第2話
帰ってきてからのお母さんはとても饒舌だった。きっと久しぶりの外出に少し緊張していたのだろう。
「それでね、帰り際に平塚さんにお会いしたのよ。私びっくりしちゃった。だって平塚さんってば開口一番に『痩せた?』って聞いてきたのよ、……私痩せたかな?」
「うん。ちょっと頬の肉とか落ちてきたんじゃない」
無表情に努めながら、ダイニングテーブルの上で二人分のお茶を注ぐ。湯気を吐く湯呑みをあたしたちの席の前に並べる。
お茶を啜り、ほっと息を吐くお母さん。
「そっか、もうそういう歳よね」
「そういえばさ、今日病院で何か言われた?」
さりげなさを装って口に出す。本当は一番聞きたかったことを。目を逸らされる気配がした。
「……体の調子はそんなに大したこと無いって言われた。重い更年期障害だって。色々検査はしたけど、二週間後くらいに結果が出るんだって。あとは……」
「お母さん、今日は冷えるんだから暖房を点けないで平気なのか?」
お風呂から上がったばかりのお父さんがリビングに入ってきた。
「大丈夫よ」
お父さんの方へふわっと微笑むお母さん。と、急に「あ」と呟いてこちらに向き直った。
「加奈は? 寒くない?」
「ううん平気」
「そっか、暑がりだもんね。暑がりなのはお父さんも恵もだし……」
背筋が一瞬にして強張る。
恵。あたしのお姉ちゃんの名前。
見ればお父さんの目も同じように固まっていた。一方の彼女は夢に浸っているように穏やかな表情を浮かべている。
「恵は今どうしているのかしらねぇ」
また、始まってしまった。
「私のメールに一切返信が来ないんだけど、加奈のほうにも来てない?」
「……来てないよ」
上手く表情を取り繕えているだろうか。
「こうも音沙汰がないとあっちで元気にしてるか心配じゃない?」
お母さんの指す〈あっち〉があたし達が思い知っている現実の〈あっち〉では無いことはよく分かっている。
「……そうだね」辛うじて声を絞り出した。「じゃ、お風呂入ってくるから」
リビングを後にした瞬間、親同士の会話が聞こえてきた。
「なあ、聡子。言いそびれていたんだが、お姉ちゃんはさっき帰ってきたぞ」
「そうなの」
「今部屋に居ると思うから……」
お父さんの声は終始儚げで、一言一言を確かめながら口にしているようかのだった。
嘘に嘘を重ねても仕方ないっていうのに。
あたしは風呂場に向かう歩調を強めた。
濡れた髪を乾かし終えたあたしは、お姉ちゃんの部屋に明かりがついてあるのを発見した。中には入らず、廊下の陰から様子を窺う。
部屋には、お姉ちゃんの偽物に抱き着いているお母さんがいた。ここからだと表情を捉えることは出来ない。
「恵……」
声の調子で分かる。彼女は泣いているのだ。
一方のお父さんは背後からそんなお母さんを見守っているようだった。己の罪深さに慄く顔と心の底からの安堵の顔をごちゃ混ぜにしながら。
胃の中が攪拌されるような吐き気を覚えた。
目の前の存在は偽りの塊だっていうのに。
お姉ちゃんはとっくにもうどこにもいないのに。
あたしたちが偽物の蜜を与え続けるから、お母さんもそれに甘え続けている。
一歩、足を前に踏み出した。
「お風呂、次はお母さんの番だよ」
「分かった」
そう言って顔を上げたお母さんの瞳はやはり潤んでいた。
結局、お姉ちゃんの部屋にはあたしと〈お姉ちゃんのナリをしたモノ〉だけが残った。〈それ〉はお母さんがいなくなったことに気づいていないのか、いまだに頬に笑みを張り付けたままでいる。お姉ちゃんの顔をして。
「お母さんー聡子の居ないときはニコニコしないで。というかむしろ止めて気持ち悪い」
ロボットはどれくらい人の言葉を認識できるのだろうか。あたしは〈それ〉の目の前の立った。自分の顔が内蔵カメラへよく映るように。それからおそらく〈それ〉の事前に入力されたデータベースに存在しているであろう名前を口にした。
「あたしの名前は加奈。いい? 加奈、っていう人物の前では笑顔を貼り付けなくていいから。分かった?」
反応は無い。
そういえば、と思った。
「あんたの名前ってなんていうの?」
やや空白の時間が流れた後に応答があった。
「キュウです」
「……キュウ?」
「ワタクシのことはキュウとオヨビください」
なんだか拍子抜けしてしまう。もっと厳つい名前かと思っていたのに。
くすり、とこぼれる笑み。
「分かった。キュウ、ね。……ちょっとあたしの話、聞いてくれる?」
部屋の窓には、淡い初更の月が映っている。
あたしには三歳上のお姉ちゃんがいた。「いた」って過去形なのは事実そうだったから。陳腐でありきたりな表現かもしれないけれど。
お姉ちゃんの大学生活1年目の夏のことだった。母親と二人で行ったスーパーからの帰り道にバイクと接触したらしい。そして、運が悪かった。部活の最中に急に担任の先生がやってきて、そのニュースが伝えられた時の、足元の地面が崩れ落ちる感覚は今でも忘れられない。事故を間接的に聞いただけのあたしとお父さんはまだ良かった。でも、現場で事故を直接見たお母さんはその事実に耐えられなかったのだろう。その日から彼女は塞ぎがちになってしまった。
「お母さん、もう夜遅いよ。寝ないの」と声を掛ければ、「寝る、寝る、寝る、そうだ寝なきゃ……」と呟いたり。虚ろな目線を窓に向けているだけで一日を終えていたり。滅多に家から出ることは無くなった。
事故から一か月ほど経った頃。その日は母娘でリビングにて夕食を取っていた。もちろん、両者の間に会話は無い。お父さんが会社から帰ってくるや否や、突然お母さんが無言のまま立ち上がり何処かへ駆け出した。恐る恐るついていくあたし。向かった先は父の居る玄関だった。
「ただいま……どうしたんだ、聡子」
小柄な彼女は自身より頭一つ分高い彼をじっと見上げた。
「恵は、」
背筋が一瞬のうちに強張る。
恵。父娘が口に出すのを怯えていた名前。
「恵はきっとまだ何処かで元気にしてる。そうよね……?」
元気な姿をもう見ることはできない。けれど、〈あっち〉で笑顔でいてくれるのを祈ることなら出来る。お母さんの気持ちは痛い程分かった。
「そうよね……」
お母さんも、心の底では分かっていた筈だ。もうお姉ちゃんは何処にも居ないんだって。だからこうしてお父さんに縋っている。
「ね……?」
詰め寄る母。多分これほどまでにお父さんが彼女に気圧されたのは後にも先にも無いだろう。「うん」という彼の深い頷きは、今は亡き娘の幸せを願う想いに依るものだっただろう。
が、しかし。
「そうよね」不意にお母さんの顔が綻んだのが見えた。「また会えるよね」
「え」
動揺を声に漏らすあたし。しまった、と顔を歪めるお父さん。そして、両手を抱きすくめ天井を仰ぐお母さん。
彼女は本来存在しない望みに救いの道を見出してしまった。でも、そこにはきちんと欺瞞で編まれた希望の糸がお父さんの手によって垂らされてしまった。
その後どう会話が転んだのか、お母さんの中でお姉ちゃんは軽い事故に遭い、そしてその療養のために父方のおばあちゃん家に泊っていることになっていた。彼女のなかで姉は今でも生きている。
遠回しに何度否定しても無駄だった。父は母に同調するようになり、あたしは会話を諦めた。
それからお母さんはいつもの日常に戻った。
絶対に来ない娘の帰りを待ちわびながら。
この家族に一点の気味悪さを残して。
いつの間にか月の側で一つの小さな星が大きく瞬き始めていた。
「聞いてくれてありがと、キュウ」
そっと、その場をあとにした。
偽物の蜜 ホトケノザ @hotokenoza_
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