第30話 神殿を閉鎖せよ
ツタンカアテンは出立の日まで、床に伏すこと無く耐え抜いた。
出立の日の朝。少年王は五人の姉達と共に、アテン大神殿で最後の祈りを捧げた。
離宮から神殿までの坂道では、少年王に伴ってアケトアテンを出立する兵士や家臣達の列が、大名行列のような帯を作っている。あたし達楽士は、神殿正門前の、列から少し外れた場所で、ツタンカアテンが出てくるのを待っていた。
神殿正門の両側には、狛犬のようにアイとホルエムヘブが控えている。
通りにはぺル・アアの行列を一目見ようと集まった市民らが押し寄せ、兵士達に道の脇へと誘導されている。その中には、マヌもいた。
神殿の建物から、開け放たれた正門までの通路の両端には、アテン神官達がずらりと並んでいる。
礼拝を終えたツタンカアテンとその姉達が出て来ると、神官らはイネブヘジへと旅立つ王に、次々と黙礼した。
神官が作る列の最後尾つまり正門の前で、レイは待っていた。ツタンカアテンが杖をつきながら正面に来ると、レイは両手を胸の前で重ねてゆっくりと頭を下げる。
「百名の神官が、陛下に追随いたします。どうか、お心安らかにおられますよう」
「大義である」
二人は儀礼的な挨拶を交わした。
最高司祭とぺル・アアが並んで門を潜る。続いて五人の姉達も門の外に出て横一列に並ぶと、ツタンカアテンは正門に振り向き、厳かに命じた。
「神殿を閉鎖せよ」
少年王の若々しい声に応えて、数名の神官が左右の石扉をゆっくりと合わせていく。やがて内開きの扉は重い音を発しながら、外界との繋がりを断った。
扉が完全に閉まると、ツタンカアテンはレイに歩み寄った。つま先立ちになり、レイの耳元で何かをボソボソと話す。
レイが僅かに目を見開き、次いで口元に笑みを作った。
つま先立ちをやめたツタンカアテンは、これまでで一番精悍な表情でレイと微笑みを交わすと、左右の狛犬に「行くぞ」と告げた。輿へ向かって、歩きだす。
用意されていた七つの輿に、ツタンカアテンと五人の姉、最後にアイが乗り込んだ。
七つの輿はやや揺れながらゆっくりと持ち上がり、出発の合図を待つ。
「出立せよ」
アイが声高に命じた。
街の西側を流れるナイル川の船着場へと、行列は進みはじめる。門の外に出ている神官達は、頭を下げて輿を送り出した。
ホルエムヘブは、ゆっくりと流れる行列を暫く見守っていたが、去って問題ないと判断したのか、大股で行列の後部へと戻って行く。
アイもホルエムヘブも、レイには別れの挨拶どころか一瞥すらくれなかった。レイが言っていた通り、本当にこの三人は、仲間ではなくケメトを支えていた三本の柱に過ぎなかったのだということを、あたしはこの時初めて実感した。
「これから少しずつ何年もかけて、アケトアテンは空になるでしょう」
ツタンカアテンの見送りを終えたレイが、あたし達の所に来て感慨深げに言う。
見送りを終えたといっても、列はまだまだ続いている。多分、最後尾が宮を出発するのは、夕方になるだろう。
大名行列を眺めるレイのその顔に悲壮感は無く、むしろ何かをやり遂げたように、満足げだ。
ツタンカアテンは出立前にレイに何と言ったのか訊いてみると、レイはくすぐったそうに微笑んだ。
「私の努力は無駄にしないと。私のようなぺル・アアになりたいと。言って下さいました」
少年王の成長を目の当たりにした顧問役は、とても幸せそうだ。
「先生!」
マヌが人ゴミを抜けてやって来る。
「診療所に患者が来ました。この前縫った傷口が痛いらしくて。今日は無理だって伝えたけど、どうしても! って聞かないんです」
「メンフですね。神殿まで来たら診てやると伝えて下さい」
「分りました。見たとこ綺麗に塞がってたんで、一応抜糸用の道具も持ってきますね」
出立の日だというのに診療所で仕事をしているマヌに、ティイが首を傾げて訊ねる。
「マヌは一緒に行かないのぉ?」
「引越しの準備が終わってないから、後の便で行くんだ」
家族で移動するのかと訊いたあたしに、マヌは首を横に振った。
「言ってなかったっけ? 俺、父さんと二人暮らしだったけど、お前らが来る前に毒蛇にやられて死んだんだよ」
マヌの口調は軽かった。
「そうだったんだ。辛いこと訊いてごめん」
「ケメトじゃよくあることだよ」
軽率な質問を詫びたあたしに、マヌは明るく笑って、走って行く。
「結局オヤジさんは死んじゃったけど、その時治療してくれた医者がレイだったんだってさ」
ヘンティがあたしの横に並んで、教えてくれた。
手遅れだと知りつつも、出来得る治療を全て施してくれたレイの姿に感銘を受けたマヌは、父親の葬儀が終わってから、レイの弟子になる為に診療所へ通いつめたのだそうだ。「あなたの事、色々誤解してたわ。今更だけど、ごめんなさいね」
ばつが悪そうに、シトレがレイに謝る。
「本当に今更ですね」
レイの返事には遠慮がなかった。シトレは頬を膨らませる。
「だからごめんって言ってるのに」
「口で謝って駄目なら、行動で示せばいいんじゃなぁい?」
悪戯っぽい笑みに可憐な唇を持ち上げたティイが、キスしてやろうとレイに迫った。にやりと笑ったシトレとヘンティもそれに続く。
「待って待って待って!」
ここに本命がいるんですよ! とあたしは割って入った。キャッキャと楽しげに笑うねえや達を押し戻してから、レイに振り向く。
「接近禁止令は?」
「もちろん継続中です」
融通の利かん奴だ。
あたしは舌打ちした。あの手この手の手札を使いきった激戦の末、『解禁日を三日に一回!』の駆け引きに勝ちはしたものの、人前での接近禁止令までは変えられなかったのである。
仕方なしに、あたしは握手を求める。
「本当に、戴冠式には会えるの?」
「そう願いますが――運命に従いましょう」
レイはあたしの手を固く握ると、胸の中にあたしを迎え入れた。そして、教師のような口ぶりで、「あなたの進む道に、幸多からん事を」と激励して背中を叩くと、さりげなくあたしの首筋に口づけて離れる。
口づけされた際にピリッとした痛みが走ったので、針でも刺されたのかと思い首筋を触ったが、指先には何も触れなかった。
「何だよ、運命って」
カッコつけんな。
首筋を摩りながら仏頂面でレイを仰ぎ見る。
今にも泣き出しそうな微笑みが、あたしを見下ろしていた。
「あなたは私の人生に花を添えて下さった。礼を言います」
あたしは戸惑った。
何故、そんな顔をするのか。
「どう……いたしまして」
とんでもなく美しい微笑みであるにも関わらず胸が痛くなり、見ていられなくなったあたしは、俯いて短く答えた。
あたし達が船着場に到着した頃には、王族を乗せた第一陣は既に出港していた。
木造船と陸を結ぶ桟橋を渡っていると、河面を滑ってきた強風が、あたし達に吹き付ける。
「おっととと!」
先頭を歩いていたシトレが突風にバランスを崩し、大事なハープを取り落としそうになり、慌てる。
「あらあ? マキノ、首のそれぇ」
ティイがあたしの首筋を、人差し指でつついてきた。さっき、チクリときた場所だ。虫にでも刺されたのもしれないと言うと、ひょっとこみたいな顔になったティイが、盛大に吹き出す。
「虫! まあ、悪い虫を追っ払いたいが為に虫がつけたんだから間違いないわぁ!」
ケタケタと笑うティイの後ろからヘンティも身を乗り出して、あたしの首筋を確認する。
同じく、吹き出した。
とうとうつけた! あいつ、とうとうつけた!
何度も同じことを言いながら、腹を抱えて笑う。
「しかもこんな、髪かき上げなきゃ分んないとこに! 意味無いっつーの!」
「何がついてんの?」
荷物を持っていない方の手で、自分の膝をバシバシ叩きながら爆笑しているヘンティに、あたしは訊ねた。
キスマークだ。
ティイとヘンティが同時に答える。
え? それって……。
「赤くなるやつ?」
「そう」とティイとヘンティの声が揃った。
「所有印とかいうやつ?」
「そう」
また揃う。
「『明日学校なのに、消えないよどしよう~』とか言ってるやつ?」
「多分……そう?」
最後の質問には、ティイが首を捻りながら答えた。
都市伝説かと思ってた……。
あたしは愕然とした。
「見たい! シトレ、鏡かして!」
これは絶対、この目に収めておかねばならん!
いきり立ったあたしは、化粧道具一式を背負っているシトレに手を伸ばす。
「無茶言わないで!」
叫んだシトレの両手は、荷物でいっぱいだ。
「何回お泊りしても、一つも付けて帰ってこなかったから、『つまらないなー』って話してたんだけどぉ。あの人、やっと素直になったのねぇ」
「運命なんてスカしたこと言ってたわりに、あいつが一番離れ難かったんじゃないの?」
ティイとヘンティがくすくす笑いながら、この場にいない頑固者をからかう。
さだめ。
レイは、運命に任せると言った。再会も、離別も、運命次第だと。
ふざけんじゃねえぞ。
あたしは、怒りが込み上げてくるのを感じた。
レイ。運命ってのはな――!
「自分で切り開くもんなんじゃい! アホウンダラ!」
気づいたらあたしは、ティイとヘンティの脇を通り抜け、桟橋を駆け降りていた。
「え? ちょっと何どうしたの! 揺らさないでキャー!」
後ろで、シトレの悲鳴が聞こえた。
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