旗の罪
白原 糸
旗
がなる声が尾を引くように耳に残る。銃声の音さえ聞こえないまま私は旗を手に走っていた。
どこまで続く終わりの見えぬなだらかな
歯を剥き出しに叫ぶ敵兵の絶叫が聞こえる。人から遠のいたあの顔を、私もしているのだろうか。目の前で倒れた敵兵の頭を、体を踏み、私は先へと進んだ。
空を見上げる。
黒い塊がゆっくりとこちらに向かって落ちるのが見える。
耳鳴りの他、何も聞こえなくなった耳に、仲間の声が聞こえて来た。私の名を呼ぶ、懐かしい声だった。
そうして幾日も続いた戦いから私はいつの間にか解放されていた。
私は見知らぬ場所で旗を手に立ち尽くしていたのだ。
顔をあげると銃声が聞こえ、瞬く間に、旗が朽ち果てていく。
天高い青の中を泳ぐ旗に大きな穴が開いていく。
国の誉れと旗を汚して、旗は一層、清らかに国の威光を示していく。
私はそんな風景を一人、眺めていた。
そうして銃声が止んだ時、旗は時を戻したように元の姿へと変わっていった。
これは、自分の罪だと目を閉じる。
次に目を開けた時に広がる風景は屹度、地獄であるのだ。
そんな日々を何度、繰り返したことだろう。四季の巡りも時の流れもない場所で自分はただ一人、旗を手に立っている。
周囲には銃弾を受けて斃れている仲間の姿が在るだけで、触れようとすれば遠のいていく。
私はただ一人、仲間の死を目の前に立ち尽くすことしか許されていないようだった。
幾日を越えて旗を手に立ち尽くしていたのだろう。
不意に目の前を白い花びらが舞い落ちた。
「花びら?」
驚きに目を開き、空を見上げると青空一面に雪のように花びらが散っていた。
ここに来てから初めての光景に私はただ、目を奪われていた。
旗と共に花びらが躍る。
私は最早、旗の
そうして次に見た景色は鮮やかな赤色の、おおぶりの花びらが落ちていく様子だった。まるで血の色にも似た赤が旗を彩るように空に躍る。
旗を汚した血ではない。旗を飾る赤い色は美しかった。
私はここで、初めて歩いた。
今までは動かずにここで旗を手に立っているだけだった。そうしなければならないような気がしたからだ。
だけど、今はもう、歩いて良いのだと声が告げる。
軍靴は土の上を軽やかに歩く。仲間の体をもう、踏みつけに歩かずとも良いのだという安堵感に足が軽くなる。
赤い花びらは土の上に雪のように積もっていった。目の前に広がる赤い景色に怯えずとも良い。恐怖を忘れる戦意高揚の軍歌をもう、歌わずとも良い。
そして。
私は目を開いた。
目の前に楽しそうに会話を交わす仲間がいた。
銃弾を受け、地面に斃れていた仲間が声をあげて笑っている。その内の一人が私に気付いて手をあげた。
「播磨!」
私は旗を捨てて、走った。
もう、旗を手にせずとも良い。
倒れる心配などしなくても良い。
この旗はもう、私達には必要ないのだ。
私は走った。敵の元ではない。仲間の元に私は走った。
あの地獄をもう、走らずとも良いのだ。
黒煙が周囲を覆い、友の体が弾け飛ぶ。それでも尚、旗を手放すことなく走らねばならぬあの日々を、地獄と呼ばずして何と呼ぼう。
国の為じゃない。家族の為に戦い、倒れた仲間の体を、もう踏まずとも良いのだ。
手を伸ばす。手が伸びる。
――帰ろう。家に。私達の、家に。
私達は互いに抱きしめあった。
ようやく、帰れるのだ、と笑いあう。
もう、人を殺さなくて良いのだ。
安堵に満ちた声と共に頬を濡らす涙が雨のように地面に落ちる。
泣くなよ、泣くな、と声を掛けあいながら、私達は歩き始めた。
そして、私は振り返った。
地面を敷き詰める赤い花びらの上に落ちた真白な旗を前に私は敬礼した。
「……ありがとうございました」
私と同じく仲間も敬礼した。
そして、私は泣き笑いながら仲間と歩き始めた。
背後で旗がゆっくりと消えていく。花びらに姿を変えて、空に吸い込まれるように消えていく。
そんな光景を私達は見ることなく、前に向かって歩いている。
ああ、もう、私達は自由なのだ。
綺麗な軍服を着て、ただ、歌を歌う。
愛した人の歌う歌を。母の歌った歌を。兄弟が歌った歌を。せがまれて歌ったあの歌を――それぞれが歌う。
思い思いに歌を歌う。
泣きながら、笑いながら、歌を歌う私達の姿は光の中に消えていった。
旗の罪 白原 糸 @io8sirohara
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