第32話【ダングニル渓谷/後】

 「ラングレス! 撤退だ! 奴を止める手段は今はない!」


 ハルバートの叫びが、バルドーの威圧的な巨躯によって押し潰されそうになる司令部に響いた。積層式魔術砲台の再装填には時間がかかる。バルドーが司令部に到達するまで、猶予は十秒もない。


 しかし、エリナローゼは後退しなかった。彼女はハルバートの白衣の袖を掴み、その瞳に強い決意を込めた。


「まだあるわ、ハルバート! あなたの『論考』は、上位者の再生能力を無効化する手段も提唱している! 対・寿命超克型毒素(瘴気)の散布を! 隔離区での実験は終わっているでしょう!」


 ハルバートは一瞬、硬直した。瘴気は、移民たちを苦しめて死に至らしめた、彼の最も罪深い発明だ。しかも、バルドーのような上位者に対する効果は、理論上の推測に過ぎない。もし効かなければ、彼は味方と自分自身を巻き込むことになる。


「瘴気は……風の影響を強く受ける。そして、これは最後の手段だ!」

「その最後の手段を使わなければ、私たちはここで死ぬ! そして王国は滅亡する! 選んで! あなたが選んだ地獄の結末を!」エリナローゼの声は、彼の倫理的な躊躇を断ち切る鋭い刃となった。


 バルドーは、司令部へ向かって三歩目を踏み出そうとしていた。その剛腕に込めた魔力が、大気を引き裂く。


「……くそっ!」ハルバートは、懐から取り出した小型の魔導通信機を、背後の部隊に叩きつけた。「第二部隊! 緊急命令! 瘴気散布装置、全開放! 散布目標、バルドー及び親衛隊が展開している渓谷中央部! 直ちに実行せよ!」


 指令部の遥か上空、渓谷の岩壁の陰に隠れていた特務部隊の飛行装置から、細いノズルが突き出された。そこから、先ほどとは比べ物にならない濃度の、緑がかった薄い霧が、渓谷の底へと放たれた。


 瘴気は、上空の微風に乗って、瞬く間にバルドーと、彼を守る十数名の獣人親衛隊を包み込んだ。


 バルドーは、その異常な臭気と肌を刺すような魔力の異変に、すぐに気づいた。彼は顔を覆い、凄まじい咆哮を上げた。


「人間ども! これは毒か!?」


 しかし、時すでに遅し。瘴気は、彼の強大な魔力核に触れるや否や、猛烈な自己解体を開始させた。


 バルドーの肉体は、長寿と再生能力を前提とした魔力の流れで構成されている。瘴気は、その再生のサイクルを無理やり加速させ、代謝の時間を歪ませた。


「グアアアアアアアアア!」


 バルドーの巨躯は、突如として狂乱に陥った。彼の全身の血管が浮き上がり、肉体が異常な速度で膨張し、収縮を繰り返した。それは、自らの魔力が、自身の肉体を内側から破壊しようとする、凄まじい苦痛の表れだった。


 彼は、理性を失い、手に持った鉄塊を無差別に周囲に振り回し始めた。しかし、その一振りは、彼の魔力が狂乱するたびに弱まり、ただの空虚な暴力へと変わっていった。


 親衛隊の獣人たちも同様だった。彼らは口から血を吐きながら、互いにのたうち回り、肉体が痙攣する。強靭な再生能力を持つ彼らにとって、この毒素は、無限に続く苦痛であり、死に至るまでの恐ろしい拷問だった。


 バルドーは、怒号を上げながら、自身の肉体を守る分厚い毛皮と鎧を引き裂いた。そして、狂乱の極致で、真っ黒な血反吐を吐き出した。それは、彼の寿命を超克する肉体の、完全に機能不全に陥った証拠だった。


 そのおぞましい光景は、司令部で魔導鏡越しに見ていた者たちの目に焼き付いた。


 バルドーの巨躯は、数分の痙攣と狂乱の末、ぐったりと地面に倒れ伏した。彼の肉体は、毒素によって内部から腐敗したかのように黒ずみ、もはやかつての威厳ある戦術級英雄の面影はどこにもなかった。その死に様は、極めて醜く、無残であった。


「……死亡確認。上位者バルドー、心停止。親衛隊も全て壊滅」兵士が震える声で報告した。


 静寂が、再び渓谷を支配した。今度は、勝利を意味する、重い静寂だった。


 ダグレス総隊長は、その場で崩れ落ちた。彼の顔は涙と土で汚れていた。


 剛腕のバルドー。それは、彼が若い頃に読んだ英雄譚に登場する、勇敢な獣人の戦士だった。老兵にとって、バルドーは敬意を払うべき敵であり、獣人にも誇り高き戦士がいることを示す象徴であった。


 だが、ハルバートが創り出した「疫病」は、その誇りも、武勇も、全てを踏みにじった。彼が目撃したのは、英雄の死ではなく、ただの汚れた肉体の崩壊だった。


「なんという……なんという戦いだ……」ダグレスは嗚咽を漏らし、その手で顔を覆った。


 彼の隣で、ハルバートは、冷酷な目で魔導鏡を見つめていた。


「これが、我々の選んだ道だ、騎士団長。我々は、敵の倫理ではなく、敵の生物学的弱点を攻撃する。上位者を倒すには、彼らにふさわしい『悪夢』を与える必要があった」


 ハルバートの顔には、勝利の感情は微塵もなかった。あるのは、新たな罪を背負ったことによる、深い疲労だけだ。


 エリナローゼは、震える手でハルバートの左手を握りしめた。彼の掌は冷たく、彼の心が、この地獄の戦術によって深く傷つけられていることを物語っていた。


「私たちは……勝ったのね」エリナローゼは囁いた。その声には、歓喜ではなく、地獄への一歩を進めたことによる、重い覚悟が滲んでいた。


 ダングニル渓谷の戦いは、人族の勝利に終わった。しかし、この勝利は、人族が英雄的な武勇を捨て、悪魔的な非人道性を選び取った、悲しき歴史の分岐点として、王国史に刻まれることになる。

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戦略級英雄の討伐論 犬山テツヤ @inuyama0109

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