて怖いよ」
日本語ではあるが、理解しにくい。「きもくない」とはなんだろうか? 「こすぷれ」も「にゅうす」もわからない。
そもそも、俺は明らかに警戒されている。不穏な空気がただよいはじめる。俺は身の危険を感じ、一目散に逃げた。
とりあえず、ひとけのない場所にたどり着いた。木々を植えた、庭のような場所だ。地面は土で、南蛮人が使うような腰かけが置いてある。中央には、建物と同じような灰色の石で造られた円形の池があった。池の中心には贅沢にも噴水がしつらえられ、どういう仕組みかわからないが明るく輝いている。
俺は考えた。もしかすると俺は自分でも気づかないうちに死んでしまい、六道輪廻で別の界へ転生したのかもしれない。だがそれにしては、ここは地獄とも極楽とも思えない。
喉の渇きを感じたので、池の水を飲もうとしたときだ。水面に、自分の姿が映った。
……俺は人間ではなかった。筋骨たくましい体に、鬼のような形相。肌は灰色がかっていて、腰巻一枚を巻いただけの半裸だ。
普通なら驚くところだが、俺は少しも違和感を感じなかった。水に映った姿を見て、むしろ納得できた。記憶が戻りつつある。そうだ、相棒も肌の色こそ違えど、俺とよく似た格好をしていた。
池の近くに、破れた紙切れが落ちていた。文字がびっしりと書かれている。人の手で書かれたものではないが、間違いなく日本語だ。
『……図屏風、明日から公開』
『俵屋宗達の……』
その文字を見て、すべての記憶を取り戻した。間抜けな話だ。ここはときどき来るところ、元は江戸と呼んでいた町じゃないか。記憶が混乱して、俺たちが生まれた当時のことを思い出していたんだ。
俺はすぐに、帰還の呪文を唱えた。
「遅かったじゃないか。なにやってたんだよ」
「すまんすまん。呪文の副作用で、記憶が飛んでしまってたんだ」
「途中で見回りにきたヤツがいてな、おまえがいないんで大騒ぎになったんだぞ」
風神がぼやく。俺は所定の位置に収まって、平謝りだ。
「で、様子はどうだったい?」
「うーん、なんともいえないなあ。よくわからない言葉が、また増えていたよ」
「そうかい。まあ、明日からのニンゲン観察を楽しみにするとしようか」
この博物館では、明日から俵屋宗達の『風神雷神図屏風』が公開される。
つまり、明日からは俺たち二人が主役ってわけだ。
記憶を失くした雷 旗尾 鉄 @hatao_iron
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