いつかの空へ

にいがき

本編

 幼い頃の夢を見る。

 母さんの実家がある、山中の村で暮らしていた時の夢だ。

 当時は親父が出張族で、身体の弱かった母さんは実家で爺ちゃんと婆ちゃんに俺の世話の助けをしてもらっていた。

 まだ小学校高学年にもなっていない俺は、毎日のように同じ村に住む年齢も様々な子供達と遊んでいた。

 近くの街に行くのも車を使わないといけないような場所だったから、子供のする遊びといえば鬼ごっこや隠れんぼ、もしくは釣りが殆んどだった。

 今となっては考えられないが、あの頃の俺は飽きもせずにそれらの遊びに夢中になっていた。

 そんな俺には、特によく遊ぶ女の子がいた。

「ねぇ、優真くん。大人になったら結婚しよう?」

 俺のことを優真くんと呼ぶ少女。

 ある日、俺は彼女に一人呼び出され、そんな事を言われた。

「結婚って……そんな事、答えられないよ」

「どうして? 私は優真くんが大好きだからいいじゃない!」

 女の子から大きな声で言われ、驚いた覚えがある。

 普段はそんな声で叫んだりする娘じゃなかったから。

「ごめん……そんなに怒らせると思わなくて……」

 それでも、幼心に結婚なんてものは簡単に決めてはいけないものだと思い、俺はそれ以上彼女に応える事が出来なかった。

「だって、私には――」

 その時、彼女が言っていた言葉を俺はよく思い出せない。

 けれど、一つの言葉だけが記憶に残っていた。

「優真くん……龍神様って、知ってる?」



「う、ん……」

 眠りから覚めると、俺はバスの窓にもたれ掛かっていた。

 どうやら一人での遠出に大分疲れていたみたいだ。

「笠根崎村……」

 母さんの実家のある村。

 俺、草薙優真が子供時代を過ごした場所でもあるが。

「もう存在しない村、なんだよな」

 二週間前、それは突然起きた。

 数日間降り続いた雨によって村の近くを流れる川が氾濫し、村全体が濁流に呑まれた。

 運が良い事に、爺ちゃんと婆ちゃんは俺の夏休みに合わせて村から出てきていたので命は助かったが、住む場所が無くなってしまった。

「もう誰もいないんだよな……」

 子供の頃の友達も、皆きっと濁流に呑まれて亡くなってしまった。

 けれど俺は、一人で笠根崎村に向かっていた。

 理由としては爺ちゃんと婆ちゃんに代わって家の跡地を見に行くという事になってはいるが、それだけじゃない。

 手の中にある手紙を見る。

 バスの中で眠っている間も手放さなかったこの手紙を読んで、俺は無理を言って一人でここまで来たんだ。


『優真くん久し振り。

 最近は連絡できなくてごめんなさい。こちらも少し慌ただしかったから。

 ただ、今日はどうしても伝えたい事があるので、こうして手紙をしたためました。

 お母さんに、龍神様のお告げがあったんです』


「……」

 顔を上げ、ここに来る前に寄った病院で見た光景を思い出す。

 確信なんてものは無かったが、手紙と、過去の記憶から、行かなければならない気がした。

 そうしてここに来る決心をした時の事を思い出していると、バスが目的の停留所に着いた。

 手紙を持ってきたリュックの中に入れ、バスから降りた俺は歩き出す。

「暑いな……」

 隣町から村への道は、直ぐに木々生い茂る山道となる。蝉の鳴き声が煩く、額や背中に汗が浮かぶ。

 正午はとうに過ぎたが、まだ夏真っ盛りという事もあり、額や背中を汗が伝う。

 それでも俺は、確かめたい事があった。そう思って歩を進めていると――

「優真くんっ!」

「っ!?」

 不意に声が聞こえ、背筋に寒気が奔って俺は周囲を見る。

 しかし人の姿は見えず、俺の空耳か、それとも――

「幽霊、な訳ないか……」

 そんな非現実的なものが存在する訳ない、とは思うのだが、記憶の中の彼女の言葉が俺にそんな空想を抱かせた。



 しばらく歩くと、道が大きく開けた場所に出る。

 昔はこの辺りまで来ると広い畑と、遠くに立ち並ぶ農家を営む人達の家々が見えたものだが……。

「中々……酷いな」

 豪雨による川の氾濫で流されてきた家の瓦礫や倒木が積み重なる、そんな光景があちこちに広がっている。

 村人の殆んどが亡くなった事もあり、戻ってくる人の姿も無い。

 瓦礫を避けながら先に進むが、久し振りという事と、あまりにも景色が変わっている所為で自分の居る場所も覚束ない。

「爺ちゃん達の家は――ここら辺か」

 それでも爺ちゃん達の家の凡その場所の見当をつけ、そこまで辿り着く。しかし、

「これは爺ちゃん家じゃないな」

 目の前の瓦礫の山は、明らかに爺ちゃん達の家ではなかった。

 瓦の色も壁の色も違う。濁流に呑まれてここまで流れ着いたのだろう。

「となると、もっと周囲をよく探さないとダメか」

 どうやら時間が掛かる事を覚悟しないといけないようだ。

「だったらもう一つの予定を先にするか」

 俺はもう一つの目的地の方を向き、歩いていく。

 上流の方は流れてきた土砂や倒木あちこちに散乱し、足元が不安定になっている。

 転ばないように気をつけながら、俺は目的の場所を見つけた。

 その建物は豪雨による氾濫をも物ともせず、過去と同じ姿を保っていた。

 記憶では建物の背後には鬱蒼とした森が広がっていたが、それらは土砂と共に流されて、現在は半ばで折れた樹木が点在しているのみだ。

 だから、その様子は“異様”としか言い様が無かった。

「天川家」

 天川家はこの村の中で特別な存在だった。

 村の中で有名、と言うとよくある小説ならば地主等を想像するかもしれないが、天川家は少し違う。

 この地を治めているという訳ではなく、とある神様との交信役を担っていたのだ。

「少し、寒いな……」

 夏とはいえ、陽が傾き始めた事もあって少しずつ気温が下がってくるものだが、それは少し違和感のある気温の変化な気がした。

 天川家へと近付いて行く。

 俺が笠根崎村にやって来たもう一つの理由。それは、この天川家にあった。

 目の前まで天川家の門が迫ってきた時、スッと門が開いていった。

「っ!?」

 唐突な出来事に俺は驚くが、ジッと待っていると、門の脇から人影が現れた。

「久し振り、優真くん」

 親し気に俺の名前を呼ぶ少女。

 少女は肩に掛かる長く艶やかな黒髪を背の方に流し、丁寧に頭を下げ、品のある佇まいで俺を迎える。

「天川――」

「天川だなんて。子供の頃みたいに羽衣って呼んでくれてもいいのに」

 そう言って、天川羽衣――俺の幼馴染みは微笑んだ。



 その微笑みに、幼い頃の少女が向けた笑みが重なる。

本当に、そっくりだ。

「えっと……羽衣。久し振り」

「うんっ、本当に久し振りだね。優真くんがこの村から居なくなって、もう十年くらい?」

「それくらいだな」

 羽衣とは、子供の頃に毎日のように遊んでいた。

 当時は普通の子供みたいに騒いだりはしないが、年相応にお転婆という印象だった。

 けれど久し振りにあった羽衣は随分と大人びて、そして綺麗になったように見える。

 白いワンピースから見える、スラっとした手足が目に眩しい。

「せっかく来てくれたんだから、上がって上がって」

「うわっ!」

 羽衣は時の流れを感じさせない距離感で、俺の手をギュっと握り、家の入り口の方へと引っ張っていく。

「こっちこっち」

「ちょっと待ってくれっ。まだ靴が脱げてないってっ」

 久し振りに入った天川家の中は。相変わらずの古い日本家屋といった趣で、中央の木造の廊下の両側に襖で区切られた部屋があり、奥に居間と台所がある。

 羽衣に引っ張られながら居間へと連れていかれる俺は、ふとその途中にある二階へ続く階段を目にして立ち止まる。

「なぁ、羽衣。空は居ないのか?」

「空? 空なら部屋に居るよ」

「……空は元気なのか?」

「うーん。この前の事故でちょっと落ち込んでるかな。あまり部屋から出て来ないの」

 天川空。羽衣の双子の姉で、俺のもう一人の幼馴染みだ。

 小さい頃は羽衣と空を含めた三人でよく遊んでいた。

 羽衣も騒がしい性格ではなかったが、空は輪を掛けて大人しく、引っ込み思案なところがあり、どちらが姉か分からなくなる事もしばしばあった。

「まぁ、空は顔を出したくなったら出てくるよ。さっ、行こ」

「あ、あぁ……」

 俺は二階を一瞥し、羽衣の後をついて居間へと足を踏み入れた。

「適当に座ってて。何か食べる物持ってくるから」

「いや、別にそこまでしなくても――」

「いいからいいから。ちょっと待ってて」

 俺の話を聞かず、羽衣は台所の方へと消えていった。

 その間に、子供の頃の記憶と今を重ね合わせていく。

 天川家の中に入った回数は実はそう多くはなかったが、その時と比べても、殆んど変わっていないように見える。

 不自然な程に。

「お待たせ、優真くん――って、まだそんな所に立って」

 手に茶菓子を載せた盆を持った羽衣が戻って来て、台所に行った時と同じ場所で立っている俺に変なものを見たように笑う。

「ほら、ここに座って」

「あぁ、ありがとう」

「ふふっ」

「お、おい。近くないか?」

 居間にあるテーブルに座らされると、羽衣はわざわざ俺の隣にやって来て座る。

「いいでしょう? 昔はよくこうして隣で釣りをしたり、一緒にご飯を食べたりしたよね」

「それはそうだが……」

「懐かしいなぁ……優真くんと一緒にいっぱい遊んだよね」

「そうだな」

「覚えてる? 私と優真くんと、空と三人で星を見に行ったよね」

「……ああ。いつも引っ込み思案な空が、思ったよりも夜道が平気で、逆に羽衣がずっと俺の後ろで服の裾を引っ張ってたな」

「うっ。そ、そういう恥ずかしい事は思い出さなくていいの……あの日は、星が綺麗だったね」

「言っても、ここだったら星なんて幾らでも見れるじゃないか」

「あっ、都会に毒された発言。私にとっては、優真くんと見たあの星空が一番綺麗だったんだから」

「そっ、か……」

「うん。そういえば、こういう事もあったよね――」

 さっきから、羽衣は十年の歳月を感じさせない程の距離の近さで接してくる。

 しかし、こっちはまだ心の整理というものが出来てないのもあって戸惑いが大きい。

 そんな俺の様子を見たからか、羽衣はテーブルの上を指差す。

「はい、好きなだけ食べていいよ」

「わ、わかった……」

 盆に載せた茶菓子を勧めてくる羽衣だが、俺はそれに適当に返事をしつつ、話が途切れたこのタイミングで一先ず気になっていた事を尋ねる。



「なぁ。ちょっと訊きたい事があるんだが、いいか?」

「訊きたい事? 何?」

「……二週間前の事故の事だ」

「……何か気になる事があるの?」

 何処から切り出すか悩み、口を開く。

「凄い事故だったみたいだな」

「うん。皆、いなくなっちゃった」

「羽衣の方の、その……親父さん達は――」

「あの日に死んじゃったんだ」

「そっ……か」

 俺は羽衣の反応を窺いながら話を続ける。

「さっき村の様子を見てきたけど、結構な被害があったように見えたんだが、よく無事だったな」

「運が良かった、みたい」

 横目で羽衣の様子を見た。

 容姿は随分と大人びたと思ったが、彼女は幼い頃と同じ笑みを浮かべる。

 俺の言葉に何か感じた様子は無いが、俺も内心を出さないように気をつける。

「運が良かった……まぁ、そういう事になるか」

「そうそう。偶々水の流れがこの家を避けてくれたの。それだけ」

「それは運が良かった」

「私と空は家の中に居たから助かったけど、お父さんとお母さんは用があって出てたから」

「なるほど……親父さん達は、ご愁傷様で――」

「畏まらなくていいよ。優真くん、そういう丁寧な言い方似合わないし」

「――親父さん達は残念だったな……羽衣達が無事で良かったよ」

「ありがとう」

 そこまで言って、次に何を話すか悩む。

 傍らに置いたリュックに入っている手紙について訊きたいが、まだその時ではない気もする。

 だから俺は、空について尋ねる。

「空は、大丈夫なのか?」

「あの子は……あの日からずっと閉じ籠ってるの」

「やっぱり親父さん達のことがショックでか?」

「……口には出さないけれど、多分そう。あの子、結構抱え込むタイプだから」

 羽衣の姉である空は、遊びに行く時も俺らの後をついてきて、何かをしている時も後ろから見ているのが好きなやつだった。

 繊細な性格をしていたから、きっと親父さん達や村の人達のことはショックだっただろう。

「なぁ、ちょっと空の顔を見る事は――」

「それより」

 唐突に、羽衣が俺の言葉を遮る。

 言葉も先程までより強く、少し驚いてしまう。

「さっきから何も口をつけてないね」

「お? おう」

「遠慮しないでいいのに」

 羽衣に言われ、目の前の茶菓子を見る。

 わざわざ出してくれた物だが、まだ一口も食ってはいない。

「遠慮している訳では」

「はい。あ~ん」

「うっ……」

 盆の上から煎餅を手に取り、目の前に差し出される。

 羽衣が昔と比べて綺麗になった事もあり、そんな風にされると気恥ずかしさがある。

 けれど、やらなければならない事がある以上、ここで余計な事をしている場合ではない。

 ――茶菓子に手を出さない理由はそれだけではないが。

「ま、まぁ、後で頂くよ。ちょっと空に会いたいんだが」

「優真くん、私の方を見て」

「お、おいっ」

 羽衣が俺との距離を更に詰める。

 殆んど縋りつくようなその近さに、流石に引いてしまう。

「どうしたんだよ、羽衣。いくら何でも色々と急過ぎるぞ」

「それは……」

 羽衣は迷っているような素振りをする。

 が、次の瞬間、何かを秘めたような瞳で俺を見た。

「優真くんは……この十年間で私達の……ううん、私のこと、どう想ってたの?」

「どう想ってたって……」

「私は、寂しかった……優真くん、会いに来てくれないし、全然連絡くれないし……私は、もっと優真くんと話したかったのに」

「それは……悪かった」

 言われてみると、この十年間、本当に稀に手紙を送ったりするくらいで、笠根崎に行く事が無かった。

「俺もさ、恥ずかしかったんだよ。大分長い間、二人と会ってなかったから、どう接すればいいのか分からなくて」

 それは本当の気持ちだった。

 思春期に入って、都会の学校に通って、同じ年の女子と昔のように接する事が恥ずかしいと思うようになってしまったから。

「私はっ……そんなの気にしなくていいのに……」

 羽衣の顔が近い。

 目の前から彼女の香りがして、子供の頃とは違う、確かに女性を感じさせるその空気に頭がクラクラとする。

「私は……もっと優真くんと一緒にいたいの。ねぇ……いいでしょ?」

 潤んだ瞳で見つめられ、俺の意思が揺らぎそうになる。

 羽衣の為に、もう少しこうしているべきなのではないかと、そう考えてしまう。

 だけど……だからこそ、そんな彼女の表情が双子の姉である空と重なった。

「悪い、羽衣。空と話をしてきてもいいか?」

「それは――っ」

「俺は空のことも心配なんだ。昔は三人でよく遊んだじゃないか」

「――う、ん……優真くんは、そうだよね」

 と、擦り寄ってきた羽衣が身体を離す。

 下を向いていて表情は読めないが、どうやら俺の言葉は聞いてくれるようだ。

「空は二階の私達の部屋に居るから」

「わかった。ありがとう」

「……」

 居間に羽衣を置いて廊下に出る。

「……何と言うか、しんどいな」

 これから確かめなければならない事を考えると、どうしても心が重くなってしまう。

 誰が悪いという訳ではない、と思いたいが、果たして希望的観測に縋っても良いものか。

「とりあえずは、空に合わないといけないな」

 二階へと続く階段を見上げる。

 子供の頃に何度か来た事のある天川家で、その構造は把握しているものの、そこに居た筈の人が居なくなってしまった後の空気感は中々慣れない。

 さっきの羽衣の発言からすると、空と羽衣はずっと同じ部屋を使っているようだ。



 空と羽衣の部屋は二階の一番奥にある。

 一階は全ての部屋が襖で区切られていたが、対照的に二階は全ての部屋に普通のドアが使われている。

 それは主に二階が私室として使われているからだ。

 二階は薄暗く、人の気配がまったく感じられなかった。

 俺は自然と足音を殺し、空と羽衣の私室の前まで向かう。

 可愛らしい文字で空、羽衣と書かれたプレートが下がっているドアは昔の記憶にある物とまったく同じだった。

 考えてみると、天川家の外観、中身、家具までが記憶にある十年前と何も変わっていない。

 それはやっぱり、“そういう事”なのかと思わずにはいられないが、その考えを一旦押し殺し、俺はドアをノックした。

「空。俺……優真だけど、居るか?」

 返事は無い。しかし、微かに部屋の中から物音がしたような気がした。

 俺は中に空がいるという前提で言葉を続ける。

「久し振り。羽衣から空は部屋に居るって聞いてきたんだ。十年振りくらいになるけれど、俺のこと、覚えてるか?」

 やはり返事は無い。

 何から話すか迷ったが、俺は今日ここに来る理由となった手紙に書いてあった内容について訊く事にする。

「空。昔、俺が引っ越す少し前に“龍神様”について教えてくれたよな」

 “龍神様”という単語を出した瞬間、部屋の中で物が落ちる音と、息を呑む気配がした。

「龍神様、天川家に生まれる双子の女児、そして……生贄の話」

 子供の時には信じられなかった話。

 今時、神に生贄を捧げるという話なんて……という事もあったし、それに空と羽衣の両親は他人である俺の目から見ると、とても優しい人達だった。

 だから先祖代々守ってきた仕来りと役目だったとしても、大切な娘を龍神様に生贄に捧げるような人達とは思えなかったから。

「少し前に、羽衣から手紙が届いたんだ」

「っ!?」

 今度はハッキリと空の息遣いを感じた。

 ドアに微かにぶつかる音がしたから、もしかしたら向こう側でドアにもたれ掛かっているいるのかもしれない。

「何て書いてあったかは……言わない方がいいかもしれないけれど、凡そ想像はついてるんじゃないか?」

「………………うん」

 長い沈黙から、小さな肯定の返事が聞こえた。

 十年振りに聴く空の声は、やっぱり妹の羽衣とそっくりだった。

「この話を聞いて、最初は俺は龍神様何てものは信じてなかったけど、近い内にここに戻らないといけないと思った……その矢先に起こったのが、例の川の氾濫事故だ」

 手紙を受け取って、数日後の出来事だった。

 全国ニュースにもなり、その時村にいた人々が殆んど亡くなり、生き残った人数は“1人”だと。

「そして、やって来てみるとこの状況だ。だから空、お前に訊きたいんだ」

 ここまでは村に来るまでに考えていた話。

 俺が知りたいのは、その先だ。

「空――お前は“生きているのか?”」

 言葉を選んで、俺はそう口にした。

「………………」

 直ぐには返事が来ない。

 俺は空の言葉を待っていたが、それよりも先に、ドアが開く音がした。

「優真、くん……」

「空……」

 ドアが開かれ、中から空が顔を出した。

 妹の羽衣と同じ顔、髪型、体格。どこを取ってもそっくりだが、羽衣よりも窶れ、憔悴しているように見えた。

「久し振り、だね」

「あ、あぁ……久し振り」

 たどたどしく喋る空に釣られて、俺も少し口籠ってしまう。

「羽衣ちゃんは……“いい”って言ったの?」

「いい、って何がだ?」

「その……………私と喋っていいのかって」

 空に言われて、先程の羽衣の反応を思い出す。

 確かに、羽衣は俺が空に合おうとするのを邪魔していたように感じた。

 手紙の内容を考えれば、俺には納得出来る反応ではあるが。

「わからない。けれど、通してはくれたから」

「そう、なんだ……」

 逡巡するように空は目を閉じる。

「……立ち話も、優真くんに悪いし、入って来て」

 数秒の沈黙の後、目を開いた空は俺に部屋の中に入るよう促す。

「ああ、わかった」

 空の後に続いて、俺は双子の私室に入った。



 幼い時の記憶では、子供らしい縫いぐるみで溢れている部屋だった。

 しかし久し振りに入ったそこは、学校の教科書や小説が棚に並べられ、机の上には可愛らしいアクセサリーや化粧道具が置かれていたりと、俺の知らない二人の時間に溢れていた。

「えっと……そこに座ってもらっていい?」

「オッケー」

 空が指差した先は二段ベッドの下の段だった。

 昔の記憶を辿ると、そこは空の眠る場所だった筈だ。

 久し振りに会って、女の子らしくなった幼馴染みの使っているベッドに座るというシチュエーションに多少緊張してしまう。

 しかし、そういう場合ではないので表に出さないよう気をつけながら俺は腰を落ち着ける。

「じゃあ、お邪魔します……」

「え」

 だが、空が俺の隣にピッタリ寄り添うように座ってきたのには流石に声を漏らしてしまった。

 てっきり目の前にある勉強机の椅子に座るものかと思っていたから。

「あ……久し振りなのに馴れ馴れしい、かな?」

「い、いや、大丈夫だ。久し振りだから驚いただけで」

 思い返すと、空は小さい頃からこうやって俺に寄り添うように接する事が多かった。

 だからこれは予想出来なかった事ではないのだが……。

「うっ……」

「優真くん?」

 羽衣の時も内心で態度に出さないよう必死だったけれど、十年の間に色々と女の子らしくなっている所為で、密着されるとどうしても意識してしまう。

 そういう場合ではないのだが、二人が薄着をしているのもあって、中々厳しいものがあった。

 拙い拙い。気を取り直さないと。

「ゴホン……話の続きだけど」

「うん……」

「龍神様の生贄……について教えて欲しいんだ」

「……天川家には、よく双子の女児が生まれるの」

「その内の一人が生贄に選ばれる、って話だったな」

「そう……龍神様は生贄を求めている。代わりに恵みの雨を降らせ、村をあらゆる災厄から護ってくれる」

 空の話では、実際に笠根崎村は流行り病や飢饉とは無縁であったらしい。

「龍神様への生贄は私達、天川家の双子の女児から選ばれる……けれど直系でなければいけない訳ではなくて……」

「大体二十年に一人くらいの割合で選ばれるの……」

「生贄はどうやって選ばれるんだ?」

#空

「前回の儀式の時に生贄になった双子の片割れに、お告げがあるの……今回お告げを受けたのは、私達のお母さん」

「それは……」

 自らの娘の一人を生贄にしなければならない親の気持ちとは、いったいどういうものだったのだろう。

 俺だったら、例え何があてもそんな事は出来ないと思う。

「そして、選ばれたのは……私だったの」

「みたい、だな……」

 ここまでは手紙に書いてあって知っている。

 問題は、この後だ。

「あの時の事は、今でも覚えてる……羽衣ちゃんと一緒に、お母さんに呼ばれて……龍神様の祀られてる洞穴の前で、私が選ばれたって……」

 空の視線がここじゃない何処かを見るように、虚空を彷徨う。

「辛いとか、怖いとか思う前に、現実感が無かったの……だって、まだ大人になってもいないのに、もう終わりだなんて……」

「あぁ」

「家に帰って、いつものようにこのベッドで羽衣ちゃんが上の段で、私が下の段で眠って、羽衣ちゃんの寝息が聞こえ始めてから、急に……涙が出てきたの」

 その時の事を思い出したのか、空の身体が震え始める。

「生贄に選ばれたって、死ぬってどういう事なんだろうって、たくさん……たくさん考えた」

「やりたい事、まだいっぱいあった……大人になりたかったし、友達とも、もっと遊びたかった」

「そうだよな……受け入れられないよな……」

 震える空の肩が俺に触れる。

「都会の方にも行ってみたかった。優真くんと……会いたかった……」

「あぁ……」

「優真くんと話したかった……昔みたいに、羽衣ちゃんとも一緒に三人で……ううん、それ以上に、もっと、優真くんと一緒にいたかった……」

「……」

 どう答えたらいいかわからず、俺は子供の頃に泣いてしまった空にそうしたように、彼女の肩を抱く事しか出来ない。

「……優真くん、ごめんなさい」

「何で、空が謝るんだ」

 空は何かを言おうとしているのか、俺の顔を見ては、下を向く。

「私……私は。こんなになっても……自分のことしか、考えられない……」

「空……」

「私は罪を犯したのに……こうやって優真くんに抱かれて、嬉しいと……あんなに、たくさんの人が死んじゃったのに……」

「……」

 空が何を言いたいのか、俺はわかっているつもりだけれど、その事を口にはしない。

 きっとそれは、空自身が向き合わないといけないものだろうから。

「優真くん私……私は……」

「空、大丈夫か?」

「……うん。大丈夫……」

 空は息を吐いて、吸い、意を決したように俺の方を見る。



「あの日……私が龍神様の生贄として、洞穴の中の祠に一人、残されて……洞穴の中はとても暗くて、寒くて、心細くて……私は震えながら――死にたくないって思ってた」

 その時の事を思い出したのか、空は泣きそうな表情をして俺を見た。

「それでね、私……逃げてしまえばいいんじゃないかって、そう考えたの」

「……」

「私を見張っている人はいない……外に出てしまえば、どうにかなるんじゃないかって……私、自分のことばかり考えてた。自分の、都合の良いようにしか」

「……それは、仕方ないんじゃないか。誰だって死にたくはない……そうだろ?」

 辛そうな空の様子を見て俺はそう言ったが、それでも空はゆっくりと首を横に振る。

「それじゃあダメなの……私達、天川の双子として生まれた人間は、龍神様のために生きなければならなかった……」

「そんなわけ――」

「あるよ」

 俺の言葉を遮り、空は強い言葉で断言する。

 俯き、空は口を開く。

「私は逃げた……洞穴の中の水場を泳いで、鍾乳石の岩場を抜けて、私は外に出た……洞穴の中に残されて一時間も経っていなかっただろうけど、その時に見た夜空が、私にはとても大きく見えて……」

 その時の事を思い出してか、空は何処か遠くを見るように目を細める。

「当たり前のはずのものなのに、それがどうしても手放したくなくて……村を通らないように、私は森の中を走って遠くへ……逃げたの」

 少しずつ空の息遣いが荒くなって、身体が震えだす。

「そうしたら直ぐ、様子がおかしくなって、雷が……次に雨が降り出した……いきなりの雨で土がぬかるんで、私は何度も転びながら走った……確信は無かったけど、これは龍神様の怒りだって、そう思ったの」

「それがあの日の――」

「わからない……でも、あの雨は明らかに普通じゃなかった……走りながら、凄い音がして……木々が倒れる音……そして、地面が鳴いているような音がして……村の外れまで走った時、人の悲鳴が重なって、それで初めて、私は背後を見たの」

 空は顔を覆う。同時に、嗚咽を堪えるように声も震えだす。

「濁ったたくさんの水が、村を呑み込みながら、私を追ってきていた……後ろの木々を、家や車、倒木がなぎ倒して、更に大きな流れになる……怖くて……自分が何をしてしまったのか悟って……私は――逃げた」

 段々と空の言葉が沈んでいく。それは彼女自身が自らを責めている所為だろう。

「自分の所為で村の人達が……私に優しくしてくれた人達も、友達も、お父さんとお母さんも……羽衣も……全部大切だったはずなのに……私が……なのに私、っ……自分がやってしまった事が恐ろしくて……死にたくなくて、逃げたの……」

 空は唇を引き結んで一旦言葉を区切る。そして意を決したように、唇を動かす。

「でも、走ったくらいで逃げ切れるはずなくて……私は水に呑まれて……」

 空が顔をあげる。

 涙を流しながら、俺の方をジッと見つめる。

「苦しくて、身体が木々に打ちつけられて凄く痛くて、私は自分が死んだと思った……そして、気づいたら“此処”にいたの」

「此処……」



 笠根崎村の豪雨のニュースは俺もテレビで見た。

 上空からの映像だったが、村中が濁った川の水に呑まれていて、周囲の森の木々まで薙ぎ倒され、全てが記憶にある村の光景と違っていた。

 実際に今日ここに来て、予想以上に酷い惨状だったのは確認した。

 にも関わらず、天川家だけは記憶にある形そのままの状態で残っている。

 明らかに、おかしい状況だった。

「私は、この家の中から出られないの」

「出られない?」

「うん……どうやっても、門から外に出る事が出来ないの……多分それは、此処が死後の世界だから……」

「……空は、ここが死後の世界だと思っているのか?」

「うん。だって、私には聞こえるから……」

「聞こえるって、何が」

「ずっとずっと、あの日、此処で目を覚ましてから耐える事の無い……叫びが」

「叫び?」

「今もずっと聞こえるの……」

 空が俺の服の袖をギュっと掴む。さっきまでとは違い、恐怖に震えているような様子だった。

「地面の底から、人の声が……私を呼んでいるみたいな、叫びが……」

「それって――」

「あの日の事故で死んでいった人達の、恨みの声よ」

 突然、背後から声がして、驚いた俺達の肩が跳ねる。

「っ!?」

「羽衣……」

 扉の前に、いつの間にか羽衣が立っていた。

俺と寄り添う空を、羽衣が責めるような目で見つめている。

「あっ……ごめん、なさい……」

 その目に押され、空が俺から距離を取った。

 そんな様子を羽衣は冷ややかな視線で睨みつける。

「恨みの声って、皆が空の所為で死んだから、空を恨んでいるって言いたいのか?」

「それ以外に何があるって言うの?」

 言いながら羽衣がこちらへ近付いてくる。

「空があの日、龍神様の生贄になる事から逃げなければ、皆が死ぬ事は無かった!」

「きゃあっ!?」

 不意に羽衣が空の首元を掴み上げ、恫喝する。

「おいっ、羽衣! やめろっ!」

「放してっ!」

 咄嗟に羽衣の手首を抑え、力が抜けた手から空が解放される。

「っ! ゴホッ……はぁ、はぁ……!」

 解放された空が床に膝をついて咳込む。そして羽衣は手首を掴む俺にも厳しい視線を向けた。

「優真くんは空のした事を赦せるの!?」

 羽衣が今まで見た事が無い程に激昂し、俺に噛みつきそうな勢いで捲し立てる。

 同時に、周囲からザワザワと人の気配と、くぐもった声のような音がし始める。

 多分これが、空の聞いていた亡くなった人達の声なんだろう。

「空がっ……空が生贄になっていれば、こんな事にならなかったのに!」

「……」

 羽衣の言葉に、空は俯いて黙り込んだ。きっと、それは空が一番責任を感じている事だから、だからこそ何も言葉を継げない。

「お父さんもお母さんも……村の皆も、空が逃げたから死んじゃった……何も無くなって、私……私も……」

 搾り出すような悲痛な声で羽衣は言葉を吐き出す。

「私は――死にたくなかった!」

「羽衣……」

 こんな様子の羽衣を見た事が無かったから、俺はそれ以上何も言えなかった。

 叫んだ羽衣の顔には涙が伝っていて、同時に、亡者のざわめきも大きくなったような気がする。

 きっと、彼等も羽衣と同じ気持ちなんだろう。

「したい事いっぱいあった! 村の外に出て、もっと色んな事を知りたかった!」

 零す言葉は羽衣の未練。

「友達と遊んでっ、可愛い服を着てお洒落とかして、恋だって……私はっ、優真くんが好きだった!」

「……」

 彼女の言葉に、俺は黙ってしまう。

「羽衣……」

 ポツリと呟き、空は下を向いて身体を震わせていた。

「優真くんの恋人になって、デートして、一緒に笑いあって……結婚して、そんな未来を夢見ていたのに……あの日、一瞬で全部奪われた!」

 羽衣の声が高く部屋中に響き渡る。

 俺と空はそれを黙って聞いていた。

「返してよ……私の人生……私だって、生きたかったのに……」

 羽衣の声が小さくなり、その身体が床の上に崩れ落ちる。

 後には微かな嗚咽だけが残された。



「……羽衣」

 そんな彼女に何て声を掛ければいいのか、まだ迷っていた。

 きっと慰めを言ったところで、羽衣の心が晴れるとは思っていない。

 けれど、何か言わなければならない。

 この手紙を受け取り、読んだからには、俺がやらないといけない役目だ。

「うっ……ぐすっ……」

「手紙……読んだよ」

「っ!!」

 俺がそう切り出すと、ビクリと羽衣の身体が跳ねる。

「あんま連絡取らなくて、ごめんな。俺、しばらく話していない内に恥ずかしくなって……羽衣の気持ちとか、考えられてなかった」

「そんな事……私だって、あまり連絡しなかったし……」

「それは俺から連絡しなかったからだろ。後、もしかして……龍神様の件があったから、か?」

「……」

 羽衣は黙ったままだが、それは肯定しているように思えた。

「手紙で書いてたよな。空が龍神様の生贄に選ばれた事と、俺に……伝えたい事があるって」

「……うん」


『空が龍神様の生贄に選ばれたんだ。

 私じゃなくて、空が。

 だから、優真くんに伝えたいことがあるの。

 私の気持ちを聞いてほしい。今度、こっちに来る事って出来ないかな』


 俺は羽衣に言わないといけない事がある。

 きっと羽衣を傷つけてしまうかもしれない。だけど、逃げちゃいけない。

「聞かせてくれないか、羽衣の伝えたかった事……俺は、羽衣の言葉が聞きたいんだ」

「優真くん……」

 羽衣が涙に濡れた瞳で俺の方を見る。

 その姿は躊躇っているように見えたが、羽衣は口を開いてくれた。

「私、は……優真くんが……優真くんのことが……好き」

 羽衣の瞳から新しい涙が溢れ出る。

「小さい時からずっと、好きだった……龍神様に選ばれなかったから……だから、告白しようって……そう決めたの」

 後ろめたさを感じているのか、羽衣は顔を伏せた。

「昔、空が優真くんに告白してるとこ……見ちゃったの……私は言えなかったのに……」

 羽衣の告白に、空がハッとしたように目を見開く。

「羽衣……あの時のこと……」


『ねぇ、優真くん。大人になったら結婚しよう?』


 それは子供の頃の記憶。

 あの大人しかった空が、勇気を出して俺に告白をしてくれた日。

 気づかなかったが、羽衣も聞いていたのか。


「苦しかった……空に先を越された事よりも……自分の勇気の無さが……」

 ギュっと握った手を胸に当て、羽衣は苦しそうに言葉を続ける。

「私って、卑怯なんだ……空がいなくなるなら、私にもチャンスがあるんじゃないかって思って……でも、それでも優真くんのことが諦められなくて……優真くん――」

 緊張からか、羽衣の身体が震えている。

 俺も羽衣の言葉を一言一句聞き逃さないよう、彼女の瞳を見つめ返す。

「優真くん……好きです。子供の頃からずっと……優真くんの返事を……聞かせて」

 その時の羽衣の顔を、俺は一生忘れないだろうと、そう思った。

 彼女自身も俺の答えを察しているだろう――けれど、 それでも諦めきれなくて涙を流しながら笑っていてくれる。

 今から自分が口にする言葉を思い浮かべると。胸が苦しくなる。

 それでも、言わなくちゃいけない。

 それが二人に対する礼儀だから。

「羽衣。俺は――」

「うん」

 唾を呑み込み、その言葉を口にする。

「俺は……空が好きだ。だから、羽衣の気持ちには答えられない……ごめん」

「……」

 そこまで一気に言うと、羽衣は黙って俯いた。

 俺は空の方を向く。

 今、口にしてしまったが、空にもちゃんと言わないといけない。

「空も、すまなかった」

「優真くん?」

「あの日、ちゃんとした返事が出来なくて」

「そんなっ……あれは、私が一方的に言っただけで――」

「いや。俺だって、本当は嬉しかった……ただ頭が追いついていなかっただけで。だから、空にもちゃんと返事をさせてくれ」

「……うん」

 今度は俺が、空に言う番だ。あの日の彼女のように、勇気を出して。

「俺は、空がずっと好きだった……遅くなったけど、大人になったから、迎えに来た……俺の返事、受け取ってくれるか?」

「優真、くん……」

 頭を下げ、空に手を差し伸べる。

 この手を空が取ってくれたら、俺は何があっても彼女を『――』なければならないと、誓った。

 沈黙が場を支配する。

 十数秒の間を置いて、空が動く気配がした。

 そして俺の手に――空の手が重なった。

「はいっ……優真くんの返事、受け取ったよ……私も、ずっとずっと優真くんが、好きでした」

 顔を上げると、空が笑いながら涙を流していた。

 十年越しの返事を受け取ってくれた幼馴染みのその表情が、もう一人の彼女の表情と重なる。

 けれど、もうその表情はまったく同じには見えない。

 空だけの、特別なものだった。

「アハハ」

 と、羽衣の笑い声が聞こえる。

「羽衣」

「あーあ、やっぱりダメだったなぁ。もしかしたらだなんて考えてたけど、やっぱりダメかぁ」

 自嘲するかのように、どこかふざけた様子で羽衣は言う。

「空が生贄に選ばれて私、喜んじゃったんだ……罰が当たっちゃったのかなぁ。馬鹿だよねぇ……大切な、姉妹のはずだったのに……アハハ」

 無理をして笑っているのが傍目にも明らかな羽衣の姿に俺はまた胸が痛んだが、後悔はしない。してはいけない。

「ねぇ、優真くん。一つだけ訊かせてもらっていい?」

「なんだ?」

「私じゃダメな理由って……私がもう、死んじゃってるから?」

「それは違う」

 羽衣の言葉を即否定する。

「俺は空も羽衣も両方大切だと想っている。それは今も昔も変わらない。でも」

「でも?」

 脳裏に幼い頃の記憶が鮮明に浮かび上がる。

 あの時の空の表情、声音。

 普段は内気な彼女が、どれだけの勇気を振り絞ったのだろうと考える。

「空の方が先に勇気を出してくれた。俺は、それを尊重したい」

 気の弱い空にとって、あの言葉を言うのにどれだけの勇気が必要だっただろうか。

「二人が大切でも、両方を選んだり、両方を投げ出すなんて逃げは出来ないから……なら、先に想いを伝えてくれた空を、俺は選んだんだ」

 どちらも大切な気持ちに嘘偽りは無い。

 俺は絶対に逃げないと、この村に来る前に“あいつ”に誓ったから。

「……そっ、かぁ……じゃあ最初から、私に勝ち目なんて無かったんだね」

「羽衣」

「ごめんね、優真くん」

 羽衣の瞳から涙が零れる。

 そのまま、空の方を向く。

「空も……おかしいね、どうしてこうなっちゃったんだろう」

 空を真っ直ぐ見れないのか、その視線は足元から胸の辺りを彷徨い、自嘲的な笑みを浮かべる。

「自分のことばかり……大切なお姉ちゃんがいなくなっちゃうっていうのに、これで優真くんが私の方を見てくれるんじゃないかって……こんなの、死んじゃって当然だよ……私なんて、いなくなってしまえば……」

「違う、羽衣。そうじゃ――」

「違うよ!!」

 不意に空が大きな声をあげ、俺の言葉を遮る。

 驚いて空を見ると、その表情は怒っているようで、同時に悲しんでいるみたいだった。

「羽衣ちゃんがいなくなっていいだなんて、そんな事あるはず無いからっ!」

 これだけ大きな声を出す空は珍しく、俺も羽衣も彼女の気迫を前に、ジッと耳を傾ける事しか出来ない。

「私だって! 私だって……羽衣ちゃんと同じだから……もし逆の立場だったら、私も生きれる事が嬉しいと思っていたはずだから……っ!」

 彼女は必死だった。彼女自身の気持ちを伝えるために。

「だって……仕方ないで済ませられるわけ無い! 誰だって……生きたいよ!」

 叫ぶ空の瞳から涙が零れる。

 それでも彼女は強い表情を崩さない。

 強い意思を感じるその表情は、俺に告白した時の姿を彷彿とさせる。

「私達、ずっと一緒だったでしょう?」

 空は羽衣に手を差し伸べる。

「羽衣ちゃんが罰を受けたなら、私もだよ」

「え?」

 呆けたように羽衣は空を見る。

「私達、たった二人の姉妹同士、生まれた時から一緒でしょう? 同じように過ごして、同じように歳をとって……同じ人を好きなって――」

 目を瞑って、確かめるように空は呟く。

「こんなに一緒なんだから……罰を受ける時だって、きっと一緒だよ」

 そう言って空は笑みを浮かべる

「ずっと、一緒……」

 繰り返す羽衣。自分の気持ちが伝わったんだと、どこか満足そうな空は俺の方を見た。

「優真くん、色々とありがとう」

「空、何を言っているんだ?」

「好きって言ってくれて、とっても嬉しかった。この気持ちがあるなら、もうどうなったって恐くないよ」

 何処か覚悟を決めたような表情で、空は俺に微笑んだ。

「優真くん」

「どうした?」

「私の気持ちに応えてくれて、ありがとう……羽衣ちゃんと真剣に向き合ってくれて、ありがとう」

 空がを俺の手を握る。

「私達の為に、こんな所まで来てくれて……優真くんを好きになって佳かったって、胸を張って言えるよ」

 同時に、周囲から聞こえる死者達の声が大きくなっていく。

 部屋の中の空間が歪み始めて、輪郭がぼやけ始めた。

「これは――」

「だけど、もう時間みたいだから」

「……」

 空と羽衣が見つめ合う。

 羽衣は悲し気な表情を、空は頬に涙を流しながら笑みを浮かべる。

「私達に残された時間はもう終わり……この場所はあの世とこの世の狭間……優真くんは今のこの家の事を知らないから、あなたの記憶から作り出された空間」

 その言葉で、ここに来た時から感じてた違和感の正体に対する確信を得る。

 天川家の外観、中の家具や支柱の傷に至る全てが俺の幼い頃の記憶に在るままの状態。

 そして、羽衣やたくさんの人達の未練によって作り出されたのだろう。

 生者に対する妬みや羨望が、龍神の住まう笠根崎村という特殊な場所の力によって形を持ったと考えると、非現実的ながら納得してしまう。

 現にこうして、豪雨で無くなった筈の天川家の邸宅をいるのだから、否定する事も出来ない。

「最期に優真くんに逢えて佳かった。もう、思い残す事は無いよ」

 空は俯き、流れる涙を拭って再び顔を上げる。

「バイバイ、優真くん――私達のことは忘れて……何て言ったら無責任かな?」

「……そうだな、無責任だよ。空の方から、言ってくれたんじゃないか」

「だよね。なら、こう言うべきだよね」

 景色が崩れるように歪み始める中、空は覚悟の決まった瞳で俺を見つめ、口を開く。

「優真くん……私達の分も、幸せになってください」

「空……」

 その言葉を言うのに、空の中でどれだけの葛藤があっただろうか。

 昔、妹の羽衣よりも泣き虫で、いつも俺達の後ろを付いて来るような子供だった空。

 けれど、大事な場面ではしっかりと一歩を踏み出す事の出来る、そんな強い心を持っている空だから、俺は彼女のことが好きだって思える。

「もう此処は限界みたいだから、優真くんは行って……」

「……」

 空の言う通り、もう空間は輪郭を失い始めている。

 こうして逢っていられる時間は、終わろうとしているのだろう。

「そう、だな……」



 空の言葉に従い、天川家の門の前までやって来る。

 最期の別れだからと空と羽衣も俺に付いて来るが、ある程度の場所で止まり、俺を見送るように空が笑みを浮かべた。

「じゃあ、優真くん……本当にこれが最後だね」

「……」

 いつもように穏やかに振舞う空だが、自らの服をギュっと握った手が震えている様子から、気丈さを装っているのは一目瞭然だった。

 本当は皆、別れたくなんて無いんだ。

 なのに、門の前に立つ俺と、見送る二人の間に在るたった数歩の距離が遠く感じる。

 その距離を縮めたいと思うが、今の空はそれを望んでいないし、解ってもいない。

 だから、俺はさっきから黙っている羽衣の方を見る。

「……」

 空と違って俯いている羽衣。

 その理由を俺は解っているつもりではあるが――俺が助け舟を出していいのかが分からない。

「優真くんっ、早く行かないとっ!」

「あ、ああ。けれど……」

 もう屋敷の輪郭と空の境目も分からない。

 上下の感覚も朧気で、本格的に空間が崩れようとしているのが分かる。

 そんな中で空はひたすらに俺の身を案じ、他の事が目に入っていないようだ。

 だから、

「空」

 ふらりと、羽衣が空の背後に立って呟く。

「? 何、羽衣ちゃ――」

 それに気づいて空が振り返る。が、羽衣が何をしようとしているのかまでは気づけない。

「……バイバイ」

「え――きゃっ!?」

 羽衣が空の背中を強く押し、彼女は体勢を崩してしまう。

「うっ……とっ」

 俺の方に倒れ込んできた空を受け止めるが、勢いが強くてよろけてしまい、俺達は天川家の敷地から転がるように弾き出されてしまう。

「……」

 顔を上げると、穏やかな笑みを浮かべた羽衣の姿が目に入る。

「羽衣……」

「優真くん、空をお願い。その子はきっと、まだ気づいていないから」

 小さな子どもでも見るような、もっと言えば、幼い頃に羽衣の背中に隠れていた空を見るような、優しい瞳。

「羽衣ちゃん? 何を言って――」

「空、優真くんと一緒に行って」

「どういう事? だって、私は……」

「生きてるよ」

「え?」

 何を言われたのか分からないといった表情で、空が固まる。

 俺は姉妹の最期の会話を邪魔しないよう、黙って羽衣の言葉の続きを待つ。

「空は生きてる。いなくなるのは、私だけ」

「生き、てる……私が?」

「そう。村が洪水に呑まれた日にただ一人だけ生き残ったのが空、あなたなの」

「嘘……だって、私はあの日、最後に水に呑み込まれて――」

「優真くんは知っていたんじゃない?」

「……優真くん、本当?」

 茫然とした空が俺の方を見る。

「……羽衣の言う事は本当だ。空はあの日、死なずに生き残ったんだ」

 笠根崎村の洪水は村全てを呑み込んだ。

 被害は甚大で、村に居たほぼ全ての村人が亡くなった。

 ただ一人、天川空を除いて。

「本当に? 私、生きてるの?」

 信じられないという表情の空。

「本当よ。あの日、空は意識を失って、私達、未練を残して死んだ死者達の魂に絡め捕られて、この場所にやって来たの」

「そんな事が……でも、私はここから出られなくて……」

「それは空の思い込み。自分が死んだと思っていたから、出られないと勝手に決めつけていたの」

 そこで羽衣はチラリと天川家の方を見る。

「二人は気づいている? この場所は、空と優真くんの記憶で出来ているって」

 羽衣に言われて思い返すと、天川家の中で唯一、空が閉じ籠っていた部屋だけは俺の知らない様子に変わっていた。

 それ以外は驚く程に、俺の幼い頃の記憶のままだった。

「空自身が言ったでしょう。此処は生者の記憶で作られた景色をしているって」

「それは……でも」

「分かったなら早く行って。本当にあなた達まで巻き込まれてしまうから」

 羽衣が俺の方を見る。

 その瞳は悲しそうでありながら、何処か安らかな表情を浮かべていた。

 きっと、これも羽衣の未練というやつだったのだろう。

「そんな……だって、私の所為で羽衣ちゃんは……なのに私だけ助かるなんて……」

「ハァ……さっきまであんなに気丈に振舞っていたのに、直ぐに泣きそうな顔になるんだから」

 仕方ないな、とでも言うかのように羽衣は首を振る。

「空、自分で言ったじゃない」

「え?」

 そして笑みを浮かべ、羽衣は口を開く。

「二人とも、私の分まで幸せにね」

 その笑みを、俺は一生忘れないと誓った。

「そんな……ヤダ! 羽衣ちゃん!」

 取り乱した空が、羽衣の方に駆け寄ろうとする。

 しかし、門の向こうの景色はもう殆んど無くなっていて、羽衣の周囲は白い光に呑み込まれて消えていこうとしている。

 反射的に俺は空を後ろから抱き締め、引き留めようとするが、それでも空は羽衣に手を伸ばす。

「ヤダ、ヤダっ! 私達、ずっと一緒だったのに、私だけ生きるなんて――優真くんっ、放して!」

「ダメだ!」

「どうして!? 優真くん、羽衣ちゃんがいなくなっちゃうのに!」

「空! お前までいなくなったら、羽衣の気持ちを、願いを裏切る事になるんだ!」

「でも……でも……っ!」

 泣きながら諦めきれないと叫ぶ空を引き摺るようにして、天川家の門から距離を取る。

 そんな俺達の様子を一瞥した羽衣は、こちらから視線を外す。

 振り返り際、彼女の口が開くのが見えた。

「バイバイ、優真……お姉ちゃん」

 気づくと、俺は現実の笠根崎村に戻っていた。

 あの空間に入った時には夜だったはずだが、いつの間にか日が昇っている。

 時間にすると一時間程度だと思っていたが、あの場所と現実では時の進み方が違うようだ。

「羽衣……」

 正面を見ると、さっきまで天川家の邸宅があった場所には瓦礫の山があり、それが何処の家のものなのかも分からない。

「――空のところへ行かないと」

 振り返らず、俺は笠根崎村を出て山を下りる。

 蝉の鳴き声は、もう聞こえない。



 昨日、笠根崎村に向かう前に立ち寄った、ここら辺で一番大きい病院。

 洪水があった翌日、土砂に流されて意識を失った状態で発見された空が運び込まれたのがここだ。

「ふぅ……」

 前回ここへ来た時、俺は目を覚まさない空と対面した。

 聞いた話では、空の身体に異常は無いが、何故か意識を取り戻さないという話だった。ただ何となく笠根崎村に行けばその原因が分かるような、そんな気がしたから。

 原因が、あの世とこの世の狭間に魂が囚われていたからだとは、その時は思いもしなかったが。

 個室なのでノックをし、返答を待つ。

「……」

 返事は無い。

 もしかして、あの出来事は全て夢で、空が目を覚ます事はもう無いのかという嫌な考えが過ぎる。

 常識的に考えればその可能性の方が高いが、俺にはアレが夢だったとは思えない。

 そう自分に言い聞かせていると、

「――入って来ていいよ」

「! ああ、入るぞ」

 病室の中から空の声がして、俺は焦る気持ちを抑えて病室のドアを開ける。

 白く清潔な病室で、空は何処か遠くを見るような目で虚空を眺めていた。

 入って来た俺にも視線を向けず、しばらく沈黙していたが、不意に小さく喋りだす。

「羽衣ちゃんは……私と同じで、臆病な子だったの」

「……」

「お姉ちゃんの私がこうだから……いつも私の前に出られるよう、気を張ってた」

「そうだな」

「私の憧れで、自慢の妹だった」

「……だから、私も羽衣ちゃんを見習いたいって……そう思ったから、優真くんに精一杯の勇気を振り絞って……告白したの」

 穏やかだった空の声が、少しずつ乱れていく。

「少しは強くなれたかなって、そう思った……でも結局、私は肝心なところで逃げて、私だけ生き残った……」

 そう言った空は、シーツを強く握り締める。

「私が逃げなければ、羽衣ちゃんは死なずに済んだのに……私が代わりに――」

「空、そんな事を言うな」

「あっ……」

 シーツを握り締める空の手に、上から手を重ねる。

「羽衣だって空と同じ気持ちだったと俺は思う」

「……」

「空が羽衣のことを大切に想っているように、羽衣だって空のことを大切だと想っている。だから空が幸せになることを、羽衣だって望んでいるはずだ」

 俺の言葉に、空の瞳が迷うように揺れる。

「そう、なのかな……羽衣ちゃんは私の幸せを願ってくれるのかな――」

 空の声が震える。

「……恨まないで、くれるかな」

 そう呟く空の気持ちは理解出来る。

 自分以外の人間の気持ちが分かるはずない。

 だから羽衣の気持ちを代弁するなんて出来ないけれど、ただ一つ確かなのは、あの場所で俺は羽衣に託されたんだ。

 空をお願い、と。

「当たり前だろ」

 だから、言うべき事は分かっている。

「羽衣は、空の自慢の妹なんだろ? だったら羽衣を信じて、空は強く生きないとダメじゃないか」

「あ……」

 何かを思い出したように、空は小さく息を漏らす。

そうしてポツポツと言葉を続ける。

「そっか……そうだよね。羽衣ちゃんは強いもん……お姉ちゃんの私がこんなんじゃ、呆れられちゃう」

「そうだろう。なら、空がやるべき事は決まっているんじゃないか?」

「――うん」

 確かな強い意志を感じる空の声。

「私は……羽衣ちゃんの分も強く生きて、頼りになるお姉ちゃんだって……もう心配しなくても大丈夫だって、見せてあげないと」

 そう言って、空は俯いていた顔を上げた。

 その瞳には涙が浮かんでいたが、それでも笑みを形作る。

「優真くん、私は……今はまだ弱いけれど、私の側で、強くなっていくのを見ていてくれますか?」

「勿論だ。挫けそうになったら、励ますよ」

「ありがとう……なら優真くん――」

 空は笑う。その表情に、俺は羽衣の最後の望みを叶えられたと確信する。

「私と一緒に、幸せになってください」

「ああ。一緒に、な」

 病室の窓から風が吹き込む。空を見上げると、眩しい太陽が輝く青空が見えた。

 雨は晴れて、もう其処に曇りは無い。

 新しいスタートを彩るような、綺麗な空だった。

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いつかの空へ にいがき @ni-gaki

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