第31話 アンケ・ウセト~また会う日まで~

 傍にいてほしいなら最後まで居てやる。メンフィスに行けってんなら、袋詰めにしてでも連れて行く。最高司祭の務め? そんなもの知るか。神殿は放っといたって腐らねえ。部下の再就職先なんか、あたしが消えてから探しても十分間に合うだろうが!


 あたしは収穫後の麦畑が広がる田園地帯を走り抜け、アテン大神殿を目指した。

 舗装がずさんで凸凹した農道は、走り難かった。


 走る為に邪魔な荷物は、リュックごと道の脇に下ろした。

 市街地に入る手前で、馬に乗った軍人らしき男達数名に出会った。

 彼らを率いていた男は、ホルエムヘブだった。


 ホルエムヘブが馬を止めたので、あたしも立ち止まった。丁度、身体が酸素と小休憩を欲していたところだった。

 ここでねえや達が、あたしに追いついた。


「船に乗らんのか」


 馬上のホルエムヘブは、ぶっきらぼうに聞いてきた。


 努力呼吸を繰り返しながら、あたしはホルエムヘブを見上げた。そこで、信じられないものを見た。

 血痕。しかも大きい。世界地図の、どこかの大陸を映し出したような。

 かすり傷程度の出血量ではない。


 それは、ホルエムヘブの皮鎧や白い服を、べったりと染めていた。

 ホルエムヘブの表情を見る限り、彼自身の血ではなさそうだった。


 ならば、これは返り血だ。誰の血だ。

 あたしの心臓が酸欠以外の原因で、どくどくと脈打った。


 帯に剣が一振り差してあった。鞘に収められており、血が付着しているかどうかは確認できなかった。

 

 部下達に目をやった。

 彼らは平静を装いはしていたが、どことなく落ち着きがなかった。つい今しがた、何か大きな仕事を一つやり遂げて来たかのような。


「乗らぬなら置いてゆく」


 ホルエムヘブはあたしからプイと顔を逸らせて正面を向くと、馬の腹を蹴り、船着場へ向かって再び馬を走らせた。後ろの部下達もそれに従った。


 あたしは小さくなってゆく軍人たちの背中を見送りながら、自分の指先が冷たくなるのを感じていた。


 あの血は誰のものだ。誰を傷つけた。誰を――


 殺した。


「マキノ。どうしたの?」


 息を切らしながらシトレが訊ねてきたが、答える余裕はなかった。

 あたしはまた、取り憑かれたように走り始めた。


 アテン大神殿に辿り着くと、閉まっていたはずの正門が開いていた。全開ではなく、人が一人通れるくらいの狭い隙間だった。

  

 先程の軍人達がこの隙間に、静かに身体を滑り込ませて侵入する映像が、勝手に脳内で再生された。


 あたしも同じように身体を横向きに滑り込ませて中に入ると、叫び声が聞こえた。


 せんせい!


 それは、声変りが始まる前の少年のものだった。

 聞く者の不安と恐怖を煽る、ひっかくような絶叫。


「マヌ!」


 神殿内に反響するマヌの声を頼りに奥へと進むと、開けた明るい空間に出た。そこには天井が無く、太陽光が燦々と降り注いでいた。微かに、ミルラの香りがした。


 中央には祭壇の様な石台があり、その前に、マヌはしゃがみ込んでいた。何人もの人間が不規則に横たわっているその場所で、身を起こしているのはマヌだけだった。


 なんだこの光景は。何が起こったんだ。マヌが必死に揺り動かしているのは誰だ。


 あたしに遅れて辿り着いたねえや達が、血溜りだらけの床を見て、小さく悲鳴を上げた。


 あたし達に気付いたマヌは、混乱極まった泣き顔をこちらに向けると、「せんせいが」と大粒の涙を零した。血だらけのその手を添えている人物の胸元に額を寄せると、嗚咽を漏らした。


「あ、アメン神官団、から協力を得る、条件が出されたらしいんだ。アテン信仰に、ケジメをつけること。その為に、アテン信仰の責任者に制裁を与えなければならない、って」


 ホルエムヘブが――。


 市街地に入る前に出会った軍総司令官の名前を、マヌは震える声で口にした。


『ご随意に』


 レイは取り乱す事なく、剣を向けて来たホルエムヘブとその部下達に静かに応じた。そして、マヌとマヌが連れてきた患者に、外へ出ておくよう命じた。

 マヌが患者を安全な場所まで逃がして戻った時には、この有様だったという。


 最高司祭を守らんと抵抗したのだろう。何人かの神官の遺体は、レイを囲むように転がっていた。

 神殿内に、他に人の気配はなかった。残りの神官達は、逃げたのだろうと思われた。


 あたしは事切れた神官達の間をすりぬけ、マヌと、その前で横たわっている人物の前まで進み出た。


 血溜まりの中に、何度も視線で追いかけた男性の姿があった。


「レイ」


 掠れて乾ききった声に、自分でも驚いた。


 跪き、レイの頬に触れた。柔らかかった。その時ようやく、あたしの目から涙が一粒こぼれ落ちた。



 遺体を描写する際に、『変わり果てた姿』という表現がよく使われるが、レイの体は、握手を交わして別れた時と何ら変わりはなかった。むしろ自然に両目を閉じたその表情は、穏やかな夢を見ながら眠っているようにさえ見えた。

 怒りは感じなかったのか。恐怖は。悲しみは?

 負の感情とは、無縁の死に顔だった。



 手にも、頬にも、首筋にもまだ熱が残っていた。心臓を一突きされた傷以外は、美しく尊厳に満ちた、いつもの彼のままだった。 

 ただ、息をしていない。身体を揺すり、頬を叩き、いくら呼びかけても目を覚まさない。それだけである。それだけなのに、レイは死んでいたのだ。


 レイの遺体を目の当たりにしなければ、きっとあたしはレイの死を受け入れられなかっただろう。けれど、あたしは最愛の人の遺体を腕に抱いてしまった。呼吸が止まっている事。二度とその目が開かれない事を、自ら確かめてしまった。レイは、太陽の光を溜めこんだような美しい身体だけを残して、確かにこの世から去ったのだと。あたしは、認めざるを得なかった。


 あっけなかった。混乱の世に新たな時代を切り開く先蜂となった人間の最後が、これか。

 虚しくて悔しくて悲しくて、あたしはレイの遺体を抱いたまま泣き続けた。




 レイと神官達の遺体はミイラ処置されることなく、アケトアテンに残っていた兵士達の手で、砂漠地帯に埋められた。罪人と同じ扱いだった。


 マヌやねえや達は、それをとても悔しがっていたけれど、あたしはどうでもよかった。どちらにしても、この世界のどこを探してもレイにはもう会えない。その事実だけが、あたしにの前に巨大な壁の如く立ちはだかっていた。


 ツタンカーテンやメリトアテン達も、レイの死を知れば平静ではいられないだろう。彼らのこれからが、あたしは少し心配だった。祖国の平穏と存続以外なにも望まず、見えない先駆けとなり戦い続けた男の背中は、彼らにとって、何より大きな道標だったはずだ。

 しかし、レイの死を前にして彼らの心がどんなに乱されようとも、そんな事はお構いなしに新たな時代は始まる。人々の生活は、そこからまた粛々と続いてゆくに違いないのだ。むしろ、そうでなければならない。


 栄誉も平穏も愛も、結局何も手にしないまま、レイはこの世を去ってしまった。

 だからあたしは、墓標すら無い墓の前で願った。これからはどうか、この世界の何か一つでも、レイ。貴方の為に在りますように、と。


 あたしはそれから、アケトアテンに残り、ただレイの為だけに歌い続けた。彼が好んだ旋律を。彼の鎮魂歌にあたる曲全てを。

 もはや二度と叶わない再会を渇望するあたしの気持を慰める歌も、ほんの少し。


 ねえや達は、変わらずあたしの後ろで楽器を鳴らし続けてくれた。

 あたしが歌うたび、マヌは涙を流した。


 ナイルの船着場から船が出る度に、アケトアテンの街は淋しくなっていった。

 街に残っている人達は、足を止めてあたしの歌を聞いたが、いつまでたっても悲しげに歌うばかりのあたしに、やがて皆、興味を示さなくなっていった。

 あたし達を囲む人達は日を追うごとに、少し、また少しと数を減らした。


 無事、ツタンカーメンの戴冠式が行われたと知らせたが届いた頃。レイの診療所と自宅の整理を終えたマヌは、メンフィスへ旅立った。レイの期待を裏切らない為にも、メンフィスの宮廷医の下で学び、一日でも早く少年王の主治医にならねばならないと意気込んでいた。


「マキノには絶対もう会えないんだろうけど。忘れないよ。元気でな」


 マヌの力強い瞳に、少し励まされた気がした。その日に、リュックが消えた。


 マヌが旅立っても、ねえや達はあたしの傍を離れようとはしなかった。 

 マヌと一緒に行かなくてよかったのかと訊ねると、あたしが消えるその日まで傍に居るつもりだと、三人は笑って約束してくれた。


 そして、街の誰もあたし達の歌に見向きしなくなった頃。あたしはようやく、指輪から解放された。

 もう何日も前から、あたし達がそこに居ないかのように通りすぎてゆく人達の前で、あたしの体は透け始めた。


 ねえや達があたしの名を呼びながら何かを叫んだが、もう日本語としては聞こえなかった。


 シトレが腕を伸ばし、あたしを抱いた。

 続いてティイとヘンティも、それぞれあたしの両手を痛いくらいに握り締めた。

 三人が、必死に同じ単語を繰り返している事は理解できた。


「アンケ・ウセト! アンケ・ウセト! アンケ・ウセト!」


 それは『また会う日まで』という再会を願う、別れの言葉だった。




 瞬きの後にそこに広がった景色は、茜色の空に、落ちてきそうな飛行機雲。


 あたしは歩道橋の階段下で、仰向けに倒れていた。


 背中には、荷物が詰まってゴツゴツとしたリュック。身につけているのは、県下有数の進学校の制服。

 左中指には、何もつけていなかった。


 道路を行き交う、煩いほどの車のエンジン音。

 仕事や学校帰りの老若男女が黙々と歩みを進める足音。

 懐かしい電子音と、便利で無機質な物質に溢れた世界にあたしは戻って来た。でっかい失恋を一つ、古代エジプトに落っことして。



 ショーパブ『Silver』に帰ると、店の中には誰もいなかった。

 照明は点けられたままで、ペンダントライトの暖色の輝きが、がらんとした店内を照らしていた。

 バーカウンターには、拭かれ終えたカトラリーとワイングラスが、真っ白なタオルの上に整然と並んでいた。

 テレビは消えていた。


 そうだ。あたしはカトラリーを拭いている最中に、店を出たのだ。思い出し、テレビをつけると、あたしがタイムスリップした日時と同じ数字が、画面の右端に写し出された。  


 あたしにとっては何カ月も前の記憶なのに、この世界ではほんの数分前の出来事なのだと知った。


 なら、これから練習が始まるのだろう。

 もうすぐ、あのいけ好かない眼鏡野郎が現れるはずだ。そういえば、何て名前だったか。忘れてしまった。

 それから、ドラマーの雪さんも。彼女は今日、少し遅れると言っていたか。

 そんな事を考えながらテレビを切って、十組に満たないテーブル席の間を抜けてステージに上った。

 ピアノの鍵盤の蓋を空けてドの音を打つと、弦が叩かれた温かな音色が、淋しい店内に響き渡った。


 そういえば、ケメトではピアノに似た楽器に出会えなかった。ピアノがあれば、もっと音楽に迫力と深みが出せただろうに。


「でも、重すぎて持ち運びできんか」


 旅の楽士に、ピアノはお荷物である。軽く笑って、鍵盤の蓋を閉じた。


 今日の練習曲は何だったか。


 ケメトで最初に歌った曲を思い出した。

 今週末歌う予定の新曲。セクシーで、パワフルで、ボンテージがぴったりの、大好きな映画の挿入歌。この曲の為にボイストレーニングに通って、がなり声の出し方を覚えた。


 あたしは唇をひと舐めすると、呼吸を整え、誰もいない店内で歌い始めた。

 目を閉じて、アテン大神殿前で歌ったあの日の光景を思い出しながら。


 第一声で足を止めた人々が、徐々にあたしの周りに集まりだした。

 あたしの手拍子に併せて、観客も手拍子を始めた。

 流し眼を送り腰をくねらせれば、若者二人がニヤニヤしながら顔を見合わせて喜んだ。

 レイが、しかめ面でアテン大神殿の門を力いっぱい閉めた。同じタイミングで、左右から楽器を鳴らしたねえや達が路上ライブに加わってくれた。


 最後に拳を高く突き上げると、拍手と歓声が沸き起こった。


 目を開けると、空っぽの店内が広がっていた。

 砂だらけの大地も、灼熱の空気も、周りに集まった褐色肌の人達も、アテン大神殿も、どこにもなかった。


 けれど、拍手だけが一人分、そこに残っていた。


 驚いて振り向くと、うちの新人ピアニストが手を叩いていた。白いシャツに黒いスリムパンツ。どこかで見覚えがある気がした。


「やっと歌声が変わりましたね。帰って来たんですか?」


 彼は聞き覚えのある声で意味不明な事を言うと、黒いトートバッグをカウンター席の椅子に置いた。

 眼鏡を外して銀色の眼鏡ケースに入れ、鞄に仕舞った。


「母がイスラエル人ですし、見た目もあまり変わっていないと思うんですが。まあ日本人の血が混ざっている分、肌の色は多少薄くなっているかもしれませんね」


 そう言いながらカウンターに入り、シンクの蛇口を捻った彼は、濡らした両手で額から前髪をぐっと掻き上げた。


「お久しぶりです。お帰りなさい」


 栗色の髪の下から現れた顔は、古代エジプトで砂に埋もれたあの人のものだった。ほんの少し、若返ったようにも見えた。


 あたしは口をパクパクさせながら、レイそっくりの新人ピアニストを指差した。


「う、うま……うま……」


「馬?」


「んなわけあるかい! 『生まれ変わり』って言いたかったの!」


 あたしが怒鳴ると、そうですよ、とピアニストは頷いた。


「私だけじゃないはずですが。まだ気付きませんか?」


 その時、店の奥から銀子の声がした。


「ねえ蜜ぅ。コンビニでラムネ買ってきてくれたー? あたし、頼むの忘れちゃってさー」


 銀子はラムネ菓子が好物だった。


「ティイ?」


 スタッフルームから現れた銀子の姿と、ティイの姿が重なった。


「あられい君。もう来てたのね。どうかしたの? あんたたち」


 エキゾチックな古代エジプト人女性の影を背負った銀子は、あたし達の様子を見て首を傾げた。


 れい。名前まで同じかよ。


 そこからはあたしの頭の中で、現代の知人とケメトの顔ぶれがトランプの絵柄を合わせるように、次々と合致していった。


 坐骨神経痛でショ―パブのピアニストを降板し、代わりに怜を連れてきた松岡さんは、シトレ。ドラマーの雪さんはヘンティだった。


 マヌ。マヌは?


「あ」


 銀子の彼氏のタイ人形成外科医。確か、名前はマヌカムだ。


「あいつだけなんでタイ人やってんだよ」


 しかしそうか。ティイとマヌは仲が良かった。ティイの生まれ変わりである銀子の性転換手術を手助けする為に、マヌがタイに生まれ形成外科医になったんなら、納得できなくもない。のかも、しれない。


 あたしはステージを下りると、怜に歩み寄った。前に立つと、身長差まで見事に再現されている事が分った。


「なんで、あんたは変わってないの?」


 前世と瓜二つの顔に手を伸ばし、訊ねた。触れた頬は、最後に触れた時と同じ柔らかさだった。


「左手首から下を無くした女性が、あの世で力を貸してくれました。あなたへのお礼と、お詫びだと」


 そうか。ネフェル・メスェティが。


 あたしは、笑いが込み上げて来るのを止められなかった。

 なにせ、とんだボランティアだと思っていたのである。それがこんな大ボーナス付きの報酬を貰えるとは。


 あたしは怜に質問した。


「今回もバツイチですか?」


「未婚です。二十二の学生ですし」


「恋人はいますか?」


「今はいませんが……中学高校で、一人ずつ」


「ノー・プロブレム!」


 あたしは飛び上がり、怜の首にしがみついた。ミルラの香りもヨモギの香りもしなかったが、洗濯石鹸の香りが鼻をくすぐった。


 おおっ! と驚いた銀子が目を丸くした。


 ミツ、と怜が耳元で名前を呼んだ。


 生まれ変わっても色気のあるいい声してんなちくしょー!


 電気刺激みたいな快感が体中を駆け廻り、身震いしたあたしは、更に強く怜を抱きしめて歓喜の雄叫びを上げた。


「大団円やーん!」



~完~

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ネフェル・メスェティは歌う みかみ @mikamisan

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