第29話 先を行く者、残る者

 宴の席で、アイはアテン大神殿最高司祭の任をレイに譲渡していた。いや。譲渡したというよりは、押しつけたのである。


 遷都にともない今後はメンフィスに居住を移さねばならず、メンフィスから六百キロも離れたアケトアテンの大神官を兼任するのは、老いぼれの身には辛い。そのような表向きの理由を、アイは宴の席で自虐的に語った。

 実際は、レイをアテン大神殿に縛りつける事で、今後の政治への介入を拒絶する意思を示したのである。


 最高責任者となれば、神殿が更地に戻るか、最後の神官がその場所を去る日まで、そこに留まり見届けなければならない。

 アイは、厄介事と厄介者を同時に体よく排除したのであった。


『勤勉なるレイ神官に、アテン大神殿最高司祭の任を譲りたく思う』


 宴を催したのは、この為か。


 先日のアイとレイとのやり取りを盗み聞きしていたあたし達は、古狸の狡猾さに舌を巻いた。


 ホルエムヘブを除く列席者達は、若き最高司祭の誕生に、祝福の拍手を贈った。拍手をしている貴族たちも、この譲渡がめでたいなどとは思っていない。ただ、どうでもいいのである。彼らにとっては、国政を支えていた人間が一人、前戦を退く。それだけであった。


 レイにしてみれば、ツタンカーテンが新時代を導くヌスウェトとして君臨できさえすれば、これ以上治世に介入する気は元々無かったのである。故に、『余計な事をしやがって』といった心情でいるのだろうと思われた。しかしながら、最高司祭となると、気軽に身をくらませられなくなった分、面倒くさい状況になったとも言えた。


 ツタンカーテンは、頼りにしていた顧問役の解任が急に決定してしまい、うろたえていた。


 神官の任命は、ヌスウェトの仕事である。


 さあ陛下。レイ最高司祭に祝福を。


 アイや貴族達から、この場で新たな最高司祭の誕生を認めるよう促された少年王は、自分の前に跪いた顧問役を不安げに見下ろした。


『レイ……』


 どうするんだ。


 指輪はあたしの耳に、非力なヌスウェトの困惑した声を微かに届けた。続いて、ここはアイに従うよう指示する、レイの小声も。


 ツタンカーテンは躊躇いながらも、レイをアテン大神殿最高司祭に任命する旨を宣言し、神の子として、誕生したばかりの最高司祭の額に祝福のキスを一つ落とした。


 拍手が再び起こった。

 

 空っぽだな。


 キスにも拍手にも、祝福など存在しない。

 見ていて、虚しかった。




 市民に王命を下した日から。――いや多分、レイがアテン大神殿の最高司祭に就任したその日から、ツタンカーテンの顔色は日増しに悪くなっていった。宮で出会う度に、不安そうに俯いたその幼顔を上げる少年王は、取り繕うような笑顔を浮かべた。


 気持ちを落ち着かせたいのか、歌ってくれ、と求められる事も多くなり、あたし達はいつでもツタンカーテンの求めに応じられるよう、宮で待機するようになった。


 ツタンカーテンの呼吸は日に日に浅くなっており、側弯も酷くなっているように見え、また床に伏すのも時間の問題のように思われた。


「レイが一緒に行ってくれないって分ったから、不安なんだよ。信頼できる人がいなくなるんだから」


 少年王の憔悴しょうすいぶりを見かねたあたしは、アテン大神殿の最高司祭執務室へ、こっそり足を運んだ。レイは最高司祭に就任してからといもの、アテン大神殿でほぼ缶詰状態で働いていたのである。


 早く登城して、ツタンカーテンを元気付けてやってくれ。


 あたしは、目にうるさいほど鮮やかな壁画で装飾された執務室の真ん中で、パピルスにくにゃくにゃとした文字を書いているレイに頼んだ。この文字は神官文字といって、人々が日常的に使用するものだった。


「陛下のご容態については、マヌから毎日報告を受けていますよ。彼にはいずれ、私に代わって陛下の主治医になってもらうつもりなので。丁度メンフィス宮廷医に知人がいるので、残りの教育はその人物に任せるつもりです」


 広い机の上で、レイは書き物を続けながら、そのように答えた。


 主治医まで降りるつもりなのかと驚くと、ここに残るのにどうやって主治医を続けるんだと逆に質問された。

 確かに。現代では車や飛行機を頼れるが、ケメトでは徒歩か馬やラクダ。もしくは船が関の山である。何百キロも離れた場所に主治医を持っていても仕方がなかった。


「私がいずれ一市民に戻るつもりでいたのは、陛下も承知の上でした。その為に、スメンクカーラーは市民に顔をさらさず、葬式まで出したのです」


 あの宴会に出席していた大貴族達でさえ、スメンクカーラーの姿を知らない。


 レイは言いながら、机の隅に詰み上げられた書類の一番上に、書き終えた書類を置いた。

 置いたと思ったら、すぐに反対側の隅にあるパピルス紙の山から、まっさらなものを一枚取り、また新しく書き始めた。 

 名簿と思われる紙を時折確認しながら、「彼は――メンフィス出身。プタハ神殿になら空きはあるか……」などと、ぶつぶつ言いながら、さらさらとペンを進めていく。


 レイは、アテン大神殿に務める神官達の転職先を検討し、紹介状を書いている。

 上司とはつまり、部下の身元保証人でもある。レイも、実に面倒な役職を押しつけられたものであった。


「頭で分かってても、心の準備ができてないんでしょ。気持ちは分るよ」


 いずれ日本に強制送還される自分と、重役達の決定に逆らえず故郷を離れる少年王を重ね合わせたあたしは、沈んだ気持ちを吐きだすように、ため息をついた。


 この時リュックに残っていたのは、カーディガンとシャツとスカート。あたしの返還も、目の前に迫っていた。


「なら、準備して頂かねばならない」


 突き放したような厳しい答えが返ってきた。


「アイとホルエムヘブと話しました。彼らは陛下の治世を支えると約束した。ならば、私の顧問役としての仕事も終わりです」


 私が傍にいたのでは、いつまでたってもあの方は真の王になれない。


 回答の内容は冷たかったが、静かな声色の中にある断腸の思いは、伝わってきた。


 レイが、ツタンカーテンやその姉達に対し、忠義だけでなく親族としても愛情を注いでいた事は、見ていてれば分る事だ。


 レイが登城しないのは、忙しいだけでなく、ツタンカーテンの精神的な成長を望んでいるからだと知ったあたしは、何も言えなくなった。


 レイは一旦筆を止めて、何かを思案するように黙りこんだ。やがて顔を上げると、あたしに頼みがある、と言って来た。


 レイから何かを頼まれるなど初めての事であり、あたしは舞い上がった。


「何でしょう? お役に立てるなら、なんなりと!」


 尻尾があったら千切れんばかりに振っていたに違いない。あたしはワクワクしながらレイに詰め寄った。


「メンフィスへ旅立つ陛下の傍に、いてあげてください」


「え?」


 それは、あたしにツタンカーテンと一緒にメンフィスへ引っ越せ、と言っているのか。確認すると、その通りだ、と肯定された。

 

 あたしは返答に困った。

 あたしの歌が、少年王のビタミン剤になっている事は確かだった。けれどそれでは、あたしはレイと早々に別れる羽目になってしまう。


「シトレにはもう相談しました。彼女は、ミツ次第だと答えました」


「でも。そんな事したらあたし、最後までレイの傍にいれないじゃん。日本に帰る時は、ねえやとレイから『押しくら饅頭』されながら消えるって決めてんのに」


「何故そんな遊びをしたいんです?」


 レイの怪訝な表情を見る限り、指輪の翻訳は、本当の『押しくら饅頭』をレイにイメージさせたようだった。


 それくらいギュウギュウに抱きしめられながら消えたいという事だと補足説明をすると、レイは納得してくれた。


「善処しましょう」


「無理じゃん。メンフィスに行ったら、もう二度と会えないんだから」


「戴冠式には顔を出すつもりです。その時に会えますよ」


「うそつき」


 レイは困ったように微笑んだ。

 確かに絶対の保障はできない、とあたしから視線を落とした。


 あくまで決定権はあたしにある事を強調しながら、レイは言い含めてきた。


「誰でも、他の誰かの救いになる事は出来ます。しかし皆があなたのように、人の救いになる才能を持っている訳ではありません。私は、病床の陛下に歌って下さったミツの姿を、とても素晴らしいと感じました」


 ずるい奴だ。

 こんな事を言われたら、頷いてしまいたくなるではないか。


 それならせめて、接近禁止令を解け、とあたしは要求した。


「それは無理です。私がアイとホルエムヘブ双方から疎まれている状況は、なんら変わりません。あなたの身の安全の為にも、人前では距離を保って下さい」


 それに――


 レイは言い継いだ。


「顔を合わせる度にベタベタされたら、たまったものじゃありません」


「そっちが本音だろてめえ」


 情に厚いのかドライなのか、どっちだよ。

 膨れたあたしは、ひとまず回答を先延ばしにして、アテン大神殿を後にした。




 離宮には戻ったが、そのまま楽士用の部屋に帰る気になれず、あたしは中庭に行く事にした。


 宮の中は、引越しの準備で慌ただしかった。女官や男性の召使達が荷物を運んだり、掃除用具を手に廊下を行き交っていた。


 時折雑談を交わす庭師のオジサンはどうしているだろうか。彼もメンフィスへ行く準備をしているのだろうか。そんな事を考えながら蓮池前に辿り着くと、あたしの定位置に誰かがいた。


 やや左に傾いだ小さな背中。腕や足を飾っている一般市民では身につけられない立派な金の装飾品が、太陽の光を反射していた。


 ツタンカーテンだった。


 彼は従者もつけず、ぽつんと寂しげに階段に座っていた。


 姉でもなく、妻でもなく、導き手でもなく、この子に友達がいればいいのに。


 頼りなげな少年の横顔を目にして、そのような考えがよぎると、続けて、仔馬の様な少年の姿が浮かんだ。


 ああそうか。だからレイは、マヌを育てる事に決めたのか。


 やり手顧問役のご慧眼けいがんに、流石だなあと感服しながら、少年王に声をかけた。


 少年王は顔を上げると、ホッとしたような笑顔を見せた。


「ミツ。よかった。探していたんだ。歌が聞きたくなって」


 この二、三日は毎日である。あたしは「喜んで」と笑顔で頷くと、ツタンカーテンの隣に座った。


 友達、というフレーズが頭に残っていた為か、青色ロボットの映画曲が浮かんだ。

 本当に、このアニメに出て来るような友達が、ツタンカーテンにできればいいのに。


 あたしは、男性俳優の優しい歌声を思い出しながら、少年王の未来を祈って歌った。 


 五分に満たない演奏時間が終わると、ツタンカーテンはいつものように「ありがとう」と感謝の言葉をくれた。


「あと何回そなたの歌を聞けるか分らないけれど、ちゃんと覚えておくよ。そなたの歌は、私を元気にしてくれるから」


 あたしは言葉を失った。この少年王は、あたしをレイの傍に置いておこうとしてくれていたのである。あたしの歌が、自分に必要だと自覚しながらも。


 ジレンマは終わりを告げた。


「分った。行くよぅ」


 あたしは両膝の上で腕を抱え、その中に顔を突っ込んで丸まった。そうでもしなければ、叫んでしまいそうだった。


 行きますよ。行けばいいんでしょうが! こんちくしょー! と。


 あたしは腹を決めた。


 レイとの離別は避けられない。それがほんの少し、早くなるだけである。だったら、レイの望みを叶えてやった方がいい。自分が誇れる事をしたほうがいい。あたしは自分に言い聞かせた。


 ……その代わり、解禁日を三日に一回くらいに短縮してもらおう。


 楽しみと幸福を追求するパワーは誰にも負けない自負がある。


 くずくずしている暇は無い。あたしは早速、アテン大神殿の最高司祭執務室へ戻っておっぱじめる駆け引きの為に、思考をフル回転させた。


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