下
ザッと血の気が引くのと、ゾッと怖気を感じたのと、咄嗟に振り返ったのは全部同時だった。
鏡越しに、突如黒い何かが背後に立ったのを見た瞬間に俺自身が感じ、できたこと。
その反動で、足がもつれて後方に倒れ込んだことは、むしろラッキーだった。
風切り音を立てて、頭上スレスレを何かが通り過ぎ、背後にあった丈の長い草花を薙ぎ払った。
舞いあげられた残骸がバラバラと頭の上に降って来る中、俺は《それ》と対峙していた。
《それ》は影だった。他に表現のしようもない、黒い黒い影。
そんな中、真っ赤な二つの真ん丸の眼……らしきものと、俺の眼はがっつりと合っていて。
真っ黒な影がゆらゆらと伸び縮しながら、明確な殺意を持ってこっちを睨み付けていた。
殺意と言うものを、俺は生まれて初めて感じたかもしれない。
体が芯から震えて、心臓が痛いほどに大きく鼓動して、呼吸がやたらと速くなった。
生まれてこの方、これほどの恐怖を感じたことはないと思う。
意味が解らなかった。これは夢の中のはずなのに、ただの夢のはずなのに。
嫌でもハッキリと死を意識させられた。
そんな中、影の一部が剣のように伸びて、背後に振り被った。
逃げなきゃ、逃げなきゃ、逃げなきゃ!
思ってはいるのに、体が動かない。
そうしているうちに、影で作られた剣が勢いよく振り下ろされる。
殺される!!
心臓が縮み上がるほどの痛みが襲う中、咄嗟に俺は両腕を頭上に掲げて無駄な抵抗を試みた。
盾でも籠手でもなんでもいい!! あの一撃を止められるものが欲しい!!
刹那。ガイィイン……と、重い金属同士がぶつかる音と衝撃が腕を伝った。
何が起きたのか理解できずに驚いて見上げると、そこに、腕の先に、体全体を覆うほどに大きな盾が現れていた。
その上から、何度も何度も何度も何度も、重い衝撃が伝わり、金属音が鳴り響く。
何故? とか、どこから? とか疑問は確かにあったけど、それでも、凌げたことに俺は心底ほっとして、でも、何も解決していないことにひたすら焦る。
落ち着け落ち着け。ここは夢の中! 盾が出て来たんだから、魔法の一つでも使えるかもしれない。こういう時は、火の玉でもぶつけるに限る!!
そう思って、頭の中で火の玉を想像し、あいつを倒せと念じて見た。
刹那、掌が熱を帯びて、ポッと火の玉が生まれた。
でも、生まれただけで飛び出して行ったりはしなかった。むしろ、
「熱い!!」
生み出した掌自体は熱さを感じはしなかったが、その火の玉が反対の腕に触れた瞬間感じた熱さに、思わず悲鳴を挙げて火の玉を投げ捨てる。
すると火の玉は、地面の上で小さな焚火の如く燃え続けていた。
頭の中は再び混乱に見舞われた。
だって、普通こういうときはど派手な魔法で相手を倒して窮地を脱するもんじゃないのか?! 夢だろココ?!
と、内心で悲鳴を挙げている間にも、叩きつけて来る衝撃は消えなくて。むしろ、びき。びきっと、聞きたくない音まで聞こえて来て。よく見れば盾にひびが入り始めていて。
嘘だろ?! と、眼を見開いたときだった。
何度目かの攻撃で、がしゃんと盾が粉々にたたき割られて、俺は再びソイツの姿を目の当たりにした。
やけに動きがスローモーションに見えた。
あ、これは死んだ。と観念しかけたとき、
「させるかあああ!!」
気合一閃。誰かが影の背後から奇襲を仕掛け、見事影を霧散させたんだ。
断末魔の声の一つもあげぬまま、正に塵と化して陽光に焼き尽くされるかの如く、あっさりと消え失せる影。そして、
「大丈夫か?」
と、その陰から現れたのは、俺より二つ三つ年上に見える、青い髪を一つに束ねた男だった。
それがまた、軽装ながらちゃんと防具を身に着けて、腰には剣まで装着していて、明らかに剣士だと主張する装いで。
そんな彼が、小首を傾げて深い青い瞳に心配の色を浮かべているのを見て、
「あ、危ないところを、ありがとうございました」
何とか俺はそれだけを返すと、その人は少し安堵した様子を見せてから、
「いや、妙な胸騒ぎがしたから来てみたんだけど、来てみて正解だったよ。オレはロティア。見てお解りの通り、《アタッカー》をしているよ。君は《アーティスター》だよね? 相棒のアタッカーはどうしたんだい? まさか、今の奴にやられでもしたのかい?」
と、続けた。
当然のことながら、意味は分からない。設定だということは解るけど、アーティスターってなんだ?
思わず無言のまま見つめ返せば、ロティアは怪訝そうに眉を顰めた。
「大丈夫かい? やっぱり相棒はあいつにやられたのかい?」
「い、や、良く解からなくて。と言うか、俺、アーティスターなんですか?」
「え? だってそのマント。山吹色のマントの襟口に縫われた魔法陣に筆の刺しゅうはアーティスターのマークだろ? 何よりさっき生み出していた立派な盾がいい証拠じゃないか。具現化した証拠に綺麗さっぱり消え失せてるし」
「あ、やっぱりこれ、俺が作り出したんですか?」
「やっぱり……って、君、本当に大丈夫?」
心の底から心配される。でも、解からないものは解からない。
「すいません。俺、ちょっとここの世界のこと良く解からなくて……」
「解らないって、もしかして、記憶喪失なのかい?」
途端にロティアが焦り出す。
正確には全く違うが、説明したところでどうにもならないと判断して、俺は素直に頷いた。
「マジかぁ」
ロティアが顔を右手で覆って天を仰いだ。
そりゃあ、まぁ、そうなるのも無理もないとも思う。俺自身、いきなり記憶喪失なんですと言われても、素直には信じないと思うし、もしも本当だったらと思えば放っても置けなくなるし、結果、途方にもくれるだろう。
でも、この夢の設定が解からない以上、下手なことは言えないって思ったんだけど……。
「もしも」
「え?」
「もしも……なんだけど」
顔を覆っていた右手を下げて、どこか不安そうな落ち着きのない様子で、ロティアが俺を見て来た。
「君が、もしも本っっっっっ当に記憶喪失で、相棒もいなくて、オレのことも知らなくて、行く当てもないのだとしたら」
「したら?」
「君、オレの相棒になってくれないか?」
意を決したような問い掛けだった。
口を真一文字に引き結んで、眉間に力が入った力強い眼差しが俺を貫く。
でも、俺は見た。その瞳の奥に気のせいかもしれないけど、どこか怯えているものを。
この誘いは、きっと軽々しくできるものではないのだと察するには有り余って。
俺は一瞬戸惑った。
初対面の人間に普通、『オレのことを知らなくて』なんて言いはしない。言うということは、それなりに有名……しかも、曰くつきの可能性もある。でも、ここで断って放り出されたら、俺はあんな訳の分からないものが襲って来るような世界に独りきりとなる。
いくら夢の中だからと言って、あんなリアルな死の恐怖なんて何度も体験したいとは思わない。
見れば、ロティアの表情が願うような必死なものになっていた。
ここもきっとゲーム的に言えば分岐点になるんだろうか?
それとも、何をどうしたところで『はい』を選ばない限り先に勧めない強制イベントになるのか。
俺は逡巡した結果。
「むしろ、記憶喪失の俺なんかで良ければ、よろしくお願いします」
そして俺は、自分より年上の男が、まるで年下の子供のようにガッツポーズを取ってまで喜びを爆発させる様を見て、釣られるようにして笑った。
◆◇◆
「まず、君の名前を教えてもらっても良いかい?」
問われて俺は『コーヤ』と名乗った。何のことはない。橋花光夜(はしはなこうや)。オレの本名から取っただけのものだけど、
「お。とりあえず自分の名前は覚えてるんだな」
「はい」
「でも、自分がアーティスターであることも、どうしてここに居るのかもわからないと」
「はい」
「一応聞くけど、君が襲われていたあの黒いの。アレが何なのかは覚えてる?」
「いいえ」
「で、相棒のこともわからないと」
「はい」
「ん~。じゃあ、この国の通貨とか買い物の仕方とか、そう言うことは覚えてる?」
「いいえ」
「そっかぁ」
町へと続く森の中の道を進みながら、ロティアはお手上げと言わんばかりに空を見上げた後、気の毒そうに俺を見た。
だけど、そんな眼で見られても、どうせここは夢だから気にすることでもないんだけどなァ。と内心思う。
でも、ロティアにしてみれば違うんだろう。「よし」と気合を入れた後、簡単にこの世界の説明をしてくれた。
「いいかい? 基本的なこと過ぎて、そのぐらいのことは覚えてるよってことも言うかもしれないけど、聞いてくれ。
この国の名前は《シェルキシェル》。
「守護獣?!」
なんとも心動かされる単語が出て来た。
「そう。この国は……と言うか、国々には、それぞれ一体の守護獣が存在している。で、その守護獣の加護によって国は護られ、アーティスターと言う存在も生まれる」
「アーティスター……」
「そう。君のように、虚空から物質を生み出す技術を持ったもののことを言うんだ。
この世界は万物全てに守護獣の力が宿っている。で、その力を取り込んで別なものを作り出すことができるのがアーティスターなんだけど。その力は皆同じじゃないし、生み出したモノの強度も持続性も人による。だから、強い力のアーティスターはアタッカーの誰もが相棒にしたがるんだ」
「どうしてですか?」
「ある意味、万能だからかな」
「と言うと?」
「君たちはその力で、水も火も土も生み出せる。丈夫な盾も、切れ味鋭い剣も。だから、アタッカーだけではないけど、一緒に居てくれると重宝するんだよ。重い荷物を持ち歩く必要はないからね。それに、既存の武器に属性を付与することもできるし」
「それが本当なら、本当に凄いですね」
「そう。本当に凄いんだ。でもね、全てが使い捨てなんだ。それに、無限に色々と生み出せるわけでもない。力いっぱい走ったとしても長時間同じ速さで走り続けることができないように、何もないところから無理矢理形を作らせられたものは、程なく壊れる。そう思えば、時限式のものよりも既存の武器を持ち歩いた方が良いと言う意見もあるし、大体アタッカーは本物の武器も防具も身に着ける」
言って、ロティアは腰の剣に触れて見せた。
「だけど、武器や防具だって持ち歩くには限度があるだろ? だから、君たちの存在は《ナルメリア》討伐にはなくてはならない存在なんだ」
「ナルメリア討伐?」
「そう。君がさっき襲われていた黒い奴。アレが《ナルメリア》。この世界を食らう者」
何故か、背筋を悪寒が走り抜けた。
「あいつらはどこにでも突然現れる。そして、この世界のあらゆる物を飲み込んで行く」
「飲み込む?」
「ああ。あ、ちょうどいい。アレを見れば良く解かると思う」
いうが早いか走り出すロティアの後を追い駆けて、そこを見ろとばかりに指さす森の奥を見て、俺は自分の目を疑った。
色とりどりの草花や木々が立ち並ぶ森の中に、突如闇がわだかまっていた。
「な、んですか、アレ……」
「アレはね、奴らに存在を奪われたなれの果て――と言ったところかな。近くで見れば分かると思うけど、形はそのままで色が奪われて影になってるんだ。中身がない。命そのものが奪われてる」
「命……」
「そう。だから俺たちアタッカーはどこにでも現れる奴らを狩ることを第一として、君たちアーティスターと共に行動するんだ。君たちは《物》を生み出すことは出来てもそれを扱いこなすことは苦手みたいだからね」
言われて、確かにそうだと思ってしまった。
盾を生み出したはいいけれど、重くて正直動けなかったし、仮に武器を作り出したところで、剣道部でも柔道部でも薙刀も何もやったことのない人間が使いこなせるとは思えない。
「まぁ、中には自分で生み出して自分で戦えるアーティスターもいないわけじゃないけど」
と、どこか淋しそうに続けるロティア。
「でも、それはオレとしてはお勧めできない」
「何故ですか?」
「危険だからさ。奴らにしてみれば、この世界で最も欲しい存在がアーティスターらしくて。他の者を取り込んでいる最中にアーティスターが居ると分かると、脇目も降らずに狙って来る。
だからこそ、ある意味じゃあ君たちを囮にナルメリア狩りをしているような点もある」
「囮……」
今更ながらに恐怖が足元から這い上がって来た。
生み出した盾を叩き壊すほどに闇雲に攻撃をして来ていたナルメリア。
もしもあのとき、盾が壊れたとき、ロティアが現れて居なかったら。
ゾッとした。足が震えて歯の根が鳴った。
色を奪われ漆黒の影と化した襲われたものの成れの果て。
もしも自分が襲われていたら――と考えて。
いや、夢なんだから、きっと目覚められたはず。
自分自身に言い聞かせる。顔が嫌でも引き攣った。
「だから、君が一人で襲われているのを見て、オレは自分の目を疑ったんだよ。まさか記憶喪失だとは思わなかったけど」
「本当に、ありがとうございました」
震える声で、心からの感謝を述べれば、
「いや。人の弱みに付け込むような形で相棒になってもらったのはオレの方だから。
でも、相棒契約は君が記憶を取り戻すまでで構わないから」
「え?」
「それまではよろしく頼む」
少し寂しそうな。でも、追及を拒むような雰囲気で手を出されたら。
俺は戸惑いながらもその手を取って、
「こちらこそ、よろしくお願いします」
と頭を下げて。
俺たちは再び森の中を歩き出した。
歩きながら俺は、ロティアから色々なことを教わった。
世界のことも、お金の稼ぎ方も。生活の仕方や様々な職業のことも。
そして、全ての住人はギルドで職業登録をしているということも。
「だから、とりあえず町のギルドに向かうよ」
ギルドでは様々な業種の人々が登録されているという。
特に、アーティスターの力を有している人間はアルメリアに狙われやすい。
どうしてアルメリアがアーティスターを狙うのか、その理由はまだ解明されていないらしいけど、保護をするためにも、囮にするためにも、必ずアタッカーと相棒契約をしておくらしい。
だから、記憶を失っている俺でも、ギルドに行けばどこに住んでいる誰で、相棒が誰で、どうしてあんなところに居たのかも分かるかもしれないから。と言う理由だったが、当然のことながら、俺の情報があるわけがない。
事実、
「申し訳ありません。コーヤ様のお名前でのご登録はありません」
戸惑いまくったギルドのお姉さんの言葉に、ロティアの方も動揺した。
そんなわけがないと、森でのことを説明するロティアの横で、俺はゲームでしか知らないコスプレしているような人々の談笑する様や、ギルドと言う空間に心を躍らせていた。
こんな細かい設定を盛り込んだファンタジックな夢なんて見たことがない。
こんな夢を見せられて、起きたいとは思わない。もっともっと、この夢を見ていたい!
そう思うのはきっと俺だけじゃないはずだ。
だから、その夢が叶ったと思い知らされたとき――いや、コレが夢などではなく、夢のような現実だと思い知らされたとき、目覚めたくとも、逃げたくとも、逃げられもせず無事に目を覚ますこともできないと思い知らされたとき、俺は生まれて初めて、本気になって死に物狂いで生きるということを体験することになった。
それは、命の保障など何もない。人生観すら変える時間になるとは、この時はまだ想像すらできていなかった。
終わり
《夢幻花》の宿主 橘紫綺 @tatibana
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