大河小説シリーズ 皇后雅子さま。~笑顔が戻るまで。ハイスペック外交官からプリンセスへ~

長尾景虎

第1話 大河小説 皇后雅子さま。~笑顔が戻るまで。ハイスペック外交官から皇后へ。~

小説 大河小説 雅子皇后さま。

新しい皇室のあり方を切り拓いた女性の軌跡

         

                 

                 total-produced& PRESENTED written by

            NAGAO Kagetora長尾景虎

                   

         this novel is a dramatic interpretation

         of events and characters based on public

         sources and an in complete historical record.

         some scenes and events are presented as

         composites or have been hypothesized or condensed.

        〝過去に無知なものは未来からも見放される運命にある〝

                  米国哲学者ジョージ・サンタヤナ



          あらすじ


  皇太子妃・雅子さまの真実の物語。昭和天皇は1901年に生まれた。明治天皇が裕仁と名付けた。そんな明治天皇も死に、乃木希典は後追い自殺を……裕仁は嫡男として皇太子に。しかし、病弱だった大正天皇はすぐに死んでしまう。時代は昭和へ。

日露、日清戦争で勝った日本帝国は野望をもち中国などを侵略していく。時代は黒闇の戦争へ……当時の皇太子・平成(今上)天皇(天皇→上皇)・明仁は1933年12月23日生まれた。戦後の軽井沢で妻(現・上皇后)正田美智子(皇后→上皇后)と結婚…。 昭和天皇は軍部のパペット(あやつり人形)と化して太平洋戦争を黙認する。しかし、日本に勝ち目はない。やがて原爆投下で日本は敗戦。天皇は「人間宣言」をして巡幸してまわる。やがてそんな天皇は八十七歳で崩御……時代は平成へと移る。ベルリンの壁崩壊、ソ連崩壊……冷戦終結…時代は新たな一ページを刻む。

 昭和天皇はいう。

「戦争がさけられないのならばせめて治療法のない兵器は使わないでください」

                                    おわり

『人物表』大河小説 皇后雅子さま。

昭和天皇・裕仁… 徳仁親王…(天皇陛下) 雅子さま(皇后)…

良子(香淳皇后・裕仁の妻)… 明仁親王(上皇さま)…

美智子様(上皇后さま)… 

紀子様(秋篠宮様の妻)… 白洲次郎… 三島由紀夫… 長尾景虎…

柳原白蓮… 荒原牧水… 他




…東京の摩天楼の日本の首都、富裕層の瀟洒な住宅街の下、太陽に守られながら、日本国を混乱から救うことになる女性がいた。

名前を雅子、小和田(おわだ)雅子(まさこ)、皇太子妃の皇太子妃雅子さまという。

昭和38年(1963)12月9日、外交官小和田恆優美子夫妻に子供が生まれた。のちの皇太子妃雅子さま、である小和田雅子(まさこ)である。

父親は小和田恆(ひさし)、母親は優美子(ゆみこ)………

おぎゃああ、おぎゃああ…

「おお! 産まれたか!」

「御主人さま、大変にお元気でおおきな…おおきな…」

「おおきな…おおきな?」

「お嬢様にございまする!」

「お、お嬢様?」

父親の恆は少し肩を落とした。外交官の血筋といえば剛毅な男の世界である。

だが、「まあ、おんなでもよい!」と思った。「すでに嫡男はいる。そうすると妹で長女か。」

当たり前だがそうである。

父親は紙に書いた名前をまだ寝ている母親に見せた。

「雅子?」

「わたしからの贈り物の名前でもある。そう、雅子、雅子だ。」

「……雅子? まあ、いい名前ですわ。」

「そうだろう。そうだろう。」

恆は目を細めた。

赤ん坊は何故か夢見心地、の顔だ。

そんな雅子は少女になった。

「はい。」雅子は頷いた。

教師にきかれた。

「この冷戦(米ソの冷たい戦争)をどう見ますか? 雅子さん。」

「そうですね。多分、この戦争は間違いであると思います。」

「それで?」

「もはや外国との貿易なくして我が国はやっていけません。冷戦勝利など無理!アメリカ陣営とソビエト陣営では武力が違いすぎます! ここは和解して西洋列強の進んだ文明文化技術をとりいれてソビエトは国を富ます政策しかないかと。」

「面白い。なればソ連は終戦即開国でいくわけだ」

教師は唸った。「凄い女性もいたものだ。おんなで歴史にくわしいとはおそれいった」

 のちに帰宅時、カフェでコーヒーをすすった。

「景(かげ)虎(とら)さんはどう思いまするか?」

「いやあ、正直、わかりません。冷戦も戦争も開国も。書物やひとのうわさだけで、実際に外国人とあって話さなければ…」

「なるほど。片方のひとのことばかり聞いて沙汰するな、と。両方の意見をきかねば物事は判断がつかない、と?」

「そんな立派なことではないんですが…」

「景虎さん、うちにきて一局どうですか?」

「………一局?」

 雅子と景虎は夕方頃、向かい合ってチェスをした。

半信半疑のままふたりはお守りを交換した。のちの皇太子妃さまこと雅子は悪戯なかおのままいった。「でも驚きました。チェス……すごいお下手なんですね?」

悔しいが雅子も景虎も何も言えない。帰路の海がみえる丘で景虎と雅子は思う。

「くやしい。ですが、それはわたしたちの学問や知識・学識が足りない為…私は知りたい。もっともっと世界のことが知りたい。外交官になりたい。働く女になりたい」

「わたしもそうでございまする」

「この世の中は複雑怪奇…これからこの日本国はどうなるか…?」

「この景虎も知りたく思います。この時代の風を明日を知りたく思います」

「なれば景虎さん。ますます学問ですね?」

「雅子さん。…まさに!」

 この長尾景(ながおかげ)虎(とら)こそのちの大外交官・〝カイザー(皇帝)を外交官にしたような男・長尾景虎〝として時の首相の間で羨望の的となった外交官そのひとである。

雅子は初めて号泣した。熱い涙を流し、

「日本人に…生まれてきて…ようございました。私は日本が大好きです」

彼女ははじめて日本のことを思い、熱くなった。少女期はほぼ海外生活である。

この頃、現在の皇太子さまは外国に訪問していた。

そしてこの徳(なる)仁(ひと)と雅子(のちの雅子さま、のちの皇太子妃さま)は出会った。

〝カイザー(皇帝)を外交官にしたような男 長尾景虎〝の夢は日本の再軍備、自衛隊・日本軍の武力蜂起・天皇の国家元帥復活であった。それでのちに1990年に事件をおこすのだ。

雅子さまは当時、初めての外交官出身の皇太子妃としてずいぶんといじめられたという。皇族や皇族関係者や元・華族の執拗ないじめは陰湿であったという。

何度も人知れず雅子さまは泣いたことだろう。

それですぐに適応障害となり、こころを病んだ。働く女性キャリア外交官から皇太子妃へ。

頭ではわかっていても精神はついていけない。鬱病も併発した。

雅子は皇室に嫁ぐ前に家族にお礼をいった。

庶民は側の道で日の丸を振って歓声を上げている。

同じく見ていた群衆の中の長尾景虎(のちの〝カイザー(皇帝)を外交官にしたような男 長尾景虎〝)は雅子さまの馬車にむけて、お守りを掲げた。

……景虎さん。

雅子さまは馬車の横からそれを見た。さようなら、景虎さん。母上。父上。兄上。さようならわが愛する家族…。

これ以後、雅子さまは二度と小和田家の地を踏むことはなかった。

雅子さまと皇太子さまのパレードはこうして大歓声で、お祭り騒ぎでおわった。

雅子さまの本当の母親は「あの娘が生まれる時、仙人のような男が「その娘を皇居に迎えに来る」といっていた夢を見た」と後年証言したという。

まさに歴史がかわる前の激動、であった。




2019.10.22 #LIFESTYLE

漫画家が見た雅子妃

「ハイスペックすぎるプリンセス」漫画家が震えた、雅子さまの苦悩

漫画家が見た雅子妃①お妃候補と呼ばれて

著者 折原みと(漫画家・小説家)より引用(折原みと『皇后雅子さま』)

漫画家で小説家の折原みとさんが、「今まで、雅子さまのことを誤解していた」という。聞けば、女性週刊誌で雅子妃を描いたノンフィクション漫画の連載を始めるにあたり、ずっと皇室の資料を読み漁っていて、雅子さまの苦悩の深さに震えたというのだ。

雅子さまの物語は多くの書籍にも描かれているが、改めて折原さんに「雅子妃とはどんな女性なのか」をFRaU Webにて連載で伝えてもらい、「一般の女性が皇室に入るとはどういうことなのか」を考えていきたい。その第1回は、雅子さまがお妃候補になるまでのことをお伝えする。

理不尽なバッシングをしていた

2019年5月1日、令和の時代が始まってから、早くも半年近くが過ぎようとしている。天皇陛下の御即位を広く披露するための「即位の礼」が行われるというこのタイミングで、雅子さまのことを書かせていただくのには理由がある。

実は、女性週刊誌「週刊女性」において、皇后雅子さまの物語を漫画化し、12月から連載させていただくことになったのだ。

なんとまあ恐れ多い! そりゃあ日本人に生まれたからには、皇室には関心も敬愛の情も持っている。が、専門家でも皇室マニアでもない私が皇室漫画を描くなんて……大丈夫なのか? 

とにかく、皇室関係の本を読み漁った。おかげで、今までうすぼんやりとしか知らなかった雅子さまの実像がわかってきた、と同時に、私を含めた日本人の多くが、いかに皇太子妃時代の雅子さまを誤解し、理不尽なバッシングをしていたかに気づいて、愕然としたのだった。

即位してから輝きを増した雅子さま

天皇陛下が即位されて以来、雅子さまに対する風向きはガラリと変わったように思える。

5月1日、テレビで生中継された「即位後朝見の儀」。天皇陛下の傍らに立つ純白のローブデコルテの雅子さまは美しく、すでに皇后としてのオーラをまとっているように見えた。その3日後、令和初の一般参賀に皇居を訪れた人の数は約14万人。国中の人たちが新時代の天皇皇后両陛下の誕生を祝っていた。

 が、その数ヵ月前までは、雅子さまが皇后になられることに不安を抱いていた人も多いのではないだろうか。

2003年12月に帯状疱疹で入院された雅子さまは、翌年から体調不良で療養生活に入られた。後に「適応障害」という病名が発表され、公務もほとんどできない状態に。ご成婚から26年のうち、15年以上も療養されている雅子さまに、皇后としての責務が務まるのだろうか……と、正直、私も思うことがあった。

 天皇陛下即位後の雅子さまは、幸いにも体調が安定されているように見える。即位に伴う儀式や行事も無事に終えられ、笑顔で公務を務めるお姿を拝見することも増えた。5月末に、令和初の国賓であるアメリカのトランプ大統領夫妻が来日した時には、堂々たるホストぶりで世界から絶賛されたほどだ。

 令和初の国賓、トランプ大統領来日の際には、控えめながら堂々としたホストぶりに感嘆の声が。

だが、立派に責務を果たされる雅子皇后を頼もしく思う一方で、「皇后になられた途端にお元気になられた」「なぜ皇太子妃時代には公務ができなかったのか」と訝しむ人もいるかもしれない。これまでも、雅子さまのご病気に関しては、「ワガママ病」「皇太子妃の自覚が足りない」などと、さんざん叩かれてきたのだ。

 精神的な病気は、他人からは理解されにくい。しかし、「適応障害」は、決して「ワガママ病」などというものではない。自身ではどうにもコントロールすることのできない病に、雅子さまは長年苦しまれてきたのだ。

 現在の皇后の晴れやかな笑顔は、天皇陛下や愛子さま、ご家族や周囲の人たちに支えられながら、もがき苦しみ、必死に闘い、ようやく取り戻しつつあるものだ。

それでは、なぜ日本のプリンセスは、長い間笑顔を失うことになってしまったのだろうか? そして、どうやって苦難と絶望を乗り越えてこられたのだろうか……。

 それを紐解いていく前に、まず改めて、雅子さまがどんな女性だったのかを知っていただきたい。

超ハイスペックなキャリアウーマンだった。

 外交官である父親の海外赴任に伴われ、旧ソ連のモスクワやアメリカ・ニューヨークで幼少期を過ごした。

小・中学校時代は帰国して日本で教育を受けたが、高校からは、再びアメリカへ。ハイスクールでも優秀な成績を修め、学業、リーダーシップ、奉仕精神などを総合して全米の優秀な学生を評価する「ナショナル・オナーソサエティ(全米優等生協会)」に選ばれるほどだった。

 さらにオールAに近い成績で名門ハーバード大学経済学部に進学。卒業論文は、優秀賞の「マグナ・クム・ラウデ」を受賞。この栄冠に輝いたのは、卒業生1681人中56人。経済学部では、たった3人だったそうだ。

 当然のように、在米の証券会社や金融機関から就職の誘いがあったが、雅子さまは、日本に帰って父親と同じ外交官になる道を選んだ。海外生活が長く、様々な国の人と接する機会が多かったからこそ、自分が日本人であることを強く意識し、日本のために働きたいという思いを抱いたのだ。

1985年(昭和60年)、21歳で帰国した雅子さまは、翌年春に東大法学部に学士入学。その2カ月後には外交官試験を受け、晴れて合格する。

 ……と、サラリと書いてしまっているが、東大の学士入学は、100人の受験者の中で合格できるのはたった3人。外交官試験の合格率は40倍。その年の難関を突破できたのはわずか28人で、女性は3人しかいなかったそうだ。

 ハーバード大学、東大、外交官……いったいどれだけ優秀なのやら、経歴をなぞっているだけでもクラクラする。

 しかも、雅子さまのすごい所は、決して勉強一筋のガリ勉ではなく、スポーツや文化活動にまで熱心に取り組まれていたことだ。ハイスクール時代はソフトボールクラブで活躍し、地元の新聞にも載ったことがあるほど。大学時代には、日本人や日系人で作る「日本文化倶楽部」の会長もつとめ、日本の伝統や文化を広める活動をしていたそうだ。

 すごすぎる……。漫画だって、こんな設定盛りすぎのキャラクターはいないってくらいのスーパーレディだ。

 しかし、今にして思えば、この雅子さまの並外れた優秀さが、のちの「試練」の一因になってしまったのかもしれない。

浩宮殿下との初めての出会い

外交官試験に合格し、未来への希望と、仕事への意欲に胸を膨らませていた22歳の雅子さま。そんな雅子さまの運命が大きく動き始めるのは、折しも、外交官試験に合格した翌日のことだった。当時、外務省条約局長だった父親の恆さんのもとに、宮内庁から一通の招待状が届いたのだ。来日するスペインのエレナ王女の歓迎パーティへの招待で、文面の最後には、「ご家族も一緒にお越しください」とある。

 小和田家の人々は知る由もなかったが、実はこのパーティは、浩宮徳仁親王殿下と、お妃候補の女性たちとの出会いの場でもあったのだ。

 その1年前、1985年の秋に浩宮殿下(今上天皇)が英国留学から帰国されて以来、25歳の浩宮殿下のお妃選びは本格化していた。

 まずは、旧皇族、旧華族、学習院を中心とした学校関係などからお妃候補のリストが作られ、さらに、研究者や学者、公務員といったルートでも候補者探しが行われた。雅子さまを推薦したのは、父親と親交のあった元国連大使・中川融氏だったという。

 ご自身がお妃候補になっているとは露にも思わず、雅子さまは外交官になった時のための経験になればと、このパーティに出席することにする。そこで、初めて浩宮殿下と出会ったのだ。

 会話はほんの2~3分の短いものだったが、浩宮殿下は、控えめだが聡明な雅子さまに好意を抱いた。ほとんど、一目惚れといってもよかったのかもしれない。

 それまで、何人ものお妃候補と面会してきた浩宮殿下だったが、同じ女性に「もう一度会いたい」と言ったのは初めてのことだった。そんな殿下の思いを受け、その後も何度か、浩宮殿下と雅子さまとが会う機会が設けられる。

お妃候補報道と「完全否定」

雅子さまは、殿下の特別な想いに気づいてはいなかったが、マスコミは「小和田雅子さん」を最有力のお妃候補としてマークし始めていた。

 そして1987年12月。女性週刊誌が初めて雅子さまを「お妃候補」として大きく取り上げると、外交官として社会に出たばかりの23歳の女性は、一躍日本中の注目のマトとなってしまった。雅子さまにとってもご家族にとっても、青天の霹靂のような出来事だっただろう。

 その頃、皇太子殿下の妃になることなど、雅子さまには全く現実味のない話だった。翌1988年には、父親の恆さんから中川氏を通じて、はっきりとおつきあいを固辞している。それでも、過熱するお妃報道と激しい取材攻勢は、いっこうに治まることはなかった。

 希望に満ちて入省した外務省。仕事のことだけを考えていたいのに、どこにでもつきまとうマスコミ、容赦なく向けられるカメラのフラッシュ。雅子さまにとっては、迷惑を通り越して、恐怖でしかなかったはずだ。

 1988年7月、雅子さまは日本大使館外交官候補の海外研修生として、イギリスのオックスフォード大学大学院に留学することになった。

これでようやくマスコミから解放されると思ったのも束の間、日本のマスコミは、イギリスまで雅子さまを追いかけてきた。オックスフォード大学の構内まで取材陣が押し寄せてきた時、ついに我慢の限界を超え、雅子さまは勇気を振り絞ってテレビカメラの前に立ったのだった。

「私はこの件に関しましては、まったく関係ございません」

「とにかく、私はお妃候補には関係していないと思っておりますので」

震えながらも、カメラに向かって毅然と言い放った言葉。それは、お妃候補報道に対する、雅子さまの「完全否定宣言」だった。

もしもあなたがお妃候補になったら

ところで、もしもあなたが「皇太子妃になってほしい」と望まれたとしたら、いったいどう思うだろうか?「ありえない!」と笑わずに、試しに想像してみていただきたい。

神話の時代から2700年近くにわたり、万世一系の系譜をたどってきた、世界でも類を見ない歴史を持つ日本の皇室。一時は天皇が「現人神」とされていた時代もある。第二次世界大戦後に実質的な統治権はなくなったが、日本国憲法により「日本国の象徴」となられた天皇は、現在でも国民の心の拠り所だ。

その公務は、国内外の行事への出席、災害が起きた際の被災地への慰問などと、多岐にわたる。そして、国と国民の安寧を祈る「祭祀」は、天皇の最も重要な役目だ。常にスケジュールを管理され、精神的には、国民のために24時間働いていると言っても過言ではない「無私」の存在。

未来の天皇となられる皇太子。その妃になるということは、自らもまた「私」を捨てる覚悟のいることではないだろうか。

ディズニーアニメのプリンセスとはわけが違う。綺麗なドレスを着てかしづかれるとしても、一生自由を失くしてしまうような生活に、普通は耐えられるわけがない。

先に書いたように、雅子さまは、優秀すぎるほど優秀な女性だ。人並外れたキャリアと能力をもち、それを生かせる場所を、懸命の努力で手に入れた。自分の足で立ち、思うように生き、社会に貢献したいと、大きな夢と理想を抱いていた。だが、皇室という閉ざされた場所で、それらすべてを封じ込まれてしまった時、雅子さまの長い長い苦悩の日々が始まったのだ。

26年前のご成婚の日、祝賀パレードで輝くような笑顔を見せていた皇太子妃は、ご自分の未来にどれほどの試練が待ち受けているのかを知らなかっただろう。でも、あの時の雅子さまが、「私」を捨て、日本という国のために生きるご覚悟を持っていたことは、確かだと思う。

1993年6月9日に行われた結婚の儀。この輝くような笑顔は日本中を虜にした.

かたくなに皇室と関係を持つことを拒んでいた雅子さま。その雅子さまに、皇太子妃となる決心をさせたものは何だったのか……。


参考文献

『皇后雅子さま物語』(文春文庫)友納尚子

『雅子妃 非運と中傷の中で』(文春文庫)友納尚子

『皇后雅子 妃から后への三十年』(講談社)石井勤

『雅子さま ご成婚十年の苦悩』(講談社)渡邉みどり

『素顔の雅子さま』(主婦と生活社)週刊女性皇室取材班

編集部注:小和田恆氏の「ひさし」の字は、本来は別の人名用漢字です。



漫画家が見た雅子妃②決断の日

著者 折原みと(漫画家・小説家)著作『皇后雅子さま』より引用

10月26日に行われた「即位の礼」。各国の要人を堂々と、それでいて優雅に迎える雅子皇后の姿を、誇らしく思った方も多いのではないだろうか。しかし、そこに至るまでには、我々の想像を超える苦悩が隠されていた。12月3日発売の「週刊女性」にて、「皇后雅子さま〜笑顔輝くまで」の漫画連載を始めるにあたり、資料を読み漁り、過去の動画も見まくっている折原みとさんは、その「雅子妃の苦悩」の本質を知らなかったことに愕然としたという。

 では、折原さんが愕然としたその雅子さまの苦悩とは何だったのか……。折原さんの語り口で伝えていく連載第2回。延期されていたパレードが行われる本日は、外交官という天職も、一般人である自由も捨てて皇室に入ることを決意するまでの、皇太子との物語をお伝えする。

 「『ハイスペックすぎるプリンセス』漫画家が震えた雅子さまの苦悩」

「反対派」の言い分

連載第1回では、雅子さまがいかにハイスペックな女性なのかということを書かせていただいた。では、その人並外れたスーパーレディが、着実に歩んでいたキャリアや自分自身の夢を捨て、皇太子妃となる決心をしたのはなぜだったのだろうか。

 天皇皇后両陛下のご成婚に至るまでの物語は、少女漫画も顔負けの、ドラマチックな純愛ストーリーだ。

 前回書いたように、おふたりの出会いは1986年(昭和61年)、スペインのエレナ王女の歓迎パーティの席だった。そこで雅子さまに一目ぼれした陛下(当時の浩宮殿下)は、その後何度か雅子さまに会われるうちに想いを深めていく。が、外務省に入省し、外交官への道を歩み始めたばかりの雅子さまには、皇太子妃として皇室に入ることなど、まったくもって考えられないことだった。

  お妃候補としてマスコミに追い回され、ついに耐えかねて、カメラの前でお妃報道に対する「完全否定宣言」。それでも取材攻勢は止むことはなかったが、雅子さまのキッパリとした物言いに、宮内庁の中には、こう言って眉をひそめる職員もいたという。

 1988年10月オックスフォード大学ベーリオールカレッジ留学時、ご学友と。ここまで追いかけてきた報道陣に向かってきっぱり否定したのだった 写真/宮内庁提供

「随分と物事をはっきりとお話しされる気の強そうな女性とお見受けしましたので、皇室に合うのかどうか……」

実のところ、この時期、宮内庁サイドでは、雅子さまはお妃候補から外れていたようだ。

 その理由としてあげられていたのは、雅子さまの祖父、江頭豊氏が、水俣病問題のある「チッソ」という会社の会長だったこと。と言っても、江頭氏がチッソ社長に就任した時には、すでに工場廃液が原因とされる水俣病問題が起こった後であり、ご自身に否があるわけではない。むしろ、江頭氏は患者家族の対応や、会社の立て直しに尽力したという。

 当時、宮内庁の中でも意見が分かれていたようだが、反対派が問題にしたのは、お世継ぎのことを考えた上での雅子さまの年齢。キャリアを持つ女性が皇室に入った前例がないこと。そして何よりも、小和田家側から「私どものようなサラリーマン家庭から皇室入りはありえない」という意向が示されていたことだと言われている。

さて、一方、外交官候補の海外研修生として、イギリスのオックスフォード大学院に留学していた雅子さまは、「完全否定宣言」の翌年、1990年(平成2年)6月に帰国。外務省北米2課に配属されて、いよいよ本格的に働き始めた。

 北米2課は、アメリカやカナダとの経済関係における外交政策の企画立案、調査などが主な仕事。働き方改革が叫ばれる現在では考えられないかもしれないが、雅子さまは連日深夜までエネルギッシュに残業し、職場では深夜12時が「小和田タイム」と呼ばれるほど。徹夜して朝家に帰り、着替えとメイクをしなおして、さわやかな顔で霞が関に戻る。

「眠らなくても平気な女性」「タフネスマーちゃん」との異名を取り、そのタフな仕事ぶりには、周囲も舌を巻いていたという。

 竹下登元首相の日米環境セミナー基調講演の素案を作ったり、政府要人の外交交渉での通訳を務めるなど、華々しい実績も残した。

 1991年11月、日米半導体協定締結をめぐる話し合いの場において、雅子さまはベーカー米国務長官やヒルズ米通商代表(いずれも当時)の通訳を務めた。そして、そんな雅子さまの姿を、当時皇太子だった陛下は、テレビのニュースでご覧になっていたという。

  陛下が雅子さまと会われたのは、1987年4月、高円宮憲仁殿下邸でのお茶会が最後だった。その頃の雅子さまは、外務省に入省したばかりで研修中の身。まだあどけなさの残っていた23歳の女性が、今や立派な外交官として活躍している。27歳の美しい大人の女性となられた雅子さまの姿に、陛下の心に長年秘められていた想いが再燃したとしても不思議ではない。

 それから間もなく、1992年(平成4年)1月のこと。陛下はついに宮内庁幹部の前で、ご自身の本当の想いを口にされた。

「小和田雅子さんではだめでしょうか」

初めて出会った時から、陛下はひそかに雅子さまを思い続けていた。が、将来の天皇となる身では、自分の感情ばかりを優先するわけにはいかない。

「心を動かされたのは雅子さんだけ」

近しい人たちにそう洩らすことはあっても、周囲の意見を慮って、それまで自らの希望を主張することはなかった。その陛下が、ついにはっきりと意中の人の名前を挙げられたのだ。

陛下の意思は、宮内庁長官から当時の天皇皇后両陛下(現在の上皇、上皇后両陛下)に伝えられた。

「天皇」と言えども人の親であることには変わりない。両陛下は、皇太子に心から愛する女性ができたことを喜び、その想いを叶えたいと思われたのかもしれない。

「皇太子の気持ちを優先したらどうでしょう」

上皇后妃美智子さまは自ら子育てをされることを選択した。結婚も本人の気持ちを大切にされたのもよくわかる。写真は浩宮さまを囲む昭和天皇、皇后両陛下と当時の皇太子殿下、そして美智子さま。

そんなお答えをいただき、宮内庁は、正式に雅子さまをお妃の最有力候補として事に当たることになった。

 ちょうどその頃に行われた32歳の誕生日会見で、結婚の在り方について問われた陛下は、笑顔でこうおっしゃられている。

「縁とプロセスが大事だと思っています。それにプラスして、ロマンのようなものがあればいいなあ……と」

その時、陛下が心の中に雅子さまの顔を思い浮かべていたのかと想像すると、当時の会見の映像を見返して、ついニヤニヤしてしまう。

さて、そんな陛下の熱い想いを受け、それからまもなく、宮内庁幹部と東宮職(皇太子をお守りする宮内庁の中の独立した組織)幹部らは、合同の極秘会議を開いた。皇太子の恋を成就させるための「小和田雅子さんプロジェクト」始動だ。

「皇太子殿下と雅子さんをどのように再会させるか」「どのように雅子さん側にアプローチするのか」。

 確かに国家の重大事に関わることではあるが、いいオジサンたちが顔をつき合わせ、皇太子の恋の後押しについて真剣に話し合っていたのかと思うと、ちょっと可笑しい。その日の会議は、宮内庁長官のこんな言葉で結ばれたという。

「小和田さんに、良いお返事がいただけることをお祈りして」

……必死すぎる。

5年ぶりの再会と「プロボーズ大作戦」

1992年5月、「雅子さんプロジェクトチーム」の選んだ仲介役の元外務次官、柳谷謙介氏が、雅子さまの父・小和田恆氏に宮内庁の意向を伝えた。

 宮内庁が正式に雅子さんをお妃候補として考えていること。皇太子自身が雅子さんに会いたがっていること。

 お妃候補の話などすっかり終わったものと仕事に邁進していた雅子さまは、もちろん驚き、戸惑った。それでも、宮内庁からの猛アプローチと皇太子のお気持ちを無下にもできず、8月半ば、ついにおふたりの5年ぶりの再会が実現する。そして、この後、小和田家には陛下から直接電話やFAXが届くようになったという。

 1992年7月23日、外務省職員として出張先のNYで、ハーバード大学時代のご学友と再会。この後に皇太子殿下と再会した。

一生一代の勝負の日は、再会から1ヵ月半後。1992年10月3日のことだった。

 その日、雅子さまにプロポーズすることを心に決めていた陛下は、東宮仮御所の裏扉から出て、こっそりと職員の自家用車に乗り込んだ。外から見えないように段ボール箱を積み、毛布を被って身を隠すという徹底ぶり。マスコミにかぎつけられないようにとの隠密行動だ。

 秘密保持のため、このことは一部の職員にしか知らされておらず、日中は、誰もいない陛下の部屋に昼食を運ぶなどの偽装工作さえ行われた。まさに「皇太子のプロポーズ大作戦」!!

 殿下が向かったのは、千葉県市川市にある宮内庁新浜鴨場。野鳥たちのさえずりの聴こえる美しい池のほとりで、陛下は雅子さまと向き合い、ストレートにこうおっしゃられたという。

「私と結婚していただけますか」

しかし、雅子さまはすぐに答えを出すことはできなかった。

 当たり前だ。皇太子のプロポーズを受けるということは、未来の皇后になるということだ。天職だと思っていた外交官の仕事を捨て、自由を捨て、「日本の象徴」である天皇陛下を支え、一生を国のために捧げるという覚悟のいることだ。おいそれと決断できないのは当然だし、おいそれと決断されたら、むしろ不安だ。

 それからまもなく、雅子さまは風邪で10日ほど仕事を休んだ。その間、ずいぶん深く悩まれたのではないだろうか。お妃報道で散々マスコミに追い回されたトラウマもあった。もしも皇太子妃になったとしたら、この先ずっと、世間の注目の中で生きていかなければならないのだ。

 皇室に入ることへの不安、責任、仕事、夢、自分の人生……。その頃の雅子さまの心の中には、他人には想像もつかないような嵐が吹き荒れていたのだと思う。

「僕が一生全力でお守りしますから」

鴨場でのプロポーズから1ヵ月半ほどが過ぎた、11月28日。雅子さまは東宮仮御所を訪れた。その日、まだ返事をすることができなかった雅子さまに対して、陛下が贈られたのがあの有名な言葉だ。

「皇室に入られることには、いろいろと不安や心配がおありでしょうけれども、雅子さんのことは僕が一生全力でお守りしますから」

真摯でまっすぐな陛下のその言葉が、まだ迷いの中にいた雅子さまの心に、小さな明かりを灯したのかもしれない。

それから10日ほど後、雅子さまの29歳の誕生日。午前0時すぎ、小和田家の電話のベルが鳴った。誰よりも早く誕生日を祝いたいという陛下からの電話だった。

 プロポーズの返事について、まだ悩んでいると言う雅子さまに、陛下は、自分も深く悩んだと打ち明けた。

「何をそんなにお悩みになったのですか」

そう問いかける雅子さまに、陛下は正直な想いを告げた。

「僕としては、雅子さんにぜひとも皇室に来ていただきたいと、ずっと思っているけれども、本当に雅子さんのことを幸せにしてさしあげられるのだろうか、ということを悩みました」

 どこまでも誠実でやさしい想い。

 陛下は「未来の天皇」としてではなく、ひとりの「男性」として雅子さまを愛し、その気持ちが、ついに雅子さまの心を動かしたのだ。「未来の皇后」ではなく、ひとりの「女性」としての心を。

 ご婚約成立からご結婚までの140日あまりの間、雅子さまが外出される様子は連日メディアで報じられた。このようなキャリア的なファッションから、よりエレガントなものが多く見られるようになる。キャリアから皇室へ。そんな雅子さまの「意識」「覚悟」がファッションからも感じられる。その覚悟は浩宮殿下のひたむきな愛に支えられていた。

 皇太子のひたむきで強い愛

その3日後、雅子さまは東宮仮御所に出向かれた。

「あの、本当に私でよろしいのでしょうか」

雅子さまの遠慮がちな問いかけに、陛下はこう答えた。

「はい、そうです」

「私がもし、陛下のお力になれるのであれば、謹んでお受けしたいと存じます」

陛下32歳、雅子さま29歳。出会いから6年ごしの片思いが、その時、ついに成就したのだった。

 1993年1月19日にご婚約が正式に決定。4月12日には一般の結納にあたる納采の儀が開かれ、小和田家の前には大勢の報道陣がつめかけた。

生まれながらに「天皇」となる宿命を背負い、幼い頃から我をおさえ、周囲の意見に従って生きてきた陛下が、雅子さまのことだけは頑として譲らなかった。

「皇太子の初めての反抗」とさえ呼ばれた陛下の一途な恋。生まれてはじめて自らの意思で選び、心から望み、求め、ようやく得ることができた生涯の伴侶。雅子さまの返事をうけた陛下が、どれほど嬉しかっただろうと想像すると、胸が熱くなる。

 雅子さまに皇室に入る決意をさせたのは、陛下のひたむきで強い愛だった。

 1993年6月、結婚の儀の数日前の皇太子と雅子さま Photo by Getty Images

そしてもうひとつ、プロポーズの時のこの言葉も、雅子さまの心に大きく響いたのではないかと思う。

「外交という分野では、外交官として仕事をするのも、皇族として仕事をするのも、国を思う気持ちに変わりはないはず」

陛下のこの言葉に、雅子さまは希望を見出したのではないだろうか。外交官としてのキャリアや夢を捨てるのではなく、別の形で、それを日本のために役立てていくことができるのではないだろうか……と。

 1993年(平成5年)6月9日。夢のように美しかったご成婚の日の雅子さまと、陛下の満面の笑顔。少女漫画ならこのシーンでハッピーエンドだが、現実はそうはいかない。おふたりの本当の物語は、ここから始まるのだ。

 1993年6月9日、日本中が笑顔にくぎ付けとなったご成婚パレード。しかし本当の物語はここからだった。


参考文献

『皇后雅子さま物語』(文春文庫)友納尚子

『雅子妃 非運と中傷の中で』(文春文庫)友納尚子

『皇后雅子 妃から后への三十年』(講談社)石井勤

『雅子さま 殿下の愛に守られて』 (集英社)江森敬治

『雅子さま ご成婚十年の苦悩』(講談社)渡邉みどり

『素顔の雅子さま』(主婦と生活社)週刊女性皇室取材班




   『愛子さま天皇即位』待望論


 ここからしばらくは今の今上天皇陛下(徳仁新王)と皇后雅子さまのご息女の愛子さまが皇太子、そして未来の天皇陛下になられることを夢見つつ、持論を展開したい。

 わたしは直系女性天皇論者というよりは、男系固執論者を「国民や政治家を騙してきた者」として憎む者である。右翼でも左翼でもなく、中道保守だ。

 皇位継承が男系男子にだけしか認められず、しかも、側室ではなく、正妻からの子でなければならないとする今の現状では、いずれ皇室は消滅してしまう。

 男系男子に皇位が継がれるようになったのは明治維新以後で、それまでは男系も女系もない「双系制度」であったという。

 過去の天皇のうち、側室の子どもは全部の天皇のまさに半分。明治天皇も大正天皇も側室の子である。昭和天皇から平成天皇(上皇さま)、今上天皇(徳仁新王)と男系が続いたのはまさに奇跡でしかない。それから四十年以上、女系が続き、秋篠宮さまの悠仁さまが誕生するまで女系天皇論が活発に議論されていた。

 愛子さまが皇太子や未来の天皇陛下になられるのは必然というか、愛子さまは天皇陛下の直系子であり、男系の天皇となられる。

 もし、愛子さまが皇太子になり、天皇になる過程で民間から旦那さんをもらったらその男性も皇族になるが、「その子供は女系だから駄目だ」みたいなことらしいが馬鹿馬鹿しい。

 だが、国民の自由や権利が奪われるというのに、愛子さまが皇太子になり、未来の天皇陛下になるなら誰がご結婚の決断をするのか? これは悠仁さまについてもいえる。

 このままでは皇室には悠仁さましかいなくなる。

 そんな皇族に、自由も権利も奪われるのに悠仁さまと結婚し、男の子を生む、と決断する女性は将来現れるのか? 相当のストレスやプレッシャーであろう。

 たんなる希望やポピュリズムが愛子さまへの想いではない。直系が皇位を継ぐのは自然な流れだ。イギリスだってそうだ。

 また、歴史的にも、八人十代の女性天皇もおられる。

 皇祖神は天照大神(女帝・これは存在しない。神話の人物)であり、日本で最初に「天皇」を名乗ったのは推古天皇(女帝)だし、天皇を法的に認めさせたのは持統天皇(女帝)だし、「日本」という国名を決めたのも持統天皇である。

 明治天皇が皇室典範を制定するまで、皇位継承は双系的(双方的)に男子でも女子でもよかった。それまで千二○○年も有効だった。

 さらに愛子さまは大変に聡明であり、カリスマ性もあり、博愛に満ちた方で、国民の八割も『愛子天皇誕生』を支持している。愛子様が天皇になられる下地はすでに出来ているのだ。

 女性天皇八人十代も、「すべて男系天皇で、父方をさかのぼれば必ず神武天皇にいきつく」と、男系固執派はいう。はたしてそうだろうか。

 よくいわれるのは「旧宮家から男系の養子をとれば、皇位の継承問題はすべて解決する」という主張である。だが、なにか勘違いをしてはいないか?

 旧宮家は準皇族でもない。我々と同じ一般人なのだ。

旧『宮様』、元『宮様』だから高貴な家柄であろう、というのは勘違いである。

 八十年前の敗戦後に、宮家は廃止され、その後は一般人であり、その子孫は一般人のまま育った。そんなひとたちが自由も権利もない皇族に婿養子とか養子に行くはずはない。

 ましてや「赤ん坊のうちから皇族の養子にしたらいい」というのも馬鹿げている。

 ある元・宮家のジャーナリストは「旧・宮家の中で「皇族になってもいい」という候補が二十人はいる」と主張しているそうだ。だが、なら記者会見を開いてください。

 だけど、そんな奇特な人間などいるわけがない。

 いないから、十年以上たっても誰だかひとりもマスコミも把握できていない。

 旧宮家には該当者がいない。養子をむかい入れる皇族がいない。門地(家柄)による差別は憲法違反(憲法十四条)……である。この日本は天皇陛下や皇族以外は、下にも上にも階級もない平等社会である。旧・宮家を準皇族のように思っているひともいるようだが、彼ら彼女らはまったくの一般人である。日本には貴族も華族もいない。天皇・皇族以外はすべて平等の一般人である。特権階級の家族など存在しないのだ。

「旧・宮家は高貴な家柄で、神武天皇の男系の血をひいている。二千年の伝統の血を受け継いでいる」

 それは違う。旧・宮家の男系なら六百年遡らなければ天皇に繋がらない(「旧・宮家」は男系では北朝第三代・崇光天皇の皇子・榮仁新王にしか繋がらない)。

 しかも、旧・宮家の男子で「皇族になっても天皇になってもいい」などという候補者はひとりもいない。自由も権利もすべて奪われるからだ。

 旧宮家が伝統と血統……なら自分の親は二人、祖父母は四人、その前の代が八人、十六人、三十二人……一代三十年としても二千年で六十六代。二千年遡った祖先の数は73786976294838206464人となり日本人全員が親戚! 日本人全員が天皇とつながっている可能性はある。だから、それを踏まえて大宅壮一は『一億総天皇家』と言った。

「愛子さまの子どもはY染色体を持たない!」?

「男系固執! 女は生理で穢れている」?

 果たしてそうだろうか?

 生理だとしても、今ならピルで生理日をずらすことなどオリンピック選手でもやっている。生理だとしても宮中祭祀や公務を翌日にしたり、公務を誰かに代行させればいいだけ。

 女性は(生理で)穢れている。だから、天皇にはふさわしくない。??

 タリバン政権のアフガニスタンか!

 男系固執派は天皇のY染色体は神武天皇からの血統と称するが、天皇のY染色体(DNAの男性の染色体)など天皇でなくとも、小学生でもホームレスでも酔っ払いでもひきこもりでも男性なら誰でも持っている。

 しかも、天皇のY染色体なら高貴で、一般人のY染色体は価値がない、など差別であろう。過去八人の女帝(女性天皇*推古天皇・皇極天皇(斉明天皇)・元明天皇・元正天皇・持統天皇・孝謙天皇(称徳天皇)・明正天皇・後桜町天皇)もきちんと公務や祭祀はやっておられたし、八人十代の女系は「中継ぎ」なんかではない。

 母から娘への皇位継承(つまり女系天皇)もあった。

 天照大神は存在しないというか『神話』なので、神武天皇まで遡ってもY染色体なるものは欠史(けっし)八代の天皇の中で、百三十歳とかいるので、そこも男系できたのかもわからない。だが、人類を遡ってみたら、Y染色体の先祖は『ラミダス猿人』になるしかない。

「女はXXの染色体しか持たないので、愛子さまの子どもは女系になる。女から女へ受け継いだら日本は滅ぶ!」

 果たして、本当にそうか? 日本が滅ぶとは? 日本が沈没でもするのか?

 また、女系天皇では(中国の)『易姓(えきせい)革命』に繋がる! という主張もある。

 だが、何王朝が何王朝にかわるというのだ?

(易姓革命とは? シナでは、前王朝を武力で倒したら「姓」を「易(か)」える。「揚」(隋)→「李」(唐)のように。なかには別民族の統治もあり、「元」に至ってはモンゴル人である。男系派は女系を認めると、結婚相手の「氏」に王朝が替わると度が外れたことを言っている)

「女系天皇が誕生したら、別王朝になる。愛子さまが天皇になって、山田さんと結婚したら「山田王朝」、鈴木さんと結婚したら「鈴木王朝」になる!」

 馬鹿げたことだ。シナ・中国の『易姓革命』と、日本の男女が結婚したら(おおむね女性の)姓が替わる制度は何の共通点もない。

 そんなこともわからないとは……。

まず、皇室には苗字も姓もない。しかも、皇族と婚姻したら、姓も抹消される。

 女が男の姓を名乗るのが本当に普通なのか? 

 例えば、中国では今も夫婦別姓だ。だが、それは男女平等などではなく、むしろ逆で、「男の伝統のある苗字の家系に、女なんか入れるか」という男尊女卑で、である。

それで自民党も夫婦別姓制度に反対しているのか? 男系固執派の女性は『男尊女卑に賛成し、女は料理や洗濯や子育てのサポート』という習慣を伝統と勘違いしていないか? 

そんなものは1950年代からの欧米のテレビ番組で観たからの新しいもの(専業主婦)で、戦前は子供も主婦も家族と共に働いていたのだ。

男系固執派は「男系は日本の伝統」というかも知れない。だが、男尊女卑は中国の儒教の影響であり、それまでは女性天皇(八人十代)や女性の大名だっていた。

 また、「男系の皇位継承は日本の伝統である」「女系天皇になったら日本が滅ぶ」というのは違うんじゃないか。第43代の女性天皇・元明天皇から、第44代の女性天皇・元正天皇への皇位継承はいわゆる女系天皇。母親から娘への皇位継承だった。

 それで日本は滅んだだろうか? まだ日本国はあるようだが……

「元明天皇の旦那さんは草壁皇子だから男系ですね」

 そういうひともいる。だが、違うでしょ? 草壁皇子は天皇にならずに死んでいる。皇位継承が問題になり、母親の元明天皇から娘の元正天皇へ皇位継承があったんだから、これは間違いなく女系天皇である。なら、もう女系天皇は〝先例〟がある、ということ。

「乳幼児の死亡率が格段に下がった医療体制の下なら、側室云々は影響ないと思う」

 ?? 男女の産み分けと乳幼児の死亡率は関係がない。

 現に、皇室には文仁親王の次には悠仁さましかいない。後は全員が女性だ。

「天皇かどうかではなく、血統や家柄の問題です。男系皇位継承は日本の伝統です。神武天皇の血を引くのは男系のみの皇族様です」

 血統って。皇位継承の話で、何で血統や家柄なの? 血統が大事なのに男系の血統しか守っていない。話をすり替えている。もう、女系の〝先例〟もあるのに、なんで駄目なの?

男性の血統は大事で、女性の血は穢れだから無価値?? ただの男尊女卑ですよ!

 また、すでに述べたが歴代の天皇の約半分は側室の子どもである。なら、天皇だけ側室を復活させるか?? と聞かれたら「絶対にダメ」と国民はいうだろう。

「正妻の子ども以外は駄目だ」、と。

 そうなると、皇室には最後には悠仁さましかいなくなる。

 果たして、それで殿下とご結婚をするというお嬢さんが現れるのか?

 相当のストレスやプレッシャーです。自由も権利もすべて奪われて、「男子を生め」と国民から願望される。そんな存在になりたい奇特なお嬢さんはいない。

 だからこそ、愛子さまの皇太子化、未来の天皇陛下化、なのだ。

 むろん、お相手が決まるのか? それも相当難航するだろう。

(お相手の男性は皇族にならず、一般人のままで、などできる訳がない。相手の男性が風俗通いやギャンブル中毒になったり、暴露系ユーチューバーになったりすればどうなるか?)

 愛子さまほどの聡明で、カリスマ性があり、頭脳明晰なうえに庶民的な風貌な方なら、未来の天皇陛下にふさわしい。何故、女性天皇・女系天皇は駄目なのか? 国民の八割は賛成なのに…。

「男性が先、女性だから駄目」だと、いうならそれは男尊女卑の差別である。

 この日本の皇室を天皇制を救うのは『愛子さまの天皇即位』しかない。

 その実現を祈りつつ、この項をおわりとしたい。

     参考文献『愛子天皇論』小林よしのり著作・扶桑社(2023年)



そして、ポスト・スクリプトである。

 旧宮家は「準皇族」的な身分であるかのように世間を錯覚させて、これを皇族の養子にしてから愛子さまと結婚させる。そして、旧宮家の夫を当主、愛子さまをその妃とする宮家をつくり、男系男子継承を維持させようというキャンペーンを、三誌もの週刊誌を連動させて展開したのだ。もうそれしか男系派には手がなかったのだろう。

「愛子さまが旧宮家の男子と結婚されれば、皇位継承問題は一段落つくのではないか」

「旧宮家の子孫には少なくとも10人の未婚男性がいて、御年齢が愛子さまと近い方もいらっしゃいます」

「愛子さまが旧宮家の男子と結婚成されて、旦那さんが皇族になられて、愛子さまは一旦皇籍を外れても、男子を生めば、「天皇の母」として皇族に復帰するのがいいのでは?」

 つまり、天皇のお子様で、直系でも、愛子さまが女性であるから駄目で、男子を生んだ時にだけ認める……という男尊女卑の極みのようなことを男系派は言っているのだ。

 しかも、週刊誌では匿名の「宮内庁関係者」が、「愛子さまが旧宮家「準皇族」の男子(賀陽(かやの)宮家の次男とか池坊専宗らしい)と真剣に交際している」というガセネタみたいな報道をする。

 しかも、「最近、愛子さまがお綺麗になられたのは恋人ができたから―――」

 とか、「女がきれいになったのは男が出来たからだ」というゲス男みたいな記事だ。

 だが、旧宮家というが「一般人」である。宮様だったのは九十歳以上の老人だけで、その下の世代の子孫は一分一秒たりとも皇族であったことはない。

 しかも、それらを「準皇族」扱いして、結婚などを強いたり、御養子だか新宮家だか知らないがそういうのは「門地(家柄)による差別・強要」を禁じた憲法十四条に違反している。

 愛子さまが恋愛しているかは知らないが、ガセネタのような印象を受ける。

 それは、故安倍元首相が「「旧皇族系男子の皇籍取得案」に関して、該当者は「今はいわば民間人としての生活を営んでいるというふうに承知している」として「まったく考えていない」」と国会答弁でハッキリ否定したことでわかる。

 まあ、旧宮家に打診し、その結果、皇族になりたい該当者も、愛子さまと婚姻したい該当者も、皇族の養子になりたい該当者も、そういうのがひとりもいなかった……ということだ。

 愛子さまが旧宮家の男子と恋人で逢瀬を重ねている、というのは眉唾以外の何物でもない。くだらん、というか。そこまでして男系派は「男系固執」「男系皇位継承」を守りたいのだ。そして、その男系派はあとがなくなった。

 だから、そのようなデマを流してでも「男系皇位継承」を守りたかったのだ。

 こういうひとたちにはそろそろ引導を渡す時期なのであろう。

 時は、今、だ。



   『天皇論』(長尾景虎史観)


 我々の天皇観が重要だと思う。天皇を「やらせている」のか、「やってもらっている」のか? そこは漫画家の小林よしのり氏と同じ意見ですね。

 天皇には皇族には自由がない。反論の権利などもないし、誹謗中傷されても訴訟騒動なども起こせない。

こんなに自由がない存在なのに、昔、ネット荒らしで有名で軽度知的障害の疑いがあるとかの愚か者が、私の「天皇や皇族の皆様には自由がない。本当に可哀そう」という発言に、「皇族や天皇はあれだけの広い皇居に住んで税金で贅沢しているだろ? なら、お前が金払って(天皇や皇族を)食べさせろ!」とか逆ギレして書いてきた。

さすが荒らし、と思った。

天皇や皇族の方々が国民にはある基本的人権や自由などがないのは馬鹿でも知っているというのに、荒らしにはわからないという。

ちなみに、どれだけ権利や自由がないかを書いておく(*天皇にない、または制限される人権。〇選挙権・被選挙権〇公務就任権〇財産権〇名誉棄損等を告発する権利〇国籍離脱の自由〇移住・転居の自由〇婚姻の自由〇職業選択の自由〇表現の自由〇信教の自由)。

また、平成28(2016)年8月8日には全国放送で『平成の玉音放送』があった。

その当時の今上天皇陛下であられた明仁天皇陛下(現・上皇さま)によるテレビ会見であり、上皇様は『(皇太子・現天皇陛下に)生前譲位』の想いを公表された。

上皇様は「疲れたから…」「もう嫌だから…」といって天皇を辞めると言ったわけではない。お年を召して、「天皇は死ぬまで天皇」という因習を批判し、生前退位を特例ではなく、皇室典範を改正してほしいというお考えだったのだ。

母上様の香淳皇太后の認知症や寝たきりでの最期のことも頭におありであったであろう。

その年の『参与会談』での議題で、陛下は「生前退位」と「女性宮家」に熱心であられたという。そして、非常手段の『平成の玉音放送』は公表された。

このお言葉を受けて、陛下の願いを実現しようと考えなかったら、尊皇心のある愛国者とは決して言えない。だが、故安倍晋三元首相はその公表を受けて、亀井静香(当時・元・政治家)に「サボタージュしろ」と耳打ちされて、「生前退位」「女性宮家」を潰しにかかった。

尊皇心など安倍晋三元首相にはなかったのだ。

上皇さまや上皇后さまの覚悟は、皇太子時代からの「国民への奉仕心」である。

有名な話だが、当時の皇太子時代の上皇御夫婦は沖縄に『慰霊の旅』に行かれた。

むろん、先の戦争で沖縄では地上戦で県民が二十万人以上なくなっており、それを「天皇のせいだ!」といって訪問を反対する人たちもいた。

だが、殿下は「慰霊が先だ」といい沖縄訪問を強行した。

那覇空港に降り立った皇太子ご夫婦は、屋良朝苗知事に挨拶をすませると、まずは南部の戦跡・ひめゆりの塔へと向かわれた。

炎天下のもと、流れる汗もおふきにならないで、ひめゆり同窓会の源(みなもと)ゆき子会長の説明に聞き入っていた。

そんな中、壕の奥に潜んでいた過激派学生が出てきて、御夫婦に火炎瓶と爆竹を投げつけた。火炎瓶はおふたりの二メートルほど離れた献花台に直撃し炎上した。

すぐ近くで炎があがり、次に何があるのかもわからないのに、御夫婦は自らの身より源さんの安否を案じて、「源さんはどうした」「源さんを助けてあげて」と言い続けていた。

警視庁は沖縄県警に「壕の中を調べろ」とは国民感情を意識して言えず、それで過激派が壕の中に潜んでいたのを見逃したのだった。

その後も、殿下は何事もなかったように、その他の慰霊碑に献花しておまいりした。

殿下はその後、天皇陛下となられた後にも、サイパン島に行き、「バンザイクリフ」の前でも献花し、頭を深々と下げて慰霊成された。これも「国民への奉仕」「慰霊」である。

 話を皇后・雅子さまの話に移そう。

 皇后となられた小和田雅子さんは、昭和38(1963)年12月9日、東京に生まれた。

 父親の恆(ひさし)氏が外交官であったため、家族と共に一歳でソ連(ロシア)へ、四歳でアメリカに渡り、七歳で日本に帰国。十五歳のときに、父親の米国赴任に伴い再び渡米。州立のハイスクールを経て、ハーバード大学に進学された。

 雅子皇后はありとあらゆるバッシングを受けてきたが、そのほとんどすべてが嘘や憶測に基づくものやいわれのない批判や嫉妬からのものであった。

「雅子さまは外交官として海外で育ったので、皇室の生活には合わなかった。だから、精神的なご病気になられた」ともっともらしく言った人も多かったが、逆に、海外生活が長かったからこそご自身のアイデンティティーを確立して日本国を俯瞰することが出来た。

 ハーバード大学でも、日本文化を紹介する会の会長にまでなっている。

 雅子さまの性格は控えめで自己主張は強くないが、責任感と使命感が物凄く強い努力家であり、こうと決めたら目標に向かって努力を重ね達成するような並外れた集中力がある。

 この性格は現在もおかわりになられていない。

 当時は日米貿易戦争などもあり、人種差別も酷かったが、雅子さまは日本人として「天皇のこと」や「日本文化」に対して情報発信をしており、その結果、大学では「日本人の評価」があがったという。雅子さまは大学卒業後、日本に帰国して東大に学士入学。その後、40倍の難関を突破して外交官試験を突破、外務省に入省し、外交官になる。

 当時は男女機会均等法の初めころで、女性は『腰掛け』『社員の花嫁候補』でしかなかった。そんな中、雅子さまはキャリア官僚として順調にキャリアを積んでいく。

 そんな魅力的な〝出来る女性〟に、当時の皇太子徳仁さまが惚れ込んだ。

「(結婚相手は)小和田雅子さんではだめでしょうか?」

 皇太子は宮内庁関係者に尋ねたという。

 その後、マスコミにばれないように軽ワゴン車に座席に隠れるなどして皇太子さまは雅子さまと秘密裏に逢瀬を重ねられた。千葉県の宮内庁新浜鴨場で、皇太子さまは告白をする。

「雅子さん。ぼくと結婚してはいただけませんか?」

「……わたしで…よろしいんでしょうか?」

「確かに、皇太子のぼくと結婚するということは将来、皇后となり、自由のない皇族としての生活です。でも、雅子さんのことはぼくが全力でお守りしますから」

 こうして、皇太子殿下(当時)と雅子さまはご結婚! だが、ここからが地獄の始まりであった。皇太子妃として、〝世継ぎの男子〟を願望される。

 いじめや重いストレスもあり、自由がないことでも雅子さまのお心は厳しい状態になる。

 一度は流産までなされたという。それでも嫌がらせやマスコミからの攻撃も続く。

 それで、精神的に落ち込むような適応障害やうつ病になると、宮内庁の主治医は適当な診断ばかりする。昔なので、今のような精神医学の知識やカウンセリングもなく、なんと「散歩などの気分転換をするのがいい」とか「落ち込むのは気の持ちよう」という精神論ばかり。

 しかも、宮内庁は世継ぎの男子、のことばかり注文してくる。

 これには雅子さまもほとほと参ったことだろう。

 不妊と言うのは女性だけに問題があるのではなく、男性側にも問題がある場合が多い。

 だが、そういうことは一切関係なく、マスコミも国民も宮内庁も雅子さまを責めた。

海外公務をしたいという雅子さまのご意志を取り上げ、宮内庁は「嫡男懐妊」という重いストレスを雅子さまにかけ続ける。雅子様こそ世継ぎを望んでいらしたこと、望めば懐妊するわけではないということも宮内庁も国民もマスコミも理解もしていなかった。

未だ詳細は明らかではないが、宮内庁のある人物がその時の感情に任せて、雅子妃を激しく叱責するという事件がおきたという。そのことで、雅子さまは激しく動揺し、ひきこもりのような状態になられ、食欲もなくされた。必死に保ってきた心を折られ、すっかり自身の存在意義を見失い始めたといわれる。

それでも平成13年12月1日、雅子さまは第一子である女児を出産した(のちの愛子様)。

 だが、女児であったことで、宮内庁は落胆し、「次は男児で」とすぐに動き出した。

 物凄いプレッシャーとストレスで、雅子さまは具合が悪くなることも多くなられた。が、救いはすくすくとお育ちになる愛子様の存在であったことだろう。

 流産しても同情もされず、第一子を産んでも女児だからと無視され、ひたすら〝子供を産む機械〟と見られ、元外交官のキャリアを生かした海外訪問も取り上げられ、悪口や誹謗中傷の嵐を受け続ける。自由な発言権も権利も行動の自由もない………

こんな環境で、病気にならないひとがいるだろうか?

 雅子さまには精神疾患の症状が現れだす。朝だるくて起きれない。一日中、頭がぼうっとする。哀しくなって夜眠れない。突然、激しい動悸に襲われる。怖い夢を見て、激しい動悸に襲われる。

「雅子のキャリアや全人格を否定する動きがあった」

 皇太子(当時)さまはある会見で苦言を呈された。

 本当に、そのような動きがあったわけである。

 雅子さまを攻撃していたのは、宮内庁やマスコミや国民だけでなく、ネトウヨ(ネット右翼)もそうだった。ネトウヨは「たまたま日本に生まれた」ことだけが自慢のどうしようもない連中であり、そんなくだらない存在に媚びを売るのがネトウヨ女子、である。

 ネトウヨは雅子さまのような「頭脳明晰な優秀な女性」が大嫌いであり、韓国や中国を嫌悪し、ヘイトスピーチに熱狂する。そんな連中もまた『雅子さまバッシング』に加担した。

 現在は、雅子皇后さまは大分、お元気になられ、御病気もよくなられたようだが完全にお治りになられるのは愛子様が皇太子に、そして女性天皇になられたときであろう。

 こういういじめというか身分差別のようなことは、現在の上皇后さまの美智子さまのご成婚のときにもあった。もう当時でも廃止されていたが、天皇・皇太子・皇族の結婚は旧宮家や華族から候補者を選ぶ……というような慣習がまだあった。

 それでも、上皇様は皇太子時代に、民間出身の正田美智子さんをお妃に選んだ。

「家柄が…」だの「皇太子の妃が、民間人の女性などとみっともない」とかいったのは大勢の知識人や松平信子や柳原白蓮などの皇族・宮家・華族関係者であったという。

 雅子さまのがデジャブのように考えられるほどの、いじめや差別や誹謗中傷の嵐――――といった嫌がらせが続いたのだという。

 国民は〝ミッチーブーム〟だかでお祭り騒ぎであったが、美智子さまに近いところではそういういじめや嫌がらせはあった。上皇后さまが失語症になられるまで追い詰めて、国民に反発されて、やっとこさいじめをやめる、という酷い有様であった。

 だが、美智子さまは男児をお産みになられた。

 「浩宮(ひろのみや)」(称号)「徳仁(なるひと)」さま(皇太子・現在の天皇)であり、「礼宮(あやのみや)」(称号)「文仁(ふみひと)」(現在の秋篠宮・皇嗣)であり、長女が「紀宮(のりのみや)」(称号)「清子(さやこ)」(現在の黒田清子さん)である。

 愛子様は天皇の子どもなので称号があり、「敬宮(としのみや)」殿下、という。

 秋篠宮さまの子どもは天皇の甥や姪なので、称号はない。

 眞子内親王(現在・小室眞子さん)、佳子内親王、悠仁親王殿下、である。

 なんにせよ、当時の雅子さまや美智子さまへのいじめや嫌がらせや誹謗中傷は許せない行為だ。しかも、我々は国民の為に「(天皇を皇后を)やってもらっている」という観点からすれば逆臣行為である。今は、雅子さまもだいぶ健康になられてなによりだが、陛下や皇后さまを蔑ろにする逆賊こそ〝日本の敵〟である。

 こういう問題は根が深いが、過去のことだからと忘れて許す訳にもいかない。

 よく考えて欲しい。我々には天皇や皇后を、当時の皇太子や皇太子妃や秋篠宮さまらを批判する資格があるのか? 天皇を戴く資格があるのか??

 国民としてこういう天皇論を、よくよく考えて欲しい。

 この言葉で、この項はおわりにしたい。

   参考文献『天皇論 平成29年』小林よしのり著作・小学館







老人となった日本のラスプーチン・白洲次郎はまだ若い当時の皇太子・徳仁親王に浜辺で言ってきかせた。

「日本の経済が強いのは死をおそれないからです。」白洲次郎は笑顔で言った。

徳仁親王は、「死? 経済で死ぬのか? 父や母は嘆かないのか? 泣かないのか?」ときく。

すると白洲次郎は背広のまま「経済で負ければ死にまする。みな、お国のため天皇陛下のためだ、といわれれば皆、命をさしだすのです」

「親は泣かない?」

「心では泣いても……顔には出さないのでございます。」

「ふ~ん。」皇太子は感心しきりであった。

……そうか。日本人たちはそんなに強く、また天皇陛下のためなら命さえ捨てるのか…

皇室で、侍女が当時の皇太子である徳仁親王について平成天皇明仁や美智子(皇后→上皇后)皇后にいっているところだった。

侍女は「皇太子さまはまだ十八歳。まだまだ大母君に甘えたい年頃でございます。日本政府のやり方はあまりにも…」

皇后は「おやめなさい」と話をさえぎった。

「一番つらいのはおまえではないのだよ。」

天皇(天皇→上皇)の明仁も「もうよい。イギリス留学のことはすべて日本政府のいうように取りはからうとすでに決めているのだぞ。我々にはそれより道はないのだ」

侍女は「ですがたったひとり。英国へ赴かねばならない皇太子さまが不憫でなりません。」といって泣いた。皇太子の母親の皇后・美智子(皇后→上皇后)(みちこ)。父親は天皇(天皇→上皇)の明仁……であった。

留学という名目であったが、皇室からすれば人質に皇太子さまをとられたも同然なのだ。

侍女は皇居の庭場にいた徳仁親王に声をかけた。

「こちらにいらっしゃったのですか殿下! 早く英国への出発の荷物を……」

「わたしはもう戻れないかもしれない。だから、この石をもっていくね。」

侍女は泣きそうな顔をして、「そのようなことを申されますな、殿下!父君と母君が知ったらどんなに悲しまれることか。必ず戻れますよ」

「斎藤よ!」

斎藤侍女は皇太子を抱擁した。「殿下は必ずお帰りになられるのですよ」

もう涙涙である。

浜辺で英語通訳の男に徳仁(なるひと)親王はいった。

「わたしも今日を限りに泣かないことにする」

「殿下!」

この日をさかいに徳仁殿下はご自身の感情を顔に出さない方になられたという。





 昭和天皇裕仁さまが崩御なされたのは1989年1月7日、昭和最期の日であり、バブル経済まっただ中での死だった。崩御されると昨年からの自粛ムードが明け、ふたたびバブル経済の熱狂が人々を包んだ。元号は、〝昭和〝から〝平成〝へとかわり、明仁親王は平成天皇・今上天皇(天皇→上皇)として執務にあたることになった。即位の義がひらかれる。

「しっかりしてください! 天皇さま!」

「……わたしはもう駄目か…?」

昭和天皇裕仁のカラダからは汗がどっと流れる。

もはや、死亡間近で眼がかすみかけている。

「そうであります! 陛下!」

「……やはりそうか……死ぬのか…」

「陛下! 天皇陛下!」

「………もう駄目だよ……」

「……陛下―!」

 昭和天皇崩御!時代は平成へ。

話は変わる。世の中は『バブル経済』『経済成長』の時代である。

まだアメリカと旧ソ連(現在のロシア)との間の『冷戦時代』であったが、日本は安全安心の平和ボケの時代でもあった。すぐにソ連は崩壊し、混沌とした時代になった。

バブル経済も崩壊……反動不況で日本経済は地獄の大不況時代へ……

このような中での徳仁皇太子と外交官の小和田雅子さまとのご縁談のお話であった。

雅子さまのご両親は娘さんの雅子さまの身を本当に案じられたことであろう。

なにしろ皇室で「のちに皇后さまになられる」という立場になられるのである。

「やはりそのような話であったか。」

小和田は妻・優美子より縁談のことをきいておっしゃった。

「しかし、このような時代であるし……」

「わたくしは縁談に反対です。確かに徳仁皇太子殿下はごりっぱなお方でしょうが……このような皇太子妃のちの皇后さまでは……日本には天皇の統治に不満をもつひとも大勢いるのでしょう? そんな皇室の皇太子に嫁がせる親がどこにいましょう?」

宮内庁長官が、お国のためと申したんだな?」

「はい。………ですが。」

「ならば仕方あるまいよ。」

「あなた! 雅子はバリバリの外務省の官僚でございますよ? 高級官僚で英会話も……」

「これはお国のために誰かがなさねばならないことなのだ。わたしたちの娘はそういう尊いお役目に選ばれたんだよ。」

「……そんな……」

「優美子……日本人のほんかいはお国の大事に殉ずることだ。お前ならわかるはずだ。これがお国からあのこにささげられた使命なのだ。そう思うより他になかろう。」

もし、このことがなければ雅子さまは東宮さま、のちの今上天皇(平成31年より)のお后になられていなかったかも知れません。

ともあれ、ご両親がお悩み苦しんでいることは露ほども知らず、雅子さまはわすれられない夏休みを経験することになるのでした。

 

その夜、父君と母君は雅子さまにいってきかせる。

父君の小和田は「お前にとっては青天(せいてん)の霹靂(へきれき)だろうが、これはこの日本国のお国のためなのだ。わかってくれ。これを自らにかせられた使命と思い、見事果たしてほしい。これが父の願いだ」

「雅子………しっかりね」

「……。」

雅子さまは無言であられた。



 車で帰る徳仁殿下。

「おかえりなさいませ」

「陛下、ただいま留学より戻りました」

「かわりは?」

「すこぶる元気で。」

「あ、そう。」

「皇后陛下から小和田家への贈り物をちょうだいいたしました。」

「ほう。」

「どれも皇室の秘蔵の品ばかりにございまする」

「そうか……」

「は?」

「贈り物はすぐに小和田家へ届けよう」

「はっ。さっそく手当を。」

「父上……」

 徳仁皇太子と雅子の顔合わせとなった。

贈り物に感謝の礼をのべる小和田父母。皇太子は「いいえ。」と、皇室も皇族も大歓迎だ、と嘘をのべた。緊張と恥ずかしさで下を向いたままの雅子さま。

やっと目をみる雅子と徳仁。

若いふたりだけで……となる。

「運命?」

「そう運命……そう思うしかありません」

「そんな運命はいやでございまする。かごの中の鳥だなんて」

「では、どうしろと?」

「わたしたちふたりが新しい日本を新しい皇室をつくるのでございまする」

「……新しい日本?新しい皇室?」

ふたりは愛情をもつようになる。

惹かれ合うふたり。からかわれる雅子さま。

殿下のために〝折り鶴〝をつくる雅子さま。時が過ぎていくうちに徳仁(なるひと)殿下と雅子さまのふたりの関係は深くなっていく。

「あなたこそさぞ悩まれたことでしょう?」

「いいえ。」

「人民のこころを私はしりません。雅子さんを人民はどう思うか……」

「わたくしは殿下とともに……日本の母になる覚悟にございます!」

「雅子さん……」

皇族のいろいろなひとに「一般人の皇太子妃など……」「一般人の皇太子妃に子供ができたら一般人の子供になる…」「いけません…」とさんざんいわれたことをふせる殿下。

「雅子さん。わたしはあなたを不憫に思います。わたしに嫁いでもいいことはひとつもありません。」

「殿下、わたしは国にとつぐのではありません。殿下に嫁ぐのです。どんな国難でもわたしは殿下のお心に嫁ぎたくおもいます。たとえカゴの中の鳥でもふたりが信じあえばちゃんとした夫婦になるに違いありません」

「雅子さん。」

「殿下。」

ふたりは抱擁した。深い深い抱擁。

世紀のロイヤルウェディング!テレビ生放送の皇太子と皇太子妃のパレードの中継!世の中に〝雅子さまブーム〝の嵐が吹き荒れる。

皇室式の花嫁姿の雅子に父母は、涙。

雅子さまは「何も心配してません。今日からは殿下のお心によりそってつくしていきたいと思います」

父母は熱い涙を流し、「幸せ、に」雅子さま「はい。」

婚礼パレード。日本中がふたりの結婚を祝福しているよう。

そのときでも不穏な動きが…。テロリストが暗殺未遂。テロリストは捕らえられる。

爆弾は馬上で不発。テロリストは日本人。しかし、この事件は長い間、公にされなかった。晴れやかな婚礼のパレードでこのようなまがまがしい事件があったことを雅子さまが知ったのはのちのちの世のことでした。

幸せな新婚生活。

雅子さまが、ご妊娠。

「殿下。」

「雅子、ありがとう。」

ふたりは抱擁する。

こうして雅子さま、徳仁皇太子(現在・皇太子のちに天皇さまと皇后さま)の間には一女の子宝に恵まれる。しかし、キャリアウーマンからの皇族ということで一時期精神疾患、適応障害に羅漢しお悩みになられる雅子さま………

〝愛子さま〝誕生……そして現在へ。天皇陛下が自ら〝生前退位〝要請…そして次の時代へ……





文春オンライン

「天皇家はお金持ちだし、秋篠宮家だって財産はあるんだから」眞子さん夫婦は〝仕送り〝を頼ればいいと思う日本人の勘違い

奥野 修司 2022/06/05 06:10 より引用

秋篠宮さまは痩せ、母娘の関係は疎遠に…小室圭さんとの結婚が「円満な秋篠宮家」に招いた異変 から続く

 昨年、結婚に伴う国からの一時金を辞退した元皇族の眞子さん。そんな眞子さんを心配してか、「天皇家や秋篠宮家から援助してもらえば贅沢な暮らしは十分できるんじゃないの」という声もあったが、残念ながらそれは的外れである。

 いったいなぜ小室眞子さん・圭さん夫婦が「天皇家の財産」を頼ることは難しいのか? ジャーナリストの奥野修司氏による新刊『 マコクライシス 』より一部抜粋してお届けする。(全3回の3回目/ #1 、 #2 を読む)

「天皇家の財産」を頼ることはなぜ難しいのか ©JMPA© 文春オンライン 「天皇家の財産」を頼ることはなぜ難しいのか ©JMPA

◆◆◆

皇籍を離脱した者に支給される「一時金」とは何か?

 本来なら眞子さんが小室圭さんと結婚して皇籍を離脱すれば、一時金として1億数千万円が支給されたはずなのに、一時金を受け取ることに猛烈な批判があったことを配慮して、眞子さんは受け取りの辞退を決めた。結局、政府と宮内庁はこれを追認するかたちで、一時金を支給しないことを決定している。

おそらく眞子さんにある程度の貯蓄があったからだろうと思われる。仮に眞子さんが成年後に受け取ってきた皇族費915万円(年間)をすべて貯金していたとすれば1億円近くになっているはずである。少なくとも預貯金がなければ問題になっていただろう。

 とはいえ、一時金は、「皇族であった者としての品位保持の資に充てるために」支出するお金である。皇族にはお付き合いから衣装まで、われわれ庶民には想像ができない金額が必要になる。

 例えば、ヨーロッパに行けば、皇室と親交のある王室もあり、きっと元内親王の眞子さんは招待されるだろう。そのとき、まさかカジュアルな服装で訪問するわけにもいかないだろうからそれなりの衣装は必要だ。それも元皇族としての品位を落とさないためにどうしても高額になる。一時金とは、一般人になっても、元皇族としての品位を保つために渡される資金なのだ。

 眞子さんが結婚して、皇族から一般人になったからといって、公人である皇族から完全に私人になったわけではない。「元皇族」という性格を併せ持つ、いわば準公人なのだ。一時金は、もらう、もらわないではなく、受け取るべきお金だったのである。それなのに、自ら辞退しなければならないところまで追い込まれた眞子さんは、お気の毒としか言いようがない。

 一時金をもらうことが「税金泥棒」とまで言われ、果ては「税金で生活しているくせに」と、ひどい言われ方をしてきた。要は、皇族は税金をもらって生活しているんだから国民の言うことを聞けということらしい。税金で生活しているのは政治家もそうなのに、政治家に対しては、「ろくな政治活動をしていないんだから税金を返せ!」なんて抗議はしない。税金をもらったら国民の言うことを聞かなくちゃいけないなら、公務員はまともに結婚できないことになる。こんな風潮が広がっていけば、税金で支えられている人間は「国民の言うことを聞け」から、やがて「政府の言うことを聞け」になってしまうだろう。

 典型的な例は日本学術会議の任命拒否だ。税金をもらっているなら国民の代表者である政治家の言うことを聞け、でないと任命できませんよというわけである。これも眞子さんへのバッシングと五十歩百歩だろう。これらバッシングする側に共通しているのは、使われた税金が自分のお金だと錯覚していることである。

 眞子さんと小室さんがこれほど非難されたのは、眞子さんが皇族だったからだ。おそらく憲法第1条に「天皇は……主権の存する日本国民の総意に基く」とあるのを誤解したのだろう。つまり、天皇と同じように皇族も国民の総意に基づくのに、眞子さんの結婚相手は国民の総意に反しているではないか、と。しかし、これは天皇制というシステムのことを定めたのであって、一皇族の生活に言及しているわけではない。それを曲解されたのだ。「眞子さんに一時金を払うな!」なんて本気で思っていた国民がどれほどいたのだろう。

なぜ皇室は税金で維持されるようになったのか?

 それにしても、なぜ皇室は税金で維持されるようになったのだろうか。

 日本が戦争に負ける直前の皇室には、現在の金額で数兆円といわれる財産があった。戦争に負けたことで、皇室に大金を持たせては権力を乱用するから危ないというわけで、日本を占領したGHQは、莫大な皇室財産に課税して解体し、国に移管させた。戦後の国民は、その財産を享受してきたはずだ。例えば、皇居外苑を散歩したとする。自由に出入りできるのも国に移管されたおかげなのである。

 皇室が税金で支えられるようになったのはわずか75年前のことである。それも皇室が自ら望んだことではなく(昭和天皇は認めたが)、GHQという外国の軍隊によって強制されたことを、当時の国民が認めたということだ。その結果、「皇室の藩屏」といわれた旧宮家を臣籍降下させて直宮家だけにシェイプアップし、天皇家を中心とした皇族の生活と皇室の維持を税で賄うことにしたのだ。最初から税金で賄われていたわけではない。

 ちょうど眞子さんは一時金を辞退すべきだといった意見がかまびすしかった頃だったが、「天皇家はお金持ちだし、秋篠宮家だって財産はあるんだから、援助してもらえば贅沢な暮らしは十分できるんじゃないの」といったようなことが言われた。

 たしかに皇嗣になった秋篠宮さまの新居は、33億円もかけて増改築が進められていたし、新居が完成するまでの「御仮寓所」だって、なんと10億円もかけて建てたものだ。

 総面積が1378平方メートルというから、われわれ庶民からすれば、とてつもない大邸宅である。それも東京の一等地にあるのだから、いかにも資産家に見えるが、結論からいうと、秋篠宮家の住まいはすべて国有財産であって、私有財産ではない。

 秋篠宮家が動かせるのは皇族費だけである。秋篠宮家の皇族費は、いわば国から秋篠宮家に払うサラリーのようなものだ。

余裕がない秋篠宮家の家計

 余談だが、かつて田島宮内庁長官が、孝宮さまの結婚について昭和天皇から持参金らしき金子を尋ねられたらしく、〈只今の所では納采の儀前に二〇万位、御婚儀近きまして三〇万位かと存じます〉と答えている。合計で50万円。1950(昭和25)年頃の50万円は、公務員の給与で比較するとざっと今の2000万円ぐらいだろう。

 もし秋篠宮さまも、同じように眞子さんに持参金を持たせたとしたら、どれくらいだろうか。おそらく高額な金額ではなかったと思われる。

 皇嗣になる前の秋篠宮家の皇族費は年間6710万円だった。皇嗣に就任して1億2810万円にアップした。一見高額のようだが、それほど余裕があるわけではないといわれる。

 皇嗣になる前に秋篠宮家で働いていた職員は24人(平成30年度)だった。それが皇嗣になって51人(皇位継承後)に増えているが、これは公的予算からまかなわれているとはいえ、それ以外に雇う運転士や料理人などの私的使用人も同じように増えるから、給料や社会保険料等は皇族費から負担しなければならない。

 また天皇家では接待費や通信費、水道光熱費といったものは国の費用(宮廷費)で支払うが、宮家では公務で使われた費用以外はすべて皇族費から払うことになっている。当然、皇嗣になってこうした私的使用人も増えていることだろう。

 悠仁さまは皇位継承者だから教育費は宮廷費から支払われるものの、眞子さんや佳子さまの教育費は、当然、秋篠宮家の皇族費から負担することになる。

 そんなことを考慮すると、持参金を含めて、秋篠宮家が眞子さんに十分な援助ができるほどの余裕があるとは思えないのである。

 皇室経済法施行法では、天皇が賜与できる金額は1800万円までで、それ以外の皇族は年間160万円以内と決まっている。しかしこれは一般的な場合であって、眞子さんに渡す場合は縛られないとしても、余裕を持って仕送りするのは簡単ではないかもしれない。

 皇族費は自由に使ってもいいとはいえ、われわれのように海外旅行をしたり、気分次第で車を乗り換えるといったふうに使えるお金ではなく、必要な予算が一定額あって、自由にできるお金はそれほど多くないはずである。もちろんそこから仕送りはできなくはないが、それほど潤沢ではないということだ。

「でも、陛下か上皇さまのだれかが援助するでしょ?」という声もあるようだ。

 では、上皇上皇后ご夫妻に支援する余裕はあるだろうか。

そもそも天皇家には「私有財産」がない

 そもそも天皇家には基本的に私有財産というものがない。日本国憲法第88条で「すべて皇室財産は、国に属する。すべて皇室の費用は、予算に計上して国会の議決を経なければならない」と定められていて、生活費を含めた天皇家を維持する必要経費はすべて国の予算をアテにしているのである。

 例えば、天皇ご一家がお住まいになっている皇居は、不動産価値20兆円ともいわれていて、天皇家が所有しているように思われがちだが、実は所有者は国であって、「皇室用財産」として皇族に無償で提供しているにすぎない。那須や葉山の御用邸も同じだ。

 戦前の皇室は違った。三井や三菱といった財閥もかなわないほど莫大な財産があり、敗戦後に日本を占領統治したGHQが、実質的に没収することで政治的権力を奪う方針を立てたことは述べたが、そのために日本国憲法の施行によって特別に財産税が課せられ、ほぼ9割が物納というかたちで国に移管されたのである。

 昭和天皇のお手元には1500万円の預貯金(現在の価値で数十億円か)だけが私有財産として残された。このお金を「内廷会計基金」に入れ、有価証券などで運用して増やしてきたのである。また、天皇家の私的費用である内廷費が余ればここに戻し、臨時で大きな出費があったときなどに流用してきたようだ。

 1959(昭和34)年の皇太子殿下と正田美智子さんの「ご成婚」もそうだ。

 詳しくは拙書『美智子さま ご出産秘話』(朝日文庫)を参照していただきたいが、宮内庁はこの日のために、内廷費(天皇の私的生活費)を節約したり、例の1500万円を元手に有価証券で増やしたりしながら、当時の金額で5000万円(現在なら5億円以上か)を貯めたというエピソードがある。国民にはあずかり知らぬことだった。

 正田美智子さんが結婚を受諾したとき、皇太子殿下は「柳行李ひとつで来てください」と言ったと伝えられているが、実際は柳行李ひとつどころか、持参した荷物は2000万円とも5000万円とも噂された。もちろん当時のことだから持参金もあっただろう。戦後の天皇家の財布は決して潤沢ではなかったのである。

皇族も「相続税」からは逃げられない

 話を戻すが、眞子さんがアテにできるとすれば内廷会計基金のお金しかない。

 先にも述べたが、昭和天皇の遺産総額は約18億7000万円だった。このほとんどが戦後のお手元金1500万円を運用して増やした金融資産で、遺産相続人は新しい天皇(現上皇さま)と香淳皇后のおふたりである。香淳皇后の分は非課税だったが、上皇さまが相続した分から4億2000万円を相続税として納税している。

 2000年に香淳皇后が逝去されたが、上皇さまが相続した額は公開されていない。1989年に株価が史上最高値をつけて以来、半分以下に下落しているから、所有していた有価証券が想像以上に下落したのかもしれない。相続税額が公示されていないことから、おそらく上皇さまが相続した額は推定1〜2億円だろう。基本的に皇室が購入した有価証券はほとんど売買しないから上皇さまが相続した分も同じように下落している可能性がある。すると昭和天皇と香淳皇后から相続した額は数億円程度まで減少している可能性がある。眞子さんに援助したくても、これでは余裕のある援助はできない可能性がある。

 余談だが、イギリスのロイヤルファミリーは戦前の皇室と同じで、個人資産や領地からあがる収入が数百億円といわれ、これはすべて非課税(現在は所得税を払っている)だった。日本の場合は相続税が大きく、このままでは代替わりのたびに内廷会計基金が目減りしていって、限りなくゼロに近づく。ゼロになればすべて税に依存するのだから貯蓄する必要もなくなってすっきりするという説もあるが、一歩間違えば、眞子さんのように、納得しない国民から反発をくらったときは身動きがとれなくなる可能性もある。

 こうしてみると、天皇家も秋篠宮家も決して潤沢な資金があるわけではないことがわかる。短期間ならともかく、長期にわたって眞子さんを支援することはむずかしいということだ。

文春オンライン(奥野 修司)参照・引用




ここからは2019年4月30日火曜日の平成最後の日に、フジテレビで放送されたテレビドラマ『プリンセス美智子さま物語』から物語部分を引用・改筆(雅子さまバージョンに)したいと思います。

但し、このドラマは良子皇后(香淳皇后)さまや旧・華族・皇族を悪戯に悪者にしていて、まるで現代版『大奥』のような内容で、さすがフジテレビというドラマだった。

視聴者の中には「平成最後にこんないじめドラマは観るに堪えない」とか「華族・皇族がすべて悪者なのは偏見じゃないか?」「名誉棄損レベルのドラマ」と不評であった。

ちょっとやり過ぎた脚本であり、美智子上皇后さまにドラマ化の許可をとっていないのは明らかであった。それでも、確かに〝皇室ドラマ〝というのは〝チャレンジ作品〝ではあった。ドラマでは東宮女官長の牧野(まきの)純子(すみこ)さんを浜村時子(永作博美・演)として、多分、松平信子さん(鍋島家出身・学習院OGの旧・華族『常磐会』会長)をモデルに藤永菊子(若村麻由美・演)として登場した。

柳原白蓮は登場しなかった。また、香淳皇后(良子)さまを悪役として描いたが、良子さまは大変にお優しいお方であったし、それゃあ、当初、「民間妃」に反対していたろうが、「自分より皇太子妃へ」と、衣装代など皇太子妃さま(のちの美智子上皇后)へ融通するなどお優しいお方であった。だから、そのドラマの内容をそのまま引用する訳にはいかない。確かに、今から六十年前に、いじめや嫌がらせがあったろうが、過去のお話である。

こういうドラマだけみて、すべて判断するのは危険だ。「雅子皇后さまもこういう…」的な。

だが、美智子皇太子妃(当時・現在・上皇后さま)が嫁がれた昭和33年頃、民間出身ということで伝統と格式にしばられた旧・華族・旧・皇族が反発したのは事実である。

そして、美智子さまの日記を書き写された秘蔵のノート……美智子さまと親しかった人物が一字一句丁寧に書き写した秘蔵のノート……これを元に美智子さまの物語を改筆(雅子さまバージョンに)績ぎたい。

当時のマスコミは皇太子殿下(徳仁親王・現在・天皇陛下さま・令和天皇)のご婚約のスクープにやっきになっていた。当時の皇太子さまの教育係は宮内庁の佐藤某氏である。

東宮御教育常職参与のおじさんである。また、東宮侍従は高橋従達という若い男性だ。

「やれやれ、また駄目だったよ」

 帰るなり佐藤はため息を漏らした。「皇太子妃として皇族や財閥出身で条件も良く、お奇麗なお嬢様であったが、花嫁候補に挙がった時点で早々に結婚なされてしまった」

「皇族になるには様々な高いハードルを乗り越えなければなりませんし……ましてや皇太子妃ともなれば、時期皇后さまですからね」

高橋は名簿の名前に赤ペンをいれる。名簿から削除、という。

「それなんだがねえ」佐藤某は口を挟む。「どうしても財閥や旧・皇族じゃないと駄目なのかなあ。民間では駄目なのかい?」

「いいえ。そんなことはないかと」

「民間人のお嬢様でもちゃんとした女性はいると思うよ」

「で、しょうねえ。わたしもそう思います」

「そういえば……皇太子さまが英国留学のときで出会った……小和田雅子さんは?」

「ああ。外務省のキャリア官僚の?」

「うん。そう。ハキハキとして美貌で、聡明で、外国語ディベートで殿下を負かした」

「あの場で勝っちゃうところがすごいですよね。普通、わざとでも負けますが……」

「民間の名簿は? 確か、小和田嬢は外務官僚だったね」

高橋は名簿を確かめた。「あ! 大学の名簿の一位ですよ」

「よし! これは小和田嬢しかいないな!」

「はい!」

ふたりは盛り上がった。「だが、あの方々にだけは知られてはならない」

あの方々とは旧・財閥や皇族家のひとたちである。

悪役の彼女たちは「皇族の皇太子妃や皇后は財閥などや旧・皇族の家柄のよい子女でなければならない」「民間出身・外務官僚などとんでもない」「小和田家は関東出身の昭和の〝戦後官僚〝にすぎない」「皇族は立派な家柄や血筋がなければ駄目」という思想があった。

無論、伝統を守る立場も大事であり、小和田家は「成金」ではなく、江戸時代の商家で、戦後、官僚で一時代を築く『外務系』の官僚家である。

だが、藤永菊代の意を受けた東宮女官長・浜村氏は民間出身の小和田雅子さんを厳しく教育することになる。

旧・財閥の藤永菊代の豪華な邸宅の日本庭園で、催しである日本舞踊が踊られていた。

日本の着物姿の舞子たちが優雅な踊りをしている。春の桜のほのかな花見会だ。

豪奢な着物姿の菊代たちが、カクテルグラスを片手に、お喋りをしていた。

「前田家のお嬢様が、皇太子殿下との縁談話が出た後、すぐに……外国人の殿方と国際恋愛で国際結婚をお決めになられたのですってよ?」財閥の女性が苦笑する。

浜村が「国際結婚だなんてはしたない。皇族や旧・財閥ならお見合いでのご結婚が常識でしょうに。ねえ?」

菊代は「最近、我々、旧・財閥の目の届かない所で、国際結婚だの、不謹慎な風潮があるんですわ。はしたない」

「世の中が〝国際化〟だの、〝世界平和〟だのに毒されている証拠ですわ」

「ねえねえ、お聞きになりました? 宮内庁や佐藤先生が皇族や旧・財閥だけではなく……なんと民間出身や官僚のお嬢さんまでリストに挙げているんですってよ?」

「まあ!」菊代の柳眉が跳ね上がった。けしからん!

「世も末ですわ。佐藤先生はわかってらっしゃらない。良子皇后さまは皇族であったのにあれだけご苦労なさったのに、民間人の小娘なんかに皇后さまが務まる訳がない! 美智子さまは例外ですわ」

「ほんとですわ! 民間人なんて……なんの冗談かしら」

「皇族や旧・財閥でなければ。皇太子妃さまや未来の皇后さまなんか、民間人になど無理に決まってますわ。ねえ?」

「本当よ、ねええ?」皇族や旧・財閥の意見はそんなもの、であった。

 まあ、既得権益みたいなものである。元、皇族や財閥……お公家さんや莫大な財をなした商人の末裔たちである。高いプライド(誇り)を持つのもむべからむことだ。

佐藤先生は、東宮(徳仁皇太子・当時)を甘やかさなかった。

テニスを熱心に教えたが、当時の皇太子は〝ボールは臣下が拾うもの〝という意識であった。だが、佐藤は殿下がご自分でボールを拾うまでじっと待った。

そして、殿下がひとりでボールを拾うと、そうです。その通り。という感じで、笑顔で軽く頷いたという。佐藤某の教えは〝疾(しつ)苦(く)〝(人が悩み苦しむの意)………

東宮(徳仁親王・皇太子さま・当時)も結婚を考える年齢となると、佐藤某は旧・財閥から候補の女性をいろいろ見積もるが、皇太子には気に食わない。

「自分は生まれと境遇から世情に疎く、思いやりに欠けたところがあります。人情に通じた女性をお願いしたい。わたしの奥さんは皇太子妃、そして皇后になるのだからね」

「かしこまりました、殿下」

佐藤は皇太子殿下(当時)が見初めた外務省のキャリア官僚・小和田雅子さんを説得する。

「わたしは殿下の御側にいるものとして、殿下の長所も短所も承知しているつもりである。ただ、誰に向かってもいえることがある。それは、殿下が誠実で、およそ軽薄から遠い方であること。また、はやくからひとを見る目があって、謬(あやま)らないこと、これである。これだけはよくご承知して頂きたい」

佐藤の言葉に、雅子さんは笑顔のままゆっくりと頷いた。

この時、小和田雅子さんは民間人であり、外務省のキャリア官僚ではあったが、これまで皇族に民間人が嫁ぐことが美智子さま以外はなかったために、一騒動があったという。

宮内庁長官に、当時の、平成(明仁天皇・上皇)天皇や美智子(みちこ)皇后(上皇后)は民間女性との結婚に〝ご反対〝はされなかった。

確かに、一部の旧・財閥や旧・皇族の方々からは嫌がらせやいじめもあったのだろう。

有名な婚約記者会見での「殿下が『雅子さんを僕が全力でお守りしますから』」「殿下が『雅子のキャリアを否定する動きがあった』」というのはマスコミや週刊誌、ワイドショーの攻撃のことでである。

……嫌がらせがあった。また、「どうすればよろしいでしょうか?」と尋ねる雅子さまに「もう、あなたは皇太子妃であるのだからご自分でお考えを」と突き放したのも浜村氏であった。

「〝徳仁(当時・皇太子さま)〟の妃候補が……〝民間人〟? ……あ、そう」

平成天皇は嘯く。陛下は反対であったのか、賛成であられたのか? 少なくとも陛下は『東宮(皇太子)に任せる』とおっしゃられた。

 皇后の美智子さま(のちの上皇后さま)も最初はいい顔はなされなかったという。

だが、美智子さまは「わたしは陛下のご意見に従います」とおっしゃる。

お優しい。心の広いお方。「〝民間のお妃〟? 外務省のキャリア官僚、あ、そう?」

平成天皇はいつもそれだった。

この時代、結婚といえば自由なことで、自由恋愛など珍しい時代ではない。

しかし、当時の皇太子さまのご成婚である。

こうなると旧・財閥や皇族からの〝いやがらせ〟や〝いじめ〟が過酷を極めたのも頷ける。

雅子さまのご苦労は、いかほどであられたか…………


          明仁誕生と父・昭和天皇



<ウィキペディアからの引用>

今上天皇(天皇→上皇)

第125代天皇

2014年4月24日、皇居宮殿にて

2014年4月24日、皇居にて

在位期間

1989年(昭和64年)1月7日 - 在位中

即位礼 1990年(平成2年)11月12日、皇居

大嘗祭 1990年(平成2年)11月22日・23日

元号 昭和 : 1989年

平成 : 1989年 - 現行

首相

一覧参照

先代 昭和天皇

誕生 1933年(昭和8年)12月23日午前6時39分(83歳)

日本の旗 日本 東京府東京市麹町区、宮城内産殿

御名 明仁

1933年(昭和8年)12月29日命名

称号 継宮

印 榮

元服 1952年(昭和27年)11月10日

父親 昭和天皇

母親 香淳皇后

皇后 美智子(皇后→上皇后)

1959年(昭和34年)4月10日大婚

子女 浩宮徳仁親王

礼宮文仁親王

紀宮清子内親王

皇居 皇居

栄典 大勲位

学歴 学習院大学教育終了

副業 魚類学者

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天皇と皇族

内廷

秋篠宮家

常陸宮家

三笠宮家

高円宮家

人物

1933年(昭和8年)に東京府東京市麹町区(現:東京都千代田区)宮城(現:皇居)内の産殿にて誕生。1952年(昭和27年)に18歳で成年して皇太子となり、1989年(昭和64年)に昭和天皇の崩御を受け践祚、皇位を継承した。この間、1959年(昭和34年)に正田美智子(皇后→上皇后)と婚姻し、浩宮徳仁親王(現・皇太子)、礼宮文仁親王(現・秋篠宮文仁親王)、紀宮清子内親王(現・黒田清子)の二男一女がある。

平成の世もおわった。

明仁親王陛下(平成天皇・上皇さま)や美智子(皇后→上皇后)皇后陛下(上皇后さま)の象徴天皇としての慈愛や清いお心は新天皇(皇太子さま・徳仁親王)新皇后(雅子皇太子妃さま)に受け継がれた。天皇(天皇→上皇)皇后(皇后→上皇后)両陛下は、伊勢湾台風や雲仙普賢岳大噴火や阪神淡路大震災や東日本大震災などの被災者や、ハンセン病やダウン症や知的障害者や身体障害者などへの対応も、まさに、神対応であられる。確かに両陛下や皇族のお方は人間的にこんなにすばらしいおきれいなお心の方もない。

わたしなどはまだ人間的に未熟なところがあるから、過去に知的障害の禿頭の爺さんに「いやがらせ」を何もやっていないのにやられて、怒って罵倒しそうになった。97年の二十代の自殺未遂での精神科閉鎖病棟で、のことだった。

わたしに比べれば両陛下や皇族のみなさまはまさに神対応のすばらしい人間であられる。

象徴天皇としてこのような天皇さまを皇后さまを得られたのは日本人の幸運である。2017年4月現在、83歳である。高齢であるものの、公務・宮中祭祀ともに極めて旺盛に活動しており、天皇としての活動について非常に意欲的かつ勤勉であると伝えられることが多い。年間約1000件の書類に目を通して署名・押印し、約200回の各種行事に出席し(いずれも平成23年度)、20件近くの祭儀を執り行う。

歴代天皇の中では明治天皇および特に昭和天皇に寄せる気持ちが強いようであるが、皇太子時代には後奈良天皇に言及したこともある。また即位十周年の会見で述べているように、戦中育ちとして先の大戦に寄せる気持には強いものがあり、過去に「6月23日(沖縄慰霊の日)、8月6日(広島原爆忌)、8月9日(長崎原爆忌)、8月15日(終戦の日)の4つは忘れる事の出来ない日付である」旨の発言もある。

かつて琉球王国を征服した島津家の血を引いていることから、沖縄への思いは深く、琉歌を幾つか詠んでいる。琉歌を詠んだ天皇は史上初めてである。

1970年(昭和45年)からチェリスト・清水勝雄に師事してチェロを嗜むほか、テニスをよくする(これは皇后と知り合うきっかけにもなった。いわゆる「テニスコートの恋」である)。このほか馬術、自動車の運転にも秀でている。

科学者として

魚類学者としても知られ、ハゼの分類学的研究者である。日本魚類学会に属して自らの研究に関して、28編の論文を同学会誌に発表している。1992年(平成4年)には『Science』誌に〝Early cultivators of science in Japan〝という題で寄稿している。また2000年(平成12年)および2008年(平成20年)には、日本国外の雑誌『Gene』に第一著者として論文が掲載されている。

魚類学における業績は各国で評価され、学界において次のような役職にある。

1980年(昭和55年)、ロンドン・リンネ協会外国会員。1986年(昭和61年)、同協会名誉会員。

オーストラリア博物館リサーチ・アソシエート。

ロンドン動物学会名誉会員。

アルゼンチン自然科学研究所永久名誉会員。

この他にも1998年(平成10年)にはロンドン王立協会(ロイヤル・ソサエティ)からチャールズ2世メダルを受賞、2007年(平成19年)の欧州5か国訪問ではスウェーデンウプサラ大学名誉学員に列せられた。また長年のハゼの分類学的研究に対する貢献を称え、新種のハゼの一種の命名に、1992年(平成4年)には Platygobiopsis akihito と、2005年(平成17年)には Exyrias akihito 、2007年(平成19年)にはハゼの新属にアキヒト属 (Akihito) と、彼の名を織り込んだ献名がなされた。

民族学者である梅棹忠夫は、1971年8月26日の仲間内の食事会にて「この前、皇太子殿下にご進講に行った。皇太子殿下の植物学に対する造詣はたいしたもの。立派に東大、京大教授が務まる。帝としてはどうか知らないが、学者としては一流だ」と述べている。

略歴

幼少時代


1934年(昭和9年)、母・香淳皇后に抱かれる明仁親王


1949年(昭和24年)、ヴァイニング夫人と

1933年(昭和8年)12月23日午前6時39分、宮城(現:皇居)内の産殿にて誕生。昭和天皇・香淳皇后の第5子にして初の皇子誕生とあって、国民的な祝福を受ける。北原白秋の詩に中山晋平が曲を付けた『皇太子さまお生まれなった』という奉祝歌までが作られた。称号「継宮」、名前「明仁」は、昭和天皇による命名で、いずれも明治3年1月3日(1870年2月3日)の明治天皇の即位に際して発せられた詔勅「…立極垂統、列皇相承、継之述之…宣明治教以宣揚惟神之大道也…」に出典を求め、命名されたものである。

1936年(昭和11年)3月29日、満2歳で両親のもとを離れ、赤坂離宮構内の東宮仮御所で東宮傅育官によって育てられる。当初日曜日には宮中に帰っていたが、1か月を過ぎる頃から日曜日も東宮仮御所で過ごすようになった。慣例に従い、女児に近い格好で育てられていたが、学習院初等科入学に際し、おかっぱに伸ばしていた髪を無断で刈られ数日間塞ぎ込んだ。その後、「これからは、黙ってこんなことはしないでね」と抗議した。学習院時代は山梨勝之進校長のもとで教育を受け、内舎人・信国鉄蔵を師として剣道を練成した。

1944年(昭和19年)、戦火の拡大により、初めは栃木県日光市の田母澤御用邸に、後に奥日光・湯元の南間ホテルに疎開し、当地で終戦を迎えた。終戦後に帰京。なお、皇太子は皇族身位令(明治43年皇室令第2号)第17条の規定に基づき、満10歳に達した後に陸海軍少尉に任官、近衛師団に入隊することとされており、軍部からもその旨要請があったが、昭和天皇の勅旨で任官していないため、軍歴はない。

1946年(昭和21年)10月から1950年(昭和25年)12月まで、昭和天皇の「西洋の思想と習慣を学ぶ」という方針に従い、アメリカ合衆国の著名な児童文学者にしてクエーカー教徒のエリザベス・ヴァイニング(日本では「ヴァイニング夫人」として知られている)が家庭教師として就き、その薫陶を受ける。ヴァイニングを介して、ダグラス・マッカーサーとも会っている。彼女がやってきたとき、英語名(ジミーと伝わる)をつけられるのを拒否した。このほか学習院初等科時代に、色黒だったことから蚊取り線香の素焼きの香炉を想起させたため「チャブ」と学友たちによってつけられた愛称が伝わる。

皇太子時代


1952年(昭和27年)、立太子後、市民の歓呼に応える


1955年(昭和30年)11月、エチオピア皇帝ハイレ・セラシエ1世と


結婚の儀に際し


皇太子殿下御成婚記念切手


皇太子御成婚記念切手

1952年(昭和27年)11月10日、皇居・表北ノ間で立太子の礼と皇太子成年式が挙行された。同日、大勲位に叙され、菊花大綬章を授けられる。また、立太子の礼に際しては、都道府県などがこれを祝う言葉を記したアドバルーンを都内上空に浮かべ、立太子を祝った。

1953年(昭和28年)3月30日から同年10月12日までの半年余りにわたり、初の外遊。ヨーロッパ12か国およびアメリカ・カナダを歴訪。同年6月2日、イギリス・エリザベス2世の戴冠式へ昭和天皇の名代として参列。このとき地位は皇太子であったが、昭和天皇名代の格式が加わっていたため、応接する諸国では天皇としての応対を行なった。後年、2007年(平成19年)の訪欧前の会見においては、このことを回想して名代の立場の重さを思い、相手国を慮る趣旨の発言を行なっている。しかしこの外遊の結果、学習院大学の単位が不足し進級できず、長年の学友たちと学年が異なることを回避するため、以後は聴講生として学問を続ける。

外遊からの帰国直後の同年12月に、結核の感染を診断される。このとき、ストレプトマイシンなどの特効薬が発見されており、それの投与による治療を受け、1957年(昭和32年)までにほぼ治癒した。このことは長らく公にされていなかったが、2009年(平成21年)3月に行われた、第60回結核予防全国大会の挨拶にて、自ら明かした。

1957年(昭和32年)8月19日、避暑で訪れた軽井沢のテニストーナメントで正田美智子(皇后→上皇后)と出会う。テニスを通して交際を深めた。宮内庁職員の作品展に「女ともだち」と題した彼女の写真を出品した。しかし彼女が資産家の令嬢とはいえ皇族・華族出身ではないためお妃候補としてマークされることはなかった。徐々に皇太子が積極的に美智子(皇后→上皇后)との結婚を考えていると判ると、皇室内外から猛反対を受けた。昭和天皇の侍従長を務めた入江相政の著作『入江相政日記』には、「東宮様のご縁談について平民からとは怪しからん」と香淳皇后が秩父宮妃勢津子、高松宮妃喜久子の両親王妃とともに昭和天皇に訴えたという内容の記述がある。常磐会(学習院女子部の同窓会)会長松平信子ら旧華族の女性たちの反発も強く、信子に対しては昭和天皇自ら了承を求めてようやく決着したとも言われる。最終的に1958年(昭和33年)11月27日、結婚が皇室会議において満場一致で可決された。

1959年(昭和34年)1月14日に納采の儀が、同年4月10日に結婚の儀が執り行われた。明治以降では初の民間出身・皇太子妃であり、また結婚に至る過程が報道されたこともあって、市民からは熱烈に歓迎され、国民的な「ミッチー・ブーム」が興る。成婚のパレードは盛大に行なわれ、国民の祝福を受けた。2人の成婚の様子を見るために、当時高価であったテレビも普及し始めた。また婚礼を祝して「祝典行進曲」が作曲された。同年7月15日に、美智子(皇后→上皇后)妃の懐妊が発表された。

1960年(昭和35年)2月23日に第一男子浩宮徳仁親王が誕生。ミッチー・ブームがまだ冷めやらぬ成婚翌年のお世継ぎ誕生は、国民から盛大に祝福された。3月には妹・清宮貴子内親王が、明仁親王の学友だった島津久永と結婚した。同年9月22日から同年10月7日にかけて、美智子(皇后→上皇后)妃を伴ってアメリカ合衆国を16日間にわたり訪問した。

1963年(昭和38年)には、美智子妃が第二子を流産した後、静養。育児以外にも、時代の風潮(1960年代は、デモ・学生運動など左翼の全盛期であった)などもあり、妃ともども苦労が多かった。「浩宮の代で最後になるのか」との明仁親王の発言があったと言われる。

1965年(昭和40年)11月30日、第二男子礼宮文仁親王が誕生。父・昭和天皇同様、タイ王国を始めとする東南アジア、及び動植物の宝庫であるマダガスカルとの縁が深く、成婚の折にはタイのシリントーン王女が式に参列した。

1969年(昭和44年)4月18日、第一女子紀宮清子内親王が誕生。清子内親王は長く内廷皇族として天皇および皇后の傍らにあって、良き相談相手であった。

沖縄訪問に際して


1987年(昭和62年)、レーガン米大統領夫妻とヨーヨー・マのチェロ演奏を聴く

1975年(昭和50年)、沖縄国際海洋博覧会に際し、昭和天皇も皇太子時代に訪問した沖縄県を立太子後、初めて訪問。海洋博の写真を収めた書籍「海 その望ましい未来」、海洋博の記録映画『公式長編記録映画 沖縄海洋博』にも開会式・閉会式に参列した皇太子および同妃の姿が収録され、現在でも図書館などで目にすることができる。後者は現在DVDが発売されている(ジェネオン・ユニバーサル・エンターテイメントより、定価5250円)。開会式で宣言を読み上げる姿はテレビ中継もされ(7月19日、NHK総合テレビ)、後年ドキュメンタリー番組にもそのまま使用された(「映像でつづる復帰30周年」)。

この訪沖についてはいくつかの事件もあった。同年7月17日、美智子妃を伴いひめゆりの塔に献花のため訪れたところ、その場に潜んでいた過激派2人(沖縄解放同盟準備会メンバーの知念功と共産主義者同盟のメンバー)から火炎瓶1本を投げつけられる(ひめゆりの塔事件)。同日夜、皇太子は「沖縄戦における県民の傷跡を深く省み、平和への願いを未来へつなぐ」と県民の心情を思う異例の談話を発表している。

なお、この訪問については同事件の犯人の所属するもの以外にも、各種政治団体が「訪沖阻止」などを叫んで全国で集会、県学連、全学連などが1000人単位のデモなどを行ったほか、沖縄入りした皇太子および同妃の自動車に空き瓶などを投げつけるなどのテロ(犯人は公務執行妨害で逮捕)を行ったが、皇太子および同妃に怪我などはなく、つつがなく予定を終了した。皇太子は当時より沖縄に関心をよせ 琉歌を研究し、琉歌8首を発表している。

1976年(昭和51年)1月18日の閉会式にも揃って訪沖している。

1987年(昭和62年)にも、沖縄海邦国体を前に病臥した昭和天皇(昭和天皇が在位中の天皇として史上初めて沖縄を訪問する予定だった)の名代として沖縄を訪れ、同年10月24日、南部戦跡の平和祈念堂で「先の大戦で戦場となった沖縄が、島々の姿をも変える甚大な被害を被り、一般住民を含むあまたの尊い犠牲者を出したことに加え、戦後も長らく多大の苦労を余儀なくされてきたことを思う時、深い悲しみと痛みを覚えます」との天皇の言葉を代読した。

当時の西銘順治沖縄県知事は「お言葉に接し、感動胸に迫るものがあります。これで、ようやく沖縄の戦後は終わりを告げたと思う」と談話を発表した。

その後も沖縄の関係は薄まることはなく、即位後にも沖縄訪問が行われることとなった。

なお、この1987年(昭和62年)の訪沖は、同年秋に昭和天皇が病臥するまでは天皇の訪沖が予定されていたこともあって、前年から政府は特別予算を組んで南部戦跡の戦死者遺骨収骨作業を行うなど環境の整備に努め、西銘知事が「陛下をお迎えして沖縄の戦後を終わらせたい」と宣言するなど、国、県を挙げての準備が行われていた。警備面でもひめゆりの塔事件を教訓として、本土から多数の警官が応援のため増派、厳戒態勢が執られたが、無事に予定は終了した。

即位以降


2005年(平成17年)11月22日、ロシア大統領ウラジーミル・プーチン(右)と


2007年(平成19年)、アメリカ合衆国副大統領ディック・チェイニー(左)と

1989年(昭和64年)1月7日、昭和天皇の崩御(死去)を受け、皇位継承の儀式を執り行い、歴代2位の年長となる55歳で即位(践祚)。翌8日、元号法に基づき平成に改元した。即位後朝見の儀では「国民と共に日本国憲法を守り、国運の一層の進展と世界平和、人類の福祉の増進を切に希望して止みません」との勅語を発した。

1990年(平成2年)の即位の礼に際して、京都御所から皇居へ高御座が運ばれるなど大掛かりな準備が行なわれ、同年11月12日に即位礼正殿の儀が行われた。大正天皇・昭和天皇とも即位の礼を京都御所で行っており、関東の地で即位した初めての天皇(天皇→上皇)となる。同日、即位の礼祝賀御列の儀としてオープンカーでのパレードが行われ、皇居から赤坂御所までの4.7kmの道のりを、約12万人の市民が祝福した。

即位以来、日本国憲法の精神を守りつつ平成の天皇のあり方を模索している。イラクに派遣された自衛隊を皇后とともに接見した。PKOで派遣された自衛隊員、災害救助にあたった自衛隊員に対する接見はすでに行なっていたが、これは異例のことであり、戦後昭和の頃には考えられなかったと言われている。また、政財界や学識者からの内奏・進講を、父・昭和天皇以上に受けている。「(憲法第4条すれすれの)ストライクゾーンに精一杯(ボール)を投げ込んでいる」(岩井克己・文藝春秋)とも評される。また昭和天皇が敗戦で喪ったものを慰霊の旅を通して、昭和の負の遺産に向き合うことによって抱え込んでおり、その精励ぶりは歴代天皇には見られないものである。

1999年(平成11年)に即位10周年を迎え、同年11月20日に御即位十年をお祝いする国民祭典が開催され、同日夜には二重橋で祝賀の声に応えた。この折に、宮内庁は即位10年記録集『道』を刊行している。

即位以来現在に至るまで、旺盛に日本国内外の行幸を行っている。1993年(平成5年)には、昭和天皇の悲願であった沖縄行幸を果たした。この折には予定になかったひめゆり学徒隊の慰霊碑にも行幸し、このことは2007年(平成19年)になってワイドショーで紹介された。2003年(平成15年)までに、47都道府県のすべてを巡幸している。

2009年(平成21年)11月12日、政府主催の御在位二十年記念式典・民間主催の御即位二十年をお祝いする国民祭典が執り行われた。

2009年(平成21年)12月15日、特例で習近平中華人民共和国副主席と会見することとなり、会見を巡る騒動で、宮内庁長官が記者会見で政府・民主党・鳩山由紀夫内閣を批判する発言を行った(天皇特例会見)。

2011年(平成23年)3月16日、東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)の発生とそれに伴う被害に鑑み、国民および被災者に対しビデオメッセージを放送した。天皇(天皇→上皇)が国民に対して直接放送を行うのは、父・昭和天皇による1945年(昭和20年)8月15日の玉音放送以来である。

闘病


2009年(平成21年)7月、ハワイ州ホノルル市にて退役海兵隊大佐ジェネ・カスタネッティと


2014年(平成26年)4月24日、皇居にてアメリカ合衆国の大統領バラク・オバマ(左)と

1995年(平成7年)、大腸のポリープを摘出。

2002年(平成14年)12月、人間ドックに入った際に前立腺癌が発見された。その後、天皇の意向を受け、宮内庁が病名を公式発表した。翌年1月18日に、前立腺の全摘出手術を行なったが、この前立腺癌手術に当たっては万全を期すため、皇族が受診する宮内庁病院ではなく、東京大学医学部附属病院(東大病院)に入院して行なわれた。

2008年(平成20年)2月25日、宮内庁は、「天皇陛下は定期健診において今のところ前立腺癌の再発や他臓器への転移は見られないものの、ホルモン療法の副作用で骨密度が低下しており、このままでは骨粗鬆症に移行する恐れがある」と発表し、公務及び宮中祭祀を軽減する等、生活全般についての検討を始めた。 同年12月9日の宮内庁記者会見に於いては、天皇が12月上旬に上室性不整脈に罹患し、また、消化器官検査で胃と十二指腸に炎症が発見されたことなどが発表された。原因は心身のストレスであり、宮内庁は「将来にわたる皇統の問題を始め、皇室に関わる諸々の問題を憂慮されている」と述べ、ストレスの中心に皇位継承問題があるとの考えを示した。 天皇自身が、公務等の見直しは在位20周年となる2009年(平成21年)以降からと希望していたため、2009年(平成21年)1月29日に宮内庁より軽減策が発表された。

2011年(平成23年)11月18日よりマイコプラズマ肺炎にかかり東京大学医学部附属病院に入院していた。

2012年(平成24年)2月11日に東大病院での検査入院の結果、狭心症の症状が認められることなどから冠動脈のバイパス手術を受けることになり、2月18日に東大病院で手術が行われた。東大と順天堂大の合同チームが行った手術は、心臓を動かしたままで行う「オフポンプ手術」と呼ばれる高度な方法で、執刀は順天堂大の天野篤らが担当した。

外遊歴(平成以降)


2005年(平成17年)6月28日、サイパン島訪問時、皇后とともに。


2009年(平成21年)7月10日、カナダ訪問時

1991年(平成3年)

9月26日 - 10月6日: タイ王国の旗 タイ、マレーシアの旗 マレーシア、インドネシアの旗 インドネシア

国際親善のため訪問。天皇および皇后への、各国からの招待による。

1992年(平成4年)

10月23日 - 10月28日:中華人民共和国の旗 中国

国際親善のため訪問。天皇および皇后への、中国からの招待による。

1993年(平成5年)

8月6日 - 8月9日:ベルギーの旗 ベルギー

皇后同行。同年7月31日に崩御した国王ボードゥアン1世の国葬に参列のため。

9月3日 - 9月19日:イタリアの旗 イタリア、ベルギーの旗 ベルギー、ドイツの旗 ドイツ(バチカン立ち寄り)

国際親善のため訪問。天皇および皇后への、各国からの招待による。

1994年(平成6年)

6月10日 - 6月26日:アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国

国際親善のため訪問。天皇および皇后への、アメリカからの招待による。

10月2日 - 10月14日:フランスの旗 フランス、スペインの旗 スペイン(ドイツ立寄り)

国際親善のため訪問。天皇および皇后への、両国からの招待による。

1997年(平成9年)

5月30日 - 6月13日:ブラジルの旗 ブラジル、アルゼンチンの旗 アルゼンチン(ルクセンブルク、米国立ち寄り)

国際親善のため訪問。天皇および皇后への、両国からの招待による。

1998年(平成10年)

5月23日 - 6月5日:イギリスの旗 イギリス、デンマークの旗 デンマーク(ポルトガル立寄り)

国際親善のため訪問。天皇および皇后への、両国からの招待による。

2000年(平成12年)

5月20日 - 6月1日:オランダの旗 オランダ、スウェーデンの旗 スウェーデン(スイス、フィンランド立寄り)

国際親善のため訪問。天皇および皇后への、両国からの招待による。

2002年(平成14年)

7月6日 - 7月20日:ポーランドの旗 ポーランド、ハンガリーの旗 ハンガリー(チェコ、オーストリア立寄り)

国際親善のため訪問。天皇および皇后への、両国からの招待による。

2005年(平成17年)

5月7日 - 5月14日:ノルウェーの旗 ノルウェー(アイルランド立寄り)

国際親善のため訪問。天皇および皇后への、ノルウェーからの招待による。

6月27日 - 6月28日:北マリアナ諸島の旗 サイパン島

平和を祈念するためご訪問。戦後60年に当たり、戦争によって亡くなった人々を慰霊するため。

2006年(平成18年)

6月8日 - 6月15日:シンガポールの旗 シンガポール、タイ王国の旗 タイ(マレーシア立寄り)

日本とシンガポールの外交関係樹立40周年に当たり、天皇および皇后への国際親善のため同国招待、並びにタイからの国王即位60年記念式典に臨席のため訪問。

2007年(平成19年)

5月21日 - 5月30日:スウェーデンの旗 スウェーデン、エストニアの旗 エストニア、ラトビアの旗 ラトビア、リトアニアの旗 リトアニア、イギリスの旗 イギリス

スウェーデンおよび英国から、リンネ生誕300年に当たり、リンネ協会の名誉会員である天皇および皇后に対し両国からの訪問への招待、並びにエストニア、ラトビア及びリトアニア各国からの各国訪問への招待による国際親善のため訪問。

2009年(平成21年)

7月3日 - 7月17日:カナダの旗 カナダ、ハワイ州の旗 ハワイ州

天皇および皇后への、カナダからの国際親善のため同国招待、並びにアメリカ合衆国ハワイ州での皇太子明仁親王奨学金財団50周年記念行事に際し国際親善のため訪問。

2012年(平成24年)

5月16日 - 5月20日:イギリスの旗 イギリス

英国女王への招待により、同国女王エリザベス2世の即位60周年の記念午餐会に出席のため。

2013年(平成25年)

11月30日 - 12月6日:インドの旗 インド

2012年の日印国交樹立60周年を契機として、インド政府からの招待による。

2019年(平成31年→新元号『令和(れいわ)』)明仁天皇陛下美智子皇后退位(上皇・上皇后へ)


雅子さまが皇太子殿下(当時)とのお相手、皇太子妃候補となられると、厳しい教育やしつけが待っていた。民間人から皇室に嫁ぐ……夢のようなシンデレラ物語だ。

だが、そんなに甘くもない。一般人でも、人間の質の悪い女性は、他人の顔を見て、「気持ち悪い」とか言ったりする。馬鹿女な訳で、雅子さまはそのような方では断じてない。が、もし、皇太子妃や皇族が、他人の顔を見て嘲笑したらどうだろう?

近所の馬鹿女や自己中馬鹿女なら殴られておわりだが、皇族関係者にそのような無礼な態度は許されない。また、食事のマナーや英会話、社交界や一般常識……覚えることは多い。

無論、皇族関係者がすべて〝上級国民〟というのでもないだろう。

〝旧・皇族〟の竹田なんとかが華原朋美への〝求婚騒動〟で〝馬鹿〟を示したように、一旦、皇室から離れると旧・皇族でもああなる。皇太子妃、のちの皇后があれでは困るのだ。

当時は雅子さまへの〝いじめ〟も酷かったろう。自分がプリンセスになれなかった女の妬みは、すざまじい。嫉妬とひがみで、ありったけの〝嫌がらせ〟攻撃をしたのだろう。

マスコミや皇室担当記者や、ワイドショーやパパラッチが絶えず取材を加熱させる。

だが、そういうのは嫉妬の類である。雅子さまがご長女(敬宮愛子さま)を出産して、台所で料理を自らしたり、傅育官(ふいくかん)制度(わが子を3歳で手放し帝王学を教育させる制度)を廃止し、乳人(めのと)(乳母)制度も廃止して、雅子さまがお子様をご自分で育てた。

その過程で、『愛子ちゃんの不登校・いじめ』なる騒動もあった。

〝徳仁親王さま〟こそ現在の令和天皇陛下、である。

陛下のお妃が、〝民間出身〟〝元・外務省職員〟の(小和田)雅子皇后様で、ある。

〝民間人〟というハードルは、すでに美智子さまがクリアーしていた。

だが、庶民から〝皇太子妃へ〝〝プリンセスへ〝というシンデレラストーリーに日本国民は熱狂する。その過程での、小和田雅子さんブーム〝雅子さまフィーバー〟がある。

佐藤某はマスコミに頭を下げて、小和田雅子さんが皇太子妃に内定するまでに報道を控えるように頼み込む。こうして一波乱があったあと、雅子さんは皇太子妃となる。

御成婚馬車パレ-ド。多くの国民が祝福する。

小和田雅子さんと佐藤某先生が、殿下のこころの窓を開かれた。



敬宮愛子内親王ご誕生……。

実は雅子さまは第二子を〝流産〝なされて神奈川県葉山に落ち込んで絶望で、公務を休んで数か月静養なされたことがあり、その地獄から救ったのも皇太子さま(現・平成天皇・今上天皇さま)と幼いお子様(愛子さま)であった。

皇太子さまは(記者会見で)「まだ、子供は幼いので何を言っても通じない」といわれると、雅子さまは「いいえ。………通じますよ」とほほ笑む。

いつまでも意地悪なことを言う旧・財閥たちは、

「やはり、民間出身では駄目ね」

「家柄がよくないと……お勉強だけできてもねえ?」

「名家のしきたりはやはり家柄がよくなければ」

「皇室こそ国の鏡、なのに民間人の女性はだめである。国として恥ずかしい」と悪口。

とうとう、浜村は怒る。

「いいえ。雅子さまはすばらしく、よくなされています! 民間人と旧・財閥に人間としての差などありません! 雅子さまはすでにご立派な皇太子妃殿下であらせられますし、将来の皇后陛下であらせられます! いい加減にご無礼で恥知らずな暴言をお控えなさいませ!」

「……な?」これで勝負あり、である。

(記者会見で)雅子さま「子供にお父様のお仕事は何か? というような質問もあると思います。そのせつはなんと説明するべきか、お父様の皇太子殿下のお仕事は、社会の暗くなっている、弱い人たちや、そういうひとびとの苦難や苦役に光をあてて、励ますこと。そういう仕事なのだ、と。」



浜村時子が生前に大事にしていたものが葉山御用邸で、静養していた雅子さまから封筒で届いた桜貝……〝多勢(たぜい)の足が踏んでいったはずの砂の中に驚く程どこまでも傷のない桜貝がございました。〝

昭和64年(1989年)1月7日、昭和天皇崩御………

当時の皇太子さまご夫婦は五十代で天皇皇后即位……元号『平成』スタート

それとともに牧野さんは病死する。そして三十年後、2019年4月30日に天皇陛下・明仁親王(平成天皇・上皇さま)・美智子皇后さま(上皇后さま)は退位……

2019年5月1日、皇太子・徳仁親王・新天皇陛下へ即位(雅子さま・新・皇后へ)

新たな時代、新元号『令和』がスタートする。

こうして時代は変わり、新しい皇室も始まった。すべては皇后さま天皇陛下のお優しさと共に……天皇陛下皇后陛下上皇上皇后さま万歳!



総理大臣岸信介議長から、

「皇太子殿下の婚約者を正田美智子さんと決定したいと存じますが、ご異議ございませんか」との発言があり、出席者全員の起立賛成を得て、皇太子(東宮)妃は正田美智子さんと決定された。皇太子は昭和八(一九三三)年十二月二十三年生まれ、美智子さんは翌年九年十月二十日生まれの二十四歳。

皇太子はこの十二月で二十五歳を迎えるので、ふたりは十か月違いだと会議出席者に配られた資料でも証明されている。

 直ちに宇佐美毅(うさみ・たけし)宮内庁長官から両陛下に報告がなされ、東宮御所(元・東伏見宮邸)で待機する皇太子にも戸田康英侍従から伝えられた。

工藤美代子『皇后の真実』幻冬舎、11~12ページ参考文献引用

 昭和33(1958)年11月27日、正田美智子さんが皇室会議で正式に皇太子妃に内定。民間出身初の皇太子妃誕生に日本中が沸き立った。

いわゆる『ミッチー(美智子さまの愛称)ブーム』である。

だが、その9日後の12月6日、東京・後楽園ホテルでは、世間の祝賀ムードとは全く様相を異にする会合が開かれていた。会合の招待状は70名ほどに送られ、当日、その席にいたのは20数名。(荒原朴水『大右翼史』より)

「この御婚儀はまさにカトリック教の大陰謀である!」

「小泉信三もカトリック教徒だ!」

「美智子さんも洗礼は受けていないが(正田家は)カトリック教徒だ!」

「彼らは宇佐美宮内庁長官を抱き込んでいるのだ!!」

「日清製粉のお嬢さんが皇后ではどうにも天皇護持も今後はかんがえなくちゃいかん!」

「そもそも天皇が恋愛騒ぎとは何事であるか!」

「皇太子様にお退きになって頂いて義宮様(弟宮・常陸宮殿下)に立って頂こう!」

「正田家に対して辞退するように進言しよう!」

この世紀の婚約に反対したのはNHK朝ドラ『花子とアン』の美人歌人・白蓮のモデルとなった柳原白蓮もであった。当時73歳で会合で席の中央にデーンと座り、しきりに集音器をひねり回している白髪の老婆だった。

「皇太子さまともあろうものがたかが粉屋の娘にほれて騒ぐとは、外国に聞こえても恥ずかしい。皇后さまは皇后さまと崇められるようなお方でなければ私共は皇后さまとは戴けない!」

白蓮は華族の名門・柳原伯爵家の出身で、九州の炭鉱王・伊藤伝右衛門に嫁いで10年間の結婚生活を送ったが、7歳年下の帝大生・宮崎龍介と恋におちて駆け落ちした「白蓮事件」をおこした人物である。白蓮はこの事件で平民になって35年経っていたが、宮崎龍介と結婚しても華族のプライドを捨てず、柳原を名乗り続けた。「旧華族」の代表のような立場だった。

〝私共〝とは華族や旧・皇族の連中の事で、当時は皇族は旧・皇族や旧・華族と結婚するのが一般的で、民間の正田美智子が皇太子と恋におち恋愛結婚…というのに反対していた。

美智子さまがカトリック教徒であることも問題視されていたという。

「松平信子さんがわたしのところにきて泣いて話すことは、皇族方にもずいぶんの反対があったのだが、岸(当時の首相・岸信介)が皇族方をなだめて、やっとあの会議(皇族会議)をおわらせたのです。岸もこの陰謀に荷担した一人です!」

(松平信子とは鍋島侯爵家出身で、皇族妃・元皇族を中心とする女子学習院OG会・常磐会の会長を務めていた人物である。白蓮と同じおばあさんである。)

右翼思想家・荒原(あらはら)朴(ぼく)水(すい)は反駁(はんばく)した。

「余人が話すなら色恋もきけるが白蓮がいうのは違う!」と一喝。「例え皇后さまが反対したとしても(してないが)、天皇陛下(昭和天皇)が東宮(明仁天皇・現・上皇・元・今上天皇)の思うとおりにすればいい、とおっしゃっているではないか!」と強く言った。

「皇后さま、皇太子妃とは資格でなれるものではなく、皇太子の奥さん、天皇陛下の奥さんだから戴くのである!これをわすれては天皇論は出来ない!」

こうして会合は解散されたが、その後も白蓮などの罵詈雑言は続いたという。

だが、皇太子妃となった美智子さまは戦った。まさに戦う皇后さま、美智子さまである。

小林よしのり『天皇論』小学館文庫引用



天皇陛下「退位」の意向 日本報道

2016年07月14日

NHKは13日夜、天皇陛下が数年以内に退位したいとの意向を示していると報道した。82歳になる天皇陛下は近年、病気や手術を繰り返してきた。日本の複数報道によると、公務を減らす必要があるなら天皇でいるべきではないとの考えという。

一方で、宮内庁の山本信一郎次長は同日夜、朝日新聞などに対して、「報道されたような事実は一切ない」と述べたという。宮内庁として生前退位の検討をしているかについても、検討していないと答えたという。

共同通信などの報道によると、天皇陛下は数年前から周囲に、退位の意向を繰り返していた。

NHKによると、匿名の宮内庁関係者は、皇后陛下をはじめ家族は天皇陛下の意向を受け入れていると話した。

もし生前の退位が実現すれば、現代日本では初めて。徳仁皇太子(58)が次の天皇になる。

皇室典範に譲位の規定がないため、実現には典範の改正が必要となる。

宮内庁の山本次長がNHKの報道内容を全面否定したにもかかわらず、日本のメディア各社は「天皇陛下の意向」を中心に報道を続けている。

即位27年になる天皇陛下は、第2次世界大戦の軍国主義やナショナリズムから皇室を遠く切り離したことなどが、広く称賛されている。その存在は象徴的で、役割は儀礼的なものが中心だが、多くの日本人に深く敬愛されている。

天皇陛下は2003年に前立腺がんの手術を、4年前には心臓の冠動脈バイパス手術を受けている。

2011年3月の東日本大震災後の3月16日には、天皇としてきわめて異例のテレビ演説を行い、「被災地の悲惨な状況に深く心を痛めています」と述べ、復興の希望を願い、被災者の雄々しさを称えた。今上天皇陛下(平成天皇・明仁親王・上皇)が2019年4月30日に退位(譲位)され、皇太子殿下(徳仁親王・新天皇陛下)が同年5月1日に即位なされることで皇室会議で決定された。即位とともに改元され新元号『令和(れいわ)』も決まる。〝平和〝が新元号『令和(れいわ)』ならいいですね。天皇陛下お疲れ様でした。長生きなされて下さい。臥竜


天皇陛下について5つのこと

・より現代的なスタイルを取り入れ、皇室と国民の距離を縮める努力を重ねた。

・1959年に華族出身ではない正田美智子(皇后→上皇后)さんと結婚。「テニスコートのロマンス」と呼ばれた恋愛物語に国民は夢中になった。夫妻には子供が3人いる。

・第2次世界大戦による傷跡を癒そうと努力を重ねてきた。昨年8月の全国戦没者追悼式では、「ここに過去を顧み、さきの大戦に対する深い反省と共に、今後、戦争の惨禍が再び繰り返されぬことを切に願い、全国民と共に、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、心からなる追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります」と述べた。

・2002年には日韓共催のサッカー・ワールドカップについて質問され、「私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると、続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています」と述べ、韓国出身の祖先がいることを認めた。日韓両国には朝鮮半島をめぐる歴史的な対立があるだけに、この発言は多くの日本人を驚かせた。

・海洋生物学の研究を深く愛している。ハゼの研究が専門。

(英語記事 Japanese Emperor Akihito 'wishes to abdicate')


     皇太子妃決定と抵抗勢力



「雅子妃」「雅子さま」ウィキペディア引用

皇太子徳仁親王妃雅子

皇太子徳仁親王妃 雅子

日本の皇太子妃

Crown Princess Masako of Japan.jpg

2009年(平成21年)12月23日、

天皇誕生日の一般参賀にて

身位 皇太子妃・親王妃(皇太親王妃)

敬称 殿下

Her Imperial Highness

お印 ハマナス

出生 1963年12月9日(54歳)

日本の旗 日本 東京都港区・虎の門病院

配偶者 皇太子徳仁親王

子女 愛子内親王

父親 小和田恆

母親 小和田優美子

役職 日本赤十字社名誉副総裁

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天皇と皇族

内廷

秋篠宮家

常陸宮家

三笠宮家

高円宮家

皇太子徳仁親王妃雅子(こうたいしなるひとしんのうひ まさこ、1963年(昭和38年)12月9日 - )は、日本の皇族。皇太子徳仁親王の妃。旧名・小和田 雅子(おわだ まさこ)。身位は皇太子妃、親王妃。皇室典範に定める敬称は殿下。お印はハマナス。勲等は宝冠大綬章。学位は経済学士(Bachelor of Arts in Economics magna cum laude)(ハーバード大学・1985年)。

略歴

生い立ち

1963年(昭和38年)12月9日、外務省職員の小和田恆・優美子夫妻の長女として東京都港区の虎の門病院にて誕生する。父の仕事の関係で幼少期をソビエト連邦・スイス連邦で過ごす。

1971年(昭和46年)3月、目黒区立原町小学校第1学年に編入して、同年5月に、新宿区立富久小学校第2学年に編入する。

1972年(昭和47年)4月から、田園調布雙葉小学校に編入して卒業する。その後、同中学校を経て同高校に進学するも、父の仕事の関係で、米国のボストンへ移住する。

1979年(昭和54年)よりベルモントハイスクールへ通学する。

1981年(昭和56年)、同ハイスクールを卒業する。ハーバード大学に入学。

独身時代

1985年(昭和60年)6月、ハーバード大学を卒業する。在学中は、心身障害児の運動指導やフランス語のサークルで活動する。

1986年(昭和61年)、帰国後となる4月に東京大学法学部に外部学士入学するが、同年10月に外務公務員採用I種試験に合格し、外務省入省が決まる。この際、女性初のキャリア官僚 スーパールーキーと話題になる。

1987年(昭和62年)に東京大学を中退し、外務省へ入省。経済局国際機関第二課に配属された。

1988年(昭和63年)から外務省の研修留学として、オックスフォード大学ベリオール・カレッジに留学。

1990年(平成2年)6月に研修留学から帰国、7月1日付で北米二課に配属された。

徳仁親王との馴れ初め

1986年(昭和61年)に来日したスペインのエレナ王女の歓迎レセプションに出席した時に徳仁親王と知り合い、研修留学からの帰国後には、皇太子となった皇太子徳仁親王の御妃候補として報道され、大きな話題となった。その後、徳仁親王との交際に付いては、『鴨場でのデート』も話題になっている。

1992年(平成4年)12月12日に、皇太子徳仁親王からの求婚を受諾している。

愛車の流行

1990年代(1993年(平成5年)頃)に皇太子妃になる小和田雅子の愛車がトヨタ・カローラIIが報道され、販売台数が爆発的に増えた。


皇后美智子(皇后→上皇后)(ウィキペディア引用*要削除命令議論中文章含む)



話を戻す。


2019年5月1日、皇太子・徳仁親王・新天皇陛下へ即位(雅子さま・新・皇后へ)

新たな時代、新元号『令和(れいわ)』がスタートする。

こうして時代は変わり、新しい皇室も始まった。すべては皇后さま天皇陛下のお優しさと共に……天皇陛下皇后陛下上皇上皇后さま万歳!!

話を戻す。






皇后美智子(皇后→上皇后)

Empress Michiko cropped 20140424.jpg

2014年(平成26年)4月24日、皇居にて

全名 美智子(みちこ)

身位 皇后

敬称 陛下

お印 白樺(しらかば)

出生 1934年10月20日(83歳)

日本の旗 日本 東京府東京市本郷区

(現・東京都文京区本郷)、

東京帝国大学医学部附属病院

配偶者 今上天皇

子女 浩宮徳仁親王

礼宮文仁親王

紀宮清子内親王

父親 正田英三郎

母親 正田富美子

役職 日本赤十字社名誉総裁

国際児童図書評議会名誉総裁

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天皇と皇族

内廷

秋篠宮家

常陸宮家

三笠宮家

高円宮家

皇后美智子(皇后→上皇后)(こうごう みちこ、1934年(昭和9年)10月20日 - )は、今上天皇の皇后。前姓は正田(しょうだ)。皇室典範に定める敬称は陛下。日本赤十字社名誉総裁、国際児童図書評議会名誉総裁。


<参考文献>一覧

工藤美代子『皇后の真実』幻冬舎、二〇一五年

入江為年(監修)『入江相政日記』(第一巻~第十二巻)朝日文庫、一九九四~一九九五年

小田部雄次『梨本宮伊都子妃の日記』小学館、一九九一年

小田部雄次『四代の天皇と女性たち』文藝春秋、二〇〇二年

小田部雄次『華族』中公新書、二〇〇六年

三鬼陽之助『財界新山脈』駿河台書房、一九五三年

三島由紀夫『三島由紀夫全集』(第27巻)新潮社、二〇〇三年

三島由紀夫『わが青春記』集英社、一九七三年

三島由紀夫『仮面の告白』新潮文庫、一九五〇年

三島由紀夫『裸体と衣裳』新潮文庫、一九八三年

三島由紀夫『豊饒の海(一)(二)(三)(四)』新潮文庫、一九七七年

徳岡孝夫『五衰の人』文藝春秋、一九九六年

猪瀬直樹『ペルソナ』文藝春秋、一九九五年

岩下尚史『ヒタメン』雄山閣、二〇一一年

工藤美代子『香淳皇后と激動の昭和史』中公文庫、二〇〇六年

美智子『橋をかける 子供時代の読書の思い出』すえもりブックス、一九九八年

加藤恭子、田島恭二監修『昭和天皇と美智子妃 その危機』文春新書、二〇一〇年

福田和也『美智子皇后と雅子妃』文春新書、二〇〇五年

石田あゆう『ミッチー・ブーム』二〇〇六年

川口素生『小和田家の歴史』新人物往来社、二〇〇一年

渡邊満子『皇后陛下美智子さま心のかけ橋』中央公論新社、二〇一四年

佐藤久『浩宮さま』番町書房、一九六二年

浜尾実『皇后 美智子さま』小学館、一九九六年

橋本明『美智子さまの恋文』新潮社、二〇〇七年

河原敏明『美智子皇后』講談社、一九九〇年

朝日新聞社、毎日新聞社、読売新聞社、宮内庁広報、NHK映像資料

ウィキペディア記事、長尾景虎著作参考文献

工藤美代子『皇后の真実』幻冬舎、からの孫引き

+小林よしのり『天皇論』小学館文庫、からの孫引き

 他

 

五反田駅から十分ほどだろうか、ゆるい坂を上り詰めると眼下に落ち着いた邸宅街が拡がる。一帯は旧岡山藩主池田家の下屋敷があったことから池田山とも呼ばれているが、住所表記は東京都品川区五反田五丁目である。

その一画に新たに運営された区立「ねむの木の庭」公園がある。無機質な空間に草木を散在させただけの庭には、春の微光が射していた。入口にある石の門柱だけが風雪に耐えてきたおもむきを想起させ、この地に濃厚な歴史があったことを暗示している。

かつて、この石柱には正田英三郎(しょうだ・ひでさぶろう)という表札が埋め込まれていた。

美智子(皇后→上皇后)皇后のご実家の門である。

平成十一(一九九九)年六月、英三郎(日清製粉名誉会長相談役)が亡くなったときの遺産は三十三億円と算出された。皇后を含む四人のきょうだいに相続権が生じたが、皇后は権利を放棄され、残る三人は相続税の払いのために自宅を物納することとなった。

 かつての正田邸は取り壊され、品川区が所有する小公園にさまがわりして、今は一般公開されている。

<ねんねのねむ木 眠りの木 そっとゆすったその枝に 遠い昔の夜(よ)の調べ ねんねのねむの木 子守歌(作詩・美智子(皇后→上皇后)皇后)>

工藤美代子『皇后の真実』幻冬舎、9ページ参考文献引用


略歴

「ミッチー・ブーム」も参照

少女時代


1940年(昭和15年)頃の正田美智子(皇后→上皇后)

1934年(昭和9年)10月20日、日清製粉勤務の正田英三郎・冨美(1981年(昭和56年)に富美子と改名した)夫妻の長女として東京府東京市本郷区(現:東京都文京区東部)・東京帝国大学医学部附属病院で誕生。

大和郷(やまとむら)幼稚園、雙葉学園雙葉小学校附属幼稚園を経て、1941年(昭和16年)に雙葉学園雙葉小学校に入学するが、1944年(昭和19年)、疎開のため、神奈川県の乃木高等女学校附属小学校(現・湘南白百合学園小学校)、群馬県の館林南国民学校(現在の館林市立第二小学校)、長野県の軽井沢東国民学校と転校を繰り返し、軽井沢にて終戦を迎えた。雙葉学園を受験する際、本郷区大和郷の俵孝太郎旧居に、一時在住したこともある。

小学生時代の性格は、担任の回想では真面目な女の子・活発で勝ち気だった・神経質な性格だったとされていて、スポーツが得意な女の子だった。また、ピアノ・絵画・料理、香道も習っていた。

1947年(昭和22年)3月、雙葉学園雙葉小学校を卒業するが、当時は五反田に在住しており通学に不便なことから聖心女子学院中等科へ入学する。1953年(昭和28年)3月、聖心女子学院高等科を卒業。中高時代も成績はトップクラスで、当時の愛称は米国の人気子役であったシャーリー・テンプルのような天然パーマだった事から「テンプルちゃん」や「ミッチ」「ミチ」と呼ばれていた。

1957年(昭和32年)聖心女子大学文学部外国語外国文学科(英文学)を首席で卒業。在学中はクラスの福祉委員(ウェルフェア・メンバー)委員長、プレジデント(全学自治会会長)としても活動していた。卒業式では、総代として答辞を読んだ。美智子自身は大学院進学も希望していたが、両親の意向もあり家庭に入る。クラブ活動では合唱部・英語劇クラブ・テニス部に所属していた。テニスでは在学中に新進トーナメントに優勝して、関東学生ランキングの第4位にランクンインした。昭和29年度の成人の日記念の読売新聞社主催の感想文では2位に入選した。大学の卒業論文は『ゴーズワージーのフォーサイト・クロニエル』で大学卒業後にフランス語の勉強をしながら19世紀の児童文学の研究を続けていた。

同年8月、軽井沢会テニスコートで開催されたテニスのトーナメント大会にて当時皇太子だった明仁親王と出会う。テニスコートの誓いにちなんだ「テニスコートの出会い」として知られる。その後もテニスを通して交際を深めたといわれる。明仁親王は美智子の写真を「女ともだち」と題して宮内庁職員の文化祭に出品したが、皇太子妃には旧皇族・華族から選ばれるのが当然と考えられていた時代であり、誰も彼女をお妃候補とは思わなかったようである。

1958年(昭和33年)、ベルギーにて開催された「聖心世界同窓会」第1回世界会議の日本代表として出席し、欧米各国に訪問旅行。

同年11月27日、結婚が皇室会議において満場一致で可決された。同日記者会見にて、記者から明仁親王の魅力について問われ「とてもご誠実で、ご立派で、心からご信頼申し上げ、ご尊敬申し上げて行かれる方だというところに魅力を感じ致しました」と回答。これは流行語にもなった。また第一印象について「ご清潔な方」とした。清楚で知的な美貌を持った美智子の姿は絶大な人気を集め、明仁親王と美智子の巨大な写真がデパートに飾られる・「美智子さまぬりえ」が発売される等のミッチー・ブームが起こる。テレビの受信台数も急増した。

皇太子妃時代


1959年(昭和34年)、朝見の儀に臨んだ昭和天皇、香淳皇后、皇太子夫妻


「皇太子殿下御成婚記念切手」


皇太子御成婚記念切手


1979年(昭和54年)10月、訪蘭時にベアトリクス女王夫妻と


1987年(昭和62年)10月、訪米時にレーガン大統領夫妻と

1959年(昭和34年)4月10日、皇太子明仁親王と結婚、明治以降初めての民間出身の皇太子妃となる。同日の成婚パレードには、沿道に53万人もの市民が集まり、皇太子および同妃を熱烈に祝福した。

晴れがましいご成婚のパレード・民間での祝福ムードとは対照的に、貴賤結婚であることや選に漏れた他の候補者に北白川肇子など元皇族の〝お嬢様〝がいたことなどの理由から、一部の皇族・女官に受け入れられず、元皇族・元華族の婦人らからも一挙手一投足に至るまで非難され続けたが、一切の反論をしなかった。一方、もと内親王であり、美智子妃の義理の姉にあたる、東久邇成子より自宅のホームパーティーに招かれるなど、好意的な旧皇族も存在した。またパレードの際にも暴漢が馬車を襲撃して取り押さえられる事件が起こるなどもあって苦難の日々が続いたが、皇太子および同妃は努めて献身的に公務をこなした。

このような状況にあって、皇太子明仁親王の弟宮にあたる常陸宮正仁親王は常に美智子妃を庇い、よき相談相手だった。そして、1960年(昭和35年)2月23日に第一男子浩宮徳仁親王が誕生した。出産後、昭和天皇、香淳皇后より「ごくろうさまでした。しっかり、静養するように」とねぎらいの言葉をかけられた。また、浩宮徳仁の命名は昭和天皇が行った。親王の存在は美智子妃の心の支えとなった。美智子妃は当時、側近である黒木従達東宮侍従に「どのような時でも皇太子としての義務は最優先であり、私事はそれに次ぐもの」との言葉を語っている。同年9月22日 - 10月7日、幕末より数えての日米修好百周年を記念し、アメリカ合衆国より招待され訪米。ホワイトハウスにも招待された。この折、浩宮は出生後7か月となっていたが伴わず、側近に躾の方針を示したメモ・通称「ナルちゃん憲法」を与えて養育を委ねる。

1963年(昭和38年)に前後し、週刊誌を中心に虚偽・報道協定違反の報道が相次いだ。1963年3月4日に第二子懐妊が報じられたが、同月中旬の美智子妃の生い立ちを書いた女性週刊誌連載の小説に絡む小説問題が起こった直後の3月22日に宮内庁病院に緊急入院、翌23日の午後に流産の処置手術が行われた。その後も心身の疲労から体調が回復せず、同年4月より葉山御用邸にて約3か月間ひとりで静養する事態となった。7月上旬から皇太子・浩宮とともに軽井沢で過ごした後、9月1日に帰京し、9月13日の山口国体から、段階的に公務に復帰した。なお、根拠のない中傷に対して一切非難することなく沈黙を守り、その気品ある態度に多くの国民が感銘を受け、週刊誌等の誹謗記事も終熄に向かった。

1965年(昭和40年)11月30日、第二男子礼宮文仁親王誕生。

1969年(昭和44年)4月18日、第一女子紀宮清子内親王誕生。苦労の多い美智子妃にとって、唯一の娘である紀宮の存在は大きな心の支えとなったとされる。1977年(昭和52年)から10年間は、毎年2人で陵墓・史跡訪問を含む小旅行を行なっていた。

これら子女の出産にあたり、皇室の慣習である宮中御産殿での出産や、乳母制度、傅育官制度を廃止した。

1984年(昭和59年)、銀婚式となる結婚25周年の会見で「夫婦としてお互いに何点を付けるか」との問いに対し、皇太子が「点数を付けることは出来ないが努力賞ということで」と答えたのを聞いて、美智子妃は「私も差し上げるのなら、お点ではなく感謝状を」と答え、同席していた記者たちからも感嘆の声があがった。

1986年(昭和61年)3月、子宮筋腫の手術を受ける。このため同時期に予定されていた訪米は翌年に延期、訪韓は中止になった。手術の際も皇太子の公務の妨げとなることを好まず、中止の判断はぎりぎりまで下されなかった。退院の際、宮内庁病院玄関前で皇太子の胸に顔をうずめる姿がみられた。晩年の昭和天皇一家の写真にて、美智子妃が腰を悪くしていた香淳皇后の体を支えている写真が複数公表されている。秩父宮妃とは共にマラソンを観戦した姿も目撃、報道された。また文仁親王・清子内親王は高松宮妃と関係が深く、孫のように可愛がられていたといわれる。

皇后時代


2002年(平成14年)1月、米国ブッシュ大統領夫妻と会談


2009年(平成21年)7月、カナダ訪問


2014年(平成26年)4月24日、皇居にて

1989年(昭和64年)1月7日、明仁親王の即位に伴い皇后になる。即位後の記者会見においては、皇太子となり東宮仮御所にて独立する徳仁親王について「時たまでよろしいから、ヴィオラを聴かせにいらしてくださると、うれしいと思います」とのコメントを発している。

1993年(平成5年)10月20日、満59歳の誕生日に赤坂御所にて倒れる。この時期は週刊誌等により、皇后への根拠のないバッシング・中傷報道がまた復活し、精神的な苦痛から失声症となった。声が出ない間は、清子内親王が皇后の言葉を代弁したりと、常に寄り添っていた。翌年に回復し「どの批判も、自分を省みるよすがとしていますが、事実でない報道がまかり通る社会になって欲しくありません」とのコメントを発表している。また回復時の第一声は「もう大丈夫、私はピュリファイ(浄化)されました」であり、周囲を気遣う節度と威厳ある態度に、病状回復後の国民の支持は不動のものとなった。

1994年(平成6年)10月20日、還暦を迎える。

1995年(平成7年)1月31日、天皇と共に阪神・淡路大震災後の神戸を見舞い、神戸市長田区の菅原市場にその日皇居から自ら切って持参した黄色と白の水仙を供えた。この水仙は関係者によって永久保存処置が取られ、同市布引ハーブ園内で展示されている。被災地の避難所を訪問し、被災者一人一人に声をかけ、時には手を握り、時には抱きしめて被災者を労る様子が大きな反響を呼ぶ。また、一人の病身の被災者のために自ら布団を敷いた。

1998年(平成10年)、インドで開催された「国際児童図書評議会 (IBBY)」に際してビデオによる講演を行い、日本武尊の妃弟橘比売の吾妻における入水の物語などを引いて、成婚以来の胸中を語った。2002年(平成14年)、スイスで開催されたIBBY50周年記念大会に、IBBY名誉総裁として出席し祝辞を述べた。これが唯一の単独での海外公務となっている。

2002年(平成14年)10月20日、皇后の誕生日に際し宮内記者会の質問に対する文書ご回答で次のように北朝鮮による拉致問題についてコメントした。「小泉総理の北朝鮮訪問により、一連の拉致事件に関し、初めて真相の一部が報道され、驚きと悲しみと共に、無念さを覚えます。何故私たち皆が、自分たち共同社会の出来事として、この人々の不在をもっと強く意識し続けることが出来なかったかとの思いを消すことができません。今回の帰国者と家族との再会の喜びを思うにつけ、今回帰ることのできなかった人々の家族の気持ちは察するにあまりあり、その一入(ひとしお)の淋しさを思います」。

2005年(平成17年)10月20日、清子内親王降嫁前の記者会見では子供たちに対する思いを語り、徳仁親王が優しく、よく励ましの言葉をかけてくれたこと、文仁親王が細心な心配りを忘れない一方で自分が真実を見失わないようにも注意していたということ、清子内親王誕生の折には曇りなき晴天に朝から吉兆を感じたこと、清子内親王のおおらかでのどかな性格などを回想しつつ語った。婚礼の朝には、民間へ降嫁する愛娘を気遣い、抱きしめて励ましたという。

2007年(平成19年)、体調を崩し腸壁から出血。ストレス性のものと診断された。通常の公務と並行して療養した結果、病状は回復したと発表された。同年5月21日からは、天皇とともに欧州訪問の途についている。8月8日には須崎御用邸での静養を中止し、天皇とともに新潟県中越沖地震の被災地を訪問。

国民に開かれた皇室の想起者という評価もされるが、一方で数々の発言・行動に見られるように伝統を守ることも大切にしている。また訪問相手・周囲で仕える者に対する気遣いを常に怠らず、慈悲深い姿は多くの人々に感銘を与えている。

しかしながら、2008年(平成20年)で皇后も74歳の高齢となり、健康上の理由から公務軽減が検討されている。特に膝を痛めることが多く、2009年(平成21年)春の園遊会では、本来ならば洋装のところ和服を着用し、足を隠した。

2011年(平成23年)3月30日、 天皇とともに、東日本大震災の被災者約290人が避難している東京武道館(東京・足立区)を訪問し、膝をつきながら、一人一人を親しく激励した。




皇子女


天皇(天皇→上皇)一家と諸王

皇后美智子(皇后→上皇后)との間に3子がいる。

浩宮徳仁親王(ひろのみや なるひと、1960年(昭和35年) - ) - 皇太子

礼宮文仁親王(あやのみや ふみひと、1965年(昭和40年) - ) - 秋篠宮

紀宮清子内親王(のりのみや さやこ、1969年(昭和44年) - ) - 黒田慶樹夫人

逸話

誕生

第5子にして初めて誕生した皇子であっただけに、その誕生は非常な喜びをもって受け止められた。その奉祝ムードは実に盛大なもので、東京市内では提灯行列が出た。軽快な曲調の「皇太子さまお生れなつた」(作詞:北原白秋 / 作曲:中山晋平)との奉祝歌までが作られたほどである。当時小学生であった老人などの中には、前述の歌を未だに記憶しており、すらすらと歌うことができる者もいる(たとえば女優の森光子は2009年(平成21年)の秋の園遊会で、「天皇さまの誕生のときをいまもはっきり覚えている」といい、天皇本人の前で「皇太子さまお生れなつた」のさわりを歌ってみせた)。北原白秋は他にも幼少時代の親王を称える歌「継宮さま」を作詞している。

誕生に際して「日嗣の御子は生れましぬ」との和歌も詠まれており、生まれながらの皇太子であった。

少年時代


1938年(昭和13年)、三輪車に乗る明仁親王

幼少時代には左利きであったと伝わる。その後、矯正した結果現在は両手利きであるという。

学友たちとは親しく交遊し、臣下の悪童たちに混じって数々の悪戯もしたという。「雨夜の品定め」をした、トンボを油で揚げて食べた、蚊取り線香の容器型のスタンプを作ってノートに押したなどの逸話も伝わっている。

戦時中は奥日光・湯元の南間ホテルに疎開した。この時、昭和天皇から手紙を送られている。

疎開先で戦況についての説明を受けた際、特攻に対して疑問を感じ、「それでは人的戦力を消耗する一方ではないか?」と質問して担当将校を返答に窮させたという。

敗戦時の玉音放送の際にはホテルの2階の廊下に他の学習院生と一緒にいたが、皇太子という立場を慮った侍従の機転によって(内容が内容だけに、何が起こるか分からない)御座所に引き返して東宮大夫以下の近臣とともに放送を聞いた。放送の内容には全く動揺を示さなかったが、放送が終わると静かに涙を流し、微動だにしなかったという。

その後、東宮大夫から玉音放送についての説明を受けるとすぐに悲しみから立ち直り、敗戦からの復興と国家の再建を率いる皇太子、将来の天皇としての決意を固めた。当日の日記にも、強い決意が記された。

一方で戦後の混乱期と重なった思春期には思い悩むことも多く、「世襲はつらいね」などと漏らしたことを学友がのちに明かしている。またそうした辛いときに両親である天皇皇后と別々に暮らさざるを得なかった体験が、後に子供たちを手元で育てることを決意させたともいう。

学友の橋本明とは身分を忘れ本気で喧嘩をするほどの間柄であったと言われる。

学習院時代には馬術部に所属し、高校2年生の秋以降は主将として活躍した。1951年(昭和26年)1月には、第1回関東高校トーナメントにて優勝している。

皇太子時代


皇太子時代のMGM撮影所見学、1953年(昭和28年)

1952年(昭和27年)、18歳で立太子の礼を挙行。立太子礼に際しては記念切手が発行され、その図案には明仁親王の肖像が選ばれる予定であったが、宮内庁の反対によって実現しなかった。

1953年(昭和28年)6月2日のエリザベス2世戴冠式のために同年3月30日から同年10月12日まで外遊。この前年に、日本は主権を回復しており、明仁親王の訪欧は国際社会への復帰の第一歩と期待された。

出発の際には、皇居から横浜港まで、小旗を持った100万人もの人が見送ったと言う。また、テレビ開局以来初の大規模イベントとなり、各放送局が実況中継した。特にNHKは600ミリ望遠レンズを使用して、甲板に立つ皇太子の姿をアップで撮影することに成功して視聴者を驚かせた。

大型客船プレジデント・ウィルソン号(アメリカン・プレジデント・ライン社所属、速度19ノット、排水量1万5395トン)に乗船した。同船には、三島由紀夫も2年前に乗船し渡米するなど、多くの日本人旅行者とも縁の深い船であった。日本人向け遊具で碁盤と碁石も積まれていた。船上では早稲田大学バレーボール部の面々と記念撮影をし、麻雀や将棋、囲碁、卓球なども楽しんだ。特に麻雀はウィルソン号乗船中は乗り合わせた董慶稀(曹汝霖の娘)が幹事を務める一等船客対抗麻雀大会に参加し日本式のみならず中国式の麻雀も楽しんだ。クイーン・エリザベス号に乗り換えてのアメリカからイギリスへの旅路では朝海浩一郎公使や報道陣と公使持参の牌でサザンプトンに着くまで熱中したという。この外遊以降、麻雀は趣味のひとつとなり昭和天皇にも面白さを紹介、弟の常陸宮などとも対局したと言われる。

欧州到着後は西ドイツ・ニュルブルクリンクで1953年F1GP第7戦ドイツGP決勝を観戦。主催者の提案により表彰式のプレゼンターも務め、優勝したジュゼッペ・ファリーナ(フェラーリ所属。戦前からの名選手で、1950年には初代F1チャンピオンを獲得している)を祝福している。つまり、明仁親王は日本人で初めてF1GPの表彰台に上がった人物ということになる。平成初期のF1ブームを思うと、奇縁というべき出来事である。この時には、「競馬より面白い」との言葉を残している。

イギリスでは、第二次世界大戦で敵対国であった記憶は未だ褪せておらず、戴冠式において13番目の席次(前列中央の座席で、隣席はネパール王子)を与えられたが、女王との対面まで長時間待たされた。また女王は、握手は交わしたが視線は交わさなかった。

長期にわたって外遊した結果、単位不足で進級できず留年を回避するため、学習院大学政治学科を中退し聴講生として大学に残った。このため、最終学歴は「学習院大学教育ご終了」(宮内庁ウェブサイトに拠る)としている。なお学習院高等科出身者以外の政治学科同級生に両国高校から現役進学した後の日本会議国会議員懇談会初代会長島村宜伸がいる。島村は1956年(昭和31年)3月に政治学士となり、39年5か月後の1995年(平成7年)8月に村山改造内閣で初入閣し文部大臣の認証を受けている。

1959年(昭和34年)4月10日の結婚の儀の記念切手では、4種のうち10円と30円で皇太子妃と一緒の肖像が発行された。また切手は郵政省から皇室と正田家に「皇太子御成婚記念切手帖」が献上されている。

結婚・独立後も週に一度から数度は参内し、父である昭和天皇と食事を共にすることも多かった。こうした場を通じて帝王学の教授を受けたと言われる。

諸事の決定については独立後も昭和天皇の決裁を仰ぎ、様々な事柄について報告していたと伝わる。

「できないことは口にしない、できることだけを口にする」という信念を持っており、家族が自分の役目をおろそかにしたときには「もうしなくてよろしい」と叱責したこともあった。

昭和天皇からは名代として篤く信頼され「東宮ちゃんがいるから大丈夫」と手放しの賞賛を受けている。

1960年(昭和35年)にシカゴ市長により寄贈された、ミシシッピ川水系原産のブルーギルを皇太子が日本に持ち帰り、水産庁の研究所に寄贈した。これは当時の貧しい食糧事情を思っての事であったが、ブルーギルは水生昆虫や魚卵・仔稚魚を捕食して日本固有の生態系を破壊するものであったため、後に「今このような結果になったことに心を痛めています」と異例の発言をしている。

即位後

ファイル:Emperor of Japan - Tenno - New Years 2010.ogv

国民へ向かって新年の挨拶。(2010年)


2005年(平成17年)12月23日、天皇誕生日一般参賀にて


2009年(平成21年)7月15日、ハワイ州ホノルル市にて


2011年4月17日、アメリカ合衆国国務長官ヒラリー・クリントン(左)と

昭和天皇崩御にあたり、相続税4億2800万円を納めた。また、皇居のある千代田区には住民税を納めている。

1992年(平成4年)に、アメリカ合衆国第41代大統領ジョージ・H・W・ブッシュが来日した際には、皇太子徳仁親王とペアを組んで大統領とマイケル・アマコスト在日本アメリカ合衆国大使のペアとテニスのダブルスで2回対戦し、2回とも勝利している。特に2回目の敗北はブッシュにとってショックだったらしく、その夜に首相官邸で行われた晩餐会の席上にてインフルエンザ発症により倒れてしまった際、妻バーバラ・ブッシュがフォロースピーチでこの敗北をジョークにするなどして話題を呼んだ。

全国各地で発生した自然災害に対して、ともに悲しみ、被災者をいたわる姿勢を見せている。

1991年(平成3年)、雲仙普賢岳噴火の際には、島原からの避難民を床に膝を着いて見舞った。この膝を着いて災害被災者と直に話をする天皇のスタイルはその後も続いており、皇后や皇族も被災地慰問の際にはこれに倣っている。

1995年(平成7年)1月17日の阪神・淡路大震災では、地震発生から2週間後の同年1月31日に現地に入り、スリッパも履かず避難所の床に正座して被災者の話に聞き入った。この姿は日本のみならず、日本国外の新聞にも大きく取り上げられ、反響を呼んだ。被災者に対して「今は苦しい時があるかも知れないがいつかきっと幸福が訪れます。それまで地震なんかに負けず頑張りなさい」と励ました。被災者は天皇の慰めに涙を流したと伝えられた。この際には動転した被災者の少女が皇后に抱きつくという出来事もあったが、咎めることなく暖かく抱きしめた。帰り際には、マイクロバスの窓から手を振って被災者を励ます写真も残されている。

2000年(平成12年)に噴火した三宅島へ、島民の帰島が叶った2006年(平成18年)には、火山ガスの発生の恐れがまだあるにもかかわらず、三宅島を慰問。島民を励ました。

2001年(平成13年)のアメリカ同時多発テロ事件に際してハワード・ベーカー駐日アメリカ大使を通じてブッシュ大統領に見舞いの言葉を贈っている。天皇が天災以外の理由で外国にお見舞いの言葉を贈ったのは前例のないことであり、それについて「皇室は前例を重んじなければなりませんが、その前例の中には前例がないにもかかわらずなされたものもあります。皇室も伝統を重んじつつ、時代の流れに柔軟に対応しなければならないと思います」と説明している。

2004年(平成16年)の新潟県中越地震の際には、自衛隊のヘリコプターで被災地を見舞った。2007年(平成19年)の新潟県中越沖地震に際しては、現地に赴いて被災者を見舞い、また被災者を思う心情から夏の静養を取り止めた。2008年(平成20年)9月8日、新潟県行幸の折り、被害の大きかった旧山古志村(現長岡市)を視察。その後被災者と懇談し、励ましの言葉をかけた。また、中越地震発生4日後に救出された男児(当時2歳)が無事に成長していることを知り、その成長を喜んだ。

2005年(平成17年)の台風14号で大きな害を被った宮崎県・鹿児島県に見舞い金として金一封を贈った。

2007年(平成19年)の能登半島地震に際しては慰問は実現されていないが、「元気になってください」との言葉を寄せた。

2007年(平成19年)10月29日から31日まで、福岡県西方沖地震被災地を見舞うため福岡に行幸した。29日には被災者の暮らす仮設住宅を慰問、当日福岡市内は天皇の宿泊したホテルニューオータニのある中央区を中心として、朝から交通規制が敷かれ、夕方まで渋滞した。しかし警備はホテル敷地内にSPが立ち、柳橋方面に少数の制服警官が配置されるなど最低限のものであり、市内は平素と変わらなかった。29日夕方には提灯行列が出て天皇の訪問を奉祝した。翌30日には同地震により最大の被害を受けた玄界島も慰問した。

2002年(平成14年)2月20日、チェロの師・清水勝雄が死去。その夜、皇后のピアノ伴奏に合わせて演奏を行ない、故人を偲んだ。会見においても、その人柄を回想していた。

2005年(平成17年)6月28日、サイパン島訪問の際には当初の訪問予定に含まれていなかった韓国・朝鮮人慰霊碑(追悼平和塔)に皇后を連れて立ち寄った。これは天皇の意向だったとされている。

2007年(平成19年)の佐賀県行幸の際、到着した天皇を出迎えた市民の一部が自然発生的に『君が代』を歌い始めた際には、その場に足を止め、皇后を促して歌が終わるまでその場に留まり、歌が終わると手を振ってこれに応えた。この訪問に際しては、提灯行列も出るなどの歓迎を受けた。

2008年(平成20年)11月8日、先代の昭和天皇同様、慶應義塾大学創立150周年記念式典に皇后と共に臨席し「おことば」を述べた。

2009年(平成21年)10月11日には、東京海洋大学品川キャンパスで日本魚類学会の年会に参加し、東京海洋大客員准教授を務めるさかなクンと歓談した。さかなクンは懇談中も脱帽せず、そのキャラクターを特徴付けるハコフグの帽子を被ったままであったが、これを非礼とすることはなかった。

2011年(平成23年)3月11日発生の東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)については前述のように異例のビデオメッセージを送ったほか、各地の避難所を皇后とともに歴訪している。

2013年(平成25年)4月15日、1泊2日の私的旅行に出掛けた。行き先は長野県で、千曲市にある「あんずの里」を散策した。定例の静養や公的行事の出席ではなく、自ら場所と時期を選んで出掛けた即位後初の私的宿泊旅行である。

人物に関するもの


1949年(昭和24年)、祖母皇太后節子(後の貞明皇后)とともに


1950年(昭和25年)、妹・貴子内親王とともに


1952年(昭和27年)、父・昭和天皇とともに


1952年(昭和27年)、弟・正仁親王とともに乗馬を楽しむ明仁親王(手前)


1954年(昭和29年)、妹・清宮貴子内親王(右)と、皇太子のプリンス・セダンの前にて


2010年現在使用しているとされる2代目インテグラ(写真は同型北米仕様車)

自動車愛好家であり、大学在学中に自動車の運転を習得。1953年のエリザベス女王戴冠式出席に際してはデイムラーのSOHCをイギリスで購入してきた。独身時代にはしばしば、成婚後もしばらくの間、愛車でドライブを楽しんでおり、国産車では1954年に献上されたプリンス自動車(現:日産自動車)のプリンス・セダン(後年、日産自動車に返還され現存)以降、通算9台のプリンス車を用いた。その中にはプリンスの試作1900ccエンジンを先行搭載した初代スカイラインや、高級車「グランド・グロリア」の車室スペースを延長した特注車も含まれていた。

なおプリンス自動車は旧名をたま自動車と称したが、1952年の最初のガソリン車発売が明仁親王の立太子と同年となったことを記念して社名をプリンスと改めた。以後の自動車献上・提供も含め、同社会長・石橋正二郎の皇室崇敬の念が大きかったことが背景にあった。かつての御料車がプリンス自工開発による日産・プリンスロイヤルだったのはこれらの縁による。

軽井沢において学友の所有するアルファロメオ・1900を運転したこともあり、護衛として警察車が随伴したが、警察の日本製パトカーは性能が劣っていたため、ついていくのに必死の思いであったという。また自動車評論家として知られる徳大寺有恒は、皇太子時代の天皇が運転するスカイラインに対向車として遭遇し、大いに驚いた体験を自著に書き残している。

このほかホンダ・アコード、レジェンドクーペ、インテグラなど、運転したことがあるとされる車種は非常に多い。メカニズムにも通じ、皇太子時代に鳥取県への行幸で公用車運転手が峠越えの運転に馬力不足で難渋した時には、後席から(エンジン負荷を減らすため)「クーラーをお止めなさい」と命じた逸話がある。

現在でもフォルクスワーゲン・ビートルをまれに運転することがあるという。2007年(平成19年)には高齢者講習を受講し、紅葉マークを取得したと伝わる。2010年(平成22年)現在、プライベートで運転するのは1991年(平成3年)製のグレーのホンダ・インテグラ(4ドア仕様・MT)。週末に御所から宮内庁職員用テニスコートへ行く際、助手席に皇后、後部座席に侍従を乗せて運転する姿が放映された。

公務においてもタコグラフの製造工場を見学するなど、自動車との縁が深い。

鉄道に関する関心も深く、学習院大学時代の論文はヨーロッパの鉄道史に関する内容であったと言われる。JR東日本は皇族の公用移動のため専用の御料車を用意しているが、自身は特別扱いを嫌うため、御料列車で移動することは少なく、その意向に従って一般の車両のグリーン車などをお召し列車として貸切使用することが多い。

ビクトリアカナダ空軍基地において軍用機のコクピットに座ったこともあり、写真が残されている。またビクトリアからバンクーバーまではこの空軍機で移動した。同機の機長だったデーブ・アダムソン中佐とは2009年(平成21年)のカナダ訪問の際に再会し、「あなたのことはよく覚えています」と旧交を温めていた。

学生時代(学習院高等科3年の試験が終わった日)、学友である橋本明(橋本龍太郎の従兄弟)に「銀座に行きたい」と相談し、学友が「いつがいいか?」と尋ねると「今日がいい」と答えた。「一人ではなくもう一人連れていこう」と提案し、承諾(もう一人は出雲国造の千家崇彦)。新任だった東宮侍従濱尾実など仕えている周りの人間を「今宵、殿下を目白の方にご案内したい」など騙して抜け出すことに成功し、3人で銀座をぶらついた。このとき銀座4丁目あたりで慶應ボーイ4人と出会い、慶應ボーイは「殿下こんばんは」と挨拶したという。高級喫茶店「花馬車」で橋本の彼女と合流し、皆でお金を出し合い、一杯99円のコーヒーを飲み、洋菓子屋「コロンバン」でアップルパイと紅茶を楽しんだり、満喫したようだが、当然ながらすぐに事件は発覚。大騒ぎになり、居場所を突き止められると、銀座に警察官が20 - 30メートルおきに配置されてしまい、これ以上散策が出来なくなり終了した。また、連れ出した学友は警察と皇室関係者にこっぴどく叱られた。これが有名な「銀ブラ事件」である。

結婚のパレードは民間放送開始から5年目でまだ高嶺の花だったテレビの普及に大いに貢献した。「ご成婚パレードをテレビで見よう」の宣伝文句が今に伝わっている。

皇太子時代、タイ王室からタイ国民の蛋白質不足について相談を受け、養殖の容易なティラピアを50匹寄贈した。タイではこのティラピアを大いに繁殖させて、バングラデシュの食糧危機に際して50万匹を寄贈した。のちにこの魚には華僑によって「仁魚」という漢名が付けられた。

同じく皇太子時代、インドネシアからの打診を受けてコイの品種改良を行ない、ヒレナガニシキゴイを誕生させている。

靖国神社には皇太子時代に5回参拝しているが、即位後は参拝していない。一方で靖国神社の元宮司である南部利昭には、宮司就任前に「靖国のこと、頼みます」と声をかけている。

昭和天皇と同じく、宮中祭祀にはきわめて熱心であり、諒闇(服喪中)や病気を除くとほとんどの宮中祭祀に代拝を立てず御自ら出席している。

幼少時は豆腐料理を好物とした。成人してからは中華料理を好んだ。

多忙な毎日であっても俗事にも通じていることで知られる。あるミュージシャンとの会話でデーモン閣下の話題が出た折、「ああ、あの白い顔の」とその存在を知っていたことを口にしたエピソードが、デーモンがパーソナリティを務めるラジオ番組で紹介されたことがある。

上記のデーモン閣下の件でも判るように、芸能音楽やスポーツ界の事情にも通じており、芸能音楽やスポーツ界関係者を招いた皇居でのお茶会や赤坂御苑での園遊会が催された際には、出席した各関係者に詳しい質問をする。そのため、天皇に質問された出席者は「陛下が自分のことについてこちらがドキッとするほどお詳しいので恐縮に堪えません」などと記者団に感想を述べることが多い。

ただ「好きなテレビ番組は?」との質問については、「各局の競争が激しいので…」などと回答を拒否するのが普通である。ただし、皇太子時代に一度、『暴れん坊将軍』(テレビ朝日)を好きな番組に挙げた事がある。

時折、くだけた一面も覗かせる。登山時に天皇の姿が見えなくなった折、取材のため同行した新聞記者が天皇のことをうっかり「おとうちゃん」と呼んだところ、記者の背後に突然現れ「おとうちゃんはここにおりますよ」と冗談めかして言い、驚かせたことがある。

皇居がある千代田区は、2011年(平成23年)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)に伴う計画停電の対象外地域であったが、「国民と困難を分かち合いたい」とする天皇の意向により、皇居は停電時間に合わせ電源を落とした。計画停電の実施が終了した後もこの「自主停電」は続けたという。

2011年7月29日から8月10日、アメリカの調査会社GfKとAP通信が、日本全国の成人1000人を対象に電話で行った世論調査では、各国の元首や首脳についての設問で、天皇は「好き」を70%獲得し、オバマ大統領(同41%)などを大幅に超えて1位であった。

発言

「ご誠実で、ご立派で、心からご信頼申し上げ、ご尊敬申し上げられるお方」

1958年(昭和33年)11月27日、正田美智子が婚約記者会見にて発言した皇太子評。流行語にもなった。

「天皇の歴史というものを知ることによって、自分自身の中に皇族はどうあるべきかということが次第に形作られてくるのではないか」

1977年(昭和52年)、帝王学について

「点数を付けることは出来ないが、まあ努力賞ということで」

1984年(昭和59年)4月10日、銀婚記者会見にて。皇太子妃に対して

この発言は報道陣の爆笑を誘った。

「国民と共に日本国憲法を守り、国運の一層の進展と世界平和、人類の福祉の増進を切に希望して止みません。」

1989年(平成元年)1月9日、即位後朝見の儀にて

「日本国憲法で、天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であると規定されています。この規定と、国民の幸せを常に願っていた天皇の歴史に思いを致し、国と国民のために尽くすことが天皇の務めであると思っています。天皇の活動の在り方は、時代とともに急激に変わるものではありませんが、時代とともに変わっていく部分もあることは事実です。」

1998年(平成10年)12月18日、誕生日に際する記者会見にて

「皆様が雨に濡れて寒いのではと案じています。」

1999年(平成11年)11月20日、在位十年記念式典にて

「私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに韓国とのゆかりを感じています。」

2001年(平成13年)12月18日、誕生日に際する記者会見にて

この発言は内外の興味を強く引き、韓国においても大々的に報道された。桓武天皇#今上天皇の発言も参照。

「私にとっては沖縄の歴史を紐解くということは島津氏の血を受けている者として心の痛むことでした。しかし、それであればこそ沖縄への理解を深め、沖縄の人々の気持ちが理解できるようにならなければならないと努めてきたつもりです。沖縄県の人々にそのような気持ちから少しでも力になればという思いを抱いてきました。」

2003年(平成15年)12月18日、誕生日に際する記者会見にて

母方の祖母・俔子妃が島津家の出身である。

「やはり、強制になるということではないことが望ましいですね。」 - 東京都教育委員の米長邦雄の「日本中の学校に国旗を掲げ、国歌を斉唱させるのが私の仕事です」という発言に対して

2004年(平成16年)10月28日、秋の園遊会にて

「皇太子の記者会見の発言を契機として事実に基づかない言論も行われ、心の沈む日も多くありました。」 - 人格否定発言を受けて

2004年(平成16年)、誕生日に際する文書回答より

「日本は昭和の初めから昭和20年の終戦までほとんど平和な時がありませんでした。この過去の歴史をその後の時代とともに正しく理解しようと努めることは日本人自身にとって、また日本人が世界の人々と交わっていく上にも極めて大切なことと思います。」

「皇室の中で女性が果たしてきた役割については、私は有形無形に大きなものがあったのではないかと思いますが、(中略)私の皇室に対する考え方は、天皇および皇族は、国民と苦楽を共にすることに努め、国民の幸せを願いつつ務めを果たしていくことが(中略)、皇室の伝統ではないかと考えているということです。」

以上、2005年(平成17年)12月19日、誕生日に際する記者会見にて

「これからの日本の教育の在り方については関係者が十分に議論を尽くして、日本の人々が自分の国と自分の国の人々を大切にしながら世界の国の人々の幸せに心を寄せていくように育っていくことを願っています。戦前のような状況になるのではないかということですが、戦前と今日の状況では大きく異なっている面があります。(中略)1930年から1936年の6年間に要人に対する襲撃が相次ぎ、総理または総理経験者4人が亡くなり、さらに総理1人がかろうじて襲撃から助かるという、異常な事態が起こりました。そのような状況下では議員や国民が自由に発言することは非常に難しかったと思います。先の大戦に先立ち、このような時代のあったことを多くの日本人が心にとどめ、そのようなことが二度と起こらないよう日本の今後の道を進めていくことを信じています。」 - 在日外国報道協会代表質問「教育基本法改正に伴い愛国心の表現を盛り込む事が、戦前の国家主義的な教育への転換になるのでは」に対し

2006年(平成18年)6月6日、シンガポール・タイ王国訪問前の記者会見にて

「残念なことは、愛子は幼稚園生活を始めたばかりで、風邪をひくことも多く、私どもと会う機会が少ないことです(中略)いずれ会う機会が増えて、打ち解けて話をするようになることを楽しみにしています。」

2006年(平成18年)12月20日、誕生日に際する記者会見にて

「ブルーギルは50年近く前、私が米国より持ち帰り、水産庁の研究所に寄贈したもの。食用魚として期待が大きく養殖が開始されましたが、今このような結果になったことに心を痛めています。」

2007年(平成19年)第27回全国豊かな海づくり大会にて。

「皇太子妃が病気の今、家族が皆で、支えていくのは当然のことです。私も、皇后も、将来重い立場に立つ皇太子、皇太子妃の健康を願いつつ、2人の力になっていきたいと願っています。」

2008年(平成20年)12月23日、誕生日に際する文書回答にて

「大日本帝国憲法下の天皇の在り方と日本国憲法下の天皇の在り方を比べれば、日本国憲法下の天皇の在り方の方が天皇の長い歴史で見た場合、伝統的な天皇の在り方に沿うものと思います。」

「2人のそれぞれの在り方についての話合いも含め、何でも2人で話し合えたことは幸せなことだったと思います。皇后はまじめなのですが、面白く楽しい面を持っており、私どもの生活に、いつも笑いがあったことを思い出します。(中略)結婚によって開かれた窓から私は多くのものを吸収し、今日の自分を作っていったことを感じます。結婚50年を本当に感謝の気持ちで迎えます。」

以上、2009年(平成21年)4月8日、結婚満50年に際する記者会見にて

「今日の世界は決して平和な状態ではあるとはいえません。明るい面として考えられるのは、世界がより透明化し、多くの人々が事実関係が共有できるようになったことです。拉致の問題も、それが行われた当時は今と違って、日本人皆が拉致を事実として認識することはありませんでした。このため拉致が続けられ、多くの被害者が生じたことは返す返すも残念でした。それぞれの家族の苦しみはいかばかりであったかと思います。」

「皇位継承の制度にかかわることについては、国会の論議にゆだねるべきであると思いますが、将来の皇室の在り方については、皇太子とそれを支える秋篠宮の考えが尊重されることが重要と思います。2人は長年私と共に過ごしており、私を支えてくれました。天皇の在り方についても十分考えを深めてきていることと期待しています。」

以上、2009年(平成21年)11月11日、即位20年に際する記者会見にて

「(公務の)負担の軽減は,公的行事の場合、公平の原則を踏まえてしなければならないので,十分に考えてしなくてはいけません。今のところしばらくはこのままでいきたいと考えています。私が病気になったときには、昨年のように皇太子と秋篠宮が代わりを務めてくれますから、その点は何も心配はなく、心強く思っています。」

2012年(平成24年)12月23日、誕生日に際する記者会見にて

「戦後、連合国軍の占領下にあった日本は、平和と民主主義を、守るべき大切なものとして、日本国憲法を作り、様々な改革を行って、今日の日本を築きました。戦争で荒廃した国土を立て直し、かつ、改善していくために当時の我が国の人々の払った努力に対し、深い感謝の気持ちを抱いています。また、当時の知日派の米国人の協力も忘れてはならないことと思います。」

「天皇という立場にあることは、孤独とも思えるものですが、私は結婚により、私が大切にしたいと思うものを共に大切に思ってくれる伴侶を得ました。皇后が常に私の立場を尊重しつつ寄り添ってくれたことに安らぎを覚え、これまで天皇の役割を果たそうと努力できたことを幸せだったと思っています。」

以上、2013年(平成25年)12月23日、誕生日に際する記者会見にて

系譜

明仁(今上天皇→上皇) 父:昭和天皇

祖父:大正天皇 曾祖父:明治天皇

曾祖母:柳原愛子

祖母:貞明皇后 曾祖父:九条道孝

曾祖母:野間幾子

母:香淳皇后 祖父:邦彦王(久邇宮) 曾祖父:朝彦親王(久邇宮)

曾祖母:泉萬喜子

祖母:俔子 曾祖父:島津忠義

曾祖母:山崎寿満子

高祖父:孝明天皇

高祖母:中山慶子(明治天皇生母)

系図


122 明治天皇


123 大正天皇


124 昭和天皇


秩父宮雍仁親王


高松宮宣仁親王


三笠宮崇仁親王


125 今上天皇(平成天皇→上皇 明仁)


常陸宮正仁親王


寛仁親王


桂宮宜仁親王


高円宮憲仁親王



皇太子徳仁親王(今上天皇)


秋篠宮文仁親王



悠仁親王




    小和田家の「資質」と雅子さまの真実



皇太子妃時代


成婚を記念して発行された500円硬貨


皇太子妃旗

1993年(平成5年)1月19日、皇室会議にて徳仁親王妃に内定し、記者会見を行なう。ハーバード大卒のキャリアウーマンであること等が世間の注目を受けた。同年2月をもって外務省を退職。同年4月12日の納采の儀(婚約)を経て、同年6月9日に結婚の儀が行なわれた。「結婚の儀」のテレビ中継の最高視聴率は77.9%(午前10時12分(JST)に記録。ビデオリサーチ・関東地区調べ、NHK総合と民放を合わせた総世帯視聴率)を記録した。成婚パレードには沿道に19万人の市民が集まり、テレビ中継の最高視聴率は79.2%(パレード終了直後の午後5時21分(JST)に記録。ビデオリサーチ・関東地区調べ、NHK総合と民放を合わせた総世帯視聴率)(資料によっては79.9%)を記録した。6月17日に皇太子妃雅子の名が皇統譜に登録された。

1996年(平成8年)5月、米国のニューズウィーク誌が伝統の中で能力を発揮できないという主旨の記事を掲載する。同年12月の誕生日記者会見には単独で応じ、以後2002年(平成14年)まで6回、単独会見を開いている。

1999年(平成11年)12月10日、朝日新聞が朝刊一面で雅子妃の懐妊の兆候をスクープ報道する。宮内庁および同東宮職は複数回に渡り、過熱報道の自粛を要請した。皇太子妃雅子は12月23日の天皇誕生日一般参賀には出席したが、その後12月30日に稽留流産の手術を受けたと発表された。古川清東宮大夫・川口政行東宮侍医長・医師の岡井崇が記者会見を開き、懐妊が早期から大々的に報道され雅子妃に心労を与えたことを批判する一方、海外訪問との因果関係については否定した。また、過度の報道に対して徳仁親王は遺憾の意を表明した。

2000年(平成12年)2月から、公務に復帰する。

2001年(平成13年)4月16日に懐妊の可能性が発表された。

同年5月15日に懐妊が正式に発表された。

同年12月1日に第一女子・愛子内親王が誕生。結婚から8年余りでの第一子誕生だった。

2004年(平成16年)5月、徳仁親王が訪欧を前にした記者会見で「雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です」と発言。海外育ちで国際派と見られていた雅子妃と、伝統と慣習に厳格な宮内庁との間で不和があることをうかがわせた。この発言は人格否定発言と呼ばれ、大きな反響を呼んだ。

同年6月、適応障害の診断を受け病気療養に入る 。

2006年(平成18年)からは今上天皇・皇后(いずれも上皇・上皇后)陪席のもと、御所で歴代天皇(天皇→上皇)のご進講を続けている。

2010年(平成22年)3月以降、学校内に問題を抱えた愛子内親王を気遣って登下校に付き添うようになり、外出の機会が一時期増加した。

2013年(平成25年)4月28日、皇太子夫妻はオランダからの招待を受け同国の公式訪問が実現し、30日アムステルダムにある新教会で国王ウィレム=アレクサンダーの即位式に出席した 。海外で公務に臨んだのは夫妻でニュージーランドとオーストラリアを訪問した平成14年12月以来約11年ぶり。

同年10月12日、全国障害者スポーツ大会開会式に10年ぶりに出席した。

2014年(平成26年)7月15日、武蔵陵墓地に12年ぶりに参拝、7月29日に伊勢神宮に20年ぶりに参拝した。8月3日には全国高等学校総合体育大会に12年ぶりに出席、皇太子一家で競技を観戦した。

同年10月29日オランダ国王夫妻歓迎行事に出席(5年ぶり)。宮中晩餐会には11年ぶりに出席した。

2015年(平成27年)7月2日-6日、トンガを公式訪問し、4日に国王トゥポウ6世の戴冠式に参列した。続く昼食会では、ウルカララ皇太子夫妻らトンガ王族と交流を持った。5日には予定外であったが、在留邦人らとの懇談の場に参加した。

公務と体調

2000年(平成12年)7月の香淳皇后の斂葬の儀の欠席や同年8月の佐賀県訪問中止を皮切りに、徐々に体調不良を理由とした公務や祭祀への欠席が目立つようになる。2003年(平成15年)には帯状疱疹のため長期静養し、翌2004年(平成16年)7月30日に、適応障害で長期間静養している事実が公表された。以後、東宮御所における接見を除けば出席する公務はほとんど無くなり、宮中祭祀も参加していない状態にある。唯一、2009年(平成21年)1月2日、「昭和天皇二十年式年祭の儀」中の「皇霊殿の儀」に、今上天皇・皇后の名代として夫の徳仁親王とともに拝礼した。これは2003年(平成15年)9月23日以来5年3か月ぶりに、潔斎を経て平安装束を着用しての祭祀出席となった。

なお、公務の出欠の判断は病気の性質上東宮職医師団が行い、皇太子妃雅子の当日の体調により最終決定される。

2011年(平成23年)、4月より8月まで複数回、岩手県大船渡市などの東日本大震災の被災地慰問を行った。

2013年(平成25年)、復興の過程にある東日本大震災の被災地を励ますために東北三県の慰問を行った。8月20日には宮城県を訪れ、七ヶ浜町の仮設住宅を慰問した。9月22日には福島県を訪れ、郡山市の仮設住宅と放射能対策の大型室内遊び場の親子たちを慰問した。11月1日と2日は岩手県を訪れ、3年ぶりの泊まりがけ公務にJR盛岡駅前の出迎えは1800人に達した。釜石市の仮設住宅と津波被害から復旧した水産加工会社を慰問した。

産経ニュースの報道によれば、2014年以降は体調が回復傾向にあり、皇太子とともに伊勢神宮参拝やオランダ国王夫妻を迎えての宮中晩餐会などの重要な行事に出席、2015年には天皇・皇后から引き継いだ「こどもの日」関連の児童施設訪問などをこなしており、同年7月にはトンガの国王・トゥポウ6世の戴冠式への皇太子夫妻公式招待に応え、2年ぶりに国外訪問公務を果たした。


 昭和三十三年十一月時点でのNHKの受信契約台数は約百五十万、ご成婚が三十四年四月十日と発表されると一挙に二百五十万にまで増加したとされる。

まさに空前のテレビ・ブームを迎える前夜祭となったのが、この日の婚約発表記者会見だった。加えて、皇太子の二十五歳の誕生日である十二月二十三日には、電波塔として東京タワーも完成し、国民のテレビ熱はさらに高まった。

「朝日新聞」(昭和三十三年十一月二十七日夕刊)から主なやりとりを引いてみよう。

問  皇太子さまにお会いになったのはいつごろが初めてですか?

答  昨年八月半ばだったと思います。軽井沢です。

問  どういう印象をお受けになりましたか?

答  とても清潔なお方だという印象をうけましたのを覚えています。

「とても誠実でご立派な方」という美智子さんの即妙な受け答えが、広く世間の耳目を集めた。

工藤美代子『皇后の真実』幻冬舎、15~16ページ参考文献引用

ご成婚パレードでは水も漏らさぬ警備だったが当時の皇太子皇太子妃の馬車でのパレードでは投石する危険人物の青年が現れたという。しかも、石は皇族の印である馬車の胴の錦印に当たり、なおも青年は馬車に飛び乗ろうとして警察に逮捕された。

右翼の青年であったという。報道カメラは当時、大ヤグラの台座に固定されており、咄嗟のテロ行為に反応できなかった、という。

それとウィキペディアでも触れられているが文豪の三島由紀夫が成婚前のやんごとなきお方(美智子(皇后→上皇后)皇后さま)と過去にお見合いをしたということがスクープとしてある。

驚いたが、当時の昔の人はご存じの事であろう。軽井沢での『テニスコートの恋』ももはや周知の事実、で、ある。そして沖縄のテロ事件や高齢での精力的なご公務。只々、脱帽である。美智子さまや天皇陛下(明仁天皇陛下・今上天皇→上皇)の愛や誠実さが、眩しい。

工藤美代子『皇后の真実』幻冬舎、73~226ページ参考文献引用


外国訪問

本項では皇后として単独での外国訪問について取り上げる。今上天皇との夫妻での外国訪問については明仁#外遊歴(平成以降)を参照。

2002年(平成14年)9月28日 - 10月3日、スイス旅行。

国際児童図書評議会 (IBBY)、スイス・バーゼル=シュタット準州州政府からの招待により、同準州州都バーゼルで開催される「国際児童図書評議会創立50周年記念大会」に出席のため。

2014年(平成26年)12月11日 - 12月13日、ベルギー訪問。

元ベルギー国王ボードゥアンの王妃であるファビオラが12月5日に死去し、12月12日に首都ブリュッセル行われる葬儀に参列するため。

逸話

少女時代

非常に優れた運動神経の持ち主で、学生時代にはリレーの選手などに選ばれることが多かった。この当時は勝気な性格であったと伝えられる。

学生時代に学校において出会ったアイルランドの修道女たちに深い思いを寄せており、一人一人の顔と名前を今なお鮮明に思い出すことができるという。

天皇に関するもの

戦後新憲法により,天皇のご存在が「象徴」という,私にとっては不思議な言葉で示された昭和22年(1947年)、私はまだ中学に入ったばかりで、これを理解することは難しく、何となく意味の深そうなその言葉を,ただそのままに受け止めておりました。御所に上がって50年がたちますが、「象徴」の意味は、今も言葉には表し難く、ただ,陛下が「国の象徴」また「国民統合の象徴」としての在り方を絶えず模索され、そのことをお考えになりつつ、それにふさわしくあろうと努めておられたお姿の中に、常にそれを感じてきたとのみ、答えさせていただきます

成婚に関するもの

1955年(昭和30年)- 1956年(昭和31年)頃、東京・銀座の小料理店「井上」2階にて、独身時代の三島由紀夫と〝見合い〝風の対面をしている(同店女将・井上つる江談。『週刊新潮』2009年(平成21年)4月2日号)。

皇室に嫁ぐ際には実家の庭に白樺の苗木を植え、「これを私の身代わりにしてください」と言った。このとき父・正田英三郎から、「天皇陛下と皇太子殿下の御心に沿って生きるように」との言葉を贈られている。

成婚に際しては作曲家の團伊玖磨が「祝典行進曲」を作曲した。この曲は後に紀宮清子内親王が降嫁する際、皇居から帝国ホテルへ出発する内親王を送るためにも演奏された。

国民から盛大な歓迎と祝福を受けたが、この事に関し2004年(平成16年)の誕生日に次のように発表した。

「私は今でも、昭和34年のご成婚の日のお馬車の列で、沿道の人々から受けた温かい祝福を、感謝とともに思い返すことがよくあります。東宮妃として、あの日、民間から私を受け入れた皇室と、その長い歴史に、傷をつけてはならないという重い責任感とともに、あの同じ日に、私の新しい旅立ちを祝福して見送ってくださった大勢の方々の期待を無にし、私もそこに生を得た庶民の歴史に傷を残してはならないという思いもまた、その後の歳月、私の中に、常にあったと思います」。

結婚の儀当日天皇から授けられた守り刀は、1955年に、刀剣では最初の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された刀工高橋貞次の作。浩宮徳仁親王・礼宮文仁親王の守り刀も彼の作である。

家庭・育児に関するもの

苦しい日々にあっても優しさを忘れず、「殿下にお料理を作って差し上げたい」と希望し、新造の東宮御所奥公室に小さな厨房を設置。後に浩宮徳仁親王、礼宮文仁親王、紀宮清子内親王らの弁当もこの厨房で自ら作ったこともある。宮中晩餐に関しては食材選びからメニューの選定まで、細心に心を配るという。

皇室の慣習である宮中御産殿での出産や、乳母制度、傅育官制度を廃止、3人の子を全て自らの手で育てた。とりわけ浩宮徳仁親王は誕生に際し、母子手帳が発給されたことでも知られ、「乳が足りない際には(乳母を立てず)人工栄養で育てるよう」指示がなされた。なお、後の礼宮文仁親王、紀宮清子内親王の誕生の際には(母親学級に参加する際の警備上の問題などもあって)、母子手帳の発給を受けることはなかった。

いわゆる「ナルちゃん憲法」に関して、皇后自身は「書き溜めたメモの溜まったものに過ぎない」としている。

第2子流産の折には、「畏れ多くも皇太子殿下の御子を流すとはけしからぬ」といった批判[誰?]もあった。この痛手から回復する過程において、ハンセン病患者や戦争の犠牲者への理解、慰めの心を深めたといわれる。[独自研究?]

教育方針は丁寧ではあったが、過保護ではなかった[独自研究?]。礼宮文仁親王がアオダイショウを追いかけ、紀宮清子内親王に捕まえるように言った際には、アオダイショウが無毒と分かると清子内親王に追いかけるように言ったというエピソードも残る。

祭祀・公務などに関するもの



子宝に恵まれなかった。

長女である敬宮愛子内親王(愛子さま)、やっとできた子供は女の子…

雅子さまは本来ならば乳母が子供をあやすしきたりであったが、ご自身で子供を育てると気丈に言った。悠仁さま誕生の前で「女性宮家」創設が云々されていた。

「しかし、皇族は皆、乳母にあずけるのが古来よりのしきたりでございます。」

「ならばしきたりをやぶりましょう。愛子はわたしが育てます」

「しかし、皇太子妃さま…。」

 子育ての最中に精神病で倒れられたのは誰もが知るエピソードである。

愛子さまは相撲が好きで物知りであったが学校でいじめにあい、不登校状態が続いた。

母娘ともに精神的なご病気であった。

夜、皇居で人払いをして寝室で雅子と徳仁はチェスをした。

「ふしぎな人間だなあ」徳仁は微笑んだ。

「何がにございます? 殿下」

「何をするにもまっすぐだ。日本国中、言葉をろうしている人間ばかりなのに。」

「…。わたくしの勝ちにございまする。」

「雅子…何故負けない?」

「では、殿下はわたくしがわざと負けたらうれしいですか?」

「いいや。」

ふたりは笑った。

 〝カイザー(皇帝)を外交官にしたような男〝こと長尾景虎と妻の夫婦は小和田家を訪れた。母の優美子は、

「あのこは運をもっている。天下から授かった」などという。

 

「…皇室も…アメリカも…何もない…官僚も農家も身分もない自由な世界で…家族で暮らしたいものだ」

「…はい。」

 


今上天皇は有名外交官となっていた〝カイザー(皇帝)を外交官にしたような男〝長尾景虎〝と話したという。

明仁は長尾景虎に「あなたから雅子をうばってしまった。ゆるしてね」という。

「何をおおせです! そのような!」

「…文は…文は届きました…か」

「天皇陛下!」

話を戻す。


娘の愛子や秋篠宮の紀子に「皇太子妃様。母上様」と呼ばれ、はじめて熱い涙を流した。

「私はひとりになった訳ではなく…あなたがたというあたらしい家族をもったのですね。」

それは、家族の、ぬくもりであった。

話を戻す。






2005年(平成17年)12月、天皇誕生日の一般参賀にて天皇と共に

天皇行幸の際には、ほぼ常に同行している(行啓)。そのときの服装は、訪問地に縁のある花をあしらった帽子や、同様の意味合いを持つ色の服を着るなどの配慮をしている。例えば2007年(平成19年)の訪欧時には、各国の国旗の色をあしらった服や、コサージュを着用した。

明治以来の歴代皇后が行ってきた養蚕(皇后御親蚕)を継承している。紅葉山御養蚕所において奈良時代から飼育され続けてきた蚕の品種「小石丸」の飼育中止が検討されたとき、これを残すことを主張して同種を救った。小石丸は今日では全国で飼育されるに至り、各種美術品の修復にも用いられている。養蚕によって作られた絹糸で、皇后のドレスを仕立てた事もある。近年では、眞子内親王・佳子内親王が養蚕を手伝っており、内親王たちの着物に仕立てられたという。

特徴ある活動としては、児童への図書普及への取り組みが挙げられる。1998年(平成10年)、インドで開催された「国際児童図書評議会 (IBBY)」におけるビデオによる基調講演「子供時代の読書の思い出」では、日本武尊の妃弟橘比売の吾妻における入水の物語などを引いて、成婚以来のその胸中を語り世界中に大反響を呼んだ。またこの講演では幼少の頃に家族から聞かされた童話として新美南吉の「デンデンムシノカナシミ」を取り上げ、大人になってからもよく思い出される作品であると紹介した。講演内容は『橋をかける』という題名で、各国にて出版された。2002年には、スイスで開催されたIBBY50周年記念大会に、名誉総裁として出席し祝辞を述べた。なお、その時の祝辞は、『バーゼルより-子どもと本を結ぶ人たちへ』という題名で出版されている。皇后が単身日本国外に行啓した史上最初の例である。

戦没者慰霊の地に赴き、和歌を詠んでいる。

他の妃・皇孫に対するもの

紀子妃は同じく旧皇族・旧華族以外の出身であり、彼女に対してそれまでの自分の経験を話し、助言をしていると言われている。彼女の婚約が内定した際には、「またひとつ宝物が増えました」との感想を発表している。

皇太子徳仁親王の結婚の際には、雅子妃にルビーの指輪を贈った。この指輪は自身の結婚の際、香淳皇后から贈られたものであった。また、秋篠宮文仁親王の結婚の際には、紀子妃に真珠の指輪を贈った。

2006年(平成18年)2月、紀子妃の第三子懐妊時には、友人に秋篠宮および同妃が、一人で悩んでいる天皇の胸中を思って懐妊を決断したのだろうという、天皇への思いを語ったとされる。また、紀子妃が前置胎盤で帝王切開が必要なことがわかると、それを心配する言葉を寄せた。

無事に悠仁親王が誕生すると、皇后は白いベビーシューズを携えて見舞いに訪れた。このベビーシューズは秋篠宮家で大切に保管されていたとみられ、悠仁親王の1歳の誕生日写真においてソファ脇の机に飾られていた。

また、同年の誕生日においては、敬宮愛子内親王との面会や彼女の着袴の儀を楽しみにしている旨を発表。なお、この年を境に、コメント・会見の際に「敬宮」と呼ばずに「愛子」と呼んでいる。




      雅子さまの真実 昭和と平成の世と



年譜

1963年(昭和38年)12月9日、東京都港区に生まれる。本籍地は新潟県村上市本町

1981年 (昭和56年)5月(17歳)、ハーバード大学経済学部入学

1985年(昭和60年)6月(21歳)、ハーバード大学経済学部卒業

1986年(昭和61年)4月(22歳)、東京大学法学部に学士入学。3年に編入学

1987年(昭和62年)4月(23歳)、外務省入省 経済局国際機関第二課に配属されOECD担当となる

1988年(昭和63年)(24歳)、オックスフォード大学ベリオール・カレッジに外務省の研修で留学

1990年(平成2年)(26歳)、北米局北米二課に配属され市場開放・規制緩和を担当となる

1993年(平成5年)1月19日(29歳)、皇室会議で皇太子徳仁親王の妃に内定

同年4月12日、納采の儀

同年6月9日、結婚の儀 - 皇太子徳仁親王との結婚に伴い、皇太子妃となる

2001年(平成13年)12月1日(37歳)、愛子内親王を出産

2019年(平成31年→新元号『令和(れいわ)』)平成天皇皇后退位で、皇太子妃から皇后さまへ。皇太子の徳仁親王陛下は今上天皇へ即位。

家系


小和田家系図

雅子 父:

小和田恆

(外務省事務次官) 祖父:

小和田毅夫

(高田市教育委員長)

祖母:

小和田静

母:

小和田優美子 祖父:

江頭豊

(チッソ会長)

祖母:

江頭寿々子

発言

「私に対して『皇室に入られるということには、いろいろな不安や心配がおありでしょうけれども、雅子さんのことは僕が一生全力でお守りしますから』というふうに仰ってくださいました」 - 皇室入りを決意させたものについて

1993年(平成5年)1月19日、婚約内定の記者会見にて

「本当に生まれてきてありがとうという気持ちで一杯になりました」 - 愛子内親王出産の際の気持ちについて

2002年(平成14年)4月2日、愛子内親王誕生の際の記者会見にて



その他

1987年(昭和62年)、レーガン大統領夫人と美智子妃(当時)

皇太子妃時代、庶民からの羨望の気持ちを込めて「同じ服は二度と着ない」等ともいわれて[誰?]いたが、実際には丁寧に管理され、時には仕立て直しなどリフォームをして繰り返し着用しているという。

公務の際は、洋装に日本独自のもの(佐賀錦等)をあしらったり、訪問先の国花・都道府県花等を身につけたり、国旗を意識した配色の衣服を着用する等の気配りを見せている。そのファッションセンスは、日本のみならず世界的にも高く評価されており、1985年・1988年・1990年の三度、国際ベストドレッサー賞を受賞している。植田いつ子らがデザイナーとして知られる。

1992年(平成4年)に、山形県において開催された秋の国体(べにばな国体)の開会式臨席の際、暴漢が発煙筒を投じたところ、とっさに片手を挙げ身を挺して天皇をかばうなど、常に天皇を気遣っている。

宮内庁職員組合文化祭には白木華子(=白樺子→シラカバ)の名前でひそかに手芸作品を出品したことがある。その時、紀宮清子内親王も「川瀬美子(かわせ・みこ→カワセミ)」の名前で出品した。

音楽に造詣が深く、学生時代よりピアノが得意とされる。バチカン訪問の際の音楽会では、即興でグノーの『アヴェ・マリア』の伴奏を弾いた。自宅でじかに演奏に接したピアニストの中村紘子は、あれだけ想いの深い演奏をするピアニストは日本にはいない、もしピアニストになっていたら自分には出番がなかっただろう、と最大級の讃辞を送っている。またピアニスト・田中希代子の演奏を愛し、1996年(平成8年)に田中が急逝したときには深い悲しみを表している。このほかハープも得意とする。ハープを演奏する写真も撮影されている。2009年(平成21年)のカナダ訪問時に訪れたトロントの小児病院では子供たちを前に、子育てのとき子供たちに歌って聞かせた「揺籃のうた」(北原白秋作詞、草川信作曲)を歌唱した。

1999年(平成11年)、父・正田英三郎の死去に伴い、東京都品川区東五反田五丁目(通称「池田山」)の生家正田邸が相続の対象になった際は、相続権を放棄。正田邸跡地は小公園「品川区立ねむの木の庭」になっている。

発言

「とてもご誠実で、ご立派で、心からご信頼申し上げ、ご尊敬申し上げて行かれる方だというところに魅力を感じ致しました」 - 1958年(昭和33年)11月27日、婚約決定記者会見での明仁親王評

「難しいこともたくさんありましたし、辛いこともあります。いつになったら慣れるのか見当がつきません。(中略)時には八方ふさがりのような気持ちになることもあります」 - 1960年(昭和35年)4月11日、結婚一周年の記者会見で

「わたくしも差し上げるのならお点ではなく、感謝状を」 - 1984年(昭和59年)4月10日、銀婚記者会見にて。明仁親王の「点数を付けることは出来ないが努力賞ということで」をふまえ

「平成初めての大会に当たり、昭和22年以来、42年の長い年月にわたって名誉総裁の責務をお果たしになった皇太后陛下に、わたくしどもの深い感謝をお奉げしたいと思います」 - 1989年(平成元年)5月31日、平成元年全国赤十字大会にて

「変化の尺度を測れるのは皇位の継承に連なる方であり、配偶者や家族であってはならないと考えています」

「どの時代にも新しい風があり、またどの時代の新しい風も、それに先立つ時代なしには生まれ得なかったのではないかと感じています」 - 以上1994年(平成6年)10月20日、還暦文書回答にて、皇后(→上皇后)美智子が天皇(天皇→上皇)とともに皇室に新風を吹き込んだという指摘に対して

「国民の叡智がよき判断を下し、国民の意志がよきことを志向するよう祈り続けていることが、皇室存在の意義、役割を示しているのではないかと考えます」 - 1995年(平成7年)10月20日、誕生日の文書回答にて

「常に国民の関心の対象となっているというよりも、国の大切な折々に、この国に皇室があって良かった、と、国民が心から安堵し喜ぶことの出来る皇室でありたいと思っています」 - 1996年(平成8年)10月20日、誕生日の文書回答にて

「不思議な波が、私たちの少し前で何回かとまり、左手の子供たちが、心配そうにこちらを見ておりましたので、どうかしてこれをつなげなければと思い、陛下のお許しを頂いて加わりました」 - 1998年(平成10年)10月20日、誕生日の文書回答にて、長野パラリンピックでのウェーブ参加に関して

「どの時代にも皇后様方のお上に、歴代初めての体験がおありになり(中略)先の時代を歩まれた皇后様方のお上を思いつつ、私にも時の変化に耐える力と、変化の中で判断を誤らぬ力が与えられるよう、いつも祈っています。これからの女性皇族に何を望むかという質問ですが、人は皆個性を持っていることであり、どなたに対しても類型的な皇族像を求めるべきではないと思います」 - 2002年(平成14年)10月20日、誕生日の文書回答にて

「清子は、私が何か失敗したり、思いがけないことが起こってがっかりしている時に、まずそばに来てドンマーインと、のどかに言ってくれる子どもでした」 - 2005年(平成17年)10月20日、誕生日文書回答にて、数日後に控えた清子内親王の降嫁を前に

「東宮妃の公務復帰については、専門医の診断を仰ぎながら、妃自身が一番安心できる時を待って行われることが大切だと思います。あせることなく、しかし、その日が必ず来ることに希望をもって、東宮妃も、また東宮も、それまでの日々、自分を大切にして過ごしてほしいと祈っています」 - 2006年(平成18年)10月20日、誕生日の文書回答にて

「(かくれみのを用いて)混雑する駅の構内をスイスイと歩く練習をし、その後、学生のころよく通った神田や神保町の古本屋さんに行き、もう一度長い時間をかけて本の立ち読みをしてみたいと思います」 - 2007年(平成19年)5月14日、欧州諸国歴訪前の記者会見にて、身分を隠し好きな所で一日を過ごすとしたらという問いに対し

「皇太子妃の健康についての質問ですが(中略)妃は皇太子にとり、また、私ども家族にとり、大切な人であり、「妃の快復を祈り、見守り、支えていきたい」という、私の以前の言葉に変わりはありません」

「この頃愛子と一緒にいて、もしかしたら愛子と私は物事や事柄のおかしさの感じ方が割合と似ているのかもしれないと思うことがあります。周囲の人の一寸した言葉の表現や、話している語の響きなど、「これは面白がっているな」と思ってそっと見ると、あちらも笑いを含んだ目をこちらに向けていて、そのような時、とても幸せな気持ちになります。思い出して見ると、眞子や佳子が小さかった頃にも、同じようなことが、度々ありました」 - 2008年(平成20年)10月20日、誕生日の文書回答にて

「この度も私はやはり感謝状を、何かこれだけでは足りないような気持ちがいたしますが、心を込めて感謝状をお贈り申し上げます」 - 2009年(平成21年)4月8日、結婚50周年記者会見にて。先の25周年記者会見での発言をふまえ

「東宮も秋篠宮も孫として昭和天皇のおそばで過ごす機会を度々に頂き、また成人となってからは、陛下をお助けする中でそのお考えに触れ、日々のお過ごしようをつぶさに拝見し、それぞれの立場への自覚を深めてきたことと思います。これからも二人がお互いを尊重しつつ、補い合って道を歩み、家族も心を合わせてそれを支えていってくれることを信じ、皇室の将来を、これからの世代の人々の手にゆだねたいと思います」 - 2009年(平成21年)11月11日、天皇即位20年に際する記者会見にて

「これがミクちゃんですか(CG声優・初音ミクを観て)」 - 2013年(平成25年)8月20日、六本木ヒルズ・森美術館でのLOVE展にて

「80年前,私に生を与えてくれた両親は既に世を去り,私は母の生きた齢としを越えました。嫁ぐ朝の母の無言の抱擁の思い出と共に,同じ朝『陛下と殿下の御心に添って生きるように』と諭してくれた父の言葉は,私にとり常に励ましであり指針でした。これからもそうあり続けることと思います。」 - 2014年(平成26年)10月20日、皇后誕生日に際し、80年の傘寿を迎えて

子女


天皇一家と諸王

明仁との間には、3子がいる。

浩宮徳仁親王(ひろのみや なるひと、1960年 - ) - 第一男子。現・皇太子。

礼宮文仁親王(あやのみや ふみひと、1965年 - ) - 第二男子。秋篠宮。

紀宮清子内親王(のりのみや さやこ、1969年 - ) - 第一女子。黒田慶樹夫人。

生家・正田家

祖父・貞一郎(実業家・日清製粉創業者)

父・英三郎(実業家・日清製粉名誉会長)

母・富美子(佐賀の旧家・副島家出身、中支那振興常務理事 副島綱雄の長女)

兄・巌(元日本銀行監事)

妹・恵美子(元昭和電工専務・日本体育協会会長安西孝之夫人)

弟・修(実業家・日清製粉グループ名誉会長相談役)

従兄・正田彬(1929年 - 2009年、正田建次郎長男・経済法の専門家・慶應大学名誉教授)

系譜


正田貞一郎の家族

前列右から貞一郎、二女・勅子、母・幸、三女・祐子、五男・篤五郎、妻・きぬ、四男・順四郎、後列右から三男・英三郎、長男・明一郎、義弟・卓治、二男・建次郎

『正田貞一郎小伝』9-21頁によると、

「徳川家の菩提所である群馬県新田郡世良田長楽寺の伝えるところによれば、正田家の祖先は新田義重の家臣生田隼人となっている。天正年間、生田義豊は徳川家康に謁し、新田、徳川の郷土に関する旧記由緒を上申して知行を受け、命により生田を正田と改めた。

後世、世良田にいた正田家の人が館林に移って商人となり、これが館林における正田家の始まりである。それは、延享、寛政の頃といわれ、四代を経て正田文右衛門と称し、以後累代これを襲名した。

正田家は代々「米文」の暖簾のもとに米問屋を家業とし、上州館林および近郊きっての富商であった。「米文」の名声は江戸はいうまでもなく、大阪方面まで聞こえていた。弘化の頃(1844年 - 1847年)には名主の職にあり、名字帯刀を許されていた。

文政元年(1818年)7月に生まれた文右衛門(3代目)は正田家〝中興の祖〝といわれている。文右衛門は明治6年(1873年)米穀商を辞め、醤油醸造業を始めた。」という。

神一行 『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』(角川書店、2002年)385-386頁によると、

「そもそも正田家のルーツは群馬県館林の在。〝開かれた皇室〝を実現すべく、皇太子妃を選ぶにあたって尽力した小泉信三は、正田家を三百年前までさかのぼって調べたという。

郷土史家によれば〝正田家の祖先は源義家の孫、新田義重の重臣、生田隼人までいきあたる〝というが、入手した文献で確認できるのは、300年前の庄田六三郎(天和2年没)からである。

この六三郎が館林における正田家の始祖である。四代を経て正田文右衛門という人物が登場し、庄田を正田にあらため以後代々、正田家の当主は文右衛門を襲名するに至っている。江戸時代は〝米文〝の屋号で代々米問屋を営んでいたようで、江戸深川や大阪堂島の米相場をうごかす、近郊きっての豪商だったと伝えられる。大繁盛した米問屋であったが、明治6年、正田英三郎の曾祖父にあたる三代目文右衛門は、突然家業をやめ、〝亀甲正〝という商号で新しく醤油醸造業を始めた。」という。

(三代)

正田文右衛門━┳━正田文右衛門

       ┃              ┏━正田明一郎

       ┃              ┣━はる

       ┗━正田作次郎━━正田貞一郎 ┃

                  ┃   ┃

                  ┃   ┃

                  ┣━━━╋━正田建次郎

                  ┃   ┃  ┣━━━━正田彬

                  ┃   ┃

                 きぬ   ┃

       (五代目・正田文右衛門の長女)┣━勅子

                      ┣━正田英三郎

                      ┃  ┣━━┳━正田巌

                      ┃ 冨美子 ┣━美智子

                      ┃     ┣━恵美子

                      ┣━祐子  ┗━正田修

                      ┣━正田順四郎

                      ┣━正田篤五郎

                      ┗━和子

著作

和歌・発言集

『ともしび―皇太子同妃両殿下御歌集』 宮内庁東宮職編、婦人画報社、1986年12月

『瀬音―皇后陛下御歌集』 大東出版社、1997年4月、ISBN 4-500-00633-8 / 新装版2007年、ISBN 978-4-500-00724-0

『あゆみ―皇后陛下お言葉集』 宮内庁侍従職監修、海竜社、2005年10月、ISBN 4-7593-0900-4 / 改訂新版2010年3月、ISBN 978-4-7593-1097-9

『道――天皇陛下御即位十年記念記録集』 宮内庁編、日本放送出版協会、1999年10月 ISBN 4-14-080467-X / 新装版2009年、ISBN 978-4-14-081390-4

『道――天皇陛下御即位二十年記念記録集』 宮内庁編、日本放送出版協会、2009年、ISBN 978-4-14-081389-8

児童関連楽曲・書籍

『はじめての やまのぼり』絵 武田和子 至光社 1991年、ISBN 9784783401995

『五木の子守唄 鮫島有美子』 Denon、1992年(作詞した「ねむの木の子守歌」を収録、作曲は山本正美)

『愛のゆりかご 日本の子守歌』 中目徹編、東亜音楽社、1995年(楽譜、19曲目に作詞曲を収録)

『どうぶつたち (The Animals):まど・みちお詩集』 選・英訳:皇后美智子(皇后→上皇后)、絵:安野光雅、すえもりブックス、1992年9月、ISBN 978-4-915777-06-6

『ふしぎなポケット (The Magic Pocket):まど・みちお詩集』 選・英訳:皇后美智子(皇后→上皇后)、絵:安野光雅、すえもりブックス、1998年6月、ISBN 4-915777-21-9

『橋をかける――子供時代の読書の思い出』 すえもりブックス、1998年11月 ISBN 4-915777-22-7 / 文春文庫、2009年4月、ISBN 978-4-16-775381-8

『バーゼルより――子どもと本を結ぶ人たちへ』 すえもりブックス、2003年2月、ISBN 4-915777-34-0(第2版)

最終更新 2015年10月13日 (火) 05:47 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。

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著書

『ともしび 皇太子同妃両殿下御歌集』 宮内庁東宮職編、婦人画報社、1986年(昭和61年)12月 ISBN 9784573143012

『道 平成元年(1)平成10年 天皇陛下御即位十年記念記録集』

宮内庁編、日本放送出版協会、1999年(平成11年)10月 / 新装版2009年(平成22年)9月、ISBN 4140813903

『道 平成11年(2)平成20年 天皇陛下御即位二十年記念記録集』

宮内庁編、日本放送出版協会、2009年(平成22年)9月、ISBN 414081389X

『天皇陛下科学を語る』 宮内庁侍従職監修、朝日新聞出版、2009年10月 ISBN 4023304522

『日本産魚類大図鑑=The fishes of the Japanese archipelago』 東海大学出版会、1984年(昭和59年)12月

ISBN 4-486-05053-3(図版)

ISBN 4-486-05053-3(解説)

ISBN 4-486-05054-1(Text)

論文『ハゼ科魚類の進化』を所収(他に第2版で、ハゼ亜目魚類の項目を共同執筆)、益田一ほか編。

『日本の淡水魚』 山と溪谷社、1989年(平成元年)11月、ISBN 4-635-09021-3

(チチブ類の項目を執筆)、川那部浩哉、水野信彦編・監修

『日本産魚類検索 全種の同定』 東海大学出版会、1993年(平成5年)10月 / 第2版2000年(平成12年)12月 / 第3版2013年(平成25年)3月、ISBN 4486018044

(ハゼ亜目魚類の項目を共同執筆)、中坊徹次編

栄典


ガーター騎士団員としての紋章

大勲位菊花章頸飾

ガーター勲章 (ガーター騎士団員)(イギリス):1998年5月26日受勲。

レジオンドヌール勲章グランクロワ(フランス)

ドイツ連邦共和国功労勲章特等大十字章(ドイツ)

金羊毛勲章(金羊毛騎士団員)(スペイン)

ラーチャミトラーポーン勲章(タイ)

大チャクリー勲章(タイ)


<ウィキペディアからの引用「天皇制」>

概要

「天皇制」という用語は「君主制」を意味するドイツ語 Monarchie のマルクス主義者による和訳。1922年、日本共産党が秘密裏に結成され、「君主制の廃止」をスローガンに掲げた。[要出典]1932年のコミンテルンテーゼ(いわゆる32年テーゼ)は、共産主義革命を日本で行うため日本の君主制をロシア帝国の絶対君主制であるツァーリズムになぞらえ、天皇制と規定した。敗戦まで、「天皇制」という用語は反体制であるとみなされていた。

「天皇制」という用語は敗戦とともにごくありふれた日本人のボキャブラリーとなり、天皇制に賛成か反対かなどと世論調査の項目でも用いられるようになった。なお、当時アメリカではEmperor Institution, the Imperial Institutionなどの語が用いられ、その制度の存廃が大きな検討事項とされていた。

以下、古代以来の天皇と政治体制との関わりを中心に解説する。

歴史

古代

歴史学上、天皇制は古墳時代に見られたヤマト王権の「治天下大王(あめのしたしろしめすおおきみ)」(あるいは「大王(おおきみ)」)に由来すると考えられている。3世紀中期に見られる前方後円墳の登場は統一政権の成立を示唆しており、このときに成立した大王家が天皇の祖先だと考えられている。大王家の出自については、弥生時代の邪馬台国の卑弥呼の系統を大王家の祖先とする説、大王家祖先の王朝は4世紀に成立したとする説、など多くの説が提出されており定まっていない。当初の大王は軍事的な側面だけではなく、祭祀的な側面も持っていたと考えられる。

7世紀後半から中国の政治体制に倣った律令制の導入が進められ、701年の大宝律令によって律令制が確立した。国号(日本)と元号(大宝)が正式に定められ、歴代天皇に漢風諡号が一括撰進された。こうして天皇を中心とした中央集権制が確立し、親政が行われた(古代の国体「建国ノ體」)。710年には平城京に遷都した。

9世紀ごろから貴族層が実質的な政治意思決定権を次第に掌握するようになっていった。10世紀には貴族層の中でも天皇と強い姻戚関係を結んだ藤原氏(藤原北家)が政治意思決定の中心を占める摂関政治が成立した。

11世紀末になると天皇家の家督者たる上皇が実質的な国王(治天の君)として君臨し、政務に当たる院政が始まった。天皇位にある間は制約が多かったものの、譲位して上皇となると自由な立場になり君主としての実権を得た。院政を支えたのは中級貴族層であり、藤原氏(摂関家)の地位は相対的に低下した。

中世

鎌倉に武家政権が成立すると、天皇・上皇を中心とした朝廷と将軍を中心とした幕府とによる二重政権の様相を呈した。承久の乱では幕府側が勝利を収めた。だが、天皇側の勢力もまだ強く、鎌倉幕府が滅亡すると後醍醐天皇が天皇親政を復活させた。建武の新政参照。

室町幕府が成立すると天皇は南朝・北朝に分裂した(南北朝時代)。長い戦乱が続いた末、室町幕府の3代将軍足利義満によって南北朝の合一が果たされた(1392年)。義満は幕府の権力を強化するとともに、「日本国王」として明皇帝に朝貢する形式で勘合貿易を行った。義満の死(1394年)に際して朝廷は「鹿苑院太上法皇」の称号を贈った(これらのことなどから、義満が皇位を簒奪する意図を持っていたと考える史家もいる)。

8代将軍足利義政の時代に応仁の乱が起こり、やがて戦国時代に入り、幕府の勢力は衰えた。戦乱の世にあって、天皇・朝廷の勢力も衰えていったが、主に文化・伝統の継承者としての役割は存続していた。

近世

織田信長、豊臣秀吉も天皇の存在や権威を否定せず、政治に利用することによって自らの権威を高めていった。江戸幕府のもとでも天皇の権威は温存されたが、「天子諸芸能ノ事、第一御学問也」とする禁中並公家諸法度が定められ、朝廷の立場は大きく制約されることになった。紫衣事件などにみられるように、年号の勅定などを僅かな例外として政治権力はほとんどなかった。

幕府が学問に儒学の朱子学を採用したことから、覇者である徳川家より「みかど」が正当な支配者であるという尊王論が水戸徳川家(水戸藩)を中心として盛んになった。

尊皇攘夷論

江戸時代末になると尊皇攘夷論が興り、天皇は討幕運動の中心にまつりあげられた。尊王攘夷論は、天皇を中心とした政治体制を築き、対外的に独立を保とうという政治思想となり、幕末の政治状況を大きく揺るがせた。吉田松陰の唱えた一君万民思想は擬似的な平等思想であり、幕府の権威を否定するイデオロギーともなった。しかし、尊皇攘夷派の志士の一部は天皇を「玉」(ぎょく)と呼び、政権を取るために利用する道具だと認識していた。

明治維新

江戸幕府が倒れ、明治の新政府は王政復古で太政官制を復活させた。なお、真の統治者が将軍ではなく天皇である事を知らしめるため、当時、九州鎮撫総監が〝将軍はいろいろ変わったが、天子様は変わらず血統も絶えずに存在する〝という趣旨の文書を民衆に配布している。京都府もやはり天皇支配を周知すべく告諭を行なっている。更に新政府は行幸をたびたび行なった。

ヨーロッパに対抗する独立国家を創出するため、明治政府による中央集権体制が創られた。明治政府は不平を持つ士族の反乱や自由民権運動への対応の中から、議会制度の必要性を認識していった。日本の近代化のためにも、国民の政治への関与を一定程度認めることは必要であり、近代的な国家体制が模索された。モデルになると考えられたのは、ヨーロッパの立憲君主国であった。

憲法下の天皇制

大日本帝国憲法

大日本帝国憲法はプロイセン王国やベルギー王国の憲法を参考に作成されたと言われている。伊藤博文は、ヨーロッパでは議会制度も含む政治体制を支える国民統合の基礎に宗教(キリスト教)があることを知り、宗教に替わりうる「機軸」(精神的支柱)として天皇に期待した。

天皇の地位

大日本帝国憲法第1条で、「大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」、第3条で「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と定められており、第4条で「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リテ之ヲ行フ」と、日本国憲法とは異なり明確に「元首」と規定されていた。

天皇の大権

大日本帝国憲法においては、天皇は以下のように記されていた。

元首で統治権を総攬する。

陸海軍(=軍隊)を統帥する。

帝国議会の協賛を以って立法権を行う。

国務大臣によって輔弼される。

司法権はその名において法律により裁判所が行う。

立憲君主制

機務六条の締結と大日本帝国憲法の制定により、日本は立憲君主制になったとされる。大日本帝国憲法を起草した伊藤博文も、天皇に絶対君主の役割を期待するようなことはなかった。法文を素直に解釈すると、〝万世一系の天皇之を統治す〝、〝神聖にして侵すべからず〝など、大日本帝国憲法においての天皇は大きな権力を持っていたように読めるが、明治以降も、天皇が直接命令して政治を行うことはあまり無く、明治憲法制定後も当初は、藩閥政府が天皇の権威の下に政治を行っていたのが、後には議会との妥協を試みるようになった。この点について「君臨すれども統治せず」という原則をとる現代の日本やイギリスなどの近代的立憲主義とほぼ同じであったという意見がある。

一方、統帥権をはじめとした軍について、議会、内閣の関与が受けられない他、議会の関与を受けない枢密院の力が巨大であること、憲法上にない元老、内大臣が天皇の権威によって、政治に介入できるほか、解釈上法律で基本的人権を無制限に侵害することが可能とも読める(留保を定めた「臣民の義務に反せず法に定める範囲内で」の文言が各所にある)ため、憲法学者の間では外見的立憲主義でしかないとする意見が通説である[要出典]。

統帥権

衆議院において政府に反対する勢力が多くを占めることを予想して、貴族院に衆議院と同等の権限を持たせている。

実際に政治を運営するのは、天皇でなく元老や内閣(藩閥政府)の各大臣である。行政権は国務大臣の輔弼により天皇が自ら行うものとされた。大日本帝国憲法では、内閣の大臣は天皇を輔弼するもの(総理大臣も他の大臣と同格)と規定された。しかし、最終的な政治決断を下すのは誰か、という点は曖昧にされていた。対外的には、天皇は元首であるが実際の為政者は内閣としていた。内閣は憲法ではなく内閣官制で規定されており、内閣総理大臣は国務大臣の首班ではあるものの憲法上は対等な地位であった。

この憲法構造が昭和に入ってから野党や軍部に利用され、「軍の統帥権は天皇にあるのだから政府の方針に従う必要は無い」と憲法を拡大解釈して軍が大きな政治的影響力を持つこととなったといわれる(権力の二重構造、統帥権干犯問題)。軍が天皇を担いでクーデターを起こしても、政府がこれを制止鎮圧する術はなかったのである。二・二六事件の際は昭和天皇が、重臣達に「お前達が出来ぬと言うなら朕が直接鎮圧に行く」と述べたため、反乱軍は無条件降伏をしたため、反乱は鎮まった。また、終戦の際、ポツダム宣言の受諾・降伏を決定することが総理大臣に出来ず、天皇の「聖断」を仰ぐ他なかった。しかし、天皇は立憲君主としての立場を自覚していたため、上御一人(最高権力者)であってもこの2例を除いて政治決定を下すことはなかった。こうした政治的主体性の欠如した統治機構を、政治学者の丸山眞男は「無責任の体系」と呼んだ。

なお、明治以降から終戦までの天皇制は、従来の天皇制とは異なる極めて政治的な理由によって、大幅に制度を変えるものであるとして、「絶対主義的天皇制」「近代天皇制」という語が用いられることもある(天皇制ファシズム参照)。

日本国憲法

日本国憲法第1章が、天皇の地位と国民主権を規定し、日本国憲法第1条が以下の通り定める。

天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く


天皇が「象徴」の地位にあること、また今後もそうあり続けられるか否かは主権のある日本国民の総意に基づいて決定されるという規定であり、象徴天皇および国民主権を規定するものとなっているのである。

第二条~第八条の構成は次のようになっている。

第2条 皇位の継承

第3条 天皇の国事行為に対する内閣の助言と承認

第4条 天皇の権能の限界、天皇の国事行為の委任

第5条 摂政

第6条 天皇の任命権

第7条 天皇の国事行為

第8条 皇室の財産授受

天皇は日本国憲法の定める特定の国事に関する行為のみを行うとされるようになり、国政に直接関与する権能は有しなくなり、また天皇の国事行為は内閣の助言と承認が必要とされ、内閣がその責任を負う、とされている。

「象徴天皇制」も参照

連合国軍最高司令官総司令部は国家の政体の中心に継続して皇室を維持する方針を採り、一方で昭和天皇によるいわゆる「人間宣言」を請け日本国憲法に国家象徴としての天皇(象徴天皇)の地位を導入する方針を指導した。この方針は昭和天皇の各地への行幸や皇太子結婚などのイベントを通して大衆に浸透し、一定の支持を得るに至った。この大衆の支持を基盤にした戦後の皇室制を松下圭一は大衆天皇制と評した。

憲法学会の学説では日本国憲法下の現行体制を立憲君主制とは捉えず、また天皇は元首ではないとする説と、実質的に元首であるという見解を示す説もある(「君主制(君主が元首である)」と「君主政(君主が執政者である)」では若干意味が違い、「民主政」と「君主政」の両立は有り得ないが、「民主政」と「君主制」は両立され得る)。

日本政府の公式見解(法制局の見解)は以下の通りである。

1973年(昭和48年)6月28日参議院内閣委員会、吉國一郎内閣法制局長官答弁「日本は近代的な意味の憲法を持っているし、憲法に従って政治を行う国家である以上、立憲君主制と言って差し支えないが、ただし明治憲法におけるような統治権の総攬者としての天皇をいただくような立憲君主制ではないことは明らかである」と述べた。

1975年(昭和50年)3月18日、衆議院・内閣委員会において、政府委員の角田礼次郎(内閣法制局第一部長)は、質問に答える形で、旧憲法下の天皇と現在の憲法のもとにおける天皇の権能・地位は非常な違いがあると認め、大きな違い(の一番目)は、現憲法のもとにおける天皇は、第一条に明記されているがごとく、日本国の象徴であり日本国民の象徴であって、一口で言えば非政治的な地位にいることだと思う、とし、第二に、現在の(=現憲法下の)天皇は(旧憲法下では初めから地位を持っていた、とされていたのに対して)、やはり第一条に明記されているごとく、その地位が、主権の存ずる日本国民[注 1]の総意に基づくことだと思う、と述べた。

1988年10月11日参議院内閣委員会、大出峻郎内閣法制局第一部長答弁。(天皇は元首なのか?そうでないのか?といった主旨の問いに対し)『現行憲法(=日本国憲法)においては元首とは何かを定めてはおらず、元首の概念は学問上・法学上いろいろな考え方があるようなので、天皇が元首かどうかは、要は定義次第であると考えている。〝元首〝の定義として、外交のすべてを通じて国を代表し(かつ)行政権を把握しているとする定義を採用するならば、現行憲法においては天皇は元首ではないということになると思う。しかし、現代には「実質的な国家統治の大権を持っていなくても、国家においていわゆるヘッド(頭)の地位にある者を〝元首〝と見る」とする見解もあり、そのような定義を採用するならば、天皇は国の象徴であり外交関係では国を代表する面も持っているので、(その場合は)「元首」と言ってもさしつかえないというふうに考えている。』『憲法7条9号の「外国の大使および公使を接受すること」というのは、国事行為として、日本に駐在するために派遣される外国の大使・公使を接受するのであるから、この点では、形式的・儀礼的ではあるが天皇が国を代表する面を有している。それに対して、全権委任状あるいは日本の大使・公使の信任状を発出するのはもともと内閣の権限に属することであり、天皇はあくまでこれを認証するだけである。また批准書、その他の外交文書の作成も、内閣の権限に属することであり、天皇はこれを認証するだけである。そういう意味において、外交関係において国を代表する面を有しているとは言いにくいのではないかと理解している』

アメリカ・中央情報局の『ザ・ワールド・ファクトブック』では、日本の「Government type(政府・統治のタイプ)」としては「a parliamentary government with a constitutional monarchy」とし、「chief of state」としては 「Emperor AKIHITO (since 7 January 1989)」としている。諸外国は一般的に、外交上、日本を天皇を元首とした立憲君主国として扱っている。

天皇制という表現への批判

思想上の理由から、天皇制という語を忌避して「皇室」という表現もよく用いられ、中にはあえて「国体」と表現するケースもみられる。漫画家の小林よしのりは『ゴーマニズム宣言』にて「その由来だけでも使うべきではないが、より本質的に言うと天皇は「制度」として存在しているわけではないから使うべきではない」と批判した。谷沢永一は2001年の著書で「天皇制という呼称は、天皇陛下ならびに皇室を、憎み、貶め、罵るための用語であり、国民としては、伝統に即して、皇室、という呼称を用いるのが妥当であろう」と述べ、また谷沢によると、小説家の司馬遼太郎は「天皇制という語は、えぐいことばであり、悪意がインプットされている」と述べたという。

戦前の論評

「日本の失敗を天皇制のせいだと非難はしても、日本の成功に関して天皇制を褒めることはしなかったのが戦後歴史家たちであるが、これと異なり、明治知識人たちは日本の進歩の功を天皇に帰しはしても、その短所を天皇のせいにはしなかった」という指摘が、明治時代と戦後の天皇制に関する論評の違いについてなされている。

擁護派の意見

「世界最終戦を経て、全人類が天皇を現人神(あらひとがみ)として信仰し、天皇の霊力によって世界を統一するべきである。」(石原莞爾『世界最終戦論』。天皇の世界征服による世界平和の実現)

大日本帝国陸軍参謀であった石原は、「人類が心から現人神(あらひとがみ)の信仰に悟入したところに、王道文明は初めてその真価を発揮する。最終戦争即ち王道・覇道の決勝戦は結局、天皇を信仰するものと然らざるものの決勝戦であり、具体的には天皇が世界の天皇とならせられるか、西洋の大統領が世界の指導者となるかを決定するところの、人類歴史の中で空前絶後の大事件である。」と主張した。「我らの信仰に依れば、人類の思想信仰の統一は結局人類が日本国体の霊力に目醒めた時初めて達成せられる。更に端的に云えば、現人神(あらひとがみ)たる天皇の御存在が世界統一の霊力である。しかも世界人類をしてこの信仰に達せしむるには日本民族、日本国家の正しき行動なくしては空想に終る。」とも主張した。つまり武力など外道を以ってしては世界中が天皇を尊崇するようにはならない、と述べたのである。

谷沢永一によれば、戦前「天皇制」という言葉は、ごく少数がひそかに使用する以外まったく日本国民に知られておらず、この言葉は日本製ではなく大正12年(1923年)3月15日ソ連共産党が指導するコミンテルンから日本共産党にもたらしたもので、天皇制打倒、天皇制廃止を専一にめざす、天皇と皇室を憎みおとしめ呪う造語であり、戦後になって、日本国民は「天皇制」という言葉を「赤旗」(昭和25年10月20日)により初めて知り、これと呼応するように「民主主義と天皇制はあいいれない」なる議論が発生したとする。

保守派の中西輝政は、ソ連が「天皇制」の廃止に強い執着を見せたのは、1927年のコミンテルンの日本共産党への指令(27年テーゼ)以来、一貫していた「日本革命」を可能にする唯一の道は、ロシアと同様「帝制の打倒」がカギだ、という考えからであり、日本がアメリカ陣営に組み込まれても「天皇制」廃止だけは必ず実現させねば、というのがスターリンの執念であった、そこから戦後日本では左翼・左派勢力は一貫して、不自然なほど「反天皇」「反皇室」を叫び続けることになった、とした。

批判派の意見

戦前は国体批判そのものが大逆であったため、その思想は地下に潜伏し日の目を見ないものであったか、あるいは徹底的に弾圧される種類のものであった。憲法論においては機関説などが登場し、思想の趣旨として国体批判を意図するものでは全くないために基礎的な学説になったにもかかわらず、超国家主義などの台頭や政党同士の政争により政界を揺るがす大事件に発展した(天皇機関説事件)。無政府主義の主張は許容されず滝川事件なども発生した。

戦後の論評

第二次世界大戦が終わると、共産主義や近代政治学(前記の丸山眞男ら)の立場などから「天皇制批判」が数多く提議された。1950年代から1960年代には、共産主義者を中心に天皇制廃止論もあった。昭和天皇崩御の際、テレビ朝日の『朝まで生テレビ!』で天皇および「天皇制」の是非について取り上げられた。しかし、これ以降、この問題を積極的に取り上げるマスメディアはほとんどない。

日本共産党は2004年に綱領を改正し、元首化・統治者化を認めないという条件の下、「天皇制」の是非については主権在民の思想に基づき国民が判断すべきである、という趣旨に改めた。

擁護派の意見

「思想取締りの秘密警察は現在なお活動を続けており、反皇室的宣伝を行う共産主義者は容赦なく逮捕する。……さらに共産党員であるものは拘禁を続ける……政府形体の変革、とくに天皇制廃止を主張するものは、すべて共産主義者と考え、治安維持法によって逮捕する」 内務大臣山崎巌、1945年10月

「天皇制の下に他国とは趣の異なったデモクラシーの運用が行われねばならぬ」(安岡正篤・1945年12月)。

「天皇を現人神と仰ぎ奉り皇国を毒する内外一切の勢力を打滅せん事を期す」「大日本帝国憲法の復活」「核武装による皇軍再建」(大日本殉皇会、1961年設立の右翼団体)

「天皇制の下に日本民族の主体性を把握」(治安確立同志会、1952年設立の右翼団体)

「日本の皇室の系図は、まっすぐに神話時代に遡りうる。これは、ギリシャで言えば、アガメムノンの子孫が、ずっと今もギリシャ王であり、イギリスで言えばアルフレッド大王の直系の子孫が、まだ王様である状態に近い感じで、外国人には驚天動地の現実である」(渡部昇一 1990年6月)。

批判派の意見

詳細は「天皇制廃止論」を参照

(坂口安吾・1946年6月)「天皇をたゞの人間に戻すことは現在の日本に於て絶対的に必要」。

(宮本百合子・1949年2月)「天皇制が侵略戦争をはじめた」

菅孝行;天皇制は、天皇という聖、被差別者(ex.部落、障碍者、在日韓国・朝鮮人、女性)という賤という相対立する形で成り立っており、そこからの克服こそが求められている


また、特に昭和天皇に関しては第二次世界大戦当時、日本軍の最高指揮権を有していたにもかかわらず、敗戦後にナチス系の勢力を徹底的に追放したドイツや君主制を廃止したイタリアとは違い、軍事裁判でA級戦犯として裁かれることがなかったこともあり左派や諸外国からの批判もあったため、保守派の一部からも昭和天皇退位論が出ていたこともあった。


世論調査

世論調査の推移を見ると、1990年では「今の象徴天皇のままでよい」を回答に選んだ人73%だったとされ、2000年には象徴天皇を支持したのが8割とされ、2002年には「(天皇は)今と同じ象徴でよい」を回答に選んだ人が86%だったとされる。

NHKが2009年10月30日から11月1日に行った世論調査では、「天皇は現在と同じく象徴でよい」が82%、「天皇制は廃止する」が8%、「天皇に政治的権限を与える」が6%となっている

天皇制絶対主義

天皇制絶対主義もしくは絶対主義的天皇制とは、日本近代における近代天皇制の体制を講座派において定義した言葉。

明治維新後の政治体制を、絶対主義とみなし「絶対主義天皇制」と規定したのは、主に唯物史観を取り入れた左派の歴史学者である。この場合、明治維新から第二次世界大戦までの日本の政治体制は絶対主義であり、明治維新はブルジョワ的市民革命ではなく、不十分な改革であったと評価される、社会経済史理論の一形態である。

これに対して、「自由主義史観」では、歴史解釈は「類似」し、「平行」する現象の存在により成立するので、幕府が外交権・貿易権を有した江戸時代がすでに絶対主義体制であったと考えられる、としている。

また、啓蒙君主と比較して論じる者や、明治維新を市民革命と比較する視点もある。



皇太子妃に外交界の大御所は「景虎さん〝カイザー(皇帝)を外交官にしたような男 長尾景虎〝は雅子さまを好きでした」という。

「まあ。」

雅子は八年ぶりの再会で1990年に自衛隊の武装蜂起を呈示して防衛庁の官邸で割腹自殺した〝カイザー(皇帝)を外交官にしたような男 長尾景虎〝(長尾景虎)の過去の愛情をきき、ほっこりとした気分になった。

雅子さんは皇太子妃となり、皇室にはいった。

なかなか子供が産まれなかったがそののち敬宮愛子内親王が産まれた。

秋篠宮さまも紀子さまと結婚して眞子様・佳子様と産まれた。

美智子さまが女の子で、将来は民間に嫁ぐとわかっていて料理や家事などをしこんでいた紀宮清子内親王さまが、民間人の黒田さんと結婚して黒田清子となった。

秋篠宮妃の紀子はのちに世継ぎの悠仁(ひさひと)様を産んだ。

最初は御所風や東京の現代風にこだわり、軋轢はあったが、やがて黒田と清子は仲むずましい夫婦となった。

「わたしは子供が欲しいのです」

清子はおんな心を見せる。旦那さんは「子供を産む事だけがおんなのしあわせではないのです」

「しかし、子供がなければ黒田の家族は滅びまする。…」

「宮さま。わたしはあなたを幸せにしたい。黒田家に嫁いだことを後悔させません」

「…旦那さん。」ふたりは抱擁して泣いた。

それは熱い涙、であった。


清子は「…母上は何故にそんなにお強いのですか? 何故そのようにわらって黒田家に戻れといえるのですか? 夫婦喧嘩は犬も食わない、と。」

「何故? そうですねえ。わたしは強い訳ではない。わたしが強いのは家族を守りたいという天皇陛下さまの心を知っているから。天皇家の家族を守りたい。わたしは守りたい」

「なればこの宮も天皇家の人間。でも、もはや皇居にわたしの居場所はありません!」

「よういった、さーや。これからは、天皇家は修羅の道だが、陛下をわたしは全力で守りたい」

「……母上さま。」

「さーや。」

こうして天皇家の平成の激動が動き出す。

 話を戻す。






美智子(皇后→上皇后)皇后は最期に仏壇の天皇家代々の先祖に祈った。まだ悠仁様が産まれる前である。

………天皇家のみなさま、申し訳ありません。天皇家をおわりにしてしまいました。

すると昭和天皇の霊が見えた。

…なんじゃあ、美智子らしくもない。そちの落ち度ではない。どのような形にせよ、天皇の家は残るのであろう? では、それでよいではないか? 宮城をまくらに討死か? つまらん。つまらん。天皇家のこころを残したい。そちがいるところが天皇家の城なのだ。

ひたむきに生きよ。美智子、わしがいつもみているからな。

……天皇陛下。天皇陛下…。


話を戻す。

大外交官でノーベル平和賞確実といわれていた〝カイザー(皇帝)を外交官にしたような男・長尾景虎〝が皇居に訪ねてきた。

まだ、自決決意前である。

雅子皇太子妃をなつかしい〝カイザー(皇帝)を外交官にしたような男 長尾景虎〝(長尾景虎)が訪ねた。「景虎さん!」

「いえ、いまは〝カイザー(皇帝)を外交官にしたような男 長尾景虎〝と申します」

「まあ、カイザー……皇帝??」

景虎は左脚が不自由になっていた。またチェスをする。

長尾は「昔のことなので…」「なんでしょう?」「いや。やめときます。」

「…まあ。」「いや! やはり、申します! じつはわたくしはあなたさまをお慕いしていたのです!」

「……知っていました。外交界の大御所にききました。驚きました」

「では、それを御知りの上で…もし?」

「もし?」

「もし、皇太子さまとのご縁談がなければ…わたくしと一緒になっていましたか?」

「…それをきいて?」

「私のあの頃の気持ちにけりをつけたいのです」

雅子は微笑んだまま、

「亡き義祖父、昭和天皇陛下に相談いたします。」

「ずるいなあ、それは」ふたりはにやりとなった。

「しばらくまたあえないのでしょうか?」

「そうですね。まだ外務省のこともあるので」

「わたしの前からどんどん大事な人がいなくなります」

「それは違います! いなくなるのではなく、また会う日までひととき離れるだけです」

雅子はお守りを見せた。長尾景虎もお守りを見せあう。泣く二人。

「次にあうまで元気でいます。」

「…そうですね。」

平成2年(1990)年11月25日、〝カイザー(皇帝)を外交官にしたような男・長尾景虎〝は自衛隊の武装蜂起を叫び防衛長官邸で自決……

雅子は報をきいて号泣する。

…いなくなるのではなく…次にあうまで離れる…だけ…

景虎さん。…景虎さん。

話を戻す。



新日本建設に関する詔書より抜粋


このGHQ主導による詔書により、天皇が神であることが否定された。しかし、天皇と日本国民の祖先が日本神話の神であることを否定していない。歴代天皇の神格も否定していない。神話の神や歴代天皇の崇拝のために天皇が行う神聖な儀式を廃止するわけでもなかった。

名称

この詔書には公用文としての「題名」は付されていない。題名に準ずる「件名」は「新年ニ当リ誓ヲ新ニシテ国運ヲ開カント欲ス国民ハ朕ト心ヲ一ニシテ此ノ大業ヲ成就センコトヲ庶幾フ」(官報目録)及び「新年ヲ迎フルニ際シ明治天皇ノ五箇条ノ御誓文ノ御趣旨ニ則リ官民挙ゲテ平和主義ニ徹シ、新日本ノ建設方」(法令全書)と2度にわたり付与されている。しかし、ともに冗長で引用に不便であるため、天皇自身の神格や優れた日本民族が世界を支配する旨を否定する詔書後半部に着目した通称として、学術・教育(教科書)・報道等の場で「人間宣言」、「天皇人間宣言」、「神格否定宣言」などが用いられる。国立国会図書館においても「人間宣言」の名称で所蔵されている。

一方、昭和天皇が詔書の主目的としている五箇条の御誓文を前半部で引用しており、また、詔書全体の文意としては神格等否定を踏まえつつも終戦後の新日本国家の建設を国民に呼びかけたものである。そのため、特定部分に依拠しない通称として、「新日本建設に関する詔書」、「年頭、国運振興ノ詔書」などを用いる例もある。国立公文書館では、片仮名の「新日本建設ニ関スル詔書」の名称で所蔵されている。

(註)法令・公用文における「題名」は、固有の名称としての性格を有し、その改題には正式な改正手続を要するため、引用時に片仮名を平仮名に置換するなど引用側が任意に改変することは認められない(旧字体の新字体置換のみ可能である)。一方、「件名」は、他の公用文において用いる便宜上の名称であって、正式な改称手続自体がないため、引用側において字体のみならず片仮名←→平仮名、文語体←→口語体などの置換が許容される。

起草の経緯

ポツダム宣言受諾による終敗から4か月余、日本は大日本帝国憲法の施行下にあった。

1945年(昭和20年)12月15日、GHQの民間情報教育局 (CIES) 宗教課は、国家が神道を支援・監督・普及することを禁止する「神道指令」を発した。さらに、天皇は他国の元首より秀でた存在で、日本人は他の国民よりまさっている、といった教説を教えることを非合法化した。しかし、天皇が皇居で執り行う宗教儀式(宮中祭祀)は私的な事柄とされて、禁じられなかった。占領当局は天皇自身で自分の神格を否定してほしいと期待したため、神道指令では天皇の神格について言及しなかった。自分を神と主張したことのない昭和天皇は、占領当局の意向に同意した。

宮内省は、学習院の英語教師・レジナルド・ブライスに、占領当局が納得するような案文を練るよう依頼した。ブライスはGHQの教育課長で俳句の造詣が深かったハロルド・ヘンダーソンに相談し、ふたりは人間宣言の案文を作成した。

12月23日、昭和天皇は、木下道雄侍従次長に対し、前日進講した板沢武雄・学習院教授の講義の内容について語った。板沢の講義は「マッカーサー司令部の神道に関する指令について」と題するもので、昭和天皇が語ったところによれば、最後の結びの言葉は「この司令部の指令は、顕語を以て幽事を取り扱うものでありまして、譬えて申しますならば、鋏を以て煙を切るようなものと私は考えております」というものだった。また、昭和天皇は、興味を引いた点について、「後水尾帝御病にて疚(きゅう)の必要ありしも、現神には疚を差上ぐる訳には行かぬと云う所から御譲位の上、治療を受け給いしこと」、「徳川氏が家康を東照宮と神格化し、家康の定めたることは何事によらず神君の所定となし、改革を行わず、時のよろしきに従う政事を行わず、遂に破局に至りしこと」、「幽顕二界のこと。謡曲の発達、君臣の濃情を言い現わせる謡曲はかえって皇室衰微の時代に発達せること。顕界破れて幽界現われたること」の3点を挙げた。また、天皇は、23日にマッカーサー司令部の高級幕僚たちと鴨猟を行う予定であった石渡荘太郎・宮内大臣に命じて、板沢の話を高級幕僚たちにも聞かせようと考えたが、石渡がすでに鴨場へ出発していたため断念した。

12月24日、昭和天皇は幣原喜重郎・内閣総理大臣を召して、「ご病気の後水尾天皇が側近に医者を要請されたところ、医者の如き者が玉体にふれることは、汚らわしいとの理由でおみせしなかったそうだ。同天皇はみすみす病気が悪化して亡くなられた」という歴史的実例を挙げて、神格化の是非について暗示した。また、昭和天皇は、明治天皇の五箇条の御誓文を活用したいとも話した。これに対し幣原は「これまで陛下を神格化扱いしたことを、この際是正し改めたいと存じます」と答え、昭和天皇は静かに肯定し「昭和21年の新春には一つそういう意味の詔書を出したいものだ」と言った。

12月25日、昭和天皇は、拝謁した木下侍従次長に対し、「木下は昨日留守なりしが、大臣(石渡宮内大臣)より大詔渙発のことは、幣原がこれは国務につき是非内閣に御任せを願うとの希望を聞き、幣原を呼び、これを伝えた。Mac(マッカーサー司令部)の方では内閣の手を経ることを希望せぬ様だ。これは一つには外界に洩れるのを恐れる為ならん」と語った。

12月25日以降、幣原自身が前田案をもとに英文で原案を作成し、秘書官に邦訳を命じた。推敲は前田多門文相、次田大三郎書記官長、楢橋渡法制局長官等で行った。過労の幣原に代わり、前田文相が天皇に会い、天皇から「五箇条の御誓文」付加の要請を受ける。マッカーサーにも案文を示す。

12月29日、木下道雄侍従次長は原案に手を入れて別案を作り、石渡宮相・前田文相に示した。別案は天皇が神の末裔であることを否定するものでなく、「現御神」であることを否定するものであった。

12月30日、木下は石渡が手を入れた木下案を次田に渡し、閣議で検討された。同日午後4時30分、岩倉書記官が閣議案を木下の元に持参した。木下は更に手を入れ、天皇に中間報告を行い、閣議に戻した。5時30分、前田文相が天皇に会い、文案の許可を得た。午後9時、正式書類が整い、完成した。

12月31日、幣原の意を受けて前田文相は木下侍従次長を訪問し、マッカーサーに案文を示した天皇が神の末裔であることを否定する内容の復元を求めた。木下は侍従長とともにこれに同意し、天皇に報告した。天皇も天皇が神の末裔であることを否定する内容への変更の許可を与えた。また、天皇は、首相がマッカーサーとの信義を重んじて詔書の修正を願い出たことについて、嘉賞の言葉を与えた。

しかし、日本語で発表されたものは天皇が神の末裔であることを明確に否定したものではなく、「現御神」(現人神)であることを否定するものであった。これに対し、原案の英文は「the Emperor is divine」を否定するものであった。ただし「divine」は王権神授説などで用いられる「神」の概念である。

英文の詔書は2005年(平成17年)に発見され、2006年(平成18年)1月1日の毎日新聞で発表された。渡辺治は同紙に以下のコメントを寄せている。

資料は、草案から詔書まで一連の流れが比較検討でき、大変貴重だ。詔書は文節ごとのつながりが悪く主題が分かりにくいが、草案は天皇の神格否定が主眼と分かる。草案に日本側が前後を入れ替えたり、新たに加えたりしたためだろう。


渡辺治(一橋大学大学院教授・政治史)、毎日新聞2006年1月1日付


社会的影響

この詔書は、日本国外では天皇が神から人間に歴史的な変容を遂げたとして歓迎された。退位と追訴を要求されていた昭和天皇の印象も好転した。しかし、日本人にとって当たり前のことを述べたにすぎなかったため、日本ではこの詔書がセンセーションを巻き起こすようなことはなかった。

1946年1月1日、この詔書は新聞各紙の第一面で報道された。朝日新聞の見出しは、「年頭、国運振興の詔書渙発(かんぱつ) 平和に徹し民生向上、思想の混乱を御軫念(ごしんねん)」だった。毎日新聞は、「新年に詔書を賜ふ 紐帯は信頼と敬愛、朕、国民と供にあり」だった。新聞の見出しでは神格について触れておらず、日本の平和や天皇は国民と共にあるといったことを報道するのみだった。天皇の神格否定はニュースとしての価値が全くなかったのである。

詔書の起草に関わった人物の見解

昭和天皇

昭和天皇は、公的に一度も主張しなかった神格を放棄することに反対ではなかった。しかし、天皇の神聖な地位のよりどころは日本神話の神の子孫であるということを否定するつもりもなかった。昭和天皇は自分が神の子孫であることを否定した文章を削除した。さらに、五箇条の誓文を追加して、戦後民主主義は日本に元からある五箇条の誓文に基づくものであることを明確にした。これにより、人間宣言に肯定的な意義を盛り込んだ。1977年の記者会見にて、昭和天皇は、神格の放棄はあくまで二の次で、本来の目的は日本の民主主義が外国から持ち込まれた概念ではないことを示すことだと述べた。

詔書草案と五箇条の誓文

昭和天皇は、1977年8月23日の会見で記者の質問に対し、GHQの詔書草案があったことについて、「今、批判的な意見を述べる時期ではないと思います」と答えた。

また、詔書のはじめに五箇条の誓文が引用されたことについて、以下のような発言をした。

それが実は、あの詔書の一番の目的であって、神格とかそういうことは二の問題でした。当時はアメリカその他諸外国の勢力が強く、日本が圧倒される心配があったので、民主主義を採用されたのは明治天皇であって、日本の民主主義は決して輸入のものではないということを示す必要があった。日本の国民が誇りを忘れては非常に具合が悪いと思って、誇りを忘れさせないためにあの宣言を考えたのです。はじめの案では、五箇條ノ御誓文は日本人ならだれでも知っているので、あんまり詳しく入れる必要はないと思ったが、幣原総理を通じてマッカーサー元帥に示したところ、マ元帥が非常に称賛され、全文を発表してもらいたいと希望されたので、国民及び外国に示すことにしました。


昭和天皇、1977年8月23日の会見


この発言により、この詔書がGHQ主導によるものか、昭和天皇主導によるものかという激しい議論が研究者の間で起こった。その後の1990年に前掲の『側近日誌』が刊行され、GHQ主導によるものとしてほぼ決着した。

また、昭和天皇が1977年になって詔書の目的について発言したのは、人間宣言をした昭和天皇を厳しく非難し、1970年に自決した三島由紀夫へ意を及ぼしたためではないかとする指摘がある。

侍従長・藤田尚徳

当時、侍従長であった藤田尚徳は英語で起草された文を和訳した経緯もあり風変わりな詔書となったが、昭和天皇の真意を示すことができたと述べている。また藤田は、明治維新と個性有る明治天皇の登場により明治以降天皇は人間として尊敬されていたが、大正末期から天皇の神格化が行われるようになり、昭和天皇はこれを嫌っていたという見解を示している。

文部大臣・前田多門

文部大臣・前田多門は、学習院院長・山梨勝之進と総理大臣・幣原喜重郎とともに、人間宣言の案文に目を通し、吟味した日本の要人である。また、クェーカー教(プロテスタントのフレンド派)の信徒であり、多くの日本人クリスチャンと同様に天皇を尊崇していた人物である。1945年(昭和20年)12月、天皇は神であると、議会の質疑応答で答弁した。西欧的な概念の神ではないが、「日本の伝統的な概念で、この世の最高位にあるという意味で」は神である、と答えている。

当時の人物の見解

山本七平

終戦後フィリピンで米軍の捕虜になった山本七平らの日本軍将兵に対し、米軍軍人は熱心に進化論の基本概念を教育しようとした。日本人捕虜たちが一向に反発も感銘も示さないことを不思議に思う米軍軍人に対して、山本が「そんなことは日本では子供でも知っている」と言ったところ、その米軍軍人は驚いて「ではなぜ日本人は天皇が神の子孫だと信じているのか?」と反駁したという。

このすれ違いについて山本は、アメリカでのキリスト教根本主義と進歩派の創造論を巡る対立や、東アジアの「父子相隠」の倫理観が根底にあると考察する。さらに「『戦前の日本人が神話を事実と信じていた』という〝神話〝を戦後の日本人は信じている」と述べる。

また、外来の概念を、自文化の似て異なる概念の意味で理解した気になることや、その逆に「元々わが国にあったものだ」として受容させようとする〝掘り起こし共鳴現象〝についても言及している。

三島由紀夫

三島由紀夫は、「僕は、新憲法で天皇が象徴だということを否定しているわけではないのですよ。僕は新憲法まで天皇がお待ちになれず、人間宣言が出たということを残念に思っているのです。いかなる強制があろうとも」と述べている。また、小説『英霊の聲』では、二・二六事件で処刑された青年将校たちや、神風特攻隊で戦死した兵士たちの霊に、「などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし」、「もしすぎし世が架空であり、今の世が現実であるならば、死したる者のため、何ゆゑ陛下ただ御一人は、辛く苦しき架空を護らせ玉はざりしか」、「あの暗い世に、一つかみの老臣どものほかには友とてなく、たつたお孤(ひと)りで、あらゆる辛苦をお忍びになりつつ、陛下は人間であらせられた。清らかに、小さく光る人間であらせられた。それはよい。誰が陛下をお咎めすることができよう。だが、昭和の歴史においてただ二度だけ、陛下は神であらせられるべきだつた。何と云はうか、人間としての義務(つとめ)において、神であらせられるべきだつた。この二度だけは、陛下は人間であらせられるその深度のきはみにおいて、正に、神であらせられるべきだつた」と語らせている。

戦後の論説

大原康男と伊藤陽夫の疑義

昭和天皇による神話と伝説の否定、天皇の人間宣言という解釈については、神道界や右派勢力の一部から疑義が提出されている。

大原康男は「日本語の「且」には並列的意味のほかに「その上に」という添加的な意味もある」ことを指摘し、「その上に」という意味にとれば、「架空ナル観念」とされたのは、「天皇ヲ以テ現御神トシ」ということ自体ではなく、それに「日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ス」ということが加えられたことと解釈できると述べている。同様のことは、伊藤陽夫も「動ぎなき天皇国日本」(展転社)で主張している。

大辞林は、「且つ」(接続詞)の語義を、「二つの動作・状態が並行あるいは添加して行なわれることを示す。同時に。また。その上。」と説明している。

当時の侍従次長の木下道雄の『側近日記』には、GHQが天皇が神の末裔であることを否定することを要求したのに対して、天皇が「現御神」であることを「架空なること」とすることで切り抜けたことが自慢げに書かれている。『国体の本義』(1937年)などで主張した「現御神」(現人神)を否定したのである(天皇を現御神とすることは古事記・日本書紀に始まることであって『国体の本義』によるものではないが、明治以降の公文書に「現御神」(現人神)が最初に登場したのは「国体の本義」であった。)。

また、大原康男は、皇室では元旦の宮中祭祀のために通例は詔書が出されなかった事を指摘し、さらにこの詔書はGHQによるものであることを検証し、日本人の神観念・天皇観を根底から変革した「人間宣言」の無効を主張している。

小林よしのり

小林よしのりは、GHQが人間宣言を薦めた理由は日本人は天皇を「絶対神」と信じていると誤解したためであるとしている。

漢字の「神」を英訳すると「GOD」となる。しかし日本語(やまとことば)の「カミ」・シナ語の「神(しん)」・西洋の「GOD」は全て違う意味なのだが日本人は十分の自覚も無く三つ全てを「神」と表記する。かつてフランシスコ・ザビエルらのポルトガルの宣教師は「DEUS」を「デウス」で通した。この時代では「DEUS」と「カミ」は違うものであると理解して、この様に通したがシナではアメリカの宣教師が「GOD」を「神(しん)」と訳したが「神(しん)」の意味は自然界の不思議な力を持つ物や心などを表す文字なので「GOD」の意味合いは無いので、いわゆる誤訳である。その後明治時代になり、アメリカの宣教師が来日する様になるとシナ同様、「GOD」を「神(しん)」と訳し日本人も古代からの「カミ」を「神」という字を当ててきたので、明治辺りから「カミ」と「GOD」の混合が始まりGHQは、この混合から日本人は天皇を「GOD」(絶対神)だと信じていると誤解したために昭和天皇に人間宣言をさせたが、それをあえて言うなら「漫画の神様」手塚治虫や「経営の神様」松下幸之助に「人間宣言」をさせるような滑稽な行為であるとしている。また天皇は昔も今も「アキツミカミ」であるが西欧流の「GOD」(絶対神)では決して無いとしている。また天皇に対する伝統的な「アキツミカミ」の概念は手塚治虫を「漫画の神様」・松下幸之助を「経営の神様」・サッカーのゴールキーパーや野球の抑え投手を「守護神」と呼ぶ様に生理的には人間でも、とてつもなく貴重な人を「神様」と呼ぶ、日本人が思わずやっている伝統的な習慣と同じようなものとしている。また日本人の、こういう感覚は一神教しか知らない欧米人には理解が困難としている。

参考文献

藤田尚徳『侍従長の回想』中央公論社〈中公文庫〉、1987年。ISBN 4122014239。

ベン・アミー・シロニー(著) Ben‐Ami Shillony(原著)『母なる天皇―女性的君主制の過去・現在・未来』大谷堅志郎 (翻訳)、講談社、2003年01月。ISBN 978-4062116756。

小林よしのり『天皇論』主張などウィキペディア参照


概要

『ゴーマニズム宣言スペシャル・天皇論』の続編にあたる。より正確には『天皇論』の最終章の続編と言うべき内容となっており、皇位継承問題に関する小林の主張が内容の大半を占める。その点に注力するあまりに資料の曲解や理性万能主義の驕りという観点からの批判も多い。

主張

『ゴーマニズム宣言スペシャル・天皇論』及び関連作品である『皇后論』より引き続いて、また『WiLL』に連載の『本家ゴーマニズム宣言』などと連携して皇位継承問題について女系天皇を容認し、男系維持論者を批判して旧皇族皇籍復帰論に反対している。これらは『天皇論』においての女系天皇反対派からの批判に対しての反論である。容貌の醜悪なカリカチュア化も見られ、男系維持論者の「Y染色体による男系の維持」論について人類の祖とされるラミダス猿人の化石「アルディ」が女性であることから、歴代天皇を醜悪な猿人の姿に戯画化されたアルディのすぐ前に直接の子孫であるかのように描き「アルディが天照大神だったとでも言うのか」と叫ぶ描写がある。男系維持論者・支持者に対しては「男系絶対主義者」後には「男系固執主義者」とし、また男系論者を「皇室論の専門家ではない」と発言。男系維持論者の中でもY染色体論者は少数にもかかわらず、男系維持論者=Y染色体論者などと決め付けた発言もしている。個々の論者に対しても廃太子論などを唱える橋本明、西尾幹二らについて「シナ病」「人でなし」「日本の国情にそぐわない易姓革命を唱えている」などと批判、肖像をゴミあさりや蛸の姿に戯画化し「批判はやっかみである」と発言(ただし一方で竹田恒泰らに対する小林の「ゴミあさり」はそれらをはるかに超えた讒謗である)、小堀桂一郎を「男系派の大ボス」と称するなどしている。このほか「女系になったら腹を切って自害するのか」との発言もあり、著者は「天皇は男系でも女系でも問題ない!」とし、直系優先、女系容認であると主張するが、実際には女系推進の立場に立つと判断できる。『SAPIO』2010年5月12日号以降は今上天皇はじめ、公的機関に公認されたわけでもないのに「女系公認」の語を唱えている。又、女性天皇には、「生涯ご結婚の禁止、御懐妊の禁止」という不文の法があることにも触れていない。

天皇・皇族発言の引用

自説を主張・補強するに際して権威付けを行うことも多く天壌無窮の神勅を持ち出し女系への支持を訴えたり、昭和天皇、今上天皇をはじめ天皇・皇后の発言を要所で部分的に引用することが多い。引用の際には発言意図を憶測し「女系容認に賛同している」と解釈、「大御心が女系容認だったらどうするのだ」(『SAPIO』2009年12月16日号)など反対者を威嚇することも多く、大御心が女系容認拒否である可能性については全く述べておらず、皇室問題を巡る小林の論敵側の一部からは、天皇を恫喝又は侮辱していると唱える声もある。皇太子徳仁親王、秋篠宮文仁親王ら皇族の発言について女系容認論者の推測による解釈のみを載せて論の補強に用いることも行っている(『SAPIO』2010年3月10日号ほか)。

その一方で男系派と看做した皇族へは三笠宮家に対して「親子2代で天皇陛下に心配をかけた」といった趣旨の中傷を行うなど攻撃対象にし旧皇族の男系子孫の代表的人物である竹田恒泰に対しては言動、行動を批判するほか「竹田から小林へ送られたメール」の内容についても触れ人格攻撃としか採りようにない讒謗に終始している。

『SAPIO』2010年5月12日号において昭和天皇が香淳皇后との間に結婚後9年間4人続けて女児が誕生した際、側室を拒否し香淳皇后には「男児が生まれなくとも皇位は弟宮が継げばいいと仰った」と主張しているがこの大御心を現在に当て嵌めると皇太子徳仁親王、秋篠宮文仁親王、悠仁親王の現行の皇室典範に定める皇位継承順序となる。

旧皇族復帰の否定

旧皇族の皇籍復帰については「血が遠い」「400年も遡らなければ天皇に繋がらない」として否定する。否定されるべき代表例として竹田について「父の代から平民」(『SAPIO』2010年5月12日号)と唱えているが、第60代の醍醐天皇が、源姓を賜り臣籍降下した実父・宇多帝の子として臣下の身分に生まれながら皇籍に列したことには全く触れていない。そればかりか皇族の四辻善成が同じく源姓を賜り臣籍降下した後、皇族に戻れなかったという自説に都合のいい事例のみを根拠とし、改めて旧皇族復帰の否定を主張した。また伏見宮流を天皇家との血縁が薄いために軽んじられ、皇籍離脱になって当然であるという描写を行い同家を貶めている。『SAPIO』2010年3月31日号では香淳皇后を侮辱している。男系皇族としては小林の云う通り旧皇族は「血が遠い」が、孝明天皇は伏見宮に譲位を提案されたことがあるし(正確には伏見宮と有栖川宮)、明治天皇は皇子がのちの大正天皇お一人だったということで、いざというときのために永世皇族を強く望まれ、皇女4人を伏見宮系の宮家に嫁がせになられた等の歴史的事実についても触れていない。竹田宮家・朝香宮家・北白川宮家・東久邇宮家は明治天皇の皇女である常宮昌子内親王(竹田宮恒久王妃)・周宮房子内親王(北白川宮成久王妃)・富美宮允子内親王(朝香宮鳩彦王妃)・泰宮聡子内親王(東久邇宮稔彦王妃)が嫁いだ宮家であり、明治天皇の子孫であり女系男子に当たる。東久邇宮家は昭和天皇の第1皇女の照宮成子内親王(東久邇宮盛厚王妃)が嫁いだ宮家で東久邇信彦は昭和天皇の初孫として誕生した皇族で女系の男子に当たる。この事から男系皇族の三笠宮家より「血が近い」血縁者となる。女系賛成の立場なら明治天皇と昭和天皇の女系男子も認めるはずだが、認めていない。

伝統の否定・曲解

皇室が初代神武天皇から125代今上天皇まですべて男系による継承がなされたことについて日本独自の伝統とは捉えず、中国・朝鮮の家族制度を十分に日本化せず不十分に模倣した「因習」に過ぎないと述べている。更に、儒教に立脚した男系文化が日本に浸透した時期を7世紀であると断言している。なお、中国では易姓革命・王朝交代が何度も起きている。他方、小林は自著の『ゴーマニズム宣言スペシャル・昭和天皇論』の後半で、第38代の天智天皇の治世を描いた中で、即位前の天智帝と実母である斉明天皇が指揮した白村江の戦いを、華夷秩序に対抗するための予防的先制攻撃と位置付け、天智帝の実弟・大海人皇子(後の天武帝)も同様の認識だったと述べている。なお、現実に日本においては律令こそ浸透したものの、科挙や宦官、同姓不婚の原則は定着せず、第40代の天武天皇には天智天皇の娘、持統天皇、大田皇女など4女が嫁いでいる、とされている。この歴史的背景を念頭に入れると、これまでの慣習だった近親婚は以前よりも深く浸透していた可能性があるため、小林の発言にはブレがあるとも解釈できる。

偏向

女系を認めれば皇位の安定的継承が保障されるかのような言辞を多用し今上天皇の孫・曾孫世代における男子皇族の誕生の可能性は描かず、「将来皇族がいなくなってしまう」と唱える。皇后美智子・皇太子妃雅子がバッシングを受けた事例を挙げ悠仁親王が妃を見つけることの困難さを繰り返し主張する一方、皇籍にとどまる皇族女子、特に愛子内親王が女性皇太子となった場合の配偶者を見つけることの困難さについては全く言及していない。旧皇族の皇籍復帰について「民間に生まれ育った一般人を皇族とする」と批判している一方、女系容認論が「民間で生まれ育った一般人を皇族女子の婿とし皇族とする」制度であることについては全く述べていない。歴史的に女子が皇太子になった事実があると主張しているが天皇の弟が皇太子になった例が多数あることは全く述べていない。ちなみに皇室はこれまで125代のうちで皇位が親→子と継承(直系継承)されたのが66例、兄弟継承が27例、女性天皇は10代8人、女性皇太子は孝謙天皇の1例のみで孝謙天皇は生涯独身であった。女系天皇は史上例がなくすべて男系による継承がなされた。当時の天皇や上皇が直系継承にこだわった結果保元の乱、南北朝の分裂が勃発したことにも触れていない。『SAPIO』2010年5月12日号においては「皇室典範を改正すれば愛子内親王にも皇位継承権はある」と唱え、内親王の皇位継承を主張している。同号においては、「男性は欠陥品」との、差別発言ともとれる主張も行っている。女系容認後の皇位継承順序については、「直系優先・兄弟姉妹間長子優先」を支持し「直系優先・兄弟姉妹間男子優先」(高森明勅などの主張)には反対している。現在の皇位継承順序を変更しない「男系男子優先」については全く言及していない。

日本神話、神道について

天照大神は女性神である、ならば日本の天皇は女系だったと考えることもできると主張している(『ゴーマニズム宣言スペシャル・天皇論』)。『日本書紀』においては神武天皇以前を神代、以後を人代としている。皇祖神が女神であることと初代神武天皇から第125代の今上天皇まですべて男系による継承がなされたことは同時に成立する概念であるが、神武天皇以降の男系継承の伝統を主張することは「神話と歴史の分断工作」と批判している。

また神社本庁が女系容認に反対しているのは寛仁親王の影響下にあるためと主張しているが、「皇室典範改正問題に関する神社本庁の基本見解」の内容には触れていない。また、神道が天照大神を祀る伊勢の神宮大麻を最も尊ぶ教えであることについては全く述べていない。

秋篠宮家について

『SAPIO』2010年6月9日号で、秋篠宮文仁親王は天皇になるための教育を受けていないと主張。また、秋篠宮文仁親王は高齢での即位が予想され、「例えば80歳の天皇誕生ということになった時、国民の天皇への関心や求心力は保たれるだろうか」と主張。また、秋篠宮文仁親王の在位期間は短いことが予想され、元号が短期間で変わってしまうと主張。また、皇太子徳仁親王が即位した時点で皇太子が空位になることを指摘し、現行の皇室典範に定める、皇太子徳仁親王から秋篠宮文仁親王への皇位継承を批判している。昭和天皇即位(1926年12月25日)から今上天皇(天皇→上皇)の立太子の礼(1952年11月10日)までの期間、皇太子が空位であったことや、大正が14年数か月であったことは全く述べていない。

『SAPIO』2012年4月4日号で、「現在の皇位継承順位は明らかにおかしい」と主張。『SAPIO』同号では秋篠宮文仁親王を「秋篠宮」と敬称をつけずに表記している。

『新天皇論』第35章で渡部昇一の「秋篠宮家の親王殿下は、皇位継承の順序において、愛子様より下ると断定してよいか」との質問状に対して「私が尊重するのは男系よりも直系だから傍系男子の悠仁親王よりも直系女子の愛子内親王の方が上になる」と回答している。『新天皇論』第36章で女性週刊誌は毎号毎号皇太子妃雅子と愛子内親王の記事ばかりであると指摘し、無意識のうちに庶民が「直系」の正統性を感じてしまうからだと主張している。

なお、『SAPIO』2010年3月10日号、『新天皇論』第13章で、「私の意図は、天皇陛下、皇太子、秋篠宮両殿下に、自由な(心理的)決定権を与えることである」との記載もある。

皇位継承の危機について

『SAPIO』2010年11月10日号で、6世紀に武烈天皇が嗣子なく崩御し、しばらく皇位は空位とされたが、やがて武烈天皇から10親等離れた継体天皇が践祚した事例をあげ、現在はこの時代以来1500年ぶりの皇位継承の危機であると述べている。実際は、室町時代の称光天皇崩御時と江戸時代中期の後桃園天皇崩御時も皇統断絶の危機であった。前者は伏見宮家から後花園天皇が、後者は閑院宮家から光格天皇が傍系継承することにより乗り切った。光格天皇が現在の皇室の祖先であることや、現在のところ最後の女性天皇である後桜町天皇が光格天皇の後見補佐をしたことについても全く言及していない。

「男系派3つの逃走点について」に関する論争

小林は、自身の説とは対照をなす男系存続派の問題点として「男系派3つの逃走点について」としてまとめている。しかし、いずれも男系存続派からの反論がきているが、小林自身からの明確な再反論はない。また、論争の中で質問内容の一部も変わってしまっている問題点も散見される。当初の質問は、下記の三つ。

皇族志願の男系男子っているのか?(新天皇論 290頁)、皇籍取得してもいいという旧宮家子孫は実在するのか?(新天皇論 297頁)について、

上記『#皇族志願の男系男子っているのか?(新天皇論 290頁)に関する間違い』参照。

「現代医学」の進歩で必ず男子が生まれるか?(新天皇論 291頁)、側室なしで男系継承が続くか?(新天皇論 297頁)について、

上記『 #側室制度なしに男系継承は不可能に関する間違い』参照

皇祖神は誰か?(新天皇論 292頁)について、

この議論はそもそも「神話と歴史の区別」というところから端を発している。これに対して小林氏は「男系派は、神話を否定した」としている。男系派は『スサノオノミコトが生んだから男系というよりも、天照大神があえて男性神を選び、「わが子孫」により継承するとしたことが、決定的に大事であり、歴代天皇は「神勅」をそのまま受け取り、万世一系により皇位を継承してきた事が重要』としている。



すっかり白髪頭で老眼鏡をかけた明仁天皇(天皇→上皇)陛下や美智子(皇后→上皇后)皇后さまが笑顔で迎えた。

「続いていきますなあ」級友は感慨深げにいった。

縫物をしていた美智子は「何が…?」と問う。

「天皇家の………こころです。」

「わたしは天皇の家を守りたいと思った。民間より来たのは何十年前か。つづくのね。命はつづくののね。昭和天皇さま。香淳皇后殿。皇太子。雅子。紀子。愛子。悠仁。大切なものは地位でも財産でもなく親友や思いやりにこそある、と。そういう人生が一番大切なのだ、と。…いうことねえ。」

そして、雅子皇太子妃さまは微笑んだ……

こうして皇太子妃さまの波乱の人生は、続いていく。

世界平和を祈って…ただ、天皇家のために、日本人の幸福のために…




             大河小説 皇后雅子さま。

             皇女繚乱 雅子さまの真実   おわり








<参考文献>一覧

工藤美代子『皇后の真実』幻冬舎、二〇一五年

入江為年(監修)『入江相政日記』(第一巻~第十二巻)朝日文庫、一九九四~一九九五年

小田部雄次『梨本宮伊都子妃の日記』小学館、一九九一年

小田部雄次『四代の天皇と女性たち』文藝春秋、二〇〇二年

小田部雄次『華族』中公新書、二〇〇六年

三鬼陽之助『財界新山脈』駿河台書房、一九五三年

三島由紀夫『三島由紀夫全集』(第27巻)新潮社、二〇〇三年

三島由紀夫『わが青春記』集英社、一九七三年

三島由紀夫『仮面の告白』新潮文庫、一九五〇年

三島由紀夫『裸体と衣裳』新潮文庫、一九八三年

三島由紀夫『豊饒の海(一)(二)(三)(四)』新潮文庫、一九七七年

徳岡孝夫『五衰の人』文藝春秋、一九九六年

猪瀬直樹『ペルソナ』文藝春秋、一九九五年

岩下尚史『ヒタメン』雄山閣、二〇一一年

工藤美代子『香淳皇后と激動の昭和史』中公文庫、二〇〇六年

美智子『橋をかける 子供時代の読書の思い出』すえもりブックス、一九九八年

加藤恭子、田島恭二監修『昭和天皇と美智子妃 その危機』文春新書、二〇一〇年

福田和也『美智子皇后と雅子妃』文春新書、二〇〇五年

石田あゆう『ミッチー・ブーム』二〇〇六年

川口素生『小和田家の歴史』新人物往来社、二〇〇一年

渡邊満子『皇后陛下美智子さま心のかけ橋』中央公論新社、二〇一四年

佐藤久『浩宮さま』番町書房、一九六二年

浜尾実『皇后 美智子さま』小学館、一九九六年

橋本明『美智子さまの恋文』新潮社、二〇〇七年

河原敏明『美智子皇后』講談社、一九九〇年

朝日新聞社、毎日新聞社、読売新聞社、宮内庁広報、NHK映像資料

ウィキペディア記事、長尾景虎著作参考文献

工藤美代子『皇后の真実』幻冬舎、からの孫引き

+小林よしのり『天皇論』小学館文庫、からの孫引き

 他  「文章が似ている」=「盗作」ではなく引用です。裁判とかは勘弁してください。

<作品の参考文献一覧>『東京裁判』(上)(下)児島襄(中公新書)、『東京裁判』(上)(下)朝日新聞東京裁判記者団(朝日文庫)、『私が見た東京裁判』(上)(下)冨士信夫(講談社学術文庫)、『秘録東京裁判』清瀬一郎(中公文庫)、『世界がさばく東京裁判』佐藤和男監修/終戦五十周年国民委員会編(ジュピター出版)、『日本の歴史30十五年戦争』伊藤隆(小学館)

『昭和史をさぐる』伊藤隆(朝日文庫)、『東京裁判 勝者の敗者への報復』新人物往来社戦史室(新人物往来社)、『別冊歴史読本 A級戦犯 戦勝国は日本をいかに裁いたか』(新人物往来社)、『東京裁判の全貌』平塚柾緒/太平洋戦争研究会編(河出文庫)、『看守が隠し撮っていた 巣鴨プリズン未公開フィルム』織田文二/茶園義男監修(小学館文庫)、『東条英機 大日本帝国に殉じた男』松田十刻(PHP文庫) 

『祖父東条英機「一切語るなかれ」』東条由布子(文春文庫)、『大東亜戦争の真実 東条英機宣誓供述書』東条由布子編(WAC)、『週刊日本の100人東条英機』(ディアゴスティー二・ジャパン)、『昭和の発見』花山信勝(朝日新聞社)、『秋霜の人 広田弘毅』渡邊行男(葦出版)、『黙してゆかむ 広田弘毅の生涯』北川晃二(講談社文庫)、『落日燃ゆ』城山三郎(新潮文庫)、『昭和天皇独白録』寺崎英成/マリコ・テラサキ・ミラー(文春文庫)

『秘録 板垣征四郎』板垣征四郎刊行会(芙蓉書房)、『秘録 石原莞爾』横山臣平(芙蓉書房)、『コンビの研究 昭和史のなかの指揮者と参謀』半藤一利(文藝春秋)、『秘録 土肥原賢二 日中友好の捨石』土肥原賢二刊行会編(文藝春秋)、『軍務局長 武藤章回顧録』武藤章/上法快男(芙蓉書房)、『南京事件の総括』田中正明(展転社)、『「南京大虐殺」はこうして作られた』冨士信夫(展転社)、『日本陸軍 指揮官総覧』新人物往来社戦史室(新人物往来社)

『松岡洋右 その人間と外交』三輪公忠(中公新書)、『その時歴史が動いた13』NHK取材班(KTC中央出版)、『東郷茂徳 伝記と解説』萩原延濤(原書房)、『時代の一面』東郷茂徳(原書房)、『危機の外相 東郷茂徳』阿部牧郎(新潮社)、『海よ永遠に 元帥海軍大将永野修身の記録』永野美紗子(南の風社)、『最後の参謀総長 梅津美治郎』上法快男(芙蓉書房)、『葛山鴻爪』小磯国昭(小磯国昭自叙伝刊行会)、『怒り宰相 小磯国昭』中村晃(叢文社)

『平沼騏一郎回顧録』平沼騏一郎(平沼騏一郎回顧録編纂委員会)、『大川周明 ある復古革新主義者の思想』大塚健洋(中公新書)、『決断した男 木戸幸一の昭和』多田井喜生(文藝春秋)、『木戸幸一関係文書』木戸日記研究会編(東京大学出版会)、『南次郎』御手洗辰雄編(南次郎伝記刊行会)、『忠鑑畑元帥』梅谷芳光(国風会本部)、『畑俊六 巣鴨日記』小見山登(日本文化連合会)、『橋本欣五郎一代』田々宮英太郎(芙蓉書房)、『荒木貞夫風雲三十年』有竹修二(芙蓉書房)

『駐独大使 大島浩』鈴木健二(芙蓉書房)、『佐藤健了の証言 対米戦争の原点』佐藤健了(芙蓉書房)、『鈴木禎一氏談話速記録』(上)(下)木戸日記研究所(日本近代史料研究会)、『完本・太平洋戦争』(上)文藝春秋編(文藝春秋社)、『嶋田繁太郎海軍大将裁判中参考資料』、『見果てぬ夢 満州国外史』星野直樹(ダイヤモンド社)、『評伝賀屋興宣』宮村三郎(おりじん書房)、『重光葵 上海事変から国連加盟まで』渡邊行男(中公新書)、『孤高の外相 重光葵』豊田穣(講談社)

『「勝者の裁き」に向き合って』牛村圭(ちくま新書)、『昭和の動乱』(上)(下)重光葵(中公文庫)、『共同研究パル判決書』(上)(下)東京裁判研究会(講談社学術文庫)、『パール判事の日本無罪論』田中正明(小学館文庫)、『國、亡ぼす勿れ 私の遺書』田中正明(展転社)、『平成22年版日本の防衛 防衛白書』(防衛省)、『海をひらく 知られざる掃海部隊』桜林美佐(並木書房)、『そのとき自衛隊は戦えるか』井上和彦(扶桑社)、『ホントに強いぞ自衛隊!』加藤健二郎・古是三春(徳間書店)

『別冊歴史読本 江田島海軍兵学校 写真で綴る江田島教育史』(新人物往来社)、『今こそ知りたい江田島海軍兵学校 世界に通用する日本人を育てたエリート教育の原点』平間洋一・市来俊男・雨倉孝之・影山好一郎・北澤法隆・齋藤義朗・中村梯次・左近允尚敏・長田博・手塚正水(新人物往来社)、『中国大虐殺史なぜ中国人は人殺しが好きなのか』石平(ビジネス社)、『TPPが日本を壊す』廣宮孝信・青木文鷹・監修(扶桑社新書)、『自由貿易は、民主主義を滅ぼす』エマニュエル・トッド(藤原書店)

『原発と日本の未来 原子力は温暖化対策の切り札か』吉岡斉(岩波ブックレット)、『原発のウソ』小出裕章(扶桑社新書)、『福島第一原発「放射能の恐怖」全記録』(FRIDAY6・29増刊号)、『偽善エネルギー』武田邦彦(PHP新書)、『日本は原子爆弾をつくれるか』山田克哉(PHP新書)、『国土学再考「公」と新・日本人論』大石久和(毎日新聞社)、なおこウィキペディア、『国防論』小林よしのり(小学館)『いわゆるA級戦犯』小林よしのり(幻冬舎)から引用。盗作ではなく引用です。あらかじめご容赦下さい。裁判とか勘弁してください。

 

<参考文献>ウィキペディア、小林よしのり『昭和天皇論』(幻冬舎)、工藤美代子『マッカーサー伝説』(恒文社21)、工藤美代子『香淳皇后と激動の昭和』(中公文庫)、工藤美代子『われ巣鴨に出頭せず』(中公文庫)、寺崎英成、マリコ・テラサキ・ミラー『昭和天皇独白録』(文春文庫)

 所功『皇室の伝統と日本文化』(広池学園出版部)、西鋭夫『國破れてマッカーサー』、西尾幹二『わたしの昭和史1―少年篇―』(新潮選書)、西川秀和『昭和天皇の巡幸(第1巻)』(アーカイブス出版)、半藤一利『日本のいちばん長い日』(文春文庫)、半藤一利『聖断』

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盗作ではなく引用です。あらかじめご容赦下さい。裁判とか勘弁してください。


 

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大河小説シリーズ 皇后雅子さま。~笑顔が戻るまで。ハイスペック外交官からプリンセスへ~ 長尾景虎 @garyou999

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