第5話 メスガキ・ザ・ビギニング
「
「
「え?」
「カカロットです」
家に訪れた訪問医療補助者は、チェーンのあちらから、とても何かを言いたげな目でこちらを見てきた。
それは王子とは逆では、と言いたげだ。
だが、間違えるような親だからこそ子供にそんな名前を付けるだろう――と彼女は自分を納得させたのか、簡単な手続きと共にいくつかの抗生剤や食品の入った袋を差し出して帰っていった。
「大変なもんだな。お医者さんたちも」
他人事のように言って袋を空ける。
銀色パックのゼリーが入っている。ありがたい。喉が荒れてしまっているため、特にありがたい。
他にいくつかあるレトルト食品は、そのままリュックに詰め込んだ。できれば日持ちしないパンなどから手をつけたかったが、本当に喉の痛みが辛いために保存に向いたゼリーから手を取るしかない。
医療補助者の彼女の顔には疲労があった。
忙しいのだろう。
だから、こちらの名前の確認もおざなりに終わった。少し考えたらまさかカカロットなどという名前である訳がないと解るだろうが、彼女にはそこまで確認している余裕はなかったらしい。
だが、これで、外の状況が判った。
不意な高熱で寝込んでしまったために、今の街の肌感覚というものが判らずに困っていたのだが――……遠からずメスガキパンデミックは避けられないものだと、そんな察しができた。
政府はメスガキウイルスの発見、メスガキパンデミックの発生を懸念して医療機関への受信を取りやめるように国民に非常事態宣言を出した。
それに従い、何らかの感染症のある人間はチェーンをかけた上で必要な問診事項をネットで入力し、医療機関関係者たちの支援を待つ。
やっと繋がった重すぎるサーバーを経て届いた支援の手は、自分に、世界の終わりを感じさせるには十分なものだった。
悲鳴が聞こえる。
物理的な意味ではなく、社会と世界の悲鳴が。
否応なく変わっていくウイルスによる情勢不安という変革が、この世の歯車を軋ませてるのだろうか。
いや。
物理的に悲鳴も聞こえた。
「……まさかな」
インターホンの受信機は、もう、受話器から外して話し口をガムテープで塞いで二十四時間外の音を拾えるようにしている。
ドアの除き窓ではなく、アパートの廊下に面したキッチンの格子付きの窓から外を伺った。
「ざーこざーこ♡ 大人なのによわよわー♡ 髪もボサボサー♡ 色気なーい♡」
「うるせえよクソガキ! もう彼氏も作らずに五年も働いてんのよクソが! くたばれ! メスガキが! くたばれ!」
「あっ♡ 足ふっと♡ 下半身おもおも♡」
激しい揉み合う音と共に、何度も何かを強く蹴り付けるような音が響き、階段を地滑りめいて転がる音がした。
恐ろしいが、そこはいい。
……だが、確か、このアパートに子供はいなかった筈なのだ。一人暮らし向けで、できても同棲まで。子供が入ってくる余地はない。
あの女性が蹴落としたとしたら、相手はより小柄な女性か――それこそ児童ほどの体格でなければあり得ないだろう。
嫌な予感がした。
……メスガキウイルスは、まさか、本当にメスガキのウイルスなのではないか?
◇ ◆ ◇
結論から言えば、メスガキウイルスは、本当にメスガキのウイルスだった。
第一段階は、まず、認識がおかしくなるらしい。
つまり罵倒する言葉に嘲笑の意味合いや挑発の意味合いが含まれてしまう。
これは脳の中で感情の制御を司る大脳辺縁系への影響によるものだと推測される……そうだ。
第二段階、つまりは完全な発症。
全身の免疫不全による死亡。その死亡原因自体は、色々なものによるらしい。つまりは今自分が引いている風邪であったり、肺炎であったり、脳炎や敗血症諸々で死ぬ。
この時点で、人は、メスガキになる。
おっさんでもメスガキのような言動を取り始める。それは死亡前後でそうなるらしい。
問題は、次だ。
第三段階。言うなれば、完全なメスガキ化。
死亡に伴って新陳代謝が行われなくなった体組織が腐敗や排出され、そして、どのような作用かは判らないがメスガキ化する。
外見から言動から、完全にメスガキになる。
不味いのはそこだった。
『イエーイ。メスガキに転生して、視聴者のお兄ちゃんたちをかわいがってあげるねー? ざーこざーこ♡』
年代物の中華料理屋やラーメン屋のテーブルのように脂のついた眼鏡をかけた痩せぎすの男が画面に向かってそう言うのは、ある種の気色の悪さを伴っているだろう。
だが、本当に気色が悪いのは、ここからだ。
ソーシャルネットワークサービス上には、あるタグが並んでいる。
「###美少女転生###」
「###メスガキTS###」
「###楽してキレイに###」
「###強くてかわいくてごめんねニューゲーム###」
「###チヤホヤするなら今のうちだゾ###」
「###モブ陰キャをメスガキ化プロデュース笑###」
頭痛がしてくる。
拗らせてしまった自己顕示欲と承認欲求や、自分の人生に対する恨み言の混じったようなものが幾つもの言葉と共に並んでいた。
どこを見ても、その文字列に対する言及や意見表明――或いは実際のメスガキ変身宣言などが並んでいる。
そうだ。
メスガキは、楽しそうだ。一見美しいのだ。そして多くにとっては若く軽やかで魅力的にも見えるのだ。
それがこの閉塞的な空気と噛み合ってしまった。
メスガキウイルスに引き起こされた閉塞感が、メスガキ化を引き起こすという自作自演。
嘘か真実かは定かではないが、自衛隊や警察や医療機関による初期対応チームにもメスガキ感染が起きてしまったのは、その多忙によって精神を追い詰められた人間がメスガキ化に逃避したことが理由らしい。
……なんにしても。
これできっと、この世界に、メスガキパンデミックは避けられない事態となったのだ。
遠からずではなく。
とても、速やかなものとして。
すべてのメスガキを駆逐する。ただ一人のメスガキのために 読図健人 @paniki
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