縁契り

織葉 黎旺

縁契り



 憧れという毒が全身に回りきって、早十数年が経った。

 焦がれた未来は遥か遠くて、手が届くまでは何光年。引き返すことは最早難しい。何せ他のレールは、自ら壊して回ってきたから。後戻りなんてできやしない、最悪のコンコルド効果だ。


 それでも生きていかなきゃいけないし、まだワンチャンスあるかもしれないという希望が捨てきれなくて、日々を糊するために小銭ばかり稼ぐ。でも、それももう限界だった。


「ならばそのえにし、儂が断ち切ろうぞ」


 蜘蛛の巣の張った賽銭箱の上に座る影は、そう言って笑った。



 *



 川沿いの小さな公園、その脇に立つ林を抜けた先の細道。

 そこに小さな神社が建っているのは知っていた。あいにく参拝客には一人たりともお目にかかったことはないが、立地の問題なのか立て壊される様子はない。僕が幼かった頃から、ずっとそのままだ。


 立ち寄ったことに特に理由はない。ただ、行き詰まって散歩していたらたまたま近くを通りかかって──藁にもすがる思い、とかではないけれど。何かが起きることに期待して、苔むした鳥居を潜ったのだ。



 神社は驚くほど記憶のままの姿を保っていた。狭い境内、鬱蒼と生い茂る木々、青草の匂い。御神体の前にある賽銭箱には薄く蜘蛛の巣が張っている。



 そもそもこの神社が何の神を祀っているのかすらわからなかったが、来た以上は礼儀として賽銭を供えて、二礼二拍手一礼。何を願うか迷って御神体を見れば、崩れた字の中に『えにし』の文字があることに気づく。なるほどそれならばと、自分の夢への良縁を祈願する。


 手を合わせてから数秒して、何かに見られていることに気がついた。


『それじゃご利益は何もないのう』


 目を開けると、賽銭箱の上に質感を持った影が座っていた。より正確に言えばそれは、幼女ほどの大きさの人型で、恐らく膝を組んで、どこか達観した様子で僕を見つめている。


『何じゃ。久々の客だからと姿を現したものを、感謝も狼狽もせぬとは』


「いや、ちゃんと驚いてはいますよ。ただ理解が追いついていないだけで」


 目の前にいるはずなのに、影の声はイヤホン越しに聴こえてくるように響いた。中性的でそれらしい特徴もない声。


「ご利益がない、というのは?」


『そのままの意味じゃよ。この神社では──というか儂には、そんな芸当はできない。できるのはその逆、えんを断ち切ることだけじゃ』


「あ。そっちだったんすね……」


『もっとも、力が落ちすぎて、いまの儂にはそれすらままならぬが』


 ただ、と影は続ける。


『比較的縁の薄いものであれば、断ち切ることも可能じゃろう。どうする? 曲がりなりにも信仰をもらったことじゃし、可能な限りは試してやるが』


「…………なら」


 少し逡巡して、トートバッグの中から原稿用紙の束を取り出す。


「これとの縁を切ってください」


『いいのか? 切れないほどではないが、それなりに縁の強さを感じるが』


「だからこそです。ずっとコイツに囚われているわけにはいかないですから」


 幾度も改稿を繰り返して、様々な賞に出し続けてきた小説。絶対に面白い、結果が出ないのは審査員との相性が悪いだけだと言い訳のように繰り返した。でもこればかりに縋る訳にはいかない、もう前を向かなければ。


『あいわかった』


 影は紙束を顔へと運んでいく。まるでシュレッダーにかけているかのように、端から徐々に消えていき、やがて完全に見えなくなった。


「どこに消えたんですか?」


『我が肚の内に』


 なるほど。たしかに、あれほど抱いていた熱情も、葛藤も、嘘みたいに消え失せていた。同時に影はどくん、と脈打つように震えて、その体格を一回り成長させた。


『馳走になったな』


「いえ、こちらこそ」


『そうじゃな、せっかくじゃし──』


 呟くと影が蠢き、その形を変えていく。広がった影はドレスのように奴を覆い尽くし、その渦巻きをかきわけるようにして中から女が姿を現した。


「どうじゃ。このほうが喋りやすいじゃろう?」


 先程までその身を包んでいた影と同じ、烏の濡れ羽色の流麗な長髪。それと対称的な白いワンピース、すっと通った端正な顔立ちの涼しげな目元。讃えられた微笑から、先程までと同じ声が響いた。



「もしかして、その姿は──」


「ああ、ちょうどいいからぞ。別にいいだろう、もう縁はないのだから」


「まあそうだけど」


 その姿は先程の小説のヒロインの姿に瓜二つだった。ずっと頭の中にあったそれと寸分違わない美しさ。だというのに、僕の心は少しも揺るがず、ただ淡々とそれを眺めていた。


「お陰様で少し力が戻った。何かあればまた来るがいい。未練ごと断ち切ってやろうぞ」


「────じゃあ、お願いがあります」


「何なりと申せ」


 言葉は迷いなく口をついて出た。


「僕と──小説の縁を、切ってください」



 *



 書くということは、辛く苦しい。文字通りのライフワークとなってからは、楽しいと手放しに言い切れなくなった。

 ネタ出しも、プロット作りも、実際に書いていく過程も──かけた時間の割にロクなものはできないし、どこかで見たようなものばかりだし、本当に面白いのか分からないし。

 でも他にやることも、できることもなくて。末期のギャンブラーよろしく、縋るように続けてきたが、やめられるならそれに越したことはない。一縷の願いを込めて、言葉は迷いなく発された──が。



「それは無理じゃ」


 僕の願いは秒で断られた。


「儂の縁切りじゃが、物と物との縁を引き裂いた後に、それを食べきることで成り立っておる。今の儂の力では、それほど強い絆は断ち切ることができぬ」


「……そうですか」


「が、方法がないわけではない」


 彼女の背後にある影が、大きく伸びる。


「縁を食べれば儂の力は増していく。故に、こうして地道に力を増していけば、いずれはその縁も断ち切ることができようぞ」


 影が鋏を象って、チョキチョキと空を切った。


「手間はかかるし失うものも多い。それでもいいなら儂は構わんが」


「お願いします」


「あいわかった」


 即答だった。そうして、神社に足繁く通う日々が始まった。バイトだらけの日々の隙間を縫って、書いた話を一つ一つ彼女に食べさせる。



 自転車を漕ぐ話。バイクで夜明けを探す話。バスの中で走馬灯を見た話。電車で乗り合わせた不思議な女の話。



 一つ食べるごとに影は大きくなっていって、僕の作品は減っていく。そして彼女の象ることができる姿も増えていった。それでも僕が訪れるときは毎回律儀に、あの少女の姿で待っていて。



「今日はどんな話を食わせてくれるのじゃ?」


「なんでもいいでしょ、入ればわかるんだから」



 凍った世界の話。終わった世界の話。二人きりの永遠の話。



 季節が巡って、話のストックがなくなって、そこで終わってもいいはずだったのに、筆は止まらなくて。



「近頃はペースが落ちたな。儂を飢え死にさせる気か?」


「僕が来なけりゃひっそり消えてなくなってた癖に、ずいぶん偉そうな」


「一度知った味は忘れられぬからな」


 酒を飲む話。煙草を吸う話。女に溺れる話。



 そこまでくれば目の前の女が、神でもなんでもなくただの化物らしいということに察しはついたが、そこに大した違いはないように思えた。こんな意味のない日々と縁を切れるなら、それでよかった。



「なあ、そなたはどうして物を書く」


 恐らく二桁回目の参拝となったある日。物書きの女に憧れた話を食べさせた後に、影はそう聞いた。ほとんど業務的なやりとりの繰り返しだったので、僕に対して何かを言われたのは初めてだったと思う。


「言葉を考えるのは、昔から好きだったから。国語の授業だとか読書感想文だとかでそれなりに成功して褒められるうちに、ああ自分はこれが得意なんだな、ってわかって、他にやりたいこともなかったから」


「ふうむ」


 自分から聞いてきた割に気の抜けた相槌を打って、彼女は小首を傾げた。「そんな浅い味わいではなかったがな」



「縁にも料理のように味わいがある。人間がその縁に抱いた想いでそれは変わる。甘い恋、苦い思い出、辛い記憶。さらにその想いの強さによってコクが出たり、深みが増したり」



 この辺は酒のようなものだな、と影は言う。



「そなたのは上等な日本酒じゃ。灰汁もえぐみもなく、ひたすらに熟成されている。ひとえに、そなたが純粋に夢を追いかけてきたからではないのか?」


「…………それは」


 言葉が詰まる。そんなはずはない、そのような純粋な感情はとうに消え去ったはずだ。妄想の中ですら現実に打ちのめされ、実力不足をわからされ、悔しながらも、苦しみながらも、特にやめる理由がないから惰性で続けている。それだけなはずだ。


「まあ所詮取引に過ぎぬ故、儂にはどうでもいいんじゃがな」


 そういって彼女は、白くしなやかな掌を弄んだ。




 *



 書くものがなくなった。それでも頭はネタを求めていて、だから縁を切りたいんだと、そう思った。



 サンタクロースのアルバイトをする話。雪女に遭う話。狐に化かされて思い出す話。



 今までよりももっと顕著な妄想で食いつないだ。綺麗なものを書きたいと希った。



「背伸びしたものはそんなに美味しくないのう。等身大のそなたのほうが味わい深い」


「美食家かよ」


「儂の好みの味に合わせたほうが、縁を切れるまでも早いぞ?」



 そう言われてしまえば、従う他なかった。

 旅の話。見てきたものの話。幼少期の思い出の話。

 薄利多売もいいところだ。そんな状況すら作品として昇華した。自分を切り売りするとはこういうことかと思うほど、何でも書いた。書けば書くほど自分という人間の薄さが見えてきて、辛うじて残っていた個性や特徴も、出汁を絞り尽くされた骨みたいに、雲散霧消していく。



「うむ、満足じゃ」


 買い溜めていた原稿用紙をちょうど使い切ったタイミングで、彼女はそう言った。背後に広がる影は、既に境内を覆い尽くすほどにまで成長している。


「そろそろいいじゃろう、縁を切ってやる」


「……さては無駄に書かせたな?」


「ふふふ」


 彼女は笑うばかりだった。呼応するように影が大きく蠢く。


「さて、ここまで育ててくれたそなたには感謝しかないのう。これほど力があれば──」


 伸びた影が、帳のように降りてくる。


「──そなたと現世の縁すら切って、飲み込むことができる」


 捕食するように、影は僕の身を包んだ。そこはもう境内ではなかった。四方八方闇に包まれた空間、バケモノの肚の中。


「僕は……死ぬのか?」


「なあに、肉体的には死なんよ。ただ、この世のありとあらゆるものから縁がなくなるだけで」


 家族からも友達からも恋人からも苦痛からも快楽からも感情からも死からも生からも小説からも──縁が切れるのだと、そう言った。


「なんじゃ、嬉しそうに笑って」


「いや、楽になるんだなと思って」


 闇の中でもいつも通りの姿の彼女が、呆れたように口を開く。


「思うに、そなたからもっとも縁遠いのは恐怖という感情じゃろうな」


「嫌なものはあっても、怖いものはないよ。あるものはある、それだけだから」


 そうでなければ縁切りのバケモノなんて胡散臭いものを信用して、ここまで通い詰めはしない。いずれはこうなるかと思っていたから、恐怖も驚愕もありはしない。織り込み済みだ。


「────つまらんな」


 吐き捨てるように呟いて、彼女は僕の頬を両手で強く挟み込んだ。氷のように冷たくしなやかな指の感触。首を傾げる間もなしに、唇が触れた。


「んっ!?」


 それは、明らかに捕食だった。動揺する間も押しのける間もなしに、口内を貪られる。吸われる。涎ではなくて、何か別のものが。縁とか、生命が。

 透けていく。希薄になっていく。その実感がある。認識がぼやけていく。


『──そなたと儂の縁を、千切った。誰が貴様の思い通りになぞ動くものか』


 影が薄くなっていく。晴れていく。彼女の輪郭が、声が、消えていく。


『せいぜい生きていろ。生み出していろ。苦しみ、藻掻き、足掻いて────そうしてきちんと絞りきったら、その時は』


 きちんと食事してよんでやると──そう笑って、影は見えなくなった。



「…………」


 閑散とした境内は、記憶の中のそれよりも、余程風化して見えた。僕はポケットの万年筆を弄んで、静かに鳥居を潜る。瞬きと同時に強い風が吹いて、白紙の原稿用紙がどこかへと飛んでいった。

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